2010年12月14日火曜日
頃は元禄15年
今日12月14日は赤穂浪士47人が吉良邸に討ち入った日です。元禄15年ですから、西暦1702年です。最近は赤穂浪士の討ち入ったこの日を知らない人が多く、またTVや新聞、ラジオなどでも特別取り上げることも少なくなりました。
しかし昭和の時代までは毎年この日がくると関連した映画が封切られたり、TV放映があったり、また新聞、ラジオなどでも必ず取り上げられました。14日はクリスマスやお正月と同じように年中行事でした。だから昭和の時代、この日を知らない人はほとんどいませんでした。
赤穂浪士の話は主君のかたき討ちの話です。だから江戸時代この47士は忠義の鑑とみなされ称揚され続けてきたのです。武士だけでなく庶民には「忠臣蔵」の芝居を通して人気を博し、絶賛されてきたのです。
実はこの元禄時代、太平の世が続き、貨幣経済は発達し、贅沢奢侈な生活をおくる人も現れ、上方を中心に元禄文化が栄えた時代でした。武士も戦うことが本業でなくなり、行政官としての働きが重視されるようになります。こうなるとむしろ純粋な忠義は廃れる傾向にあります。このような時代に起こったのが赤穂事件でした。忠義がだんだん軽くなる一方だった世の中だったればこそ、いわば純粋な形の忠義の発露とみられる「主君の仇討」を人々は拍手喝采し褒め称えたのでした。
よくいわれるのが「家、貧しくして孝子出で、国、乱れて忠臣出づ」
封建道徳が整い君臣に忠義が行き渡っているときには、まあ逆説的なんですけれども、義士は出ないんですね。
この元禄という年号、私には親しみを感じさせるものがあります。それは私が高校生時代の頃を昭和元禄と呼んでいたからです。江戸時代は全般を通じて非常に緩やかな経済成長の時代でした。でもこの元禄時代は江戸時代の中でも例外的な高度経済成長の時代なんです。歴史の本なんかでは元禄文化の華やかさばかり目につきますが、それの裏付けとなる経済成長があったわけです。
江戸初期から始まった大河川の土木水利工事、それに付随した新田開発などで、当時のGNPの指標である米の生産がグングン伸びていきました。そのピークが元禄頃です。倍増に近い伸びだったのではと思われます。またこの少し前ですけれど金銀の鉱山の産出量もピークに達しました。結果、日本史上空前の経済規模になり、それが華やかな元禄文化を生んだのです。
昭和40、41、42、43年、私が高校生の頃、高度経済成長がピークを迎え(ゆるやかにはまだまだ続くのですが)元禄時代と同じような贅沢、奢侈が一般化し太平な世を人々は謳歌したのです。3Cの家電が庶民に手が届くようになったのもこの時代でした。(3C,すなわちカラーテレビ、クーラー、カー)、物価ももちろん上がりましたが、それを上回る勢いで所得も上がりました。成長著しい私の高校生時代でもあり、戦後日本の青春時代でもありました。その時代をさして当時、昭和元禄。
それにひきかえ今、平成22年も暮れ方、いったいなんと呼ぼう、時代末期の暗さが漂っている気がしてなりません。マイナス成長、デフレ、失業、他国からの侵略。江戸時代の最後の年号をつけて平成慶応とでも呼ぼうか。でも、慶応ってなんかセレブなネーミングだ。
過去において、悪い世相を代表するこれといった年号が思いつかない。だって明治以前は悪いことが起こったら年号を縁起直しに変えるから、悪を代表する間もなくくるくる年号が変わる。
もういっそ、一元制やめて一君主の間でも、縁起かついで景気のいい年号にしたらどうだろ。
金満元年。安楽元年。なんてどう。
江戸時代が終わり元号が明治にかわったときの落書。
うえから読むと明るく治まるだが、したから読むと治まるめい(明)江戸っ子の方言で、治まるまい。
2010年12月13日月曜日
思い出したこと
忘れていた本
読まなければならない本がたくさんたまっていくばかりである。毎日読む量が少ないためこなせていないのである。そのうち忘れてしまう。
昨日、ワンピースさんから長井長義の名前がでて、そういえばずいぶん前に読もうと思っていてそのままになっていたのを思い出した。映画化されるというニュースよりずっと前だからもう1年くらいになる。確かまだ数ページしか読めてなかった。
去年、6月に長崎へ2泊3日の旅行をした。まだ竜馬伝は放映されていないので今年ほどブームは起こっていなかった。市内の史跡巡りをしたが長崎は幕末維新関連のものが多い。今残っている史跡だけでなく当時の長崎の町のいたるところに幕末の青年たちをひきつけるものがたくさんあったに違いない。欧米の先進科学技術、医学はここ長崎で学ばなければならなかった。
わが郷土の阿波の国からも何人かの青年が長崎遊学を果たしている。旅行から帰って、少し調べた。そのなかから1866年慶応2年に長崎に遊学した長井長義の日記の出版本が手に入ったので、それを読んでその当時の青雲の志に燃える若者についてさまざまなことを知ろうとした。
資料のなかでは日記類を調べるのが、その歴史上の人物が自ら書き残したものである場合、もっともよい。おおむね事実に即しているし、その人の心の動き、またそのほかの人の人物評もよくわかる。また、今は廃れてしまった風俗、地名、方言、また世相なども知ることができ、まことに史料の価値は高い。また旅の記述があるため当時の旅についてもよくわかる。
ただし印刷されて活字になっているだけましだが、全部原文である。まあ、平安時代でないから今の言葉に近いが、旧漢字、漢文の教養がある程度要求される。
そんなわけであまり読み進まなかったが、そのうち他の本かなにかに目移りして、すっかり忘れていた。でも思い出した今、映画化されることでもありまた読み続けようと思っている。
わが吉野川市によく似た人が
この長井長義と同じに思い出したことがもう一つあった。先月の28日「竜馬伝」が最終回を迎える日、わが町にも維新の英傑がいることを聞き、生家を見学に行き、写真を撮っていたのである。まあ一流の志士というにはちょっと憚りがあるが、このひと暗殺されず長生きしたため、維新の功労者として名誉は存分に受けました、従一位、大臣、伯爵・・・等々、
その名は「芳川顕正」
以下、私が撮った写真です。説明板はクリックして大きくすれば説明文が見やすくなります。生家は、吉野川市山川町です。
読まなければならない本がたくさんたまっていくばかりである。毎日読む量が少ないためこなせていないのである。そのうち忘れてしまう。
昨日、ワンピースさんから長井長義の名前がでて、そういえばずいぶん前に読もうと思っていてそのままになっていたのを思い出した。映画化されるというニュースよりずっと前だからもう1年くらいになる。確かまだ数ページしか読めてなかった。
去年、6月に長崎へ2泊3日の旅行をした。まだ竜馬伝は放映されていないので今年ほどブームは起こっていなかった。市内の史跡巡りをしたが長崎は幕末維新関連のものが多い。今残っている史跡だけでなく当時の長崎の町のいたるところに幕末の青年たちをひきつけるものがたくさんあったに違いない。欧米の先進科学技術、医学はここ長崎で学ばなければならなかった。
わが郷土の阿波の国からも何人かの青年が長崎遊学を果たしている。旅行から帰って、少し調べた。そのなかから1866年慶応2年に長崎に遊学した長井長義の日記の出版本が手に入ったので、それを読んでその当時の青雲の志に燃える若者についてさまざまなことを知ろうとした。
資料のなかでは日記類を調べるのが、その歴史上の人物が自ら書き残したものである場合、もっともよい。おおむね事実に即しているし、その人の心の動き、またそのほかの人の人物評もよくわかる。また、今は廃れてしまった風俗、地名、方言、また世相なども知ることができ、まことに史料の価値は高い。また旅の記述があるため当時の旅についてもよくわかる。
ただし印刷されて活字になっているだけましだが、全部原文である。まあ、平安時代でないから今の言葉に近いが、旧漢字、漢文の教養がある程度要求される。
そんなわけであまり読み進まなかったが、そのうち他の本かなにかに目移りして、すっかり忘れていた。でも思い出した今、映画化されることでもありまた読み続けようと思っている。
わが吉野川市によく似た人が
この長井長義と同じに思い出したことがもう一つあった。先月の28日「竜馬伝」が最終回を迎える日、わが町にも維新の英傑がいることを聞き、生家を見学に行き、写真を撮っていたのである。まあ一流の志士というにはちょっと憚りがあるが、このひと暗殺されず長生きしたため、維新の功労者として名誉は存分に受けました、従一位、大臣、伯爵・・・等々、
その名は「芳川顕正」
以下、私が撮った写真です。説明板はクリックして大きくすれば説明文が見やすくなります。生家は、吉野川市山川町です。
2010年12月12日日曜日
マイペースが必要かな
人間、早く死ぬ人もいれば長生きの人もいるが、まあ、平均寿命まで生きるとして、最近は80歳以上とみていいでしょう。歴史の長さから比べれば短いのでしょうが、近現代史と人生とを比較するとそうともいえない。
歴史が新しくなればなるほど歴史の変化は加速度的に大きくなっている。うかうかするとゆっくりした人のあゆみより歴史の方がどんどん先に進みすぎ、人生に追いつかないということもあります。
先日、「坂本竜馬」がおわり、今日はおなじNHKで「坂の上の雲」の放映がありました。明治国家を作り出す基礎を作った時代。そしてそれを発展させた時代。が背景です。
でも、考えると明治国家「大日本帝国」が生まれ、1945年に崩壊するまでの期間は78年です。これくらいだと十分生きられてまだおつりがある長さです。おなじ明治元年に誕生した人と国家が同時に成長したとします。急激に近代国家から帝国主義国家となり、そして大戦争、大日本帝国崩壊で終止符、しかし、長生きの人はまだ生きています。人より歴史が先に走りぬいたといえます。ゆっくりしたひとのあゆみより時の流れの方があっという間に過ぎ去り、過去の歴史となっていくのが現代です。
最近、この時の流れの速さにやまさん、目をまわすようになりました。いままでできるだけ振り落とされないように新しいものは積極的に学習しようとしてきました。パソコンも、知らなければ、と思い60歳で購入、学習しようとしました。なんとかパソコンを自分のものにしたいという願望があったため、過度に神経質になりました。遅々として進まぬのに覚えねばならぬこと、未知のことの気の遠くなるほどの多さ。辟易してしまいました。
「夕暮れて道遠し」です。
昨日のブログでは今にも癇癪をおこしぶっ壊しかねないようなことを書きましたが、ちょっと大げさすぎたと反省しております。訓練校も終わり、職も決まらぬ今、毎日、パソコンとどう向き合っていくべきか、まだ定まっていないのです。時間がたっぷりあるものでパソコンにちょっかいを出し過ぎるのかもしれません。距離も間もおいたほうがいいのかもしれません。
これからは無理なく続けられるようにほどのよい習慣づけができればと思っています。
歴史が新しくなればなるほど歴史の変化は加速度的に大きくなっている。うかうかするとゆっくりした人のあゆみより歴史の方がどんどん先に進みすぎ、人生に追いつかないということもあります。
先日、「坂本竜馬」がおわり、今日はおなじNHKで「坂の上の雲」の放映がありました。明治国家を作り出す基礎を作った時代。そしてそれを発展させた時代。が背景です。
でも、考えると明治国家「大日本帝国」が生まれ、1945年に崩壊するまでの期間は78年です。これくらいだと十分生きられてまだおつりがある長さです。おなじ明治元年に誕生した人と国家が同時に成長したとします。急激に近代国家から帝国主義国家となり、そして大戦争、大日本帝国崩壊で終止符、しかし、長生きの人はまだ生きています。人より歴史が先に走りぬいたといえます。ゆっくりしたひとのあゆみより時の流れの方があっという間に過ぎ去り、過去の歴史となっていくのが現代です。
最近、この時の流れの速さにやまさん、目をまわすようになりました。いままでできるだけ振り落とされないように新しいものは積極的に学習しようとしてきました。パソコンも、知らなければ、と思い60歳で購入、学習しようとしました。なんとかパソコンを自分のものにしたいという願望があったため、過度に神経質になりました。遅々として進まぬのに覚えねばならぬこと、未知のことの気の遠くなるほどの多さ。辟易してしまいました。
「夕暮れて道遠し」です。
昨日のブログでは今にも癇癪をおこしぶっ壊しかねないようなことを書きましたが、ちょっと大げさすぎたと反省しております。訓練校も終わり、職も決まらぬ今、毎日、パソコンとどう向き合っていくべきか、まだ定まっていないのです。時間がたっぷりあるものでパソコンにちょっかいを出し過ぎるのかもしれません。距離も間もおいたほうがいいのかもしれません。
これからは無理なく続けられるようにほどのよい習慣づけができればと思っています。
2010年12月11日土曜日
パソコンにまで苦しめられるのは嫌じゃ
パソコンを扱っていて思うように操作できなかったり、違う作動を起こしたりして、あげく腕を組み
「うーん、ただの複雑な電気機械とは思えぬ奥深さ。人間の知能の代理をするだけのことはある。」
などとおだやかに反応できればいいんですが、はじめからパソコンにいじめられっぱなしのやまさん、パソコンに敵愾心をもち、はっきり言って憎んでおります。
癇癪をおこし叩きつけたくなりますが、こらえております。1000円以内のものだと壊したかもしれません。
「おのれ、いつか復讐してやるからな、覚えておれよ。」
と電源をおとし蓋を閉めるときつぶやいております。
だいたい、こいつ、私が落ち込んだ時、体調不良の時をねらって様々な嫌がらせをしかけてきます。
昨日からは前に先生にお願いして削除したと思った「java」だの「jusched」なんたらだののインストールを勝手に要求するアイコンがタスクバーでピコピコ。先生がコントロールパネルのjavaをアンインストールしてくれたのにしぶとくゾンビみたいに復活してました。パネルを見ると消したはずのに二つも復活。常駐ソフトの状態に。
常駐ならおとなしくおってくれたらええのに、タスクバーでピコピコ、アイコンを2つも3つも点滅させ、わたしにわけのわからんクリックを要求する。
もうわたしぶちきれました。
インターネットで検索しました。まさかこんなのあるまいとおもっていた「java、jusched.exeをぶっ殺す方法」がヒット。さっそく見ると、
レジストリに残っていれば復活するので、これをチェック、マイコンピュータのウインドウ7(C)からregedit.exeのレジストリをクリックし、(¥)以下の順にクリックで開いていった。
HKEY_LOCAL_MACHINE¥SOFTWARE¥Microsoft¥
windows¥current¥version¥run
が元凶である。
ちょっと不安でした。レジストリは勝手に触るべきでないとも思いましたが、ええいままよ。どうせお前とは相性よくないんじゃ。これでもっとおかしくなるなら、きっぱりお前とは縁を切るだけじゃ。ざまあ、みさらせ!などとは言いませんでしたが、さらりと削除実行しました。
恐ろしい結果が待っているかもしれません。
もうね、わたし、本や辞書、ノート、鉛筆の方がよくなりました。
javaは毎月10日にアップデートですから、来月10日ごろまたゾンビのように復活するかも。
その時までインターネットしよるかしら、わからん。
「うーん、ただの複雑な電気機械とは思えぬ奥深さ。人間の知能の代理をするだけのことはある。」
などとおだやかに反応できればいいんですが、はじめからパソコンにいじめられっぱなしのやまさん、パソコンに敵愾心をもち、はっきり言って憎んでおります。
癇癪をおこし叩きつけたくなりますが、こらえております。1000円以内のものだと壊したかもしれません。
「おのれ、いつか復讐してやるからな、覚えておれよ。」
と電源をおとし蓋を閉めるときつぶやいております。
だいたい、こいつ、私が落ち込んだ時、体調不良の時をねらって様々な嫌がらせをしかけてきます。
昨日からは前に先生にお願いして削除したと思った「java」だの「jusched」なんたらだののインストールを勝手に要求するアイコンがタスクバーでピコピコ。先生がコントロールパネルのjavaをアンインストールしてくれたのにしぶとくゾンビみたいに復活してました。パネルを見ると消したはずのに二つも復活。常駐ソフトの状態に。
常駐ならおとなしくおってくれたらええのに、タスクバーでピコピコ、アイコンを2つも3つも点滅させ、わたしにわけのわからんクリックを要求する。
もうわたしぶちきれました。
インターネットで検索しました。まさかこんなのあるまいとおもっていた「java、jusched.exeをぶっ殺す方法」がヒット。さっそく見ると、
レジストリに残っていれば復活するので、これをチェック、マイコンピュータのウインドウ7(C)からregedit.exeのレジストリをクリックし、(¥)以下の順にクリックで開いていった。
HKEY_LOCAL_MACHINE¥SOFTWARE¥Microsoft¥
windows¥current¥version¥run
が元凶である。
ちょっと不安でした。レジストリは勝手に触るべきでないとも思いましたが、ええいままよ。どうせお前とは相性よくないんじゃ。これでもっとおかしくなるなら、きっぱりお前とは縁を切るだけじゃ。ざまあ、みさらせ!などとは言いませんでしたが、さらりと削除実行しました。
恐ろしい結果が待っているかもしれません。
もうね、わたし、本や辞書、ノート、鉛筆の方がよくなりました。
javaは毎月10日にアップデートですから、来月10日ごろまたゾンビのように復活するかも。
その時までインターネットしよるかしら、わからん。
2010年12月10日金曜日
山茶花と鳥取
今は四季咲きのバラがあり、冬でもバラの花は入手可能である。現に徳島城公園のバラ園には今、大輪のバラが咲いている。
しかし昔のバラはそうではなかった。もともとは初夏のものである。江戸時代の蕪村の俳句にバラの花が出てくるといったらみなさん驚くでしょうか。「バラ」という言葉の響きからは西洋のロマンの香りがしますものね。
でも日本土着のバラがあるのです、そんなのバラでないって?バラと言えば西洋の大輪で八重の真っ赤な花のイメージもってませんか?でも西洋のこのようなバラ、人工的な品種改良で生まれたものでもともとのバラは日本の土着のものと一緒なんです。だから大輪、八重のバラをこの土着のバラの木に接ぎ木もできるのです。
万葉時代からバラは歌にも詠まれました。もっとも「薔薇」という名前ですけど。難しい画数の多い字です。今はこう書いてバラと読ませますが、「ソウビ」と読みます。バラという字は薔薇の別名イバラのバラという読みから来ていると思われます。これ、やまさんの推理。
蕪村のバラの句紹介しておきます。
愁ひつつ 岡にのぼれば 花いばら
江戸時代の句でなく、啄木あたりの句でないかと思うくらいロマンチックですね。
そうゆうわけでバラは初夏の花。だから品種改良で四季咲きができるまでは、冬のバラはあり得ぬものだったわけです。
18、19世紀、中国や日本から、山茶花や椿がヨーロッパに渡りましたが、冬の期間、バラが見られないときにバラによく似たこれらの花は「冬のバラ」として珍重されたそうです。ブームが起こり、その中でデュマの「椿姫」の小説が書かれました。
今の時期、公園、街路、生垣、いたるところで山茶花が見られます。冬のバラと19世紀パリで言われた花です。そう思ってみると確かにバラに似ています。
私ね、ちょっと疑問があります。この山茶花の読み方です。サザンカと読むのであれば、茶山花、と書かなければいけないんじゃない?茶は、喫茶や茶道の読みでもわかるように「サ」と読みます。山はもちろん〇〇山、で濁ってザンと読みます。だから茶山花、ところが実際は山茶花、なんでだろ。
よく似た疑問は鳥取にも、トットリなら、取鳥でない?不思議だ。
まあ、当て字に近いんでしょうね。
しかし昔のバラはそうではなかった。もともとは初夏のものである。江戸時代の蕪村の俳句にバラの花が出てくるといったらみなさん驚くでしょうか。「バラ」という言葉の響きからは西洋のロマンの香りがしますものね。
でも日本土着のバラがあるのです、そんなのバラでないって?バラと言えば西洋の大輪で八重の真っ赤な花のイメージもってませんか?でも西洋のこのようなバラ、人工的な品種改良で生まれたものでもともとのバラは日本の土着のものと一緒なんです。だから大輪、八重のバラをこの土着のバラの木に接ぎ木もできるのです。
万葉時代からバラは歌にも詠まれました。もっとも「薔薇」という名前ですけど。難しい画数の多い字です。今はこう書いてバラと読ませますが、「ソウビ」と読みます。バラという字は薔薇の別名イバラのバラという読みから来ていると思われます。これ、やまさんの推理。
蕪村のバラの句紹介しておきます。
愁ひつつ 岡にのぼれば 花いばら
江戸時代の句でなく、啄木あたりの句でないかと思うくらいロマンチックですね。
そうゆうわけでバラは初夏の花。だから品種改良で四季咲きができるまでは、冬のバラはあり得ぬものだったわけです。
18、19世紀、中国や日本から、山茶花や椿がヨーロッパに渡りましたが、冬の期間、バラが見られないときにバラによく似たこれらの花は「冬のバラ」として珍重されたそうです。ブームが起こり、その中でデュマの「椿姫」の小説が書かれました。
今の時期、公園、街路、生垣、いたるところで山茶花が見られます。冬のバラと19世紀パリで言われた花です。そう思ってみると確かにバラに似ています。
私ね、ちょっと疑問があります。この山茶花の読み方です。サザンカと読むのであれば、茶山花、と書かなければいけないんじゃない?茶は、喫茶や茶道の読みでもわかるように「サ」と読みます。山はもちろん〇〇山、で濁ってザンと読みます。だから茶山花、ところが実際は山茶花、なんでだろ。
よく似た疑問は鳥取にも、トットリなら、取鳥でない?不思議だ。
まあ、当て字に近いんでしょうね。
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| 山茶花 |
2010年12月9日木曜日
冬景色
今日は朝方は冷たい時雨、西の方や山ではみぞれか雪ではないのかと思うくらい気温も低かった。
時雨がやんでも寒い風が吹き、ひえびえする一日でした。
ここ2~3日は昼間は風もなく日も照り、気持ち良い日が続いていたのに一転、冬。城山公園の銀杏もすっかり葉を落としていました。ここ一両日に落としたのでしょう、吹き飛ばされおちこちに吹きだまった落ち葉もまだ鮮やかな黄色のまま。
常盤木の緑もなんだか黒っぽくみえいっそう寒々と感じます。その常盤木のなか濃いピンクの花が目につきます。冬の花山茶花です。冬枯れの侘しい公園の灌木にぽつんぽつんと色をつけています。
図書館へ寄った後、再び城山公園を通り、ハローワークへ行く。今日は訓練生だった人に会い少し話をする。まだ10日しかたっていないのにすごく懐かしい気がする。
3時前の列車で帰ってきたが、高校生が多く満員状態。もう期末テストの時期なのだろうか。いつもより早い。
4時すぎにはうちの近くの公園を散歩する。こちらも冬景色でなおかつ日暮れのため一層寒々している。何枚か写真に撮る。
夕方、電線にたくさんの鳥が。目白押しに、だからめじろか?たぶん違います。ハトより少し小さめの渡り鳥。種類は私、詳しくないのでわかりません。
冬は渡りをする小型の鳥がたくさん群れをなし木々や電線にとまります。
鶸?もず?アトリ?
遠く渡りをする鳥でなくても冬になれば、暑い季節の間、山にいた鳥が里に舞い降りてきます。冬はさまざまな鳥が見られるシーズンです。
公園の境界で上を見上げ撮影しました。
葉を完全に落とした木に毬状の暗緑色のものが、
これは寄生木。植物たちが死に、あるいは葉を落とし長らく休眠する時に、陰気にその存在を主張し始めます。
骸骨のような木にそこだけ息づく黒っぽく丸いヤドリギは不吉な感じがします。
暗くなりつつある冬空を背景に見上げると不気味です。おとぎ話に出てくる木の精霊の宿るところのような気がしてきます。だからヤドリギって?まさか。
また、張り巡らされた血管にできた動脈瘤のような形にもみえます。パンクしたら、即、死。こちらのイメージも不吉。
いずれにしても私は寄生木に対しよいイメージはわきません。
みなさんは?
公園の水際から撮りました。川面は北風で波立っています。水面上点在するのは雁、カモ、どっちか。わたし、鳥はわかりません。
夕暮れの西空の雲、寒々してはるかむこうの雲なんかきっと雪を含んでいるに違いない。
橋の上に小さく放物線状に見えるのは遊園地の大観覧車、今日のような日は早めに店じまいしたことでしょう。
時雨がやんでも寒い風が吹き、ひえびえする一日でした。
ここ2~3日は昼間は風もなく日も照り、気持ち良い日が続いていたのに一転、冬。城山公園の銀杏もすっかり葉を落としていました。ここ一両日に落としたのでしょう、吹き飛ばされおちこちに吹きだまった落ち葉もまだ鮮やかな黄色のまま。
常盤木の緑もなんだか黒っぽくみえいっそう寒々と感じます。その常盤木のなか濃いピンクの花が目につきます。冬の花山茶花です。冬枯れの侘しい公園の灌木にぽつんぽつんと色をつけています。
図書館へ寄った後、再び城山公園を通り、ハローワークへ行く。今日は訓練生だった人に会い少し話をする。まだ10日しかたっていないのにすごく懐かしい気がする。
3時前の列車で帰ってきたが、高校生が多く満員状態。もう期末テストの時期なのだろうか。いつもより早い。
4時すぎにはうちの近くの公園を散歩する。こちらも冬景色でなおかつ日暮れのため一層寒々している。何枚か写真に撮る。
夕方、電線にたくさんの鳥が。目白押しに、だからめじろか?たぶん違います。ハトより少し小さめの渡り鳥。種類は私、詳しくないのでわかりません。
冬は渡りをする小型の鳥がたくさん群れをなし木々や電線にとまります。
鶸?もず?アトリ?
遠く渡りをする鳥でなくても冬になれば、暑い季節の間、山にいた鳥が里に舞い降りてきます。冬はさまざまな鳥が見られるシーズンです。
公園の境界で上を見上げ撮影しました。
葉を完全に落とした木に毬状の暗緑色のものが、
これは寄生木。植物たちが死に、あるいは葉を落とし長らく休眠する時に、陰気にその存在を主張し始めます。
骸骨のような木にそこだけ息づく黒っぽく丸いヤドリギは不吉な感じがします。
暗くなりつつある冬空を背景に見上げると不気味です。おとぎ話に出てくる木の精霊の宿るところのような気がしてきます。だからヤドリギって?まさか。
また、張り巡らされた血管にできた動脈瘤のような形にもみえます。パンクしたら、即、死。こちらのイメージも不吉。
いずれにしても私は寄生木に対しよいイメージはわきません。
みなさんは?
公園の水際から撮りました。川面は北風で波立っています。水面上点在するのは雁、カモ、どっちか。わたし、鳥はわかりません。
夕暮れの西空の雲、寒々してはるかむこうの雲なんかきっと雪を含んでいるに違いない。
橋の上に小さく放物線状に見えるのは遊園地の大観覧車、今日のような日は早めに店じまいしたことでしょう。
2010年12月7日火曜日
車窓にもたれ思う冬の旅
今日の病院は検査結果を聞くためだけだったので11時前には終わり、そのまま徳島行の列車乗るため時刻表を調べるとあと十分、自転車で病院より駅へ直行、朝方よりも雨が強くなっているのでフードのカッパを着て急ぎ、駅でぎりぎり滑り込んだ。
10時52分発、対向の列車待ちのため3分も停車するから急がなくてもよかったのだが、雨も降っているし乗ればホッとする。この時間帯は通勤通学が一段落し、二両編成の列車は客が半分もいずすいている。
ゆったりした姿勢を取り、手を投げ出すように窓枠にかけ頭を窓にもたせかけ、動き出した窓の景色を眺める。 暗い曇天、窓には小粒の雨が斜めにかかる。茶色い冬枯れの田圃がつづく。牛島を過ぎると北側は家もまばらではるか北路の讃岐山脈まで広々と見渡せる。しかし今日は山の方まで田や畑が見渡せるのは変わりないが、暗灰色の低い雲が垂れ込め、重重しい陰鬱さがかなたまでつづいている。押さえつけるような低い雲の重なりを見上げると、不分明な境界が思い思いの方向に乱れ、ゆっくり動き、それらは全体として形容しがたい形をとっている。
この時、ふと、今日のような陰鬱な雨もよいの日、怒涛打ち寄せる磯のすぐそばに掘られた露天風呂に入りたくなった。そこでは露天で半身浸かっているが、砕け散る怒涛のしぶきは体にかかり、潮風はヒューヒューと音をたて吹き抜けていく。いくら悪天候で雨が降ろうが、逆巻く波が砕け、潮風に吹き飛ばされそうなこの温泉に入っている身には関係ない。 そういえば・・・・・・・60年近くの人生を振り返ると、そんな温泉入ったことあるぞ。と記憶を探り始めた。
やがて記憶ははっきりとよみがえってきた。もちろん今列車で思い浮かべたイメージとは若干違うが、よく似ていたことを思い出した。昭和62年、夏だったぞ。南紀勝浦、今一つは、えぇーと、平成5年、これも夏、ところは青森の辺境、不老不死温泉。
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| 南紀勝浦 |
ああ、行きたいな。
老後、金があるってすごく幸せだと思う。暇はたっぷりあるから、冬の旅でも夏の旅でも楽しめる。
でも、やまさん、やせ我慢かもしれないけど、列車の窓にもたれ思う冬の旅だけで満足。
若い時、放浪で全国津々浦めぐりましたから、思い出の旅はいつでも出発できますもの。
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| 不老不死温泉 |
冬の旅というと雪見、あるいはウインタースポーツというのもあるけど、やまさんはちべたいの好きでないから、温泉巡りがいいな。
もう一つ冬の温泉のイメージを紹介しましょう。こちらは平成3年の冬(いや3月だからもう春かな)だと思います。場所は阿蘇の外輪山の北側、黒川温泉、やはり露天風呂なのです。
こちらは露天と言っても名だたる温泉旅館、中庭の塀で囲ってある日本的風情のある温泉(温泉だけ500円で入れる)。
塀の囲いのせいか、入ったとき湯気がもうもうとしてよく見えなかったが、湯船につかっていると、ポタリ、そして、またポタリ、椿の真っ赤な花が湯の上に落ち、漂っている。見上げるとドームのような椿の木々が。花をつけているが花ごと落ちてくる。
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