2022年2月27日日曜日

梅も見ごろを迎えている


 前はよく行っていたが、最近は「梅見」と称して梅林に行く機会はほとんどない。よく行ったのは「神山の梅林」、そしてウチからは一番近い「美郷の梅林」である。しかし「梅見」なんどと形式ばらず梅の花・香りを鑑賞するのはわざわざ遠くまで出かける必要はない。公園や特に「天神さん」の神社にはそのいわれから梅の木が多く、これらは梅林ではないにしても十分梅見を鑑賞できる。梅林の梅と違って観賞用に植えられているので紅白梅が対でそろっていたり、また薫り高い梅花も多いようである。

 梅の花の句で好きなのは与謝蕪村(この人の句はどれも好きであるが)の

 しら梅に明る夜ばかりとなりにけり

 である。この句は実は辞世の句である。解釈は専門家でもむつかしいのか人によって違っている。しかし私は私なりに死をまえにした蕪村が到達した境地を理解しようとしている。毎年、白梅を見るたびこの句をおもいだす。いまだこれだ、という解釈には達していないが、死を前にしても彼の耽美的な句は心惹かれるものがある。

 朝夕はまだまだ寒さが厳しいが今週は日中はかなり気温が上昇して暖かくなりそうである。梅見をかねてあちらこちらの天神さんにお参りしようかな。天神さんは学問の神様、この歳になっても学力があるようご利益をねがうのか!と言われそうだが、前にも行ったように最近は中央アジア史~中国北方史(モンゴル・シベリアを含む)の勉強をしている。これが大変面白く何冊か本を読んでいるが、歴史とともにでてくる各民族の名称、そして各民族が建てた王国(遊牧王朝が多い)興亡の時期・本拠地の場所とその広がり、それらの各民族の時代とともに変遷する活動、それらの時代の前後関係、その地理的位置が、なかなか覚えられない。歌手やタレントの名前を忘れて口に出てこないのは笑って済ませられるが、老後の楽しみの一つ、歴史を多方面から勉強したいのにその記憶が定着しないのは悲しい。ノートにとってまとめるのも手だがやはり頭に残らなければ理解・把握ができたとは言わないだろう。天神さんお参りのご利益があるといいな。

2022年2月26日土曜日

市立図書館の2週間のお休み

   毎日図書館で長時間過ごす人は多く、私も毎日行くのでその人々のお顔はなじんでくる。主に(当然だろうが)高齢者が多い。午前9時から午後9時まで開いていて、一部のブースでは飲食もできるし、冷暖房完備(ウォシュレト便座もある)で、コロナ下にもかかわらず机付きの椅子席、ソファも多く、満員で座れないということもない。本好きなお年寄りにはいたれりつくせりの場所である。

 ところが今月の9日から二週間の図書整理週間の休みに入った。お顔なじみの人はどうしているのだろうと気になる。この二週間は例年になく寒くて風も強い日が続いた。この期間、他に行くところがないのだろう(ワイも同じや)、同じアミコビル内にお顔なじみの人々が待合の椅子に座っているのをよく見た。ぼんやりしている人もいるが、熱心に本を読んでいる人もいた。しかしコロナの6波が大きくなっているので自由に座れる椅子席の多くは撤去されている。あぶれた人々はどこで過ごしているのかしらん?

 この寒い中、特に雨なんどの時はどうするのだろう。数日前はそのアミコビルも全館休みで閉鎖だった。駅で降りてそのままクレメントビルの中の4階の百均ショップをのぞいたが、お顔なじみの数人が紙袋などを両手に持ってクレメントビルを上に登ったり地下に降りたりと、まいまいこんこしていた。この日の最高気温は6℃だった。

 図書館は本を借りたり資料を調べたりするための場所で、読書は二の次で、快適に過ごす場所ではないことは当然であるが、事情があって寒空の下どこへ行く当てもない高齢者が過ごせる場所であることも事実である。左のDVDをご覧になっただろうか(図書館の視聴覚ライブラリにあり借りてみることができるし、視聴ブースもある)。

 DVDで描かれるアメリカ・シンシナティの図書館も事情はよく似ているが、もっと露骨である。多くのホームレスが寒いシンシナティの冬の避難所として長時間開いている公共の図書館を利用しているのである。しかし特別に寒い冬のある夜、ホームレス70人は凍死を避けるため閉館時間が過ぎても図書館から立ち去らない。同情した主人公の司書はそれを認めようと奔走するが、しかし杓子定規な図書館の上司は反対し、物語が展開するという筋である。

 ここ徳島では凍死するほど切迫感はないが、二週間後の開館日、久しぶりに開いた図書館のソファでくつろぎ新聞を読んでいるお顔なじみの人々はなんかホッとしたような表情をしているように私には見える。

2022年2月20日日曜日

冬季五輪も今日で終わり、で、ワイの雑感

  二週間にわたる冬季五輪が終わった。始まるときはあまり関心がなかったが、テレビのニュースでもネットでもこの話題を盛んに取り上げるため、私もだんだん関心が出てきた。こんまい頃から私自身、徒競走など先着で順位を決めるスポーツは極めて苦手であったため、スキー、スケート、など順位を競う競技にはあまり関心がない。

 私としては速さやタイムを競うものより、妙技や見た目の美しさ、を見せてくれる競技の方が断然面白かった。速さやタイムによる比較は客観的であるため疑問の余地なく順位は自動的に決定するが、妙技、見た目の美しさ、は主観的なものであるため、私が「いんや~。よかったわ。」と思っても意外と順位が低かったりする。

 そんな妙技、見た目の美しさ、で楽しませてくれたのがスノーボード(ハーフパイプ)、フィギュアスケートであった。え~と、もうはや名前わっせたわ、あ、平野あゆむ君や!23歳の今風の男の子のスノーボードで空に舞う姿、見てて感心したわ。カメラのアングルにもよるのだろうが、天空を背景に、まるで重力がないように自由自在にくるくる舞う姿は美しくて感動したわ。

 さてここで各国のメダル獲得順位表を見てみよう


 日本は冬季五輪史上最大のメダル獲得数ということらしいが、それでも全体の順位は12位、でもアジア地域では2位である。中国がアジアでは1位なのは当然であろう。メンツを大変重んじる国で、オノレのとこで開催しといてメダル上位になれないなんて絶対許されないだろう。開催が決まった6年も前から取れそうな競技は必至で特別強化訓練をしたのだろう。スピドスケートなどは短期強化訓練の成果が上がると聞いた。

 小国(人口)のノルウェイが1位だが私としては意外感はない。もともと冬季五輪の競技は大別して「ノルディック競技」と「アルペン競技」に分かれている。ノルディック競技はその命名でもわかるようにスカンジナビアのノルウェイ地方あるいはスエーデンの内陸部にあった伝統的なスキーの技が基本となっている。ルーツはノルウェイの文化風習にあるのであるから、メダルが多いのも納得できる。

 じゃあアルペン競技の故郷本場のスイスはどうかとみてみると順位は8位、アルペン競技の故郷とはいえアルプス山脈はスイスだけのもんじゃない。アルプスの高い山の峰は大体スイスの国境付近にある、ということはスイスと国境を接している国々にもスイスに劣らぬ峻険なアルプス山脈があるのである。その周辺の国々とは、南東フランス、南ドイツ、イタリア北部、オーストリア(ここはスイスに劣らず山国である)。つまりアルペン競技の故郷はこれらの国々に跨るといっていいのである。そうするとスイスに加えて、ドイツ、フランス、オーストリアもそうだからやはり競技発祥のルーツ国は強い。

 カナダ、米国もたくさんメダルを取っているが、国が広大でスポーツ資金も潤沢、アルプスに似た山もあるし、そこには一年中スキーが出来る氷河もある。そして欧州や世界から有能な人が移民してくるから、夏冬五輪ともメダル大国である。

 などなどと偉そうに解説していたら上表にある1~10位までの国がメダルに強い理由を説明してしまったように思う。

 冬の競技であるノルディック、スキー、スケートはすべて欧州あるいは北米がルーツである。それじゃあ強くて当たり前の気がする。それなら冬の競技で欧州以外で生まれたなんか競技はないか?もしあれば欧米中心の冬の五輪種目に入れることも考えたらええんとちゃうか。世界屈指の大雪の降る日本になんかないか?ありました。江戸時代の越後湯沢付近で生まれた鈴木牧之が書いて木版出版した「北越雪譜』に出てくる大雪を漕ぐ履物をはいて速さを競う競技なんかはどうでしょう。左の図絵の「かんじき」、十メートルに近い積雪という世界でもまずここ以外には見られない深雪を歩行するための道具です。私は雪の中の歩行と言いましたが鈴木牧之は「かんじきで雪の中を漕ぐ」と表現しています。2~3m積もったフワフワの新雪の中、これを使って競技するのです。まさに日本にルーツのある冬の競技となるんじゃないでしょうか。

 ただ実現性はほとんどないと思います。何せ、数メートルのフワフワの新雪(数メートルの新雪だから数メートルが一晩で降らなきゃならない)が降る所なんか、世界広しといえど日本海側の山岳地帯しかおまへんからなぁ。日本の新潟、秋田、山形、あたりくらいしか競技が開けまへんわ。でももし、かんじき競技があれば数メートルの深い雪をかんじきで漕いでいく日本人が金銀銅とるのはあたりまえ。(五輪の会場の雪はみんなシマリ雪・カタ雪です。今回の北京なんぞは雪がもともと少ないからかき氷みたいな人工雪でっせ)。

 フワフワの深さ数メートルの綿菓子みたいな新雪では体がズボット全部埋まってしまい、走るなんどという動作もできません、唯一進めるのが日本の最深雪で生み出された直径1mもあるかんじきです。これをはいて雪に埋没しないように、この絵のようにかんじきのヒモを手に握り、エイホ、エイホ、と調子を取り手を持ち上げて足と連動し、雪の中をまさに漕ぐように進んでいくのです。単に足の速いだけのものが早く進めるわけはありません。かなり熟達した特別の技量が必要となります。

 これ新種目としてええアイデアだと思う。ただ難しいのは、柔らかふんわか新雪が何mも降るとこなどは先ほども言ったように日本か、あるいは少し劣るが数メートルは積もるアメリカ北西部あるいはカナダの太平洋岸しかない。世界各国持ち回りの冬五輪は無理でも冬のスポーツ世界大会の「かんじき競争」は日本、アメリカ、カナダの太平洋岸でならできる。

 ところでもう一度先の各国のメダル獲得順位表見てくれますか、なんでこの国が入っていいひんの?ちゅう国が一つありますが気づかれましたか?冬のスポーツが盛んなのは北の先進国に多い傾向があるのはわかりますよね。そう思ってみるとこの表に先進国の代表グルプである先進7ヵ国が並んでいるはず、ところが一番下のイタリアまで数えてもG7は6ヵ国しかない、そう、イギリスがあれぇへん。

 今日午前中、テレビで対イギリス戦の「カーリング」を力を入れてみた人も多いはず。日本はイギリスに負けて銀メダル、イギリスは見事金メダル。さぞや他の種目も、と思いきや、なんとイギリスのメダル獲得順位はこの表にないずっと下の19位、今日の金メダル1個以外はあと銀1個のみ全部でわずか2個です。ちょっと少なすぎるように感じる。高い山脈もないし、イギリスのイングランド地方は多雪でもガチガチに凍る寒さでもないが、スコットランドあたりはけっこう山あるし寒いと思うが、なんか国民性もあるのだろううか。イギリス人は頑固だから、好きなもの嫌いなものははっきりしている、スポーツもそんなところがあるのかもしれない。クリケットは好きだが野球なんどは見向きもしない。そういや今日の唯一金メダルの「カーリング」の発祥地は調べたらイギリスのスコットランドだわ。

 競技としてのカーリングはスコットランドが発祥だが、氷上でカーリングのような丸っこい石を滑らす遊びは世界の厚氷の張る国ではどこでもあるようである。下のブリューゲル(16世紀オランダ)の絵は大変有名で誰でも一度は見たことがあると思います。


拡大図


 これよく見ると子どもが氷上でカーリングに似た遊びをしています。たぶんワイらが子どもの時にやったビー玉遊びのように当てて楽しむ遊びと推察されます。あぁ~、ビー玉遊び、懐かしいなぁ、今のこどもはしないだけによけい懐かしく思い出されるわ。ワイらの地方は人が上に乗れるくらい池に氷が張らなかったからビー玉遊びとなったが、厚氷の張る地方では、その代りの遊びとしてまる石滑りがあったのだろう。氷上はまる石が大変よくすべるからビー玉遊びも大がかりでずっとテクニカルなものになるだろう。

こういうのスキ

 閉会式をみてたらサモアの選手がまたムキムキの格好ででてた。東京オリンピックの時と同じ人かなと思ったら東京の時はトンガの国の人だった。さっぞや寒かろにと思ったが、気温は摂氏2.2℃、北京の冬の夜にしては暖かいというかこの気温やったらウチのあたりの今(夜)の気温と同じだ。でもサモアって南海の常夏の国やろによ~がんばって冬のオリンピックに出たんやな(スケルトン)。むかし「クールランニング」っちゅう南国ジャマイカ選手が冬季オリンピックに出るというおもろい映画があった。その時は南の暑い国が出るのは極めて珍しかったが今はけっこう参加する国はあるようだ(多くはないが)。順位は振るわなかったが冬季五輪の閉会式で最後にいいパッフォゥマンス見せてくれました。こういうのスキ。

2022年2月18日金曜日

白雪考

  一昨日の夜から未明にかけて降った雪は最近にない積雪となった(徳島市で11年ぶりといっていた)、昨日も今日も快晴だったが気温が低いため今夜になってもまだそこここに積雪が残っている。今日午前十時ころに汽車にのったが車窓からは野原や畑にまだらになった雪が見えていた。気温は氷点下に近いとはいえ陽光は二月も中旬を過ぎ春のまばゆい光となっている。ムラ消えの雪が春の光に反射して白く輝いている。地色である枯れた草原の黄色やすでに伸びつつある若草の緑色とのコントラストが輝く雪の白さをより際立たせている。

 「白雪とはこういうのを言うんでないのかしらん、大雪に閉ざされた白一色の世界より、枯草の原や若草の原に残るムラ消えの雪のほうが、純白として認識されやすいのじゃないのかな、雪は白いのは当たり前、しかし他と比較対照するのがある方がより白が際立つため、さらに雪に白いをつけ、白雪にしたんじゃないのかな」

 「白雪」と聞いてまず皆さんは何をイメージするだろうか。やはり和歌や詩・俳句、歌の歌詞じゃないかしらん。あ、もしかして「白雪姫」?だが「白雪」は日常語としてはまず使わないだろう(普通の会話で、先日の大雪がまだ白雪で残っとるわ、とか、山にはまだ白雪がある、とはあんまり言わんだろう)。

 私はやはり歌である。

♪~・・蛍のともし火、積む白雪~♪

 何の歌かわかりますか?え!「蛍の光」、惜しい!これ最近は学校でもトンと歌わなくなったが「仰げば尊し」です。思い出しましたか。この歌の特にこのフレーズ「♪~蛍のともし火、積む白雪~♪」を聞くと私は今もホロリと涙が出てきます。今は生徒が歌わなくなったため「蛍のともし火」も「白雪」も、その意味が分からなくなっています。昔は「蛍雪の功」といわれ苦学・勉励の例えに使われました。昔、貧しくて灯し油が買えなくてもそれでも夜、学問をするため夏は蛍の光で、冬は輝く白雪の光で勉強したという中国の故事にちなんでいることは仰げば尊しを歌って卒業した年輩の人は覚えているでしょう。

 しかしこの話を現代っ子にすると一笑されます。おっさんアホか、蛍の光を集めてそれが電気スタンドの代わりになるとおもとんかい、白雪が夜輝いてそれで本が読めるんかい、と。中国の故事はそのような大袈裟とも思えることをもってしてある象徴することを表すんだ、といっても「中国故事」を勉強していなくては、そんなことを言ってもまともに受け取ってはくれません。

 しかし、昨夜、銭湯の帰りが遅くなって、路地にまだ大きな面積を占めて残る「白雪」を見たとき、夏の「蛍のともし火」はともかくとして、冬の「白雪の光」で本の文字を読んだのは本当じゃないかしらんと思いました。それは天心(ほぼ天頂付近)にある月の光を白雪が反射してあたりは実際に本が読めるほど明るかったのです。岩波の文庫本のような細かい字は無理としても大昔の毛筆で書いた和綴本の文字は充分読めそうです。

 今月の2月は旧暦の日と新暦の日が一月遅れでぴったり一致する珍しい月です。つまり今月2月1日は旧暦の1月1日、そして2月15日は旧暦1月15日です。ところで昨日は2月17日で旧暦でも17日です。満月は旧暦15日であるのですが、旧暦の暦の作成上、昨夜は旧暦の17日ではあっても「満月」なのです。そして月の季節によって違っている高度は太陽と反対に冬にもっとも高くなります(天頂付近を通る)、つまり冬の夜の満月はもっとも明るい光を地上に投げかけるのです。昨夜はその光が地上にある「白雪」を反射して異様に明るかったのです。

 勉学の労を象徴する「白雪」をまず第一に私は(仰げば尊しの歌として)思い浮かべましたが、「白雪」は和歌などにも美の対象としてよく取り上げられています。夜、皓皓として冴えわたる月の光に輝く白雪も美しいですが、最初に述べたように春の陽光に、ムラ消えになっている雪が白く輝くのも美しく、どちらも美を賛美する詩歌の素材としてよく取り上げられています。日本の詩歌の美の三大素材は「雪」「月」「花」といわれています。昨夜の銭湯帰りの道々はその中の二つ「月」と「雪」があったのですが、私はそれに幻想的な美しさと蛍雪の功の故事を思い出しただけで、詩才のない私はそれを和歌として表現することはできませんでした。先人が作った有名な「白雪」の和歌として二つあげれば

吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋ひしき (源義経・妾、静御前

朝ぼらけ 有明の月と みるまでに 吉野の里に ふれる白雪 (百人一首より

そして今日、汽車の車窓からムラ消えの白雪をみて思い出したのが下の一首

薄く濃き野辺の緑の若草に跡まで見ゆる雪のむら消え (新古今より宮内卿

車窓から見る雪のムラ消え

2022年2月17日木曜日

雪の鴨島公園

  今年になって何度か積雪予報を外している気象庁だが県内に出された昨夜から今朝にかけての降雪と積雪予報は当たった。昨夜はよりによってド寒い中8時過ぎ銭湯へ行った。もうこの時間から大粒の雪が降っていた(よりによって雪降る寒い日にと思われようが雪降る夜、広くて熱い湯船に浸かり、のんびりとくつろぎぐのはなんとなくシヤワセ感いっぱいになる。ジイヤンやバァヤンが温泉に浸かって、ゴクラク、ゴクラク!っうのもよくわかる

 徳島市内でも5cmも積もったから県西部は十数いや数十センチに達したところもあるんじゃないかな。ここ鴨島では朝雪を踏みしめ公園まで行った実感では5cm以上10cm以下というところか。

 公園の赤い橋と雪景色


 赤い橋は木でできているので積もっても下からはとけにくい。みたところ積雪10cmびゃぁはあろうか。


 公園の動画

2022年2月13日日曜日

契丹・遼のブログが進まない


 左のポスターにある文化の森博物館の特別展示を見に行ったのが5日だった。これをブログにしようと思っていたがかなり日にちがたってしまった。忘れたわけではない。この特別展の内部は一切撮影禁止なので、展示物写真を元にしてはブログはかけないので、おもにその展示内容の「契丹族」(歴史上存在した中国北方民族)と彼らが建てた「遼」王朝について、私なりに展示内容に触発されたことや、それに関する本などでオベンキョしたこと、そしてその感想を書こうと思っていた。

 ところがまぁ、これが70歳のジジイにはかなりハードなオベンキョになっている。まず遼王朝を建てた「契丹族」はポスターを見ると「遊牧王朝」となっている。この場合当然、「騎馬」遊牧民族である。では騎馬遊牧民族はいったいどのような民族か、まずは騎馬遊牧民族が活躍した地理上の位置を知らねばならない。ポスターにはもう一つのキーワード「草原」と入っている。遊牧し騎馬するんだから風土は「草原」が最もふさわしいのはわかる。しかしその草原は、なんと内蒙古あたりからずんずん西へ行き、黒海北方までだらだらとつながっているのである。幅は千㎞はあろうかという草原のベルト地帯が中国北方どころか中央アジアを通りロシアの西の果てまでつながっているのである。騎馬民族にとっては内蒙古から南ロシアまで草原のベルト地帯など一瀉千里、すべて馬に乗って行動できる範囲に含まれるのである。なるほど蒙古帝国が中国から中央アジアそして南ロシアまで一気に征服したのも草原の道を駆け進んでいったのならさもありなんと納得できる。

 だから遊牧騎馬民族をまず知ることから始めるとその地理の範囲はユーラシア北方のほとんどを占め、非常に広い、そしてそこに住む民族は騎馬遊牧するから地域を限定してなどはいられない、パカパカと走り回るので、ユーラシア草原全域を対象とせねばならない。そして各民族は支配、服属関係もあり、また時代を下ると、有力な支配民族が次々変わってくる、そしてそれに伴う民族大移動などユーラシア草原では頻繁に起こる。

 弱小とみられるような騎馬遊牧民族でも、みんな横のつながりを持っているし、また時代を変えてそれが強力に蘇ったりするから一つとしておろそかにはできない。それを時代ごとにたどってようやくと「契丹族」にたどり着く。その遡らねばならない時代は大体紀元前1000年くらい、そこを起点としてスキタイ族から始まり匈奴だの鮮卑だの突厥だの、まるで泡風呂のように民族がポコポコ出てくる、もう8世紀のウイグルあたりまで来るとヘトヘトになってしまう。契丹族登場までにはまだ200年近くある。

 もうブッ飛ばして契丹族だけすりゃぁええが。と思われようが、先も言ったように騎馬遊牧民族は南ロシアまで空間的なつながりを無視できない、そして時代ごとにいろんな民族が出てくるがみんな何らかの支配服属関係があり、契丹族だけなど抽出できない。そんなわけで今、中国北方民族史、中央アジア史、騎馬遊牧の文化人類的な観点で書かれた本を読んでいるのであるが、歳ぃよるとなかなかページが進まない、また時代ごとに出てくる民族名が覚えられない。繰り返し勉強し、ぼちぼち進めるようにしているが、ようやく5~7世紀ころの遊牧騎馬民族の歴史の大略を覚えたと思ったら、前に勉強した紀元頃の歴史の記憶があいまいになり、民族名を思い浮かべることはできてもそれがどの地理上の位置で、また支配服属関係はどうなっているのか、忘れてしまっている。

 契丹・遼のブログを書けるのはまだまだ先となりそうである。

 下はモンゴル高原の騎馬遊牧民族の末裔、彼らは子どもの時から乗馬に馴染み、まさに人馬一体、お父さんと子どもであろうか、日本人によく似た顔立ちだ。契丹族もモンゴル系民族といわれている。

寒い雨の一日

  近年の暖冬傾向の冬に比べると今年は寒冬だ。しかし私の子ども時代と比べると今年でも暖冬であると言える。今日は外では冷たい雨が降っている。しかし、昔だと今頃のこのような冷たい雨は大雪になったものだ。昭和38年冬(1~3月)は日本列島全域が強い寒気団に覆われ、2、3月にこの地方でも大雪が降ったのを覚えている。その後も昭和45年頃までは、立春を過ぎてからの積雪がずいぶんあった(後で気づいたが、寒のうちより立春すぎてのほうが降水量が多くなるので当たり前か!)。高校生2,3年の頃も20cmを越えるくらいの積雪を記憶している。

 その昔、ウチらで大雪のあった日のそれぞれの気圧配置はよく似ていた。寒のうち(1月中)で西高東低の気圧配置が強いときは、ここらは寒く乾燥した強い風が吹き雪は降らない。冬型の気圧配置が緩み、日本よりずっと遠くの西南海上で低気圧が発生し四国へ来る時が大雪になる可能性があった。寒気団の影響が強く残っているときにその低気圧が来ると九州は雨でも四国あたりから雪になったものだ、まとまった降水量があるとそれが大雪に結び付いた。このような大雪をもたらす低気圧をその発生域にちなみ『台湾坊主』といった。ところがこの言葉最近はとんと聞かない。今世紀にはいりますます暖冬が進み、四国での大雪がなくなったので『台湾坊主』と言わなくなったのか。それとも気象庁の定義が変わったのかしらん。

 ともかく今日は寒い雨の一日になりそうだ。

 (イメージだが)炬燵布団の上にはミカン、横では猫が丸まっている、そして自分は温ったか炬燵に首まで入れて、ウトウトしながら外のしとしと雨を聞く、いつのまにやら雨音はヴァイオリンのピチカートの音に重なる。ヴィバルディの『四季』冬、第二楽章である。

 

2022年2月8日火曜日

二月上旬起こった出来事雑感

 ●北京五輪

 直接知りもしないのに西側諸国のマスコミの尻馬に乗っているといわれるかもしれないが、中国の人権状況、人々の自由度を見るとき、私個人としては全く祝福する気にはなれない。「知りもしないのに、」と矛盾したことをいうようだが、あの国の(主に支配階級が中心だが)人々が求める歴史的な国家体制のあるべき姿(一昔前は「イデオロギィ」といったが)を考えるとき、日本を含め西側で指摘されている人権抑圧や自由度の欠如はさもありなんと思う。中国は今国家の隆盛期を迎えているようだが、秦の時代から大陸には巨大な王朝が興亡を繰り返してきたが隆盛期の時代、周辺国に対する態度はどれも同じ傾向がある。いわゆる中華を中心とした華夷秩序、具体的にゆうなら周りの中小国を朝貢国・子分の国としてみる、決して中国と対等ではなく一段と下に見る、というドでかい態度である。もう中国人のDNAに組み込まれているのかもしれない。このように対外的な他の国を差別するような態度は今も引き継いでいると私は見ている。そして過去の王朝よりもっと統治が進化したのは、過去の王朝は下々の民の把握がむつかしいこともあって、税を納め、反乱を起こさねば放任というところがあったが、今は一人一人の人民にスマホを持たせ、買い物決済、移動、もちろん通信・コミュもすべて国家がもれなく把握できる仕組みになっている。少しでも国家・社会に対する不都合があれば細大漏らさず握り管理・強制することができるのである。まったく恐ろしい国家・社会である。そこで、平和、自由、平等を基にしたスポーツの祭典なんど開かれるのであるからふさわしくないことこの上ない。

●英女王即位70周年

 先日エリザベス女王が即位70年を迎えたそうだ。英国史上最長の君主在位だという。70年も君臨するのは英国史上だけでなく、世界史の君主たちでも(神話時代の君主は除くとして)史上最長ではないかと思っていたが、報道の新聞をよく見ると、上には上があるもので17世紀のフランスのルイ14世がそれを上回る72年の治世期間であるという。エリザベスさんは死ぬまで君主を続ける意向と漏れ聞くが、あと2年すれば世界史上最長となる。

●大雪

 去年の11月前くらいだったが、ワイのブログでも書いたが、今年はラニィニャ現象(南米西方海域の海水温異常現象)が起こったので寒い冬、あるいは大雪の傾向があるらしいと。まさに2月に入って日本は北陸・北海道で大雪である。それも北陸の米原のあたりや札幌では一日当たりの降雪量が観測史上初めてというくらい多いという。今年の雪国の人の苦労は大変だ。そういえば北京五輪の会場あたりは冬はカラカラに乾燥して雪は少なく、本来なら雪が必要な五輪なんど開けないそうだが、そこは中国、大型の人口増雪機をたくさん稼働させて人工雪で競技場を覆った。日本は根性悪(コンジュワル)しない国なのでできれば大雪を分けてあげたい。ただし費用はそっちもちで。

●作家の享年

 瀬戸内の出家バァサンが99歳、やたらとうるさい右巻きの慎太郎ジイサンが89歳、まぁ十分平均寿命を生き、多くの価値ある作品を残したのでワイとしては、そうおしぃなぁ~ちゅう感じはない、しかしつい先日聞いた「西村賢太」の訃報は大変残念に感じた。享年なんと54歳である。酒好きで、太目、中卒で様々な肉体労働を経験しつつ作品を書いての芥川賞受賞である、そして受賞会見で風俗へ行こうか云々などの型破りな話を聞いていて、私の好きだった中上健次をちょっと思いだす。中上健次も46歳で亡くなった。そして経歴も似通ったところが多い。中上の作品は大体読んでいたが、これからも面白いものを書き続けてくれると思っていたのに残念だった。中上がなくなったのが平成4年、彼のような作家はなかなか現れないだろうなと思っていたが、それから20年余りたち「西村賢太」があらわれた。彼も中上健次が受賞した芥川賞を受賞した。西村の受賞時の感想やそのあとのインタビューでの言説を聞いたとき中上健次とよく似た作家が出てきたと思い、いつかは読んでみようと思っていたが、その後忘れてしまいそのままになり結局作品は訃報を聞くまで読んでいなかった。訃報後図書館で彼の受賞作品「苦役列車」を探したが、何冊かある本はすべて借り出し中だった。予約も多いと聞いた、また落ち着いたらじっくり読んでみたいと思っている。

2022年2月7日月曜日

勝瑞城館跡近くに残る板碑

  この一週間(2月1日~今日7日)、私にとって歴史発掘遺物見学週間であった。1日には勝瑞城館跡に行って直接発掘現場とその遺物を見てきた、そして5日には鳥居龍三博士の中国東北部~内蒙古の発掘遺物特別展示が文化の森であったので見てきた。10世紀ころにあった中国北方の民族「契丹族」の建てた国家「遼」に関する遺物展示である。こちらのほうはあらためてまたブログに書くとして、先日の勝瑞城館跡のブログで書き漏らしたのが一点あるので今日はそれに関するブログです。

 勝瑞城館跡にある遺物展示館のものはすべて発掘物である。もちろんこれにも大いに歴史を探るうえで価値のあるものには違いないが、土に埋もれて長年月たち、いつのものやらはっきりとわからないものが多い、また原型をとどめるものは少なく、陶磁器などはたいてい壊れて破片になったり、また金属器などはちょっと見には錆びて正体のわからないものもある。

 歴史的遺物で最も価値のあるのは伝世品、すなわち人の持ち物として代々、世を受け継いできたものである。これは発掘品と違い、完全形で残っているのが多いし、またいつから伝えられたのか(年号まで)はっきりわかるものが多い。日本にはうれしいことに古くから残る伝世品が多い。古代エジプト、古代ギリシャ、中国・殷、周などの遺物に古さでは負けても、これらのものはほとんど土からの発掘出土品である。ところが8世紀からの伝世品である「正倉院御物」は代々、世を受け継いできたものであり、壊れずに持ちこたえ今見ることができる遺物としては類例がないほど素晴らしいものである。

 さて先日見た勝瑞城館跡のモノはすべて土にうもれた発掘品であるが、この館跡の敷地内に隣接して「板碑」がある、これはこの館跡の時代とほぼ重なる時代から受け継がれた伝世品(破棄されたりせず、あるいは埋もれず、本来の目的で使われ続けてきたという意味で)といってよいだろう。

 板碑(現在は鞘堂に入っているが本来は露天・むき出しのままである)の前にある説明版を読むと、この勝瑞城館跡があった室町時代から世世をへて現代まで信仰の対象として途切れることなく受け継がれてきたものであることがわかる。説明板の後ろにあるのがコンクリ製の板碑を覆う鞘堂である。


 説明板にはこの板碑は阿弥陀の梵字と名号(南無阿弥陀仏)の両方が彫ってあって珍しい板碑とある。板碑の基本形については前にブログに書いてあるので、それを参考に見てください(板碑の基本形・ここクリック

 鞘堂の内部の板碑本体の写真、梵字は阿弥陀如来のキリークである。


 そして板碑の下方を拡大すると、「南」という文字が見える、これが名号「南無阿弥陀仏」の一部である。なるほど、私も県内各地の板碑をみたが、確かに梵字と名号が大きく中央に彫ってあるのは見たことがない。

2022年2月3日木曜日

三回目のコロナワクチン

  3日前に市役所から3回目のワクチン接種券が届いた。今回は受けるかどうしようか迷っているところである。聞くところによると三回目は迷っている人、もう三回目はしないと言っている人が結構多い。

 その理由は、副作用がだんだんきつくなるからヤダ、という人、これからコロナは収束に向かうかあるいはうんと弱毒化するので必要ないと思っている人、そもそも信念をもって一回目から拒否している人、様々である。

 二年間にわたって特にマスコミに脅されまくり、うんざりしているところへ持ってきて、去年の秋ごろ急速にコロナ発症が減少したが、どうもワクチンの効果よりウィルスそのものの特性によるのではないか(ということはワクチンにあまり効果を認めない)、そして今、進行形で急激に増大しているコロナだが、統計で明らかなように重症化する数は母数が多いにも関わらず今回の5波が最も少なくなっているのである。そんなことから3回目の接種は積極的拒否ではないにしても迷っている人が多いのではないだろうか。私もその一人である。

 先取りして5波に襲われた沖縄では波は減少に転じているし、初発のオミクロン種の流行の南アフリカではすでに収束している。あわてて三回目を接種してもそのころに急速に波が減少に転じワクチンの免疫が切れるころ、第6波ということになれば、むしろ慌ててワクチンを打つより、迷いながらうんと先延ばしにして3回目のワクチンをした免疫が後々残るからそっちがいいかもしれないと考える。

 実のところ、二年間にわたるコロナ流行で、ワイら素人の庶民でも気づいたことがある。それはコロナ専門家(政府の専門委員を含め)の将来流行がどうなるかの見通しが当てにならない、あまり信用が置けないということである。ワクチンの予防効果は確かにあるだろうが、繰り返す上昇の波、下降の波がワクチン接種の広がりの可否では説明がつかないのは素人でもわかる。

 独立不羈が志向が強いアングロサクソン系の国(英米等)はもうマスクをつけるのもいやと拒否する人が多く、最近のニュスではロンドンはマスク強制はやめたという報道があった。日本は強制ではないが日本社会の例の同調圧力によって今でもほぼみんながマスクをしている。ワイは基本的にマスクを「つけさがす」(←これ阿波弁ですよわかりますか?)のはいやである。これについてはコロナ流行の十年も前から何度もブログに書いている。

そのブログ・ここクリック

 私の友人が面白いことを言った。

「マスクしてないことは恥ずかしいんじょ、ちょうどパンツを履かずに人前に出るようなもんじょ」

 これは友人の言葉ではなく、マスクをするのが当たり前という考えを持っている人が言ったことが、

このような言葉になって流行っていいるらしい。

 まったく!同調圧力もここまでいうか!というのが私の印象である。

 「ホウホゥ!マスクがパンツなら、隠す口元は、口唇ともいうからさしずめ「陰唇」か!おちょぼ口に女性はそうすると「小陰唇」。京唄子(古っ)なら「大陰唇」か!そう考えりゃ隠すのは止むをえない。男の場合は「陰唇」はないから、舌が「珍棒」(チンポ)か、そうすると、食べるときはマスクを外すが、チョコアイスなんどを食べて口唇の回りがチョコで汚れたら、口唇をペロペロするが、こりゃぁ陰唇を舌で嘗め回すクリニングスやもっと卑猥な性行為になるわな、こりゃあかん、もの食べるときもマスクは無理でも大きな扇を広げさがして口元を覆わにゃ」

 となるが、マスクパンツ説のなんとばかばかしいことよ!

 ここ数日まえから、ティンエイジャァが日中もウロウロしている。試験中か高校入試で早じまいかと思い、先ほど座っていた高校生に聞くと、やはりコロナの第5波で休校や早引けになっていたとのことだった。高校生やこしぃ、まったくかかっても重症化しないが、うちに持って帰って家族に移すのが困るからそのような措置なのだろうか、でもオミクロンの感染力はそんなことで収まるのだろうか、疑問の一つである。

 今回の5波で収束するか、あるいはしないまでも弱毒化でインフル並みになってほしい。さて5波は今後急速に減少するか、また減少してもさらに第6波がやってくるか、どうだろう。そういえば大昔、喜劇俳優で古川6波(ロッパ)がいたな、これも古っ!

https://www.covid19-vaccine.mrso.jp/362051/VisitNumbers/visitnoAuth/

https://www.pref.tokushima.lg.jp/ippannokata/kenko/kansensho/5047297/

2022年2月2日水曜日

2月2日の雑感日記

  今日は、高血圧を診てもらっている循環器科の予約日、四週間前から診てもらっているが最初の投薬で二週間様子をみた。朝の血圧が下がらないので、次の二週間は薬を変えた。で、今日、毎日朝夕の血圧プロット表を見ながらの診察である。私が見ても新しい投薬の二週間でずいぶん下がっている。医師は当分この薬で行きましょうという。

 気になる点をいくつか聞いた。

●この薬は前の薬よりいわゆる「キツイ」(作用が激しいという意味で)のか?⇒一段階薬効の強い薬とはいえる、とのこと

●ずっと(死ぬまで)飲み続けることが必要なのか?⇒そうなる可能性が高いが、今後の血圧のコントロールによって、薬は変わる(より弱い)のになる可能性がある、とのこと

●血圧の薬を常用することにより、高血圧からもたらされる病気のリスクは小さくなるのか?⇒(たぶん高齢者からこのようなことは何度も聞かれているのだろう、ウンザリした感じで)、前も何度も言っているように、薬を飲んだからいいというのではなく、薬とともに血圧のコントロールが大事で、そうすることにより思わぬ高血圧による発症はより少なくなる、とのこと

●副作用は処方薬とともに出される薬の説明書に書いてあるが、書いていない、多種の薬を常用することによる肝臓障害はどうか?⇒それはありうる、心配なら今後血液検査をすればよい、とのこと

 私が質問すれば漏らさず答えてはくれるが、こっちは素人、あちらは専門医、普通の言葉で述べる私の質問に、誤解が生まれているのではないか、うまく私の懸念が伝わっていないのではないかと多々感じる。多くの予約を抱えているので忙しく個人の細かいところになかなか目が行き届かないのだろう。言葉も事務的となるし、こちらもあまり時間を取らせまいと遠慮もある。(70歳を超える私からこの若手の医師を見ると、失礼かもしれないが外見なんかは高校生が白衣来たように見える若さである、言葉やコミュの世代の断絶もあるのかしらん)

 最初の診察の時、強く町のクリニック(主治医があればそちらを)を進められたが、家も近いし、10年も前からこの病院の他の科で定期的に診療してもらい常用薬も処方してもらっているので、ここの循環器科で診てもらい処方薬をもらうことを希望している、とお願いした。医師は、まぁこの血圧表を診ているとコントロールはできているようなので、同じ薬でまた様子を診ましょう。とのこと、次は5週間後であるが、医師がボソッと

 「なかなか予約がいっぱいで、(私の)予約が、はめ辛いんだよなぁ」 

 同じ病院の泌尿科の私の主治医は、循環器科で血圧の薬が確定したらこちらで出してあげてもいいとは言ってくれている、循環器科の先生にもその旨言ってあるが、できれば循環器科で診察、投薬を受けたい希望も言ってある。血圧の薬は3か月くらい出せると聞いている、三か月に一度の予約はそんなに難しいのかな?

 石原慎太郎さんが亡くなったニュースが昨日駆け巡った。ちょっと古いが「太陽族」という若い特徴的な世代を象徴する言葉を生み、昭和30年代初期の世相を歴史的に言い表す言葉を生み出した。若い人は右寄りの政治家としてしか知らない人が多いが、私はかろうじて彼の世相をとらえた「太陽族の若者」を知っている。小学校の三年生頃まで近所に大きなアミューズメントパークがあり(鴨島有楽座、大火で焼失する)、ティーンエイジャー、20歳そこそこの若者がその中、周りでうろうろしたのを覚えているが、(おそらく夏だろう)派手なアロハ、横を借り上げつつ前に少し伸ばした髪(今から思うと慎太郎刈りか)、そして黒のサングラス、の格好で粋がって歩いていたのを思い出す。石原慎太郎さんの小説「太陽の季節」と即映画化され、一世を風靡した太陽族をまねた田舎の若者であった。いまから考えると海から遠い内陸部で場違いさは否めないがこれも若者の全国的な流行の一つであった。

 太陽つながりで、慎太郎はんの「太陽の季節」は昭和31年であったが、4年後の昭和35年に、太陽と海を舞台にした衝撃的な映画が公開された、どちらの映画も私が見たのは10年以上たってからだが、フランス映画「太陽がいっぱい」である。太陽の季節は、日本の小説が元ということもあり、主人公はすべて日本人であるため、似合う似合わないにかかわらず、みんなアロハ、黒サングラスと外見からまねていったが、フランス映画の「太陽がいっぱい」は、もう絶対日本人にはまねのできない、哀愁を帯びた超美形のアランドロンであったためか、見た人は審美感や哀切感が入り混じって胸いっぱいにさせ、特に女性の心を鷲掴みにした。さすがアランドロンの外形は日本人には真似られないだろう。またサウンドトラックの主題歌も大ヒットした。こちらは内面の官能を大いに刺激したが、安易に外見はまねできなかったため「太陽がいっぱい族」は生み出さなかった。しかし太陽族は昭和30年代半ばを過ぎても、風俗として続いたのは、アランドロンの「太陽がいっぱい」の舞台の太陽と海の影響もあるのではないだろうか。

2022年2月1日火曜日

勝瑞城館跡へ行ってきました

  勝瑞城およびその館は、細川氏の阿波守護所がおかれ室町時代の阿波の政治的中心でした。勝瑞の城跡に今でも残る土塁、堀などは勝瑞城の遺構を今も伝えるものとして古くから知られていました。私は半世紀も前に「勝瑞城跡」を見学していました。

 勝瑞の「館跡」は下の絵地図を見てもらったらわかるように城跡より広大です。しかし発掘調査が最近までできずに実態はよくわかっていませんでした。そのため勝瑞城跡といえば下の絵地図にあるように右上(北東)の見性寺境内と重なる部分でした。


 近年、発掘調査が進み、その遺跡の保存にも力を入れるようになった結果、奈良平城京の史跡公園ほどではないにしても、広く遺跡敷地をとり、野外展示や発掘品の室内展示で歴史好きの人を楽しませてくれるようになりました。

 この城館については、館を巡る主要人物、京都中央政界とつながった館関係者の人間関係とその勢力の盛衰、それぞれの時代も登場人物も多岐にわたり、もう複雑(怪奇といっていいかも)、歴史の専門家でも説明が難しいほどです。(一応、この勝瑞城館の主要氏族は、細川氏、三好氏ではありますが・・)

 世は室町末期、いわゆる下剋上の時代、権力が次々と下の者に移り変わるのはめまぐるしいほど、もっともわかりやすく象徴的なのは、幕府権力が次々と下の者に移っていくことでした。まず将軍は飾りで祭り上げられ、執政の細川氏に幕府権力が移るとみるや、その下官である三好氏がまた細川氏を祭り上げ権力を奪取、しかし三好の絶頂期も続かず、その家臣である松永弾正に権力が移る、とまぁ、これは一例、これにいろいろな氏族が結びついたり、また他氏族に従ったり、従わせたりで、わかりにくいことこの上ない。

 そんなわけでこの勝瑞城の背景の歴史を知るのは、説明パネルを読むだけでもよほどの根気が必要、しかし説明は丁寧にわかりやすい文でおまけにイラストまで多用しているのですが、ともかく登場人物が大勢で、複雑な絡みのある人間関係なので、理解は相当難しい。

 ぜひ実際にこの城館遺跡に出向いて下のような説明パネルを時間をかけじっくり読んで理解してください、私の拙劣なブログではとてもお話になりません。

 説明パネル一部、こんなのが十枚以上ある、すべてよく読まないと全体の歴史がつかめない。


 それでは次に野外展示の一部を紹介します。まず勝瑞城館遺跡の広大な発掘現場(今は埋めなおしてある)の動画パノラマをご覧ください。

 野外展示の堀跡、実際の深さを再現はしていない、その場所を少々の窪地にして深い堀のあった場所がわかるようにしている。



 枯山水庭園跡(いくつかの石の並びがそうのようだ)

 礎石建築物(実際に礎石を並べその上に四阿風の建物を建てている、公園の休息所を兼ねているが、少なくとも建物の礎石や柱の並びは歴史的建造物を再現しているようだ。)

 次に資料展示室の発掘品の紹介をします。スライドショーにしてありますので画面をクリックしていろいろな発掘品をご覧ください。