午後に乗った列車の車窓からみるとすでに稲刈りの終わった褐色の刈田が広がる。斜めから射す夕づく日も秋を思わせるやわらかさがある。しかし列車を降りるとむっとした暑さ、初秋というには暑すぎる、街中の隅っこにも涼しさはない。まだまだ夏が頑張っている。
2022年8月23日火曜日
コロナ陽性記
古希を過ぎて体が衰えてきている。そしてアッチャコッチャ体の具合が悪いときが多い。あるときは頭痛ないし頭が重い、腰の痛み、四肢の疼痛、歯痛、胃のもたれ、などなど、そして時々、体全体がしんどいときがある。70才を過ぎてそんな状態が続くのでそれが普通と思いだした。
だからあとからいつ頃から病気でしんどくなったのか聞かれてもわからない。今回コロナ陽性になったが発熱はほとんどなかった(家の体温計で測ったときはいつも平熱)。ただ8月11日の祝日の朝、起きたときに喉の違和感があった。そして少し咳が出始めた。いつもの夏風邪かな、とおもったが、今コロナが急蔓延しているので少し気になる。売薬の龍角散を飲んで様子を見ることにする。体調は、先も言ったとおり、古希を過ぎていつもシンドイのでその日だけ特にしんどいということはない。
13日には、何か四肢のだるさというか鈍痛があるような感覚がある。しかしこれも先に言ったように高齢になって時々おこるから、特定の病気の自覚はない。咳は頻繁ではないが少しあり、喉も荒れているような感じがする。夕方、なにげなく入ったデパートの入り口の検温モニターを見ると私の顔の上に37.9℃の表示がある。驚いて家に帰って検温計でもう一度どころか何度も計ったが36℃の平熱、しかし、もし微熱があればコロナ感染の疑いがある。
翌日も病院休診日なので保健所のコロナ課に相談のため電話するが10回電話しても「混み合っていますので後ほどおかけください」との電子音が流れるだけ。
結局、ボニが終わってから内科の普通予約で診察を受ける。個室で待たされ、問診票を書いて、しばらくして鼻から検体を取る。40分ほどすると、陽性と告げられ、症状の対処の薬(咳止めと去痰剤)をもらい発熱外来の出口からでる。病院からは保健所から家に連絡があるのでその指示に従ってくださいとのこと。
保健所からの電話で症状の出始めの日時、そして現在の症状の様子を聞かれた。そのときまでには喉の不調と若干の咳だけしか無かったので軽症と判断され、自宅療養期間は8月21日までと告げられた。その後、地区の保健所から3回と県から1回、現在の症状の問い合わせがあったが、体調は70才を過ぎてからの普通の日とかわらず、とくに胸が苦しいとかセコイとかはなかった。そして今日は8月23日、一応私のコロナ感染の始末の区切りはついた。
しかし4回もワクチンをしても感染したのである。いったいワクチンって効果あるのだろうかと疑問を感じる。いや、ワクチンを打っていたおかげで軽症ですんだんや、といわれたら、そうかなぁ、と半信半疑納得せざるを得ないがどうも釈然としない。またコロナは一般の風邪と一緒で、一回罹っても何度も罹ると聞くと、完全に一区切りついたとはいえない。
2022年8月22日月曜日
歴史に見る武器のゲームチェンジャー
ウクライナ戦争が始まってから注目を浴びだした専門家がいる。軍事評論家である。本業は大学院の先生であったり、防衛戦略研究所(防衛省にあるらしい)の研究員であったりする。実際戦われている「戦闘」の勝敗、そして時には人的被害(戦死者・負傷者)も予測するからかなりシビァーな仕事である。
われら日本人はおおむね(もちろん反対の人もいようが少数派である)ウクライナ贔屓が多い。発端は(いろいろな経緯があったにせよ)一方的なロシア軍のウクライナ領土の侵攻だったため、どうしても(心情的には)ウクライナに加担したくなる。そうはいっても戦争は常識的に言って弱いほうが負ける。強い弱いというのは国力や戦闘意思の強さもあろうが、やはり軍隊の数、そして装備している兵器の質量が強力か弱小かによる。
ウクライナ戦争が始まってもう半年にもなるがまだ勝敗は決していない。マスコミ報道を見る限り、どちらも優位に戦争を展開してはいないようにみえる。西側の報道などはロシア劣勢を伝えているが、真偽はわからない。当分続きそうであるところを見ると圧倒的優劣の差はついていないようだ。
さて、最初に登場した「軍事専門家」がよく口にするキーワードに「ゲームチェンジャー」というのがある。互角に戦っている、あるいは膠着状態に陥った両軍の戦闘に「ある新しい兵器」が加わることにより、勝負が決しないゲーム(戦闘)を劇的に有利に持っていくことができるようになる。その「ある新しい兵器」をゲームチェンジャーとよんだりしている(戦術・戦略の革新もあろうがここでは兵器のみに焦点を当てる)。ウクライナ戦争の例では西側からウクライナに供与された「ハイマース」(高機動ロケット砲)がそれにあたるのではといわれている。これの導入によりロシアの苦戦が続き、押されていけば確かにゲームチェンジャーになるだろうが、今のところそうなっているかわからない。
最新のテクノロジの塊のような兵器については情報不足でわからないが、歴史上登場した近代兵器については歴史を勉強していれば少しは知識がある。その中でいわゆるゲームチェンジャーになった兵器をいくつかあげることが出来る。19世紀末ころ登場した機関銃、そして20世紀初めの航空機などがそうであろうか。もっと古くは小銃がある、初期のそれは火縄式発射装置であったがこれを歩兵に装備し組織的に使ったときまさにゲームチェンジャーとなった。日本史の教科書には必ず出ている織田率いる小銃歩兵軍団と武田騎馬軍団との対決、長篠合戦である。これにより武田騎馬軍団は壊滅的打撃を受けたと言われている。
日本史で火縄小銃はゲームチェンジャーになりえたが、それでは大砲はどうだろう、火縄小銃ほどはゲームチェンジャーにはなっていない。というのも日本ではこの時代大砲はほとんど活用されていないため数が少なく、勝敗を決する武器にはなっていない。理由を考えると、平坦地が少なく地形の複雑な日本では左に見るような砲架は移動が難しい。機動力を増すためには牛に引かすより馬に牽かせなければならないが、日本ではそのような運搬方法はなく、人力かせいぜい牛に牽かせるくらいであった(それでは機動力がでない)。大砲は日本では機動力・運搬に問題があるのと、苦労して戦略拠点に運んでも、それを生かせず、小銃のほうが日本人には断然使い勝手が良かった。当時の大砲の砲弾の大きさは重さ(ポンド、あるいは何貫)で表される。鋳鉄製か鉛、石などでスイカのようにまん丸で内部まで同質の金属で炸薬など入っていないから爆発はしない。そのため威力は限定されるが、密集隊形の歩兵に打ち込んで兵らをなぎ倒しつつ隊形を混乱させたり、また砦、城などの城壁を壊すのには力を発揮した。しかし日本ではそのような使われ方はほとんど無かった。ただ、戦国最後の騒乱といわれる大坂冬の陣で家康軍が何門かの大砲を大坂城に発射し、御殿を壊し、淀君を震え上がらせたのが知られている。だが戦闘のゲームチェンジャーとはなっていない。
大砲は日本より大陸諸国の明や清では一般的でよく使われた。もちろんまん丸の金属の玉だから爆発はしないが当時の大陸の戦闘や攻城戦では使われた。そのため日本対明国の戦い(文禄慶長の役)では優れた小銃を多数持つ日本の歩兵、しかし日本兵は大砲は持たない、相手の明国は質量とも劣る小銃装備しかない、しかし大砲は多数ある、ということでかなりいびつな戦いを両軍がやった。結果として膠着状態になるが、異国の地だけに当時の兵站輸送を考えると日本が不利となった。
大砲がゲームチェンジャーになるのは19世紀に入って大砲の弾が爆発する榴弾となり、その大砲が蒸気船と結びついたときである、当時としては最高の戦争のゲームチェンジャーになった。
百聞は意見にしかず、で次の絵を見てみよう。世界史の教科書には必ずといっていいほど入っている挿し絵である。
これは1840年アヘン戦争のときのイギリス軍と中国・清朝との水上の戦いである。勝敗は明らか、密集してモタつく清軍のジャンク、そりゃそうだろう風力や人力にたよる船では思うに動けず、戦で混乱するほどモタつき敵の餌食となる。対するイギリスは右のスマートな蒸気船(まだ外輪船ではあるが)、蒸気エンジンの力によって自在に動くことが出来、水上の戦略的優位な場所に瞬時に移動できる。
そしてこの時代になるとイギリス軍は大砲の弾(球弾ではあっても)の中に炸薬を詰め、信管を装着し、爆発するようになっている。これで威力のある(着弾すれば爆発する)大砲の弾を発射するのである。上図のように見事、イギリスの砲弾は命中し、なんと、一撃でジャンク船が大爆発し撃沈されようとしているところである(実は弾の爆裂で船内の火薬の誘爆が起こったのであるが)。
蒸気船そして爆裂する大砲の組み合わせ、この威力を示すのが上の挿絵である。これはまさにゲームチェンジャーになった。この象徴するところの意味は、これ以後アジアに海からやって来るヨーロッパ諸国に、アジア諸国は軍事では太刀打ちできなくなり、結果、アジアは植民地あるいは半植民地になるか、それともヨーロッパのこのような軍事技術を取り入れ、なんとか対抗できる国にするか、しか選択がなくなったということである。しかし対抗するのは難しく(なぜなら単に軍事技術のみの改良でそれは出来るものではない、その国の社会制度、文化、経済の変革も伴うものだからである)19世紀が終わるまでになんとか対抗できたのはほぼ日本だけであった。
18世紀末まで頃の大砲は以下の動画に見るようにタダの鉄の塊、爆発しないので威力は限られる。
そして18世紀末ごろ下に見るように信管が発明され砲弾(球弾でも)爆裂するようになり、威力が増した。
2022年8月19日金曜日
阿波の山に残る念仏踊り
この歳になって郷土史や郷土の民俗学が興味が出てきた。若いときは歴史一般、つまり日本史の誰もが認める歴史上の人物、事件などの興味が中心であった。多くの人もそうだろう。そのためごく身近な郷土の歴史や民俗学について若いときはほとんど勉強しなかった。
しかし何十年も日本史などを勉強しているとそのうち一般的な歴史ではなく、というのも何十年もやっていると多くの人が興味のあるものなどだいたい知ってしまってそのうち飽きてくる。そのためもあり、あまり人々の興味の向かない枝分かれした微細な部分の歴史に勉強が向かっていくようになる。
歴史にはいろんな分野があるので、これを深く勉強するようにすれば何年たとうがこのような歴史の興味は衰えず続いていくことになる、私の歴史の興味の推移はブログを見るとよくわかる。ちょうど十年前の2012年頃には四国出身の宗教家(といえば空海を思い出すだろうが、もっと新しく鎌倉時代の一遍上人)に興味を持ちいろいろと勉強していた。この時代の民間に活躍した宗教家は庶民大衆を救うことをまず第一に考えた結果か、なぜかキリスト教のような一神教にちかいと思われる教え、「阿弥陀仏(のみ)を信ずれば」あるいは「阿弥陀仏の名号を一心に唱えれば」救われると民衆に説いた。一遍さんもそうである。普通は中世初期の市井の宗教家というとなかなかいい資料がないのであるが、一遍さんについての勉強には良質な資料があって、それには図書館に備わっていた。「一遍上人絵伝」と「一遍上人語録」である。「一遍上人絵伝」は絵巻物になっていて、見るだけで日本の中世がいかなる風景で、それを背景に歴史が展開していたかわかる、まさに百聞は一見にしかずの資料である。
中世パノラマ一遍聖絵、としてそのごくごく一部を切り取って私が作った動画がありますので見てください(2012年に作ったが、非公開から公開に編集し直したので2021年になっています)
この中で京都七条の道場(現代人がみたら道場と言うより「お堂」の一種と見える)で一遍が踊り念仏を大勢でやっているシーンがある。
鎌倉時代からあったこのような「踊り念仏」が現代の盆踊り(阿波踊りもその一つ)のルーツになっているのではないか、少なくとも大きな影響を後世の盆踊りに影響を与えたのではないかと考える専門家は多い。
去年の10月頃、私は貞光町の山の方の「お堂」を歩きブログを作った、浦山堂である(ここクリック)、貞光町の山のほう(端山)にはこのようなお堂がたくさんある。私のブログでその中の二つ紹介した(先のブログとその前のブログ)。それ以外にも町内に数十のお堂がある。その一つで木屋堂という「お堂」について、先日みた郷土資料には今も(その資料が作られた昭和63年頃)「念仏踊り」が残っていることが書かれていた。
以下(「阿波のお堂」より引用)
~~踊りは木屋地区(貞光町・端山)で一年の間に新仏がある年だけ、旧暦の7月13日夜に行われたが昭和51年からは新暦の8月13日夜行われている。~~まず、新仏の位牌を本尊の前に祀り、一堂は正座して、鉦を打ちながら地蔵菩薩らの真言を唱え、次に、堂内でかね、太鼓を鳴らす人、踊る人も一緒に輪を作り、念仏を唱えながら、左回り?右ではないのか(時計の針の回る方向)に、後ろずさりで鉦、太鼓を打ちながら、だんだん速く回っていき、勢いづくとお堂の床を踏みならし、前の人の帯を握ったり、手をつないだりしなければ輪が崩れそうになる、なんとも異様な熱気のある雰囲気になる~~
これは中世の一遍さんの踊り念仏と同じではないのか、踊りの動きがだんだん速くなり、ついには神がかり的な熱狂・狂乱の集団陶酔になるのが一遍さんが唱道した念仏踊りである、この木屋堂の踊り念仏はそれをつよく強く思わしめるものがある。
この貞光町端山は実は私が20代の時に住んでいたところでもあり、近くには「猿飼堂」というお堂もあった。またこの木屋堂は私の祖母の里近くで子供の時、泊まりに行ったこともある。今になって後悔することは、なぜこの昔、私が若かった頃(50~60年以上も昔になるが)そのような地方の行事にもっと身を入れて見ていなかったのだろう、それは無理なら、私が30代の頃にはまだ生きていた祖母や祖母方のお年寄りにこのお堂の行事の話を聞いていればよかった、ということである。
というのもこの盆踊りのルーツ、そして中世の一遍さんが始めた踊り念仏からの系譜をひく木屋の踊り念仏は平成に入ると、過疎化の影響で、踊りはなくなり、お堂で少人数で集まって座ったまま、念仏の称名のみで合間に鉦太鼓をならしながら唱えられるそうである。もはや踊り念仏とはいえない。せめてこの地域の踊り念仏の昔の動画でも残っていないかとネットやヨウツベで探してもなかった。
盆踊りのルーツとも言われ、また一遍さんから数えると800年にも渡って伝えられてきた踊り念仏が途絶えたかもしれないのである。間をおいて復活させるとしても動画もない、それを経験した古老も死に絶えてしまったら、踊り、独特の念仏の抑揚、そこにしかないオリジナルの宗教音楽などは復活は難しい。故檜瑛司さんが動画や録音を残してくれているが、郷土の隅々までそれが残っている訳ではなく、途切れるのは残念である。
若い人でも歴史好きは多い、しかし私もかってそうであったようにごく身近な郷土史にはほとんど注意興味を向けなかった。もし若い人たちがもっと身近な郷土史を大切にしてくれていたらこのような断絶は少なくなるのではないだろうか。
若い衆よ!身近な郷土の歴史に興味を持ってほしい。
2022年8月15日月曜日
徳島の盆踊り・モラエスさんの随想より
現代においては盆の墓参り、そして仏壇を(生霊棚を作る事は少なくなり、そのような形式で)飾り、檀那寺から僧侶を招き棚経をあげてもらう、という行事と8月12日からの阿波踊りとの関連は見いだされなくなっていて、特に若い人などはそれらは全く別物と思っているようだ。戦後になってこの踊りを観光の目玉として「阿波踊り」で広報されるようになって(最近は阿波ダンスという言葉も聞いた)からますますその精霊をお迎えする盆との関連が途切れてしまった。
しかしモラエスさんが生きていた頃(大正年間、百数年前)は死者の祀りである数日とその後につづく盆踊りは一体のものと認識されていて生者と精霊のための盆踊りという認識を持っていた。
モラエスさんの随想録より(日付は全て旧暦である)
「何日か前に、墓地の墓をきれいに清めます・・7月12日、墓参があって、花を取りかえるなどがおこなわれます。これは死者の霊がとおくから、知られざる無限から夜間にやって来て、家族ものとを訪ねる前に、自分の墓の上を漂うので墓をこのようにして霊を迎えなければならないからです・・13日は、死者の霊は、夜まで家で私たちとなごやかにすごしました。夜になると死者を墓まで送ってゆき、墓地でかがり火をたいて、地上から永遠の平和の家への長い道を照らします。」
墓で送り火をたくなど現代とは少し違うところもあるが12~13日にその行事が集中しているのがわかる。そして続く14、15,16日が盆踊りとなる。
「伝染性のヒステリックな興奮が人々を支配します。みんな盆踊りのことしか口にしません。それしか考えません。誰もが昼も夜も街頭に出ますが、祭りがより活気にあふれるのは主として夜です・・人々が主だった通りを埋めます、時々騒々しい一群の人がどこかしらの路地からあらわれて大声で怒鳴り押し合いへし合いしながら進んでいきます・・中でもひときわ目立つのは「げいしゃ」で伝統的な用途の幅広の帽子(鳥追いの編み笠)に半ば顔を隠した、豪華な絹の上衣姿の実に優美な「げいしゃ」もいます。けれども踊るのは「げいしゃ」だけではありません。町の人口の半分が老いぼれ爺さんも老いぼれ婆さんも、幼い子供もおどり、誰もが打ち興じ、死者を讃えるのです。」
死者を讃えるのです、というモラエスの言葉に、当時の人々はみんな精霊のための盆踊りであるという認識を持っていたのがわかります。
下に何枚か大正時代の盆踊りの写真を挙げておきます。
富田町あたりの芸者衆の盆踊り姿です(今と違い打ちものは鼓だった) 現代まで続く女踊りの衣装・被り物の姿のこれが源流だったんですね。鳥追い編み笠を被っていたのは素人衆でなく芸者衆です。
こちらは男性のおどり、みんなそろいの縞の浴衣だが、みたところなんか今とちがう、そうか!この時代、尻端折りはしていないんだ。ゾロリの裾だ。
友禅を着た少女、歌舞伎の所作事をするときのような豪華な衣装、お囃子の女性陣は饅頭笠を被って顔がほとんどみえない。
2022年8月14日日曜日
ウチの近くの十王堂(閻魔大王をお祀りしている)
先のブログでは名東地蔵院の「十三仏堂」の閻魔さんを紹介したが、説明したようにお堂の中は十三の仏さんがズラズラ並んでいる。そのなかに閻魔王もいるが他の仏さんと大きさも顔の形も皆同じ。閻魔さんが特別な存在の仏様ではない。
閻魔さんに特化して閻魔王だけが祀られている閻魔堂は、いろいろ調べたが県内にはないこともわかった(私が調べきれなかっただけかもしれないのでもしご存じの方は教えてください)、その過程でわかったのは閻魔さんに関するお堂はまず「閻魔堂」(これは徳島にはない)、そして先のブログの「十三仏堂」、それと「十王堂」というお堂もあり、そこにも閻魔さんが祀られていることがわかった。
十三仏堂と十王堂は本地垂迹説によれば共通の仏さんでそれぞれ(13体と10体だが)対応一致している。ただし十三仏堂は三体だけ十王堂にはない仏さんがいる。その二つの堂の違いは何か?小難しい仏教の理屈より百聞は一見にしかずで二つの堂内の違いを見比べてみるとよくわかる。十三仏堂はそれぞれ仏像の大きさに違いはないが、十王堂では閻魔さまが中心で像が大きく、他の九体は脇持仏の扱いで像も小さい。
平賀源内作の「根南志具佐」でも閻魔以外の十王(閻魔を除くと九王)が出てくるが、ここでは地獄の主君(支配者)は閻魔王で、他の十王は閻魔庁の審判に当たっては陪審の役、地獄の制度を幕府に例えると(実際に根南志具佐では地獄の階層制を幕府や藩に例えている)。閻魔は将軍、十王は御三家か老中という事になる。
十三仏堂ではみんな等しい仏だったが、十王堂では閻魔が中心でそのため像も大きく立派で他は脇持仏の扱いとなっている。だから十王堂に対する礼拝はほとんど閻魔王にたいする信仰と変わりがないのではないかと思っている。
十三仏堂の雰囲気にあまり地獄を思わせるものはないが(そもそもが十三仏はそれぞれの年忌供養に当たる仏なので)、十王堂は閻魔王が中心であり、また他の十王は地獄で亡者の審判の補佐に当たるのが役目である。礼拝で十王堂を訪れ、閻魔王中心の十王たちに向かい合っていると、ここは地獄のお裁きの場か?、という雰囲気が漂っている。いかにもここは地獄の審判庁であるとのイメージが膨らむお堂である。
その十王堂を検索すると県内で三ヶ所がヒットした。海陽町、貞光町、そしてなんと鴨島町のウチの近くである。ググルのストリートビューを利用して調べるが、お堂が確認できたのは貞光町の端四国八十八ヶ所・九番十王堂だけであった。あと二つの海陽町とわが鴨島の「十王堂」が検索でヒットしたのはそれぞれの町内にある小字(こあざ)名、すなわち「地名」としてであった。
しかし地名で十王堂という名が残っているということは、今は無くなったかもしれないが過去にはここに宗教施設としての「十王堂」があったことが強く推定される。その名残として小字名に残ったものだろう。(他県ではこのような神仏のいずれとも判然としないお堂は明治の廃仏毀釈の時にぶち壊され消え去ったものが多いから徳島でもそういうことが考えられる)
海陽町十王堂は遠くてちょっといけないが、鴨島町内原(小字)十王堂は幸い我がウチから近い、その地名の場所にいって古老(ワイも十分古老だがこんな地名があったのは知らなんだわ)に聞けば昔、どのあたりのそのお堂が建っていたかわかるかもしれないし、もしかしたら昔あったその信仰の実態も聞けるかもしれないと、暑い中、出向いた。
下の地図に示してあるのがが鴨島町内原十王堂の地名
十三仏堂よりず~っと閻魔信仰が強い十王堂が我が町にあったんや。暇だけはたっぷりあるこのジジイである、やがてお世話にならなあかん閻魔はんやから、このお堂もジジイの町内巡礼場所に加えとこや。
2022年8月13日土曜日
地蔵院の十三仏堂
江戸には三大閻魔堂があって閻魔様単体の神仏として尊崇を受けている。江戸期には蔵前の閻魔堂が有名で「根南志具佐」にも出てきている。ここ徳島でも「閻魔堂」があるかどうか、先日からいろいろ(ネットや郷土の寺社関係の本)で探っているが、ヒットしない。どうも我が県には一堂もないようだ。香川には三つの閻魔堂がある。昔の阿波人は江戸っ子ほど閻魔様に親しみを感じていなかったのかもしれない。
徳島には単体で閻魔様をご神体とする閻魔堂はないが、幾人かの神仏と合同してお祭りしたお堂の中の一体としてなら閻魔様はお祀りされている。それが「十三仏堂」である。このような形での閻魔様のご神像なら県内にいくつかある。参詣者の多いのは薬王寺の十三仏堂であるが、近くでは名東町の地蔵院の十三仏堂がよく知られている。先日・8月1日にその十三仏堂で閻魔様にお参りしてきた。
地蔵院は水辺(名東池)のそばにある。幽明相分かつ境には三途の川が流れていてその向こうに閻魔庁がある、ここの閻魔様もやはり水辺の向こうにいらっしゃる。(見えるのが地蔵院山門)
十三仏堂の中には十三体の神仏がいらっしゃる。
その中の御一体が閻魔王である。
閻魔様らしく怖いお顔をしていらっしゃる。しかし右に閻魔王とあるが、よく見ると左には地蔵菩薩とある。これはどういうことか。これは閻魔王でもあるが同時に地蔵菩薩でもある事を表している。実は閻魔様ってお地蔵さんでもあるわけだ。しかしお地蔵さんは慈悲に富むお優しいお顔をしていらっしゃるのに、もっとも怖いお顔の神仏である閻魔様と同じとは驚きである。これは仏教にはよくあることで本地垂迹説で説明されるが、ここでは詳しいことはいわない。例として憤怒系の不動明王は慈悲顔の大日如来でもあることをあげておく。
亡者の悪を裁き、業苦を負わせる地獄のいわば支配者でもある閻魔王と、地獄にでも出向き亡者を救おうとなさる地蔵様が同じであるといわれてもちょっと納得しがたいが中世以来そのように思われ信仰されている。あまりにも恐ろしい閻魔さまなら、まさに「触らぬ神に祟りなし」で閻魔像などを造って尊崇することもはばかれようが、これが実は地蔵様と同じである、といわれれば、そうなのか、閻魔はんは地蔵さんやったんか、それならそう怖くはないな、と閻魔信仰も広がるだろう。
十三仏信仰は亡き人の追善供養に関係している。初七日からはじまり三十三回忌のそれぞれ十三ある忌日・年忌に対応する仏様である。閻魔王こと地蔵菩薩はその中の御一体である。
十三仏堂は13体の神仏がまつられていて閻魔さまも他の12の仏さんも皆平等に崇拝されているが、閻魔様が主体になって祀られてお寺あるいはお堂はないのか?もっと探ってみた。そのことについては次のブログで取り上げます。意外な発見があったよ!








