2012年8月18日土曜日
定期券の旅
南部循環バス定期を使い、新浜本町で降り、勝浦川の橋を渡った。長大な橋で、ヒョコタンヒョコタン歩いて渡り切るのに10分かかった。
大昔、藩政時代には、もちろんこんな橋はなかった。津田の村から勝浦川を渡るのには『渡し船』が用いられていた。
津田側から撮った写真に江戸時代の渡しのイメージを重ねてみた。
橋の真ん中まで渡ると、下に潟が広がってきた。
橋を渡り、対岸から潟に降り、散策した。
一面広がる管状の丈の高い植物は、葦、葭、真菰であろうか。
かなり大きな潟湖がある。真夏の暑さのためか水鳥はいない。
葦をかき分け干潟に足を踏み入れると、たくさんの蟹が真横に歩いて(当たり前だ!蟹が縦に歩けばおかしい!)逃げ出した。
ここは比較的自然な「潟」が残っている。最も半分くらいの面積は運動場に埋め立てられている。
江戸時代以前はこのような潟、洲、河原はマージナルな土地で、制外の場所、封建的身分関係から外れた人が住んでいた。
遊芸人、遊女(売春婦)・・・など。
芝居などする遊芸人のことを川原者(かわらもの)と呼んだが、実際にこのような河原に住んだ(というよりそこしか住めなかった)ことからきているのはご存じのとおりである。
また、遊女もこのような場所を住処としていたものが多い。江戸の公認遊郭は吉原(よしわら)が有名であるが、このよしわらは水辺の葭(よし)が繁った原、葭原(よしわら)を埋め立てて作ったところからきているといわれている。いかにも遊女の場所にふさわしい。
また、違法な遊女ではあるが、廉価で遊ばせてくれる『夜鷹』はこのような場所で商売することが多かった。最も安いのはわずか16文、当時のかけそばいっぱいのねだんである。ビンボーな庶民の男たちはこちらを買った。ただし品質は保証の限りでなく、人三化七(ほとんど妖怪変化のような・・・)か恐ろしい病気持ちで、しばらくすると男の鼻がポトリと落ちたそうである(梅毒で)
最後の写真はその夜鷹のイメージ図を重ねてみました。
この夜鷹は美人なので48文お払いください。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
2 件のコメント:
色々と散策されているのですね。
暑い中 大丈夫ですか?
いい日曜日にしてください。
運動不足になりがちなので休日は歩こうと思っています。
コメントを投稿