ボニがやってきた。ボニは死者の招魂、そして先祖供養、終わったら先祖の御霊を良き彼岸へとお送りする、という日本人の風習である。いまコロナ蔓延のため例年になく静かなボニをむかえているが、ボニの趣旨から言えばこのような静かな環境でボニを迎えるのがふさわしいはずであるから、本来のボニに戻ったともいえる。
ボニと聞くとワイら一般人は仏教と強く結びついたイメージがある。墓参りに墓地に入ると六地蔵が立っていたりする。墓の後ろに立っている卒塔婆は梵字や供養の漢字が書かれているがそれらは仏教の供養のしかたである。墓前で香華を手向け、唱えるのも短いお経や真言であったりする。そもそも葬制や墓制が仏式に基づくもので、火葬もその延長(ただし火葬がすべてに広がるのは明治以降)にある。
ボニの供養も仏式に基づいて行われる。旦那寺からオジュッサンを招き、霊前でお経をあげてもらい先祖霊を家で供養するのである。ボニは先祖供養の社会習慣であるが葬制と同じで仏式で行うのが大多数である。日本人でキリスト教や回教に改宗している人も若干いるが一神教的性格の強い宗教の人はそもそもボニなどはしないであろう。
ボニと仏教は上記のようにかなり強い結びつきがあるが仏教=先祖供養とはかなり矛盾があるのはたびたび指摘されるところである。仏教ではもちろん死んだ後の霊魂のようなものを考えるがそれは生前の「業」によって六道を輪廻する。簡単に言えば別の「生き物」になるのである。良ければ天界にうまれ天人となるし、悪ければ虫けらになるかもしれない。しかし悟りを啓ければ輪廻から解脱し輪廻の生死を超越できる。また仏教の別の教えでは別世界「極楽浄土」に生まれる場合もある。そこには死んで「先祖霊」となる余地はないのである。
なぜこのように仏教とボニ(先祖供養)に食い違いが生じたのかを考えるともともと原初の日本人の素朴な死生観があって後に仏教が入ってきてその教えがかぶさったためこのような矛盾となっているのであろう。太古の日本人の死生観は地域によって少しの食い違いはあるが、死ねば霊魂となってしばらく生前の場所にとどまりそのうちに「山の向こう」あるいは「海の向こう」など霊魂の安住の地に旅立つのである。しかしその霊は行きっぱなしではなく、時として子孫のもとに帰り、子孫の守護霊となる場合もある。そして年月がたち孫、ひ孫と子孫が下るにつれて死んだ個々の霊も浄化され先祖の大きな霊として合体すると考えられた。その合体した先祖霊は多くの子孫の守り霊となり幸をもたらすのである。その死後しばらくとどまる霊とそして合体した先祖霊を供養したのがもっとも原初のボニの起源ではなかろうか。
初期の仏教では先祖供養については何も言っていないが、中国に伝わり中国の古来からある先祖供養の風習を取り入れた結果、「お経」に先祖供養に特化したものが中国で出来上がった。「盂蘭盆経」である。「お経」とは言いながらお釈迦様の教えの系譜にあるものではなく、インドで生まれたものでもないため「偽経」ともいわれる。
しかしこの「盂蘭盆経」が日本に伝わるとそれはまさに「ボニ」の仏教的な裏付けとなる「お経」となった。しかし見てきたようにこの「お経」は仏教のオーソドックスな教えからはかなり逸脱している。
その「盂蘭盆経」の骨子は以下のようなものである。餓鬼草子絵巻にその盂蘭盆経のもととなった説話が入っているのでその絵巻の絵図とともに紹介しよう。
お釈迦様には十大弟子がいるがその中で神通第一(つまり霊力が強いのだろう)と言われる弟子に「目乾連」通称、目連がいた。彼には老母がいたが孝養を尽くせぬまま亡くなってしまった。死後母のことを慮っていた目連は神通力をもって母親の様子をみた(絵巻では母親に他界で実際にあっている)。するとあろうことか母親は餓鬼道におち餓鬼となって苦しんでいたのである。
その絵巻の場面を見てみよう。僧侶の姿が目連である。対する母は餓鬼道に落ち、飢えて骨と皮ばかりになっていた。目連は大いに悲嘆し、大きな鉢に食物をもって母に与えた。母がそれを食べようとするとなんと、食物は燃え上がり炎が吹き出す燠となったのである。餓鬼道に落ちたものは食欲は無限に増大するが、いろいろなさわりが起きて食べられなくなるのである。死んでも母に孝養を尽くしたいと願っている目連にとっては耐えられない悲しみである。
目連は仏(釈迦)に救いを求める。その場面が次の図である。中央が釈迦、両脇は観音・勢至菩薩であろう。後ろに変わった形の山が見えるのはその形から霊鷲山(鷲の頭の形をしている・インドの王舎城近くにある)である。仏に合掌する目連がいる。仏の慈悲による救いを乞うたのである。
仏は目連の願いを聞き入れてくれた。仏は次のように目連に言った。
「まず、自恣の僧を供養すべきだ、そののちに母に与えよ。」
自恣(じし)とはインドで夏安吾(一か所にとどまり修行する夏の期間)の最後の日(旧暦7月15日とされる)に僧たちが集会し、互いに自分の罪過を懺悔し合い、他の僧の訓戒を受けることである。その時に果物も含んだいろいろな食べ物を盆にいれて、断食も含んだ修行期間後(旧7月15日)の衆僧に供養(ふるまう)せよというのである、しかる後にその残りを母に与えよ、ということである。
目連が仏の教えのようにし、その食べ物を母にすすめたところ、食物は炎を吹き出すこともなく、母はおいしそうにそれを食べたのである。下がその場面の絵巻である。
なるほどこのような筋のお経ならば、旧7月15日に僧侶を招いて先祖の霊を供養し、かつ僧にたいしても供養する(もてなす)。といういわれとなりそうである。だが何度も言うようにこの「盂蘭盆経」は先祖供養の風習のある東アジア(中国)で仏教と先祖供養と結びつけるために生まれた「偽経」である。(偽・ニセという意味にはとらないほうがいい、原書であるインドの言葉(パーリ語)で書かれたお経にそのオリジナルがなく後世に別の場所で作られたお経である、というくらいの意味である)
最後に、「盂蘭盆経」では僧を供養すれば、(死んだ父母が)悪道に落ちた苦しみから救われ、天界に生まれ変わることもでき、時期に応じて解脱もできる、めでたしめでたし、で結んでいますが、絵巻の方は餓鬼草子ということもあってかちょっと衝撃的な母親が出てきます。もう一度、上の最後の絵図を見てください。まず、母親、供養の食物をおいしそうに食べることができ喜んでいるように見えます。ところが右にいる目連の表情を見てください。なぜこのような悲しそうな顔をしているのでしょうか。
それは左にいる三人の餓鬼と母親のやり取りによってその悲しみの原因がわかります。どこからともなくやって来た三人の餓鬼はおいしそうに食べる母親に対し、自分たちにもその食物を恵んでくれるように手を差し出しています。それに対する母親は、やらじ!とばかり、その食物の入った鉢を尻に敷いてしまいます。仏の慈悲、供養に対する母親の態度がこれだったのです。それを見てしまった子の目連は、餓鬼道に落ちた母親の業の深さに悲しんでいるのです。
めでたし、めでたし、で結ぶ「盂蘭盆経」より、同じ話ながら絵巻の方が仏教説話的には味わい深い気がします。この母親を見て芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」のカンダタを思い出してしまいました。
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