2019年12月28日土曜日

山川町山崎の不動明王の摩崖仏

 昨日は旧山川町内の山崎にある不動明王の摩崖仏を参拝してきた。わが阿波には摩崖仏は少なく一般的に摩崖仏と言われているのは今日参拝したところと勝浦の星の岩屋の奥に彫られている二ヶ所だけといわれている。ウチラへんでは石仏はその辺の路傍や山道にたくさんあるが確かに摩崖仏は今日見るまこの辺では見たことがなかった。

 同じ石造とはいえ石仏と摩崖仏でははっきりした違いがある。石仏はたとえ大きくて重くても単体で独立しており、持ち運びもできる。しかし摩崖仏の方は大地そのものに根付いてそこから出ている岩に刻んだ石仏である。いわば地球と一体としているので切りはなさない限り分離はできない。大地と一体化した岩に彫られているといっても、その彫り方には程度がある。台座あるいは石仏の下部が大地の岩とつながっているだけでほとんど三次元的立体の石仏と、垂直の岩面に浮彫した石仏とがある(この浮彫も深彫りと浅彫りがある)。このなかで特に崖の石面に彫ったのを「摩崖仏」としている。

 大地そのものである岩に空間を穿ち、中に石仏(その岩を彫あげて仏の像を作る)石窟寺院はその伝統は古く、インドで仏像が出現したときとあまり変わらない時代にその起源が求められる。インド⇒西域⇒敦煌石窟⇒雲崗⇒龍門石窟と中国まで伝播し、お隣の韓国までは8世紀の仏国寺の石窟庵にみるように石窟様式は入ってきたが、なぜか日本ではあまり見かけず、石窟様式ではなく垂直の大地の岩面に浮彫する摩崖仏形式がほとんどである。しかしそのルーツや系譜を考えると、この「大地そのものの岩に彫るという」石仏形式は日本の摩崖仏もインドで発生した石窟仏と同じ流れにあるといえる。

 その摩崖仏も九州にはたくさんあるが先に言ったようにここ阿波では稀である。それだけに昨日始めてみるウチの地域にある摩崖仏への期待は高まった。ワイは若い時からよく九州へ旅行をし、国東半島へはよく言ったので摩崖仏は何度も見ている。ここの地の摩崖仏は規模(かなりな高さの垂直のがけに彫られている)が大きい。直近の見た記憶を過去のブログを基に探ると5年前の春に豊後高田の熊野摩崖仏を見ていた。ブログを繰ってみたところ下のような写真をその時アップしていた。
 九州・豊後高田の熊野摩崖仏

 私のブログの説明では制作時代は平安後期、左の摩崖仏が不動明王で右が大日如来となっている。よく見ると左の摩崖仏はかわいい顔だがいわゆる「忿怒相」でよく見ると剣を持っているのでなるほどお不動さんだ。右はよく見えないが如来形のようだ。手の印契がどのようかはちょっとわからない(大日さまは独特の手印をしている)。この摩崖仏はかなりの高さがあった。
 さて、そこでウチんくの摩崖仏さんである。隆盛を極めた国東の摩崖仏とは違い、ほとんど流行らなかったこの阿波の摩崖仏である。あるにしても、おそらく規模はチンマイやろなぁ~、製作年代も(国東の摩崖仏なんかをみて感化されてできたかもしぃひんし)ずっと新しやろなぁ~、と推測し、行く前に少し郷土の本なんかを開いて調べると、やっぱし規模は小さいし、製作年代も江戸時代中期の宝永(1707年頃)で国東と比べると600年びゃぁも新しい。それではこの山川町山崎の摩崖仏を見てみよう。

 確かに規模は小さい。しかし囲むように大地から生えた岩の内面に彫られている。不動明王の浮彫は小さな崖になっている。

 三面の岩に大日如来、不動明王、弘法大師と浮彫されている。
 大日如来

 不動明王

 弘法大師

 不動明王の彫られた岩面はちょっとした崖になっている。崖の上からのぞく、当然お不動さんは真下なので見えず、対面の大日様が見える。

 なるほど、確かに規模は小さく国東の摩崖仏とは比較にならないが、小さいながらも崖(お不動さんが彫られている)と対する大地から突き出た岩に(大日様)彫られているので摩崖仏といって間違いない。

 国東の摩崖仏と同じようにこちらも大日如来と不動明王が並んで彫られている。あんまし宗教には詳しくないオイラでもこれは「真言密教」や「山岳修験道」の信仰の元に作られたのだろうなぁとわかる。国東の摩崖仏と違いこちらには二尊の他に「お大師さん」が加わっているのはここ四国で大師信仰が盛んな影響だろうか。

 この摩崖仏の50mほどの坂下・石段下に聖天寺本堂がある。住持は常駐しておらず、法会、縁日に来て法要を行うようである。下が本堂、最近建て替えたばかりのようだ、寺らしい外形はしていない(支持する有力な檀家信徒が少ないためか)ので一見普通の平屋民家のようであるがガラス戸越しに見ると祭壇法具が備わっている本堂である。

 寺の縁起の説明板などもありそれによると
 本尊、は観音菩薩、別院に歓喜天を祀る。歴史は古いが、寺の名称、宗派などは幾多の変遷を経たようである。文政の頃は修験道の寺院であった。戦後無住であったが、今は吉野金峯山修験本宗四国別院、源正山聖天寺となっている。ということは上の本堂は観音さんがお祀りしてある。別院の方はちょうど摩崖仏のある場所の横に、この本堂よりむしろずっと立派な「聖天堂」が建っている。下がその聖天堂。この裏らてに摩崖仏がある。寺名前といいまた建物の立派さといい、本尊の観音様より聖天さん(歓喜聖天)のほうが有名なようである。地元の人にも「お聖天さん」として知られていて、観音様が本尊じゃ、といっても「え~ぇっ、ほうじゃったんで、じぇんじぇんしらなんだわ」という人が多い。
 下が坂道石段を上ったところにある聖天堂である。この裏に摩崖仏がある。

 石段坂道を登ってこの聖天堂に来る途中、このような神仏が祀られている。脳天大神、白蛇大神、そして西国三十三ヶ寺の本尊である千手や如意輪観音など各種の仏、神さまが混然となってもうそこらいたるところに祀られている。この神仏の秩序は言葉や論理で説明できるものではないな、と思うほど雑然である。一見、もう思い付きでボンボン、勝手気ままに仏や神様方をあっちこっちにおいて祀っていたとしか思えない。しかし、考えるとこの聖地は密教、修験の信仰の宗教世界である。密教の「曼荼羅」を見るとものすごい数の仏、天、神々がいて目を回すほどである。なるほど!曼荼羅を思う時、この神仏の状況、視覚的に納得するわ!

 ところで上に写真にある脳天大神、なじみのない神様だが、なんか最近聞き覚えがある。それもそのはずついこのあいだ参拝した不動霊場の一つ石井の童学寺のお不動さんが「脳天不動」といった(童学寺不動ブログここクリック)。ん?かたや不動明王、かたや脳天大神、なんか関係あるのかしらん?そこでこの「脳天大神」を調べると、こちらは大和・金峯山の神様(もちろん修験道だから本地は仏さまであったりする)である。聖(ひじり)がある金峯山系の山にいた脳天を割られた蛇を年ごろに供養したところ、この蛇が脳を守護する神となることを夢で霊感したところから、祀られたようだ。大神とあって不動明王との関係は見つからなかった。しかし先も言ったように本地垂迹の説に立つ修験道である。脳天大神の本地が不動明王さらには大日如来に収れんされても不思議ではない。

 石井童学寺の「脳天不動」はネット検索をかけるとここ以外には例がないようだ。う~~~ん?どうだろ?関係あるのか?実はそれについて考える手掛かりはある。幕末の頃、この聖天寺の阿闍梨(住職)が石井の童学寺に転職していることが文書で確認された。このことが脳天大神と不動明王が結び付くきっかけとなったことが考えないだろうか。不動明王の尊格形は観音様と違って一つである。ただ効能によって波切不動とか身代わり不動、とげぬき不動などの名前で呼ばれる。だから脳天不動は脳の病気に効能があるからこう呼ばれるのである。そう考えると、金峯山系の神様である脳天大神の効能が同じ修験系で大切にされる不動明王の効能の一つとして結び付くのは不思議ではない。脳天大神を祀っていた聖天寺の住職が童学寺に移った影響で不動明王の効能にこれが加えられ、何らかの霊験も加わりそのような不動の名前になったとは考えられないだろうか。

摩崖仏動画

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