2022年4月30日土曜日

とっとのむ~け~

  70年近くも昔、明治育ちの祖父母に育てられたためか、かなり狭い地域限定の方言に類する「その地域独特の幼児方言」を聞き、また舌足らずの口でまねて育った。その多くは死語となり忘れた言葉も多い。

 今日、甘夏ミカンを買って食べながらその一つを思い出した。温州ミカンなどと違い夏みかん、ハッサクなどは外皮も厚いし内皮も特別のむき方をしなければならない。幼児にはとてもできないから、祖父母が外皮をむき内皮もむいてくれた。内皮を袋のチャックを破るように裂き皮を外にくるっと反転させると実がプリッと出てくる。その動作を行い下のように食べれるようにしたのを、祖父母は

 「とっとのむ~け~」

 と呼んだ。おもしろい言い方だ。語源としてはニワトリ、そして残酷だがシメたあと毛をむしった形から来たような推理もできる。70年も昔のウチの地域限定のそれも幼児言葉である。もちろん国語辞典にも方言辞典にも載っていない。もしかするとそれを聞いて今記憶に残っているのは私だけかもしれない。まさに「死語」だ。


 今日は天気がいいので諏訪神社と椎ノ宮神社に行ってツツジの動画を撮影した。

4月追加記事

  藤の名所といえば私の地元にもあった。その名も藤井寺11番札所

 4月25日 藤井寺の藤

 藤井寺山門


 色が紫、赤紫、青紫の三種の違った藤棚がある。

 


 赤紫



 青紫


4月24日 展示物の追加説明

 先日見学して気になっていたこと(鍛冶屋原線廃線50周年記念展示のブログ参照)。下の鉄道用手提げランプを見たとき、「あ、これ、もしかしてアセチリン灯じゃないんか」とおもったが説明員(私よりずっと若い)に聞いてもわからないという、確かめようもないままそのままになっていた。そもそも鉄道の手提げランプでそんなアセチリン灯なんどあるのかネットで調べた。アセチリン灯は60年以上も昔、主に夜店のテキヤさんが照明として利用したのがこれ、基本的には松明やろうそくと変わらぬ灯火(つまり炎)の照明となる、カーバイトに水を加えて発生するアセチリンガスを燃やしてそのいくらかまばゆいその炎で照明するものだ。独特のにおいがあった。もう70歳以上の人しか知るまいが。


 ネットで調べると昭和の初期ころまで実際に鉄道でアセチリンランプは使われていたそうである。ワイの独断かもしれんが、展示で見たのはおそらくアセチリンランプに間違いないと思う、どう見ても電池式の照明器具には見えない、分厚い真鍮製、そして台がまるでボンベのようになっているのからみてそう結論付けた。ちなみにネットで出てきた(鉄道用)手提げアセチリンランプは左のようなものである。よく似ているのがわかる。

 アセチリンランプ!あなた実際に見て知っていますか?と問うて知っていると答えれば70歳以上であることは間違いないだろう。

 「若い衆(わかいし)!昔しゃぁ、こんな照明もあったんでよ」

2022年4月25日月曜日

鍛冶屋原線廃線より50年

  昨日、上板町歴史民俗資料館で鍛冶屋廃線50周年を記念して「なつかしの鍛冶屋原線」の展示をしていたので見学してきました。

 昭和47年1月15日をもって鍛冶屋原線は廃線になりました。私は3~4歳くらいまで終着駅の「鍛冶屋原駅」のすぐ裏に両親と生まれたばかりの妹とすんでいましたが、あまりにも小さかったので実のところ駅の様子やどのような汽車が走っていたかは覚えていません、ただ家から見える夜の駅の信号機の赤や青のランプの光をぼんやり覚えているくらいです。その後吉野川を越えた南岸の町にある祖父母の家に引き取られたので廃線になるまで鍛冶屋原線には乗ることはなかった。

 鉄道路線廃線は利用客の減少がその主原因である。モオタリゼイションの波に多くの国民が乗り、廃線の一端は自家用車利用により列車に乗らなくなったことが原因である。しかし、いざ廃線となると感傷的になる人が多い。それならもっと乗っておけば、とまでは自家用車の便利さを考えればそうは思わない。しかし廃線の日には鉄道ファンだけでなく哀惜の念に駆られた人が大勢押しかける。

 今日その廃線記念展示をみて、その当時の哀惜の念に加えて、すでに50年という月日がたち、老体の我々はその半世紀のいろいろあった過去を感傷とともに振り返る。それに加えてわたしはさらにそれから20年近く遡り、鍛冶屋原駅裏にあった二度と帰ってこない一家団欒のおぼろな過去を思い出す。

 写真1 鍛冶屋原線最後の記念列車出発の様子(昭和47年1月15日)


 写真2 そのときのヘッドマークと日章旗が展示されていた


 写真3 在りし日の終着駅鍛冶屋原のホーム


 写真4 もう走ることのない板野から鍛冶屋原の行く先表示ボード


 写真5 当時の定期、切符、運賃をみると当時の物価がわかる

2022年4月23日土曜日

石井フジめぐり

  石井町で藤祭りが開かれている。期間は4月15日~5月3日まで、コロナの影響で特別なイヴェントはないが会場には飾り提灯がぶら下がり旗がはためいていて、藤見客を呼んでいる。会場は三カ所、①地福寺 ②徳蔵寺 ③童学寺である。

 ちょっと遠出ではあるが駅からワイのお好みの藤の名所を歩いた。コースは石井駅~地福寺~前山公園~童学寺である。土曜日ということもあって見物客はそれなりに多かったがほとんどは車で見に来た人でワイのようにテクテク前山公園や童学寺まで歩いている人はいなかったようだ。

 全般的にいえることだがすこし盛りは過ぎている気がしたが、それより今年は例年より藤全体の花房の数が少なく、見ていてもしょぼいのである。これはどうしたことか。果物の木などは当たり年とそうでない年があるが藤のような花木にもいえるのだろうか。

 地福寺の白藤は例年遅咲きなのでちょうど今頃から見頃を迎える。


 コロナ前はイヴェントで藤娘大会があったが、今年はそんなのはない。地福寺の藤棚を通して向こうに乙女(?)二人が見えている。顔は見えないがたぶん美しい藤娘なんだろう。


 地福寺から前山公園まで歩く、半時間くらいかな、下が前山公園の半トンネル状の藤棚


 そこからさらに童学寺まで歩く、汗だくになりながら童学寺につく。前にはため池があり野生の山フジがきれい。


 童学寺山門


 童学寺藤だな



 以上が今年の石井町の藤ですが、先にも行ったように花房の数も大きさも今年はショボい、フジさんも3年間にもわたってコロナの影響でイヴェントはないわ、見る人も少ないわで、たぶんドクレ気味で花をあまりつけないのかもしれない。

 ちなみに去年の石井町の藤のブログみてみましょう(ここクリック) どうです、今年の方がショボいでしょ。

2022年4月21日木曜日

ワイの生きた現代史

 ワイほどの歳になると直接的な経験はなくても若かりし頃の大事件・世界的ニュスなどは新聞、映画、テレビ、そしてそれに影響された社会の風潮などリアルタイムで見て経験しているので、ちょっと大げさかもしれんが、長生きしたジジ・ババの記憶はまぁ『生きた現代史』といっていいだろう。

 この場合「現代史」とはあまり過去には遡っては現代史とならない、まず近代史と現代史の境目をはっきりすると、衆目のみるところに日本史、世界史とも「近代史」は「帝国主義の時代」以降とみられている、日本史でいえば「近代史」は明治維新以降となるだろう約150年びゃぁ前である。だから現代史をあまり遡ると近代史との区別がつかなくなる。これも人それぞれ意見はあろうかと思う。現代史は日本の敗戦以降という人もいるがもう80年も昔であり、現代史というには古すぎる。そう考えると少なくとも50年以前には遡れない。だから満71歳まで生きたワイらは『生きた現代史』ともいえるのである。

 中学生ともなれば牛に踏んづけられたり馬に蹴られたりする心配もなくなり身体的にも精神的にも自立が進むようになる。その中学生になったのが1963年である。米ソ冷戦があわや核戦争となるかと思われたキュウバ危機が前年であった。さすがにその詳細のニュースはまだ認識できなかったが、それが原因となって全面核戦争になるかもしれぬという社会全体の危機意識はわかった(すこしタイムラグはあったが)。そしてこの年、先月のブログでも紹介した世界全面核戦争の悲劇を描いた「世界大戦争」の映画を見たこともあり(そのブログここクリック)、中学生なりに核戦争をかなり心配したことを覚えている。

 何とはなく危機が去り、というか緊迫した米ソ首脳の角逐がわかったのはずっとあと、まもなく

 ♪~ハァァァ~♪、あの日、ロ~マァ~で眺めた~月ぃ~が、ァァ、ヨイトナ~♪

 五輪音頭に社会が浮かれる1964年、その開会式にまるで合わせるかのようにように中国が(当時は中共といってたが)原爆実験をやった。ワイは中学二年になっていて新聞の一面を飾ったそのキノコ雲の写真を今も覚えている。

 なんや!嫌われ者のロシア(当時はソ連)中国は昔からか。と思われようが生きた現代史のワイから言わせてもらうと全くそんなことはない。むしろ逆で若者はソ連や中共を肯定的に評価していた。当時ワイよりちょっと上の(5年くらい年配か)ワイの中学生のころ大学生くらいの多くはソ連(ロシア)に大変なシンパシーを感じている人が多かった。社会悪や社会格差を憎み、人間らしい文化的な生き方を求める若い人は(今から考えると不思議かもしれないが)世界初の社会主義国(そして共産主義)に憧れた。

 かの国では搾取する金持ちもいない、格差もない、医療教育は平等に受けられる、そしてやがて文化も西側諸国をやがて凌駕するであろうと信じた。初めて人工衛星をあげ、人を宇宙に送ったのはソ連が初で、宇宙ではアメリカを先んじた(いわゆるスプートニクショックである)、そぉ~ら見てみぃ、科学技術でも西側を追い抜き、共産圏諸国はこれからもどんどん発展するわ。やっぱ、これはソ連がすばらしい社会体制をとってるからやわ。

 1960年代、これ、若い人は本気で信じた。ワイが高校生になるころ隣の中国では紅衛兵が登場し若い彼らが社会の大変革である「文化大革命」の主導力となった。かの国では若い自分たちの手で社会の歴史的大転換を成し遂げているという事実に心酔する日本の若者も多くいた。現にワイの高校のそう親しくはなかったが同じ中学から入学したある同級生などは赤い表紙の「毛沢東語録」などをいつも手にして日本の変革を熱っぽくワイらに語っていたのを覚えている。

 そうそう高校の時、生物の先生(まだ30代だとおもうが)がソ連好きで、よくソ連の話をしてくれたがその多くは賞賛が多かったと思う。ソ連はいい国だな、と思わせるような話が多かった。今でこそウクライナに侵攻したロシアを悪の権化みたいに悪くいうが、1960年代後半いまのロシアと同等かそれ以上に若者らに嫌われていたのはベトナムに軍事介入し爆撃を続けるアメリカであった。無辜のベトナム人を殺しまくるアメリカに比べ、当時のソ連も中国も侵攻によって外国人を一人も殺してはいなかった。社会主義・共産主義は平和とイコールだとワイら若者は無邪気に思っていたのである(自国民に対する数千万単位の虐殺を知るのはず~っと後である)、アメリカに悪の権化を感じ、ソ連・中共に見習うべき国家社会の理想を見た人が多かった時代であった。現代史を生きた我々からするとこんな逆さまの時代風潮もあったのである。

 ワイは高校・大学とこの時代の学生にしては珍しくノンポリであり、別に先見の明を自慢するわけではないが、「フン、世の中に、そんな極楽浄土のような理想的な国があるもんか、ソ連や中共にしてもどうせ、見えんところや、社会のどこかにひずみがよって、何かかんか問題はあるわ」と冷めた目で見ていた。とはいうもののこの時代の社会風潮に影響されたのも事実である、情緒面ではロシアにシンパシーを感じていた。高校大学と世界文学で好んだはフランスや英米の翻訳文学よりトルストイ、ドストエフスキなどのロシア文学であった。そうだ!高校の時、友達の家を訪ねたとき、ロシアの雰囲気を漂わせるドーナツ盤のレコードをかけてくれてそれを気に入ったのを覚えている。まだうちにはレコドプレイヤはなく、以後ラヂヲでたまにかかるのを楽しみにしていた。のちにプレイヤーをかってからそのグルプのLP盤を買った。曲は『霧のカレリア』、カレリア地方とはフィンランドに接したロシアの地方である。この曲のフレーズの一部は有名なロシア民謡からの編曲である。したがその曲(インスッツルメント)である。

 

 この時代は電子機器といってもテレビや無線機、レイダーなどであるがまだ「真空管」であった。それがやがて半導体に置き換わる頃、徐々に東側諸国の実態が人々に知れ渡り始めた。もともと東側諸国は人や情報の鎖国体制をとっていたが、それでも次第に東側社会の内部の矛盾が明らかになった。80年代になるともうソ連・中国を西側より進んだ社会と思う人はいなくなっていた。

 ソ連、中共もひどく貧しく、人権や自由を抑圧され、格差も大きいと知り、憧れは消えたが、世界各地で紛争に首を突っ込み戦争に介入するアメリカよりはまだこの二国は他国へ出かけていって人殺しをしないだけましと思っていた。この当時ワイは30前、しかし1980年の直前になって中共のベトナム侵攻、ソ連のアフガン侵攻があってそういった思い込みも完全に吹き飛んだ。幸いなことに91年ソ連が崩壊し自由民主主義の国に再生するのかなとおもったが30年後目にするのは以前のソ連よりなお侵略的なロシアである。もう一方の中国は他国は侵略しないまでも国内の少数民族をむごい目に遭わせているし、国が巨大になるにつれますます他国侵略のポテンシャルは高まっている。

 現代史の始まりと歩調を合わせてワイの人生も歩み続けているが、さて第三次世界大戦あるいは大規模核戦争で現代史のピリョゥドは打たれるのであろうか。

2022年4月20日水曜日

藤の次はツツジ、そして可憐な・・

  藤が咲く頃になると春も闌(た)けてくる。日射しのキツさや日中の汗ばむ暑さを感じるともう初夏の候である。そういやぁ藤のあとの花といえばツツジか。椎ノ宮はんのツツジはどんなだろう?自転車で藍場浜公園から佐古川添いの裏道を通って椎の宮神社にむかった。暑いので上着は脱ぎシャツ一枚である。

 藤が今盛りなのでツツジはちょっと早いかなと思っていたが案の定来てみるとまだ少し早いようだ。


 桜の開花状況に例えると3~5分咲きくらいだろうか、それでも中には満開に近いツツジの灌木もあった。



 藤にしてもツツジにしても(どちらも日本原産だ)公園や花壇に栽培しているのも山に入れば見られる野生の山フジもツツジも花の大きさ色など全く同じである。もともと品種改良の余地がないくらいフジもツツジも自然状態のままが美しかったのか、それとも日本人の本性として自然状態の花々に手を加えるのを嫌ったためだろうか。いずれにしても山にある野生のフジもツツジも栽培種と同じように華やかで全く見劣りしない。

 フジは自然状態では他の木に巻き付き曲がった蔓のような枝でジャングルっぽく絡みつき美しい花を咲かせる。下は野生の山フジ。


 そんなことを考え眉山の山麓の山を歩いているといい匂いがしてきた。ふとみると白い小さな花をつけた茨がある。ノイバラつまり野生の薔薇である。これがそう。


それを見ながら自然状態のままの花を愛でるというのは昔の日本人の本性なんだなぁ、との思いをさらに強くした。ノイバラの有名な句がある。蕪村の

愁いつつ岡にのぼれば花いばら

蕪村は自然そのままの野イバラを愛でこの俳句を作った。

しかし中東や西洋の人々はこのいい香りをもった小さい白い茨の花を人工的に(選択淘汰し大輪になるよう栽培した)手を加えさまざまな大輪のバラをつくった。愛の象徴として恋人に送るのは野生の小さな野イバラではなく何代も栽培を重ね大輪になった薔薇である。現代の日本人も野イバラなんどより大輪の薔薇のほうがいいだろう。

2022年4月19日火曜日

パソコンを買いました

 

 前に買っていたサンキュッパの台湾製のパソコンは安物買いの銭失いの格言通り4年ももたずブチ壊れてしまった。ほぼ一年になる。それ以降ブログは図書館のパソコンかセキュリチィの危うい12年前にかったワイのウィンドウ7で作成していた。今のこの歳から未来に向かってそう長くない人生を眺めると今更新しいパソコンを買っても、十分に「よぉつかやぁしまい」し、それを承知で買うのも銭がもったいない気がして買わずにいた。


 しかしなんでだかよくわからないが「お上」から先々月うれしいことに二度目の10万円の給付をいただいた。子育て世代の給付は聞いていたが、なんでワイに?と思いがけなかったが、くれるものはありがたく頂戴した。(あとで調べると年収、年金が一定以下の貧窮世帯が対象でワイもそれに該当していたらしい)

 財務大臣の麻生さんが給付金は貯金されるより消費に回してくれた方がよいといっているので、お上からもらった給付金でもあるし、そのお勧めのとおりドォ~んと全部使うことにした。10万!国産の手頃なパソコンがちょうどその値段なので思い切って先日、ジョイ○イトで富士通のノートパソコンを買い、調整してもらって本日受け取った。そして早速これを使って図書館のWifiでこのブログを書いてアップした。

地福寺の藤

  前のブログでは石井駅構内の藤と八重桜を紹介したが、本日はその駅から徒歩2分にある地福寺の名物藤をご紹介します。ここ数日昼の気温も上がり暑さを感じるほどだがこの地福寺の藤の見頃もこの陽気にさそわれてか例年より早いようだ。今日見た感じでは見頃を迎えているようだ。

 地福寺山門

 境内の藤棚




2022年4月16日土曜日

藤の花

  県内の藤の名所の一つは石井町の地福寺である。その石井駅構内にある藤と八重桜が見ごろを迎えている。その二つのコラボ写真はなかなか美しい。




 のんびりと藤の花などを愛でているが欧州では戦争がおこっている。平和な現代日本で、もし日本が侵略されたら若者たちは愛国心を鼓舞されて戦うか、と考えたら、まずそんな日本の若者はいないであろうなぁと思う。
 じゃぁ侵略されているウクライナはどうだ。多くの成人男子が祖国の為に戦うという。逆にロシア兵は何のために戦っているのか?ウクライナにいるロシア系住民が虐待されているのを救う、という大義があげられているようだが、ウクライナ人もロシア人も同じスラブ民族で両者とも言語や宗教、文化に大きな違いはなく、お互いに不自由なく言語による意思疎通ができるのである。
 近親憎悪というのがあるが、それにしても殺し殺されるほどか、と思う。そんなにスラブの人々は好戦的なのか。スラブ(ロシア人、ウクライナ人)の人の、歴史という時間の長いスパンで見たかれらの戦争に対する歴史的体験やそれによって作られた「心性」、民族性国民性といってもいいが、それはどんなのだろう。ここは歴史や彼らの文化を勉強しなければそれは見えてこない。

 図書館で先日からユーラシァ史の、ウクライナ、ロシアのルーツともいえるキエフ・ルー氏の建国を9世紀まで遡っての歴史本を読んでいる。そして今日はこのような本を借りた。「イワンの戦争」、ロシアは第二次世界大戦でナチスと戦いなんと2700万人が戦争の為殺された。兵士だけでも数百万死んだとされている。これは他の国の戦死者とは比較にならぬくらい多い。ロシアの悲劇は殺された原因がナチスドイツだけにあるのではない、スターリンを頂点とするロシアの中枢の作為によっても多くの人が死に追いやられたのである。日本も南方戦線では戦争より、兵站途絶、食料不足による餓死で多くの人が死んだがロシアの方が桁違いである。
 表紙にある顔に傷を負い包帯を巻いたロシアの若い兵士の微笑んでいるような表情に胸を打たれる。第二次世界大戦でそんなに悲惨な目にあっているのに、なぜ戦争するのか、と我々は問いたくなる。
 

2022年4月11日月曜日

北島チューリップ公園 黒いチューリップ

  昨日、夏日になった昼過ぎ、北島町中央公園横にある花壇でチューリップの花を観賞してきた。

 チューリップ花壇。向こうにみえる小さな丘の風車のあるところが北島中央公園


 大輪の八重咲のチューリップを見るのは初めて。こりゃぁチューリップというより牡丹の花じゃ。


 私が一番注目したのは黒いチューリップ、品種名は「クィーン・オブ・ナイト」

 「黒いチューリップ」といえばデュマ原作の小説の題を思い出す。17世紀のオランダで起きた異常なチューリップ投機を背景とした物語だ。本来は小アジア原産のチューリップは西洋にこのころもたらされた。美しくて珍しい花は高額で取引され、球根は投機の対象になった。当時のオランダでは大勢の人がそれに狂乱した。それは史実であり、この投機狂乱の風潮を「チューリップバブル」と名付けている。特に希少なものとして高額の値が付いたのは「黒いチューリップ」である。しかしバブルは弾ける運命であり、値は暴落し狂騒の熱もあっという間に冷めてしまった。残ったのは高額の投資をしたが今は暴落してほとんど値のつかない球根のみ、腹立ちまぎれに球根を食べた人もいたとか。

 そんな投機の対象となるくらい黒いチューリップは珍しく、自然状態ではまずありえないから、辛抱強く色の濃い(紫系)突然変異をまち、代を重ね栽培しながら選択淘汰をして黒に近い花びらに近づけるのである。