どの河川も続く長雨に水量が夥しく増え激しく流れている。下は鮎喰川鉄橋下 わが町の飯尾川や江川沿いの低い道路は冠水しているところもある。あと30cmほど江川の水位が上がれば我が家の前の道も冠水するだろう。
2021年8月20日金曜日
2021年8月18日水曜日
今日のニュース雑感
今日の新聞の一面を占める三大話は「アフガン情勢」「大雨の被害」そして去年からずっと欠かすことのない「コロナ」、コロナは常に新聞の一面を占めるが見るほうもいい加減うんざりしてくる。人々もこれだけ長く脅されつづけりゃぁ、鈍感になり去年の蔓延したての頃より用心警戒が緩むのもしゃぁない気がする。
「アフガン情勢」は現政府崩壊、首脳はいち早く逃げたようだが、空港における脱出者の大混乱がニュースとなっている。政府崩壊、首脳国外逃亡って、日本人にはちょっと想像するダニ恐ろしいことである。なんせ太平洋戦争のときでさえ日本政府は崩壊しなかったし、首脳の逃亡なんど考えもされなかった。日本歴史を紐解いてみると徳川幕府崩壊あたりまでさかのぼらなければならんが現代日本人には政府崩壊の恐ろしさはイメージもできんやろ。
ニュースの写真を見ると
飛行機に乗ろうとタラップに押し寄せる人々、こりゃカオスじゃ、ネットニュスでは飛び立った後飛行機にしがみついた人が振り落とされたと言っていたがホンマかいな。写真で見ると輸送機の中は脱出民でまけまけいっぱい、600人余乗っているらしい。
山岳ゲリラ党のイメージしかない「タリバン」が全土掌握して新政府を作るらしいが、これからどうなっていくのか心配だ。というのもワイは彼らにあまり良いイメージを持っていない。教義や主張についてはよく知らないが、あの三蔵法師さんが横を通り西域記にその様子を描いたバーミヤン石仏群を跡形もなく破壊したのがタリバンであった。異教の仏像としてではなく、なぜ2000年に近い風雪を耐えてきた国宝級の「文化遺物」として認識できなかったのか残念でならない。
そして大雨、九州や中国地方で被害が出ている。ここ阿波ではまだ被害は報告されていないがこの真夏の長雨まことに例のない長さとなっているようだ。甲子園の高校野球の雨による順延は史上最長となっている。昨日も今日も雨(たまに止むが雨雲は居座り続けたまま)、予報では明日も雨、コロナにもうんざりするが雨にもうんざりする。
そんな暗いニュースの紙面でちょっと笑ったこと。新聞の三面に近いところに見出しで「雨上がり決死隊解散」てでていた。「え?解散、結成の間違いじゃないの?あっちこっちで大雨の被害が出ているのに!」と疑問に思い、内容を読むと、これお笑いコンビの名前が雨上がり決死隊というらしい。顔写真を見ると知ったタレントだが、そのコンビ名が「雨上がり決死隊」というのは知らなかった。情報に疎い爺などが大雨の被害の横の紙面に「雨上がり決死隊」などの文字を見れば誤解するやろうとおもってちょっと笑った。
笑えないのがわが徳島のコロナ、最近徐々に増えてきていたが昨日はとうとう36名になり県の警戒レベルを一段と上げたことが地方面に出ている。こちらは笑えない。大雨傾向はもう数日で終わりそうだがコロナはいつ果てが見えるのだろう。
2021年8月17日火曜日
残したい阿波の民俗芸能(ある神社の祭礼のおねりより)
朝から雨、そして一日降り続くようだ。また降り込められる一日となる。そこで今日のブログは先日(14日)のブログで取り上げて印象に残った「消え去りゆく阿波の民俗芸能」から印象に残った下の芸能パッフォーマンスについて調べることにした。
上の写真は昭和43年秋、檜瑛司さん撮影、私がまだ17歳の時である。当時の私と違わぬ若者がこの躍動(右)のパホーマンスである。左の少年も同じ衣装なのでおそらく同じ流れの一環かと思うが、立膝になり手を広げるパッフォーマンスは勇壮なアメリカインディアンの戦いの舞に似ている印象だ。どちらも荒々しいパッフォーマンスである。
お祭りは若者の爆発的なエネルギが噴出する、おとなしい昔の日本人は普段はそのような爆発は抑えていたが祭りは別であった。多くの祭神は荒ぶる神の性格を持つ。人々は若者の力の迸りを大目に見たというのではなく、若者の荒々しさを荒ぶる神の憑依としてみて、むしろそれを鼓舞したという側面があるのではないか。特にこの神社の御祭神は八幡神(応神天皇)が主神で神功皇后(三韓征伐)もともに祀られている、いずれも戦いの神といってよい(そのため武家の棟梁源氏の信仰が篤い)。
祭神が神社から出てよそへ渡御するのには御輿(神体が乗っている)を担いで行く。祭神が乗った御輿であるにもかかわらず、しずしず行くというのは少なく、かなり荒い渡御が多い、他の御輿と出会うと御輿を担ぎながらのぶつかり合いとなり、他の御輿との喧嘩となる。荒々しい渡御、雄叫び、他の御輿との喧嘩、などに当時の若者の爆発的なエネルギを見、それが祭りのハイライトとなる。しかし私の好みとしては若い衆の御輿担ぎより、上のような個々の若者のパッフォーマンスを見る方が好きである。
神事にかかわる若者たちは裸体に近いのが多い。荒ぶる行を見せるのは裸体に近いほうが筋肉などの盛り上がりや、緊張した体躯などの見せがいがある。それに少年期から青年期に移りかわりつつある若者の体は美しい、古今東西、多神教世界では青少年の美を愛でることは一般的なことであった。またかなり有力な説として女神さんも「若い男の裸が好き」というのがあるらしい。この神社も八幡さんと並んで神功さんの女神さんが主神でいらっしゃるから、そういう見方も出来そうである。(中上健次の熊野小説の中に、木こりが誤って神の木である「榊」にションベンをひっかけるのがある、すると先輩が、はよ~チンポだしてみんなで山に向かって見せぃ、といって皆で一斉にズボンおろしチンポを見せる、そのわけも言っているが、山の神さんはオナゴやさかい男の裸がすきなんじゃわだ、といっていたのを思い出す)
上の写真の若者も身に着けるものは少なく裸体に近い。腰にさらしを巻いていて下半身はふんどしだけでほとんどむき出し(黒の脚絆はつけているが)、上半身もわずかな布が肩を覆うだけで、乳首丸見え、腕を上げていて飛び跳ねている若者はわき毛も見えている。勇壮な男らしいパッフォーマンスであるにもかかわらず、肩には大きな花飾りがあり、キューピィさんのお人形が何体か肩からぶら下がっているちぐはぐ感が何とも言えずよい。男らしさの中にも優しさ、かわいらしさを見てくれということか。
「由岐町史」を調べるとこの神事はそもそもは「大名行列」の槍投げを取り入れたものから来ているとある。「大練(おねり)」と称するようだ。平成21年に撮影されたその動画を見てみる。
先日はこれより新しい(2009年)祭礼の大練(おねり)はウェブ上で探せなかったがその後詳しく調べると同じおねりの写真が見つかった。下の写真である。2018年秋とある。なるほど大名行列の先頭部分のパッフォーマンスを取り入れたのがよくわかる。手前は「毛槍」そして向こうは大型の「褄折り傘」の畳んだものか。その奥にも白い毛槍がある。
すでに廃れているのではないかとの心配があったが、三年前にも行われているところをみると伝統は途切れずに続いていて安心した。しかしおそらく去年、そして今年はコロナ下で中断しているのではなかろうか。早く再開できる状況になってほしい。
私が気に入り、感激させたおねり神事ではあるが、その元となったオリジナルの大名行列の先頭パッフォーマンスはどんなものであったかさらに知りたくなった。というのもこのように祭礼のおおきな見せ場としてそれが取り入れられたということは大名行列の先頭のパッフォーマンスは江戸時代大人気であったに違いないと思うからである。江戸の庶民のやんややんやの大喝采のなか、行われ、見せびらかされてきたのであろう。そうでなければ今も各地の神社祭礼に大名行列の先頭のパッフォーマンスが多く取り入れられてはいないだろう。
江戸の人を楽しませた道中パッフォーマンスで今も残るもっとも有名なものは「花魁道中」であろう。金糸銀糸の絢爛豪華な衣装に漆の高こっぽり(台形の大下駄)を履き、ド派手な髪型にバカスカ髪飾りをつけ、お供を引き連れ大下駄で8の字を描きながら優雅に歩く花魁道中は今も歌舞伎で見られたり、或いは時々時代祭などで行われて大人気である。しかし江戸時代にこれが見られるのは吉原の廓内であり、老若男女身分も問わず多くの人が見て楽しめるものではなかった。
それに対して大名行列の先頭を行く「やっこ」のパッフォーマンスは誰でも見ることができ、また街道の庶民に見られることを意識してやっていた。「やっこ」の人数の多さ、そして大名家に特徴的な槍や毛槍、豪華な挟み箱は大名の格式を表すもので、また行列の先頭をいく「やっこ」が行うパッフォーマンス(これを「やっこぶり」というが)は大名の威勢を広く知らしめるもので特に大大名は競って行ったのである。
野性的な男の肉体美をみせつつ、アクロバット的な技で毛槍をさばき、あるいは手や足を大きく振りつつ歩くさま(その実、行きつ戻りつするためほとんど進まない)は江戸時代の庶民にとってまず見られぬ花魁道中よりずっと娯楽性の高い一般的な見世物であった。ここで疑問だが、先頭のやっこがそんなことをすりゃぁ、大名行列はどれびゃぁも進まず行き暮れて困るだろうと思われるが、まさか参勤交代の道中、のべつ幕なしに行うわけではない。宿場の中心地などの重要な場所、あるいは他の大名行列と行き会った時、ここぞという時に行ったのである。
17世紀の末、五代将軍綱吉の御世、江戸参府に行ったオランダ商館の医師ケンプウェルが西洋人の目でこの行列パッフォーマンスを見て記録しているのでその文を引用する。
「大名行列の武士団は黒の絹の服を着て歩き実に規則正しい見事な秩序を保ち、大集団であるにもかかわらず騒音も立て静々と行くが、これと対照的に槍持ち(挟み箱、日傘雨傘持ちも同じ)や駕籠かき(つまりやっこである)は衣服の後ろを非常に高くはしょっているので下半身はふんどし以外むきだしである。そしておかしいことに人がたくさん住んでいる町筋を通ったり、他の行列のそばを通ったりするときに、馬鹿げた歩き方、をすることである。この歩き方というのは、一歩踏み出すごとに足がほとんど尻に届くまで後ろに蹴り上げ、そして同時に一方の腕をずっと前の方に突き出すので、まるで空中を泳いでいるように見える。こういう歩き方の時に、彼らは飾りの槍や傘や日傘を二、三回あちこちに動かし、挟み箱も肩の上で踊っているのである。・・・そして膝をこわばらせたりして、こっけいな恐ろしさを装ったり、用心深い振りをしたりする。」
見せ場をつくり、どうだ俺たちはすごいだろ、とやるパッフォーマンスは『奴ぶり』といわれる。大名行列などは街道筋の庶民には迷惑だおもわれようが、それは宿場役人や本陣の役人にはそうであったかもしれない、しかし庶民はちがう。その「奴ぶり」を見ることは大きな楽しみであった。あまりにも面白く、見ごたえのあるみごとな荒事の(芸能で神業、神力、怪力のパッフォーマンス)一つとなったのである。そのため荒ぶる神事との相性も良く、江戸中期以降各地の神社の祭礼の中に取り入れられていったものと思われる。
その「奴さん」は特徴ある法被を着、そしてやっこ髭を蓄えているのが一般的である。子どもの時「やっこ凧」を上げた人はその絵でおなじみだろう。顔を隈どるようなやっこ髭は怪力、神力の象徴的意味合いがあるのだろう。江戸時代の正式な武士はまず髭など生やさない。そう、髭など生やす「やっこ」は武士ではないのである。「奴」すなわち「下僕」である。まぁそれはそうだろう、なんぼう大名家の格式や威勢を示すためとは言いながら、庶民の目を楽しませるためアクロバット芸人のようなことをするのは武士にはできない。「芸人」は江戸時代ずっと下に見られていたのである。下僕ならではのパッフォーマンスである。
下は現代、東海道筋の宿場町祭りで行われている「奴ぶり」である。さすがにやっこ髭は生ではなく墨で顔に描いている。ケンプウェルのいっていたような手足の動かし方をしている。パッフォーマンスのあいだはどれびゃぁも進まない。
江戸中期以降この「奴ぶり」は庶民に大人気だったのだろう。参勤交代が頻繁にある東海道筋やそのほかの街道筋ならわかるが、そもそもこのブログで取り上げたのは阿波の南方海岸部にある僻地の漁村の祭礼だったのである。そんな辺境の地にまでこの「奴ぶり」をまねた神事があったことはその奴ぶりの人気の隆盛を示している。
最初に示した白黒の写真の神事芸能は昭和43年である。この写真の青年も今は70歳近くなっているだろう。あとで調べてこの神事祭礼は現代も途切れることなく続いていることがわかった。カラー写真に見える(3年前)の中学生はもしかして昔槍投げ神事をした青年の孫かもしれない。このように世世をかさね神事は続いていくのだ。しかし今後もどんどん少子化、山村の過疎化がすすみ、そして近い将来、日本が移民社会に移行すれば各神社の神事どころか日本の神々の多くも死に絶えるかもしれない。
2021年8月16日月曜日
これじゃまるで梅雨じゃ
今日も降ったりやんだりの天気、予報ではこの先も雨がつづくようだ。なんぼぅ涼ぅしいてもこんだけ雨がつづき屋内に降り込めらりゃぁうんざりする、うだる暑さ、蝉時雨の中、麦ンがら帽を被り自転車でふらふらする方がまだエエ。
夏よどこいった、はよぉ~もんてこい!
昼頃、雨が一時止んだので城公園を歩いた。いつもなら城公園は自転車でウロチョロするがいつまた降り出すかもわからず折り畳み傘をさげてのお散歩だ。
真夏の花、サルスベリと夾竹桃の花は今が盛だが薄暗い空の下、雨に濡れそぼっていて全くパットしない。陰鬱な梅雨空の下、こういうのに似合うのはやっぱ紫陽花だよな、でも今梅雨みたいな気候にはなってるが紫陽花の盛はとうに過ぎている。公園に多くある紫陽花も枯れるか落ちるかして大きな葉っぱだけが目立つんだろうなぁ、そんなことを思いつつ紫陽花をさがすと池の近くに紫陽花があった。
不思議なことにこの紫陽花は落ちてもいず枯れた様子でもない、ただ漂白されたように色が抜け、見たところドライフラワーのようになっていた。しかしこうやって写真に撮ると、打ち続く雨でミイラ化した花に生気が吹き込まれたのか、「梅雨に咲く白紫陽花」といっても全然違和感はない。
2021年8月15日日曜日
令和一日だけのボニ踊り
徳島市内もわが町も今年の阿波踊りは中止となっている。徳島市はアワギンホールで踊り子連、客を選抜して舞台、観客席で「コロナ下の阿波踊り」をやっている。数少ない予約チケットは早々と完売、それじゃぁほとんどのモンは見れんではないか!突っ込まれそうだが、言い訳としてウェブ上などで中継視聴はできるので皆さんはそっちらをどうぞ、ということだが、そんなもん、面白っしょうあるかだ!オリムピクのネット中継なら手に汗握る勝負を見る楽しみもあろうが、阿波踊りの中継などそれに比べるべくもない。もっともこのボニ中降り続いた雨で正式開催したとしても徳島市の四日間(12~15日)、ちゃんとできたか疑問だが。
わが町のボニ踊りは例年14日~16日の三日間開催されている。しかし去年に引き続き今年もコロナ下で中止である。わが町の今年の花火打ち上げは、うまいことフェイントをかまし、密集せんように13日にステルス花火をやったが、さすがボニ踊りはこそっとやるわけにもいかず全面中止である。
そこでワイの今日のブログではわが町の、ありし日(何をおおげさな!)のボニ踊りを動画に張り付けておこうと思う。撮影はもちろんワイ。令和の御代はじめ(令和元年)のボニ踊りだが、去年、今年となかったので、明日をも知れぬワイにとっては、もしや(かなり高い確率で)これが最後の見納めボニ踊りだったかもしれない。今から思うとこの令和御代はじめのボニ踊り、なにかそういやぁ不吉な予兆を感じぬでもなかったんだよなぁ、この年の三日間のボニ踊りのうち雨天で二日は中止、たった一日の令和元年鴨島ボニ踊りになった。
昨日みた檜さんの「在りし日の民俗芸能」ではないが、なんか動画を見ていると「滅び」の予兆というか、消えゆくモノへの哀愁をそこはかとなく感じるのはオイラだけだろうか(そのとおり!死にかけのジジイの過度な感傷じゃわ、と言われそうだが)、BGMにそれらしい音楽をつけたからか?
2021年8月14日土曜日
檜瑛司さんの写真展を見る
今日も雨の一日、シビックセンター3階で檜瑛司さんの残された阿波の民俗芸能の写真展が開かれていたので見学した。
立て看板のポスターにも書いてあるように「山に多くの人がいて 祭りに熱のこもった時代、彼の視線の先にはこんなにも豊かな阿波がありました」とある。過去形で語らねばならぬのは悲しいことである。檜さんは平成8年にお亡くなりになり、すでに四半世紀もたちますが生前すでに檜さんは、民俗芸能を写真に撮ったり採譜したりするのを「骨拾い」と称していました。それらは近年あまりにも滅び去る速度が速く、やがて跡形もなく滅び去る予感がしていたのでしょう、せめて今なら骨だけかもしれないが、それが世にあった証としてなんとか拾い、後世に残せるのではないかという意思の表れがそのような言葉になったのだろうと思う。
古いモノクロの写真の前でそれらを見歩きながら、確かめるまでもなくその過半はすでに廃れ、今や行われていないであろうことは強く推察された。わが町のことに引きつけて考えてもすぐ近くのお宮の祭礼が今どうなっているか考えてもそれは知れる。
徳島は山村、海岸部の僻地が多い。もう限界集落どころか、部落自体消滅したところが多い。消滅せぬまでも高齢化が進み若者がほとんどいないのが現状である。そのような部落の神社の祭礼がもはや維持できるはずもない。檜さんの写真はそんな山村が元気だったころ(戦後、ベビーブームに沸き、若者が部落にも多くいた時代)である。民俗芸能に関して言えば小さな山村、漁村にも確かにこんな豊かな阿波があったのである。
貴重な多くの写真展示である。どれも引き込まれるものばかりである。すべてに「滅び」の予兆があるためか、一つ一つについて、もっと知りたい、調べたい、という気持ちが沸き起こってくるが、民俗学の研究家でもない私にはそれらすべてを知ることはできない。その中で一枚の写真に目が留まった。
躍動する若者、これは何だろう、1968年とある、私が17歳の時だ。見ると中学生か高校生くらいだから私とそう違わない。若者が田舎にも多かった時代である。西由岐・八幡神社の祭礼「おねり」とある。同じシビックセンター6階にある図書館で由岐町史を調べると、これは大名行列の先頭の奴(やっこ)が行う「槍投げ」の神事とわかった。神は昔から、白髭の「翁」(じいさん)と童(少年)に宿るといわれる。写真のように槍を投げ、躍動する少年の体からは荒ぶる神のイメージを受ける。
この神事も滅び去ったのか?図書館の本と館内のネットでさらに調べると、この西由岐・八幡神社はJR「由岐駅」のすぐ近くにあることが分かった。また旧役場も近い、すると人も多く住んでおり、祭礼も維持できている可能性がある。ネットのユーチューブで「西由岐・八幡神社祭礼」で検索すると、平成21年の祭りの動画があった。見るとこの「おねり・やりなげ」の神事も幸いなことに行われていた。ネットにはそれより新しい時代の動画はなかった。平成21年から12年たち今は令和の御代であるが、まだ廃れてはいないと信じたい。
2021年8月13日金曜日
ステルス花火
暗くなって雨が小止みになっているのは何となく感じていたが、そんなことはどうでもよい。予報によればいずれまたふる。数日は雨もよいだ。そんな宵の口、食事のあとテレビを見ていると、ドッカーンという大きな音が響いた。去年のことがあったのですぐ、花火の打ち上げじゃないかと気づいた。というのも去年はやばやと中止を決めていた花火が、去年例年通り8月7日の夜にあがったのだ。中止と言っておいてフェイントをかまし、打ち上げたわけだ。誰も打ち上がると知らないので密集はなく、コロナ対策の粋な計らいとみえた。
今年も一応中止と町の広報では言っていたが、多くの人は去年のことがあるので内心は今年もやるんじゃないかと思っていた。しかし8月7日の夜は何ともなかった。やはり広報通り中止だったんや。
しかしその裏をかき、さっき午後8時前に15分びゃぁのステルス花火の打ち上げとなった。元々ステルスのつもりだったから今晩雨が小やみにならなんだら明日あるいは16日までのいつかにする予定だったのだろう。
ワイの家からちょっと出た大通りから、例年よりは低いが打ち上げ花火が見えたんで撮影した。
ボニ中の天気、この天のご機嫌どないとらえたらええんや
いつもなら冷房いれな寝付きもできん寝室もヨンベはもちろん冷房なしで十分涼しかった。それどころか明け方タオルケト2枚重ね着してひっかぶっても寒かったわ。
目覚めつつぼんやり耳を澄ますと、いつもの夏の朝ならセミが鳴き始めるのだが、ビチャビチャと雨の音、朝からよ~ふる。昼過ぎになってもやまず、ずっと降り続けている。まるで梅雨の初めころの地雨みたいだ。
今日の一時間天気予報を見ると、アカン!イチンチ雨や!明け方ふるうたはずや、最低気温が21℃そこそこ。
キニョウも雨、キョウも雨、もしやボニ期間中雨ぇつづくんとちゃうか、ネットの一時間天気予報を下に繰ると、ええっ~~!明日、明後日の天気も雨、やっぱそうや。
ボニはずぅっと雨ぇぇ~~~
星の運行、天の気象、地の地象などのいつにない変化をみて運気を占う人がいる。そんな人(易者ちゅうんやろか)がこのいつにない(太陽暦の月遅れのボニ8月12~15日は大体晴れる)荒れた天気にどのような吉凶を見るのであろうか。
オリムピクにとっては雨に当たらず吉、
A新聞主催の高校野球はこの分では大幅に雨天延期でずれ込みそう、人が密集するオリムピクなど、やめい!と音頭とったのがA新聞だから、しれっと高校野球は別でおます、と堂々開催、こりゃぁ、バチの一種か、ちょっと小凶
阿波踊り、これはコロナで野外のは一切中止だから、雨が降ろうが槍が降ろうが関係ないその点では吉も凶もないが、ボニによって潤っていた宿や商店そのほかは今年もトホホの凶。
諸悪の元凶コロナに対してはどうか?雨ぇでみんな家に引きこもり、音楽鑑賞だの読書など高尚な趣味に向かえば蔓延防止に効果あるが、えぇい!陰気くさ!いっそどっかへ集まってみんな楽しくワイワイガヤガヤやってこまそ!になれば蔓延加速も考えられる、ちょっと今の段階では吉凶はわからん!
この歳ぃまで生きていると十数年に一回はボニがこのような雨で涼しかったという経験をしている。直近で思い出すのは平成15年(2003年)のボニ、ずっと雨が主流の天気だった、忘れもしないボニの14日の早朝、寒暖計は20℃まで下がって朝震えたのを思い出す。
この年ワイは県の観光協会で臨時職員をしていた。そのため台湾関係の観光客を相手にしたのでよく覚えているが、この年(平成15年)恐ろしい疫病が中国から広がり台湾人や日本人を恐怖に陥れたのを思い出す。それはサーズ(SARS)致死率も高かった。だから台湾旅行者もそうだが引き受ける日本人もナーバスになっていた。(日本人は幸いなことに患者はなかった)
なんと雨のボニは恐ろしい疫病を伴っていたのである。なんや今年と似てるわ。
2021年8月12日木曜日
雨のボニ初日、おかげですぅしい
例年なら今日からにんぎゃかなボニ踊りだがコロナの影響で二年続きの中止である。天も「それなら、遠慮、会釈もいらんわなぁ」とばかりに朝から雨、予報を見るとボニの四日間は雨の日が多そうである。雨でうっとうしいがそのかわり今日はずいぶんと涼しい日になった。
アミコ地下で「昭和阿波踊りポスター展」をやっていたので見学した。見終わったあと紙パックに入った記念品をもらった。中にはスダチが二個入っていた。
下はポスター展の昭和31年度ポスター、今は阿波踊りは12~15日だがこのころは旧盆に合わせて行われていた。この河童の漫画家ワイの古い記憶にのこっているわ。ネットで調べると小島功でなく、初代の河童漫画家清水崑である。(清酒、黄桜の広告の河童で有名であった)
一番古いポスターは昭和9年のもの。このころはボニ踊りと称するのが一般的であった。
2021年8月9日月曜日
県立博物館リニュアルオプン
西日本を斜めに横切った台風9号、勢力も強くなくここ四国には被害はなかった。かなりの雨は降ったみたいだが夜遅くから未明にかけての強雨だったのでそんなに降ったとは思わなかった。目覚めて居間でごろっと横になりテレビを見つつ窓を見上げると虹が出ていた。
夜のうちにかなり降ったようだ、昨夕帰るとき鮎喰川鉄橋下は小道のような細い水流だけだったが、今朝は川幅一面に濁流が広がっていた。一晩でこないにも水量が増すんやなぁ。
今日は県立博物館のリニュアルオプンということで文化の森駅から徒歩で見学に行ってきた。台風の影響が残っていて小雨がぱらつき風もある天気だったが真夏の暑さはなく歩くにはよかった。
博物館は新装といってもいいほどどれもまっさらピンピン、ガラッと展示内容がかわったコーナーが多く、なかなか見ごたえのあるものとなっている。親子連れが多く、通路も混雑していたので時間をかけてみることはできなかったが、この歳になるといつ来ても無料なのでまた空いているときにゆっくり見に来ようと思う。
下の写真はエントランス付近、徳島の名産・郷土の特産物・文化財などが展示してある。真ん中に竹竿の先に筅のようなものがついているものがある。母子連れが前で立ち止まり、「お母さんこれなにぇ?」と聞いていた。おかあさんは下の説明板を読み、「えぇ~と脱穀をするゴミョゴニョ・・」、当然だがこんなの若いおかぁさんはしらない。ワイは(子供時代だが)これ、リアルに近所の農家が使っていたのを見て知っている。これを知っているジジババ世代もやがて消えゆくんだから、博物館の使命は重要だ。
上の写真の大谷焼の大甕の右横に郷土料理が展示してある(ダミー)拡大図が下。「あぁ~ら、おなつかしや!ボウゼの姿寿司」、ワイの子供時代、ばぁちゃんが秋祭りの時、よ~作りよったわ。あと、見えるのは「チッカ」「そば米ぞうすい」「でこまわし」
こどもに大人気なのが恐竜「レックス」(ティラノザウルス)の実物大の骨格標本、迫力あるわ。
他にも展示が新しくなったのがいくつもあった。また日ぃあらためてゆるゆる見よや。
2021年8月8日日曜日
山の日
昨日は立秋、しかし名ばかりで今月中は猛暑が続くとみてよい。そして今日は『山の日』。猛暑の中、1000m以上の山に登って一日過ごせればつかの間の避暑気分も味わえるが、車ないし、去年足首をベシ折って登山もできなくなっている。
ちょうど十年前、平成23年7月、剣山(1955m)、高越山(1133m)に登った時動画を作成していたので、その二つを貼り付け、その時のことを思い出しながら今日の「山の日」を記念したい。満60歳になったこの年、あぁ~ワイも爺になった、もう(イイ時は)過ぎてしもたわ、とおもったが、70歳になった今思うことは、あぁ~60代はよかったなぁ~である。もぅどちらの山も死ぬまで行けんやろなぁ。
剣山(BGM、テネスィワルツ)
高越山(BGM、落陽)
2021年8月5日木曜日
もぉ~、おこらえなしてぇ~!
午後、こんな田舎でも猛暑、アスハルトの上を歩いていると暑さでボォ~とし、足がもつれる、こりゃ、危ない!影に入ってボトルの水を飲み、頭を扇子であおいで冷やす。
この暑さ、例年になくワイの体にこたえるのは、マスクのせい。熱中症寸前なのにマスクなんどしとうはなぃ!確かに厚生省のお達しでも、熱中症の危険がある時は、距離をとって、マスクは外してもよいとはいう。しかし駅の歩道を歩いている人を見てもノーマスクはまずいない。みんな我慢強いのか、いやいや、なんとはなくの「マスクせなあきひんちゅう同調圧力」が働いているのとちゃうやろか。室内、汽車の車内ではたとえ距離をとってもノーマスクなんどできる雰囲気じゃない。
日本は欧米と違って強権的な法律でノーマスクを取り締まっているわけではない。あくまでお願いである。それでも欧米人よりずっと守る率は高い。欧米なら権力と法で取り締まっているから、「もう、やめれや!」と抗議もできる。が日本はそんな強権的に命令する実態(政府、市、法律)がないから、「そろそろマスクやめまへんか」と誰に向かって言ったらよいかわからない。天か、はたまた世の空気か、に向かって言いたい。
「もぉ~、おこらえなしてぇ~!」
そうはいってもやっぱ、マスクはなんとなくしている。しかし周りを見るとずいぶんマスクのつけ方がルーズになってきている。やはりお年寄りに多い。一番多いのは
鼻だしマスク、鼻を出すだけでもずいぶん楽になる
顎マスク、こりゃぁ、もうほとんどしていないのも同じ、ただ飲料水を飲むときはこのようにする人がいて、飲み終わったらマスクを上げる。ワイなんかは列車の中で手にペットボトルをもって、いかにも今、飲みモン飲んでるからしばらくこらえてね、っちゅうフリでこの顎マスクを長時間つづけている。そんな姑息な言い訳態度までとってもマスクせなあきひんのが情けない。
鼠小僧マスク、こんな格好のマスクは極めて珍しいが、このあいだ、小松島の海岸通りでスケボーをしていた若い子が、おそらく奇をてらってか、こんなひょうきんな鼻だけマスク(二重に折り返したマスク)をしていて、思わず見て笑ってしまった。「マスクせなあきひんちゅう」世の風潮に対する風刺のきいた洒落としてこんな格好しているならなかなか見所のあるガキだが。
良い子の正しいマスク
昔ね、ワイが10歳くらいの頃かな、白黒テレビでSFっぽい活劇があった(ナショナルキッドだの月光仮面だの)、大昔なのでそのどれだったか忘れたが、その中に宇宙人の憎っくき悪役がいた。茶瓶頭でなぜか床屋さんの制服みたいのきて顔の半分以上を覆い隠すデカマスクをしている。そして宇宙語をしゃべるが意味不明の「ケタケタケタケタ・・」そしてぎこちないちょこまかした動きをする、そうそう額の真ん中には仏さんみたいな黒子が一つポツンとあった。いったい何のドラマでなんちゅう宇宙人だったか、いろいろ思いつくキーワードを入れてネットで検索してもわからなかった。誰かこの宇宙人ご存知の方いませんか?60年たって今マスクに苦しめられる毎日、もしや銀河をこえてやって来たこのマスク星人が「悪さ」をしているんじゃないだろうか。
2021年8月4日水曜日
火炎木かとおもったら・・・
35°近くなった昼過ぎ、ギラギラする陽光のなか、某病院の駐車場にまるで枝から炎が吹き出ているような木があった。
濃い緋色と炎のような花の形はいかにも今日のような炎熱の日にふさわしい。芥川龍之介の「地獄変」に出てくる絵巻をみるようだ。炎熱地獄に木があったらこんなだろうか。
近づくまでは火炎木か、と思っていたが、これ前のブログで取り上げた仏さんの木の一つでサルスベリ、フリルのような花がチロチロ燃え上がる炎みたいだ。
2021年8月2日月曜日
オリムピク雑感その4 オリムピクと全裸
東京オリムピクが暑すぎるからどないぞせぇ!ちゅう競技選手たちが話題になっていた。まぁ真夏に全力を出し切る運動をやるのは大変だと思うが、東京の夏の暑いのはわかりきっていたこと、日本人も内心では前のオリムピクの時のように秋口がええんじゃないんか知らんと思ってはいた。しかしこれは日本の都合で勝手に決めるわけにはいかず、IOCやスポンサの意向もあり真夏になったようだ。
しかし先日ニュスをみていると選手の全部が全部真夏のくそ暑い気候を忌避しているのではないのが分かった。最大のオリムピクの華、100m短距離走の選手の言葉として東京の夏は悪くないといっていた。その選手個人のインタビュだったが、その選手は他の選手の(短距離走)99パーセントもみんなそう思っているといっていた。その選手はちょっと風の少ないカリブ海の気候のようだとも。なんや!、みんながみんな東京の真夏の暑さに参っているわけゃないんや。
東京の夏の暑さに音を上げギャァスカ文句をいったのはテニスのオランダ人とおもうが、さもありなん、オランダは北緯50度の国、涼しい夏を持ち、住んでいるのは暑さに弱い白人である。そりゃそうなるわなと納得できる。しかし世界には南方の熱帯の国もある。インドなんかの夏は日本の真夏より15°は気温が高い。短距離走者はアフリカ系やカリブ系が多い。もともと体質的に白人よりはずっと暑さに強いだろう。常夏の国の人ならば日本のこの夏の暑さなんかにブースカ文句を言うはずがない。世界にはいろんな気候風土がありみんなそこで適応して住んでいる。世界のさまざまな国々でオリムピクを持ち回りで回すなら、暑いところもありゃぁ、寒いところもある。
もう二昔くらい前に冬季オリムピクの種目・ボブスレーを題材にした映画『クールランニング』という大変面白い映画があったが、雪など見たこともないカリブの国から、カナダにやってきてボブスレー競技に参加するのだが、そこにはいろいろな苦労はあるが、しかし大活躍する筋だ。これは暑い国⇒寒い国でスポツする苦難だが、当然、涼しい夏の国⇒くそ暑い夏の国でのスポツの苦難もあって当然だ。まぁ殺人的な暑さじゃないんやったら、世界の国々、人々みんなご互いさまっちゅうことでなんとかやりまひょ。
今、オリムピクの期間中ということで図書館で左のような古代ギリシァで開かれていた古代オリムピクについて説明してある本を借りて読んでいる。この歳まで生きてりゃぁ、雑学的なしょぉもない知識はたまったが、古代オリムピクについては知らないことが多く、面白く読ませてもらった。思わぬ一致に、ほぉぉぉ~と感心したのは、古代オリムピクの開会式の日である。近代オリムピクは開会式の日程はガッチリ決まっているわけじゃない。前回の東京オリムピクは10月10日だった。しかし古代オリムピクは場所も開会式を含めた日程もきちんと決まっていて、時・場所は不動であった。
場所はギリシャのオリムピアということはみんな知っているが日時はほとんどの人は知らない。先ほど日時も不動といった。一体何月何日か、しかしギリシアの開会日時はちょっと複雑で太陽暦の何月何日とは言えない。実は陰暦と太陽暦の絡みからその日時は算出されるのである。一言で言ってしまえば「夏至から数えて二回目の満月の日がオリムピク期間の中日になる」ということである。これを今年に当てはめてみる。夏至は6月21日,そして一回目の満月は6月25日,二回目の満月は7月24日となる。古代オリムピクは全日程が5日間で行われる。中日を24日にとると、五日の全日程は22,23,24,25,26となる。そうすると開会式は7月22日である。なんと!今の東京オリムピクの開会式が23日であるからほぼ同じ日である。
ギリシアにおいても何と真夏に開催していたのである。日本人の感覚では秋にしたほうがずっと気候がええんちゃぁう?と思うのだがこれは気候風土の違いで地中海式気候のギリシアでは真夏は確かに暑いが晴天続きで湿度が低く、雨はまず降らない。逆に秋口になると気温的にはよくても雨量が多くなるからたった5日間しかないオリンピアの祭典、雨の恐れのある秋や春よりまず間違いない晴天のつづく夏が最もふさわしかったのだろう。
ほとんど一致した古代と現代東京のオリムピクの開会式、湿度の違いはあっても真夏開催はどちらも同じ、クソ暑いのどないぞせぇ!とブ~垂れる人もいるが、なるほど真夏!これが本来のオリムピクの時期やなぁ、と知った次第である。
しかし考えれば古代ギリシアのオリムピク、真夏に開催しなければならない必然性は高いといわなければならない。ご存知の方もいると思うがあらためていうと、古代オリムピクに出場の選手たちは、例外なく全員、全裸、素っ裸、もう一度念を押すと、フンドシ一切れも身に付けてはいけない。これじゃ春寒、秋冷の時期など素っ裸はサムイし、また縮こまって体の動きも滑らかにはならんだろう。そんなら服着ぃて別の時期にすりゃぁええが、ちゅうのは現代人の考え、全裸でスポツ競技を行うというのはもうこれは古代オリムピクの第一義的な要件であった。素っ裸には貴族や平民の身分の違い、富の多寡、そんなものにとらわれない全くの一人の赤裸々なギリシャ人という意味があるという人もいるし、また神にささげるスポツ競技ということで身にものをまとわないのだという理由を言う人もいる。また肉体に美を求める傾向は古代ギリシア人に特に強い。美が宿るのは均整のとれた体や顔だけではない、体の動きの美しさもそれにははいる。格闘技で暴力的に相手を打ちひしぐ動作でさえもギリシア人は魅せられ興奮した。だから当然全裸でなければならないのである。
今日、ギリシアのオリンピアの地には広大な遺跡が広がる。行ったことはないがネットのググルマップだのアースだの使えばパソコンでバーチャル観光ができる。ググルマップで「ギリシア・オリンピア」と入れるとワープして廃墟・遺跡観光を楽しめる。そこからは多くの壺絵が発掘されているが、これもネットで検索し見ることができる。全員例外なく全裸の選手であったことがわかる。下は短距離走の選手たち
全裸で走るのと衣服を身に着けて走ると、その二つの速さの違いはどうなんだろう?現代のようにパンツ、ランニングシャツを身に着けていた方がよいのか、それとも素っ裸の方が抵抗ないような気ぃするから走りやすいのか?いやいや、誰やらいいよったが、素っ裸で全力疾走すると、股のチンポがブラブラして股に打ち当たったり、股で金玉挟んだりして走りにくいと。私の知り合いに短距離走者ではないがマラソンが趣味の人がいて前にそのことを聞いたことがある。すると「さ~ぁ、どうだろ、ちょっとわからんな」と言っていた。考えると馬鹿なことを聞いたものだ。比較せにゃわからんのに、現代において素っ裸で数百メートルも走れるはずはなかった。
これも壺絵から、これはボクシングの選手、たぶん試合中ではなく、ボクシングの練習中と思われる。なんか「型」の練習をしているように見える。手には革帯を巻いていて今日のボクシンググローブの代わりをしている。当然これも全裸、チンポブラブラ。
下は実際のレスリングの試合中。想像図だが時代考証も考えてよく描けているといわれている。
古代オリムピクは5日間ということもあって種目は現代のように多くなかった。次のようなものであった。
古代オリンピック種目1:ボクシング
古代オリンピック種目2:チャリオットレース(戦車競技)
古代オリンピック種目3:ペンタスロン(円盤、槍投げ、幅跳び、徒競走、レスリング複合)
古代オリンピック種目4:パンクラチオン(何でもありの格闘技をイメジするとよい)
古代オリンピック種目5:ランニング(短、中、長距離に分かれる)
古代オリンピック種目6:レスリング
古代オリムピクは男ばかり、そして例外なく全裸で行う。全裸はギリシャ以上に日本の夏はそれにふさわしい。『日本古典ギリシャ様式全裸オリムピク』も開催すりゃぁええがと思うが、現代は全裸厳禁である。男ばかりというのも問題である。女性差別となる。現代においては古代オリムピクの真似でさえ非難の的になるであろう。
西洋人は自分たちの文明の大本はギリシアに始まると言いながら、ヨーロッパの寒い風土のせいもあるのか、中世近世から現代にいたるまで全裸に対する忌避感が強い。幕末、日本人は夏はふんどし一丁、全裸に近く、平気でその辺を歩き回っていた。日本へ来た多くの西洋人はこれをみだらで不道徳とみた。日本人はなんの不都合もなく暮らしていたが、明治政府は西洋人の目もあって服を着にゃぁ処罰するとおどし、それもあって真夏のふんどし一丁は影をひそめるようになった。そしてその成果があったのか、現代においての日本人の裸に対する拒否感は幕末の欧米人のレベルに達した。東北に蘇民祭という裸の神事がある。その祭りの周知広報の為に裸の男が写った祭りのポスターを作ったら潔癖症の方から裸は不快感を与えると抗議がありポスターは没になった。まことに文明開化のお蔭か。
しかし少数だが幕末に来た欧米人の中にも日本人の裸に理解を示す人もいた、かなりギリシアの古典に造詣の深い人だったのだろう。次のように言った「羞恥だの、不道徳だの、我々の目で日本人を見てはいけない、私は彼らを見ていると、まるでアルカディア(古代ギリシャの理想郷)の住人じゃないのかとさえ思う。私は日本人が屈託なく裸で過ごしているのを見ると古典期のギリシャ人を思い浮かべる」