2022年7月1日金曜日

善入寺島ひまわり畑

  午後2時頃35℃を超える猛暑の中、自転車で善入寺島ひまわり畑を見てきた。

 善入寺島は吉野川中流域にある「川中島」である。下の鳥瞰図で川中島になっているのが善入寺島である。


 川島の方から潜水橋をわたって行く


 渡ったところを左に行けばひまわり畑が見えてくる。


 花はみんな同じ方向をむいている。しかし太陽の方向とは逆だった。




 反対から見ると花が裏をむいているのがわかる。その裏の方に日が射している。


 動画

2022年6月30日木曜日

明日は何の日 その1


 明日は7月1日モラエス忌である。昭和4年になくなって今年が94回忌である。おそらく明日は寺町の潮音寺で仏式の法要が営まれるのではないか。モラエスさんが仏教に帰依したか(言い換えれば仏教徒・ある宗派の信者)どうかはわからない。でも自分が死んで仏式による葬式を営む人がいればそれは拒まないと行っている、また遺骨はオヨネ、コハルのの眠るそばに仏式の墓を建ててほしいと行っている(だから潮音寺に彼の墓はある)、そして位牌は顔見知りでモラエスのすんでいる長屋に托鉢に来ていた尼が住職の北山の東海寺にある。

 仏教はキリスト教と違い洗礼や入信式のような明確な入信儀礼がないのが仏教の諸派の特徴である。我々だって檀那寺はあり、葬式、法事などは仏式で行っているがきちっとした儀式をして入信したという自覚はないであろう、なんとはなしに先祖から同じ宗派に属しているから信徒と言えば否定するものではないという消極的な仏教信徒である。モラエスさんの自身の葬儀に対する態度は普通の日本人のそれに似ている。

 モラエスさんについて仏教に帰依していたかどうかはおくとしても仏教について造詣は日本人以上に深かった。彼のかいた日記や随想などを読むと仏教の教えの大きな柱の一つである「無常観」についての彼の考えはおおいに私の心を揺さぶる。勢見山を散歩中ふとみた山懐にいだかれた赤煉瓦の煙突、それは火葬場だがそれを見た時のかれの感想、これについては以前ブログに書いた。残念ながらそのブログ(ヤフーブログ)だったが突然打ち切りになり消え去ることになったが、なんとか本文と動画のみはこちらのブロガーに移し替えた(そのブログがこれ、ここクリック、写真は見られない)

 そして彼の長屋の玄関に飾っている額縁のある日本画、それには薄い水彩で草花と蛍が描かれている、モラエスは単純にはそれを見ない、その絵には一見気づかないようだが水面に一匹の蛍が落ちて小さな波紋を立てている。全体的には日本の情緒あふれる美しい日本の草花と虫の絵だがモラエスは見逃しはしない。その一匹の蛍にしてみれば水面に落ちてもがいているのはまさに断末魔の苦しみである。しかしそんな小さな虫の生死など関係ないように絵全体は静寂さに満ちあふれている。水に落ちた蛍の小さな波紋は蛍の小さな死とともにさらに深し静寂の中に溶け込んでいく、何事もなかったように。この非情感!無常観!はどうだ。日本人でも気づかないような仏教的な視点を彼はもっているなと気づく。

 最晩年の彼は、付き合いもほとんどなく、困難な歩行もものとせず日課となった潮音寺のオヨネ、コハルの墓参りをする。打ち解けるもののいない異国で孤独で死を迎えつつある彼を思うと心が痛む。独居老人である私も人ごとではなくまさに明日の自分だと感じる。文筆活動もほとんどなくなり時折ポルトガルにいる妹、知人に絵はがきを出すだけとなる。

 精神だけで死を迎えられたらどれだけいいだろう。どんなに苦悩しても精神だけですむなら少なくとも醜さはなくなるだろう。しかし精神だけでは死は迎えられない、老衰し朽ち、なかば腐りかけた肉体がそれに伴う。モラエスも肉体は異臭を放ち、思うようにならぬ体では排泄の処理もままならず、自ら、ようようのことで大便はなんとか器に受けて、それを窓からそのまま庭に捨てた。死んだときその大便が窓下にうずたかく堆積していたそうだ。肉体の不如意はますます気持ちをこじらせ偏屈になっていった。コハルの母親に相当な金銭を払って家政婦のような仕事をしてもらっていたが死ぬ数日前彼女にも悪感情を強くもったのか怒りとともに来訪の拒否を伝える。

 いったい不自由で自活のできない独居老人がどうするつもりだろう、家政婦代わりのコハルの母も近所の人も思った、しかしその心配はなかった。日を置かず彼はなくなる、発見されたときは変死扱いされてもいいような悲惨な状態だった、7月1日朝、土間で半分逆さまになったような姿で発見される、もちろん警察による検死を行ったがそれによるとキツイ酒を飲んだ後寝椅子に横たわったが夜中、喉の渇きをおぼえて台所の土間に甕の水を飲みに行こうとした(当時水道はない、水は購入して台所の甕に蓄えてある)、しかし不自由な体でなおかつ酔っている、居間からの段差が致命となった、転げ落ち半ば逆さまの形で頭を打ち付けそのままの格好で事切れたのである。

 私もモラエスさんの歳に近づいている同じ独居老人である。孤独死は覚悟せにゃならぬとおもいつつ、先にも行ったように人は精神のみの死はむかえられない、肉体的な、そしておそらくは見るも嗅ぐもおぞましい死を迎える可能性がある(夏、死後何週間目で発見ということを想像してみてほしい)。

 最近、独居老人で孤独死を迎えた文豪の日記随筆をよく読んでいる。なにか少しでも私の心が軽くなるようなことのヒントがありはすまいかと読んでいる。モラエスさんの随想、そして永井荷風の日記「断腸亭日乗」である。しかし、頭のいい文豪であっても老人の孤独感、偏屈、狭量さ、若いときなら何でもないことの耐えがたさ、怒り、などは私と変わるところがない、これは安心するとこなのか、それともこんな人でもそうなのかと絶望すべきところなのだろうか。ちなみに永井荷風も独居で何かしようとした最中なのだろうか、ズボンが半分脱げ、多量の血を吐いた状態で事切れているのが翌日発見された。

 翌日のモラエスさんの葬儀の日は大雨であったそうである。糞尿などによごれ触るのもはばかられるような遺体は近くの勢見山の金比羅さんにいたオヘンド・乞食に金銭を与えて湯灌したそうだ。そして葬列は涙雨の中、二軒屋の涙町をとおり、モラエスさんが生前に見て感想を書き記したあの火葬場で荼毘に付された。

 異様な外人の独居老人をみる当時の徳島の人はおおむね冷たかったのではないかと思える、当時としてはやむを得なかったかもしれない。しかし年々彼の評価は上がり、作品も読まれ、モラエスのことを知る人が増えてきている。94回忌どころか100,200回忌でも祈念されつづけるだろう。合掌

モラエスさんの長屋のあったところ、日課となっていた潮音寺に続く道(今はモラエス通りといわれている)


 そして日々の墓参りの終着、眉山に向かって入った右奥に潮音寺がある(今は小さなお寺である)


 潮音寺の墓地にあるモラエス、オヨネ、コハルの墓

2022年6月29日水曜日

G7対オロシャ&チャイナ


 G7サミットが昨日閉幕した。数年前までG7なんどは古い先進国クラブの遺物、これからは新興国などが加わった新しいサミットの枠組みであるG20やBRICS(ブラジル・ロシア・インド・チャイナ・南アフリカ)などが重要になる。といわれていたが、数年前からのチャイナ発のコロナウィルスのパンデミックへの対処、そして今年に入ってのロシアのウクライナ侵攻などで、少なくとも民主主義を標榜するものにとって、このような世界的な大問題を話し合い対処する場としてのG7の役割はまだまだ期待できるものとなっている。

 それにしても「G7対オロシャ&チャイナ」の対立は次第に明確になって行きつつあるようにみえる。60年前に東西冷戦の最大の危機、キューバ問題があり三度目の世界大戦かとみんな震えた。国家群がこのように二つに割れて対立して第一次、第二次世界大戦が起こったのはご承知の通り、対立しないのが望ましいが世界を見るとお山の大将の主権国家ばかりが目立ちどうしても対立はある、しかしそこは対立が熱い戦争にならぬよう調整努力せにゃならぬ。

 G7の構成国である我々からみると、自由な選挙があり民意が反映する議会を持ち、政府の構成もそれによって決まる、そして基本的な人権、言論表現の自由をもつのは当たり前であるとおもわれるが、それをないがしろにしたり、全く無視したりする国が大国として存在し、大きな影響(悪影響)を世界に及ぼしているのも事実である。大国も大国、それが核兵器をもっていて国連で拒否権を持つのである、言わずとしれたロシア、中国である。

 なんで自由・民主・人権のような基本的なものをこの二国は国民に認められないのだろう?一党独裁、支配特権の維持、広大な国を無理に一つにまとめるため、などがその理由じゃないかと言われている。G7諸国もそれらのことはわかっているつもりである。ただ漸進的によりよい方向に進めば、と期待されていた。その実、G7諸国でも日本、ドイツ、イタリアなどは第二次世界大戦で敗退するまでは結構強権的に振る舞っていたが現在は自由・民主・人権が尊重される国になっている。ロシア、中国もやがて改善してくれればと気長に待つつもりでいた。2000年代初めはロシアもG7に加わり一時は「G8」の一国であった。ところが逆に進み出した。クリミア、コーカサス、シリアへ侵攻はするわ、国内ではプーチンはますます強権的になってきている。中国も辛抱強く待っていたら改革開放の80年代、自由、人権、民主が根付き強まるかと思やぁ、天安門以降は見ての通り、習近平はんが現れて自由、人権、民主はますます弱まり、国家の強権的支配が強まっているように思われる。

 少しづつ漸進的に改善するだろう、ちゅう期待は当分この二国に関しては持てそうにない。

 ロシア、中国はなにかもう歴史をつらぬいて、そのように強権的になる文化、風土、国民の精神というもの、「国柄」「国体」と呼べるかもしれないが、そんなものが数百年来流れ続けているのだろうか。

 ここでG7、ロシア、中国の歴史的な政治風土を見てみることにする。あんまし遡りすぎてもなんやから、そうやなぁ、あ、この間、ブログで日本とロシアの出会いを書いた、大黒屋光太夫はんや、その人が日本に帰ってきた時は西暦1792(寛政4年)だが、その時点のG7、ロシア、中国を見てみよう。

 まずG7(アメリカ、イギリス、カナダ、ドイツ、フランス、イタリア、日本)を見る(カナダはアメリカと同じと見なしてよい)の1792

 アメリカ、フランスは独立戦争、革命後の「共和政体」である。憲法もあり、形の上(憲法上)ではほぼ理想的な民主・自由・人権が書かれていた。

 イギリス、国王が統治はしているが議会(下院)が強く、制限選挙ではあるがブルジョアが力を持ち、政体は責任内閣制、裁判制度、地方自治もしっかりと制度化されており、18世紀末の世界においてはかなり自由で民主的な国であった。

 さて問題はドイツ、イタリア、日本である。この三国は共通するところがある、それは1860~70年にかけていずれも国家統一がなり、その後憲法が制定され国がスタートしたと言うことである。そういうと、この三国ずいぶん自由、民主が後れたんやぁなぁと思われるかもしれないが、それにはかなり疑問符をつけて、まずその三国の1792年を見てみよう。

 これまた三国には共通するところがある。それは全く中央集権的な政体ではないと言うことである。悪く言うと「封建的」、よく言えば「地方分権的」、つまりドイツ、イタリア、日本は細切れの「小国」の集合体である。日本はその「小国」を「藩」とよぶが幕府が「藩」の内政に口を挟むことは原則としてなく、内政は藩の自由裁量である。ドイツ、イタリアの小国家群(都市も含む)も同じようなものである。それが概念の上で「ドイツ国」「イタリア国」「日本」と大まかにくくられ一つの国として認識されていた。どこにも中央集権的で強権的な政府はなかった。おまけにその上にドイツの場合神聖ローマ皇帝、イタリアの場合ローマ法王、日本の場合は天皇が小国連合体である国の上位に無力ながら位置していたので、ますます集中的で一元的な統治などからはほど遠かった。これらの国では独裁や強権は嫌われ、多数の集合体の合議、一致が重んじられた。これらは後のことを思えば、自由、民主が育つ栄養度の高い土壌になるものではなかろうか。

 1792年のロシア、中国

 ロシアはエカテリーナ女帝の治世、表面上は啓蒙君主ではあるがその実、専制君主、ロシア正教会の首長でもあるツァーリは神聖なものとされ、皇帝一人が強権的に統治し、中央の力は強く、皇帝の命令は絶対であった。本来はオスマントルコ帝国領土であるクリミアを戦争を仕掛けぶんどったのもこの女帝であった。農奴制があったため、ドイツやイタリアに比べても自由、民主の広まりは遅く、憲政、議会ができるのも20世紀に入ってである。

 中国は中華皇帝のもっとも華やかなりし時代、乾隆帝の御代、皇帝の権力は強く、地方長官もすべて皇帝からの任命を受ける、絵に描いたような一君独裁、専制政治、憲法ができるのは20世紀になってから、その後皇帝が倒れ共和国と称するものができても選挙をとおした議会が今日に至るまでないのはご承知の通り。

 ドイツ、イタリア、日本はアメリカ、イギリス、フランスと比べると民主・自由・人権の実質的な施行・施策は少々おくれた。しかし世界には多くの国がある中でこれらの国が続けたのは歴史的な国柄というのが大きく影響しているのではないかと私は思っている。小国分立の地方分権だが大枠ではまとまっている。そして世俗権力の上にさらに上位の権威、ドイツの場合神聖ローマ皇帝、イタリアは法王、日本は天皇があるのも偶然の一致ではないだろう。権威も権力も一身に集中した独裁者は生まれにくい。

 そう言うと、いや日本は征夷大将軍の専制だったという人がいるが、テレビの水戸黄門などの時代劇じゃあるまいしそんなことはない。1792年は寛政年間、老中筆頭は有名な松平定信、将軍は家斉、その家斉が恣意的に政治を行うことなどない。老中らが構成する閣老会議を定信が主催して重大な決定をしていた。将軍はそれを認め公布する、この幕府の制度、ほとんど村の寄り合い制度のようなもの(実際幕府の制度は「庄屋仕立て」といわれる)、衆で議し、村の年寄りたちが主宰して決める、専制、独裁など生まれようがなかった。この年寄りたちが幕府では老中と呼ばれ、藩では家老とか中老とか呼ばれる。

 ドイツ、イタリア、日本はいずれも多くの封建諸侯が分立し、権威も幾つかある分権的な時代を経てきている、これらの国々がアメリカ、イギリス、フランスについで民主・自由・人権が根付いてきたというのはそのことが大きいのではないかと思っている。

 かたやロシア、中国は数百年来の皇帝専制の国柄である、伝統といってもいいそれをスパッと切ってG7諸国のようになるのは難しいのだろうな。

2022年6月28日火曜日

6月28日ウチらの梅雨があけた

夏空と眉山


  よその地方より若干遅かった四国地方も本日、梅雨明け宣言が出た。

 「えらい、はやぃなぁ」

 ちゅう感想を持つ人が多いであろうが、報道によるとこれは記録破りの「梅雨明け」のはやさ、期間の短さだそうである。6月中の梅雨明けは史上初めて、期間がたった15日というのもこれまた史上もっとも短いそうだ。最近そういや気象記録で史上初だの100年に一回の「なんちゃら異常気象」というのが多い気がする。世に気象専門家・地球物理学者などいう人がいくらいるか知らんが、ほとんどの人は素人と言っていいだろうが、それらの人ほぼすべてが「こりゃ、最近の異常気象の多発は、近年加速度的に早まった人為による二酸化炭素の増加、地球温暖化のせいじゃ」とのたまう人がいるが、原因と結果を取り間違ぅちょりゃせんかとおもう。何らかの結果として「異常気象」が起こるのは当たり前じゃが、その原因を人為による炭酸ガスの増加とすぐ結び付けるのもどうかと思う。

 地学の知見によれば、過去地球は氷河期もあり温暖期もあった、温暖期ちゅうても石炭紀なんぞは日本の夏の蒸し暑さも涼ぅしいような、まるでサウナに入ったような気候で炭酸ガスもうんと多かった。また寒さでいえば全地球氷結っちゅう時代もあったのである。異常気象!異常気象!というが今のように人類にとって熱帯から寒帯までなんとか生存できるような気候が全地球的にある期間は46億年の地史からすりゃぁごく珍しく、たまたまであり、それも須臾(瞬きするくらいの時間)の間と思ヤァ、これくらいの気候偏差などは異常なんどではない。

 もしかすると地球の気候が次の新しい地球気候帯に向けて移り変わっていく過渡期が今なのかもしれない。とするといま「異常気象」と言われているのは大きくカーブを描いて変化する大波の上の小刻みな波にしかすぎんのじゃないかとも思う。

 「あのぉ~、ちょっと心配なんじゃけんど、その大波が来て新しい地球気候帯に移り行くとして、新しくなった気候帯・地球環境は人類が生存できる気候になるんじゃろか?」

 とのご質問があろうかと思いますが、それに対したぶん「地球」さんはこう答えるとおもいます。

 「人類?生存、そういや46億年たったころそんな生き物がうまれたな、どんな生物でも永遠にのさばることなんぞありゃせん、地球の環境・気候変動によって、滅びたり別の種になったりしたわ、そういうこのオイラ(地球)も何十億ねんもすりゃ消滅するんじゃ、まぁ、おまいら人類は智慧っつうもんをもっとるそうやから、ワイ(地球)の激変に耐えれるかどうかやってみたらよかろうが、ま、永遠に生き延びれんのは確実じゃが、ちょびっとびゃぁは伸びるかもしれんわ」

 考えりゃぁ、生命の誕生もまぁゆうたら地球の計らい、人類の誕生も地球の歴史のごちゃごちゃした変化の一つ、その人類が炭酸ガスを増やすのも、地球がそうさせたもの、温暖化も、またもしかしてそれが人類絶滅になるかもしれんのも地球の一時期のほんのちょっとした変化、地球から見たら、「大したことあらへんわ」、億兆と生まれた個体も種もみんななかよく滅んだ。

2022年6月26日日曜日

夏椿と宵待ち草

  去年の今頃、夏椿(沙羅の木)の花を見に行ったことを思い出し、昨日昼から石井の山のほうにある椿園にその花を見に行った。御覧のように白い夏椿の落花は夏椿の木の下のそこここに見られたが、木を下から見上げたところ咲いている花は一つも確認できなかった。今年は開花が早まったのか、また夏椿の花は一日花なのですぐ落下する、そういったこともあって木に咲いている花はすでに落ちていたのだろう。



 駅から歩いて行ったが帰り土砂降りの雨にあう、傘は持っていたが、汗と雨のしぶき、しずくでビショコになる。雨宿りのつもりで国道沿いのマックに入った、ドリンクのみを注文し、坐って雨をやり過ごしていたがしばらくすると、なんと天井のあちこちから雨水が滝のような水流になって落ちてきだした、勢いはだんだん強くなる、雨漏りなんどという生易しいものではない、椅子のあるあたりのフロアは落ちてくる水でやがて坐れなくなった、自転車で来ていた中学生グループも飲食していたが、そこにも上から落ちてくる。かろうじて水流が落ちてこない隅のほうにみんなで移動する、坐るところがないので立ったまま中学生らは手にジュースだのポテトフライだのもってチューチュー、モグモグ。

 私は濡れそぼって元気ないが、中学生のグループは大はしゃぎ、スマホで動画を撮影するやら、中には床にたまった水面上ですべって遊ぶ子もいた。スタッフもバケツだのごみ入れだの雨受の器をもってウロウロ、モップでたまった水を拭こうとしていたが、あまりの水にどちらの方法もほとんど効果なく、床は水がたまる一方、いやぁ~~どんだけ屋根が傷んどんねん。


 蔵本駅プラットホームのはずれに宵待ち草(マツヨイグサ)が群れている。昼間撮影すると萎んだ花か、蕾か、はたまた枯れた花にしか見えない。



 しかし夜、9時過ぎに撮影すると昼はほとんど目立たなかった花が咲いて、水銀灯の明かりに黄色く浮かび上がっていた。(同じ位置で撮影する)


2022年6月20日月曜日

八番札所・熊谷寺のアジサイ

  八番の熊谷はんは春は蜂須賀桜、つゆ時はアジサイの花の名所である。今日そこへアジサイを見に行ってきた。

 アジサイと山門


 アジサイと本堂


 谷筋にいっぱい咲いているアジサイ(動画)

2022年6月19日日曜日

今日は父の日、亡き父の思い出のエピソード

  母の日の花はカーネーションが有名だが、父の日の花はこれと決まっているわけではないが、黄色い花が好まれるようだ。黄色いバラ、ひまわり、黄色いユリ(カサブランカ)などである。

 黄色いカサブランカ(一昨日、ゆうねん川のゆり園での撮影


 たまにしか返らない親父だったが実家に帰ったとき歌っていたのがこの歌、なぜかふと思い出した。そのとき私は小学校低学年だった。♪~つらいこいならネオンのうみへ~♪ のフレーズだけ覚えていた。なんのことやら意味はわからなかった。ヨウツベで検索したら『夜霧の第二国道』だった、このころ独身のまま実家をでて都会でタクシーの流しの運転手や深夜便のトラックの運転手をしていたので運転しながらよくこの歌を歌ったのではないかと思っている。