前のブログで言ったように龍の岩屋はセメント工場の原料採掘のためブチめがれてしまって今、山を駆け回ってもその存在の跡さえ確かめるのはおぼつかない(実は私は太龍寺参拝した帰り道はその幻の岩屋への古い遍路道を通ったのであるが)。そこで今回のブログは江戸初期・承応二年(1653年)、智積院のボンさんの「澄禅」はんが四国遍路を行い、その日記『四国辺路日記』を残しているのでそれをもとに岩屋の中を見てみようと思う。
私が太龍寺参拝を終え、空海が修行されたという捨身ヶ嶽を参拝し岩屋があろうと思われる遍路古道を辿ったのは9月8日であった。奇しくも江戸初期の僧侶・澄禅はんがこの岩屋への山道を通ったのが旧暦の8月1日、新旧暦の日数差を考えると、ほぼ同じ季節であった。山中とはいえ暑かったろうと思われる。私が太龍寺境内を出て捨身が嶽に向かったのは正午をだいぶ過ぎていたが澄禅はんは当時の遍路がそうであるように早朝出発した。民家に泊まるときでもあるいは寺に泊まるときでもお見送りなんどはないものだが、この日は特殊の事情もあり、寺の下級僧侶がついてきた。原文を見てみよう。
『八月朔日寺ヲ立テ奥院岩屋ナトヲ巡礼スヘシトテ同行衆八人云合テ下法師ニ云、是モ古来ゟ引導ノ僧ニ白銀二銭目遣シ、扨引導ノ僧松明ヲ用意シテ出タリ、此僧先達セサセテ秘所トモ巡礼ス。』
とある。寺ではこのような龍の岩屋に入って参拝する人のためにちゃんと案内の係りの僧ががいたことがわかる。そのための案内料(祠堂金)の相場も決まっていたようで白銀二銭とある。鍾乳洞(岩屋)の中に入るため松明も前もって用意しているのである。その案内役の僧(先達)とともに松明をもって出発したのである。
岩屋へ行く道の途中に若き空海が修行したといわれている「捨身ヶ嶽」があるのでこれを見学参拝したのち、そこより三十町(約3km)ほど下った岩屋へ着いた。原文を読んでみよう。
『先達共ニ九人僧共手ニ々々松ニ火ヲ燃テ慈救ノ咒ヲ声高ニ唱テ穴ノ奥エ入、先サカサマニ成テ、六七間入テ少ノヒ上リテ見ハ清水流テ広々タル所也。蝙蝠幾千万ト云数ヲ不知、夫ゟ彼水ヲ渡テ廿間斗モ入ツラント思フ所ニ高サ弐尺五六寸斗ナル所在リ、頭ヲサケテ腰ヲ屈テハイ入テ二間斗過テ往事二ケ所也、其先ニ横タテ二間斗ナル所在リ、夫ゟ奥エハ不入、爰ニテ先達ノ勤ニテ各心経ヲ誦ス。夫ゟ南ノ方カト思シキ方ニ行、壁ノ如ニテフミ所モ無キ所ヲ岩ノカトニ取付テ二間斗下ル、其奥ニ高壱尺二三寸ノ金銅ノ不動ノ像在リ。爰ニテモ慈救咒ヲ誦シテ元入シ流水ヲ下様ニ渡リテ穴ノ口エ出、熱キ時分ニテ在ケルニ穴ノ中ノ寒中々云斗ナシ。又サシ下リテ岩屋二ツ在、是ハ何茂浅シ。鐘ノ石トテカ子ノ様ニ鳴石在リ、各礫ニテ打テ夫ゟ野坂ヲ上リ下リテ荒田野ノ平等寺ニ至ル、是迄三里也。』
さていよいよ岩屋(鍾乳洞)入口である。これはただの「物見遊山・寺社見学」とは違った性格を持つものと解さなければならない。(とはいえ江戸期になると庶民の寺社参拝はほとんど今日の国内ツァー旅行のようになり、物見遊山的な性格を帯びては来るが、建前は以下のようなものである)。つまり「行」(修行)として行われるのである。
それでは澄禅はんの日記を読みつつ洞窟の中に入ってみよう。九人各人が松明をもっている。暗黒手探りにすればもっとすごい行になると思うがそれは言わないことにする。行であるためマントラである「慈救ノ咒」を唱えつつはいる。この慈救ノ咒は不動明王の真言であることに留意してほしい。
洞窟が狭いためか、足を洞窟の奥の向け逆さまに行く格好で12mほど進み、ちょっと伸びあがってみてみると(松明の光で)、かなり広い場所で水が流れている(鍾乳洞の中の川だろう)。記述は先サカサマニ成テ、六七間入テ少ノヒ上リテ見ハ清水流テ広々タル所也 となっている。その第一の広い窟には蝙蝠幾千万ト云数ヲ不知、コウモリが無数に住みついているようだ。気色の悪い所である。
そこから流れる小川(に沿ってか、渡ってか)36mほど進むと高さ80cmほどの小窟がある(鍾乳洞だから様々に枝分かれしたトンネルのようなものでその一部か)、頭を下げて這い入る。先達がいるからいいようなもの道を知らねばとてもこんな迷路のようなところには入れまい。4m弱進みまた枝分かれの窟へ、そこもまた4mほどで枝分かれ別の窟へ合計二か所、進んだ先は少し広くて横縦3.6mほどの広さとなるが、その奥へは入らずとある(行き止まりではなかろうが、なにか宗教的な禁忌があるのだろうかわからない)、その記述が夫ゟ彼水ヲ渡テ廿間斗モ入ツラント思フ所ニ高サ弐尺五六寸斗ナル所在リ、頭ヲサケテ腰ヲ屈テハイ入テ二間斗過テ往事二ケ所也、其先ニ横タテ二間斗ナル所在リ、夫ゟ奥エハ不入、爰ニテ先達ノ勤ニテ各心経ヲ誦ス。そしてそこで先達の勧めでみんなで心経をとなえたとある。(銭・事実上の案内料を受け取り、毎度案内しているためマニュアル化しているのだろう、「はぁ~ぃ、みなさん、ここから奥はホントに龍の寝床でここより先ははいれません!みんなで心経をとなえ龍の祟りを防ぎましょう~、」とかなんとか・・・)
そこから南方の洞窟を通ったようである。原文を読むと夫ゟ南ノ方カト思シキ方ニ行、壁ノ如ニテフミ所モ無キ所ヲ岩ノカトニ取付テ二間斗下ル、其奥ニ高壱尺二三寸ノ金銅ノ不動ノ像在リ。 ここがこの窟屋ツァーのハイライトではなかろうか、ほとんどロッククライミングのような鍾乳壁である。ほぼ垂直でごつごつした岩にとりつき何とか降りていく、幸いなことにその高低差は4m弱、おりた奥には36cmの高さの金銅製の不動明王が祀られていた。ここでも例によって不動明王の真言・慈救ノ咒をとなえた。それからは引き返しの道となる。以下原文 爰ニテモ慈救咒ヲ誦シテ元入シ流水ヲ下様ニ渡リテ穴ノ口エ出、熱キ時分ニテ在ケルニ穴ノ中ノ寒中々云斗ナシ。 季節は陽暦に直すと9月のはじめ、私が参った9月8日とそう違わないころ。私が参拝したこの日は予報では最高気温が35度になると言っていたまだまだ残暑の厳しいころである。しかし洞窟の中はかなり寒かったようで寒さ、中々云斗ナシ。と述べている。
またこの平等寺へ下る遍路道(いわや道・遍路古道)沿いにはほかにも鍾乳窟が二か所あったことが知れる。又サシ下リテ岩屋二ツ在、是ハ何茂浅シ。 しかし大きなものではなく何茂浅シ。なにとも浅しと述べている。この鍾乳窟も近世になって石灰石採掘場にされブチめがれて今はない。
ほかには山中のどこかだろうか、窟の中だろうか、「鐘石」というものがあって小石でたたくとカ子ノ様ニ鳴、カネ(子)のように鳴る、と最後に記して次の参拝場所平等寺へ向かっている。窟を石窟寺院に例えると、これはさしずめ鐘楼であろうか、天然自然の伽藍のようだ。(とは私の感想!)
山岳宗教の聖地はその山の険しい自然と向き合い、精神や肉体を鍛える場でもある。宗教者であるから単に鍛えるだけでは済まされない。それを通じて「禅定」や「悟り」にまで達しなければならない。またそれによって霊的なパワーをも身に着け、それを人々の救済に向けるのが理想である。そのための方法が山岳における「行」である。
山岳には険しい自然がいくらでもある。急峻な岩場、高所にある絶壁、流れる瀧、そして暗黒の世界が支配する細くて狭いがどこまで続くか計り知れぬ洞窟(鍾乳洞)、は修業の場にもってこいである。山岳宗教の聖・ひじり(半俗で庶民の直接の救済を行う宗教者)は近世になると「山伏」とか山の験者とか言われるようになるが、彼らは山のこのような行場で修行することにより「験力」をつけたのである。岩場のロッククライミングや、高所の断崖絶壁から半身以上乗り出す「のぞき」などの行は常人には恐怖でしかなく、なしがたいものである(瀧行はその中でも常人でも比較的やりやすいものである)。その行の中でも真っ暗なそして迷路のような洞窟をはい回るのもあるが上記の行以上に恐ろしい。
しかし江戸期になるとよいか悪いかの判断はおくとして、庶民の寺社参詣(いわゆるモノ参り、)はどっと増えた。町人ばかりか下層農民でさえ農閑期には大挙して寺社参詣(山岳寺院も含む)に押しかけた。こうなると寺社参詣がツァー化し、宿泊場所、行路案内記の出版、が整備され人々の便宜を図るようになる。山伏や半俗の宗教者の中にはツァーコンダクターに特化するような者さえ出てくるようになる。つまり銭をもらっての寺社・山岳聖地の案内役である。澄禅はんの参拝は江戸前期の元禄が始まる前であるが、岩屋参拝に銀二銭目と手数料の相場が決まっていることや松明や先達の用意などにずいぶん手際が良いところを見ると、このころからそのような傾向は始まっていたとみるべきであろう。
現代、この太龍寺からすこし北に行ったところに慈眼寺がありその奥には「岩屋」がある。この岩屋(もちろん宗教的場所である)の内部を澄禅はんのように参拝することができる(その岩屋についてのブログはここクリック)。ただし勝手には入れない。寺の受付に行って3000円びゃぁ出すと案内者がついてくれて松明に代わり懐中電灯をかしてくれそれからの参拝となる。370年前の澄禅はんの岩屋参拝と手順はかわらない。
私が9月8日太龍寺参拝の帰り道通った「いわや道」である。370年前の澄禅はんが下った道とそう大きくは違っていない。ただし何度も言うように石灰石採掘のため龍の岩屋は今は跡形もない。
澄禅はんはまず捨身嶽というところに参拝したが、今ここには大きな修行大師像がある。
そこを通り過ぎると「いわや道」に入る。
輝くようなエメラルドグリーンの下草、そして古い石仏や丁石(昔の距離標識)のある道を通る。
後半部はこのような急坂があらわれ、しがみつくロープが急坂に沿って設けられている。
この急坂で不注意にもケガをしてしまい這うようにして1km弱を下り、阿瀬比集落が見えてきた時はうれしかった。下は集落の入口にあるお堂である。
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