2021年10月12日火曜日

赤石駅に自転車を取りに行ったこと

  昨日は雨の予報で(結局ほとんど降らなかったが)行けなかったが、雨の確率が低くなった今日、赤石駅まで汽車で行って、そこにおいてある自転車に乗って徳島まで帰ってきました。途中札所が二か所(立江寺、恩山寺)あるが、先週恩山寺はお参りしたので、今日は立江寺にお参りしました。

 本尊・地蔵菩薩

 真言 オンカカカビ、サンマエイソワカ



 もう十月中旬になろうというのに夏の名残の残暑が続いているような暑さ、真夏の暑さはないが、九月初旬の残暑のよう。自転車を漕いでいると汗が噴き出てくる。

 この長引く暑さのためか、とっくに終わっているはずの曼殊沙華が数輪、満開になっている。


 上の写真で遠くに見えている右の小高い丘のように見える山が旗山。よく見ると数流の細長い白旗が見える、この近くに上陸した源義経はここで源氏の白旗をあげ、味方を呼び集め兵を整え気勢を上げた、と伝えられている(ここから屋島に向かう)。白旗の白は源氏のシンボルカラーとしたら、付近に咲いている曼殊沙華の赤は平家のシンボルカラーだ。

 旗山を上陸地(海側)のほうから見たところ、頂上付近に義経の、騎馬像があり弓矢を手にしている。細長い白旗もみえる。(源平合戦のころはこのすぐ近くが海岸線だった)



 立江寺から恩山寺へ向かう遍路道を通れば釈迦庵があり仏足石がある。行ったことがないので寄りたかったが、かなりの坂が続くようなのでやめた。またの機会にしようと思う、残念だが。

2021年10月11日月曜日

そういえば秋の和田島は三夕の歌のような侘しさだったな

   海岸を自転車で走っているときはそうも感じなかったがブログを作るため何枚も撮った写真を見ながら、その時の情景を思い出すとしみじみと感じるものがある。詩心のない私が言葉にするのは難しいが、ふと「三夕の歌」の一つを思い出した。心情的には昨日見た秋の和田島はそれに似ている。

「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋 (とまや) の秋の夕暮れ」




赤石駅今昔

  今日天気が良ければ赤石駅まで汽車で行って、そこに置いてある自転車に乗って帰ろうと思っていた。しかし今日一日の天気予報を見ると生憎と昼から雨のようだ。家を出るときは雨が降っていなかったが徳島に着くと早朝雨が降ったみたいで下がずいぶん濡れている。空模様もよくない、結局、今日自転車を赤石駅まで取りに行くことはあきらめた。

 赤石駅は今はご覧のようにバスの停留所のような小さな建屋になっている。最近できたばかりのようだ。ここ1~2年で徳島線の(この赤石駅は牟岐線)昔の由緒ある木造の駅の建物がどんどん壊されてこのようなバス停まがいの駅舎になってしまった。私が知っているだけで山瀬駅、牛島駅、そして府中駅・・、他にも私が知らないだけで徳島線、牟岐線、鳴門線、板野線、などの他の駅もこのような味気ない箱型の駅舎になったところがあるだろう。


 ちょっとまてよ!そういえばこの赤石駅、一昔前に撮影したことがあるぞ。と思い出した。その時は当然、昔の由緒ある古い木造の駅舎だったはずだ。大昔でなく、一昔前ならすでにディジタルカメラになっていて私が撮影したなら、ディスクにその映像を保存しているかもしれない。しかし保存といえばカッコいいが事実は乱雑に机の引き出しかどこかへ放り込んでいるはずだ。撮影量が多く、一枚のディスクに動画も含めると数百以上保存しているので、ディスクにいちいち一つ一つの写真の主題なんか書いているはずもない。ただ年号と何月から何月までの写真集としか書いてない。

 一昔前というと普通は約十年だが、正確に年号と月が思い出せるはずもない。しかし11年前からブログを作っていることもあり、もしかするとブログのどこかにこの赤石駅が入っていないかしらんと考えた。しかし私のブログも第一回からほとんど書きっぱなしで整理なんぞしていない。丁寧で几帳面な人は、ジャンル(歴史、観光、食べ物、趣味・・)などにブログを分類しているため、昔のブログから特定のものを探すのは難しくない。しかし幸運なことにググルのブロガーは自分の書き溜めたブログに対して検索機能がついている。ブログの様式を見てもらったらわかると思うが、ブログの欄外にBのマークがありその横に検索のキーワードを入れれるとそれに引っかかったブログがズラズラ出てくる仕掛けになっている。そこでその検索欄に「赤石駅」と入れてみた。

 たいしたもんだ!それらしいのが出てきた。月日を確かめると満10年と7カ月もの昔だ。確かに一昔前である。内容を読んでみるがこんなのを作った記憶があまりない、おぼろげに金磯から赤石駅まで歩いた記憶はあるが、それをもとにこんな妙なブログを作るとは、今から思うと恥ずかしいし、なにやらわけのわからんブログである。しかし自分の作ったものに間違いはない。写真では昔の赤石駅はアップしてなかったが、なぜか不鮮明の(よくこんな動画ネットに上げたなと思う)動画があり私の好きな八代亜紀の歌が聞こえてくる。それを根気よく見続けると最後にありました。昔の赤石駅の旧舎が出てきました。なるほど、昔の赤石駅はこのようになっていたんだ。ちょっと恥ずかしがこれも自分の作った過去のブログである。安易に消すこともできないのでよかったらご覧ください。

 読んだ私の感想、この時はまだ辛うじて満60歳未満(正確には59歳と11カ月)

 「へぇ~、この時はまだハローワークいって求人欄を見ていたんだ!若かったんだな、である。それにしてもブログにある磯に一人たたずむ女って、その時見たのかしらん?いくら過去の記憶の探っても出てこない、それは幻想だったのかしらん」

 その時のブログ ここクリック

酔生夢死や人生劇場ということについて

  一度しかない人生だから一日も無駄にすべきでない。と言われる。それでは何が有意義な人生の過ごし方か?と問われれば、そんなことは一般的に言えるものではない。人により価値観は違い、あるいは宗教的な意義を大きく認める人もいるし、そうでない人もいる。何が有意義な過ごし方かと問われれば千差万別で一概には言えない。しかし反対に、人生を無駄にする生き方というのはどんなものか?と言うのはそれに比べれば答えやすい。

 中学の国語であったか高校の古典であったか、知った古典(漢文)の四字熟語に『酔生夢死』というのがあった。元気あふれる十代である。将来の夢も抱き、学力能力をつけ、なにかすごい大人になってやろうと考えていた時期である。その四字熟語を(教科書の説明もそのようであったと思うが)否定的な人生の過ごし方として受け取り、こうなってはいかんな、と思ったものである。

 しかし今、人生の終着駅が近づくこの頃になって考えてみると、若い時とは違った受け取り方をするようになった。若い時なら、のんべんだらりと、そしてぼんやりと日々をすごし、気づいたら死だった、人に評価されることもなく、なにものも残さず、生きているうちから忘れ去られる、そんな大人になり一生を生きるなんてまっぴらだった。しかし、高齢になった今思うのは、ほろ酔い気分で日々すごし、夢をみつつ、死ぬ、のが『酔生夢死』だとすると悪くはないのではないかと思えてくる。

 というのも70歳を過ぎた今、できることもなすことも少なくなっている、今の時点で将来の夢は?などと問われるのは質の良くない冗談であろう。そして子孫も含め何か形あるものを残すことも不可能である。持病もあり、近々、多病質になることは目に見えている。落ち込むことも多く、苦痛が怖いし、死も恐い。もし『酔生夢死』の意味が、ほろ酔い気分で日々を過ごし、(いい)夢を見つつ死ぬ、のなら残された私の人生は悪くはない。

 若い時の自分であっても、『酔生夢死』をそのように解釈されれば、生来ぐうたらな性格だから、ちょっといいかな、と思うかもしれないがたぶんすぐ否定しただろうと思う。というのもほろ酔い、夢気分、はうっとりして楽しいかもしれないが、頭脳の働きは極度に低下し、理性の透徹さは失われることを意味する。若い時から何かを成したい、なにかすばらしくイイものを形として残したいとはあまり考えなかったが、知力を働かせ、なにか生きている以上、生きることの深淵な「何か」を知りたい。そして知的満足感を得たうえで、頭、心の中でなにか「悟る」ことができればいいと考えていた。そうだとすると理性の透徹さのない酔生夢死は幸せ感があっても、やはり嫌である。でもいろいろな「苦」が多くなる人生の終着駅手前はそれがいいかな、とも思うし、やはり苦痛はあっても、死の間際まで理性はよく働いてほしいとも思う。

 人生を大劇場にたとえる例があるかどうかは知らないが、言い古された言葉に、「人生で晴れの舞台に立つ」とか「スポットライトを浴びる」、「人生の回り舞台がガラッとまわり」のような言葉がある。

 何で人間ってこの世に生を受けてきたのだろう、何のために生きているのだろう、そもそも人ってなんだろう、というような「人」の本質なんかは私も含め多くの人にわかりはしない。そんな時、「この世」とは、大劇場に詰まっている人々のことを言うのではないのだろうかと思うのである。その大劇場の人々は二つに分けられる。一つは「舞台上の人々」(俳優や裏方、演出、脚本家、大道具小道具の裏方も入る)である。これらの人は大劇場の中にいる人々の少数である(5%もいるだろうか)そしてもう一つの人々は劇場内の大多数を占める「観客」である。

 ここでちょっと「この世」を大劇場にたとえるため、ある前提条件を付けようと思う。そんな複雑な条件ではない。それは中にいる人はすべてこの劇場に入る前の記憶が全くないのである。この劇場に入る前どこから来たのか、どこの何兵衛か、頭に少しも残っていないのである。そして劇場がはねたあと、どこへ行くか、どこへ帰るかも全くわからないのである。人々(二分された人々)はただ劇場にいる間のみ自分の役を演じるか、あるいは暗い観客席にジッと座って明るい舞台を見て楽しむのである。

 少数派だが舞台上の人々は自分の役をしっかり演じ、観客に楽しんでもらおうとする。舞台上では全身全霊を尽くし役を演じる。見るからにすばらしい役を演じてはいるが、それが果たして、その人本人の本源的なキャラ(性格)か、と問われれば当然それは違うだろう。大喝采を受けてもそれは役をうまく演じきったことによる。本源的な本人は何処にいるのだろう?「役」という仮面を脱いだ素顔は、そして本当の「こころ」は。

 そのほかの大多数は観客である。ほとんどの時間は仮構の上に成り立った舞台上の「世間」を眺めてじっとしていて、ひたすら見ながら、筋についてあれこれ考えたり、演技の妙を楽しむ。短い時間だが、時々、幕間があり、トイレに立ったり、ロビーでタバコやコーヒーを飲む時間はあるだろうし、お隣の人と少し話をする時間もあるだろうが、話すのは舞台を見てどうかということだろう。その人も本来の自分はどんな人間か知らない、ただ人生という舞台上を眺めている、ひたすら見るだけである。

 このように世間を大劇場にたとえると、私なんかは人生の終わりが近づいてみると、自分は「観客」だったんだなぁ、と思う。時たまの幕間に少し動くくらいで、ひたすら世間という舞台を見て過ごしている。だいたいは楽しい演技が舞台上で展開され、それなりに満足した時を過ごしている。しかし舞台の終わりが近づくにつれ、「自分は何処から来て、どこへ帰るのだろうと」の不安が萌してくる。そもそも自分か何者かわからないのはすごく不安である。そう考えだすと本来は大団円で満足感充足感を与える舞台の終わりを見るどころではなく、席にいて大きな不安に沈潜してしまう。

 しかし物は考えようである。大劇場にいる全員がどこから来たか?も、どこへ行くか?も知らない。そうなら、この大劇場に今現在いる以上は、最後まで世間という舞台を見切ってやろうというのが正解かも知れない。舞台上の役者は仮構のキャラを全身全霊で演じているため演じつつ別のことを考えるのは難しいが、幸いなことに観客はそうではない。舞台を見ながら批評もできるし、別のことだって考えることもできる。暗い静かな観客席にジッと座って見ているだけだからできることである。もうこうなれば舞台の隅々までしっかりとみて、自分なりに批評をし、世間という舞台にかかっている劇の意味を考える、というのがいいだろう。もしかすると観客の中には「なぜ、自分はこの大劇場にいて、このような舞台を見せられているのだろう?」という本源的な問いに、自分なりの解答を得る人がいるかもしれない。もちろん自分も最後はそうありたいと思うが、無理だろうなぁ。

 さてそこで『酔生夢死』という言葉にまた帰っていくが、昔の歌舞伎の小屋なら、酒をちびちびやり、ほろ酔いのいい気分で、夢のような舞台を見る。本来の客の楽しみとしてはそれが最もいい楽しみ方かもしれない。しかしそこに存在する理由がわからない本源的な不安が常にうずく観客ならば、少なくとも、何故かを考える力、批評する能力は衰えさせたくないものである。たとえそれが無駄な努力ではあっても。

2021年10月10日日曜日

自転車を赤石駅に置いてきた

  小松島では港付近、大・小神子、日の峰さん、恩山寺、金磯弁天あたりは何度も言ったことがある。先週は小松島の街でお寿司を食べた後、なんちゃら市場(大きな市場)へもいった。しかし小松島の東南のはずれというか、突端ていっていいのか、たぶん昔は、砂洲がつくる沖の島でそれが陸化したところに和田島がある、その和田島へは行ったことがなかった。実は先週、お寿司を食べた時もできれば和田島へ行こうかなと思っていたのだが、駅の観光案内書のおじさんから、観光としてみるものはあんまりありまへんでよ、といわれ、あきらめた。

 しかし今朝、マックでコーヒを飲みながら、ふとそうじゃ今日、和田島へ行こう、一日かければ自転車で行って帰ってこれぬこともあるまい、と思ったのが徳島の出来島にあるマグドナルド半馬鹿店だった。そこの出発は11時前で、サイクリングの道中、旧道沿いにある地蔵橋JR駅で弁当を食べ、あと小松島駅でも少し休憩し、ようやく和田島へ着いた。午後2時過ぎだったと思う。下に地図をあげておく。地図の番号のついたところで写真をアップしているので地図を参照しながらご覧ください。


 自転車の旅の終わり、道がドントと防潮堤に突き当たったところが海、和田島の終点だ。

 そこから南を見たところ

 昔は砂洲による砂浜海岸で、まるで二次曲線(中高の数学で習った、なつかしいなぁ!)のようななだらかな海岸線だが、今は護岸防潮堤が築かれ、波消しのテドラボッドがずっと続いている。



 小さな白い灯台があった。はるか向こうに山並みが三層に重なって見える、一番手前は小松島の小神子の岬、そしてその向こうが眉山、一番遠くにかすむのが阿讃山系である。


④ ここらあたりが和田島の砂洲でできた半島部分の最先端、といってもこれも砂洲が作ったためだろうか鋭角ではなく、岬とは言わず、「鼻」と言っている。呼び名は和田ノ鼻、そういやぁ、地図を見ると象さんが鼻をくるっと上向きに伸ばしたような地形だ、そこからの由来ではあるまいが。


 ここで長い防潮堤の道は終わり、直角に曲がり内陸部に入るが、このあたりは海上自衛隊の敷地である。10m近い塀があるが、防衛上の機密保持のためだろうか、いやに高い塀である。入口付近にはデモンストレーションのためか動かないヘリコブターが置いてある。



 海上自衛隊から少し行くと和田島の港がある。ちりめん漁の港である。


 上三枚写真の空を見てください、雲が怪しいでしょう?この後、にわか雨になり、一時土砂降りとなってTシャツ、ジィパンがビショコになりました。しかし天気はすぐ回復し、気温も高いので自転車で走っていると乾きました。

 さすがに自転車で徳島市内からここまでくると疲れました。もう帰る馬力が出せそうにないし、サドルに長時間跨ったためケツも痛いので、ここから最も近くにあるJR駅赤石駅まで自転車で行き、無料駐輪場にとめて汽車で帰ってきました。また日を改めて自転車を取りに行き残された半道を帰ってこようと思っています。

2021年10月8日金曜日

ある古典よりにみる・身分違いの結婚

  いま「身分違いの恋」だの「身分違いの結婚」などというと、古い「陋習」を感じさせる。現代、身分などというほぼ死語になったような言葉を使ってよいものか、また同性の合意のみによって成立する結婚にそのようなことを言うのはなにか意図的な謗りや悪口だろうかとしか思えない。確かに結婚に様々な障害があってとくに家族や周りが反対することも多々ある。しかし今の世にその反対のの理由として「身分」などという言葉を出した時点でその主張理由はすべてアウトとなる。

 差別言葉が最も敏感なアメリカでなくても、民主主義や人の平等を標榜している日本でも「身分」云々することはすくなくとも公の言説ではない。イギリスにはいまだに貴族階級が残っているので「身分」という言葉も存在するだろうが、それを理由として周りが結婚に反対するのは現代イギリスでも人々の支持を得られなくなっている。

 日本でも「身分」を大ぴらに言うことはなくなったが、唯一の例外は「皇族」であろうか。日本から法律・制度・社会慣習のすべてで「身分制度」はなくなり「身分」はその根拠を失ったが「皇族」のみはそれが残っている。象徴としての天皇の一族としてその特別な「身分」が定められている。そして今世間で話題になっているのは一般庶民「男性」と皇族「女性」の結婚に対するいろいろな言説である。最近の世論調査によれば結婚を認め祝福するという意見が最も多いが、それよりは少ないが反対という意見も同じくらい多い。理由として家族のだらしなさや本人が傲慢だのまた何を根拠にと思うが、計算高くて皇族女性結婚したのだというようなものがある、何か自分のステータスの上昇を企んだり、嫁さんをネタに金儲けを企んでいるかのようないいぶりもある。別に家族や本人が犯罪を犯したわけでもない(犯罪を犯したとて結婚はできる)。これが一般人同士の結婚なら、外野などが反対理由をおおっぴらに唱えたら、名誉棄損の罪に問われるかあるいは差別主義者の烙印をおされかねない。ただ「皇族」という身分だからそのような反対の言説も許されるのである。

 日本歴史を遡ると当然昔の社会は「身分」という区別が厳然としてあったから、身分違いの恋とか結婚はほとんどないんじゃないかとも思われようが、そうでもない、ただし男性が身分が上の場合がほとんどである。高位の身分が男性で低位が「女性」の場合は、正式な結婚は少ないものの事実上の夫婦となっている例は枚挙にいとまがない。ところが逆に高位の「女性」(娘だよ!おばさんが若い男とウッフンするのは除く)と低位の「男性」(もちろん適齢期の若者)とは結婚どころか事実上の夫婦となること、いやそれ以前に恋愛でさえ、厳しく忌避されたものか例は非常に少ない。まして女性最高位の身分である皇女と貴族でもない平の庶民の若い男性との恋、結婚などは皆無といってよい。まぁ深窓に育つ皇女が庶民の若い男性と知り合える機会など皆無に近いからそれも理由として言えるが、たとえあったとしても成就する可能性など0であろう。

 しかし古典を読んでいて唯一の例外を見つけた。この話は、二人の可愛らしい恋であり、そして二人は結ばれるすばらしいロマンとなっている。結末もハッピーエンドであるだけに「へぇ~千年以上の昔でも、こんないいロマンがあったんだ!」と心がほのぼのとする。その古典は「更級物語」の中に、語り部の女性が竹芝寺を通った時にそこであった昔のロマン(伝説)としておさめられている。

 舞台はある天皇の御世の宮中(平安時代初期ころ)、そのころは東国から多くの若者が、まるで人身の貢物のように朝廷に送られ奉仕させられていた。九州駐屯の兵卒である「防人」、あるいは宮中を守ったり雑用をする下僕のような存在として「衛士」(えじ)などが徴集され数年、長ければ十年、苦しい兵役・労役に従事していた。家族と引き離され遥かに遠い国での辛い厳しい仕事である。本人の(故郷、家族を思う)嘆き苦しみ、あるいは送り出した息子を心配する母の心情は「万葉集」の東歌などで今も知ることができる。

 その東国からきた一人の若者が宮中の火焚き屋(夜、警護の為、かがり火の周りで宮中をガードする役だろう)に所属して勤務を行っていた。更級物語本文にはこの東国の若者の姿容姿のついては説明していないが後の話の展開を見ると、私の想像するところ、屈強な肉体を持つ(後には東国武士となるからそりゃぁいい体だろう)、そして美声(歌で皇女を魅惑するのであるから)、さらに視覚的にこのロマンをすばらしいものにしたいという私の願いという以上に根拠はないが「かなりのイケメン」であると思いたい。そして性格は東国のおぼこな若者であるため「率直かつ純朴」・・・と、ここまでこの若い男性を描写すれば、これは現代でもモテ男になるに違いない。おぼこで純朴な、といえば男性から積極的にアプローチするのではなく、現代においては女性から惚れられるタイプ、何もしなくてもあまたの女性が放っておかないようないい男になるのじゃないだろうか。

 とはいえ時代は平安初期、雲泥の差のある身分の区別などから見ると下の下、衛士の男など、宮中の貴族、女官などからしたら、見るにも値しない庭に転がる小石、這う虫けらのようなものだろう。まじまじ見ることもない。

 しかしこの衛士の男、ある日、現在の仕事やその境遇の惨めさを嘆いて、東歌を歌った、本文では「ひとりごつ」とあるが、周りに聞こえにくい独り言というのではなく、御殿の御簾の中に聞こえるのだから東歌にちかい詠唱であっただろうと思う。かなりの美声でよく響くいい歌だったのだろう。また東歌のめずらしい節回しや、東国方言の面白さがたまたま近くの寝殿作りの宮殿の窓際御簾近くにいた皇女の耳にはいった。御簾はご存知のように外部からは中はうかがい知れないが内部の御簾からは男の顔形はよくわかる。皇女はその若者(衛士)に耳目を集中することになる。

 皇女はかなり心をうたれた、歌の内容や、おそらく若者をもっと近くで見たい聞きたいと思ったのだろう。さっそく行動に移す。これは純粋に歌そのものを知りたい、聞きたいでなくそれを発する若者に「魅了」されていることはまず間違いない。御簾を引き上げ、男を近くに召した。男はおそるおそる近づいた。貴人の言うことに否とは言えない。この時点で貴人とはいえまさか皇女とは男は思ってはいまい。今一度の詠唱を所望する(本文は今一度、とあるがわかりにくい東国なまりであってみれば心行くまで繰り返させたのではなかろうか)

 いくら世間知らずの深窓の皇女様とはいえ、そのあとの言葉「私をそこ(東国)まで連れて行ってください、あなたと私は(前世)からそうなる運命にあるのです」とは異様な言葉である。ただ歌の内容が面白いからその東国へいってその歌の内容どうりか知りたい、という好奇心ではとても発することは出来ぬ言葉である。ただ唯一、納得できるのは皇女様、この東国の若者の美声、詠唱、そして男らしい顔、筋骨隆々のマッチョな体形などなども含めたこの若者に一目ぼれして相当深い恋に陥った、という理由である。いくらなんでも皇女様も取るに足らぬ衛士に一瞬で恋い焦がれたため、とは言いにくかったのであろう、激しい恋情を秘めながらそれは明かさず、「・・前世でそうなる運命にあるのです」と若者に言っている。

 身分制の頂点にある皇族と下層の東国の衛士(後に平安後期に発生する東国武士とイメージする方がいいだろう)では天と地ほどの開きがある、話すこと見ることさえかなわぬ隔たりである。しかし当時流布しつつあった仏教思想によってのみ、人はある種の平等意識を持てる、仏教思想では輪廻転生を繰り返す「命」は前世での行いによって王侯貴族にもなるし、落ちて下層民どころか餓鬼畜生にも落ちる、輪廻転生の「主体」は生前の業に引かれ出生の身分・種が確定するが、本来は何色にも染まる中性であると言える。今、王侯貴族でも悪業によっては卑しき汚らわしき悪種に陥るのであるから、ある意味、平等主義と言える。それだから皇女は目のくらむような身分の差を「前世からの因縁である」と仏教的平等観にたってこのように恐れ畏まる男におそらく(皇女は一目ぼれの恋に落ちたため)必死でかき口説いたのであろう。結果、この若者は密かに宮中から連れ出し自分の国へ一緒に行くことを決意し、実行する(連れ出すだけでもたいそうな困難があるが本文ではさらっと触れているだけである)

 若者はいつこの貴人が皇女様と気づいたのだろうか、気づいた時点でさらにビビリそうだが、そうではあるまい貴人らしい娘を連れだす決意をした時点で誰であろうと覚悟はできていたはずである。なにせもう百年もたたずこのような東国の衛士は武士に成長するのである。初期武士の豪胆さは他の文献でも述べられているが、ここぞと決意したならば、神仏の像でも弓矢で射抜くのが武士であり、命じられればたとえ高位の身分の者であっても刀にかけ殺害するのも厭わないのが初期武士である。連れ出すと決意した時点で命に代えても貫徹するつもりであろう。それが皇女さまだろうと関係ない。まぁ、この固い決意、やり抜く実行力をみて、さらにこの若者に対しる皇女さまの恋情はかきたてられたに違いない。ここまで好かれれば若者も、田舎者だから貴族のように恋情を言葉という形にはできなくても、この女性しか自分にはいないという相思相愛関係になった。

 かの若者は皇女を背負い無事東国の自分の国へと着き、本文では詳しく書かれてはいないが若者と一緒に暮らしたのであろう。しかし当然そのままでは捨て置かれない。この皇女は天皇、皇后の可愛がる娘である。国を挙げての探索の結果、東国へ衛士の若者が率いていたということがわかった。そして家も特定され、迎えの使者もやってくる、皇女は連れ戻されるであろうし、若者も大きな罪に落とされ罰せられるであろう。しかし皇女は使者に言い放つ

 「もしこの男に刑罰を与えられれば自分はどうやって生きて行けというのか(暗に男と添い遂げられねば自分は死ぬしかないと言っている)、帝には、こうなるのは前世の深い宿世の縁があり、この地にこの男と暮らすのは絶対的な定めである(絶対にこの場を離れないし男と別れるつもりはない)。」

 使者は返す言葉もなく都へ帰りその旨奏上した。帝は娘を無理やり引き裂くことはせず、むしろ皇女と男に武蔵一国を領する権限をあたえ、屋敷も立派にしたそうである。やがて二人には子も生まれ子孫も栄えたそうである。

 更級日記の作者がこの地のそばを通ったときまだその屋敷跡の礎石などが残っていて、地元の人にどんないわれの屋敷跡だったか聞いたところ話してくれたのが上記の話である。ちょっとうっとりするような身分違いのロマンである。

 それから千年たった。今、皇女(内親王)とある一般青年との恋が実り、今月中に結婚する予定であるという。しかしどうも世間は祝福とは程遠く、結婚式もひそやかに行われるのではないかといわれている。皇女と庶民の若者との恋ということでこの古典の更級日記にある美しいロマンを思い出したが、現代ではどうもそうなるような雰囲気ではない。ネット社会となり、何もかも(違法性が高くても)赤裸々にさらされる世の中となっている。顔の見えにくいネットはそれをいいことに淫靡な誹謗中傷がまかり通っている。だれでもそのネットの一方的な暴力にさらされる恐れがある。むしろ皇女(内親王)という皇族で公の身分であることを理由に一般人よりより強くそのネットの誹謗中傷が行われているのではないかとおもっている。また週刊誌ではまるで質の良くない有名人のゴシップネタとのようになっている、そこまでこの問題を取り上げる必要があるのだろうか。

 お互い好きあって一緒になるのである、もうそっとしておいてあげればよいと思う。千年前の皇女と東国の若者の恋は、お伽草紙のように最後は「子もたくさんでき、みんな幸せにくらしましたとさ」とハッピーエンドに終わる。現代において皇女と一般男性との結婚はそうはならないものだろうか。

平安時代の恋の道行はみんな男性が女性を負ぶっていた?

  下はある絵巻より、更級日記にあるその身分違いの恋のゆくえを絵巻にして展開するところ、この場面では皇女を若者が背負い東国へ下るところである。


 これも身分違いの恋、下級貴族である業平がなんと皇太后に恋情をいだき盗み出すところ、この場合も背負って逃げる。伊勢物語・芥川で有名なシーンである。平安時代の絵巻にはヒロインをヒーローが負ぶっているシーンが散見される。今だといい車の助手席に好きな女性をのせて爆走するところだろう。

2021年10月7日木曜日

貞光にあった祖母の里

  汽車で貞光観光はたいへん不便である。なにせ日中は上り下りとも3時間にほぼ一本しか汽車がない。引地のお堂をみて、町筋にある文化財になっている古い映画館の建物を見てもまだ帰りの汽車の時刻にずいぶん間がある。そこで町筋を時間つぶしのためぶらぶらした。

 そこであらかじめ考えていたことだが、時間があればうろ覚えだが尋ねてみたい場所を少し探索がてら歩くことにした。それは明治生まれの祖母の里がどうなっているか、ということである。祖母の里は町にあり、八坂神社(ギョンサン)の近くだった。何度か祖母に連れられて祖母の里へ行ったことがある。といってももう半世紀以上も昔のことで、その場所が特定できるかどうか自信はない。

 大昔境内で縁日だったのだろう、人でにぎわう八坂神社(祇園社)の場面の記憶はかなり残っているし、そのすぐ近くだった(町中だったが)昔の農家風の祖母の建物の外観や、土間、座敷などの様子もおぼろげながら記憶に残っている。

 もし今祖母の里の人が同じ場所に住んでいるとしても、家も多分建て替わっている可能性が高いし、私と何親等隔たるかわからないが、とおい祖母の縁をたよりにその家を訪問してどうこうという考えは全くない。ただなつかしさに、もし里の家及びその子孫が同じ場所に住んでいるなら、特定してチラリとでも見たいだけである。

 ギョンサンはすぐわかった、貞光でも有名な神社で夏祭りの時は今でもにぎわい、コロナ下で中止になってはいるが毎年花火大会も開催されているほど重要な神社である。しかし行ってみると記憶と大きく違っている、まず社殿は新しくなっている、それに境内はこんなに狭かったかしらん?というほど小さい感じがした。


 そしてその近くにある祖母の里の家のあったあたりに歩をすすめる。それと思しきあたりには今も家が建っている。半世紀もたっているが、記憶に残る外観にほぼ似ている。ここに間違いない。確信した。しかし細道から敷地に入り表札を確かめはしなかった。だれが住んでいようともう今は関係ない、大昔祖母に連れられてきた記憶をてがかりに、いまその場所に行ってきたというだけで満足である。(写真を上げるつもりはなかったが、細道でグーグルのストリートビューにも掲載されていず、特定されないということで細道からとった写真を私の思い出の一つとしてあげておく


 そうそう引地のお堂へ向かう途中の山のほうにこの町筋にある八坂神社(祇園社)本殿の奥宮という神社があったのでその写真も上げておく。