こころの苦しみを救ってくれるのは誰でしょうか?
昔なら「宗教家」だったんだろうけど、今はどうでしょう。あまり公には推奨されてないみたいですね。公認の「心の苦しみ」の助っ人は、今じゃ「宗教家」にかわって
「精神科医」「心理学者」「心理カウンセラー」
ではないでしょうか。
しかし、この人々、人間存在の根源的苦悩に対してうまく処理できるんでしょうか
たとえば「死」に向かい合ったときの人の「心の苦しみ」。それをこれらの人が取り除いてくれるならいいんですが、あまり信用はしていません。私自身はこれらの人に頼る気はないです。
頼る気持ちはむしろ宗教家の方に傾きます。
最近はそんな宗教家なんか鉦や太鼓でさがしてもいないかもしれませんが、わたしはこころにある頼れる宗教家のイメージがあります。
「貧しくて、寺なども持たないどころか、正式な僧侶であるかさえ怪しい。妻子も持たず、托鉢で衣食をかろうじて満たすため、なりは乞食坊主。飄々としているが、常に人間を愛し、一緒に苦しみ、泣いてくれる、自身も人間の弱さを隠さない坊様。」
滅多にいないでしょうね。しかし何世紀かに一人、日本の歴史はこのような坊様を生み出しました。
もう何十年も昔だからその「古典」の名前も忘れましたが、ある托鉢僧と臨終を迎えた女の話がその本に載っていて、深く考えさせられたので今日はそのうろ覚えのあらすじをお話しします。
道端に女が倒れている。通りかかった托鉢僧が介抱するが、すでに死相が現れており、僧は臨終に立ち会い女を看取ることを決意する。
女はさかんに死後の不安を口にする。
「御坊様、死んだら、どこへ行くのでしょう。極楽浄土へ参れるのでしょうか。」
僧は手をしっかり握り、女に力強く、はっきりという
「浄土に生まれ変わることをただただ念じなさい。南無阿弥陀仏の名号をとなえるのじゃ。」
女は安心した顔を見せ、虫の息ながら微かに名号を唱えている。
しかし不意に恐ろしい顔になり
「ああ、ここはどこ、なにもない、ただ風の音が聞こえる。」
僧は女をしっかり抱きしめ、大声で
「惑わされてはならぬ。他のことは考えず、一心に弥陀を念じよ。」
しばらくまた名号が切れ切れにとなえられたが
「寒い、やはり何もない・風が・・・・・」
それが最期の言葉であった。僧はしばらく死に顔を見守っていたが、この上なく悲しい顔を見せ、弔ってやった。
この「説話」では、最後に「この女、弥陀を念ずることを踏み外し、すずろな道に入ってしまった」とある。
「すずろな道」(思いもかけない道)いろいろ解釈もあるが、浄土に行けなかったことは確かである。
だから、信心の道まっしぐら、南無阿弥陀仏を一心にとなえましょう。との教訓になるのだろう。
しかし、わたしが深く考えさせられたのはそんな教訓じみた話としてではない。
日本の歴史上現れた宗教上の偉人たちは、なぜかみんな信心に対する自身の懐疑・弱さを持っている。
「本当のところ死後の世界などあるのだろうか?死ねばそれですべて終わるのではなかろうか。」
そんな懐疑を克服できぬ苦悩が付きまとう。
親鸞上人はこういっている
「自分はお師匠様(法然上人)にだまされて、浄土に行けると信じ名号(南無阿弥陀仏)を唱え、たとえ地獄に落ちても悔いはない。」
ちょっとこの言葉は解釈がいる。
中世の時代、現世ではほとんどいい思いをせずに死んでいかねばならぬ「庶民」。そして最後の臨終のときの「最後の最大の苦」である「断末魔」。
それを思うと浄土を信じ、弥陀の本願を頼みとして平安に「死」を迎えることは何も術のない「庶民」にとっては福音である。
名もなき貧しき庶民を愛するがゆえに、自らも信じていった。死後の世界などなく、たとえ「無」であってもかまわない。
とこのような決意であると思うのです。
死後の懐疑を抱き、自らもどうしようもない苦悩・不安を持っている。しかし、人を愛するがゆえに強く来世の至福・愉悦を信じた人。
この説話のお坊様もそのような人であったのではないかと思うのです。
今の貧乏僧、托鉢僧などにこんな人がいるのでしょうか。もしいたらこころの苦悩を救ってもらうのに。
2 件のコメント:
この「説話」けっこう面白いです。私は死後は無であった方があっさりしていいようにも思いますが、実際は古い服を脱ぐみたいな感じらしいので、死に対してはそんなに恐れはありませんです。
それから心の苦悩を救えるのは自分しかいないと思います。他人は、そのきっかけは与えられますが、最終的に救われた状態になるには、自分の意識・認識を変えなければ出来ないからです。最終的に変えるのは自分ですから、決して人を変えようとは思いませんし、人に救ってもらおうとも思いませんです。「自分を変えるのは自分です」です。自己完結していい文章ですね。(^.^)
最初の仏教は宗教というより「哲学」に近い、という人が結構います。初期仏教の「救い」は究極、しんさまのいうように「自分を変えるのは自分です」という悟りに近い気がします。
しかし、このブログの説話のように「弱い、自分ではどうしようもない人」も大勢います。
人々を愛してやまない宗教者は、本来の「悟り」から漏れ出た人の救済に、初期の仏教の教義を曲げてでも何とかせねばとおもったんでしょう。
「自力救済」から「他力救済」へ仏教は大きく転換します。
と、まあ、これは宗教の立場です。
今は中世と違い宗教も客観化されるいい時代です。それぞれにあった「苦しみの除去」を選択するといいですね。
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