2024年5月30日木曜日

柳の水のお薬師さん

  出釈迦寺奥の院への参道は急坂である。それもつづら折り幾重にも曲がりくねって続く坂道)ではなく直線的で滑り台のような坂が多い。そのため登りはかなりキツイ。あえぎあえぎ上る参道の中ぐらいのところに柳の水のお薬師さんがいらっしゃる。ベンチもあるし水場でもあるのでみんなここでたちどまり体を清め、薬師如来に手を合わせ、しばし休息する。


 入り口には大きな薬師如来像がたっている。お薬師さんはその名の通り病を癒す仏さまだ。今の昔も神仏に病気平癒を願う人はたくさんいる。お薬師さんは仏さまの中でも人の願いをもっとも多く受けいれられている仏さまだ。そのため寺々の御本尊の割合で一番高いのはお薬師さんである。この場所は谷水の湧いている水場でもある。その水は柳の水となづけられ、また弘法大師の加持水とも言われている。お大師様が念をこめた霊水である。

 「この水が病に効かないはずはない」と手を水で清めた後、この霊水の一掬(両手で一すくいした水)を不調の続く胃のあたりに垂らし、塗りつけた。霊験やいかに・・・この日を含め三日くらいは胃のもたれが解消した。薬も飲んでいたが・・いや、やはりこのお薬師様の霊水が効いたのだ。

2024年5月28日火曜日

出釈迦寺奥の院でみた歴史のある石造物

 下図1 右下の天然石の表面に五輪の塔が浮彫されているのがわかるだろうか。室町時代初期とある。五輪の塔とあるから誰かの供養のために掘られたのだろうか。


下図2 こちらは浮彫でなく太い線彫りである。二つの五輪の塔が刻まれているようだ。風化、ひび割れがあるため五輪の上部しかわからない。時代は南北朝とある。左に文字が刻まれいる。大日如来と読める。こちらは時代が違うのであろう。


下図3および動画 ここで見た中では一番古い石造物であった。奈良時代から平安中期とある。確定はしていないようだ。奥の院の鐘楼の横にあり、瀬戸内海までつづく下界を見下ろせる位置にある。


2024年5月27日月曜日

西行庵と出釈迦寺奥の院

  昨日、西行庵見学と我拝師山にある捨身ヶ嶽禅定・奥の院参拝に行きました。ここはふもとにある出釈迦寺の奥の院ですが、険しい坂を上らねばならないし健脚でも片道40分もかかるので四国巡礼の遍路の多くは、本寺のみの参拝で済ませている。昔はここは札所であったが、険しい山道を上り下りすることが難しいので、その配慮のためか今はふもとの出釈迦寺が札所となり、奥の院まで登れない人のため、出釈迦寺の境内の奥に、我拝師山に向かい合うように下のような遥拝所があり、ここで参拝できる。


 奥の院参拝前に西行庵を尋ねました。歌聖(和歌)ともいわれている西行はんが五色台(同じ讃岐の国)の崇徳上皇の墓を訪ったのは「雨月物語」などでよく知られているが、出釈迦寺のそばに庵をむすんでいたのはあまり知られていない。私が知ったのも去年である。一度行かねばと思っていたが、今回、出釈迦寺の奥の院に参拝するのでよい機会と思い西行庵を見学した。庵はもちろん当時のものではなく近年になって地元の有志が建てたものである。


 西行庵から出釈迦寺の駐車場の横を通り、山道を少しいくと奥の院登り口がある。ここから登り40分と言われている山の参道を行くのだ。

 登り口に参道の鳥観図が掲示してある。


「えろぅ、急坂に描かれとるなぁ、まぁ、これは描くとき垂直方向を引き延ばし、大げさに描いとるんやろ、こんな急坂なんぞあるはずがないわ」、しかし、上ってみてわかった。ホント、(感覚的には)これくらいの急坂のイメージで間違いない。それくらい急坂だった。

 休みも入れて急坂を上ること50分、奥の院の屋根が見えてきた。(左上


 そこからまだ10分、ようやく山門についた。


 本堂に参拝、御本尊は釈迦如来である。


 本堂裏はむき出しの険しい岩山となっている。ここを上っていくと崖の上に出る。そこが幼い空海が仏に身をゆだねるため捨身行を行ったところだ。私はそこまではよ~登らなかった。



動画にまとめました

2024年5月25日土曜日

明日、讃岐への一日歩き遍路に

  今年初めての一日歩き遍路は3月の私の誕生日に行った五ヶ所参りだった。菜の花や桜、様々な野の花の中を歩きなかなかいいものであった。このときの五ケ寺は大河を渡り徳島平野の平坦部にあったため、上り下りの苦労はなかった(石段を除いて)

 そして明日・日曜日は今年に入っての二回目の一日歩き遍路をしようと思っている。今回は山登りで上下の登りがある巡礼である。といっても高い山ではない。現在の私には程よい山である。

 去年の6月、出釈迦寺に参拝したが、後方の我拝師山には、よ~登らなかった。なにせ一日で五ケ寺を参り、徳島に戻ってこなければならないので残念ながらこの時はパスした。下は去年の参拝時の写真



 そして明日、天気も一日持つようなので、歩き遍路のメインを出釈迦寺奥の院である我拝師山の堂にして、これを参拝し、できれば幼い時の空海が仏に身をゆだねるため崖から身を投げたという捨身が嶽も参拝したい。


またブログの参拝記で動画などをアップしようと思っています。

2024年5月24日金曜日

最近の新聞の術語(用語)はジジイにゃ難し

  ジジイでもAIについて知らにゃ、新聞の内容で読めない欄が出てくる。わが県には「〇く新」というローカル紙がある。地方の情報が満載され、我が地方の細かなニュースが知れるため昔から暇なジイさん(バアさんも)は新聞の隅々まで読んだ。全国紙に比べれば貧ちょ小マイ(ひんちょこまい)新聞だが県内の占有率は47都道府県それぞれにあるローカル紙のトップに近い高さだ。


 そうやって隅々まで読んだのである、それどころか、なんもすることがなきゃぁ、ま一度第一面の最初から目を通すくらいの念の入れようだった。しかし最近はローカル紙でも難しい用語(術語)、例えば先の「AI」が頻出するようになった。ちょっとしたインテリが読むと思われている大手新聞のN紙などは経済紙ということもあってか毎日AIについての記事が数本ある。わが地方紙も毎日1本か2本は掲載されるようになった。今日の記事にもAIについて書いてあった。『オープンAI云々』とあるが、AIでもわからない高齢者が多いのにオープンAIとはなんのこっちゃ?、わけわからん!パスする高齢者が多いのじゃないだろうか。

 この記事は二つの企業同士の連携の話なのでAIそのものの意味とは関係ないため、記事全体が意味不明となることはないが、オープンAIを所有する企業が今日的にどうゆう価値があるのかはわからないから、やはりオープンAIはどのようなものか知っていることは重要になる。特に投資や株価に注目する人にとっては。

 こんだけ新聞に(それもローカル紙まで)AIが頻出するようになって、やはり(ワイのことであるが)何冊かの本を借りて表面的にでもAIを理解しようとすることは良かったと思っている。まぁ、いつまでにそのオベンキョが終わるかちょっと言えないが、中途半端におわっても新聞にその用語が出てきただけでビビッてパス!ということもないじゃろ。ITやAIをそこそこ理解して新聞のそれらの欄が読めるようにという願いは、ワイのオベンキョが進めば見通しは明るい。


 と思いつつ、今日の同じローカル紙にこんな記事の欄もあった。でたぞ、まずジジイが聞いたことのない用語『性自認』、こちらはオープンAIのようにカタカナ語+英略字でなく、漢字なのでなんとなくわかるが、その定義やどのような用い方をするのかは全然わからない。記事を読めば、性的なマイノリティに関する争いである。争われる元となった事柄自体はジジイでもわかるが、『性自認』は人格権なのか、また秘密厳守されるべき(当然法的にも保護される)プライバシー権なのかイマイチわからない。

 でもとりあえず、『性自認』の定義だけでも知ろうウィキなんどで調べれば、ますますこんがらがって理解にはほど遠くなる。定義(何かの説明)がよ~わからん用語がわんさと出てくる。「生まれた時の性」、「戸籍の性」、「自分のアイデンティティとしての性」、そして最近新聞でもテレビでもよく聞くようになったLTBT、これはレズ、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダ、の頭文字の略とわかるが、時代の変遷とその範疇が微妙に変化し定義も男性同性愛者でも、ゲイとホモにも違いがあるようだ。またLTBT+Qというのもあって、はqueer、でこれも男性同性愛者に用いられるとなると一体その範疇や定義はどないなっとにゃろと混乱する。

 AIのように全然わからなければパスして読まないが、こちらのほうは生半可な知識があるだけに、誤解して読まれたり、差別を助長しかねないような受け取り方をする高齢者もいる。定義やその語そのものの意味を知るのはやさしい。しかしその用語を知ったところで、気をつけねばならないのは、われわれ高齢者の日常の言葉、普段のやり取りのなかに、それを生半可に、あるいはあいまいにその用語を使って、差別やまたこの記事のように暴露が知らず知らずおこなわれることである。それが結果として大事になることを考えると、用語の意味、その用いられ方などは慎重さが要求される。これはAIの用語使用より難しい。

2024年5月22日水曜日

しょぉもないワイのエントロピのエピソォド 

  飽きもせず毎日持ち歩くカバンの中にはエントロピの入門書や概説書の類が一冊は必ず入っている。常時持ち歩いているくせに(もっともどの本も以前数度は目を通しているが)ほとんど読まない。こちらの方は飽きもしない常時携帯の習慣と違い「飽き」が来ているようだ。ほななんで常時持ち歩いているのかと言えば、いつどこでもエントロピについて勉強できるという、いいわけ、身構え、フリに過ぎないようだ。

 そもそもエントロピーがワイの頭に初めて入ったのは、高校生の時だった。このブログの右上に高校時のワイの写真があるがこのころだ。だから56~7年も昔だ。とはいっても高校の物理を通してではない。高校物理の「熱」に関する内容は電気や力学とくらべればお粗末なもので比熱とかジュール定数、気体の状態方程式が出てくるくらいのもので、熱の本質にかかわる分子運動論やエントロピーの勉強についてはかすりもしなかった。今から思うと確率・統計を駆使する「分子熱運動論」は高校生には難しいので無理もないが、エントロピーについては初歩や入門、いやその「さわり」でもいいから、物理の(教科書記述は無理としても)授業で取り上げて欲しかった。

 高校生で知ったのは図書館にある熱の本質とかなんとかいう本であった。今だとブルーバクスの本の類であろうか。その中で「エントロピー」という語が出てきた。当時、その定義については本の中で説明はしてあったと思うが、記憶には全然残っていないので、エントロピーという概念を十分理解していたのではないだろう。今も印象深く残っているその本の内容は、この世のエントロピーは時とともに増大し、最後には「宇宙は熱的死」を迎えるというものであった。まるで黙示録のおそろしい未来予言のようにそれは心に響き、なにかまがまがしいもののようにエントロピーを感じた。

 何をやっても所詮は無駄、エントロピーは増大の一途をたどり、熱的死となる云々、は強烈なインパクトをもたらし、もっと知りたいという欲求が高まった。このころ、頭の中でこのように考えていたのを思い出す。

『宇宙を単純にモデル化し、熱的に閉じられた系として考えるのなら、こんなモデルはどうじゃろか、断熱して他に熱の授受のない大きな風呂桶の湯を考える、最初はその湯は一様の温度ではなく部分的に熱いところもあるし冷たいところもあるとする。例えば半分が100℃で半分が0℃でもよい。このような熱分布の湯桶の湯は時とともにダイナミックに動く、対流がそうだ。その運動力や熱の移動によって突き動かされ、さまざまな現象、変化が起きる、それを宇宙の神羅万象と考える。しかし時とともに温度は均一化し、全体が同一の温度になった時、動きは止まり、熱の移動もなくなる。そして永遠に変化のない湯船の湯になる、これがいわゆる(宇宙の)熱的死ではないだろうか』

 とまぁ、これがワイの高校生で考えられた精いっぱいのエントロピーについての手前勝手な理解じゃった。

 その後、それ以上エントロピーについての理解は進まなかった。エントロピーについてはっきりとした定義や数式で一応(形式的に)理解できたのは、就職活動の一環として(ビル管理の仕事が楽そうじゃからいっちょやってこまそ、と思い)国家資格である「ボイラ技士」と「冷凍機械責任者」を独学で、テキストを中心に勉強したからである。

 冷凍機械のテキストに理論として必ず載っているのは「カルノーサイクル」とその図である。これは理解しなくても国家資格の合否にはほとんど関係がないが、冷凍理論としての基礎理論なので載せざるを得ないのだ。でも私は高校の時から興味があったので他の参考書にも当たり、カルノーサイクルの理解に努めた。カルノーサイクルは左上の肖像画、カルノーのお兄さんが(彼はコレラで若死にするのでお兄さんと呼んでもいいだろう)、19世紀のまだ早い時期、つまり熱の本質は何かまだわかっていなかったとき、熱のやり取り(高熱源から低熱源へ)によって最大限の動力を引き出すよう考えられたのがカルノーサイクルである。このサイクルのみそは「可逆サイクル」であるということで、逆にサイクルを動かせば低熱源から熱を汲みだせるのである。ただしこれは理想的な熱機関であり、現実にはロスが生じ、可逆機関とはならない。


 このカルノーサイクルによって数式的な意味でのエントロピーは理解できたが、どうもしっくりと身につかない。

 エントロピーのついての理解はカルノーサイクルによるアプローチもあるが、別のアプローチもある、数式で表すなら対数関数を用いた次の式である。Sがエントロピとなり、Kは定数、Wは乱雑さ、情報のあいまいさとなる。 


情報のあいまいさや、乱雑さから導き出されるこの式の方がワイにはわかりやすくすっきりしている。対数関数は高校一年の数学で出てきたし、若い人は知らんだろうが、昔、計算機もろくになかった時代、「計算尺」というのがあった。ワイも20歳くらいの時、主に興味から買った。この計算尺の理論は対数に基づくもので目盛りの間隔が対数関数の変数になっていた。なんで高次な桁数の計算が手ンごろ易くできるのか、計算尺をももぐりまくって考えたことを思い出す。

 カルノーサイクルによる定義はいまいちよ~わからんが、対数関数によるエントロピの定義のほうが理解しやすい。

 あ、付け加えると、ボイラ技士と冷凍機械の国家資格は合格率が高いこともあって両方とも合格し免状はとった(2級と3種だが)、しかしとっただけで就職に結びつくこともなく死蔵している。

 そうそう、このボイラと冷凍機械を同時に勉強してた時のこと、一方は熱を出し、一方は熱を吸収する、全く真逆の機械だが、これをくっ付けたような機械があり、面白いな、とおもって考察したことがある。それはボイラによって冷房し、ガスバーナによって冷凍する機械である、ホテルなどでボイラを動かして蒸気を出し、いくつかの過程を経て4℃近い冷水を作り、地下のプールタンクにためその水を循環しホテルの客室を冷房するボイラ装置があり、また大昔、大阪ガスでガスバーナーの炎で作動する「ガス冷蔵庫」があった。それらがそうである。

 考察の結果、動力(電動モータ)で冷房するほうがエントロピーの増加が少なくて済むことがわかり、このような冷房あるいは冷凍装置はかなり無駄な熱を出していることがわかった。だから現在はこのような「ボイラで蒸気を発生させ冷房する」や「ガスの炎で冷蔵する」の機械は廃れていった。でも、一見、熱して冷やすって、矛盾して面白そうなので、こだわってその構造を調べたのである。

2024年5月19日日曜日

ワイが高校の時の弁当のおかず

  昨日、例によって小松島港あたりをふらついていた。天気いいし海風に吹かれようと港の岸壁に向かっていた。途中駐車場があり、そこを横切ればすぐ岸壁である。通っていこうと何気なく片側の工場のような建物の壁に目が行った。そこには大きな二枚の看板がかかっていて、「元祖・フィッシュカツ」と書いた看板とフィッシュカツの絵看板である。


 駐車場を通り抜け、岸壁を歩き始めるとフィッシュカツの工場があった。


 ああ、そういえば小松島はフィッシュカツ誕生の地と言われていて、小松島名産になっているな。と、そう思うだけでフィッシュカツが食べたくなるほど私は好物である。フィッシュカツは高校生の時、お弁当のおかずによく入れられていた。昼、弁当を広げた友人の幾人かもフィッシュカツのおかずだった。独特のにおいがあり、それとわかるのである。この独特のにおいは魚のすり身とカレー粉などの香辛料の混ざった匂いで、食欲をそそるものであった。弁当で魚の練り物食品(さつま揚げ、ちくわ)などをおかずにするときは醤油ベースの味付けで食べた。しかしフィッシュカツは魚の練り物ではあるがパン粉をつけてカツ様にしてあり、カレー風味もあってウスターソースをつけて食べるのが一般的だった。

 私らの(県西の田舎だが)世代は、小中高校はずっとお弁当だった。小学校の時は家が近い場合は昼時、家に食べに帰る子もいたが、私は弁当だった。その経験からいうとフィッシュカツが弁当のおかずに使われ始めたのは、私が高校生になってからだった。だからそれまでは県西部に関する限りフィッシュカツは店頭では見かけなかった。このあたりで一般的になったのは昭和40年か41年ころである。ネットでフィッシュカツの誕生を調べると、小松島で生まれたのが昭和30年と言われているそうである。県西部まで普及するのには時間がかかったようだ。昭和30年代といえば、うちら近所の食品雑貨屋もまだ冷蔵庫冷蔵棚などがなかった時代で、ここ県西にまで流通し始めるのは冷凍トラック等などの冷凍流通が発達してからだろう。

 この時、近くの店頭に並んだのは長方形のフィッシュカツであった。下の写真の左が長方形のフィッシュカツである、今は右の楕円形が一般的である。そしてこのあたりの人はそれを単に「カツ」と呼んでいた。フィッシュカツなどと呼び出したのはずっと後のことである。どこで作っている(元祖)のかも知らず、小松島名産と知るのもずっと後のことである。



 この頃(高校生のころ)の小松島名産と言えばいわゆる『カツ』(フィッシュカツ)などではなく「竹ちくわ」であった。また港の風物詩といっていい小松島港駅のチッカ売りのオバサンも旅客のあいだでは有名であった。阿摂航路(徳島~大阪・神戸)の出発地であったこの港は当時ずいぶんにぎわっていたのである。私も家族に連れられて京阪神への往復の時、チッカ売りのオバさんからこの竹ちくわを買い舟や列車の中で、まるでトウモロコシを食べるように手でもって頬張ったものである。

2024年5月17日金曜日

清少納言の墓

  昨日、鳴門の岡崎海岸に近い「あま塚」に行ってきた。ここは清少納言の終焉の地という伝説があり、墓もある。今年の大河ドラマでも清少納言が出てくるので、それと関連して、いまちょっとした観光のおすすめスポットではないだろうか。

 ただし墓と言っても確証のあるものではない。清少納言の終焉がこの地だったという地元の伝承(口伝によるものだろう)をもとにしていて墓がたてられたようである。現代人の常識的感覚では「墓」はその人の遺骸や火葬後の骨灰が埋められているところであるが、千年も前の歴史的人物にその常識は当てはまらない。清少納言のライバルといわれている紫式部の墓あるいは墓所というのも各所にいくつかあるようだが、この場合も、そこに彼女の遺骸、骨灰、あるいは髪の毛などがあるわけではない。むしろこれは墓というより「供養塔」とでも呼んだらいいものではないだろうか。

 地元民の口承ということで確証はないからここが墓というには疑問だ、と思われる方もいるかもしれないが、後世の人が建てた供養塔というならば広い意味で墓と称してもいいと思う。千年も昔の人である、そう目くじら立てることもあるまい。

 このお堂の中にその供養塔(宝篋印塔)がある。


 この墓所のあるあたりは今は住宅や農地(サツマイモ畑が多い)が広がっているが、下図の江戸時代の阿波名所絵図をみると、墓所のすぐそばまで磯浜が迫り、清少納言の塚と称する供養塔(五輪の塔)はかあるいはの中島にある(弁天社はこのように池の中にあるがそれとよく似ている)


 鳴門駅近くの観光案内所で簡単な地図をもらい案内所の人に説明を受けたが、かなりな距離があるようである、おまけに方角もわからない。しかし岡崎に家のあるA君がちょうどその観光案内所から帰るところで、道がわからない私のために一緒に歩いてくれた。道々ここ鳴門の歴史や風土、伝承などについての話をしてくれた。墓所の観光より、彼の話の方が面白かった。気のいい青年で記念に一緒に自撮りをお願いしたら快く引き受けてくれた。

2024年5月13日月曜日

虫刺されの季節がやってきた

  3日前の昼過ぎ、快晴だが気温低め、風がやや強く吹いている。五月の薫風とでもいうべきさわやかな風だ。例によって目的もなく日向の往還をウロチョロ歩いていると小公園があった。歩いても暑くはないが日差しがかなりキツイ。木陰を求め公園内に入り、木陰になっているベンチを見つけ腰を下ろし、手足を弛緩させてくつろいでいた。気分は上々、その時右わき腹に近い背中にチクリとした鋭い痛みがあった。その瞬間だけの痛みであったが、どうも虫に刺されたような痛みである。虫刺されとすると、下着とシャツ、薄手のジャンパを着ているので、それを通して刺されたのではあるまい。何かの虫が下着の裏に侵入し刺したことが考えられる。

 まさか公園内でストリップするわけにはいかないから、ズボンからシャツを外に出し、下着のなかに手を入れて刺された部位の皮膚を触ってみるがそれらしい虫を手指で確認することはできなかった。ベンチを見ると蟻が這っているので蟻かもしれないとおもったが、実のところわからない。まる一日以上たった昨日、その背中を手指でなでるとプックリ膨れている。触ると少し痛くて、しばらくするとかゆみも出てきた。これは虫刺されに違いないと、遅まきながら虫刺されの薬チンキをつけた。一日たった今もその部位は腫れていて軽度だが痛みともかゆみとも表現できないような複雑な違和感がある。普通、蚊などに刺されたらすぐにかゆみが出てくる。この発赤とかゆみの遅さは蚊とは違う害虫に刺されたのだろう。

 これから気温も上がり湿度も高くなる。害虫が出てくる季節となる。蠅だのゴキブリだのは、ワイはあまり気にしない。家にぞろぞろ這おうがブンブン飛ぼうが、なんちゃかんまん、と思っている。嫌なのはワイの身体を刺したり、吸ったりする害虫である。蚊、ダニ、南京虫、ムカデ、ハチ、などである。

 数年前まではそれが嫌さに、殺虫剤を必要以上にたくさん振りまいていたが、薬剤の方が体に悪いのでやめた。家の中は、ものすごっく、ひこづりさがしている。害虫発生には好条件を提供しているようだ。それなら片付ければいいと思うが、ものぐさなのでそれもよ~しない。言い訳としては我が家の昆虫の世界にも生態系があって、我が家独特の捕食上位者の昆虫の生態系ピラミッドが存在する。例えば蠅とかダニが増えればその捕食者のクモ類(ハエ取りグモ)が増え、ぞろぞろ出現して蠅やダニの数をある一定数に抑えてくれる。というものだ。それでいえばうちの家の最上位のプレデタァは(捕食者は)ムカデだ。それが証拠に害虫の季節になると、たくさんのハエ取りグモが元気に飛び回っているし、夜は大中小のクモが這いまわっている。クモはワイを刺したりもしない、完全な益虫である、クモはワイにとって、愛(ぅ)い奴よのぉ~!である。

 ただ蚊だけは家に中に関する限り、捕食者の昆虫はいないので「電気蚊取り器」を使っている。しかし蚊には外で思いがけず刺されることもあり、季節ともなればある程度蚊に刺されるのは覚悟している。大昔、まだワイが若かったころは、かなり重度の(偏りはあったが)害虫忌避症であった。蚊に刺されると日本脳炎にかかるかもぉ、とか、蚊によってフィラリア原虫が血中にもたらされ、金玉(陰嚢)がドッジボールくらいになり、タヌキの大金玉と陰口をたたかれ、日陰の身で一生過ごすのか、とか心配したが、この歳になるとまぁそんなのは杞憂だ。

 しかし数日前のように、蚊以外のわからん害虫に刺されるのはちょっと気になる。一年に数度はこのように何の虫やらわからぬものに刺された発赤、かゆみ、その部位の重い鈍痛がある。正体がわからぬだけに大事になりゃすまいかと心配する。


 大昔、アンモニャとか唐辛子チンキの入った水薬の「きんかん」というのがあり、虫刺され(肩こりにも)よく効いたが今はないようだ。祖父の薬箱にはいつも入っていて、かなりなかゆみでもこれを塗るとおさまった。ネットで見ると写真が出ていた。そうだこれだ(左写真)。大昔のこのコマシャルソングも思い出したぞ。♪~キンカンぬってまたぬって~肩の痛みに~キンカンぽん!何とかかんとかで・・嫁をもたさにゃ、なおらない~ て、治るのは薬じゃなく嫁を持つからなのかよ、と突っ込みを入れたくなるなんとも不思議な歌じゃった。

2024年5月4日土曜日

岡崎海岸から

  大昔、帆船しかなかった時代、本州から阿波への路(みち)は、できるだけ海路が短くなるようにたどるのが無難とされた。そらそうだろう、天候に左右され、海難の恐れも多分にある木造の帆船である。旅人もそれを望んだ。それでいうと阿波へのもっとも短い海路は明石海峡を渡り、淡路島の陸路をたどり、島の南端の福良から鳴門海峡を渡り、鳴門の岡崎海岸当たりに上陸するコースである。文字通り淡路島は阿波への通路、「阿波路島」(あわじしま)である。大昔の旅人は、できるだけ陸路をたどり歩くのである。歩きのみでは金はかからない。しかし舟を利用すれば船賃が入用になる。とくに路銀などない遍路や巡礼者は必要最低限の船旅しかしなかった。だから淡路島から漁船などの小舟をたのみ鳴門の岡崎あたりに上陸したのである。


 連休の今日、岡崎海岸は多くの人でにぎわっていたが、現在ここから淡路に向けての船の発着はない。しかし四国巡礼が盛んになる江戸中期以降ここ岡崎はその玄関口の役割を果たした。


 海岸から数百メートル進むと、このような石の道しるべが立っている。四国へんろ道と読める。このみちをたどり一番札所霊山寺へ向かうのである。


 四国へんろ道の道しるべは残っているが、もう今はここから四国へんろを始める人はいない。だが昭和60年ころまでは淡路の福良港とここ岡崎を結ぶ巡行船があった。ちいさなポンポン船で旅客と自転車しか乗せなかった。まだそのころはお遍路さんもこのコースをたどり八十八か所の打ち立てをここから始めた人もいた。遍路ばかりでなく無銭旅行に近い長旅をする貧乏学生もいた。そんなことを考えながら歩いていると70mくらいの高さの妙見山が迫ってきた。山上に公園があるので登ろうと登り口を探しているとこんな看板があった。


 もう廃業してずいぶんになると思うがなぜまだあるのかユースホステルの看板である。安く旅行をしたいと考えている昭和の若者が利用した格安の全国的な宿泊施設である。私も全国あちらこちらのユースホステルでよく宿泊した。右に見える手すりのある石段を上っていくと妙見山公園に行くが、途中廃墟になったユースホステルがあるはずだ。しかし草木がずいぶん生い茂っており見つけることはできなかった。山上には妙見神社があった。

2024年5月3日金曜日

5月3日新聞雑感

 憲法記念日

 あんまし政治向きの話はしとぅないんやけど、今日の新聞見ましたか?憲法記念日ということもあって憲法について話題が第一面にどの新聞もとりあげてました。憲法と言えばその改憲について様々な意見があるし、あって当然なんだけれど、個人がそれを表明したとたん保守か革新か、政治的に分けられ、レッテルをつけられるのが嫌ですね。

 おもっしょいことに国民をあいてに憲法改正についてアンケト調査をすると、調査したのが同じ日本国民であるにも関わらず新聞によってほとんど真逆と言っていいほど結果が違うようです。新聞社によって政治的主張が違うのはご存じのとおりですが、革新押しのA新聞はアンケト調査で国民は憲法改正には反対ないし慎重が多いちゅうし、保守的な新聞SやY新聞なんどは、過半数が改正支持と宣ってますわ。どっちゃが正しいやら、よ~記事を読むと、さすが頭の良い人が集まっている新聞社ですわな、アンケト調査の質問の文が、なにゃら誘導尋問みたいで、自分の新聞社の主張に近づけるよううまぁ~く作ってますなぁ。一応、どの新聞もどんなアンケト調査の質問か、その項目を書いてますから皆さん確かめてみてください。

 ところで、お前ぃは、いったい憲法についてどないに思うとんぞい、と聞かれるかもしれませんが、先ほどもゆうたように政治向きの話は、しとうおまへん。とくに改正賛成か反対かで保守じゃの革新じゃとレッテル貼られるのがねぇ。

 こちらもまたおもっしょいことに、革新と名乗る方が実のところ保守で、保守が革新的となってまへんか?77年間も憲法を変えてまへんが、それを一字一句も変えたらあけへんちゅう党もあります。これなんどはどう考えても保守でしょ。日本は西暦1640年ころからいわゆる鎖国(ホンマは貿易・出入国管理体制)を祖法とし210年間も(ペルリが黒船で現れるまで)守ってきましたね。これなんかはまさに保ち、守る、すなわち保守でしょ、憲法を80年も変えずさらにそのまま守ろうとするのは保守と言われても当然ですね。そして保守を名乗る党が時代にあった刷新を憲法に求めるのですから、憲法に対してはこりゃ革新でしょ。

 まぁ、鎖国をいう祖法を守り保ったため平和的で爛熟した江戸社会ができたのですから210年の保守もよかったとは思います。しかし、黒船の衝撃で、江戸社会は大衝撃を受け、あっちゅうまに、明治維新となり近代化社会に国民あげて突入しますから、憲法の保守も、いつか国家が生きるか死ぬかの大衝撃を受けたら、同じ日本国民のことですから、こちらもあっちゅうまに憲法は大きく変わるんじゃないでしょうか。それまでは別に憲法いじらんでも、ペルリが浦賀に来たような衝撃があるまで惰眠をむさぼるのもいいかもしれません。今は平和憲法のもと江戸時代と同じ太平の御代を生きよるんじゃと思うてまひょ。

映画の評論欄


 ワイの4月21日のブログで「異人たち」の映画を取り上げてワイの感想も書いた。人に積極的に薦める映画じゃないと書いたが、今日のローカル紙にその評論が載ってた。ワイの感じたこととよ~似たことを書いとった。ワイは次のようなことをブログに書いとったわ。

『イギリス映画で題は『異人たち』です。一昨日は封切り日でしたが、思っていた通り人気のない映画で午前11時から始まったのですが、ワイも含めたった二人の観客でした。事前に予想されていた通り地味で暗い映画でした。確かに人気が出るような映画ではないのですが、それでも惹かれていったのはこの映画は、35年前の日本映画、山田太一原作脚本、大林 宣彦監督の『異人たちの夏』のリメークだったからです。30代にそれを鑑賞し、感動したいい映画だった思い出があったからです。古い映画だがそのため筋も配役もよく覚えていました。

それでイギリス映画のリメーク版も見たのです。これは「面白いから見てみなはれ」と人に積極的に薦める映画ではありません。というのも日本のオリジナルの通り、幼い時に亡くなった父母と40歳になった一人息子の出会い、そして昔を取り戻すようなしみじみとした親子愛、別離の悲しみを描いているのはその通りなんですが、オリジナルでは(この世のものではない)彼女と(両親のとの再会と同時に)出会い愛し合うのですが、イギリス版ではその恋人が若い男になっているのです。つまりゲイということになります。現代風と言えばそうなんだけれども、大昔オリジナルを見て、よかったわぁ、と思い出のある人に(もう高齢になっているでしょう)見てみなはれとはちょっと言いにくいですね。

 でもそんな古い映画の記憶もない、まっさらピンピンの若者には見る価値のある映画かもしれません。大都会のロンドンでお互い孤独を抱え傷つきながら生きていく男二人がひかれあい、寂しさや冷たさをいやすためお互いすり寄り体を温めあう(象徴的にいえばです、映画ではもっと露骨だが)ことに現代の若者はそう拒絶感は感じないんじゃないかな。もちろんオリジナル通り一方は死せる者なんだけれど、日本版とちがいこちらの恋人同士はほのぼのとした終わり方になっているのがイイ。』

若者(わかいし)の惜しい生


 県南で18歳の青年が3人もなくなってから一週間たつ。しかし今日もY新聞のローカル欄にそのことが載っていた。それだけ若者の早い死は衝撃的で、いまだにあきらめきれない人々や社会の思いが渦巻いているのだろう。私もそうだ。このニュスを見るたび悲しくなる。ワイに子はいないが、もし自分の子がこんなに早く不慮の事故で旅立ったらどんなに悲しいだろうと充分想像はつく。ジジババばかり増えて若者は減っているのに、18歳のわかいしが死んでどなんなるんぞい。命を取り返すことができるなら、時を巻き戻せるなら、と不可能ではあってもそれを強く思ってしまうことが悲しい。



 そしてもう一人は20歳で老夫婦殺しに加担した若者である。全国的に耳目を集めたのはその若者は10年ほど前の大河ドラマで主人公の幼少時を演じた俳優だったことである。役は実年齢と同じ10歳くらいで、見るからにかわいらしいが、しかし凛々しさも兼ね備えたいい子役だった。なんでまた。どこでどう道を間違えた。よりによって殺人に加担するとは、多くの人、そして私が思ったのもそのことであった。続報が今日の新聞にも載っていた(ローカル紙に)。関心の高さがうかがえる。

 どちらの若者ももう取り返しがつかない。まったく惜しい生であることよ。



歯抜け老人の福音かと思ったが・・


 記事を見た途端、おお、これは、歯抜け老人にはいいニュースだ。とぬか喜びした。しかしよ~く読むと。

 毛生え薬ならぬ「歯生え薬」が開発されそうであるというニュス。昔から中高年の悩みは薄毛が進むことと言われていた。だから毛生え薬は切望されていた薬である。しかしワイに関してはずいぶん薄毛だが、それは全然気にしていない、薄毛が進み、つるてんピンカになろうがなんちゃかんまん。毛がのうて死ぬわけでもない。しかし歯は違う、歯抜けジジイは、見た感じがみっともないちゅうんもあるが、咀嚼できなくなれば、味わいもなくなってくるし、また消化にも悪く、いろんな病気になりやすくなるといわれている。統計を取ると歯抜け老人は平均寿命も短いそうだ。

 そんな歯抜け老人にとって歯生え薬は夢のような薬である。もう一度まっさらピンピンの歯が生えてくるなら、これほどうれしいことはない。回春剤にも匹敵する。しかし記事を読むとこれは先天的な無歯症の患者で対象は2~7歳とのこと、歯抜け老人は対象でない。最後まで読むとずいぶん気落ちする。しかし、これから発展すれば当然、歯抜け老人も治療の範囲に入ってくるとは思う、しかしそれが実用化されるにはかなりの年数かかりそうである。それまでワイはよ~生きとれへんわ。