昨日から菅総理が越南、インドネシャを訪問している。就任後初めての外国訪問だそうだ。その打ち立てに二国を選んだのは何か国際政治上の意味があるのかどうかオイラにはわからないが、この二国の(よいか悪いかは別として)付き合いの度合いはこれからもどんどん上がっていくと思われる。
というのもこんなド田舎にもかの二国からの若者が増えているのである。昨日は日曜日、いろんなところで働いている異国の若者たちも休みなのだろう、ワイが列車に乗るとたくさんグループでかたまって話している。小柄で華奢な男の子が特徴なのは越南(ベトナム)である。南国的な顔立ちで浅黒くクリッとした目の男の子が多いのはインドネシャである。結構大きな声で話しているのでよく目立つ。よく目にし耳にするのでイントネションと顔立ちの違いでこの頃は大体どちらの国かわかるようになった。
魚と水のように親密度が高いのは今までは「台湾」と思っていたが、これからはこの二国も加わるかもしれない。もちろん「魚ごころあれば水こころ」の例えもあるようにこちらもあちらもどちらも好感度が上がればの話だが。
この二国じつは古くは日本と相当密接だったのである。知らない人も多いが、戦国が終わり日本の大航海時代と言われる朱印船貿易のことを日本史で知っている人にはご存知のはなしである。この二国にはこの時代、多くの日本人町が形成されていたのである。ところがこれも歴史好きならご存じだろうが日本の大航海時代は欧州のように発展勇躍はしなかった、禁教令とともに鎖国政策が実施され、人の行き来も全くできなくなり、日本人町は立ち枯れてしまったのである。
その時、父が南蛮・紅毛人というだけでインドネシャの日本人町に追放されたのが前にブログで紹介した、♪~赤い花なら曼殊沙華の「ジャガタラお春」である。立ち枯れる運命にあったネシャの日本人町とともにジャガタラお春はどうなったか、望郷の念を綴った「ジャガタラ文」が今に一通残るのみで、その後どうなったかは分からない。娘盛りに追放され(歌の文句にはそうある)、望郷の念極まって悲嘆のあまりなくなった、あるいは不幸になったとは思いたくない。いい人と結婚して子も設け幸せに暮らしたと思いたい。
ジャガタラお春の行方は分からないが、つい先日まで赤い華やかな花を見せていたジャガタラお春の化身のような曼殊沙華の花は今朝このようになっていた(下の写真)。なんと!立ち枯れているではないか。明治大正期に流行った「のぞきからくり」の弁士なら、ここで
『あぁ~、ジャガタラお春、望郷の念止みがたく文は綴れど、花の盛りを誰知ることもなく、ついには異国の地でこのように立ち枯れたのであります。♪~あわぁ~れぇ~ぇジャガタラお春の物語ぃ~ぃこれで一巻の終わりとなりまするぅ~ぅ、チョンチョン』
しかし根元をよく見ると、花と茎だけと思っていた曼殊沙華の幼葉が小さいながらも伸びて出てきているのではないか。曼殊沙華の花期は桜に劣らず短い、しかしこのように立ち枯れた後からは幼葉が少しづつ大きくなり、晩秋から冬、早春にかけて水仙のように細長いが立派な葉が成長し、葉で養分も作り、球根を太らせるのである。
だからこのような新葉を見ると、ジャガタラお春の追放後も希望が見えてくる。彼女はジャガタラでいい人を見つけ結婚し、花は枯れても、葉や球根元気に生きつづける曼殊沙華のようにいい家族をたくさん持ち、次の年が来たら必ず同じ位置に咲くように、その子孫もジャガタラで栄えたのだと。
だから汽車の中であさ黒でクリっとした目のインドネシャの若者を見たりすると、もしかしたらこの子ぉら、ジャガタラお春(史実である)の血ぃを受け継ぐ子ぉの可能性もある。それがまわりまわってこの日本へ来たんかも知れへんなぁ、と思ったりする。
ワイの好きなマンジュシャゲの花、もう枯れてしもて今年は見られない、また来年も、と思うがそれは健康な若い衆のいうこと、来年があるかどうかもわからんこのジジイにはこの立ち枯れたマンジュシャゲが見納めかもしれへん。来年もとおもっても、例年のごとく曼殊沙華の歌入りブログを作ることができないかもしれない。そこで名残になるかもしれない『長崎物語』をヨウツベから張り付けてもう一度聴く。
今回は今は亡き藤圭子さんの長崎物語です。
0 件のコメント:
コメントを投稿