この一週間(2月1日~今日7日)、私にとって歴史発掘遺物見学週間であった。1日には勝瑞城館跡に行って直接発掘現場とその遺物を見てきた、そして5日には鳥居龍三博士の中国東北部~内蒙古の発掘遺物特別展示が文化の森であったので見てきた。10世紀ころにあった中国北方の民族「契丹族」の建てた国家「遼」に関する遺物展示である。こちらのほうはあらためてまたブログに書くとして、先日の勝瑞城館跡のブログで書き漏らしたのが一点あるので今日はそれに関するブログです。
勝瑞城館跡にある遺物展示館のものはすべて発掘物である。もちろんこれにも大いに歴史を探るうえで価値のあるものには違いないが、土に埋もれて長年月たち、いつのものやらはっきりとわからないものが多い、また原型をとどめるものは少なく、陶磁器などはたいてい壊れて破片になったり、また金属器などはちょっと見には錆びて正体のわからないものもある。
歴史的遺物で最も価値のあるのは伝世品、すなわち人の持ち物として代々、世を受け継いできたものである。これは発掘品と違い、完全形で残っているのが多いし、またいつから伝えられたのか(年号まで)はっきりわかるものが多い。日本にはうれしいことに古くから残る伝世品が多い。古代エジプト、古代ギリシャ、中国・殷、周などの遺物に古さでは負けても、これらのものはほとんど土からの発掘出土品である。ところが8世紀からの伝世品である「正倉院御物」は代々、世を受け継いできたものであり、壊れずに持ちこたえ今見ることができる遺物としては類例がないほど素晴らしいものである。
さて先日見た勝瑞城館跡のモノはすべて土にうもれた発掘品であるが、この館跡の敷地内に隣接して「板碑」がある、これはこの館跡の時代とほぼ重なる時代から受け継がれた伝世品(破棄されたりせず、あるいは埋もれず、本来の目的で使われ続けてきたという意味で)といってよいだろう。
板碑(現在は鞘堂に入っているが本来は露天・むき出しのままである)の前にある説明版を読むと、この勝瑞城館跡があった室町時代から世世をへて現代まで信仰の対象として途切れることなく受け継がれてきたものであることがわかる。説明板の後ろにあるのがコンクリ製の板碑を覆う鞘堂である。
説明板にはこの板碑は阿弥陀の梵字と名号(南無阿弥陀仏)の両方が彫ってあって珍しい板碑とある。板碑の基本形については前にブログに書いてあるので、それを参考に見てください(板碑の基本形・ここクリック)
鞘堂の内部の板碑本体の写真、梵字は阿弥陀如来のキリークである。
そして板碑の下方を拡大すると、「南」という文字が見える、これが名号「南無阿弥陀仏」の一部である。なるほど、私も県内各地の板碑をみたが、確かに梵字と名号が大きく中央に彫ってあるのは見たことがない。
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