さてそれでは今日のブログのテマの歌詞についてである。この「レトイトビィ」の歌詞、歳ぃいってくると若い時に受け取っていた歌詞の意味とまた違ったとらえ方をするようになった。今も昔もこの曲の一番印象深い部分は「♪~レッビ~レッビ~レッ~ビィ~ィ~ィ~」(と日本人のワイには聞こえる)の繰り返しの部分であるのは変わらない。英語で書くと(let it be)である。まず英語原文と一般的に流布されている和訳を挙げておこう。
When I find myself in times of trouble
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom
"Let it be"
And in my hour of darkness
She is standing right in front of me
Speaking words of wisdom
"Let it be"
僕が苦しんでいるとき
聖母マリアが僕の前に現れて
賢明な教えを授けてくれた
「あるがままに」と
僕が暗闇の中にいるとき
聖母マリアは僕の正面に立って
賢明な教えを授けてくれた
「あるがままに」と
先ほども述べた様に原文でも中学英語の知識で十分理解できるものではあるが、一か所だけ難しいフレーズがある。それがこの歌詞の胆の部分でもあるlet it beである。中学英語の知識でここまでサラサラ訳して意味が把握できても、ここではて?と止まってしまう。でも日本人がこの歌に接したときはだいたい原文と同時に和訳も目にするはずだから、この訳にあるように「あるがままに」あるいは「なるがままに」がlet it beの意味であることがあらかじめ分かっていることが多い。だからその和訳に接して一応、何となくわかった気になる。しかしネイチブのように英語を使いこなす人は別として学校教育の英語の中でこのlet it beのニュゥアンスをつかむのは難しい。
でもまぁ詩の和訳は英文学に造詣の深い人が訳したのだから、このようにlet it beを「あるがままに」乃至は「なるがままに」というのはその通りなのだろう、丸っとこのフレーズを覚えてしまえばなんかの時に使える、そして使いながらそのフレーズが身についていく。とまぁこのようにして英語学習は進んでいくのだろう。しかし70年生きてきたワイから言うと、このフレーズ全く使えなかった。この歌詞から判断して苦しい時やずごく落ち込んだとき、そうなった相手に「気ぃすることあれへんでよぉ~」と慰めに使ったり、また自分に対して「くよくよすることあれへんわ」そして「なるよ~にしかならへんわ」という言い聞かせに使える予感はしたが、はたしてどんなシュテュィェーションで使ったら良いものかと迷いいまだに使っていない。
まず詩のいっちょ最初に「苦」がくる。When I find myself in times of trouble、これは一時的な苦しみとも解釈できる。青春真っ盛りの青年ならそうだろう、やがて苦しみは去るだろうと思うし実際見かけはそうなる。しかしお釈迦様は20代で「一切皆苦」、生きることと苦しみは不離であることをさとった。このI find myselfという言葉をみるとどうもお釈迦様の言うような「一切皆苦」という本源的な「苦」をfindしたんじゃないかと思えてくる。
観音菩薩様やマリア様はどこにも表れ祈願を聞き救ってくれるという信仰が特に非力で宗教的な恩沢を受け難い貧しい庶民に広がったのはもっともなことである。そのように見ると第二フレーズ、Mother Mary comes to me、は苦しみに落ちいった人の前にフットワークも軽く表れた聖母マリアさまである(大乗仏教なら観音さんだろう)。あらわれた聖母様はwords of wisdomを授けてくれた、ここまで宗教的意味にこだわってくると当然、このwords of wisdomはワイとしては「智慧」(単なる知恵ではない苦しみの元の無明を消す智慧)であると訳したい、ホントは般若波羅蜜(仏の智慧)と言いたいがこの場合キリストのおっかさんなので智慧にしておく。
Let it beを「成るがままに」と訳したが、聖書の言葉として受け取ると、これはまた「神の御こころのままに」という意味と表裏一体であることが分かる。「神の御計らいにゆだねる」といってもいいだろう。そして聖母は処女のまま受胎し神の子を産むのである。聖書には様々な聖的な(奇跡)場面があるがこの部分は聖書の中の圧巻といっていいだろう。それだけにこのマリアの言葉、Let it be、はこの最も重要な聖的言葉であると考える。
ワイも若いときゃぁ、ただ表面的な言葉の意味しか関心がなかったが歳ぃいってこのように聖書からきた言葉と知り、あらためてLet it beを聞くとその言葉の深い宗教的な意味に思いをはせるのである。キリスト教とお大師っさんの啓いた真言密教を比べるのもどうかと思うが、この天使の受胎告知それに対する、聖母の言葉・態度を見ていると、神(仏)と自身の一体感、梵我一如、密教的には「即身成仏」というのだろうが思い浮かぶ、お大師さんが室戸の岩屋で修行したとき、明星が自身の体に飛び込み、大ビルシャナ仏(大日如来)と自身が一体化した宗教体験をしたといわれるが、精霊が身に宿り、神の子を身ごもった場面のこの聖書ルカ伝第一章38節のマリアの体験はまさにお大師さんの梵我一如・即身成仏の体験と通じるものがあると私は思う。
歌の詩はさらに以下へと続く
And in my hour of darkness
She is standing right in front of me
Speaking words of wisdom
「in my hour of darkness」は、暗闇の中にいる時、と訳されるが宗教的に解釈すれば「無明の闇」(すべての煩悩、苦の大本)である。そしてそれを照らし払う「智慧」の言葉が再びささやかれる、繰り返されるのは、Let it be、である。詩はこのあと二連、三連と続くが何度も何度もLet it beを繰り返す。こうなるとまるで「呪文」のようである。いや、実際私はあらためてそう解釈した。民間レベルでは、呪文とかマジナイとか言われるが仏教に取り入れられればそれは真言、陀羅尼、マントラといわれる。キリスト教にも「アーメン」だの「アベェ、マリィヤァ」とか言うのがある。Let it beはそれに類するものであるといっていいだろう。密教の真言もマリア様のささやくLet it beもワイには同じように無明の闇を照らす智慧を招来する言葉と思える。
もうオイラははっきり、Let it beはマントラ・真言の一種であると認定しよう。身口意の三密でLet it beを唱えればこれは立派に真言になる。この点真言密教はありがたい。独自の真言を唱えても誰も文句は言わない。身口意の三密が重要なのであってマントラの種類は問わない。それが証拠に密教寺院の前では様々な祈祷の文句、なかには聞いたこともないような真言を平気で唱えている人もいる。もちろん正式な作法としたらおかしいのだろうが、すべてに遍在する大日如来様からすれば各種の仏も各種真言も形をかえて現れたもので本来は一如である。