2021年7月30日金曜日
オリムピク雑感その3 当時のド田舎の中学生を魅した音楽
2021年7月28日水曜日
オリムピク雑感その2
ワイらが、あぁ~あのころ開かれた東京オリムピクはよかったなぁ、といってもそれは57年もの昔、今現役の世代で枢要な仕事をしている人はおおむね60歳以下だとすると、その人たちには東京オリムピクの体験もなきゃぁ、記憶もない、日本近代史の歴史の一コマくらいの認識しかない。あのオリムピクがわれらにとってどのようなものだったか、それは体験したものでなければわからないんじゃないかと思う。
いい悪いはおくとして、あの当時、多くの人々は何か大きな出来事、国家行事、国家的関心事があると、みんな心を一つに寄せ合った。昭和30年代日本の家庭の電化は進み、昭和30年代の最後の年39年にはかなり貧しい家庭も含めほぼほぼ白黒14インチのテレビが普及し、茶の間で全国同一の番組が同時に見られるようになったことは、よりみんなが心を一つに寄せ合うことを促進した。大晦日はどこのうちでもテレビでNHK「紅白歌合戦」を視聴し、世代男女の違いをこえてみんな同一の歌を聞き楽しんだ。
四国の奥の奥にすむ田舎もんが、一体どれくらい東京大阪間を高速移動する必要性を感じていたか全く疑問だが、しかし、東京オリムピクに合わせ「夢の超特急」、今日の新幹線が誕生することをわがことのように喜び、開通式を(TVを通して)寿いだ。
その時ワイはまだ中学生だったが、大人たちの関心が東京オリムピクに向いて、その開会を楽しみにしているのは感じられた。世界各地から一流の選手を招き、この日本でその場所や施設を提供して行われることは、ワイ自身中学生ではあってもなんとなく誇らしかった。
この年、貧乏だったオイラのうちにもようやとテレビが入った(親類から中古テレビを下げ渡してくれた)ので開会式も見た。トーチを持って走り込んでくる選手、そして階段を上がり聖火台に火をともしたのは今も印象深く残っている。しかしワイが一番感動したのは開会を宣するファンファーレだった。短いながらも、オリムピクの、祝い、誇らしさ、偉大さ、を胸を張って堂々と宣するようなあのファンファーレは後にも先にもこれほど感銘を与えてくれたものはなかった。
みんなが東京オリムピクにうかれていたが、ワイにとってはその上にさらに浮かれ楽しいことが重なった。開会式の数日後、4泊(なんと二泊は船中泊である)の九州への修学旅行が始まったのである。我が家では白黒でしか見られなかったオリムピクの競技を宿舎のホールで当時はまだ珍しかったカラーテレビで鑑賞したのを覚えている。
阿蘇の草千里あたりを走るバスの中でみんなで手拍子とともに三波 春夫の「東京五輪音頭」を歌ったのも思い出す。なんぼうオリムピクが開催中とはいってもクラス全員が五輪音頭を手拍子で斉唱するなどとは今の中学生からしたらかんがえられんやろが、57年もの大昔である。そうそう同じバスの中で東京五輪音頭どころか、クラスの中に意外に歌の上手な子がいて、初めてバスのマイクでその美声を披露して、みんなを唸らせたその曲が「お座敷小唄」であるから当時の中学生はそんな歌も歌っていたのである。
ジジイの思い出のアルバムより「中学修学旅行・別府温泉地獄めぐり」、恥ずかしながら左上がワイ
拡大して日付を見ると昭和39年10月16日とあるから、東京オリムピクのちょうど中日やわ。
2021年7月27日火曜日
オリムピク雑感その1
オリムピクが始まる前は、結構声高に中止を求める雰囲気があった。オリムピクに鬼か蛇が出るわけじゃあるまいし、ワイなんかは日本に比べると桁違いに多い欧米のコロナ感染者・死者数の多さ、それにもかかわらずの欧州サカー選手権、アメリカ大リグの観客数の多さを見ていると、日本はちょっと大げさなんじゃないかなと思っていた。結局、ほとんどの試合で無観客で何とかこぎつけたが、観客0人というのは幾らなんでもやりすぎじゃないかと思う。日本選手がメダルを取ると「日本!金メダルぅぅぅ~~、やってくれました!」なんぞといってマスコミははやし立てるが、それって多少とも「国家の威信を背負っている」っつぅ言い方じゃないん?それなのに選手にたいして応援客なしっつぅのは選手に失礼だよ。
でもはじまってからの選手の活躍、それには今日までの練習、努力の積み重ねがあったのだが、その結果メダル獲得も含めた目を見張るような成果を出し始めると「遅ぅないきん、今からでも即刻止めぃ!」ちゅうような意見はごくごく少数になってきたのはええことである。みんな率直に選手がいい成果を出したことを喜べる雰囲気になってきた。
ところで情弱のジジイにはまさかオリムピクにこんな種目があったとは、と全然しらなんだ種目があり、おまけにその種目で日本人が大活躍したので、しっかりと、主にネットの動画などで楽しませてもらった。それはスケボーとサーフィン(波乗り)である。若い衆に人気の遊びであるとは知ってはいたが、文字通り「遊び」の一種と思っていたのでオリムピク種目に入っていたとは驚きであった。サーフィンはわが県の南部海岸まで行かなんだら見られないが、ワイのお気に入りの「勝つ坊主さん」のヨウツベによくサーフィン(波乗り)が取り上げられるので見知っている。たのしげぇなレクやお遊びとしてしか見ていなかった。まあ波乗りにも優劣はあるんやろけどそれをオリムピクで競うんやなぁ。
スケボー。こっちのほうがもっと意外であった。公園などで(スケボー禁止って書いてあるのに)バンダリズム(公共物の意図的破損)になりかねないようなスケボーの走りをしているのを何度か見かけ、当然眉をひそめた。だからあまりいい印象を持っていなかったので、知ったときは、えぇっ?これオリムピクの種目なのと、驚きは強かった。でも始まるとすぐに日本人が金メダルを取り、いまちょっともてはやされそうなブームが来そうな感じである。楽しく練習し、その中から競技の選手が誕生するのはかまんが、練習場の整備をちゃんとしてくれな困る、十分に練習場があれば、公園で無茶な走りをして公共物を破損したり、公園散歩者に害を与えたりすることはなくなるだろう。
二種目の日本人選手の活躍
2021年7月26日月曜日
2021年7月25日日曜日
仏はんの三聖樹に見たてられた花サルスベリ
咲き始めたぞ!5日びゃぁ前に、土用に入っているから、もうサルスベリの花も見れるだろうとわざわざ自転車で文化の森公園に行き、山すその遊歩道を歩いてきた。サルスベリの木があるにはあったが、まだ開花にははやかった。みたところ蕾からようやと開きかけた時期のようであった。
ところがここ数日、なにげに通るあっちゃこっちゃでサルスベリの紅の花が目立ち始めた。サルスベリって「百日紅」と呼ばれるほど夏期が長いが、開花期は一瞬でやってくるのかしらぁん。
前のワイの5月のブログでもふれたように(ブログここクリック)このサルスベリは日本仏教ではインド仏教の三聖樹の一つである「無憂樹」に見立てている。三聖樹の二つ「菩提樹」と「沙羅の木」はその下で仏はんが瞑想し悟った木であり、涅槃を迎えた木である、ちょっと厳粛かつ抹香臭い木ぃの感じがするが、この「無憂樹」は仏はんのおっ母さんが、その花の美しさに魅せられて手折ろうと手を伸ばした時、脇のしたからプリッと仏はんが誕生した(と言われている)木である。そのため華やかでめでたい感じがする。実際の花も菩提樹や沙羅の花より花のつく枝ぶりも豪華であり、花の形、色も華やかである。
徳島城公園のサルスベリの木と花
他にも城跡公園には炎熱の木「夾竹桃」も花を見せ始めている。
そして同じ場所にこの時期、すこし大きめの金玉くらいの実をつけている木がある。何かと思やぁ、これヤブ椿の実ぃ、けっこうよ~け実ぃつけとるがな。手間はかかるがこれから「椿油」をとるんだわ。大昔、ワイの小ンまいとき、ワイんくまで女の人が椿油の行商にまわってきよった記憶がある。ただし、有名な「アンコぉぉ~~~♪、ツバキぃぃわぁ~~~」のツバキ娘ではなく絣の着物でもなく手ぬぐい被りもしていず、ふつうの叔母ぁさんのようなかっこうだったが。
2021年7月22日木曜日
甥がやってきた
元気溌剌で幸せそうな甥夫婦とひととき話をし、そのあとこのようにご先祖の墓参りをしてくれた。その時は何ともなかったがブログを書いているとなぜか目がウルウルしてくる。老人性痴呆涙腺症か。
2021年7月18日日曜日
昨日の夏祭り今日も続いてた
タビュレットからアップしてます。
藍場浜公園の向かいが図書館だが、本を返却に午後行くと図書館の中まで公園で開かれている祭イベントのなんかやろう、ポップな音楽が聞こえて来る。どんなもんか帰りし、見てみた。
タビュレットの練習にとおもいタビュレットのカメラ機能で撮影してヨウツベにアップし貼付けた。
観客はん、かなり密になってるなぁ、でもなんでもかでも最近、中止やら無観客やらでうんざりしてる。ワイとしてはこんなのカマンやろとおもう。人々の接種率を努力してあげているのだから、イベントの解除率も上げたらいいとおもうが、オリムピクはおおかた無観客やろ、イギリスのサッカーやアメリカの大リーグみてみいや、マスク無しの大盛況や、そっくり見習えとはいわんが、無観客はやめたがよいと思うがどうじゃろ。
諸聖典にみるエロス
私は特に思い入れのある、もっというと心から信じている宗教は今のところない。ただ死が近づくにつれ仏教に傾倒している傾向があることは言える。ところでわが家は先祖代々真言宗の宗旨を通してきている。子どもの時からボニや法事で仏壇の前でおじゅっさんが経をあげるのを聞いていた。何やら呪文のようなものを唱えているとは思っていたが、意味は全く不明。たぶん祖父母に「なんちゅう意味があるんぇ?」ときいたはずだが、祖父母もよく知らなかったのか、私が覚えていないだけなのか記憶は全くない。意味不明なお経は青年になっても壮年になっても変わらなかった。
お経の原文、書き下し文、そして意味について興味が湧いて少しずつおベンキョし始めたのがここ数年だ。ただお経は、ちょっと信じられないくらい多数存在する(耶蘇教の二種の聖書、回教のクルァーンどころではない)。これらのお経はすべて『大蔵経』という膨大な巻に入っている。この大蔵経をすべて読み理解することは不可能に近い、能力云々でなく時間的に。私のとっつきは仏教史から入ったため、時系列で作られてきた諸経典を解説した本から読み始めた。そしてその中から重要な経典類は原文(漢文)にあたり、一部をとりだし少しずつ読み下してきた。比較的古い阿含経、初期成立の般若経典類、そのあと成立する法華経、華厳経、そしてもっとも新しい密教経典(大日経、金剛頂経)など、もちろんごく一部を知的興味に任せ齧るくらいのものだが。
それで私の古い記憶にある、昔我が家で唱えられていた経が何であるか次第に分かってきた。日本の仏教の各宗派は、膨大な諸経典の中から、わが宗ではこの経典が最も大切である、あるいはこの経典に依拠して祖師様がわが宗を開かれたという「根本経典」が存在する。わが真言宗は他宗に比べると唱えられる経の種類は多い。しかしその中で最も大切にされ、葬儀、法事などの重要な儀式の時に唱えられるのが「理趣経」である。おそらく昔、ウチの法事の時にも読まれたのがこの経であろう。最近になってこの理趣経の原文(漢文)の中から特に経に唱えられる部分を読み、その大意を知ったとき大変驚いた。
なんと!「性愛のエクスタシー」と「悟りの境地」が同列に述べられているのである。ワイのような凡俗が単純に読むと、性愛のエクスタシーと「悟りの境地」がイコールで結ばれ、同じだと思ってしまう。この解釈については僧侶、専門家でもいろいろ意見が分かれ解釈の相違があるようである。ワイのボケ頭で単純にイコールで結ばれてよいものではなかろうが・・理趣経には少なくともそれが同列、もっといえば同じ価値として並べられている。単なる「愛」の、或いは「慈悲」のエクスタシーなら、精神的な高みの境地とも解釈できようが、「性愛」(エロス)のエクスタシーとなりゃぁ、あんた!もうこれは二体の人(決して男女とは言わない、同性同士でもありうる)の肉の交わりのエクスタシーとしか考えられんがなぁ。潔癖症の僧侶や専門家は前者の精神的な方を言いたいのであろうが、かなり無理な解釈となるようである。
ワイらの祖師さま、お大師っさんはどう思っていたか知りたい。空海は理趣経を根本経典としたが、その解釈についてはあれこれ言っていないようである。ただここにおもしろい史実がある、空海と同じ唐にわたって天台宗をもたらした最澄も理趣経に接し、「こりゃどうじゃ!」と驚愕したのであろう、空海しか持っていない理趣経の解釈本「理趣経釈」を借りようとしたら、空海から、これは密教の修行を極めない人が読めば、おそろしい誤解を招く、といって貸すのを断ったのである。最澄はんほどの頭脳の持ち主でも性愛エクスタシーと悟りの境地が同位と思うであろうと、空海はんは思ったのだから、もうこれは誰が読んでもイコールで結んでも仕方ないだろう。
諸経典の中でこれほど露骨にエロスを扱った経典類はまずないんじゃなかろうか、特に日本に伝わった経典では。チベットあたりに伝わった後期密教経典や、あるいはインドのヒンドゥ教の外典の「カーマスートラ」(訳は、まさに性のお経)には存在するが。
しかしワイのみるところまじめな経典類にも「エロス」(性愛)の香りが漂っているのが多く存在する。
「あほぉ~げたこと、ぬかしてけつかる、そりゃ、おまいだけじゃ、品性下劣じゃから、そんなゲサクな解釈をするんじゃわだ。」
といわれそうである。確かにそれはごくごく一部の僻目でしか物事を解釈しない人がひっそりと心の中で思っていたものであろう。しかし19世紀の世紀末を経ると、まじめな経典類にもエロスは存在すると主張し、受け入れられ始めた。これはウィィンにすむフロイトはんの力によるところが大きい。この精神分析を始めた学者はんはまず、幼児にも性愛があるなどといいその期間を「肛門性愛期」だの「口唇性愛期」だのいって世間を仰天させた。その後、人のこころの「無意識」のさらに下の方を分析し、もっとも奥深くある根本から性衝動のエネルギーすなわちエロスのパワーが湧いて出て、いろいろな精神的活動のエネルギーともなることを主張した。具体的に言えば、禁欲的な僧侶がまるでサディズムちゃぁうんか、というようにさまざまな地獄の責め苦を微にいり細にいり描写したり、性欲むんむんの青年がその方向を過度のスポーツや、爆発的な芸術作品を作るのに向け大成するのはフロイト流に解釈すればすべて性愛エネルギー・エロスの力が元となっているのである。
フロイトはんの出現もあり、世紀末を経ると、文学者や芸術家も経典類をはばかることなくエロスに色づけして解釈するようになった。世界宗教の中でかなり禁欲的なのが耶蘇教である。セックスは子孫を残すためやむなく認めたといわんばかりの夫婦のみの交わりだけ、他は一切だめ、異常性愛(オラル、アナル、同性愛、フェチなどもろもろ)などもってのほか、ソドミーの罪として決して許されることはなかった。エロスを匂わせるような表現ももちろん耶蘇教の禁忌に触れる。
ところがである、このごろ薄れつつある英語の単語のメンテナンスの為、欽定英語版の「新約聖書」をときどき読んでいるが、このお堅い新約聖書のなかには、エロス臭がかなり強く匂うか所がある。これもまたワイだけかもしれんが。まずそのシーンを紹介しよう。
『ルカ福音書7章38節から、娼婦(聖書では罪の女とある)であるマグダラのマリアが泣きながらイエスの足元により、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でそれをぬぐい、そしてその足に接吻して香油を塗った、というシーン』
先入観なしにこのシーン思い浮かべてくださいよ、話は一寸飛びますが、昨日列車の中で花火夏祭りを見に行く高校生くらいのカップルが目の前に座っていた、女性は浴衣を着て二人は手を握り、ぴったり密着し、頬も触れ合わんばかりに親密にぼそぼそ話をしていた。現代日本も体の親密度は欧米並みになってききたなぁとこのジジイにも感じられた。まぁエエこっちゃと思う。これでもちょっとしたエロスを感じるが、もしですよ、これが好きな男が座っているところに女性がおもむろに近づき、男の足元に跪き、なぜだかわからないがポロポロ大粒の涙を流し、おとこの裸の足を涙で濡らし、十分濡らした後、自分の長い黒髪でそれをぬぐい取り、さらにその足に接吻したとしたらどうでしょう?ただし言っときますが、男も女をこの上なく愛しているんですよ、そうでなければ狂女か悪質なストーカー女ですからね。聖書でもイエスはこの女の行為を比類ないものとして愛(神の愛)を持って受け入れています。現代に置き換えてこういう行為を目撃したとしたら、ワイなんかはものすごくエロスあふれる相思相愛の行為として見とれてしまいます(しかし恥も外聞もなく公衆の面前で行うかという問題もありますが、犬のようにところかまわずサカって交尾するわけではあるまいし、これくらいは現代において個性的な愛情表現とみてもいいかと。) 下はルネサンス期の名画でその聖書の場面を表している。イエスさんのおみ足、美し!
聖書にはさらに人の心理の奥の奥にある原始的で暴力的な性衝動をむずむずさせかねないシーンもある。マタイによる福音書14章の6~11節、
『ヘロデ王の義理の娘サロメが祝宴で見事な舞を舞う、感心したヘロデはなんでも望みの物を。と約束する。そこでサロメは、獄につながれている預言者ヨハネの首を盆にのせていただきたいと所望し、約束した王はしかたなくそれを果たすというシーンである。』
聖書はこれ以上の詳細な記述や意味づけはしていないが、異常性愛的エロス漂うシーンとして多くの人を刺激してきた。しかしこの聖書の記述だけでは満たしきれないモヤモヤ感、うぅぅぅ~~~~一体なんだこの満たしきれないこの聖書のシーンは?ある作家がこれに二つの要素を加えることでストンと落ちた。それは、一つはサロメがお堅い預言者に恋をし接吻を望むのである、獄にあっても預言者ヨハネはむろん厳しくはねつける。そしてその二は、所望して得られた大皿にのった預言者ヨハネの首の唇にサロメは深々と接吻し恍惚感に酔うのである。もうエロス大爆発である。
その作家はイギリスのオスカー・ワイルド(ツバメと王子の童話で知られる)で、それを戯曲に仕立てる。そして絵としてあげたいのはビァズリー作・挿絵「ヨハネとサロメ」である。
口づけするシーン、ぞくぞくする、やっと私のものになったわ、生首をモモぐって愛撫してやろうとおもっているのかしらん、可愛さ余って憎さ百倍ちゅうんやろか。いや憎ぅはない、至高の喜びにサロメは満たされている、しかしそのエクスタシーの瞬間、サロメは・・仏典にもたいへんエロいシーンとしか思われないものが出てくる。それもお柔らかい密教経典の理趣経なんどではなく、熱心な念仏をすすめる浄土系の根本経典の中に。浄土三部経の一つである「観無量寿経」ののっけからの冒頭シーンである。
『(インド王舎城の悲劇として知られる)、王子アジャセは父王ビンビサーラを悪友にそそのかされ何重にも閉ざされた牢に幽閉し、面会も断ち餓死させようとする、王の妻イダイケ夫人(アジャセの母でもある)は、身を清め、パン粉を蜂蜜で練り、それを身体にぬり、またつけられた首飾り肩飾りの大玉の中に葡萄酒を仕込み、なんとか身一つで獄の王にあう。餓死から救うため、蜂蜜で練ったパン粉、葡萄酒を飲食させるのである、そこで王は練り物を食べ葡萄酒をのみ・・』
ここで、ワイはちょっと待った!を入れたくなる。おいおい、さらっと「食べ、飲み」だけかよ。そもそも練り物は夫人の体に塗っているのだろ、それをどうやって食べるのか。お堅い信者としてはそりゃぁ、あんた、夫人の体からそれをこそぎ落として食べたんじゃろ、と言いたいと思うが、何重にも閉ざされた獄、息子の目を盗んでこっそり身一つで夫王に会いに来た夫人である。体に万遍なく塗った練り物を悠長にこそぎ落としたりするか?手っ取り早く夫人の体から王の口で舐め取るのが自然じゃないのか。機会があれば浄土系のボンさんに確かめたいが「あの~、ビンビサーラ王はイダイケ夫人を舐めたんでしょうか」とは聞きにくい。
必死の思いで最愛の王にあい、暗い獄中で体をペロペロなめさせるシーンはかなりエロいんじゃないかと思う。ワイはもちろん舐めさせて飢えを救ったと思うが、他の人の解釈はどうなんだろう。手塚治虫の漫画に「ブッダ」という作品がある。多くの仏典からエピソードをひろい、なかなか見ごたえのある漫画にしている。この手塚治虫の解釈でも夫人は王に体を舐めさせている。そのシーンが下。涙を流す夫人に至高のエクスタシーの表情を感じるのはオイラだけだろうか。
他にも探せば経典に(それもお堅い経典に)エロスに満ちた話があるかもしれない。
2021年7月17日土曜日
夏祭りもそろそろ復活か
今はない隅瀬の渡し跡
当然、この江戸期のガイドブックも一番霊山寺から説明が始まっているが、回るコースについてうち立ての最初の寺として積極的には勧めていない。原則としては一番霊山寺だがうち立ての寺としては十七番井戸寺から始めるのがよいと進めているのである。原文ではこのように書いてある。
『阿州霊山寺より札はじめは大師御巡行の次第といわる、但十七番の井戸寺より札はじめすれば勝手よし・・・』
これはなぜか?当時の海路、河川交通の変化が影響を与えていると考えている。中世までは四国とくに阿波への海の玄関口は鳴門の大毛島に守られた内海の泊り・鳴門の黒崎あたりであった。中世歌謡の「閑吟集」に小歌として「♪~身は鳴門船かや 逢はでこがるる~ 」というのがあるが、古代~中世までは上方から四国通いの船は、船が小さいこともあってまず淡路沿岸をとおり鳴門に入ったのである。それらの船を鳴門舟と一般的に読んでいたのが中世歌謡に言葉として残っている。玄関口が鳴門ならそこから歩いていかほどもない一番霊山寺を札はじめとするのは何ら不都合はなかったしそれが自然であった。
ところが江戸の藩政期に入ると、船は大型化し千石船などは徳島藩の城下町である「徳嶋」と大坂を海路で直接行き来できるようになった。さらに徳島藩は換金作物として「藍」作りを奨励し、藍玉を商品として大坂に売り込み始めたので徳島城下の外港から大坂への海路流通はますます盛んになった。そんなことから商品とともに付録のように乗りあう旅客は大坂から直接徳島の外港へ向かったのである。上陸地である徳島で一泊し(遍路宿や大滝山の持明院などの寺にとまった、上記のガイドブックには遍路宿の具体名も書いてある)、翌朝そこが歩き始めの第一歩となる。ここを起点とすると一番近いのが十七番井戸寺である。直線的には霊山寺は井戸寺より若干遠いがとんでもなく離れているわけではない。ただし、大河吉野川をはじめ中河川も多く小河川をのぞいて橋はない。渡るには渡し船に頼るしかない。
この結果、徳島へ着いた四国巡礼者は2つのコースの選択を迫られる。順序通り一番から始めるか、それとも十七番から始めるか(17番⇒16⇒15⇒13番ときて次は12番焼山寺にはならず、13番の大日寺(一宮寺)から石井への山道・地蔵峠を越え、鴨島山路に向かい11番藤井寺から12番焼山寺となる、そこから佐那河内、八多を経、18番恩山寺からは順序通りとなる、残った1~10番は讃岐の88番大窪寺のあと10番⇒9・・・⇒1番霊山寺となり、巡礼は終わる)。多くの巡礼者は、大河吉野川や中河川を渡し船で渡らなければならない1番から始めるコースより歩きかってのよい17番井戸寺から始めるコースをとった。このガイドブックも正規のルートを提示しながら、17番から始めるほうが「勝手よし」と暗に勧めている。
その遍路コースのいずれをとるにしても(徳島を起点とする場合)最初あるいは終わった後に渡らなければならない吉野川の渡し場が「隅瀬の渡し」である。今はもちろんないが史跡に指定されているので先日、徳島から自転車で四国三郎橋を渡って「隅瀬の渡し跡」を見学してきた。四国三郎橋を渡って土手を少し東に行ったところにある。
今は体練場になっていて護岸工事もされ、ここが渡し場であったという面影は全くない。(四国三郎橋上から撮る、左方の岸あたりが渡し場であったところ)。
鳥瞰図で見た「隅瀬の渡し」(黄色矢印)と霊山寺(赤いしるし)その二つを結んだ直線を伸ばすと下方に徳島市中心地が見える。
2021年7月16日金曜日
大昔のおヘンドさんは?どないなんやろ
現在マイカーがこれだけ皆に行きわたっていても、四国遍路の王道は大昔のお遍路道を歩いて全八十八ヵ寺の札所をまわることである。ワイの小ンまいときは「歩き遍路」がほとんどだったのはもちろんのこと、風体など見るからに路銀も持たず、道々の人からの「報謝」にたよって巡礼旅を続ける「おヘンド」さんもよく見かけた。ワイの家の戸口に立ち、鈴を鳴らし短いマントラかお経など唱えているおヘンドさんに祖母からいわれて小銭や米を直接手渡ししたことも何度かある。今はそのような考えは差別になるがワイの親や祖父の時代はヘンドは「乞食遍路」と同義語と見ていたのではないだろうか。
ワイの町は十番札所切幡寺から十一番札所藤井寺への遍路道が走っている。しかし小ンまいとき住んでいた我が家はその遍路道からかなり離れていた(ほぼ1kmくらい)。しかし家は建てこんでいて往還沿いには商店も多く、すぐそばには昭和30年前半までの当時のアミューズメント施設「有楽座」などもあり、田舎にしては賑やかな場所であった。特にそこで鴨島大菊人形が主催される初秋から冬にかけては汽車やバスで団体客も詰めかける大盛況でそんなこともあって路銀を持たぬ遍路は、遍路道から少し外れるが人々の報謝を当てにできる我が家を含めたこのあたりへ戸口から戸口へと報謝のお願いに回ったのだろう。
昔の人や祖父はそんな巡礼をおヘンドさんとよんだ、先も言ったよう乞食に近いというニュアンスが込められているように子ども心に感じたが、当時としてはあながち外れてはいまい。しかしもし我が家が本筋の遍路道に面していてそこを通るお遍路さんを見ていれば、昔であっても路銀を持たず報謝のみに頼る遍路ばかりではなかったことに気づいたはずである。もちろん御大師様の四国巡錫の太古から聖、遊行僧、巡礼が粗末な衣服と鉢以外は持たず、托鉢、布施、報謝を人々から受けそれを旅の糧とするのはそれこそ王道ではある。しかし江戸時代ともなると商業活動が活発になり、貨幣経済が浸透し、また街道、往還、旅籠などが整備され、幕府は政策として純然たる物見遊山の長期旅行などは原則禁止されていたが、神社仏閣のもの参り、巡礼、伊勢参りなどは、そのほとんどがレジャーの要素が(名所を見る、名物を食べる、遊女と遊ぶ、土産を買う、各イベントに参加する等)多くとも認められていた。むしろ、農民や生業のある町人などの長期間の有名寺社参り、お伊勢参り、回国巡礼などは、江戸時代において旅のレジャーと同義語とみて差し支えない。
いろいろ諸説はあるが八十八ヵ寺の参拝順序が確定し、多くの庶民が先にも言ったように若干のレジャー(といってふさわしくなければ息抜きとでも言おうか)要素も加味したお四国めぐりである巡礼に参加してくるのは江戸の初期といわれている。この時期はまさに商業活動活発化、街道・往還・旅籠の整備、貨幣経済の浸透と軌を一にするものである。これらの遍路は四国当地の人々の好意にある程度期待し、善根宿も利用したが、路銀も持ち、あるいは自分の巡礼のための便宜をあらかじめ用意して巡礼遍路を行ったのである。
公的には「四国遍路(江戸期は辺路ともいった)」ははっきりした線引きがある。まず「往来手形」(生国の庄屋や寺が発行する)を持っていることである。それには四国遍路と明記されなければならない。また上方や江戸から四国に来る場合は渡海するが、徳島藩は「渡海手形」を遍路にも要求した。これは大阪などの渡海屋(回漕業者)が代行して発行したから往来手形を所持し渡海の費用を払えば問題ない。江戸初期、元禄の始まる数年前に発行された四国遍路のガイドブックともいえる本が左に示してある(現代版で今も出ている)。これは大ベストセラーになり、なんと明治までの巡礼のガイドブックともなるロングセラーである。この本はこれらの正規(公的)な遍路巡礼のものである。
一頁目を開くと序文に続いて、上方から行く方法が書いてあり、大坂の具体的な渡海業者をあげ、渡海費用は銀〇匁、(もちろん往来手形所持が前提)で手続きもやってくれて、最初の上陸地徳島の城下へ行けるとある。もう最初から、パスポート所持、路銀も持っている正式な遍路巡礼のみを対象としているのがわかる。藩あるいは村役人が正規に「遍路」と認定する人はこれらの人々であった。
とはいえそれは建前である、路銀も持たず、食、銭を乞い、業病を負い、あるいは帰るところもなく、旅をすみかとし、旅に死ぬ定めをおいながら遍路道を行く人も多かった。藩、村役人もおおっぴらに取り締まることはなかった。むしろ藩や村方などは、それらの人が行路に行倒れたらどのように介抱するか、死んだ場合の扱いなどはどうするかの細則をきめてあり、むげに追い払ったり罰したりすることはなかった。悪代官の登場する時代劇を見なれていると意外な気もするが、江戸時代は当時なりに下の方の人々(無宿遊行人も含め)まで含めギリギリ最低限すくい取るセイフティーネットが貼られていたのである。
先日、撫養へ蓮華(ハスの花)を見に行ってブログにアップしたが、その近くの撫養街道沿いに下のような寺があった。「長谷寺」という。ついでに参拝と思い境内の石碑を見るとこのように説明してある。
この寺は藩政時代、「駅路寺」として設けられた。藩史によれば主旨は
『当寺の儀、往還の旅人一宿のため建立せしめ候条、専ら慈悲肝要たるべし、或いは辺路の輩、或いは出家、侍、百姓に寄らず、行き暮れ一宿望む者』
とある。主旨からいって身分にかかわらず行き暮れに困った人に一宿を供したと思われる。このような基本無料の一宿のやどで藩指定はこの長谷寺を含め八ヵ寺あったが、このような趣旨の寺あるいは善根宿はこの阿波藩には多く存在しただろうと思われる。また無人のお堂、無住の寺などはつねにこのような遍路には解放されていたとみるべきである。このような背景にはやはりここ四国は御大師様の御巡錫された地で、どんな巡礼でも実は御大師様とともにまわっているという信仰がある。薄汚い乞食坊主であると思ったが、実は御大師様であったという伝説はあちらこちらに残っている。そのようなこともあって一部には正規の巡礼でない乞食のような哀れな身なりのおヘンドさんに対し邪険に扱う人もいたが、おおむね御大師様の信仰心もあってか暖かく好意的に見る人が多く、路銀を持たなくても、善意により巡礼が出来たのである。
日本史をマイ日本史として自分がその分野の一人者になりたいと思ったら、一番手っ取り早いのは自分の住んでる地域のだれも手を付けていない歴史資料を扱えばいいとはよく言われることだ。もちろん地域・時代・分野はごくごく狭められてくるが、なにせ誰も手を付けない隙間の資料を狙うわけだからその点に限って言えば研究の一人者になれるはずだ。
その中でよくやるのが「地方文書」、自分の地域の江戸時代の古文書、それも公開されてなく古い家(昔の庄屋)の土蔵に眠っている虫食い文書などを自分なりに研究するのはよくある。大学院の修士論文の資料くらいにはもってこいである。結構古い家の土蔵には江戸期の膨大な史料となる文書が眠っている。
その中で多いのは年貢関係文書、お上からの通達の写しなどであるが、先に述べた遍路、遊芸人、回国聖、など定住地を持たず、往来切手もない人が病気になって行き倒れたり、あるいは死亡したときにどうするか、という規則の文書、あるいは、上への問い合わせ、そして実際処理した記録文書も多い。その中には、病人には救米としていくらいくら、薪炭がいくら、そしてなんと病人小屋を作り、介抱人まで置いた例もある、死んだ場合は埋葬の手続きである、そして必ず、明確な無宿人でない限り生国へ問い合わせた記録も書かれている。
これらは村方(今だと町村レベルの自治体)の仕事である。だから名主・庄屋の土蔵に古文書として残っているのである。病人への支給物の米、薪炭、死んだら埋葬料も村方の予算から出される。もちろんこれは藩の決まりに沿ったものであり、村方が独自にするものではないが、手間や費用は村方持ちである。しかし中にはもし行き倒れ病人が出たばあい手当てする最終責任者は庄屋・名主であるため、億劫がったり嫌がったりする者もいる。そんな場合は回避の方法として何とか歩ける病人なら負い銭や食料を持たせなんとか付き添いを付け村の境まで送るということもされた。しかしこれは当時としてもやってよいことではなかった。
我々は悪代官や悪い庄屋が登場する時代劇を見すぎているせいか、江戸期は下層民、中でもボヘミアン的な人は踏んだり蹴ったりされていたのだろうという先入観に陥りやすい。確かにその生きざまから生活は苦しかったが、前に行ったように当時としてできるだけのギリギリ最低限のセイフティーネットは張られていたのである。
このような巡礼、回国、遊行人などが病気になったり、行き倒れ、死んだ場合の記録である江戸の古文書を見ていると、現代に戻ってあるデェジャブ感を感じる。それは今現在も法律として生きている「行旅病人及行旅死亡人取扱法(明治三十二年法律第九十三号)」である。なんとまだ19世紀であった時の法律であるがその文言「第一条 此ノ法律ニ於テ行旅病人ト称スルハ歩行ニ堪ヘサル行旅中ノ病人ニシテ療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキ者ヲ謂ヒ行旅死亡人ト称スルハ行旅中死亡シ引取者ナキ者ヲ謂 ...」は、江戸の村方の文書の文言とよく似ているのである。江戸の村方のそれらの人に対する扱いもこの明治の法律とよく似ている。費用が市町村の負担も同じである。
よく言われる「行路病死人」に対する扱いである。江戸も明治も行き倒れで多かったのはいわゆるおヘンド・乞食遍路である。だから明治のこの法律も江戸期の村方の法である実施細目からおおかた引き継いだのではないかと思われる。明治維新を境に法律は欧米の法律を取り入れ江戸期とは断絶があるように言われるが、この行路病死人の法を見る限り、江戸の法と現代の法とはつながっているのである。
なんで、ワイがこんなに行路病死人に関心があるかというと、去年、太龍寺の修行道で足をベシ折り、行き倒れも覚悟したからである。ワイとしては、行き倒れそのまま誰にも発見されることなく朽ちて土にかえるも可成、と思ったが、江戸時代も現代も、チラとでも人に行き倒れを見られたら、自然に朽ちさせてくれることはない、介抱され、死ねば埋葬も行ってくれる。江戸も現代もこれは変わらない。いい国に生まれいい歴史を持っていると誇ってよいことか?それはわからない。
2021年7月15日木曜日
タブレット買ったその2追伸 やっぱタブレットで長い文はワイには無理!
前のブログ『タブレット買った(その1)』の文作成や写真貼り付け、ヨウツベからの動画挿入で、以前アップしていたPCからのブログとそん色ないように見える。
・・・・・が!実は、厄介だと思われていた「写真」「動画」のブログへの挿入は全然難しくなく。ワイにとってもうどうしようもなく困ったのはブログのテキスト文の作成であった。タブレットから文字を打つのだが、画面をタップするが押し間違えたりすべったり、1フレーズやっと終えたと思い、画面を見ると「・・ふにゃらら、ふにゃらら・・」、押したと思った文字が別文字になっている、そして打っているとなぜか急に左寄せが解除され、文字行が次の列に飛んで中央から始まったり、で、結局、前回のブログ、タブレットからアップしたのは写真と動画と、最後の一行「まずヨウツベにアップしてそれからのこのブログへの張りつけた。成功したようだ。」だけであった。それ以外のブログテキスト文は図書館のPCで作成して文だけ作っておいたのである。
そのあと練習にタブレットで文を作成したが途方もなく時間がかかって、最後の一行作るのに優に20分は要した。慣れれば文作成はもう少し早くなるかもしれないがワイにはやっぱしパソコンのキーボードが合ってるわ。歳ぃいくと最新の技術や技能の習得は難しいというか、もう最初からそんな意欲ないわ。
やっぱ、パソコンがいいなぁ。でも満足のいくパソコンやと十数万はするしなぁ~、
そんなおり、ワイんくの町の駅裏ホテルを会場とした中古パソコン(日本メーカー)大放出販売会を催すのでお誘いの上おいでくださいとの郵便パンフレットが我が家の郵便受けに舞い込んできた。パンフを読むと、大手会社のパソコンはだいたい4~5年で買い替えるそうである。そのパソコンを大量に下取りし、ウィンドウ10などにグレードアップしたり、新しくソフトをいれなおし商品として売るのである。会場には個人向けのPC(富士通、東芝、NECなど日本メーカー)が26000円(税別)の価格でたくさん出品とある。そして2年の保障をつけますとある。
なんか怪しい商法の会社じゃないんかしらん、でもウチンくの町では毎年のように同じ主催者の販売会が開かれている。怪しい商法だったら毎年同じ会場では開かんような気ぃもするが・・
主催者の正式名は『日本電子機器補修協会(JEMTC)のパソコン有償譲渡会』(ジェムテクとの略称)である。税込でも3万弱で、たとい2年しか持たなくても、ワイの寿命もそれくらいやから、買おうかなぁ、っちゅう気ぃになりかけている。販売日は再来週の日曜である。駅裏ホテルはウチのすぐそば、行くだけいってみようかな。(ちなみにこのブログはウィンドウ7で書いてます)
タブレットを買った
最初にウィンドウズ10のパソコンが物理的にぶちめげて、十数年前に買ったセパレート型(ディスクトップ型っちゅうんかいな)のウィンドウズ7もセキュリチがないっちゅうのに使っていたせいか悪性ウィルスに感染したみたいでこちらもダウンしてしまった。手持ちの二台全部あかんよ~になった。
まっさらピンピンのパソコン買いたいが物理的にも壊れずしっかりした日本製だと十数万もする。もぅ~歳ぃいってネット利用ちゅうてもニュース見たりヨウツベで動画を見たり、たまにブログを作るばっかしやから、新品のパソコンに買い替えるのはやめてこれからはタブレットでネット利用しようと思い、昨日それを買った。
上の写真が昨日買ったまっさらピンピンのタブレットである。歳ぃいって文字も見ずらいので比較的大きな画面の10.1インチにした。パソコンに比べると驚くほど安くレノボ製で2万4千円で小銭のおつりがあった。
さてこのタブレットでニュースやヨウツベの動画を見てみたが鮮明な映像や文字で問題はないが、大事なことはワイの老後の趣味の一つとなっている「ブログ作成」の能力はどうか?っちゅうことである。昨日買ったばかりでまだ機能の百分の一も呑み込めてないが、とりあえずいつも使っているブログメーカーである「ブロガー」を開いてブログを(作成)アップしてみた。
テキスト文は問題ない、ただしタブレットは画面の文字タップであるのでキーボードになれたいるワイには作文に時間がかかる。写真も難なく張り付けられた(上記写真)、難関は「動画」貼り付けである。下がそれである。
まずヨウツベにアップしてそれからのこのブログへの張りつけた。成功したようだ。
2021年7月6日火曜日
レンコン畑と神社
JR鳴門線立道駅の少し南、昼前レンコン畑の中に立つ。周りは大きなハスの葉、ところどころに白や桃色のハスの花が咲いている。
レンコン畑の真ん中に神社がある。あとで名前を調べると「大将軍神社」というらしい。(動画)
2021年7月5日月曜日
涅槃像・法輪寺本尊
もうそろそろ沙羅の花(夏椿)も終わりじゃろうな。たっぷり見たし、写真も撮ったのでもう満足。沙羅の花のブログをいくつかアップしたせいもあって沙羅の花の木の下で静かに息を引き取ったお釈迦はんにつても考えるようになった。「涅槃」そしておそらく同じ意味の「涅槃寂静」、「寂滅」、さらには同じ境地であると(えらいボンさんはいう)「空」、禅の「無我」、など、いろいろ考えることはあるが、これから死ににいくワイ自身のことを考えれば、それがわかってどうなるのか。救いになるのか、よ~わからん。
その点耶蘇教や回教ははっきりしている、信仰とそれに基づく実践で死後必ず「救い」があり、よき来世に行けると断言している。しかし科学万能・情報化社会の現代では宗教による「救い」などは生きている間だけの気休めに過ぎないのではないかと思う人が多い(死んだらすべて終わりゲムオーバァ、PCのブラックアウト、無、畢竟生きているときのことだけ考えりゃぁええ、という考え)。マルクスのおっさんは「宗教はアヘン(痛みをとめる薬)」であるといったが、まさにそのことを言い表しているのであろう(確かに生きているときにだけ効果をもたらすのが薬、死んだら薬も役立たん)。
死を含めた人生とは何か、を論理的思考の方法であつかう哲学ならどうか?死に向き合う何か良い知恵を授けてくれるのではないか。しかし、寡聞にして「ワイ、哲学によって人生、救われたわ」っちゅう人はまず聞かない。それについてある哲学者(古典期の哲学者と思う)がこんなことを言った記憶がある、「哲学が役に立つかって?ふん、歩いていて電信柱にブチあたった犬が、当たったのは自分のせいでなく、電信柱のせいにできるくらいの効果はある」、しかしその程度じゃ哲学は「救い」にゃならへん。
そもそも御釈迦さんは死後の「救い」のことなどは言っていない。お釈迦様は「悟り」を開いた後は、現世の出家者、庶民が「苦界」から脱し、ひたすら現世でより良い生き方ができるようにするため、教化、指導に当たった。おそらく願わくばすべての人が悟りに達し、解脱し、最後は涅槃にはいり生を終えればいい、と思っていたに違いない。そして自らその最終到達点を示すように涅槃の境地で死を迎えたのである。その生涯で最大の通過・転換点「悟り」とはいったいなにかをぜひ知りたいが、これは修行の果て(しかしある人は一瞬で悟ったという人もいるようだが)に到達するものであり、また論理的な言葉では言い表せぬ深遠なものであるという。悟りに達せぬ人にむかって(教化、手助けのため)言えるのは、仮の方便であるという(難解なお経の内容でもそうだ)。
「修行」、「悟り」、そして最終の「涅槃」など2500年前初期仏教で御釈迦様の示された生き方、教えは、どういうものか不思議なことに、現代においてどうしてもさけられない「死」に向かう時、哲学や既存の「救い・来世欣求」の宗教よりずっと魅力的に私に迫ってくるのである。(そういえば昔、理系の若い衆が「Ω神理教」に傾倒したっけ、なんで論理思考の得意な彼らが、とおもったがわかる気がする)
「修行」中の釈迦の像は極めて少ない(一度あばら骨が浮き出たガリガリの釈迦像を見た記憶はある)まだ「仏」となっていないため信仰対象とはならないからだろうか。しかし「悟りの像」は違う、ブッダガヤの菩提樹下で開いた「悟り」像は瞑想状態(半目)の結跏趺坐像として多く作られていて普通に寺の釈迦如来像として見ることができる、それに比べると(横たわった)「涅槃」像は少なく、ましてその涅槃像が寺の御本尊となっているのはまれである。
その稀な御本尊が涅槃像である寺が私の母の里近くにある。土成町にある9番札所「法輪寺」である。八十八ヵ寺の中で横臥の涅槃像が本尊なのはこの寺のみである。
法輪寺山門
境内
2021年7月2日金曜日
今日二回目のワクチンがすんだ
二度目となる役場が会場の集団接種を受け、本日午後無事コロナ予防接種全過程が終わった。ワイの一番願うことは、こんでもって、一つにはコロナで行けなかった場所に行こうと思えば自由に行けるようになること。そして二つ目はクッソ暑ぅなる本格的な夏に入る前にマスクなしでアッチャコッチャに出入りしてもとがめられることがないようになることである。とくにワイはマスクつけるのは元々すかん。いやいやしぶしぶ形式的につけとるだけなんで、マスクなしに活動できるとこのうえなくうれしい。しかし一つ目の願いはかなえられそうだが、二つ目のマスク着用義務については、まだまだ外したらアカンちゅうこつや。あぁ~ぁ、うっとうしい!まだマスクせなあきひん。ワクチン済んだありがたみも半減や。
二回目の接種を早くに済ました人の話を聞くと、二回目の接種は一回目より副反応がキツゥでるっちゅう人が多いみたいだ。ウデの鈍痛ばかりでなく、手ぇ全体が重かったり、微熱がでて、からだがだるぅてしんどい、という人もいたみたいだ。ワイはまだ済んだばかりでこれっちゅう副反応は出ていないがちょっとこれから心配だ。
2021年7月1日木曜日
今日7日1日はモラエス忌
一人暮らしのモラエス爺さん、誰にみとられることもなく長屋の自宅で発見されたのが昭和4年7月1日であった。当時、死因はいろいろ取りざたされたが現在では自宅での事故死とみられている。前日は近所の人の声掛けで返事をしているので生きていたのは確かめられている。おそらく30日の夜から未明にかけてなくなったのであろう。(モラエスさんの死因についての私のブログがこれ)
今日がその命日である。亡くなった当初は、当時の徳島市民も近所の人も西洋乞食とまで陰口をたたかれた長屋暮らしのみじめな異人のジイサンの孤独死としか認識されなかったが、死後その履歴(外交官)や、また本国ポルトガルで日本・徳島に関する書籍などを出版していた文学者の一面も知り、年々名声は高まり、今では徳島出身(晩年だが)文学者として知られるようになった。そのためなくなってほぼ1世紀たつが文学愛好家や日葡協会の人などが今日、墓のある寺町の潮音寺に集まって毎年「モラエス忌」を挙行し、モラエスさんの遺徳を偲んでいる。
モラエスさんのお墓は寺町の潮音寺にある。今日は「モラエス忌」で大勢の人がいると思うのでそれを避け、昨日、一人お参りしてきた(結局昨日は晴れていて今日は小雨、昨日お参りしてよかった!)下がそのお墓、真ん中がモラエスさん、向かって右がオヨネ、左がコハルの墓。
潮音寺のすぐ横、眉山ロプウェイ前の広場はモラエス記念広場となっている。花壇や四阿、ベンチがあり憩いの場である。モラエスさんの名を冠した「モラエス花」(キバナアマ)は有名であるがこれは寒い時期の花なので今は花壇になく、その代り紫花の丈高い「アガパンサス」が花開いて、今日のモラエス忌を飾っている。このアガパンサスは「アガペー(神の愛)の花(アンサス)」という意味がある。でも私の見るところ、モラエスさんの愛は「アガペー」より「エロス」のほうがふさわしい。下が広場のアガパンサスの花、向こうに鳥追いの被り物を模した四阿が見えており、その横にモラエス記念碑も見える。
モラエス記念碑の拡大写真 60歳ですべてをなげうって徳島に移住し、以後15年伊賀町の長屋で暮らし、7月1日享年76歳で亡くなった。
モラエスさんは言語の壁もあり、文学者として大正期に日本ではほとんど知られていなかったが徳島から発出した原稿はポルトガルで出版され、当時からポルトガルでは文筆家として知られていた。死後、日本でも何人かの日本人翻訳者によってモラエスさんの重要な本が出版され、徐々にその評価は高まっていった。極めて遅まきながら、戦後、県の当局もモラエスさんの文豪としての価値に気づき、文化政策の上でモラエスさんの遺業の広報、バックアップに力を入れるようになった。
徳島で誰にみとられることなく、ボロっちぃ長屋で一人亡くなったモラエスさん、私としては最晩年のモラエスさんの「死生観」、特にもう今日明日かもしれない身近に迫った「死」に対してどのように思っているのか知りたい。モラエスさんは宗教家でもないし、哲学者でもない。確たる死生観について陳述しているわけではない。しかし彼にはこの徳島で書いた随想(日記に近いものもある)がたくさん残っている。平易に日常の言葉で書かれている。術語や専門用語が多い宗教書や哲学書の著作より、いっそこのようなものが彼の本音の死生観を知るうえでは役に立つ。ただ日記に近い随想記であるため、その文章を読んでも、これがはっきりした彼の死生観であるとは断言しがたいが、その中で特にこれなどは彼の「死」に対する見方がよく表れているのではないかと思うのは著作『おヨネとコハル』の中の一節「ある散歩での感想」である。
その題の通り彼はある散歩であるものを目にしその感想を書いているのである。いったいどのような散歩だったのか。もちろん本を読んでみるとよくわかるが、なにせもう百年も前の散歩である。その風景も様変わりしているであろう。それを考慮に入れつつ当時の散歩はこのようなものではなかったのか、と私なりにそのあとをたどったブログを以前作っていたので、そちらの方も参照してみてください(その散歩のブログこちら)
誰でも厳粛にならざるを得ない死、万人に訪れやがて自分もそれに向かう。それをどのようにとらえるのか個人によってそれぞれ違いがあるであろう。モラエスさんはこの随想をつうじてその一端を垣間見せてくれる。私としてはそれについて(モラエスさんの死に対する考え)の私の受け取り方をここで述べるのはやめておく。『おヨネとコハル』は日常の言葉で書かれた日記に近い随筆なのでもし興味があればその一節をお読みくださればと思っております。
最後にかれの信仰について一言述べておきます。モラエスさんはポルトガル人です。ポルトガル人は16世紀に初めて日本に到来したヨーロッパ人であり、その後もポルトガルの宣教師が多く日本に渡来しました。当時も今もポルトガルはカトリック教国です。しかしモラエスさんはカトリックに根差した死生観は持っていないように見えます。カトリックに基づく死生観にとらわれず、むしろ仏教の死生観によりシンパシーを感じているように見えます。それによって「背教者」の烙印をおされても甘んじて受けいれる覚悟ができている人ではなかったのかと思われます。彼の遺言書には、仏教による葬式を是非にしてくれ、と頼むような積極性は見られませんが、彼の位牌はおヨネ、コハルとともに市内の北山にある「東海寺」へ依頼してほしいとあり、仏教による供養を否定はしていません。もちろんカトリックによる秘跡や葬儀、供養についてなどは遺言書にはありません。
この節(おヨネとコハルの一節、ある散歩での・・)の読書後の感想としては、彼の死生観は唯物主義のようにも見受けらるが単純なそれではなく、そこには仏教の輪廻転生の思想、仏教の四大元素説などの影響が見られるのではないかと思っております。まあ浅学菲才の私があれこれ言うより一度読んでみてください。独断と偏見かもしれませんが手塚治虫の『火の鳥』の最終章の死生観とモラエスさんの死生観は似ているのではないかと思っております。