2024年11月29日金曜日

木へんに風(ふう)でカエデじゃわな

  温い日が続いていたがようやく晩秋らしくなってきた。今日は寒い風が吹き、木枯しかとも思われた(実際は気象台が認定するので確かなことは言えないが)、そして夕方は時雨になった。

 この時期、ひときわ紅葉が美しいのがタイワンフウと呼ばれる落葉喬木である。今日、昼頃小松島をフラフラ歩いていたが、そのタイワンフウの紅葉に目を奪われた。


 名前からすると台湾原産と思われる。しかし私の認識では温帯北部や暖帯でも標高の高い山が紅葉が素晴らしいところである。当然、紅葉する樹種も多い。しかし台湾は(確かに高地もあるが)全島亜熱帯に属し、秋にこんな美しく紅葉する木が亜熱帯原産とは驚きである。

 タイワンフウのタイワンは当然台湾の地名だが、フウはなんじゃろ、これ漢字で書くとよくわかる、「台湾楓」とかいてタイワンフウ、なるほど木へんに風じゃわな、これ一字でカエデとも読む。だからカエデの仲間かなとおもったが、調べるとカエデの仲間ではなくフウ科フウ属に分類される、なにやら警視庁の風俗取り締まり課にありそうな名前じゃ。

 葉っぱはカエデの葉をうんと大きくした形でそんなところから「楓」(カエデ・フウ)と名付けたのかもしれない。

 その紅葉の木を見た後、港の方へ行った。港では海上保安庁の職員が船の周りで訓練をしていた。遠くの白い灯台のあたりに不完全な虹がかかっている。時雨の雲で虹ができているようだ。


2024年11月27日水曜日

強風豪雨

  師走が近づいているのに昨日の強風豪雨、梅雨の末期のころならありえるが、晩秋から初冬に近いこの時期である。季節感を狂わす天気となった。


 傘をさしているが、駅からアミコビルまで歩いただけで、足元がビショコになった。靴下も濡れたため靴の中でむれて気色が悪い。靴下も脱ぎたいし、足も拭きたい。それに妙な天気のせいか、気分もよくないので、昼前に早々に家に帰った。

 大きな原因は思い当たらないが、こまごましたことで精神的に落ち込んでいるのがわかる。外は大雨、ひどい天気のせいもあろう。昼過ぎだが睡眠をとれば気分が変わるかもしれないと、安定剤を飲み、布団をひっかぶると、いつの間にか寝てしまった。途中、ションベンに起きたが、また寝て睡眠を継続した、起きると、もう外は真っ暗、午後6時近い、雨はやんだようだ。

 なんと昼寝に四時間!こりゃぁ、夜寝れんわ、と思いつつ、8時前に銭湯に行く。人少ななので、湯船につかりながら、歌を唸る。

 ♪~ちゃんチャカチャンチャンチャンチャ、チャンチャカチャンチャンチャンチャンチャ~、くぅぅらい浮世のこの裏町ぃぃおぉぉ~♪

 帰って炬燵で横になると、そのままコテッと寝てしまい、夜中目覚めて布団に入る。昼間、あれだけ足るびゃぁ寝たのに、朝起きたら6時過ぎ、昼寝も入れると11時間も寝たことになる。寝すぎじゃぁ。おかげでだいぶよ~なった。

2024年11月25日月曜日

霜月末

  月末が迫ってきた。月末は支払いがいくつかある。ワイは銀行通帳からの引き落としでいつの間にやら支払いが済んでいるというのはなにやら落ち着かずスカンので、毎月の支払いは、現金持ってその都度、窓口支払い扱いにしている。

 とわいえ令和の世である。窓口支払いはどこもやっていなくて、振込用紙が毎月月末までに郵送されて、それを持って今はコンビニで払っている。それで今日、今月分の電気賃と下水賃、それに12ヶ月分月賦にしてもらった固定資産税をはらった。

 12回ある月末だが、霜月の月末は特別侘しい気がする。秋から初冬に移り変わる時期で、身の寒さとともに、心もブルッと寒さを感じる。それに輪をかけるのが、陽の短さである。三時を過ぎたころから夕方の雰囲気となり、四時近くなると急激に光が力を失い、五時となればすぐそこに闇が迫る。歌でないが「♪~よるぅぅが冷たい、ここぉろぉぉが寒ぅぅぃ~♪」

 今日はちょうど五時に駅に降りた。空が光を失うのとは反対に駅前のイルミネェイションはキラキラした光を振りまいている。もうねぐらへ帰る鳥の声もしない。


 日の入りが一番早くなるのは冬至がある12月末ではなく、実は11月末である。ウチラへんでは午後4時53分である。

 ♪~よるぅぅが冷たい、ここぉろぉぉが寒ぅぅぃ~♪、のこのごろ、楽しみなのは夜「銭湯」へ出かけて熱い湯船につかり、また時間をかけて蒸気浴をし、体の隅々まであたため、ほぐすことである。そして常連の人とバカ話をして楽しむのである。しかし本日は銭湯も休み、まったく侘しい寒い夜となる。しゃぁない!ホットカペットにゴロンと横になり、借りてきたDVDでも見るしかない。

気分を はらすメント 

  めんどい世になったものだ。職場、いやそれ以外の普通の社会生活、例えば買い物、旅行、散歩でも、「それ」に遭うかもしれん。「それ」とはなんのこつかというと、いわゆる「ハラスメント」である。こっちにゃぁその気がのうても、ハラスメントだと認定される。いや、ただのあいさつの一種じゃ、または軽い冗談、社交の潤滑油に、っちゅうても許されない。こちらの意図は関係ないらしい。被害相手がハラスメントを受けたっちゅう不快感が大事である。

 特にワイらジジイやおっさんが気ぃ付けなあかんのは「セクハラ」(セクシャルハラスメント)である。体に触れるなんどはもってのほか、自然に接触しても、相手が、「いやぁ~いややわぁ~、ワザとのふりして、接触してきたわぁ」とおもわれたら、セクハラを言い逃れるのは難しくなる。

 言葉もよっぽど気いつけなんだらアカン。「おばはん」はダメ、「おばさん」も、相手が「うちはオバサンって言われるほど老けてない、まだ娘のつもりじゃ、こりゃぁ、このジジイ、うちのこと貶め嫉むつもりで、いいよんじゃ」とおもわれたら、これはハラスメント。では「おねぃさん」ではどうか、「このジジイ、おまいの姉なんぞではない、またおねいさんとよばれるほど親しくない、それなのにまるで小料理屋の女中はん呼ぶようにおねぃさんだと、これは小バカにしとるか、なんか下心があってそう呼んびょんじゃ」、でやはりハラスメント。ともかく「ウチ、いややわぁぁ~、スカン、タコ」とおもわれたらアカン、ハラスメントの可能性大。年齢、容姿、結婚、子の有無、何の職業(社会的地位を暗示する)に触れるのも、ブッブゥゥゥ~である。「触らぬ、いや物申さぬ神にタタリなし」っちゅうことわざを地でいかにゃな。

 ほな、どない呼ぶんぞい、ちゅうことやが一番無難なのは、「あのぉぉ」とか「もしもし」とか、人称を使わぬのがよろしいようである。話する場合でも話題に気をつけにゃな。

 他にもこのようなハラスメントがある


 最近かなり話題になったのが某県知事のパワハラである。数か月前やったかな、新聞やテレビが、そのことを非難しても、この知事、ドびつこく(知事職を)やめなかった。ワイも、そのことをちょろと聞いた時は、「けしからんなぁ、知事の権力をかさに着て、弱いヒラの職員にパワハラしたんやな」と思った。しかし、その後よ~に聞いてみると、部下は部下だが、ヒラの職員なんどではなく、(県民)局長っつう県庁のお偉いさんだった。

 なんや、お偉いさんどうしで、やったやられたのパワハラかい、ヒラの弱い職員ちゃぁうんかい。これ、パワハラちゅうより、権力争いっちゅうたほうが、すっきりするが、どうなんやろ。まぁ、お偉い同士でも、相対的に上司に当たる人がパワハラ行為ちゅうのはありえるが、そんなん、公衆の面前で熱入れて吠えまくらんでもええ、でるとこでるなり、話し合いでなり、当事者同士ですきにすりゃええ。パワハラで騒ぐなら、世の中のホンマに弱い下の者、非正規職員やパートの人に対してもっと敏感になってほしい。まぁ、知事と局長らのパワハラやったやられた言うのは、例えたら時代劇の、お代官さまと越後屋の軋轢みたいなもんとちゃぁうんかいな。「えちごやぁ~、おぬしも悪よのぉぉぉ~、いえいえお代官様ほどでは・・とてもとても」

 もう社会から、そして間もなく世の中からもリタイヤしつつあるワイからみるとパワハラを目にすることは少ないが、上記の「カスハラ」(お客が店の人に対して過度に怒る)はよく見る。激高の度合いが高い(怒声が響く)のはオバサンもいるがジイサンがおおい。店側に落ち度がある場合、店側が全否定するならまだしも、だいたいは客が不具合不都合を合理的に説明すれば、店側もわかってくれて、両者が納得できる解決になるはずだが、いったん怒りに火がつくと、店側の対応にかかわりなく自ら怒りをエスカレーションしている人がいる。極度の怒りの興奮は、非常識な店側への要求となってくる。こうなると完全にカスハラである。

 見ていて、思うのは、ワイくらいの歳になるとなると、偏屈になり、他意見を聞かない、独善的に陥り、他者の落ち度の許容範囲が狭くなる、また喜怒愛憎の「怒」と「愛着」がいびつに増大してくる。そしてその感情の突出を持て余す。いったん火が付くと一人で興奮する。これらはみなワイに当てはまる。つまりカスハラジジイになる要素満載である。人のふり見て我がふり直さにゃな。

2024年11月20日水曜日

また私に近い歳の有名人がなくなった

  火野正平さんが亡くなったというニュースを今日の午後聞いた。今年、それもわりと最近、BS・NHKの「にっぽん縦断 こころ旅」で元気に自転車を転がし全国各地を回り、視聴者から寄せられた思い出に基づく心の旅を続けられていたのに。だから逝去のニュースに、え、何で急に、と驚くとともに同世代としてとても残念でさびしい。

 今日は、正平さんを追悼の意味で、二年前わが故郷に「心の旅」で来てくださったときの私のブログを再掲いたします。火野正平さんのご冥福をお祈りいたします。

2022年、10月20日のブログより

 昨夜、何気にテレビを見ていると目に飛びこんだのが私が毎日使っている「鴨島駅」である。そこに「火野正平」さんがいる。驚いた!番組名を見ると「こころ旅」とある、これは読者の手紙を元にその手紙にある場所を訪ねる番組である。

 正平さんが手紙を読んでいるのを聞くと、主は70歳ちょい手前の女性、そして訪ねてほし場所は「県立川島高校」、半世紀以上前、ある親しい友人と楽しく会話しながら川島駅から坂を上って通学したこと、そしてその友は30代半ばで病で亡くなったことが記されていて、その半世紀以上前の女子高生の時友と共にあるいたその「坂」をぜひ正平さんに訪ねていってほしいとのことであった。これを聞いて二度びっくり、なぜなら、私がやはり半世紀以上前、同じ坂を毎日通ったのがこの川島高校だったからである。(このブログの右上のプロフィール欄にワイの高校時代の写真を貼ってあるが、この写真はその高校のクラスの集合写真の一部である)

 出発地はだから、わたしのおなじみの鴨島駅。下は鴨島駅ベンチに腰掛ける正平さん。正平さんも歳ぃいったな、なんかこの写真を見ると、まるでワイが鏡に向かっているようやわ。


 今朝、汽車に乗るとき鴨島駅の同じ場所を確認した。そう、この下図の場所が、今でも高校生が汽車の時間待ちをしているベンチで、正平さんはすわっていた。


 駅前から南の向かっての通りの一つにボロボロになったアーケード街がある、正平さんはそこを自転車でゆく。大昔、手紙の主やワイが半世紀以上前の高校生の時は、この通りも「銀座通り」と呼ばれ、いろいろな店がひしめき、買い物客でにぎわっていた、しかし今はずっと南の国道ぶちに賑わいの中心は移ってしまい、現在ではほとんどの店が閉まっていてシャッタ―街と化している。


 「いやぁ~、こんな撮影があったとは地元じゃが、知らなんだ、知っていたら何があってもそれを放っておいて見に行ったのに、残念。それにしても何時撮影に来たのだろう。この後、なぜか吉野川土手沿いを(上の写真から向かっているのとは方向が違う)走った時、その撮影時の手がかりがあった。曼殊沙華が真っ盛りなのである。今年は盛りが少し遅かったので9月下旬ころと思われる。下は曼殊沙華の咲く吉野川堤防上の道をゆく正平さん。(今日、鴨島駅の駅員さんに聞くとやはり9月下旬に撮影に来たそうだ)


 そして例の「坂」を、正平さんも川島高校生のように徒歩で上った。「あぁ、ワイもこの坂を上ったはるか昔の高校の時が思い出されるわ」


そして川島高校校門前につく、実はワイが高校の時(手紙の主もだが)は正門はこの場所とは違っていた。校舎ももちろん(現校舎もかなり古くなっているが)ワイの時とは違う、まだ木造だった。そして最後に、校舎(後方の鉄筋コンクリト)が見える坂の途中で立ち止まり、改めて読者の手紙を読む正平さん。


2024年11月19日火曜日

ガイド付き寺町散歩 

 一昨日(日曜日)、図書館主催の寺町歴史散歩に参加した(申込者は20人ほど)。寺町にある寺をガイドはんと一緒に歩いて、歴史的な遺跡、遺物(お寺が多いので歴史上の人物のお墓が多い)を見学し解説を聞くものである。下は散歩途上その解説の様子、赤のベストを着ているのが一緒に歩いてくれたガイドはん。


 ここらあたりはワイ一人で足るびゃぁ歩いているので、ほとんど新しく知ることはなかった。ブログにも何度も取り上げている。そのなかで知らなかったのを下に写真と共にアップしておく。

 上の寺の山門を入ったところにある踏み板は三畳ほどあるが一枚の大きな阿波の青石で作られている。


 前(一人で)寺町をフラフラ歩いた時は、こんな六地蔵はなかったが、今回新しく作られている。伝統的な六地蔵と違い、ずいぶん斬新である。一番端の空を飛ぶオッゾウはんなんどはまるで鉄腕アトムである。寺の境内には入れないので、裏と横から撮影した二枚の写真

 

 歴史好きのワイでもこれはしらなんだ!滝薬師境内にある供養の奉納石塔に刻まれているのが江戸期の徳島城下の「鳥屋新助」はんの名前、この人は城下で商売を営んでいたそうだが、なんと天保の改革ででてくる町奉行の「鳥居耀蔵・甲斐守」のおじいちゃんだとか(母方だろう)、へぇぇぇ~、である。下がその石塔


2024年11月18日月曜日

トラのはなし

五黄のトラ

 ワイの同級生の(十二支)の生まれは、おおかたは寅年となる。だいたい同級生の四分の三は寅年で、残りの四分の一はウサギ年となる(日本では4月生まれから一年間同学年となるので)、ワイは三月生まれなのでウサギ年だ。それがどうした?という話だが、どっちゃ生まれでも変わらんだろうと思うのだが、ワイが小ンまい時、祖父母から残念なように言われたのは、「おまぃが、もちっと早よぉ生まれとったら(前年12月までに)おじみそ(怖じミソ?か・ウチらの地方の方言で、怖がり)や、いじめられっ子にならなんだのになぁ、数か月早よぉ生まれてたら、ウサギで無ぅて、寅年も寅年!五黄の虎じゃったのになぁ、そしたらよかったのに」

 これは何度も聞いたので、その「五黄の虎」っちゅうんはえっぽどイイ生まれやったんやな。と思ったものである。まぁ、寅(虎)は百獣の王だからわかるが五黄とは?なんじゃろ、明治生まれの祖父母が育った時代は「九星気学」による天運が人に大きく作用すると考えられていた。九星とは「一白水星. 二黒土星. 三碧木星. 四緑木星. 五黄土星. 六白金星. 七赤金星. 八白土星. 九紫火星」である(各星が人の運命に作用するというのは西洋占星術にもある)。この五番目が「五黄」となる。それと「十二支」を組み合わせると9と12の最小公倍数の36の組み合わせができる。つまり寅年と五黄の組は「36の1つ」となる。1950年の次は1986年、その次は2022年であった。

 その五黄の寅生まれの、九星気学による天運によればその歳生まれは、非常に強い運勢を持つと言われているとのことである。それだから、九星気学による「運勢暦」を毎年買って、その吉兆をみて、家庭の行事や、今年の運勢はどうか、と参考にしている明治生まれの祖父母は、ワイが五黄の寅生まれでなく、四緑木星の卯(ウサギ)だったのが残念でならなかったのだろう。でもワイとしたら、五黄土星はともかく寅(虎)なんぞ動物として好きではない。ウサギのほうが良かった。もっともベトナムやベラルーシ(ウクライナの隣国)での「十二支」にはウサギはなく(虎はある)、ウサギの代わりに猫となっている。猫大好きのワイとしたら、猫年生まれがよかったが。

茶トラ

 そのワイの大好きな猫であるが、ねこでトラといえばとら猫だろう。一昨日、小松島のある寺の山門をくぐった時、子犬ほどの大きさの茶色のトラねこが土ベタに半分横になり体を大きく曲げて自分の股をなめていた。ワイが近づくと、動きがパタと止まったが、じっとそこを動かず、胡散臭げに顔をこちらに向けた。しかし逃げるでもない。早よぉ行けや、と言ってるみたいに睨んでいる。太々しい感じのする猫であった。

 祖母も猫好きだったせいかワイの子ども時代はずっと家に猫がいた。物心ついたころから高校生までに間に飼った猫は5匹くらいだろうか。いずれも種類は、三毛(三色のブチ)やタマ(白黒二色のブチ)であった。トラは飼っていなかった。というのも、トラは気が荒く、家にいつかないから(祖母が飼うのはおとなしいメス猫ばかりだ)と祖母は行っていた。トラ猫の性格にこのようなものがあるのか、と調べるとトラ猫が特に気が荒い性質はないようだが、茶トラは大方がオス猫で、そういったこともあって祖母は飼わなかったのかなぁと思っている。(全く茶トラのメスはいないわけではなく二割程度はいるそうだ)

ふうてんのトラ

 ふうてんのトラとは映画「男はつらいよ」の主人公である。シリーズ映画であった。ロードムービーであるが、「ふうてんの」といわれているように、アウトローな身で(一応、テキヤという根無し草のような商売をしているが)気ままに全国をフラフラ経めぐる。そして絶対成就しない恋も毎回のお約束事である。これはとんでもなく長く続いた。たしかシリーズ映画の長さではギネスに認定されたようだ。始まったのは1969(昭和44)年8月封切り、が第1作でその後次々作られ最後の48作目は1995(平成7)年12月封切り、であった。始まりは私が高校三年の夏、私が45歳になった年のお正月映画が最後であった(主演の渥美清さんの死で)

 私はこの映画の大ファンであった。20代の時、市内の封切館ではじめて見た時、「ああ、こんな生き方もあるんだ。出世や金持ちになるだけが人生じゃないんだ」と青臭い考えだが思ったものである。トラさんの生き方に全面的に賛成したわけではないが、もともと旅行好きで放浪癖のある私は、トラさんのように全国を放浪し経めぐる生活にはあこがれた。いつか自分も全国を巡ってフーテン暮らしができたらいいなぁと、できないながらも夢見た。

 そして39歳の年が終わる時、仕事が嫌になってやめ、車でだが全国放浪の旅に出た。最初の二年間はまったく故郷に帰らなかった。そのあと四年間は、半年は家にいてあと半年は全国放浪という生活が続いた。まさにトラさんのようなフーテン暮らしである。

 足の向くまま気の向くまま全国をフラフラするフーテン暮らしは、今思い出しても、うっとりするくらいすばらしかった。まだ40代前半で体力も気力も充実していて、知らぬどの土地へ行っても楽しく過ごせた。山や海岸、湖でぼんやり過ごしたり、知らぬ街の雑踏を歩くと、なぜかわくわくして気持ちがはしゃいだ。九州や東北、北海道には無料またはわずかな入湯料で入れる、露天や地域の温泉もある。出たり入ったりでその地でゆったり過ごした。また名所古跡を尋ね、歴史上の出来事を夢見て半日過ごしたこともある。

 ただ「トラさん」と違ったのは、彼はフーテン暮らしをしていても、テキヤで稼いでいた。その仕事の性格上、有名観光地神社仏閣で商売をするから全国を経めぐることもできたわけだ。それで金が稼げるから、フーテンのトラさんの仕事としてはこの上のものはない。だが、私はそんな稼ぎはできなかった。ただ銭をできるだけ使わないような放浪のフーテン暮らしである。だから蓄えた金も少しずつだが確実になくなっていく。5年もたてば金もほとんどなくなった。

 平成8年の8月、北海道を旅していた。テントで寝たり、車で寝たり、また北海道にはほとんど無料のライダーハウスもあり、放浪のフウテン暮らしにはそう金もかからなかったが食料、ガソリン代、フェリー代、などはいる。そろそろ持ち金もそこをついてきた。野宿が寒くなる9月ごろには家に帰って、生活費のためにいよいよなにか生業につかにゃあかんな、と考え始めていた。

 その8月の初めころ、網走駅でのことである。夕方、駅前のスーパで食料を仕入れ、車は駅の無料駐車場にとめ、駅の待合室のイスに座り、豆をかじりながらコーヒを飲んでいた。駅待合室には備え付けのテレビがあった。そのニュースから流れてきたのが、渥美清さんの死亡である。結局その年のお正月映画(前年12月23日公開)48作目が遺作となったのである。「もうワイのフーテン暮らしも終えなけりゃとおもったころ、フーテンのトラさんも死んでしまった。なんか、これは因縁というか、フーテンのトラさんとの同調とでもいうか、そんなものを感じるなぁ」とニュースを見終わったあとそのような感慨にふけった。

 フーテンのトラさんとの因縁そして同調していると思うためか、今もこの映画1~48作は何度でもみる。なにせ私が高校3年から45歳になるまで作られた映画である。その各々を見るたび、その年の自分のしていたことを、思い出し、懐かしさに浸る。この映画が喚起するその年の思い出は楽しさもあるがほろ苦さもある。しかし心地よいものである。

あめトラ

 マスコミのセンセーションな見出しを時の推移順に挙げてみる
 
もしトラ⇒ひょっトラ⇒ほぼトラ⇒確トラ⇒またトラ


 断定はできないがこれを見ると、日本のマスコミは、アメリカ大統領に再びトランプさんが返り咲く可能性を軽視していたんじゃないかと思えてくる。この見出しの流れを見ると、マスコミは嫌な奴だからなって欲しくないと内心思っていたんじゃないか、でも、もしなったらどないしょうに、そして選挙が進んでくると、ひょっとすると、から、ほぼになり、ついに確定をへて、ついにまたトラに。


 前もブログに書いたが、私はアメリカ共和党贔屓ではあるが、必ずしもトランプはん贔屓ではない。ただ、彼は喜怒哀楽がわかりやすい、大統領として見るのでなく、ただのアメリカのおっさんとしてみれば(横からみているだけなら)、かなり面白っしょいおっさんである。
 

 私が大笑いしたエピソードの1つを紹介しよう。上の写真はトランプはんと同じ共和党のマルコ・ルビオ上院議員である。かれとは8年前共和党の大統領指名選挙を争ったが、今回、トランプはんは彼、マルコ・ルビオ氏を「国務長官」に指名した。かなり仲がよさそうであるが、8年前、共和党指名候補選挙を争ったときは厳しい論戦があった。その論戦がまた面白い。

 口が悪く、金持ちのわりに下品なトランプさん、マルコ・ルビオさんが背が小さいので「お前はちびマルコ」だと挑発した。もっとも英語ではLittle Marcoであるが、日本人の私はその日本語訳のちびまる子で笑いのツボにはまってしまった。
 上の写真でみると確かにトランプはんより低いが揶揄するほど低くはない。逆の高身長に関しては、テレビ映えする高身長の人物が大統領選に勝つとの俗説もある。身長188センチと背が高いトランプ氏からの皮肉は、ルビオ氏のプライドを刺激したようだ。
 「政策の話をしよう」とかわしていたルビオ氏だったが、挑発に乗って「トランプ氏の手は小さい」と身体的特徴をあげつらった。同じ土俵に上がったルビオ氏を、トランプ氏は見逃さなかった。「マルコは『手が小さいやつはあそこも小さいに違いない』と言うが、私には何の問題もない(つまりチ〇ポは大きい)」とやり返した。手以外そんなことは言っていないマルコ・ルビオはんだったが、シモの話題に引きずり込まれてしまって、トランプはんの威勢に完全に押されたのである。で、ちびマルコはんは敗退した。

 このマルコ・ルビオさん、共和党員らしいいい政治家である(と私は思っている)。そんな揶揄して敗退させた相手ではあるが、ちゃんと実力を認め、トランプはんは国務長官に指名した。もしかして期待できる大統領になるかもしれん。⇒ええトラになったらいいな。