2020年10月20日火曜日

秋の行事となぜかションベンタンゴ

  今年はコロナの影響で秋の行事がなくなったり変更されたりしている。秋祭りの季節だが神社の境内だけでこじんまり神事を行い、神輿などは出さないところがほとんどである。

 わが町では一世紀も昔から秋には有名な行事があった。主催者、場所は時代とともに変わったけれど途切れることなく続いてきたのが「鴨島大菊人形」である。しかし今年は密集を避けるために菊人形展は行われず、会場になる市役所広場はご覧の通り、小屋掛けの菊人形展示室はなくガラァ~ンとしている。有志の菊の品評会展示のみが開かれている。

 菊の品評・鑑賞会はこれから一ヶ月くらい開かれている。まだ開花には少し早いためかご覧のように花は小さいかつぼみである。


 他には三密にならない行事はフルスケールで開かれている。徳島城公園の「野外彫刻展」がそうである。吹きさらしの広い野外なのでこれは可となった、来月初旬にある藍場浜の「狸祭り」は密集するのでアウト、今年は開かれない。

 大手門広場の作品(31作品あるがその一部だけを紹介する。)わかりにくいが鉄柵のようなものを五線譜に見立てている、そして動物の顔をした音符が配置されている。作品の主題は『七つの子を歌う森のなかまたち』これはわかりやすい。


 下乗橋を渡るとすぐあるのがこれ、管で人の体を形作り、上に顔と髪にみたてた頭を置いている、主題が『Mr.プランツ』、確かにMrというからこういう名前の男を表しているのはわかる。でもプランツという名前に込めた意味は何だろう、おそらく植物(プラント)、それを植えたプランターの鉢に掛けている名前だろう(ドイツ系の名前にはフランツというのがある)。しかしブスッと突き刺さる注射器何だろう、枯れつつある植物(この場合は人を象徴する)に起死回生の注射ということだろうか、この意味は作者でなければわからない。主題を見ずに私の印象だけで名づけるとしたら『ケケの鬼太郎、頭に注射される』 

 

下の作品の主題は『Two watchers』、一応なるほどと納得はするが、一体何をwatcherしているのだろう?腰を落とした中腰である。顔らしき向きは一方は水平方向に近く、もう一方は頭を少し下に傾け3mくらい先の下を見ている。いったいなんの観察だろう?

 前で立ち止まりみていると、横のベンチに90歳に近いような老婆二人がいて、大福か餅のようなものを食べていたが顔を上げ、私に向かって「これ、なんつぅ 題ぇ~?」て聞く。ストレトに言ってバァチャンらわかるだろうかとおもったが「これ題にはツー、ウォッチャァって書いてあるわ、二人の観察者じゃわな」、わかったのどうか「へぇ~」という返事。

 そこで言わんでもええのに、私がさっきからこの作品をみて思い浮かんだことを口にした。

 「昔なぁ、ワイがチンマイとき、バァヤンが、葦簀(よしず)掛けの下肥を兼ねたシュンベンタンゴにこんなカッコでションベンしよったの思い出すわ」

 といったとたん二人の老婆は年甲斐もなく大笑い。歳ぃいくとあんまり笑わんというが女子高生が笑うくらい笑われた。ほんまなぁ、と相槌もうたれた。

 この老婆の時代やワイのチンマイ時までは田舎には、葦簀(よしず)掛けの下肥を兼ねたシュンベンタンゴ、というものがあった。なんでバァヤンといいながら女性がこんな中腰でションベンできるのだろうと思われるだろうが、昔は下肥を貯めるのと小用をかねた片側に葦簀をかけたオープンなションベンしかできん便所があった。知らない人がイメージするとしたら、床に大きなトタン板を広げそれを45°くらいにおこして傾け、倒れないように二か所を棒で支えたものを考えるとよい。真横から見ると直角三角形となっている。

 そして地面は直接下肥の穴があけてある。男もションベンするがバァチャンなども何の恥じらいもなくズリッとモンペなどをさげ、中腰になり、ケツをつきだし、この彫刻とまさに同じような格好でバリバリっと音も高らかに(オープンなので音もつつぬけ)ションベンをしたのである。

 フーテンの寅さんの売(バイ)の口上に「~チャラチャラながれるお茶の水、粋なねぇちゃん立ションベン!」とある。おもしろがってみんな聞くが、まさか女性が立ションベンするはずなどないと思っている。しかしワイのチンマイときは少なくとも(直立ではないが)このようにして確かにバァチャンらはションベンすることはあったのである。

 そのあとも、ベンチのバァチャンらと、昔は田舎ぇいたら、ションベンタンゴよ~け、アッチャコッチャにあったな、という話から、それに類する昔話がしばらく盛り上がった(なんか匂ってきそうなのこの話はこれでおしまい)。

2020年10月19日月曜日

故郷(平戸)離れて幾百里

  昨日から菅総理が越南、インドネシャを訪問している。就任後初めての外国訪問だそうだ。その打ち立てに二国を選んだのは何か国際政治上の意味があるのかどうかオイラにはわからないが、この二国の(よいか悪いかは別として)付き合いの度合いはこれからもどんどん上がっていくと思われる。

 というのもこんなド田舎にもかの二国からの若者が増えているのである。昨日は日曜日、いろんなところで働いている異国の若者たちも休みなのだろう、ワイが列車に乗るとたくさんグループでかたまって話している。小柄で華奢な男の子が特徴なのは越南(ベトナム)である。南国的な顔立ちで浅黒くクリッとした目の男の子が多いのはインドネシャである。結構大きな声で話しているのでよく目立つ。よく目にし耳にするのでイントネションと顔立ちの違いでこの頃は大体どちらの国かわかるようになった。

 魚と水のように親密度が高いのは今までは「台湾」と思っていたが、これからはこの二国も加わるかもしれない。もちろん「魚ごころあれば水こころ」の例えもあるようにこちらもあちらもどちらも好感度が上がればの話だが。

 この二国じつは古くは日本と相当密接だったのである。知らない人も多いが、戦国が終わり日本の大航海時代と言われる朱印船貿易のことを日本史で知っている人にはご存知のはなしである。この二国にはこの時代、多くの日本人町が形成されていたのである。ところがこれも歴史好きならご存じだろうが日本の大航海時代は欧州のように発展勇躍はしなかった、禁教令とともに鎖国政策が実施され、人の行き来も全くできなくなり、日本人町は立ち枯れてしまったのである。

 その時、父が南蛮・紅毛人というだけでインドネシャの日本人町に追放されたのが前にブログで紹介した、♪~赤い花なら曼殊沙華の「ジャガタラお春」である。立ち枯れる運命にあったネシャの日本人町とともにジャガタラお春はどうなったか、望郷の念を綴った「ジャガタラ文」が今に一通残るのみで、その後どうなったかは分からない。娘盛りに追放され(歌の文句にはそうある)、望郷の念極まって悲嘆のあまりなくなった、あるいは不幸になったとは思いたくない。いい人と結婚して子も設け幸せに暮らしたと思いたい。

 ジャガタラお春の行方は分からないが、つい先日まで赤い華やかな花を見せていたジャガタラお春の化身のような曼殊沙華の花は今朝このようになっていた(下の写真)。なんと!立ち枯れているではないか。明治大正期に流行った「のぞきからくり」の弁士なら、ここで

『あぁ~、ジャガタラお春、望郷の念止みがたく文は綴れど、花の盛りを誰知ることもなく、ついには異国の地でこのように立ち枯れたのであります。♪~あわぁ~れぇ~ぇジャガタラお春の物語ぃ~ぃこれで一巻の終わりとなりまするぅ~ぅ、チョンチョン』

 しかし根元をよく見ると、花と茎だけと思っていた曼殊沙華の幼葉が小さいながらも伸びて出てきているのではないか。曼殊沙華の花期は桜に劣らず短い、しかしこのように立ち枯れた後からは幼葉が少しづつ大きくなり、晩秋から冬、早春にかけて水仙のように細長いが立派な葉が成長し、葉で養分も作り、球根を太らせるのである。

 だからこのような新葉を見ると、ジャガタラお春の追放後も希望が見えてくる。彼女はジャガタラでいい人を見つけ結婚し、花は枯れても、葉や球根元気に生きつづける曼殊沙華のようにいい家族をたくさん持ち、次の年が来たら必ず同じ位置に咲くように、その子孫もジャガタラで栄えたのだと。

 だから汽車の中であさ黒でクリっとした目のインドネシャの若者を見たりすると、もしかしたらこの子ぉら、ジャガタラお春(史実である)の血ぃを受け継ぐ子ぉの可能性もある。それがまわりまわってこの日本へ来たんかも知れへんなぁ、と思ったりする。

 ワイの好きなマンジュシャゲの花、もう枯れてしもて今年は見られない、また来年も、と思うがそれは健康な若い衆のいうこと、来年があるかどうかもわからんこのジジイにはこの立ち枯れたマンジュシャゲが見納めかもしれへん。来年もとおもっても、例年のごとく曼殊沙華の歌入りブログを作ることができないかもしれない。そこで名残になるかもしれない『長崎物語』をヨウツベから張り付けてもう一度聴く。

 今回は今は亡き藤圭子さんの長崎物語です。

2020年10月18日日曜日

歳ぃいくとビトルズの歌詞が違って聞こえ出した、抹香臭いジジイになったせいか?

  ビトルズの曲はどれも素晴らしいと思うがその中でも「レトイトビィ」は特に私のお気に入りである。この曲は私が高校卒業したまさに3月リリスされたもので今でも聴くと青春の思い出がよみがえってきそうである。まあゴチャゴチャと能書きを垂れるまえに取り敢えずヨウツベからその曲を聞いてみよう。オリジナルではなく、ストリトミゥヂシヤンによる弾き歌いである。

     この曲を全然知らない人でも(ビトルズの曲はワイら年代では超有名だが現代の十代の坊ちゃん嬢ちゃん方は知らないかもしれない)聞いてすぐわかると思うが、メロデェイはシンプル、コォドも癖のない定石進行、キィボドの演奏技巧も簡単、塊の和音をバ~ンと押さえ、あとはかんたんな分散和音、テンポが遅いこともあって初心者でも難なく引ける。演奏技巧が超簡単ということは歌さえ上手に歌えれば弾き歌いは難しくないということである。

 母語でない日本人が歌うとしても、この歌詞自体は中学の英語の教科書・リィダァに載ってもおかしくないほどの簡単な英詩であるから、発音さえオリジナルをせぇだいて聴いてネェテェブの発音に合わせば十分聞くに堪える歌い方ができる。

 さてそれでは今日のブログのテマの歌詞についてである。この「レトイトビィ」の歌詞、歳ぃいってくると若い時に受け取っていた歌詞の意味とまた違ったとらえ方をするようになった。今も昔もこの曲の一番印象深い部分は「♪~レッビ~レッビ~レッ~ビィ~ィ~ィ~」(と日本人のワイには聞こえる)の繰り返しの部分であるのは変わらない。英語で書くと(let it be)である。まず英語原文と一般的に流布されている和訳を挙げておこう。

When I find myself in times of trouble

Mother Mary comes to me

Speaking words of wisdom

"Let it be"

And in my hour of darkness

She is standing right in front of me

Speaking words of wisdom

"Let it be"

僕が苦しんでいるとき

聖母マリアが僕の前に現れて

賢明な教えを授けてくれた

「あるがままに」と

僕が暗闇の中にいるとき

聖母マリアは僕の正面に立って

賢明な教えを授けてくれた

「あるがままに」と

 先ほども述べた様に原文でも中学英語の知識で十分理解できるものではあるが、一か所だけ難しいフレーズがある。それがこの歌詞の胆の部分でもあるlet it beである。中学英語の知識でここまでサラサラ訳して意味が把握できても、ここではて?と止まってしまう。でも日本人がこの歌に接したときはだいたい原文と同時に和訳も目にするはずだから、この訳にあるように「あるがままに」あるいは「なるがままに」がlet it beの意味であることがあらかじめ分かっていることが多い。だからその和訳に接して一応、何となくわかった気になる。しかしネイチブのように英語を使いこなす人は別として学校教育の英語の中でこのlet it beのニュゥアンスをつかむのは難しい。

 でもまぁ詩の和訳は英文学に造詣の深い人が訳したのだから、このようにlet it beを「あるがままに」乃至は「なるがままに」というのはその通りなのだろう、丸っとこのフレーズを覚えてしまえばなんかの時に使える、そして使いながらそのフレーズが身についていく。とまぁこのようにして英語学習は進んでいくのだろう。しかし70年生きてきたワイから言うと、このフレーズ全く使えなかった。この歌詞から判断して苦しい時やずごく落ち込んだとき、そうなった相手に「気ぃすることあれへんでよぉ~」と慰めに使ったり、また自分に対して「くよくよすることあれへんわ」そして「なるよ~にしかならへんわ」という言い聞かせに使える予感はしたが、はたしてどんなシュテュィェーションで使ったら良いものかと迷いいまだに使っていない。

 最近、あの世がうんと身近になってきたせいか(ブログを見てもらったらわかると思うが)、モノ参りに出かけ仏さん神さんのまえで祈願することが多くなった。ずいぶん信仰や宗教に身が入りだしたと思う。これからもせっせと後生を願わにゃとこころに決めている。そんな今日この頃、このビトルズの「レトイトビィ」の歌詞をあらためて読むと、これかなり宗教的な深い意味に解釈できるんじゃないんかしらん、いやもっというとこれ、キリスト教的な「お経」あるいは「真言」といってもいいんじゃないんか知らんとまで思えてきた。

 まず詩のいっちょ最初に「苦」がくる。When I find myself in times of trouble、これは一時的な苦しみとも解釈できる。青春真っ盛りの青年ならそうだろう、やがて苦しみは去るだろうと思うし実際見かけはそうなる。しかしお釈迦様は20代で「一切皆苦」、生きることと苦しみは不離であることをさとった。このI find myselfという言葉をみるとどうもお釈迦様の言うような「一切皆苦」という本源的な「苦」をfindしたんじゃないかと思えてくる。

 非力な迷える衆生はどうしたらいいのだろう。寺院教会、聖職者に救いを求めたくても、生活に追われ赤貧にあえぐ人々にはそれに接する機会もない。たまさか祈願しようにも、不信心を尽くした身であり、高尚なキリストやお釈迦様に救いを求めるのもはばかられる。そんな衆生に対し頼りになる身近な救い主がいらっしゃる。大乗仏教では菩薩である観音さんお地蔵さん、キリスト教では聖母マリア様である。人類を罪のため全滅寸前まで罰した旧約聖書の神の系譜を引くキリスト(神である父と一体である)はなんか恐ろしい、不信心ものは罰せられそうである。その点、やさしいお母さまのようなマリア様は誠に優しい。罰なんどを最初に持ってきたりはしない。母性で包み気軽に願いを聞き入れて救ってくれそうである。

 観音菩薩様やマリア様はどこにも表れ祈願を聞き救ってくれるという信仰が特に非力で宗教的な恩沢を受け難い貧しい庶民に広がったのはもっともなことである。そのように見ると第二フレーズ、Mother Mary comes to me、は苦しみに落ちいった人の前にフットワークも軽く表れた聖母マリアさまである(大乗仏教なら観音さんだろう)。あらわれた聖母様はwords of wisdomを授けてくれた、ここまで宗教的意味にこだわってくると当然、このwords of wisdomはワイとしては「智慧」(単なる知恵ではない苦しみの元の無明を消す智慧)であると訳したい、ホントは般若波羅蜜(仏の智慧)と言いたいがこの場合キリストのおっかさんなので智慧にしておく。

 そしてそのあと赤ちゃんによりそいあやすように 言った言葉が

"Let it be"

 この言葉はもしかして英米圏では有名な聖書のフレーズにあるんじゃないかと調べると、あった。この言葉やはりキリスト教のお経ともいうべき「新約聖書」ルカ伝第一章38節に出てくるのである。この章は天使のマリアに対する受胎告知の章である、そしてこの38節は処女懐胎して驚くマリアに、天使は神の子を宿したことを告げ、それにこたえるマリアの言葉である。全文をあげる。

Then Mary said, "Behold the maidservant of the Lord! Let it be to me according to your word" And the angel departed from her 

聖母マリアの和訳(私の拙い訳です、Beholdの古語はさまざまに訳されますが私はこのように訳しました)

{私はまぎれもない主の婢(はしため)です、お言葉に従って私(の身)は成るがままに、}

 Let it beを「成るがままに」と訳したが、聖書の言葉として受け取ると、これはまた「神の御こころのままに」という意味と表裏一体であることが分かる。「神の御計らいにゆだねる」といってもいいだろう。そして聖母は処女のまま受胎し神の子を産むのである。聖書には様々な聖的な(奇跡)場面があるがこの部分は聖書の中の圧巻といっていいだろう。それだけにこのマリアの言葉、Let it be、はこの最も重要な聖的言葉であると考える。

 ワイも若いときゃぁ、ただ表面的な言葉の意味しか関心がなかったが歳ぃいってこのように聖書からきた言葉と知り、あらためてLet it beを聞くとその言葉の深い宗教的な意味に思いをはせるのである。キリスト教とお大師っさんの啓いた真言密教を比べるのもどうかと思うが、この天使の受胎告知それに対する、聖母の言葉・態度を見ていると、神(仏)と自身の一体感、梵我一如、密教的には「即身成仏」というのだろうが思い浮かぶ、お大師さんが室戸の岩屋で修行したとき、明星が自身の体に飛び込み、大ビルシャナ仏(大日如来)と自身が一体化した宗教体験をしたといわれるが、精霊が身に宿り、神の子を身ごもった場面のこの聖書ルカ伝第一章38節のマリアの体験はまさにお大師さんの梵我一如・即身成仏の体験と通じるものがあると私は思う。

 歌の詩はさらに以下へと続く

And in my hour of darkness

She is standing right in front of me

Speaking words of wisdom

「in my hour of darkness」は、暗闇の中にいる時、と訳されるが宗教的に解釈すれば「無明の闇」(すべての煩悩、苦の大本)である。そしてそれを照らし払う「智慧」の言葉が再びささやかれる、繰り返されるのは、Let it be、である。詩はこのあと二連、三連と続くが何度も何度もLet it beを繰り返す。こうなるとまるで「呪文」のようである。いや、実際私はあらためてそう解釈した。民間レベルでは、呪文とかマジナイとか言われるが仏教に取り入れられればそれは真言、陀羅尼、マントラといわれる。キリスト教にも「アーメン」だの「アベェ、マリィヤァ」とか言うのがある。Let it beはそれに類するものであるといっていいだろう。密教の真言もマリア様のささやくLet it beもワイには同じように無明の闇を照らす智慧を招来する言葉と思える。

 排他的な宗教であるキリスト教から言わせると密教の真言などそれこそ悪魔の言葉としか言いようがないが、しかし先鋭的な宣教師は別として、ケルト民族の伝統など色濃く残る欧州の辺境では古来よりキリスト教徒とされてはいても、呪術的なもの、(マントラのような)咒言や祈祷などがキリスト教の風土の中に残っているのである。他にもマリア信仰、聖者信仰、あるいは聖遺物崇拝などに大乗仏教的な要素をオイラは見るのであるがあながち間違ってはいないだろう。

 もうオイラははっきり、Let it beはマントラ・真言の一種であると認定しよう。身口意の三密でLet it beを唱えればこれは立派に真言になる。この点真言密教はありがたい。独自の真言を唱えても誰も文句は言わない。身口意の三密が重要なのであってマントラの種類は問わない。それが証拠に密教寺院の前では様々な祈祷の文句、なかには聞いたこともないような真言を平気で唱えている人もいる。もちろん正式な作法としたらおかしいのだろうが、すべてに遍在する大日如来様からすれば各種の仏も各種真言も形をかえて現れたもので本来は一如である。

 密教寺院のまえで「♪~レッビ~レッビ~レッ~ビィ~ィ~ィ~」と新種のマントラを唱えるのは身口意の三密に留意すれば可であると私は思う。これ逆に教会で真言のマントラを唱えれば、まずおちょくりに来たのかと非難され、しまいにはたたき出されるのが落ちであろうし、ムスリム寺院だと首を刎ねられることは覚悟しなければならない。仏教(密教)の包容力・寛容にはすごいものがあると思う。

 ワイが50年若ければ、上でみたように徳島駅前で「レトイトビィ」を弾き歌いするのだが残念ながら70の爺である。それはやめて、かわりに寺の前で数珠を繰りながら「レトイトビィ」と新種の真言を唱えるほうが似つかわしいだろう。


2020年10月17日土曜日

秋雨

  今日は一日冷たい雨である。低く厚い雲が垂れこめているため、暗くなるのもずいぶん早い。気温の低さといい暗くなる速さといいもう晩秋の風情である。

 赤い曼殊沙華が線路沿いに見えなくなったなと思う間もなく線路わきに黄色い先端のある丈の高い草が目立ち始めた。セイタカアワダチソウである。今年は彼岸花の花期が遅れたためつい一週間ほど前までは確かに線路わき、畔などに彼岸花の赤い花があった。ところが早くも黄色のアワダチソウである。そのためかずいぶん季節の推移が早い感じを受ける。

 しかし季節の推移の速さを感じるのは私のような半ボケ老人だけかもしれない。一緒に汽車に乗っている高校生は今週、中間テストだった。寸暇を惜しんで勉強する彼らの一時間が、ワイのような老人がボケェ~と過ごす一時間と同じであるはずがない。他にも何やかやで密度の濃い充実した生活を送っている彼らはきっと時の推移はもっと遅く感じるのだろう。遥か彼方、薄れつつある記憶を探ると、そういえばオイラも高校の時はたしかに一週間は長かった。

 年齢と月日が過去に流れていく速さ(自分が感じる)が比例するのは何か心理的な法則があるのだろう。もう十年も前からブログでさんざん同じことを言ってきた。これだけ年齢とともに時の流れが速くなるのを思い知らされれば頭の悪いオイラでもこれはもう自然の法則なのだろうと思う。

 車窓から見たセイタカアワダチソウ

龍の祟りか、はたまたお大師っさんのバチが当たったのか

  大けがをした当初はあまりにも生々しくて(というのもケガ現場からそれこそ死ぬ思いで這うようにして道路まで下りてきて、そこから救急車によって地元の病院に運ばれ即入院、翌日手術になり、全治数か月という大けがになったため)このことについてブログのネタにする気も起らず、その代わり、けがの原因となった太龍寺参拝と旧遍路古道の写真などをもとに1~5までの太龍寺についてのブログを作った。でもまぁ、大けがから一か月半もたち、ようやく大けがについての記事を書ける気になった。

 この古道は前のブログでもちょっと述べたように龍の岩屋へ通じる道でもあった。非常に急で坂には上り下りの手助けのためロープが平行に沿って張られている。ところがそのロープ、山道の地を這うように設けられているため、泥などにもぶれまくって、ロープを握るとまるで泥の塊を握ったように手が泥まみれになってきちゃないことこの上ない。最初はそれでも握っていたが、辛抱たまららず、手を放し、杖を頼りに急坂をそろそろ下りだした。

 反射神経や筋力が優れていた若い時なら何とか急坂でも降りられたのだろうが、何度か滑るうち、とうとう、最悪の滑り方をし、かなりの高低差を滑り落ち、かつ左足を妙にねじってしまった。今から思うと確かにその時、ボキ、っとかいう鈍い音がした。今まで骨など折ったことがないので、そのときはまさかと思い、たぶん、そうあってほしいと思ったのだろう、小枝を踏みしだいたのだろうと思ったが、後々その周りの状況を考えると骨の折れた音以外は考えられない。

 骨折したに違いないと思ったのは、その鈍い音よりも、墜ちた後感じた打ち身や挫きとは違った異様な足首の痛さにあった。さぁ、たいへんだ、どうする。携帯は持っていて圏内だが、連絡したとしてこんな山道に救急隊がどのようにして駆けつけてくれる?もちろん救急隊員はそんなことも想定済みだから、頼べば否とは言わないだろうが、時間がかなりかかりそうだ。たぶん二人手で持つ担架だろう。しかし、そのけがの場所は古道をかなり下まで降りたところだったので、救急車が通る道までは1kmもないだろうと見当をつけ、何とかそこまで自力で行くことに決心した。

 けがをした左足をかばうように杖を頼りにゆっくり歩くが、どうしても左足は動かさないわけにはいかないがそのたび痛みが走る。地獄に落ちて針の山を歩かされるのはこんな感じだろうかとおもったり、なんの因果でこんな目に(その時は祟りとかバチとかは考えなかった)、とか、これから受けねばならぬ今まで経験したことのない骨折の手当や(もしかしたら切開手術か)、そしておそらく全治まではかなりかかるだろう、いやもしかすると完全には治らず後遺症に悩まされるだろう、とかさまざまな思いが次々湧いてきた。痛みとそんな暗い思いで半泣きで降り下っていった。

 谷あいに拓かれた田や畑まで降りてきたときは、ああ、もう少しで道に出ると感じた。続いて農作業小屋のようなものが見え、しばらく行って観音庵が見えてきた。その前まで車の入れる道が引き込まれている。それを見たときは、ああ、助かったと心底思った。下に見えるのがその観音庵である。あとになってググルの地図で確認すると確かに集落の最もはずれ(ということはここで車は行き止まり)にある「あせび観音庵」ということがわかった。下がそのあせび観音庵の写真である。

 この写真、実は大けがをしてようようの思いでたどり着いたときに撮った写真である。よくそんな大けがをして必死でたどり着いたのによく写真など撮れる間があったな、と思われようが古道の石仏や石造物などを写真におさめるためコンパクトな写真機を持っていたのと、当日は平地最高気温35°の猛暑である。もう喉はカラカラである。痛みも激しいし、このあせび観音庵で一服してペットボトルの水を飲んだのである。その時、撮った写真である。

 この場所まで道路は伸びているが道幅は救急車が入れるギリギリである。水分を補給し少し休んでちょっと元気が出たこともあり、そこから数十メートル歩いたところにあるもっと幅の広い道路にでてそこから救急に電話をした。救急になど電話したことが今まで一度もなかったため、市外局番なしに携帯から直近の救急隊まで連絡がつくか半信半疑で119だけを押した。すぐでた。そこで名前、年齢、怪我の状況、現在の位置、などいって救急車の要請をした。10分ほどで着くだろうとのことである。切ってからもう一度あちらから電話がかかってきた。ほとんど私から言うことはなかったはずだが、確認のためだったのだろう。下は到着する救急車、握っていた携帯の写メールで撮った。

 救急隊員は運転手も入れて確か4人いた記憶がある。足を固定し救急車に乗せ、付き添ってくれたのは若い隊員で丁寧で優しく、また運送中頻繁に声をかけてくれた(たぶん意識状態を見るためだろうが)、心もかなり折れていたのだろうと思うがそんな(マニュアル通りかもしれないが)救急隊員に感激した。手を合わせたくなるほどありがたかった。

 運ばれたのは地元の総合病院、平日の午後3時過ぎであったのでフルの医療スタッフがいて検査診断はあっという間だった(レントゲン、CTも撮って)。足首の骨折、すぐ入院、翌日手術である。その時は気づかなかったが診察が終わって病室へ行って(レンタルの)パジャマに着かえたとき、着ていたシャツ、ズボンが汗と泥でべとべとになっている、非常に汚い、また着ている自分は気づかないが汗やその他の(幸い失禁はしなかったが)匂いがきつかったに違いない。救急隊員や医療スタッフに相当不快な感じをあたえたと思った次第である。

  
太龍寺山の標高はそんなに高くはない。でもググルマップの鳥観図で見ると違った山の性質が見えてくる。赤の矢印が古道が通っている怪我をしたあたり、ずいぶん険しい山道であることがわかる。黄色の矢印が救急車を呼んだ場所である。白くがけ崩れのようになったところは石灰採掘場、二か所見える。そして一か所くぼ地がある。これが鍾乳洞が破壊された跡である。


2020年10月4日日曜日

太龍寺 その5 となえられる真言、そしてお経

  このお寺は若き空海が修行したところに建てられている。その修業は『虚空蔵菩薩求聞持法』と言われている。この寺から少し上ったところに捨身(舎心)嶽というところがある。そこでその修法を行ったとされている。そこには現在、修法を行うお大師さまの像が建てられている。お大師様のお耳を通して捨身嶽の下を見る


その『虚空蔵菩薩求聞持法』なにやら複雑な修法かとも思われようが繰り返す修法の真言を取り上げれば単純なものである。以下の真言を繰り返し唱えるのである。

『ノウボウアカシャ ギャラバヤ オンアリ キャマリ ボ(ウ)リソワカ』

 しかし常人になしがたいのはその回数である。なんと百万遍である。それを一心不乱に(雑念なく、まさに真言三昧である)、口以外動かすことなく、途切れることなく唱えなければならない。そこは布団や炬燵などのある安楽な場所ではない。断崖に向きあう捨身嶽や室戸の岬の波打ち寄せる洞窟の中など大変厳しい環境のところである。いったい何日かかるのだろう?その間食事などの必要生理要求はどうするのだろう?と疑問もわいてくる。しかし『虚空蔵菩薩求聞持法』には作法も定められていて、現代でも行う人もいる。五十日ないし百日はかかるそうであるから、生半可な宗教的情熱だけではなしがたい修法である。

 いったいどんなご利益が、とおもうが成し遂げれば、記憶力が抜群になり、また学力(知力)が格段に(それこそ凡才から天才に)増大するといわれている。確かに若き空海はこの修法後、めきめきとその(僧としての)学才があらわれ、留学してまさに天才的な能力発揮するのであるから、効いたともいえるが、もともと無才のものが果たしてとも思ったりする。

 太龍寺はこのように若き空海が虚空蔵菩薩求聞持法を行ったところから境内には「求聞持堂」がある。下の写真がそうである。境内の他の場所と違って聖域性が高いのだろうか敷地は立ち入り禁止になっていて厳しく柵で封鎖されている。ここで今でも真言僧が虚空蔵菩薩求聞持法を修するそうである。


 この寺の御本尊は虚空蔵菩薩である。だから修行者でなくても、一般の人は本堂参拝の時には虚空蔵菩薩の真言をとなえて手を合わせる人が多い(一度かあるいは三度、多くて十回以内)。 だからこの

『ノウボウアカシャ ギャラバヤ オンアリ キャマリ ボ(ウ)リソワカ』

はこの寺の参拝者はよく知っている。そらで覚えていなくても本堂横などにこのようにお唱えくださいと掲示してある。

 ほかにこの寺でよく唱えられるのは、不動明王の真言いわゆる「慈救咒」といわれる

『なうまく さんまんだ ばざらだん せんだまかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん』

 である。前のブログでとりあげたようにこの境内には「護摩堂」もあり、ここでこの不動明王の真言をとなえることはあるが、堂内やあるいは堂参拝の時に唱えられるというより、この太龍寺山全体で唱えられる真言とされている。それは江戸前期の澄禅はんの龍の窟(岩屋)参拝の時、何度も不動の真言(慈救呪)を唱えたことでもわかる。

 山岳宗教・修験道でもっとも多く唱えられる真言は不動明王の真言であり、経としては「般若心経」がダントツである。なぜかちょっとまだ考察はしていないが、ともかくそういう事実がある。とくに外で盛大に火をたく「柴燈護摩」や山岳の行場ではこの不動の真言、心経はもっとも重要視されるものである。この太龍寺は山岳宗教・修験道の聖地でもある。いたるところにある行場などでこの慈救呪、心経が唱えられていたのである。

 普通、お経は仏教で唱えられるものである。しかしなぜかこの般若心経は今でも神社でも唱える人がいる。考えるに明治以前は仏、神が完全に分離されていなかったところが多かった。たいていの神社には神宮寺が境内または隣接して設けられていた。また神社の別当も寺に置かれ江戸時代は幕府・藩によってそれが組織化されていた。八幡神は有力な神社ではあるが、そのご神体として「僧形の八幡神」などを見るとなるほど本来は仏教であるべき「経」を神社で唱えることも頷けることである。

 般若心経はコンパクトな文字数も少ない小さなお経である。しかしお大師様の書かれた「般若心経秘鍵」を読むと、短い中にもお釈迦様の初期の教え~部派仏教~小乗の教え~大乗の教え~密教の教え、と仏教史のエッセンスがぎっしり詰まっている。もちろんお大師っはんに言わせたら、密教にいたる必然的な流れを強調し、密教がもっとも重要であると強調するのであるが、この心経は、あれも「空」これも「空」そして「空」・・と喝破しながら、最後は密教らしく、マントラ・真言、あるいは陀羅尼とでもいうのだろうか、ギャァテェイ、ギャァテェイ、ハラソウギャティ、ボジソワカ、と咒言でしめっくくっている。このようなところからも密教色の濃い神仏習合の山岳宗教場では般若心経が重んじられるのではあるまいか。

2020年10月1日木曜日

太龍寺 その4 今はない龍の岩屋を江戸初期の日記に見る

  前のブログで言ったように龍の岩屋はセメント工場の原料採掘のためブチめがれてしまって今、山を駆け回ってもその存在の跡さえ確かめるのはおぼつかない(実は私は太龍寺参拝した帰り道はその幻の岩屋への古い遍路道を通ったのであるが)。そこで今回のブログは江戸初期・承応二年(1653年)、智積院のボンさんの「澄禅」はんが四国遍路を行い、その日記『四国辺路日記』を残しているのでそれをもとに岩屋の中を見てみようと思う。

 私が太龍寺参拝を終え、空海が修行されたという捨身ヶ嶽を参拝し岩屋があろうと思われる遍路古道を辿ったのは9月8日であった。奇しくも江戸初期の僧侶・澄禅はんがこの岩屋への山道を通ったのが旧暦の8月1日、新旧暦の日数差を考えると、ほぼ同じ季節であった。山中とはいえ暑かったろうと思われる。私が太龍寺境内を出て捨身が嶽に向かったのは正午をだいぶ過ぎていたが澄禅はんは当時の遍路がそうであるように早朝出発した。民家に泊まるときでもあるいは寺に泊まるときでもお見送りなんどはないものだが、この日は特殊の事情もあり、寺の下級僧侶がついてきた。原文を見てみよう。

 『八月朔日寺ヲ立テ奥院岩屋ナトヲ巡礼スヘシトテ同行衆八人云合テ下法師ニ云、是モ古来ゟ引導ノ僧ニ白銀二銭目遣シ、扨引導ノ僧松明ヲ用意シテ出タリ、此僧先達セサセテ秘所トモ巡礼ス。』

 とある。寺ではこのような龍の岩屋に入って参拝する人のためにちゃんと案内の係りの僧ががいたことがわかる。そのための案内料(祠堂金)の相場も決まっていたようで白銀二銭とある。鍾乳洞(岩屋)の中に入るため松明も前もって用意しているのである。その案内役の僧(先達)とともに松明をもって出発したのである。

 岩屋へ行く道の途中に若き空海が修行したといわれている「捨身ヶ嶽」があるのでこれを見学参拝したのち、そこより三十町(約3km)ほど下った岩屋へ着いた。原文を読んでみよう。

 『先達共ニ九人僧共手ニ々々松ニ火ヲ燃テ慈救ノ咒ヲ声高ニ唱テ穴ノ奥エ入、先サカサマニ成テ、六七間入テ少ノヒ上リテ見ハ清水流テ広々タル所也。蝙蝠幾千万ト云数ヲ不知、夫ゟ彼水ヲ渡テ廿間斗モ入ツラント思フ所ニ高サ弐尺五六寸斗ナル所在リ、頭ヲサケテ腰ヲ屈テハイ入テ二間斗過テ往事二ケ所也、其先ニ横タテ二間斗ナル所在リ、夫ゟ奥エハ不入、爰ニテ先達ノ勤ニテ各心経ヲ誦ス。夫ゟ南ノ方カト思シキ方ニ行、壁ノ如ニテフミ所モ無キ所ヲ岩ノカトニ取付テ二間斗下ル、其奥ニ高壱尺二三寸ノ金銅ノ不動ノ像在リ。爰ニテモ慈救咒ヲ誦シテ元入シ流水ヲ下様ニ渡リテ穴ノ口エ出、熱キ時分ニテ在ケルニ穴ノ中ノ寒中々云斗ナシ。又サシ下リテ岩屋二ツ在、是ハ何茂浅シ。鐘ノ石トテカ子ノ様ニ鳴石在リ、各礫ニテ打テ夫ゟ野坂ヲ上リ下リテ荒田野ノ平等寺ニ至ル、是迄三里也。』

 さていよいよ岩屋(鍾乳洞)入口である。これはただの「物見遊山・寺社見学」とは違った性格を持つものと解さなければならない。(とはいえ江戸期になると庶民の寺社参拝はほとんど今日の国内ツァー旅行のようになり、物見遊山的な性格を帯びては来るが、建前は以下のようなものである)。つまり「行」(修行)として行われるのである。

 それでは澄禅はんの日記を読みつつ洞窟の中に入ってみよう。九人各人が松明をもっている。暗黒手探りにすればもっとすごい行になると思うがそれは言わないことにする。行であるためマントラである「慈救ノ咒」を唱えつつはいる。この慈救ノ咒は不動明王の真言であることに留意してほしい。

 洞窟が狭いためか、足を洞窟の奥の向け逆さまに行く格好で12mほど進み、ちょっと伸びあがってみてみると(松明の光で)、かなり広い場所で水が流れている(鍾乳洞の中の川だろう)。記述は先サカサマニ成テ、六七間入テ少ノヒ上リテ見ハ清水流テ広々タル所也 となっている。その第一の広い窟には蝙蝠幾千万ト云数ヲ不知、コウモリが無数に住みついているようだ。気色の悪い所である。

 そこから流れる小川(に沿ってか、渡ってか)36mほど進むと高さ80cmほどの小窟がある(鍾乳洞だから様々に枝分かれしたトンネルのようなものでその一部か)、頭を下げて這い入る。先達がいるからいいようなもの道を知らねばとてもこんな迷路のようなところには入れまい。4m弱進みまた枝分かれの窟へ、そこもまた4mほどで枝分かれ別の窟へ合計二か所、進んだ先は少し広くて横縦3.6mほどの広さとなるが、その奥へは入らずとある(行き止まりではなかろうが、なにか宗教的な禁忌があるのだろうかわからない)、その記述が夫ゟ彼水ヲ渡テ廿間斗モ入ツラント思フ所ニ高サ弐尺五六寸斗ナル所在リ、頭ヲサケテ腰ヲ屈テハイ入テ二間斗過テ往事二ケ所也、其先ニ横タテ二間斗ナル所在リ、夫ゟ奥エハ不入、爰ニテ先達ノ勤ニテ各心経ヲ誦ス。そしてそこで先達の勧めでみんなで心経をとなえたとある。(銭・事実上の案内料を受け取り、毎度案内しているためマニュアル化しているのだろう、「はぁ~ぃ、みなさん、ここから奥はホントに龍の寝床でここより先ははいれません!みんなで心経をとなえ龍の祟りを防ぎましょう~、」とかなんとか・・・)

 そこから南方の洞窟を通ったようである。原文を読むと夫ゟ南ノ方カト思シキ方ニ行、壁ノ如ニテフミ所モ無キ所ヲ岩ノカトニ取付テ二間斗下ル、其奥ニ高壱尺二三寸ノ金銅ノ不動ノ像在リ。 ここがこの窟屋ツァーのハイライトではなかろうか、ほとんどロッククライミングのような鍾乳壁である。ほぼ垂直でごつごつした岩にとりつき何とか降りていく、幸いなことにその高低差は4m弱、おりた奥には36cmの高さの金銅製の不動明王が祀られていた。ここでも例によって不動明王の真言・慈救ノ咒をとなえた。それからは引き返しの道となる。以下原文 爰ニテモ慈救咒ヲ誦シテ元入シ流水ヲ下様ニ渡リテ穴ノ口エ出、熱キ時分ニテ在ケルニ穴ノ中ノ寒中々云斗ナシ。 季節は陽暦に直すと9月のはじめ、私が参った9月8日とそう違わないころ。私が参拝したこの日は予報では最高気温が35度になると言っていたまだまだ残暑の厳しいころである。しかし洞窟の中はかなり寒かったようで寒さ、中々云斗ナシ。と述べている。

 またこの平等寺へ下る遍路道(いわや道・遍路古道)沿いにはほかにも鍾乳窟が二か所あったことが知れる。又サシ下リテ岩屋二ツ在、是ハ何茂浅シ。 しかし大きなものではなく何茂浅シ。なにとも浅しと述べている。この鍾乳窟も近世になって石灰石採掘場にされブチめがれて今はない。

 ほかには山中のどこかだろうか、窟の中だろうか、「鐘石」というものがあって小石でたたくとカ子ノ様ニ鳴、カネ(子)のように鳴る、と最後に記して次の参拝場所平等寺へ向かっている。窟を石窟寺院に例えると、これはさしずめ鐘楼であろうか、天然自然の伽藍のようだ。(とは私の感想!)

 山岳宗教の聖地はその山の険しい自然と向き合い、精神や肉体を鍛える場でもある。宗教者であるから単に鍛えるだけでは済まされない。それを通じて「禅定」や「悟り」にまで達しなければならない。またそれによって霊的なパワーをも身に着け、それを人々の救済に向けるのが理想である。そのための方法が山岳における「行」である。

 山岳には険しい自然がいくらでもある。急峻な岩場、高所にある絶壁、流れる瀧、そして暗黒の世界が支配する細くて狭いがどこまで続くか計り知れぬ洞窟(鍾乳洞)、は修業の場にもってこいである。山岳宗教の聖・ひじり(半俗で庶民の直接の救済を行う宗教者)は近世になると「山伏」とか山の験者とか言われるようになるが、彼らは山のこのような行場で修行することにより「験力」をつけたのである。岩場のロッククライミングや、高所の断崖絶壁から半身以上乗り出す「のぞき」などの行は常人には恐怖でしかなく、なしがたいものである(瀧行はその中でも常人でも比較的やりやすいものである)。その行の中でも真っ暗なそして迷路のような洞窟をはい回るのもあるが上記の行以上に恐ろしい。

 しかし江戸期になるとよいか悪いかの判断はおくとして、庶民の寺社参詣(いわゆるモノ参り、)はどっと増えた。町人ばかりか下層農民でさえ農閑期には大挙して寺社参詣(山岳寺院も含む)に押しかけた。こうなると寺社参詣がツァー化し、宿泊場所、行路案内記の出版、が整備され人々の便宜を図るようになる。山伏や半俗の宗教者の中にはツァーコンダクターに特化するような者さえ出てくるようになる。つまり銭をもらっての寺社・山岳聖地の案内役である。澄禅はんの参拝は江戸前期の元禄が始まる前であるが、岩屋参拝に銀二銭目と手数料の相場が決まっていることや松明や先達の用意などにずいぶん手際が良いところを見ると、このころからそのような傾向は始まっていたとみるべきであろう。

 現代、この太龍寺からすこし北に行ったところに慈眼寺がありその奥には「岩屋」がある。この岩屋(もちろん宗教的場所である)の内部を澄禅はんのように参拝することができる(その岩屋についてのブログはここクリック)。ただし勝手には入れない。寺の受付に行って3000円びゃぁ出すと案内者がついてくれて松明に代わり懐中電灯をかしてくれそれからの参拝となる。370年前の澄禅はんの岩屋参拝と手順はかわらない。

 私が9月8日太龍寺参拝の帰り道通った「いわや道」である。370年前の澄禅はんが下った道とそう大きくは違っていない。ただし何度も言うように石灰石採掘のため龍の岩屋は今は跡形もない。

 澄禅はんはまず捨身嶽というところに参拝したが、今ここには大きな修行大師像がある。

そこを通り過ぎると「いわや道」に入る。

 輝くようなエメラルドグリーンの下草、そして古い石仏や丁石(昔の距離標識)のある道を通る。


 後半部はこのような急坂があらわれ、しがみつくロープが急坂に沿って設けられている。

 この急坂で不注意にもケガをしてしまい這うようにして1km弱を下り、阿瀬比集落が見えてきた時はうれしかった。下は集落の入口にあるお堂である。