私は宗教の知識もなく、ましてやホンの少しでも宗教的な修業をしたこともない。それでもあの場所は聖地いや霊地といったほうがいいかもしれない場所であると強く感じる。
帰ってからさらにあの場所のことを調べた。旧山川町史(今は町村合併で消滅したが)、郷土の遺跡遺物の解説書類である。そうすると、摩崖仏は江戸期の宝永年間に作られたものではあるがあの場所は太古(記紀以前からと考えられる)から磐座(神の依りますところ)であり、聖地であったことがわかった。磐座は「いわくら」と読み、まさに自然の「岩」に神の依る「座」である。今は神様のいらっしゃる空間は「神社」という社殿建築になっているが、これは太古にはなく、神は山そのものあるいは森、川に遍在していた(かたちに現れずその全体に)、しかし祭祀などを行う場所としては磐座のような天然の岩、大木、などが神の依りしろとなる聖地として存在していた。
この磐座に後世彫られたのが摩崖仏であった。この場所には神殿や寺院ができるずっと前の太古の祭祀形式を示す「石殿」というものがあることがわかった。わかったのは摩崖仏を参拝して帰ってきたあとそれに関する文献を読んでからであった。そのため3日前に行ったときはそのことは知らず、当然意識して写真も撮っていなかった。それでも、もしや、と思い撮りためた写真を見ると・・・おおぉ!その太古の祭祀形式の「石殿」が隅の方に写りこんでいた。
下の写真である
拡大すると
郷土誌の説明によると
『この摩崖仏そばの山肌には、緑泥片岩の板石を四角形型に組んで内部をカミが宿る室とする「小石殿」と呼ぶべき簡素な「山ノ神」の小祠が祀られている。剣山の北斜面から徳島市に至るまでの山間部、旧美馬郡・麻植郡・名西郡を中心に、このような石殿を祀る文化が数多く見られる。これは「山ノ神」「おかまごさん」「おふなとさん」「秋葉さん」など様々な名称で呼ばれ、特に忌部族に関係する地域に顕著に分布する。素朴な構造かつ信仰ながら、原初的(アニミズム的)な祭祀形態を現代に残しており、貴重な日本の民俗学的遺産となっている。』
もともと摩崖仏の彫られた岩は磐座として神の依る場所であり、その傍に太古の祭祀の名残である「石殿」が設けられ、大昔から続く素朴な「やまのかみ」信仰として今に残っているのである。このような太古からある各地の「磐座」あるいは聖地は少なくとも飛鳥時代以降(仏教寺院が建てられ始めた影響もあるのか?)には神社が建てられ始め祀られるようになる。やがて「本地垂迹」の考えのもと仏も祀り寺院も併存もするようになる。ここ山川町山崎の磐座でもその傍に神社も寺院も設けられている。しかし、より古い祭祀形式の「石殿」がここには残っているのである。
世界史的な常識では古い古い信仰(古代アニミズムといわれるが)は歴史の展開とともに後世まで継承されることは難しい。民族そのものが滅びそこでプッツン。あるいは異民族に支配され古代祭祀は圧殺され衰亡、また異民族の支配や交雑が起こらなくても有力な新宗教が入ってきたときにはどうなるか?イスラム、耶蘇教の布教を思い浮かべればよくわかる。強制圧殺という手段はとらないにしても彼らの体系的で組織的な宗教活動によって徐々に古い信仰を新宗教に置き換えていくのである。その時よくとられる手段は古い信仰の聖地の上にわざと自らの宗教施設を立てるのである。いわば乗っ取りである。このように有力な新宗教が入ったらやがて時代とともにその古代信仰は薄れ消えて行ってしまい。まったく途切れてしまう。
幸いなことに日本は島国でかつ異民族の支配も異民族の大きな流入もなかった。しかし有力な新宗教である「仏教」が入ってきて飛鳥時代以降日本人の信仰世界に大きなインパクトを与えた。だが仏教は神々たちとすぐ共存し始め、神々の信仰を圧殺することはなかった。むしろ相互に影響し合い、「本地垂迹」(神さんは実は仏さんじゃった)や「本覚思想」(山川草木悉皆有仏・自然のすべてに仏は遍く存在し宿る)というような考えを生んだ。古代からの信仰は仏教の影響を受けある程度の変質を受けた。しかしこれを途切れたとは言わない。流れは変容しながらも切れることなく続いているといってよいだろう。
今から約300年前にこの磐座に摩崖仏が刻まれたことを考えてみよう。これは断絶とは云わないのか?古い信仰の換骨奪胎ではないのか?結論から先に言うとこれは断絶にも乗っ取りにも当たらない。その後も古代からのヤマノカミ信仰もアニミズム的信仰もとぎれることなく残っている。
古代からの「ヤマノカミ信仰・アニミズム」と「修験道」、そして「密教」は極めて融和的で、というより混然一体化している。密教の側から言えばいろんな神仏をそのまま認めつつ、それは大日如来のいろいろなかたちでの表れであるというし、修験道の側からいうといろいろな行や修法は密教と不可分であり、修験道で重んじられる神仏はみんな仲良く密教世界(曼荼羅)の中に存在する。だからこの磐座に密教の三仏尊(大日如来、不動明王、弘法大師)を彫ったとて以前からの信仰が大きく変質することもない。横には仲良くヤマノカミの石殿はあるし、隣接していろいろな神仏もズラズラと並んでいる(各種石仏、お堂、寺など)。密教はすべてを認めその信仰や祈りを否定することはない。
この古代は磐座だった密教の三仏尊の場所をよく見てみよう。
三方に仏尊を刻んだ自然石があるため一方向だけが開いている。今はそこにステンレス製の祭壇を設けているがもちろんこれが刻まれた江戸時代(宝永年間)にはそんなものはなかった。経を上げ真言で礼拝したあと、失礼して三仏尊の中に入り撮影させていただいた。
左の岩には大日如来が彫られている。周りの円周上には梵語が彫られている。
写真をもとに帰ってから調べると思った通り、光明真言「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」を梵語で書いたものであることがわかった。普通3回、7回、21回と連祷するが回数が多いほど効能も増し、百回連祷加持した土砂を死者の上にかければその加持力によって諸々の罪障は滅し往生できると信じられている。そのため江戸時代に大変流行った真言である。この光明真言を人々がのべ百万遍唱えその功徳を表した真言百万遍の石塔が今でもあちらこちらにある。(一例を取り上げた私のブログがこれ・クリック)
光明真言の梵語は左のようなものであるがこの大日如来に刻まれた梵語と一致する(オンからウンまで23文字ある)。時計短針の6時の位置に初めの文字がきてそれから時計回りに配置されている。
この大日如来の下にはこの大日如来を刻んだおりの祈願が記されている。下の写真である。
願いは「天下泰平・村中安全・五穀成就・家運長久」となっている。実はこれが作られた宝永年間は歴史な大災害が日本を襲っている。「東海・南海トラフ大地震」と「富士山の大噴火」である。二つの災害がほとんど間髪を入れず起った。2011年の東日本大震災の規模を越えるマグニチュード9以上といわれる東海南海大地震がまず起こり、その揺れと津波で家屋人畜は甚大な被害を被った。とりわけ沿岸部は壊滅的状態となった。それからわずか49日後には富士山大噴火が起こり火山灰で関東は日が遮られ闇に近い状態となり、灰は何十センチも降り積もり農作物に大損害を与えた。
幸いこの村は大噴火の影響はほとんどなく、地震も津波の被害はなく揺れによる被害は大きくはなかった。しかし全国から聞こえてくる二つの大災害の被害伝聞はこの世の終わりを思わせるには十分なものがあった。そんな世相の中、刻まれた大日如来さまへの願いの「天下泰平・村中安全・五穀成就・家運長久」は切なるものがあった。
そして右の岩には下のような不動明王が刻まれている。不動明王も大日如来さまの別のお姿であるといわれている。
三つ目の岩(正面)には弘法大師様が刻まれている。下の写真である。
右手には金剛杵、左手はちょっとわかりにくいがおそらく念珠を持っている。掛け軸などでよく見る両目を開け決然としたお大師様像と違いこのお大師様は両眼を閉じていてその表情から瞑想(禅定)しているのがわかる。こちらにも梵字が刻まれているが丸い円の中にたった一字である。この梵字は最もよく知られた有名な一字で母音の「あ」の音。第一番の文字であるところからすべての始まりの音に擬せられ、転じては万物の根源、つまり宇宙そのものである大日如来の象徴とされている。
この円の中にある「あ」字の梵語一字、これに向かい観ずる、といわれる瞑想法が密教には古くからある。それは『阿字観』(あじかん)といわれている。本などによる説明によれば丸い円に「月」を観じ、そして梵字の「阿」字を観じる方法である。それによって大宇宙・自然の神羅万象つまり大日如来と本質的には一緒であることを体感するのである。下が今も行われている「阿字観」をやっているところである。手前の修行者は女性、向こうは外国人のようであるから、作法がわかれば一般人でもできる瞑想修行である。
上の写真の阿字観に使う掛け軸の丸い円中の「あ」字を見ていると、もしかしてこの三仏尊を彫った岩は昔、「阿字観」に使われたのではないかと考えた。もう一度この三仏尊の岩の並びを見てほしい。
昔はステンレスの祭壇はなかったので一方向にのみ開いている。この開いている場所(ステンレスの祭壇の場所)に座ると、お大師さまの浮彫の上の丸円の「あ」字が真正面に来る。もっと大胆に推測すれば横には大日如来岩と不動明王岩がある、これを胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅を象徴するものと見立てればどうだろうか、「阿字観」瞑想の場所としてこれほどふさわしいところはないだろう。ここで宇宙や自然と一体化し、即身成仏の境地に達することをめざして阿字観瞑想が行われたのではないだろうか。私が調べた本の中には、この場所で「阿字観」が行われたという記述はなかったが、この場所に行って三仏の岩の配置と弘法大師上の「あ」字の形を見ると、そうではなかったのかと強く思うのである。
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