昨日のブログで明王院の明王という号はたぶん不動明王の「~明王」からきていると書いた。そこで県内にその明王院は他にもあるかネットで検索するとあった。阿波市にも明王院があり、こちらも昨日行った川田の明王院と同じく四国三十六不動霊場の一つになっている。他にも同じ明王という号ではあるが明王寺というのが神山にあった。こちらを検索していて三年前の三月末この寺に私自身「枝垂れ桜」見に行っていたことを思い出した。枝垂れ桜を見に行ったついでではあるがもちろん本堂もお参りした。しかしその時は御本尊さんが何か気にすることもなくただ合掌しただけである。このお寺も明王という号があらわすように御本尊は不動明王だったのである。今だったら不動明王経の一節や不動明王の真言「慈救咒」でも唱えたのだが。
3年9ヵ月前のブログを見るとその時の写真が張り付けてあった。下が本堂である。よく見ると明王寺とかいた額がかかっている。
その寺の枝垂れ桜
もう四年弱たつが写真を見ながらこの寺のことを思い出していると、そういえばこの時のランチはこの近くのちょっと変わったレストランで食べたなぁ、とぼんやり思い出した。建物はなんか蔵みたいな感じで料理も内容は思い出せないがここの一風変わったオリジナルだったような・・・?
2019年12月17日火曜日
2019年12月16日月曜日
川田不動
今日、参拝したのは通称、川田不動と言われている明王院である。不動明王にちなんで明王院とい名づけられたのだろうか。山号は月光院、正式には月光山明王院、なんか優雅な響きのある名前のお寺だ。
山川駅で汽車を降りて川田川の左岸の堤防上の道をどんどん上流に歩いていけば高越山の登山口の近くにある明王院に着く。
この不動寺は四国三十六不動霊場の一つであるのでお迎え童子が本堂横にいる。ここの童子は召請光童子(ちょうしょうこう)という。
本堂をお参りし、別棟の大師堂もお参りする。この大師堂をのぞいたら中には「護摩壇」があった。よく時代劇で僧侶が真言を唱えながら、四角の結界の中に作られた炉に小木や芥子、その他のものを放り込み盛大に火炎を作りながら祈るアレである。写真やテレビ・映画などでは見たことあるが実物を見るのは珍しいので写真に撮らせてもらった。ガラス越しなので少し反射して見えにくくなっている。
境内から急な石段が山の方へ伸びていて見上げると多宝塔がある。ここには六地蔵を祀ってある。
境内には大きな池があり、弁天様やそのほかの仏さまを池の中に祀っている。
明王院の境内の動画
山川駅で汽車を降りて川田川の左岸の堤防上の道をどんどん上流に歩いていけば高越山の登山口の近くにある明王院に着く。
この不動寺は四国三十六不動霊場の一つであるのでお迎え童子が本堂横にいる。ここの童子は召請光童子(ちょうしょうこう)という。
本堂をお参りし、別棟の大師堂もお参りする。この大師堂をのぞいたら中には「護摩壇」があった。よく時代劇で僧侶が真言を唱えながら、四角の結界の中に作られた炉に小木や芥子、その他のものを放り込み盛大に火炎を作りながら祈るアレである。写真やテレビ・映画などでは見たことあるが実物を見るのは珍しいので写真に撮らせてもらった。ガラス越しなので少し反射して見えにくくなっている。
境内から急な石段が山の方へ伸びていて見上げると多宝塔がある。ここには六地蔵を祀ってある。
境内には大きな池があり、弁天様やそのほかの仏さまを池の中に祀っている。
明王院の境内の動画
東禅寺で不思議な童子がお出迎え
昨日の日曜日もお不動さんにお参りに行ってきた。行った寺は石井の東禅寺、御本尊はもちろん不動明王さま。駅からまっすぐ北へ進んで西へ入ったところ、わかりやすいが前日の愛染院への「四国の道」とは違って交通量の多い車道を歩くので気をつけなければ危険だ。しかし脇道に入ってからは車の通行もほとんどないのでのんびりと歩けた。20分ほどで東禅寺が見えてきた。
こじんまりしたお寺で築地塀もなくブロック塀である。現在工事中で庫裏は最近建て替わったばかりのようだ。境内には作業機械が入っているが日曜なので工事はしていなかった。
本堂にお参りする。昨日の愛染院ではお不動さんの種子(梵字)の立札が目に付いたが、こちらの本堂は右横に「お迎え童子」の石像が立っていて目に付く。
「不思議童子」とある。
昨日もブログで紹介したが、お不動さんは如来さまなどの三尊形式をまねて脇侍に矜羯羅(こんがら)童子と制叱迦(せいたか)童子を従えている。しかし不思議童子とはなんだろう。まさに不思議だ!この童子もお不動さんの眷属なのだろうか。実はそうなのである。お不動さんは矜羯羅(こんがら)童子、制叱迦(せいたか)童子を含めて36もの童子を眷属として従えているのである。その中には不思議童子もいる。
今日私が本堂の前で唱えた「聖不動経」を見れば36の童子がいることがわかる。「聖不動経」はいくつかある不動経のエッセンスを短くコンパクトにまとめたもので礼拝時に唱えるお経としてふさわしいものである。次のようなお経である。
まず右の本経を読誦する、そして本経につづいて左の36の童子の名を読み上げる(童子の尊称は省いて読む)いろいろな名前の童子がいるが、真っ先に来るのは矜羯羅(こんがら)童子、制叱迦(せいたか)童子、そしてズラズラ読んでいくと不思議童子もいる。お経にも入っているお不動さんの眷属の36童子なのである。
そういえば先日行った不動町の密厳寺の境内にもお迎え童子がいたような?????撮った写真を見てみる。
いたいた!本堂横ではないが入り口付近にいた。よくみると「伊醯羅童子(いけいら)」とある。上のお経で探すと伊醯羅童子もいる。
今まで私は不動巡りを5ヶ所行った。建治寺⇒成田山不動寺⇒密厳寺⇒愛染院⇒東禅寺である。他にも「お迎え童子」がいるのか撮りためた写真を確認すると建治寺にもいた。下が建治寺の写真であるがよく見ると左下に童子がいる。解像度が悪いで別の写真で見ると
こちらは波羅波羅童子(はらはら)のようである。しかし残りの二つの(上八万の)成田山不動寺と愛染院には「お迎え童子」はいなかった。お不動さんのお寺でもお迎え童子がいるのは「四国三十六不動霊場」のグループに属している寺であり、そのグループに属していない寺にはお迎え童子はいない。四国内の不動の寺を36のグループにまとめたのは不動明王の眷属である36の童子をそれぞれ一つの寺に配したためである。
四国八十八ヶ寺巡礼、西国三十三ヶ寺観音霊場巡礼などは有名であるが四国三十六不動霊場巡礼ってあんまし聞かんがなぁ、と思って調べるとこの不動霊場巡礼の寺が立ち上がったのは平成に入ってから(元年)である。他の霊場巡礼に比べるとまったく最近に作られたものだ。だからどの童子の石像も新墓のようにきれいである。
仏の尊格は上から、如来、菩薩、明王、天・・・などと続くが「童子」ははたして礼拝対象の尊格なのかとおもうが、日本の風土では神も仏もたくさん存在し、それも混然一体化している場合もある、あ~だこ~だと差別をつけず、上記の天以下の眷属であろうとすべて我々には礼拝の対象となる。生身の人間でさえ時によれば神仏が降りてきて一体化し拝む対象になる。特に小さい子供(童子)と高齢の白髭のジジイ(翁・おきな)にはよく神仏が降りてくるという。以前ブログで紹介した華厳経の入法界品に出てくる善財童子も遍歴の末に聖的な童子となっている。童子を礼拝の対象とするのも頷けることである。また謡曲や三番叟の翁(おきな)を見るとわかるが白髭のジジイにも神仏が降りてくる。
こじんまりしたお寺で築地塀もなくブロック塀である。現在工事中で庫裏は最近建て替わったばかりのようだ。境内には作業機械が入っているが日曜なので工事はしていなかった。
本堂にお参りする。昨日の愛染院ではお不動さんの種子(梵字)の立札が目に付いたが、こちらの本堂は右横に「お迎え童子」の石像が立っていて目に付く。
「不思議童子」とある。
昨日もブログで紹介したが、お不動さんは如来さまなどの三尊形式をまねて脇侍に矜羯羅(こんがら)童子と制叱迦(せいたか)童子を従えている。しかし不思議童子とはなんだろう。まさに不思議だ!この童子もお不動さんの眷属なのだろうか。実はそうなのである。お不動さんは矜羯羅(こんがら)童子、制叱迦(せいたか)童子を含めて36もの童子を眷属として従えているのである。その中には不思議童子もいる。
今日私が本堂の前で唱えた「聖不動経」を見れば36の童子がいることがわかる。「聖不動経」はいくつかある不動経のエッセンスを短くコンパクトにまとめたもので礼拝時に唱えるお経としてふさわしいものである。次のようなお経である。
まず右の本経を読誦する、そして本経につづいて左の36の童子の名を読み上げる(童子の尊称は省いて読む)いろいろな名前の童子がいるが、真っ先に来るのは矜羯羅(こんがら)童子、制叱迦(せいたか)童子、そしてズラズラ読んでいくと不思議童子もいる。お経にも入っているお不動さんの眷属の36童子なのである。
そういえば先日行った不動町の密厳寺の境内にもお迎え童子がいたような?????撮った写真を見てみる。
いたいた!本堂横ではないが入り口付近にいた。よくみると「伊醯羅童子(いけいら)」とある。上のお経で探すと伊醯羅童子もいる。
今まで私は不動巡りを5ヶ所行った。建治寺⇒成田山不動寺⇒密厳寺⇒愛染院⇒東禅寺である。他にも「お迎え童子」がいるのか撮りためた写真を確認すると建治寺にもいた。下が建治寺の写真であるがよく見ると左下に童子がいる。解像度が悪いで別の写真で見ると
こちらは波羅波羅童子(はらはら)のようである。しかし残りの二つの(上八万の)成田山不動寺と愛染院には「お迎え童子」はいなかった。お不動さんのお寺でもお迎え童子がいるのは「四国三十六不動霊場」のグループに属している寺であり、そのグループに属していない寺にはお迎え童子はいない。四国内の不動の寺を36のグループにまとめたのは不動明王の眷属である36の童子をそれぞれ一つの寺に配したためである。
四国八十八ヶ寺巡礼、西国三十三ヶ寺観音霊場巡礼などは有名であるが四国三十六不動霊場巡礼ってあんまし聞かんがなぁ、と思って調べるとこの不動霊場巡礼の寺が立ち上がったのは平成に入ってから(元年)である。他の霊場巡礼に比べるとまったく最近に作られたものだ。だからどの童子の石像も新墓のようにきれいである。
仏の尊格は上から、如来、菩薩、明王、天・・・などと続くが「童子」ははたして礼拝対象の尊格なのかとおもうが、日本の風土では神も仏もたくさん存在し、それも混然一体化している場合もある、あ~だこ~だと差別をつけず、上記の天以下の眷属であろうとすべて我々には礼拝の対象となる。生身の人間でさえ時によれば神仏が降りてきて一体化し拝む対象になる。特に小さい子供(童子)と高齢の白髭のジジイ(翁・おきな)にはよく神仏が降りてくるという。以前ブログで紹介した華厳経の入法界品に出てくる善財童子も遍歴の末に聖的な童子となっている。童子を礼拝の対象とするのも頷けることである。また謡曲や三番叟の翁(おきな)を見るとわかるが白髭のジジイにも神仏が降りてくる。
2019年12月15日日曜日
愛染院へのお参り
昨日もお不動さんの参拝に行ってきた。板野の「愛染院」である。最初にこの寺院の名前を聞いたとき、え?愛染院なのにお不動さんのお寺っていうの?と疑問に思った。愛染院というからには本尊は愛染明王じゃないんかしらん、愛染さんも忿怒の相で尊格も明王だが全く別の仏さまだ(確か六臂で手が6本だった)。もしかして本尊が愛染明王で、境内にお不動さんも祀ってあってこちらの霊験のほうがあらたかで不動明王の寺として有名になったのかなぁ。でも調べると本尊はお不動さんである。昔の寺名は阿弥田寺といったが百年前に21番さんの太龍寺にあった愛染院を合わせ(こちらに招請したのだろう)それ以後「愛染院」というようになったそうだ。創建はずっと古く、お大師さん自らが彫った不動明王をお祀りしたことに遡る。このお寺は昔から「那東のお不動さん」といって地元の人は親しみ、信仰しているから、お不動さんのお寺であるといって間違いない。
板野駅からは西へ2.5Kmほど離れているが駅前の旧道からこの愛染院までは遊歩道指定のいわゆる「四国の道」がずっと続いているから景色を眺めたり途中の小堂で休んだりと漫歩するにはよかった。また天気も良くぽかぽか暖かかった。
途中の小堂や史跡、名跡
歩くこと(途中ときどき休みながら)一時間弱、愛染院見えてきた。
山門に近づくと大きな草鞋に気づいた(他にも奉納の草鞋がたくさんあった)。この草鞋についてはあとで縁起を読んで納得。
山門をくぐる。山が迫っているため境内は狭い。くぐるとすぐ本堂だ。遠くから見たときよりも小じんまりしたお寺だ。たしかに○○寺というより○○院といったほうがふさわしいような雰囲気だ。
本堂前には大きな梵字で書いた札が立っている。
以前の私なら、卒塔婆に書いてあるような不思議な梵字だなあ、と、チラと見ての一瞬の印象しか感じないだろうが、先月のブログ(11月9日)でこの梵字についてチョロっとだけお勉強したので、おおむねの意味は受けとれた。
先のブログ(ここクリック、)を見て貰えばわかると思うがまずこれは「種子」(しゅじ)といって梵語(悉曇文字)で一字あるいは二字の組み合わせで各仏を表すのである。前のブログでは阿弥陀如来と観世音菩薩の種子で下のようなものであった。
各仏を象徴する文字であるがこれの文字(種子)は仏そのものとして礼拝の対象となる。文字であるから当然読みもある。阿弥陀如来はキリーク、観音菩薩はサ、と発音する。これを声として発することも仏を表すことである。
そのことがわかれば愛染院の本堂前にある梵字は不動明王を表す種子であることがわかる。阿弥陀様や観音様に比べるとかなり複雑な文字である。実は不動明王の種子は二つある。(仏さまの中には複数の種子が充てられることがある)下の二つの種子がそうである。読みも示す。
本堂前にある種子は右の複雑な方である。二つの種子の読みやその梵字の構成から考えて、どうも左の梵字に、たぶんマンという読みの梵字を二文字組み合わせたものが右の「カンマン」という梵字ではなかろうかと思うのである。
この愛染院では「カンマン」の梵字の入ったお札をいただくことができる。これは不動明王の御尊体と同じであり、礼拝の対象となるし、護符ともなる。下が頂けるそのお札である。
そして11月9日のブログでも出てきた「三昧耶形」(御尊格を象徴する仏具など)はお不動さんの場合特別なかたちの御剣であることが多い。また阿弥陀の三尊種子板碑では尊格の本体、左右脇侍、と三尊の形であった。お不動さんではどうなるのだろう。やはり三尊の形なのだろうか。でも弥陀三尊の場合は本体は如来で最も上位、そして脇侍は第二位の尊格である菩薩二体であるが、お不動さんは明王で如来、菩薩より下位の位である。そうすると脇侍はそれより下のものとなる。もし三尊の形ならどうなのだろう。本堂の奥に鎮座しているお不動さんの本体は拝めないが本堂の上の額にお不動さんの額がかかっている。それを見ると、中心のお不動さんの左右には童子(子ども)姿の眷属がいて三尊の形をとっている。いったいこの童子誰なのだろう?
調べると右側の童子は矜羯羅童子(こんがらどうじ)、左は制吒迦童子(せいたかどうじ)である。矜羯羅童子さんは見るからにおとなしく蓮華の花を持っていて立っている。制吒迦童子さんは片膝をたて、剣をふり立てて今にも立ち上がって向かって来そうである。顔をみても腕白そうな童子である。
本堂まえではお不動さんの真言(慈救咒)を唱えて礼拝する。
ノウマクサンマンダ バザラダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン
この最後のフレーズの「カンマン」は先に言った不動明王の種子を声に出して表したものである。
境内にはこの地を治めていた板西城主の赤澤信濃守崇伝の廟がある。戦国末、討ち死にしたが、それは草鞋の緒が切れたからという言い伝えがある。それで草鞋を奉納しているのだろうかとおもったが、そうではなく足腰が治るように願をかけた人が、治癒したお礼に草鞋を奉納するそうである。
下が愛染院の案内板で縁起や草鞋奉納のいわれなどが説明されている。
境内の動画
板野駅からは西へ2.5Kmほど離れているが駅前の旧道からこの愛染院までは遊歩道指定のいわゆる「四国の道」がずっと続いているから景色を眺めたり途中の小堂で休んだりと漫歩するにはよかった。また天気も良くぽかぽか暖かかった。
途中の小堂や史跡、名跡
歩くこと(途中ときどき休みながら)一時間弱、愛染院見えてきた。
山門に近づくと大きな草鞋に気づいた(他にも奉納の草鞋がたくさんあった)。この草鞋についてはあとで縁起を読んで納得。
山門をくぐる。山が迫っているため境内は狭い。くぐるとすぐ本堂だ。遠くから見たときよりも小じんまりしたお寺だ。たしかに○○寺というより○○院といったほうがふさわしいような雰囲気だ。
本堂前には大きな梵字で書いた札が立っている。
以前の私なら、卒塔婆に書いてあるような不思議な梵字だなあ、と、チラと見ての一瞬の印象しか感じないだろうが、先月のブログ(11月9日)でこの梵字についてチョロっとだけお勉強したので、おおむねの意味は受けとれた。
先のブログ(ここクリック、)を見て貰えばわかると思うがまずこれは「種子」(しゅじ)といって梵語(悉曇文字)で一字あるいは二字の組み合わせで各仏を表すのである。前のブログでは阿弥陀如来と観世音菩薩の種子で下のようなものであった。
各仏を象徴する文字であるがこれの文字(種子)は仏そのものとして礼拝の対象となる。文字であるから当然読みもある。阿弥陀如来はキリーク、観音菩薩はサ、と発音する。これを声として発することも仏を表すことである。
そのことがわかれば愛染院の本堂前にある梵字は不動明王を表す種子であることがわかる。阿弥陀様や観音様に比べるとかなり複雑な文字である。実は不動明王の種子は二つある。(仏さまの中には複数の種子が充てられることがある)下の二つの種子がそうである。読みも示す。
本堂前にある種子は右の複雑な方である。二つの種子の読みやその梵字の構成から考えて、どうも左の梵字に、たぶんマンという読みの梵字を二文字組み合わせたものが右の「カンマン」という梵字ではなかろうかと思うのである。
この愛染院では「カンマン」の梵字の入ったお札をいただくことができる。これは不動明王の御尊体と同じであり、礼拝の対象となるし、護符ともなる。下が頂けるそのお札である。
そして11月9日のブログでも出てきた「三昧耶形」(御尊格を象徴する仏具など)はお不動さんの場合特別なかたちの御剣であることが多い。また阿弥陀の三尊種子板碑では尊格の本体、左右脇侍、と三尊の形であった。お不動さんではどうなるのだろう。やはり三尊の形なのだろうか。でも弥陀三尊の場合は本体は如来で最も上位、そして脇侍は第二位の尊格である菩薩二体であるが、お不動さんは明王で如来、菩薩より下位の位である。そうすると脇侍はそれより下のものとなる。もし三尊の形ならどうなのだろう。本堂の奥に鎮座しているお不動さんの本体は拝めないが本堂の上の額にお不動さんの額がかかっている。それを見ると、中心のお不動さんの左右には童子(子ども)姿の眷属がいて三尊の形をとっている。いったいこの童子誰なのだろう?
調べると右側の童子は矜羯羅童子(こんがらどうじ)、左は制吒迦童子(せいたかどうじ)である。矜羯羅童子さんは見るからにおとなしく蓮華の花を持っていて立っている。制吒迦童子さんは片膝をたて、剣をふり立てて今にも立ち上がって向かって来そうである。顔をみても腕白そうな童子である。
本堂まえではお不動さんの真言(慈救咒)を唱えて礼拝する。
ノウマクサンマンダ バザラダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン
この最後のフレーズの「カンマン」は先に言った不動明王の種子を声に出して表したものである。
境内にはこの地を治めていた板西城主の赤澤信濃守崇伝の廟がある。戦国末、討ち死にしたが、それは草鞋の緒が切れたからという言い伝えがある。それで草鞋を奉納しているのだろうかとおもったが、そうではなく足腰が治るように願をかけた人が、治癒したお礼に草鞋を奉納するそうである。
下が愛染院の案内板で縁起や草鞋奉納のいわれなどが説明されている。
境内の動画
2019年12月13日金曜日
不動のお不動さん
このあいだから建治寺、上八万の成田山不動寺と「不動明王」さまを参拝に行っている。お不動さんは昔から大人気の仏さまだ。不遜な言い回しかもしれないが古今を通じ日本で大人気の仏さまだ、他にも大人気の仏さまといえば「薬師如来さま」「観世音菩薩さま」「地蔵菩薩さま」が思いつく。これらの仏さまは人気をあらわすようにあっちこっちに、寺の御本尊としてだけではなく、脇侍仏、小さなお堂、そして路傍の石仏などなど、数多くの場所に祀られ参拝され、何百年間にもわたって人々の願いを聞き入れてくださった。そして多くの人はこの仏さまたちの一つに固執することなく、時、場所を違えてどの仏さまも拝んでいる。それどころか一つのお寺にこの仏さまたちが祀られているため。境内を一周して参拝するとお薬師さん、観音さん、お地蔵さん、お不動さんと一つのところで同時に拝むことさえある。
お不動さんは薬師、観音、地蔵さまがたがみんな優しそうな慈愛に満ちた顔、あるいは深い瞑想の表情であるのに対し、ずいぶん恐ろしそうな顔をしている。「忿怒の相」というそうである。歯を強く食いしばっているのか口もとはふくらんでまさに怒りの口元である。そして口の両側からは牙のような犬歯がそれぞれ上下にはみ出たりしているのも恐ろしい。目はたいてい大きく見開きぎょろ目で睨みつけるようであるが、しかし左右の眼は全然違う方向を向いていたりする。だが尊像の前に立つと藪睨みではありながら自分に強い目線が向けられているのを感じる。
この不思議な両目の目線を受けると、歌舞伎の市川家のお家芸である「睨み」の表情を思い出す。しかしいつぞや、その両者は偶然似ているのではなく、あれは市川團十郎がそのお不動さんの表情をまねたものである(いや背負っているとの表現がいいかもしれない)といわれて、なるほどと納得したことがある。歌舞伎好きの人は良く知っているが、元禄時代に初代か二代目團十郎かが成田山のお不動さんを信仰していて、舞台上で不動明王を演じたら、観客が舞台にまるで不動明王が現れたように、舞台に向かって手を合わせ、賽銭を投げたといわれている。生身の人間である團十郎が舞台上とはいえ不動尊に同一視され、礼拝されるのは不遜な気がするが、しかし密教の仏の一つである「不動明王」の性質を考えるとそれは不遜ではないのである。もともと「即身成仏」を教義とする密教の教えや、それから派生した修験道ではいろんな「行」、いやたとえ難行でなくても(それは一瞬の秘法によっても)不動尊と一体化され得るのである。そしてそのように一体化された人は験のある人として、礼拝の対象にすらなるのである。そう考えると、舞台上で團十郎が不動尊と一体化、すなわち即身成仏し、人々が本尊として拝んだのも頷ける。
お不動さんは忿怒の形相だけでなく右手に剣、左手は印を結びつつ羂索(捕り縄のようなもの)を持っている。そして背には盛大な火炎を背負っている。敵対するもの(魔物、当然病魔も入るだろうなぁ、また人の心にある「悪」なども)から見ればかなわぬ恐ろしい敵ではあるが、お不動さんを人を教え導く味方とすれば、無敵の剣で悪を切り裂き、あるいは縛り、火炎で燃やし尽くしてくれるその恰好は頼もしく見える。慈愛や瞑想の仏さんに比べると、なんと力強い仏さんであることか。
こどもの絵本や童話では、恐ろしい表情もあってか不動明王は出てこない。誰もが一度は見たあるいは読んだという仏さまはお地蔵さんだろう。「かさこじぞう」という話を知らない人はまずいまい。今でも「かさこじぞう」は読み継がれている。ここでワイのチンマイ時の話をすると、そのお不動さんが出てくる子供向けの映画を見た記憶がある。私自身はお不動さんの童話絵本は見たことないが、このお不動さんの出てくる子供映画は童話絵本を基にしたものに違いないからお不動さんの童話絵本もあるのである。60年も昔、小学校の何年かも忘れた、記憶も極めてかすかでぼんやりしたものしかない。あらすじはもちろんのこと題もその他どんな出演者がいてどんな役だったかも思い出せない。ただ一つのシーンを覚えているのみである。それは腕白少年を一人連れてお不動さんが空に舞い上がり、雲に乗って下界を見下ろしているのである。そしていろいろな下界のさまをみせて、たぶんその腕白少年に教え諭している場面である。
そんな記憶だから手掛かりとなるのはほとんどない。したがってその子供映画が何であったかを知ることは、昔なら困難だったが今はネットがある。「子供映画」「不動明王」の二つのキーワードだけで検索すると昔見た映画がすぐ分かった。題は『ゲンと不動明王』あらすじは
「ゲンとイズミの兄妹は、木曽の山奥のセイカン寺の子供である。病気で母親を失った2人は励ましあいながら明るく暮らしていたが、兄のゲンが隣村のクオン寺に預けられることになる。間もなく兄妹の父親にあたるセイカン寺の住職は後妻を迎え、イズミには新しい母さんができる。一方、ゲンは厳格なクオン寺のおばさんになじめず、意地を張ったり寂しさを募らせたりするが、床の間に飾られた不動明王さまが心の支えとなる。しかし、ハチの巣取りに失敗して怪我をしたことが引き金となり、友達といさかいを起こしたゲンは、ついにクオン寺を飛び出してしまう。この事件のあと、ゲンはセイカン寺に帰されるが、新しい母さんに素直に接することができない。そんなある日、ゲンの夢に不動明王様が現れる。明王様に促されたゲンは、翌朝初めて「母さん」と呼ぶことが出来たのだった。」
読んでも今も残っている一シーン以外の場面は蘇ってこない。ポスターとスチール写真を見てみる。古い映画なので動画もないしスチール写真も限られていた。
「ああそうだ、不動明王さまは、こんな格好、メークだったな」
と、お不動様のイメージだけがよみがえってきた。配役をみると、お不動様は「三船敏郎」となっている。
「えぇぇ!しらなんだ!」
そういや似てるわ(ってそのひとそのものだよ!)
昨日はその名も不動町にある不動明王が御本尊のお寺「密厳寺」(みつごんじ)にお参りに行ってきた。(同じ名の密厳寺で御本尊もお不動さんのお寺が池田町西山にもある) このあたりは徳島市合併の前は新居町といっていたが合併後は不動町になった。その町名の由来はここにこの有名な不動尊があったからだろう。まさに不動のお不動さまである。
本尊は不動明王であるが他にも仏さまをお祀りしている。一番左の屋根のお堂が本堂の不動尊、そして真ん中のお堂が大師堂、間には千手観音様もお祀りしてある。そして一番右の屋根のお堂はお薬師さん、霊験あらたかであると昔から言われている。写真では見えないが左奥にはお地蔵さまもお祀りしてある。
寺の縁起
鮎喰川のすぐほとりにあるが、大昔は水害が大変だっただろう。寺の縁起にある大師伝説もやはりすぐ横の暴れ川を治めたというもの、創建はかなり古いようだが中世末の兵火に荒廃し、後に再建したようだ。しかし落雷や天災などから寺の維持にはかなり苦労したことが縁起の端々から読みとれる。
境内には天保の飢饉のとき、施粥した記念碑が立っている。江戸の三大飢饉といわれる天保の飢饉で多くの人が飢え、死に至ったのだろう。施粥、数千人、数知らず、死者144人と供養灯籠に記されている。ここにも歴史の記録が刻まれている。
動画で見ると寺は鮎喰川のすぐ横、今でこそ堤防で区切られているが昔は河川敷のすぐ横だったのだろう。
お不動さんは薬師、観音、地蔵さまがたがみんな優しそうな慈愛に満ちた顔、あるいは深い瞑想の表情であるのに対し、ずいぶん恐ろしそうな顔をしている。「忿怒の相」というそうである。歯を強く食いしばっているのか口もとはふくらんでまさに怒りの口元である。そして口の両側からは牙のような犬歯がそれぞれ上下にはみ出たりしているのも恐ろしい。目はたいてい大きく見開きぎょろ目で睨みつけるようであるが、しかし左右の眼は全然違う方向を向いていたりする。だが尊像の前に立つと藪睨みではありながら自分に強い目線が向けられているのを感じる。
この不思議な両目の目線を受けると、歌舞伎の市川家のお家芸である「睨み」の表情を思い出す。しかしいつぞや、その両者は偶然似ているのではなく、あれは市川團十郎がそのお不動さんの表情をまねたものである(いや背負っているとの表現がいいかもしれない)といわれて、なるほどと納得したことがある。歌舞伎好きの人は良く知っているが、元禄時代に初代か二代目團十郎かが成田山のお不動さんを信仰していて、舞台上で不動明王を演じたら、観客が舞台にまるで不動明王が現れたように、舞台に向かって手を合わせ、賽銭を投げたといわれている。生身の人間である團十郎が舞台上とはいえ不動尊に同一視され、礼拝されるのは不遜な気がするが、しかし密教の仏の一つである「不動明王」の性質を考えるとそれは不遜ではないのである。もともと「即身成仏」を教義とする密教の教えや、それから派生した修験道ではいろんな「行」、いやたとえ難行でなくても(それは一瞬の秘法によっても)不動尊と一体化され得るのである。そしてそのように一体化された人は験のある人として、礼拝の対象にすらなるのである。そう考えると、舞台上で團十郎が不動尊と一体化、すなわち即身成仏し、人々が本尊として拝んだのも頷ける。
お不動さんは忿怒の形相だけでなく右手に剣、左手は印を結びつつ羂索(捕り縄のようなもの)を持っている。そして背には盛大な火炎を背負っている。敵対するもの(魔物、当然病魔も入るだろうなぁ、また人の心にある「悪」なども)から見ればかなわぬ恐ろしい敵ではあるが、お不動さんを人を教え導く味方とすれば、無敵の剣で悪を切り裂き、あるいは縛り、火炎で燃やし尽くしてくれるその恰好は頼もしく見える。慈愛や瞑想の仏さんに比べると、なんと力強い仏さんであることか。
こどもの絵本や童話では、恐ろしい表情もあってか不動明王は出てこない。誰もが一度は見たあるいは読んだという仏さまはお地蔵さんだろう。「かさこじぞう」という話を知らない人はまずいまい。今でも「かさこじぞう」は読み継がれている。ここでワイのチンマイ時の話をすると、そのお不動さんが出てくる子供向けの映画を見た記憶がある。私自身はお不動さんの童話絵本は見たことないが、このお不動さんの出てくる子供映画は童話絵本を基にしたものに違いないからお不動さんの童話絵本もあるのである。60年も昔、小学校の何年かも忘れた、記憶も極めてかすかでぼんやりしたものしかない。あらすじはもちろんのこと題もその他どんな出演者がいてどんな役だったかも思い出せない。ただ一つのシーンを覚えているのみである。それは腕白少年を一人連れてお不動さんが空に舞い上がり、雲に乗って下界を見下ろしているのである。そしていろいろな下界のさまをみせて、たぶんその腕白少年に教え諭している場面である。
そんな記憶だから手掛かりとなるのはほとんどない。したがってその子供映画が何であったかを知ることは、昔なら困難だったが今はネットがある。「子供映画」「不動明王」の二つのキーワードだけで検索すると昔見た映画がすぐ分かった。題は『ゲンと不動明王』あらすじは
「ゲンとイズミの兄妹は、木曽の山奥のセイカン寺の子供である。病気で母親を失った2人は励ましあいながら明るく暮らしていたが、兄のゲンが隣村のクオン寺に預けられることになる。間もなく兄妹の父親にあたるセイカン寺の住職は後妻を迎え、イズミには新しい母さんができる。一方、ゲンは厳格なクオン寺のおばさんになじめず、意地を張ったり寂しさを募らせたりするが、床の間に飾られた不動明王さまが心の支えとなる。しかし、ハチの巣取りに失敗して怪我をしたことが引き金となり、友達といさかいを起こしたゲンは、ついにクオン寺を飛び出してしまう。この事件のあと、ゲンはセイカン寺に帰されるが、新しい母さんに素直に接することができない。そんなある日、ゲンの夢に不動明王様が現れる。明王様に促されたゲンは、翌朝初めて「母さん」と呼ぶことが出来たのだった。」
読んでも今も残っている一シーン以外の場面は蘇ってこない。ポスターとスチール写真を見てみる。古い映画なので動画もないしスチール写真も限られていた。
「ああそうだ、不動明王さまは、こんな格好、メークだったな」
と、お不動様のイメージだけがよみがえってきた。配役をみると、お不動様は「三船敏郎」となっている。
「えぇぇ!しらなんだ!」
そういや似てるわ(ってそのひとそのものだよ!)
昨日はその名も不動町にある不動明王が御本尊のお寺「密厳寺」(みつごんじ)にお参りに行ってきた。(同じ名の密厳寺で御本尊もお不動さんのお寺が池田町西山にもある) このあたりは徳島市合併の前は新居町といっていたが合併後は不動町になった。その町名の由来はここにこの有名な不動尊があったからだろう。まさに不動のお不動さまである。
本尊は不動明王であるが他にも仏さまをお祀りしている。一番左の屋根のお堂が本堂の不動尊、そして真ん中のお堂が大師堂、間には千手観音様もお祀りしてある。そして一番右の屋根のお堂はお薬師さん、霊験あらたかであると昔から言われている。写真では見えないが左奥にはお地蔵さまもお祀りしてある。
寺の縁起
鮎喰川のすぐほとりにあるが、大昔は水害が大変だっただろう。寺の縁起にある大師伝説もやはりすぐ横の暴れ川を治めたというもの、創建はかなり古いようだが中世末の兵火に荒廃し、後に再建したようだ。しかし落雷や天災などから寺の維持にはかなり苦労したことが縁起の端々から読みとれる。
境内には天保の飢饉のとき、施粥した記念碑が立っている。江戸の三大飢饉といわれる天保の飢饉で多くの人が飢え、死に至ったのだろう。施粥、数千人、数知らず、死者144人と供養灯籠に記されている。ここにも歴史の記録が刻まれている。
動画で見ると寺は鮎喰川のすぐ横、今でこそ堤防で区切られているが昔は河川敷のすぐ横だったのだろう。
2019年12月11日水曜日
川北のお不動さんにお参りしてきた
先日、建治寺のお不動さんをお参りしてきたが今日は建治寺の登山口のある入田より二つ手前の町、上八万にある成田山不動尊四門寺にお参りに行ってきた。建治寺は急坂をかなり登った(標高はそんなに高くないが70のジジイにはきつかった)山の上にあるが、こちらは山に抱かれた谷の入り口にあるため参道の手前まで自転車で行けて楽だった。
ググルマップの鳥観図で見るとこんなところ、標高が低くて登らなくてよいのがわかる。
村道から少し外れて山の方へ行くともう見えてきた。どこからともなくあらわれたニャンコが先導してくれる。
遠くからでも銀杏の喬木が目立つ。葉っぱはほとんど落ちているが下は落葉で真っ黄色の絨毯を敷き詰めたよう。
境内にはなぜかニャンコが5~6匹いる。ここから1Kmびゃぁ下流(この辺りも園瀬川流域に当たる)の星河内(ほせごうち)川合流付近にある王子神社は別名「猫神さん」といい猫がたくさん境内にたむろしているが、ここのお寺も「猫の寺」というのかしらん?帰りし、犬の散歩をしている地元のおばさんに寺と猫の関係を聞いたが、特に意味はないそうでただ皆がかわいがるから集まってきているようだ。
猫好きのオイラ、さっきの案内してくれたニャンコの写真を撮る。
手水で清め、お数珠を取り出し参拝する。ふつう参拝するときに唱える真言(慈救呪というらしい)は
『ノウマクサンマンダ バザラダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン』
正式にはどうなのかわからないが三遍唱える。
今年になって市内の大滝山のお不動さんによく参るのでこの真言も覚えてしまってそらで言えるようになった。意味はよく分からないがおいおい勉強して知りたいと思う。
境内の動画 さっきの猫とは別の白猫が銀杏の絨毯の上で猫ダンスをしていた。
ググルマップの鳥観図で見るとこんなところ、標高が低くて登らなくてよいのがわかる。
村道から少し外れて山の方へ行くともう見えてきた。どこからともなくあらわれたニャンコが先導してくれる。
遠くからでも銀杏の喬木が目立つ。葉っぱはほとんど落ちているが下は落葉で真っ黄色の絨毯を敷き詰めたよう。
境内にはなぜかニャンコが5~6匹いる。ここから1Kmびゃぁ下流(この辺りも園瀬川流域に当たる)の星河内(ほせごうち)川合流付近にある王子神社は別名「猫神さん」といい猫がたくさん境内にたむろしているが、ここのお寺も「猫の寺」というのかしらん?帰りし、犬の散歩をしている地元のおばさんに寺と猫の関係を聞いたが、特に意味はないそうでただ皆がかわいがるから集まってきているようだ。
猫好きのオイラ、さっきの案内してくれたニャンコの写真を撮る。
手水で清め、お数珠を取り出し参拝する。ふつう参拝するときに唱える真言(慈救呪というらしい)は
『ノウマクサンマンダ バザラダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン』
正式にはどうなのかわからないが三遍唱える。
今年になって市内の大滝山のお不動さんによく参るのでこの真言も覚えてしまってそらで言えるようになった。意味はよく分からないがおいおい勉強して知りたいと思う。
境内の動画 さっきの猫とは別の白猫が銀杏の絨毯の上で猫ダンスをしていた。
2019年12月6日金曜日
建治寺にお参りに行った
車で一度お参りしたあと、日を改めて今度は登山も兼ねて建治寺へお参りに行ってきました。徳島駅でバスに乗り36分間乗車し入田のバス停で下りる。バスを降りたところが遍路道(徒歩の参道)の入り口だからわかりやすい。
歩いていると何十メートル間隔でこのような石仏が現れてくる。よく見ると十番切幡寺の千手観音の御本尊石仏だ。横は金剛杵をもった僧形なのでたぶんお大師様(弘法大師空海)であろう。一番さんの霊山寺は見落としたがふもとから札所巡りの順番通り八十八のこのような石仏が寺までの遍路道に配置されているのだろう。だから遍路道を登っていてあとどれくらいで本堂に着くか路傍の八十八ヶ寺本尊の石仏を確認すれば、自分がどのくらい進んでいるかわかる。この少し手前で本堂直通の道と、建治の滝・行場を経由する道に分かれる。私は滝行場経由の道を選ぶ。
進むにしたがって道が荒れてきて、谷沿いの遍路道などはほとんど消えてしまって大きな石のゴロゴロしたただの枯れ谷になってしまっている。結局そこで道を間違ってしまってしばらくして引き返した。このまま山の中をさまようのかと心配したが、道なき道のしるべになったのは八十八ヶ寺石仏だった。道とも思えぬ急傾斜の山を登りながらその石仏が見えてくるとその番号を数え、ああ、間違っていなかったと安心できた。
植林の手入れをするひともいないのか、落ちた枝や大風で吹き倒された倒木が道をふさいでいたり、足に絡みついたりで歩きにくい。また道を整備する人もいないのでところどころ崩れて道がなくなっている(大昔はこれが正式な参拝道だったが)。危険につき通行止めとなってもおかしくないほどの荒廃ぶりだった。
急傾斜の谷筋を登ったところに建治の滝があった、下左写真を見てもわからないくらい流れ落ちる水流は細い。誰もいないがここは滝行を行うところだ。横には不動堂があり(この不動堂の横奥に滝と滝つぼがある)、お堂を参拝する。
そこからまたしばらく急坂を上るとようやく本堂が見えてきた。境内は紅葉が美しい。
眺めも良い。鮎喰川、徳島平野、吉野川、紀伊水道まで見える。
遍路道から境内に入ったところにはお不動さんの御尊像がある。四国三十六不動の一つという、まずそこに参拝する。
そして本堂にお参りする。右が本堂、左が大師堂(厄除け大師)
鐘楼の紅葉の色が一番きれいだった。左下に見えているのはこの寺の縁起で有名な貞阿上人の供養塔。
大師堂横にあった建治寺縁起の説明板
帰りは広くて舗装されている車道の参拝道を帰ってきた。
歩いていると何十メートル間隔でこのような石仏が現れてくる。よく見ると十番切幡寺の千手観音の御本尊石仏だ。横は金剛杵をもった僧形なのでたぶんお大師様(弘法大師空海)であろう。一番さんの霊山寺は見落としたがふもとから札所巡りの順番通り八十八のこのような石仏が寺までの遍路道に配置されているのだろう。だから遍路道を登っていてあとどれくらいで本堂に着くか路傍の八十八ヶ寺本尊の石仏を確認すれば、自分がどのくらい進んでいるかわかる。この少し手前で本堂直通の道と、建治の滝・行場を経由する道に分かれる。私は滝行場経由の道を選ぶ。
進むにしたがって道が荒れてきて、谷沿いの遍路道などはほとんど消えてしまって大きな石のゴロゴロしたただの枯れ谷になってしまっている。結局そこで道を間違ってしまってしばらくして引き返した。このまま山の中をさまようのかと心配したが、道なき道のしるべになったのは八十八ヶ寺石仏だった。道とも思えぬ急傾斜の山を登りながらその石仏が見えてくるとその番号を数え、ああ、間違っていなかったと安心できた。
植林の手入れをするひともいないのか、落ちた枝や大風で吹き倒された倒木が道をふさいでいたり、足に絡みついたりで歩きにくい。また道を整備する人もいないのでところどころ崩れて道がなくなっている(大昔はこれが正式な参拝道だったが)。危険につき通行止めとなってもおかしくないほどの荒廃ぶりだった。
急傾斜の谷筋を登ったところに建治の滝があった、下左写真を見てもわからないくらい流れ落ちる水流は細い。誰もいないがここは滝行を行うところだ。横には不動堂があり(この不動堂の横奥に滝と滝つぼがある)、お堂を参拝する。
そこからまたしばらく急坂を上るとようやく本堂が見えてきた。境内は紅葉が美しい。
眺めも良い。鮎喰川、徳島平野、吉野川、紀伊水道まで見える。
遍路道から境内に入ったところにはお不動さんの御尊像がある。四国三十六不動の一つという、まずそこに参拝する。
そして本堂にお参りする。右が本堂、左が大師堂(厄除け大師)
鐘楼の紅葉の色が一番きれいだった。左下に見えているのはこの寺の縁起で有名な貞阿上人の供養塔。
大師堂横にあった建治寺縁起の説明板
帰りは広くて舗装されている車道の参拝道を帰ってきた。
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