ウチの駅から徳島までの鉄道は蔵本駅までは平地を走っているが佐古駅周辺だけは高架線路になっていて高さは3階建てくらいある。佐古駅に汽車がつく直前、左車窓を見ると下には墓地が広がっている。結構広い墓地には新旧の墓石がたくさんあるが、大きな同じ形の仏塔が二つ並んである。目立つ特徴的なかたちをしているので見るたびちょっと気になっていた。
そこで先日、佐古駅で降りてその墓地まで仏塔を見に行ってきた。車窓から見えるとすぐ佐古駅ホームに滑りこむので駅を出てすぐかとおもったが、結構距離もあり道路をいくつも跨いでいたため、駅からちょと遠いなと思うほど歩いた。
下がその墓地にある二つの仏塔である。
たくさんの古い墓石が集められ積み上げられた中にその二つの仏塔は立っている。仏塔を横から見ると前には古くてすでに欠けたり割れたりしている墓石が散乱している。この様子を見るとこのたくさんの積み上げられた墓石は、墓地整理のため無縁墓となっている墓石をここに集め、おそらくその無縁墓の供養塔としてこの二つの「仏塔」が建てられたのがわかる。
今、私は仏塔という言葉を使ったが、仏教の故郷インドでは仏塔をストゥーパ( Stūpa)
といい、その系譜をひくものとして日本仏教の言葉では「卒塔婆(そとば)」がある。今では卒塔婆というと墓の横や後ろに立ててある梵字や供養のための漢字を書いた細長い板ベラをさすが本来は仏塔の意味があるのである。
インド人は今でもそうだが肉親を火葬にした遺灰遺骨に執着は持たない、もちろんそれを安置する墓も建てない。聖なる河ガンジスに流してしまう。2500年前のお釈迦さまも死んだ遺灰遺骨に執着は持たなかった。しかし仏典によれば、もし自分が死んだあとその遺骨をどこかに安置し、信者や志を同じくする在家者が塚などを作り、それを記念的に崇めるのまでは否定はしなかった。
事実、釈迦の遺骨は聖的なものとして死んだすぐあと、それを欲した国や部族が多かったようである。最初は8つに遺骨は分骨され8の国・部族に分けられ、のちには崇める人も増えたためか仏説では8万いくつもに分骨されたといわれる。まさに一粒は米粒・舎利くらいの大きさである。
その分骨を納めた上に築かれたのが仏教の最初の仏塔である。それが下の仏塔(インド)である。
その釈迦遺骨(仏舎利)を納めた塔を作るのはインドから各地に広まっていった。そしてその東の終点日本では仏塔はこのように変化する。いわゆる「〇重塔」である。五重の塔が一般的だが二重も三重もいろいろある。
法隆寺五重の塔
ウチの近くの寺にある二重の塔(切幡寺)
徳島寺町にある塔(これは多宝塔ともいわれる)
寺院には梵鐘、山門などがつきものであるが、小さい寺院などではないところもある。塔などはかなり大きな寺(経済的に)でないとないところが多いが、二重あるいはそれよりも小さい多宝塔でも、ともかく寺にとっては大切なものであるから小さいものでもなんとか建てたいと願うものである。江戸時代、大名でも城持ち大名と城を持たない大名がいて江戸城では肩身の狭い思いをしたが、寺にとっては塔は大名の城のようなものである。仏塔は(建前は)仏舎利を納めるもっとも重要なものであるから寺がどうしても持ちたいと強く願うのも頷けることである。
仏塔は南のほうにも伝わった。インドのすぐ下に浮かぶ島スリランカの仏塔は近いだけにインドの仏塔によく似ている。
そしてさらに南方伝播の仏塔がミャンマーに入るとこのような形となる。徳島眉山山頂にあるパゴダとよく似ている。
日本に塔を伝えた中国では日本のような木造の多重の塔もあるが、下のように中国独自の石造り、あるいは「塼」(せん)レンガの仏塔もある。
さてところで佐古駅高架下でみた不思議な形の仏塔は上記のどの伝統に基づくものか、仏教国によく似た仏塔はないかと探してみたら、ほぼそっくりの仏塔が存在した。それはチベットの仏塔である。
下がチベットの仏塔
この高架下の墓地はある「寺院」(墓地の近くにはない)が管理しているが、チベット仏教が日本に紹介されるのは明治以降であるし、この寺院は新参の寺なのだろうか、その寺院はチベット仏教とはたしてどのような関係があるのか、もしないとしたらどのような理由で供養塔としてチベットの仏塔にしたのか知りたいが、そこまでは調べられなかった。
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