勝瑞城およびその館は、細川氏の阿波守護所がおかれ室町時代の阿波の政治的中心でした。勝瑞の城跡に今でも残る土塁、堀などは勝瑞城の遺構を今も伝えるものとして古くから知られていました。私は半世紀も前に「勝瑞城跡」を見学していました。
勝瑞の「館跡」は下の絵地図を見てもらったらわかるように城跡より広大です。しかし発掘調査が最近までできずに実態はよくわかっていませんでした。そのため勝瑞城跡といえば下の絵地図にあるように右上(北東)の見性寺境内と重なる部分でした。
近年、発掘調査が進み、その遺跡の保存にも力を入れるようになった結果、奈良平城京の史跡公園ほどではないにしても、広く遺跡敷地をとり、野外展示や発掘品の室内展示で歴史好きの人を楽しませてくれるようになりました。
この城館については、館を巡る主要人物、京都中央政界とつながった館関係者の人間関係とその勢力の盛衰、それぞれの時代も登場人物も多岐にわたり、もう複雑(怪奇といっていいかも)、歴史の専門家でも説明が難しいほどです。(一応、この勝瑞城館の主要氏族は、細川氏、三好氏ではありますが・・)
世は室町末期、いわゆる下剋上の時代、権力が次々と下の者に移り変わるのはめまぐるしいほど、もっともわかりやすく象徴的なのは、幕府権力が次々と下の者に移っていくことでした。まず将軍は飾りで祭り上げられ、執政の細川氏に幕府権力が移るとみるや、その下官である三好氏がまた細川氏を祭り上げ権力を奪取、しかし三好の絶頂期も続かず、その家臣である松永弾正に権力が移る、とまぁ、これは一例、これにいろいろな氏族が結びついたり、また他氏族に従ったり、従わせたりで、わかりにくいことこの上ない。
そんなわけでこの勝瑞城の背景の歴史を知るのは、説明パネルを読むだけでもよほどの根気が必要、しかし説明は丁寧にわかりやすい文でおまけにイラストまで多用しているのですが、ともかく登場人物が大勢で、複雑な絡みのある人間関係なので、理解は相当難しい。
ぜひ実際にこの城館遺跡に出向いて下のような説明パネルを時間をかけじっくり読んで理解してください、私の拙劣なブログではとてもお話になりません。
説明パネル一部、こんなのが十枚以上ある、すべてよく読まないと全体の歴史がつかめない。
それでは次に野外展示の一部を紹介します。まず勝瑞城館遺跡の広大な発掘現場(今は埋めなおしてある)の動画パノラマをご覧ください。
野外展示の堀跡、実際の深さを再現はしていない、その場所を少々の窪地にして深い堀のあった場所がわかるようにしている。
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