ワイほどの歳になると直接的な経験はなくても若かりし頃の大事件・世界的ニュスなどは新聞、映画、テレビ、そしてそれに影響された社会の風潮などリアルタイムで見て経験しているので、ちょっと大げさかもしれんが、長生きしたジジ・ババの記憶はまぁ『生きた現代史』といっていいだろう。
この場合「現代史」とはあまり過去には遡っては現代史とならない、まず近代史と現代史の境目をはっきりすると、衆目のみるところに日本史、世界史とも「近代史」は「帝国主義の時代」以降とみられている、日本史でいえば「近代史」は明治維新以降となるだろう約150年びゃぁ前である。だから現代史をあまり遡ると近代史との区別がつかなくなる。これも人それぞれ意見はあろうかと思う。現代史は日本の敗戦以降という人もいるがもう80年も昔であり、現代史というには古すぎる。そう考えると少なくとも50年以前には遡れない。だから満71歳まで生きたワイらは『生きた現代史』ともいえるのである。
中学生ともなれば牛に踏んづけられたり馬に蹴られたりする心配もなくなり身体的にも精神的にも自立が進むようになる。その中学生になったのが1963年である。米ソ冷戦があわや核戦争となるかと思われたキュウバ危機が前年であった。さすがにその詳細のニュースはまだ認識できなかったが、それが原因となって全面核戦争になるかもしれぬという社会全体の危機意識はわかった(すこしタイムラグはあったが)。そしてこの年、先月のブログでも紹介した世界全面核戦争の悲劇を描いた「世界大戦争」の映画を見たこともあり(そのブログここクリック)、中学生なりに核戦争をかなり心配したことを覚えている。
何とはなく危機が去り、というか緊迫した米ソ首脳の角逐がわかったのはずっとあと、まもなく
♪~ハァァァ~♪、あの日、ロ~マァ~で眺めた~月ぃ~が、ァァ、ヨイトナ~♪
五輪音頭に社会が浮かれる1964年、その開会式にまるで合わせるかのようにように中国が(当時は中共といってたが)原爆実験をやった。ワイは中学二年になっていて新聞の一面を飾ったそのキノコ雲の写真を今も覚えている。
なんや!嫌われ者のロシア(当時はソ連)中国は昔からか。と思われようが生きた現代史のワイから言わせてもらうと全くそんなことはない。むしろ逆で若者はソ連や中共を肯定的に評価していた。当時ワイよりちょっと上の(5年くらい年配か)ワイの中学生のころ大学生くらいの多くはソ連(ロシア)に大変なシンパシーを感じている人が多かった。社会悪や社会格差を憎み、人間らしい文化的な生き方を求める若い人は(今から考えると不思議かもしれないが)世界初の社会主義国(そして共産主義)に憧れた。
かの国では搾取する金持ちもいない、格差もない、医療教育は平等に受けられる、そしてやがて文化も西側諸国をやがて凌駕するであろうと信じた。初めて人工衛星をあげ、人を宇宙に送ったのはソ連が初で、宇宙ではアメリカを先んじた(いわゆるスプートニクショックである)、そぉ~ら見てみぃ、科学技術でも西側を追い抜き、共産圏諸国はこれからもどんどん発展するわ。やっぱ、これはソ連がすばらしい社会体制をとってるからやわ。
1960年代、これ、若い人は本気で信じた。ワイが高校生になるころ隣の中国では紅衛兵が登場し若い彼らが社会の大変革である「文化大革命」の主導力となった。かの国では若い自分たちの手で社会の歴史的大転換を成し遂げているという事実に心酔する日本の若者も多くいた。現にワイの高校のそう親しくはなかったが同じ中学から入学したある同級生などは赤い表紙の「毛沢東語録」などをいつも手にして日本の変革を熱っぽくワイらに語っていたのを覚えている。
そうそう高校の時、生物の先生(まだ30代だとおもうが)がソ連好きで、よくソ連の話をしてくれたがその多くは賞賛が多かったと思う。ソ連はいい国だな、と思わせるような話が多かった。今でこそウクライナに侵攻したロシアを悪の権化みたいに悪くいうが、1960年代後半いまのロシアと同等かそれ以上に若者らに嫌われていたのはベトナムに軍事介入し爆撃を続けるアメリカであった。無辜のベトナム人を殺しまくるアメリカに比べ、当時のソ連も中国も侵攻によって外国人を一人も殺してはいなかった。社会主義・共産主義は平和とイコールだとワイら若者は無邪気に思っていたのである(自国民に対する数千万単位の虐殺を知るのはず~っと後である)、アメリカに悪の権化を感じ、ソ連・中共に見習うべき国家社会の理想を見た人が多かった時代であった。現代史を生きた我々からするとこんな逆さまの時代風潮もあったのである。
ワイは高校・大学とこの時代の学生にしては珍しくノンポリであり、別に先見の明を自慢するわけではないが、「フン、世の中に、そんな極楽浄土のような理想的な国があるもんか、ソ連や中共にしてもどうせ、見えんところや、社会のどこかにひずみがよって、何かかんか問題はあるわ」と冷めた目で見ていた。とはいうもののこの時代の社会風潮に影響されたのも事実である、情緒面ではロシアにシンパシーを感じていた。高校大学と世界文学で好んだはフランスや英米の翻訳文学よりトルストイ、ドストエフスキなどのロシア文学であった。そうだ!高校の時、友達の家を訪ねたとき、ロシアの雰囲気を漂わせるドーナツ盤のレコードをかけてくれてそれを気に入ったのを覚えている。まだうちにはレコドプレイヤはなく、以後ラヂヲでたまにかかるのを楽しみにしていた。のちにプレイヤーをかってからそのグルプのLP盤を買った。曲は『霧のカレリア』、カレリア地方とはフィンランドに接したロシアの地方である。この曲のフレーズの一部は有名なロシア民謡からの編曲である。したがその曲(インスッツルメント)である。
この時代は電子機器といってもテレビや無線機、レイダーなどであるがまだ「真空管」であった。それがやがて半導体に置き換わる頃、徐々に東側諸国の実態が人々に知れ渡り始めた。もともと東側諸国は人や情報の鎖国体制をとっていたが、それでも次第に東側社会の内部の矛盾が明らかになった。80年代になるともうソ連・中国を西側より進んだ社会と思う人はいなくなっていた。
ソ連、中共もひどく貧しく、人権や自由を抑圧され、格差も大きいと知り、憧れは消えたが、世界各地で紛争に首を突っ込み戦争に介入するアメリカよりはまだこの二国は他国へ出かけていって人殺しをしないだけましと思っていた。この当時ワイは30前、しかし1980年の直前になって中共のベトナム侵攻、ソ連のアフガン侵攻があってそういった思い込みも完全に吹き飛んだ。幸いなことに91年ソ連が崩壊し自由民主主義の国に再生するのかなとおもったが30年後目にするのは以前のソ連よりなお侵略的なロシアである。もう一方の中国は他国は侵略しないまでも国内の少数民族をむごい目に遭わせているし、国が巨大になるにつれますます他国侵略のポテンシャルは高まっている。
現代史の始まりと歩調を合わせてワイの人生も歩み続けているが、さて第三次世界大戦あるいは大規模核戦争で現代史のピリョゥドは打たれるのであろうか。
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