人は自惚れでなく「万物の霊長」として地球上のあらゆる動物の頂点に立っていると自覚しており、事実、地球上の科学的知見に立脚する限りその通りである。
しかし、人はまた人間存在を越えた高次元な、科学的知見では知られぬ「あるもの」の実在を信じ、欣求(喜び願うこと)することも事実である。
わたしも2つの相反するこのアンビバレントな認識を同時にもっている。
この「あるもの」とは具体的には
霊的存在・神・死者(霊界人)・宇宙人・未来人などがあげられると思うのだが、他にもあるかもしれない。
この「あるもの」は、私の考えではUnidentified Flying Objectと呼ぶのが近いような気がする。無理に日本語に訳せば「未確認飛行物体」、UFOとなるのだろうが、なんかわたしのイメージとニュアンスが違う。
Objectを日本語では「物体」としか訳せないことによるのだが、Objectはsubjectに対義する語である。subjectは「絶対者・客観・神」に対した時の「主体・自我・主観」の意味がある。
ということはObjectは「絶対者・客観・神」の意味を持つ。Objectの頭がsubjectに対し大文字であるのも絶対者・神を指し示すからである。
もちろんObjectは多義語であり「物体」という意味に使われる場合が一番多いが、日本語の「物体」と訳してしまえば、「絶対者・客観・神」のニュアンスは全くなくなる。
だから先ほどの、高次元な、科学的知見では知られぬ「あるもの」、は「未確認飛行物体」、UFOというより英語でそのままUnidentified Flying Objectと称するのがよい。
それからUFOというのも安っぽくてよくありません。やまさんはUFOときくとピンクレディーの「ユゥッ~ホー!」といいながらの振り付けを思い出すか、焼きそばを思い出します。
さて、Unidentified Flying Objectですが、アンビバレントなこころを持ち、かつ信じる人は、このありがたい「あるもの」をいつまでもUnidentified Flying Objectとして置いておくのがいいと思ったのではないでしょうか。
少なくとも私はそうです。ありがたいものと信じるがゆえに、そうそう「安易」に「認識」などされてたまるかという気持ち。subjectという下位者の「ヒト」であるがゆえに上位者のObjectを人知で知れるものか!という気持ちがあります。
平安末の「今様」はこれを歌に託し、このように教え、諭します。
仏は常に在せども 現ならぬぞあわれなる 人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見えたまう
(拙訳)
仏様は確かにいらっしゃいますよ、でもね、現実には目にみえず、触れることもできぬのがいっそうしみじみと心にしみるものなのです。人静かな明け方の夢とうつつの境においでになって、見えるものなのですよ。
次回はこのありがたい「あるもの」がはっきりとカタチをとって柿の木の上に現れ、見物人が押し寄せ大騒ぎした話をしたいと思います。正体は何だったんでしょうか。
4 件のコメント:
UFOといえばやはり、ピンクレディーと焼きそばですよね。
Object の意味で、絶対者とか神というのは辞書にのていませんので、やまさん独特の解釈ですね。辞書でsub は下とか副という意味なのに、subject になると主とか本人という意味になるのも理解できません。Object は対象・客観・客体ですから、それに対するsubject が本人・主観・主体になるのはわかります。インドのヴェーダ学では、主体はリシ、客体はチャンダス、そして認識のプロセスをデヴァタ(神)といいます。神とは認識の主体でも客体でもなく、見方のことだという事でしょうか?私はそのように理解しています。現実は見方によって変わりますから・・・。神業とはそういうことだと思います。
そうですね。ob-subの対義的な関係は、私独自の解釈がかなり入っていると思います。
私のイメージ的解釈としては、
「信仰という空間にたった一人いるsub-主体そして、向き合っているob-客体という構図です。」
このようなob-subが、客-主になるのは「言語」からもわかるようにヨーロッパの哲学のものですね。
哲学史ではさらりと説明され、他の流れにすぐうつりますが、この理解は基本だけに重要ですね。
とはいえ、このob-subが、客-主になるのは、しんさまと同じく実は私も混乱し、理解しがたいところがあります。おなじ東洋人だから欧州の伝統的な哲学「用語」は身に沿わないんですかね。
舶来ものをあれこれいじるのはよくないですかね。
私の場合ob-subについて自分なりに考えた時、ob-subが、客-主になるのは逆ではないのか、という混乱があり、何とか理解しようとしました。
実はヨーロッパ哲学の古い源流の「スコラ哲学」なんかでは、今日の我々が用いる「主観」の意味でobの語源である「objectum」(ラテン語)が使われているのを発見し、このob-subについても歴史的な意味の変遷があったのだと気づきました。
別に逃げ口上ではありませんが、私のobはあくまで「あるもの」を指すものと思ってください。
subについての追伸
先に述べた「信仰空間」に対で向かい合っているのをイメージすれば、「subject」というのは臣民(仕える者、従属する者)という意味がありますから、対ob-は、「主・マイロード」となります。それに一対一で唯一従属しているという感じでしょうか。
この意味で、我々東洋人には受け入れがたいですが、何かと
「お、マイ、ガット」
なんどと常にいう一神教のクリスチャンにはob-subが理解しやすいのかもしれませんね。
sub**** っていう単語たちは、意味が主だったり、従だったり、副だったり、仮だったりして、ややこしいです。
それより、スコラ哲学いいですね。響きもいいのですが、私の興味のありそうな分野です。たしか雑誌のタイトルにあったように思いますが、学問のスタイルなんですね。はまりそうです。
コメントを投稿