先のブログで矢野古墳を見に行ったことを取り上げたが、その帰りである。考古資料館をでて数百メートル北に行った道路沿い、畑の真ん中に大きな板碑が立っている。板碑には以前から興味があり(ブログでもよく取り上げた)もっとよく見るため道路端に自転車をとめて下りた。近くまで寄って詳しく観察するにはちょっとためらいがあった。畑地の真ん中である。当然所有者もいる。しかし畑地にも隣接地にもそれらしき人はいない。断るすべもない。畑地とは言っても作物を作っているわけではなく雑草が生えて果樹が数本ある遊休地である。失礼して観察した。
近寄ると大きな板碑である。私の丈より大きい。今まで見た中では最大級の高さがある。花立には枯れていない青々した樒が供えられているのを見るとまだまだ信仰が生きている。手を合わせてから石板の表面の図柄文字を読み取ろうとした。しかし摩滅が進んでいるし、表面のあちらこちらには地衣類がはびこっていて図柄文字を消していてほとんどわからない。それでも近寄ったり、少し離れたり、斜めから見たりとなんとか認識しようと悪戦苦闘したが板碑の専門家でもないオイラが解読できるのはたかが知れている。何とか図柄に 灬灬 のような模様が入っているのがわかったのと右下の文字列の一部『・・之志者為法界・衆・・』がかろうじて読めただけである。あとは図書館へ行って関係文献を調べて確認するより手はないと、それ以上判読に費やすのはあきらめ、写真を(ガラケーの写真機能で)撮った。(文字が判読しやすくなるかもと思い、別の日の早朝、ちょうど朝日が斜め正面から指すのでもう一枚撮った。下はその二枚の写真である。
さて次の日の県立図書館である。まずこの板碑の正確な地籍番地を知るため徳島市国府町の住宅地図を広げた、
「え~っと、考古館からでて変電所の敷地の途切れるあたりやから~」
ペラペラめくって確かめたが、なんと、国府町の地籍と思っていた板碑の場所は徳島市境からわずか数メートル入った石井町であることがわかり、石井町の住宅地図に代えて再び探す。しかしこの板碑を特定できたのはネットのググルビューの力であった。あらためてネットのバーチャルマップには感服した。住宅地図帳のそれらしき畑には地図記号で記念碑のマークがしるされているがそれが果たしてこの板碑やらどうやらわからない、その時威力を発揮したのがググルビューであった。ネットでそこのググルビューを見るとまさに上記の写真の板碑である。で、
わかった地籍は、石井町字内谷33の2 である。まちがいない!
次に知りたいのは板碑の表面に刻印されている図柄や文字である。これはその板碑の学術調査書でもあればそれで知れる。幸い図書館には石井町教育委員会が平成十六年に町内の板碑を調査報告した小冊子が見つかった、テーマは『石井町の板碑』、繰るとすぐ見つかった。
白黒の写真も入っているが、こちらはワイの撮った写真よりまだ解像度が低く写真からは図柄や文字を読み取るのは難しい。でもさすが専門委員の調査だけあって板碑の表面に刻されている銘文は全文解読されて載せてある。それが下の文字列である。
注意してもらいたいのはこの四行の文字列、そのままの並びで石板表面に刻されているわけではない。それぞれ四隅に配置されるのであるがどこになるか確定しなければならない。まず4行目『右彫刻之志者為法界衆生也』はその文字の一部が私でも読み取れたため板碑の右下部に入っているのがわかる。このようにあらかじめ彫られている文字がわかっていれば、わかりにくい文字でも判読の手掛かりになる。そう思って私の撮った写真をもう一度よく見ると『大日如・・・』と読める文字が左上部に入っている。写真で「大日如・・・』までは何とか読み取れるがあとの文字はなんぼぅ頑張ってもワイの写真から読み取ることはできない。しかしつづく文字が、『・・・来三昧耶形』、となるのは間違いない。
残るのは右上部と左下部の文字列であるが、『嘉暦第四年・・』の年号は一般的に左下部に彫られているのが多いことを考えると『本地法身法界塔婆』は右上部であろう。
残るのは右上部と左下部の文字列であるが、『嘉暦第四年・・』の年号は一般的に左下部に彫られているのが多いことを考えると『本地法身法界塔婆』は右上部であろう。
するとこのような文字の配列であろうか。
『嘉暦四年』これは西暦1329年である。時代区分は鎌倉時代、鎌倉幕府は1333年に滅びるからその時代の最末期である。
しかしこの銘文の文字の配列はこのようでも、摩滅して認知し難くなった板碑の図象がどんなものであったかはイメージできない。もっと知るためにはさらなる説明を読まなければならないが、この報告書の小冊子『石井町の板碑』ではそれ以上はわからない。そこで今度は『石井町史』の歴史編・中世の板碑群のページを見ると図柄、配置などが説明されている。しかしそこで用いられている言葉(術語)の意味もよく分からない。基本から勉強しなければならない。
まず、板碑の基本形を調べると一般形はこのようなものである。
この内谷の板碑は分類上では『阿弥陀三尊種子』である。板碑の基本形を見てわかるように仏尊は図象ではなく梵字一字で表す、これを「種子』(しゅじ)という。仏尊の配置は阿弥陀堂などにある弥陀三尊像の仏像と同じ、本尊が阿弥陀如来、左が観音菩薩、右が勢至菩薩であるが、図象で表すのでなく板碑の基本形を見てわかるように仏尊一体を梵字一字(種子)で表すため三尊像は種子が三つ並ぶことになる。これはよくイメージできる。内谷の板碑を見るとなるほど種子(梵字)の一部らしいものが上部中央に大きく見えている。ここで阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩のそれぞれの種子を調べてみると
梵字である種子は不思議な形をしている。「文字」であるといわれても古代インドの文字で楔形文字やエジプトの象形文字のようにほとんど死文化しているが、今でも葬式や法事の時に白木の卒塔婆にお坊さんがこの梵字を描いているので梵字そのものは見たことがあるだろう。文字であるので当然、読みもある、日本では、キリーク(阿弥陀如来)、サ(聖観音)、サク(勢至菩薩)、と読んでいる。
摩滅してわかりにくいが内谷の板碑は三尊の種子が刻まれているはずだ、上部に大きく刻印された曲線が見えているがこれはキリーク(阿弥陀如来)の種子であろう。板碑の基本形の三尊の並びと大差がない形で彫られているものと思われる。灬灬 のような模様は基本形で言えばその種子を載せている蓮華台である。種子の並びは基本形と同じにしても、資料には現代の板碑の遠景写真や銘文は載せられているが、板碑の図象がわかりやすいイラストとして入っているわけではない。具体的な図柄は資料の説明文や摩滅してわかりにくい板碑の写真から想像しなければならない。資料を見て私なりのイメージを描いてみようと思う。
まず私の撮った写真を見る。外形からは板碑の基本形の三角の頭、最上部に刻まれた二本線が確認できる。その下には何やら図象があるがよくわからない。その下には大きく刻まれたキリーク(阿弥陀如来の梵字)が見える。そのすぐ下は蓮華台である。その下はここも何やら図象があるようだが確認できない、そしてその下には蓮華台がはっきり見える。写真で確認できる図象はこれくらいである。
次にその図象の説明文を読む
石井町史・嘉暦四年の板碑より~
『本尊のキリーク(種子)の上には杉形に三弁宝珠を積み、本尊種子と同様火炎光背で取り巻いている』
という説明になっている。最上部は三弁宝珠が杉形(三角)で火炎光背が取り巻いている(私の撮った写真でもそういわれてよく見ると最上部に三角型に丸が三つあるのがわかる、これが宝珠であろう)。
そしてその下にはキリークがあり、同じく火炎光背で包まれていると読める。
キリークの下には私の写真では判読不能の図象があってその下に蓮華台がある。ではその判読不能の図象の説明文を読んでみよう。
『本尊のキリーク(種子)、最下部には蓮華台があり、その上に三鈷を平に置き、その中央に独鈷を立ててその両方に脇侍がある(つまり左、観音菩薩、右が勢至菩薩の種子、「サ」と「サク」の梵字が配置されているのが基本)しかし、この板碑の場合、観音の種子が本尊の種子と同じ「キリーク」である。』
最下部の蓮華台その上に横たわる三鈷、中央に独鈷が立っていて両脇に侍仏の種子、これらの説明からブログパーツを寄せ集め私が作った内谷の板碑のイラストが下の図である。
中央部の宝珠、火炎、種子、蓮華台、三鈷、独鈷などの図象を描いた左右の端には文字列が刻されている。
以上が私がイメージした内谷の板碑である。
実は全国には珍しいこのような阿波の板碑ではあるが、同じ阿波の国の中に二基だけ内谷の板碑と意匠がよく似たものが存在することがネットで県内の板碑の写真を繰っていてわかった。ここから北へ数キロ離れた寺の境内にその二基がある、そこでここまでブログを書き進めたのを中断して見に行った。(11月8日)
行ったのは徳島市北井上にある「威徳院」、下が威徳院遠景、道を挟んでお寺が隣接している。左の少し小さいお寺が威徳院である、右は蔵珠院でなんかデェジャブ感がある、威徳院を見たついでに蔵珠院にもお邪魔したら「サザエの泉」があった。デェジャブ感があるはずやわ、二年前のやはり11月に「サザエの泉」を見に来てブログを作ってた。
栄螺の泉ブログはここクリック
栄螺の泉ブログはここクリック
さて、境内の隅にその板碑はあった。三昧耶形の板碑が二基立っている。手前に説明板があり、読む。
(1)の板碑
(2)の板碑
いや~よくわかる。図象も700年もたっているのにかなり鮮明である。文字も内谷の板碑に比べワイでも判読できる文字が多い。よくわからなかった「三昧耶形の板碑」はこの二基を見るとよくわかってくる。
まず、最上部の三弁宝珠・火炎光背とそのすぐ下のやはり火炎光背で囲まれてキリーク(梵字)がある。そしてその下には〇で囲まれた二つの種子が並んでいる。そして写真を拡大して二つの種子の間をよく見ると逆T字型の図象が確認できる。三鈷と独鈷であろうと予備知識を持ってなおもよく見ればなるほど下に三鈷(五鈷かも)が水平に横たわりその真ん中で独鈷が立っている。(独鈷の左右に種子が配置されている)、そしてその下は蓮華台である。
結局、私が想像していた三昧耶形の板碑のイメージとそう変わらないのがわかった。
それにしても一般的な板碑とはずいぶん違っている。図象と文字列の関係にしてもなにかちぐはぐな感じがする。本尊の種子は阿弥陀如来のキリーク、その場合、他の二体の脇侍は普通観音菩薩の「サ」と勢至菩薩の「サク」である。しかし観音菩薩の位置にはサではなく阿弥陀のキリークになっている(もう一つは定型どおり勢至菩薩の種子のサクである)。この三尊の配置も変わっているが、そのどこにも大日如来は出てこない。しかし板碑の文字列には『大日如来三昧耶形』とある。なぜだ?大日如来の三昧耶形だと阿弥陀如来になるのか?大日如来は仏像としてよく目にするのでわかるが三昧耶形とは何なんだろう。
詳しくは専門的過ぎて私の理解の埒外だが、三昧耶形とは密教に於いて、仏を表す象徴物の事であるという。といっても種子(梵字)ではなく、仏が持っている持ち物のような具体的な物品である。とするとこの板碑の図象でもっとも目を引き特異なモノとは蓮華座にのった三鈷と独鈷の組み合わせ形か最上部の三弁宝珠であろう。仏を象徴する仏具が三昧耶形だとするとこれらの図象が三昧耶形ということになる。
三弁宝珠、逆T字型に組み合わせた三鈷、独鈷が三昧耶形だと思われる。この三昧耶形の板碑が他にも多くあれば比較区分するのによいのだが、このようなかたちの三昧耶形は阿波の板碑以外例はないようである。二次元的(平面)な板碑の三昧耶形は例が少ないが、それじゃあ立体的なものでこのような配置のものはないか?つまり種子の代わりに仏像本体や本物の独鈷や三鈷を使ったものはあるのか?当然そのような立体的なものは寺やお堂の本尊として祀られているであろう。ネットを駆使して調べるとあった!
山口市 真言宗 浄福寺の御本尊である。百聞は一見に如かずでまず写真をみてもらおう。
静謐な雰囲気で瞑想した阿弥陀様や阿弥陀三尊像を見なれているものからするとこれまたかわった雰囲気の阿弥陀三尊像である。印は阿弥陀様の定印だがお体は赤く、そしてふつう如来さまは飾りとなるものをつけていないが、この阿弥陀様は瓔珞(ネックレス)、宝冠を身につけている(もっとも如来さまの中では唯一、大日如来さまはお飾りをつけている)。そして脇侍の仏は不動明王さまと愛染明王様である。本尊の蓮華台座の下には内谷の板碑のように逆T字型になった独鈷と三鈷が組み合わさっている(もっともこちらは独鈷が横に寝て三鈷が立っている)。あまり知識のないオイラでもこれはかなり密教色の強い阿弥陀三尊仏像であることがわかる。中尊がもし大日如来ならばなるほど密教(真言宗)の御本尊と納得できるが、それが阿弥陀様である。
その阿弥陀様の異形のお姿(お飾りなど)をみて、これ、ホントは大日如来さまじゃないのかとおもうが、でも阿弥陀様に間違いないそうである、そうであるのなら何かの(?)わけで大日如来さまが阿弥陀様に化身していらっしゃるのじゃないのかしらん。とおもった。しかしそんなことがありうるのだろうか?実はありうるのである。大日如来さまはこの世のすべてに偏在し、全宇宙そのものが大日如来さまなのである。だからその大宇宙に存在する他の如来、菩薩、明王、などに身を変えることもあるのだそうである。
中世人のいろいろな仏や神々に対する世界観を見ているとちょっと近代人には理解しがたいものがある、融通無碍というか彼我混然一体となった神仏観があるように思われる。仏さまと神様との関係で本地垂迹とか神仏混淆とか言われるが、今見てきたように仏様同士の立場からも阿弥陀さまがじつは大日如来でもあった・・・ということがあるのである。
よく言われるのが熊野の三社権現・本宮の神様は実は阿弥陀様である(本地垂迹)、しかしその阿弥陀様も広い大宇宙の根本仏である大日如来さまがお姿を変えている・・・・もう二重三重に神や仏が融合しまくっている。ワイはこういうの好っきゃわ。
この内谷の板碑の大日如来三昧耶形は本尊の種子は確かに阿弥陀さまであるが、根本仏である大日如来さまのお姿の一つでもある。そのためこれを大日如来云々と名づけるのも何ら矛盾するものではない。その阿弥陀さまも本地として熊野の神様に跡を垂れているのである。だからこの内谷の板碑には、真言を唱え大日如来さまとして拝んでもいいし、浄土に往生を願うため阿弥陀さまとして拝んでもいい、またこのころ流行ってきた熊野の神様も本地は阿弥陀であるので阿弥陀の種子を刻んだこの内谷の板碑を熊野信仰の対象として拝んでもいいわけである。もしかすると江戸時代、隠れキリシタンがこの三鈷と独鈷のクロスの組み合わせを密かに十字架に見立てキリシタン信仰していた可能性だって・・・いや、それはないな!いくらなんでも、でも吉川英二はんの鳴門秘帖では阿波の原士の浪人(お十夜孫兵衛)が隠れキリシタンやったっちゅう設定やから可能性としてはゼロではない、ま、小説の話だが。
こういう中世の信仰対象物を調べるとほんとに奥が深いのに気づく、生半可な知識理解では歯が立たない。もっと板碑のことを調べようと思ったが、それには「仏教の概論」から始まって、「密教」、「中世の阿弥陀信仰」「熊野信仰」、悉曇文字・・・などなど幅広い分野を勉強する必要がある、とてもワイでは歯が立たない。ブログを書くにあたってはごく浅い表面的な理解(それも独断と偏見が盛り込まれている)しかできなかった。
2 件のコメント:
素晴らしい考察ですね。卑弥呼の墓と呼ばれている気延山の中腹に元々はあり、弁慶が投げ飛ばしたという伝承があるのですね。石碑の場所が説明できない場所にありそうですし、謎は深まります。気延山が古墳なら、仏教の石碑があるのはおかしなことですが、最高神の大日如来は天照大神なので、矛盾は無いのかも。神社は当初、山頂にあったとのことですが、低いところに移されたのも謎ですね。その辺と関係があるのかもしれません。
>>○○さんへ
コメントありがとうございます。独断と偏見のブログでお恥ずかしいです。
中世人の宗教とはどんなもので、その心性を少しでも垣間見たいと思い、この時期、いろいろな宗教的なブログを書きました。古代人のそれは資料が少なく、分かりませんが、中世人、特に四国や阿波の人々のそれは、金石文ではこのような板碑、そして文献、何よりそれに絵までついている「一遍上人絵伝」なんかを読み込んで想像を膨らましておりました。
コメントで大日如来はんに言及されましたが、光明真言(オン、アボキャ・・)が広まるのもこの中世当たりから、江戸期にはこの辺では大流行して、板碑がなくなった代わりに「光明真言の石碑」がたくさん建てられました。微妙に信仰客体も変化してきているんですね。
古代史も面白そうですが、史料すくなく、大胆な推理になりがちで、いまのとこ手が回りません。
コメントを投稿