2019年5月17日金曜日

春の旅行 その5

20140430

花の旅
別府から由布岳を横に見てずっと山岳地帯を走ります。高原が多いせいかそこここにまだ満開の桜がありました。3週間も前に見た桜がまた見られるなんて、感動します。
 しかしいたるところに桜があるので終いには何の感慨もなくなりました。
 阿蘇へ行く途中の高原でこんな場所に寄りました。

今日の徳島の花

春の旅行 その3

 20140427

神と仏の国
 豊後国には仏教渡来以前の神々とその神社が残っている。そのもっとも大きな神社が前のブログで紹介した宇佐神宮である。
 じゃあ、この神社の神の性質は太古の信仰当時のままか?と問えばそうとは言い切れない。長い年月の間に少しづつ変容してきていると見た方がいいだろう。それは6世紀から始まった仏教の受容によって神の性質も礼拝方法も影響を受けたからである。
 その影響を表す一つが江戸時代まで神社の境内にあった神宮寺の存在である。神社でありながらその域内に寺も存在していたのである。神仏習合の象徴と見ることもできる。
 年月とともに神や仏が変容したり、また他の神仏から影響を受たりするのは日本の宗教の特色の一つである。それだからといって、まったく違った神や仏に生まれ変わるわけではない。私という人間が成長とともに環境や他人から影響を受けて少しづつ人格を変化させていったとしても私が別の人間になるわけではないのと同じことである。
 平安時代になると人々は極楽浄土信仰の影響を受け阿弥陀信仰が盛んになる。今回行ったのはその中で有名な寺、真木大堂である。中の本尊は、阿弥陀如来である。

 真木大堂の外観
内部の阿弥陀如来像
真木大堂の説明版
 他に阿弥陀信仰の寺としては国宝の富貴寺大堂があり、ここも今回訪れました。
富貴寺山門
 国宝のお堂はあとで動画をご覧ください。
 この地方は石仏や磨崖仏その他石の供養塔の類が多いため、今に残る神や仏も多いと言うことができる。木などで作ってあれば朽ちてしまえば、いったいどんな神仏だったかわからなくなりますからね。
 このように古い神仏も後からやってきた新しい神仏もどちらも相手を滅ぼすことなく仲良く共存してきたのがこの国です。おかげで神仏は増え続けます。しかし、唯一、例外の神がいました。この神はこの地方でけっこう流布し(ここは16世紀キリシタン大名の領地だった)、盛んになりますが、後に徹底的に弾圧されて根絶やしになります。それはキリシタンの神です。他の神仏は歴史の風雪に耐えて残ってきたのに、この神だけ滅ばされるのは無慈悲という気もしますが、他の神仏は他の神仏に対して融和的で共存できる性質でしたが、唯一神で厳格な教義を持ったキリスト教は他の神仏と共存することは許されませんでした。そのため結果的には、天下を統一した幕府の宗教政策に合わず弾圧を受けるわけです。これは他の神仏を全否定するキリスト教に対して土地の神々が反撃したと見ることもできますね。
 そんなわけでキリスト教関係の遺物はほとんどありませんが、杵築市太田にこのような隠れキリシタンと言われている墓があります。
 他に国東半島には下のような石塔が数多くあります。これは仏教関係のモノです。
 また仏となる以前の修行中で最も高いステージに達した人を羅漢といいますが五百人の羅漢石像も見学しました。

 最後に磨崖仏、五百羅漢石像、富貴寺大堂を動画でご覧ください。

春の旅行 その2

20140426

豊肥の旅
 豊肥の旅といってもおならをかましながら旅をしたわけではありません。まず九州の古代から区分されている地方地図をご覧ください。今日の県別と違って5つに分かれています。黄色が「つくし・筑紫」、緑が「豊の国」、赤が「肥の国」、そして紫が「日向か・ひむか」、茶が「熊襲あるいは球磨、隼人の国」です。
 上図の地図でいうと今回行った旅は「豊の国」と「肥の国」です。それで豊肥の旅と言っています。古代に豊(とよ)の国、肥(ひ)の国とわかれていた国は、奈良時代以降律令制の地方区分にしたがい、豊の国は二つに分かれます。豊前、豊後に、そして肥の国も肥前、肥後になります。私が回ったのはその中の豊後、肥後の国です。(※このように古代一つの国だったものを2~3の国にわけるのは他にもあります。例えば吉備の国は備前、備中、備後に、越の国は越前、越中、越後に、)
豊の国
 豊の国の特徴を上げるとすると歴史が古いことです。もちろん日本60余州(旧国名)どの地方にも古代からの歴史は存在しますが、歴史として今我々が認識するためには当時の様子がわかる文献、あるいは歴史遺物がなければなりませんね。古代を知る文献には古事記、日本書紀がありますが、これは中央の政権のあったところが中心です。全国通津浦々の歴史を網羅しているわけではありません。もし全国の各地方をそれぞれ一冊にして編集した歴史書物があれば地方の歴史がよく知ることができます。飛鳥時代までの古代にはさすがそのようなものはありませんが、奈良時代になると各地方のそのような歴史、伝承、その他をまとめた本が地方の数だけ(つまり60余)編集されます。
 それが各国によってつくられた『風土記』です。もちろんワイらの故郷の古代を知ることができる阿波国の風土記』も作られました。ところが大変残念なことに60幾つかあった各国の風土記は1400年もたつうちに次々と失われ(もちろん写本も)、今はわずか5つの国の風土記が残るのみです。その5つとは、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残る。その他の国の風土記も存在したと考えられているが、現在は後世の書物に逸文として引用された一部が残るのみである。
 つまり日本には60余国あるが古代を知るうえで最も役立つ風土記は上記の5つしか残っていません。この5つの国が古い歴史を今に伝えてくれているために、他国に比べ古代のことがよくわかるわけで、そういう意味でこの5国は歴史が古いともいえるわけです。この中に今回行った豊後の国が含まれています。
 他にこの豊後の国の特徴を二つ挙げると、伊勢皇大神宮や出雲大社と同格といっていいほどの古い大きな神宮があるということです。それが『宇佐神宮』です。宇佐は八幡神信仰のルーツです。ここから分霊して京都石清水八幡宮、鎌倉鶴岡八幡宮、その他各地の八幡神社があるわけですから、ここの八幡神は全国の頂点にあるといえます。
 奈良末期、孝謙女帝が皇位を弓削の道鏡に譲ってもよいか迷った時、神意を聞いたのは伊勢皇大神宮ではなくこの宇佐神宮でした。そのことからもこの神社の格の高さがわかりますね。
 もう一つの特徴は石仏が多いことです。それも独立した石像の石仏でなく磨崖仏(崖の切り立った面を彫っている。バーミアンの石仏のようである)が多い。 これもここ豊後の歴史的遺物の特徴である。
 まず宇佐神宮、動画でどうぞ


これは石仏群、石の供養塔の類
磨崖仏(熊野の磨崖仏より)
肥の国


 肥の国は肥沃な土地からその名前が由来している気もするが、私が思うのは、ひのくに、は火の国という意味ではなかろうか。この国の幅広い面積を占める阿蘇は世界最大規模の活火山である。太古には富士山の数十倍の大火山であったが陥没して、大カルデラを作った。今も噴煙を上げている。その火山の影響は火の国全域に及ぶ。広範な火山性大地、そのあとに侵入し適応した植生、そしていたるところにある温泉、その他の火山性の自然、まさにこの肥の国は、火山が中心の『火の国』である。

草千里から噴煙を上げる中岳を望む
詳細はまた次のブログで

春の旅行 その1

20140424
  
春の旅行 その1 ちょうど去年の今ごろは道南東北の旅をしましたが今回は九州を車で旅行しました。
19日 午後四時前に家を出発、愛媛の八幡浜には7時前に着く。まだ明るさが残っているフェリー乗り場で待ち、8時過ぎの別府行のフェリーに乗り込む。午後11時過ぎに着くのでこの日はフェリー近くのスーパー銭湯仮眠室で朝まで休む。
20日 別府のホテルで泊まり
21日 大分県の九酔渓の温泉宿泊まり
22日 南阿蘇のホテルで宿泊
そして昨日、臼杵発八幡浜午後5時着~帰宅は午後9時半になっていました。


 旅行ブログは次回からシリーズでテーマ別にアップしようと思いますのでよかったらご覧ください。

2019年5月11日土曜日

インクライン、南禅寺、抹茶ミルクの話

 先のブログでインクラインを南禅寺見学のついでに見たことは話した。ブログを書きながら「あれは、いつだったかなぁ~」と思い出そうとしてみたが、行ったことは確かだが私が20代の時の大昔の話だから正確な日付どころか、季節も定かには思い出せない。若いころは京都に春や秋の土日によく遊びに行ったからその時かなと思ったりもするが、かすかな記憶ではたぶん夏、7~8月であったと思う。ということは仏教大学の通信課程のスクーリングの期間の休講日に行ったと思われる。通信教育のスクーリングは京都で一か月近くある。課程によっても違うが私は本科生で(4年間で卒業を目指す)あったため、スクーリングの講義も連日びっしり詰まっているわけでなく、休日、休講、それに学生同士の親睦会などがあったりして、わりと余裕があった。これが一年間で資格のみを取得する特科生だと講義は目白押しで休みもほとんどなかった。まあ、その代わりわれら本科生は4年以上かけて卒業単位を取るわけではあるが。

 大学の所在地が京都でそこでのスクーリングなので休日、休講には京都市内や周辺の名所旧跡に行った。専攻が日本史だったので名所、神社仏閣、旧跡などのいわれをあらかじめ調べて回ることは勉強の補強や卒業研究の動機づけにもなるし、たまの余暇の気晴らしにもなる。そんなわけでスクーリングの期間中、南禅寺さんへ行ったのだろうと思う。

 ところで南禅寺さんにはどんないわれがあるか。中世(鎌倉~南北~室町)は禅宗が大いに興隆した時代である。中世の禅宗の特徴は純粋な宗教的活動だけでなく政治活動、文化活動に深くかかわり幕府や守護大名などの上級武士に大きく影響を与えたことである。特に禅宗の中でも臨済宗の僧侶の中には室町幕府の外交にもかかわり(外交折衝を独占的に担っていたといっても過言ではない)、また将軍の政治顧問の役割を担うものもいた。文化の面でも日本の漢文学の発展に大きく寄与して「五山文学」も禅宗の中から生まれた。京都にある禅宗寺院の五山は中世史の研究や勉強にとって極めて大切なぜひ行ってみたいスポットであった。その禅宗・臨済宗五山の別格上位にあるのが南禅寺である。まあ、休日にヒョコヒョコいって別にそこで資料を見るわけではない、文献資料は大学の図書館にそろっているからそうではなくて、日本史の重要な拠点である南禅寺を見て見たい、時間があれば腰かけてなんか史的な空想に耽るのもいいな、そして気晴らしにもなるだろう、というような気持だったと思われる。それともう一つ、当時の20代の私であればちょっと恥ずかしくてブログに書くどころか口にするのも恥ずかしいようなある文学的スポットを見に行きたかったのである。もう死にかけのジジイとなった今から考えると、あれが「なんのぉ、恥ずかしことあるやろ、誰が聞いたかて、立派な動機やないかぁ」と思うがその時はそうではなかった。

 当時、もう半世紀も近く前の青春時代の自分の趣味心情がはたしてどんなものであったか、今振り返って詳細に述べることはできない、仏教のある思想では、人の意識というか自我はろうそくの炎のようなものであるという、点灯してからロウソクが短くなりやがて消えるまで「炎」は一つが燃え続けているように見えるが、その実、芯をよく見れば溶けたロウが灯心を上がってきてそれが気化し燃えることによって炎は持続しているのである、芯に吸い上げられ供給され気化したロウが次々燃えることで炎が持続しているように見えるがそれは厳密にいうと直前の炎とは違っている。いわば生成消滅を繰り返しているのである、と説かれている。なるほどなと思う。そのように考えると半世紀も前の自分が、果たして今の自分と言えるのか?という根源的な疑問もわいてくる。とはいえ半世紀もたつと記憶も不確かで大概消滅したとはいいながら体験した記憶もところどころ残っているので、まったくの他人になっているわけでもあるまい。日々の日常のことは全く記憶にないが、この時、大学のスクーリングで学んでいたことは記憶の断片にもあるし、日本史の資料探しで歩いたことも覚えている。当時傾倒していた趣味や熱中したものもおおまかには覚えている。それは三島文学(三島由紀夫)の全集を全部読もうと思って読書をしていたことである。その三島文学の最高傑作のひとつ『金閣寺』のなかにある非常にエロティックな、しかし見ようによってはこれ以上ない哀切を伴った別れのシーンがある。その部分に大変感銘を受けていたのである。そしてその場所が・・・と、ここまで読まれたら当然金閣寺(ここも臨済宗)と思われようが、その場所は金閣寺でなく上記の「南禅寺」である。

 普通の観光客にとって南禅寺といえば一番知られて有名なのはその「三門」である。歌舞伎にも取り上げられ有名になったが石川五右衛門がこの寺の山門の上から、「絶景かな~」と言ったというので知られている。だから観光客もこの三門に登るのが目的で大勢やってくる。史実かどうか怪しいが、観光名所はそんな場所も多い、観光目的ならば別に構わないだろう。三島の「金閣寺」の衝撃的なシーンも主人公がこの三門に登ったところから始まる。

 大東亜戦争末期の昭和20年の五月、金閣寺の徒弟である主人公(当時16歳)は同じ寺の徒弟の友人と二人で南禅寺の山門に登る、上部の南の階(きざはし)から何気なく眺めたものに目をとめた。眼下には「天授庵」の庭や障子があけ放った広い座敷が見える。今、ググルストリートビューの鳥瞰図で見ると南禅寺三門と天授庵はこのような位置関係になっている。

 そこに目もあやな華美な振袖を着た美しい娘が座敷に敷かれた緋毛氈の上に座っているのである。普段でも華やかな振袖を着た美しい娘は目を引くが、時は大戦末期である、異様さが募ってくる。若い女は端然と座り、京人形のように見えた。すると奥から若い軍服姿の陸軍士官が現れ、礼儀正しく50cmほど娘と離れて正座して女に対した。天授庵の座敷でのこの状況である。誰が見てもわかるように若い士官に対する薄茶お点前であろう、女は物静かに廊下の奥に消え、やがて茶碗をもって現れた。作法通りの厳かな手順を取り、士官に薄茶を進めてから元の位置に戻り座った。生きては戻れぬ前線へ旅立つ若い士官とその恋人の別れのひと時であろうと推測される。主人公とその友人二人は目を離さずその二人を三門上から凝視している。男が何か言っている、遠いから何を言っているか聞き取れない。男はなかなか茶を喫しない。その時間が異様に長く異様に緊張しているのが感じられる。女は深くうなだれている。

 ここからは原文を紹介したほうがよいだろう。

 信じがたいことが起こったのはそのあとである。女は姿勢を正したまま、俄かに襟元をくつろげた。私の耳には固い帯裏から引き抜かれる絹の音がほとんど聞こえた。白い胸があらわれた。私は息を呑んだ。女は白い豊かな乳房の片方を、あらわに自分の手で引き出した。
 士官は深い暗い色の茶碗を捧げ持って、女の前に膝行した。女は乳房を両手で揉むようにした。
 私はそれを見たとは云わないが、暗い茶碗の内側に泡立っている鶯色の茶の中へ、白いあたたかい乳がほとばしり、したたりを残して納まるさま、静寂な茶のおもてがこの白い乳に濁って泡立つさまを、眼前に見るようにありありと感じたのである。
 男は茶碗をかかげ、そのふしぎな茶を飲み干した。女の白い胸元は隠された。

主人公二人は衝撃的なこのシーンに見入ったが、あとからこれは、士官の子を孕んだ女と、出陣する士官との、別れの儀式であろうと推測する。

 「金閣寺」といえばノーベル文学賞候補にも挙がった、高校の教科書にも取り上げられるような純文学の最高傑作である。その一シーンにこんなエロティックな場面があることに初めて「金閣寺」を読んだときは驚きであった。官能的で性的な暗喩を含む表現はいろいろあるが、男女二人の別れのシーンによくまあ三島はんもこんなこと思いついたなとおもった。厳しく簡素な薄茶お点前の儀式にこんな思いがけないことが展開するとはこれ以上ない官能的で濃密な別れである。やはり天才といわれることはあるなと感心する。

 そういうわけで私の若かりし頃、京都にスクーリングに行っていたちょうどよい機会でもあり、三島文学にはまっていた時でもあってこの衝撃的な小説の一場面の舞台であるその南禅寺に行ったのである。それから約半世紀がたった。歳がいって純粋な感動も薄れ、いらぬ知識や、ショ~もない経験を重ねると、いまこの原文をよんでも若かったころの感動は味わえなくなっている。それどころかいびつに歪んで折れ曲がった人生を経験して素直でなくなったジジイになるといろいろ突っ込みを入れたくなる。士官の子を孕んだ娘との別れということだが、乳を揉みしだいて、はたして乳がほとばしり出るか?男なのでハッキリ断言はできないが、子を孕んでいるとあるが主人公が見た限り、臨月ではなさそうで妊娠しているだけで母乳が出るのだろうか?もっとも、主人公は、見たとは云わないが・・とあるから、主人公の頭の中のみで見えたイメージに違いない、しかし、士官はそれを押し頂いて飲むから、士官、娘、それにそれを見た主人公も抹茶の中に乳がほとばしり混ざったことを前提に行動しているのがわかる。実際に乳がほとばしったかどうかは恋人二人にも主人公にも重要ではないのである。

 文学的事実とでも言うのだろうか、こうゆうよく似た表現は古典にもある。もしかすると三島由紀夫はこの古典からこの部分を取り出し換骨奪胎して使ったのかもしれない。それは古典文学『大鏡』にある次の話である。
 藤原道長が天皇の妃として宮中に上げている妹、藤原綏子・すいし、が一廷臣と不倫をして、噂となり宿下がりをしたが、どうもその不倫相手の子を妊娠しているのではないかと疑われ、兄として道長がそれを確かめに行くのである。その確かめ方がすごいのである。
 兄道長が妹の装束の胸を開け乳房をだし、それを揉みしだくのである、そうすると兄道長の顔に乳がサッサッと走りかかるとある。それで妊娠があらわとなるのである。
 古典をいろいろ読んでいてもこの大鏡のこの場面ははかなり衝撃的で印象深いシーンであり、何十年たっても忘れられるものではない。これもツッコミを入れるとただ妊娠しただけでは母乳はほとばしり出まいといわれるが、「金閣寺」の小説と同じように大鏡の物語の中での妊娠を劇的に示す文学的表現なのであろう。こういうところから古典文学に造詣の深い三島がこの場面を金閣寺の中に使ったのかもしれない。

おまけ
先日文化の森の図書館前に『眠り猫』がいた。近づいても知らん顔でピクリとも動かないから彫像のようだ。「おまいは、東照宮の眠り猫か!」

2019年5月9日木曜日

インクライン

 友人が蹴上のインクラインの桜並木をテレビで見たそうで、桜並木がとても美しく印象深かったので一度行きたいなといってた。友人はインクラインへ一度も行ったことがないそうで並木にそって廃線のレールがあったから鉄道と思っていたそうである。まあもっともな話で錆びた鉄路を見れば誰しも鉄道の廃線と思うだろう。京都の住人でさえ若い人はインクラインはいったいどういうものかを知らないのだから四国にいて一度もインクラインを訪れたことのない人が誤解するのも無理はない。というのも昭和23年頃までには琵琶湖疎水の水運の一環としてあったインクラインはその役割を終えて廃止になったから往時のインクラインの稼働を直接見て知っている人は80歳以上になるだろう。

 上記で水運の一環として・・と説明したように琵琶湖から京都の鴨川水系まで明治23年に完成した琵琶湖疎水(主は京都への用水の供給であって水運は従である)を運河として利用したのであるが、ご存知のように琵琶湖から京都までは山あり谷ありでそこを通る疎水には途中長大なトンネルがいくつもあり、その中を水が流れている。そこに船を通すわけであるが琵琶湖水面と京都盆地は落差もあるため、運河としてはできるだけ水平に近い形で利用しなければならない。そのため落差には『閘門方式』といって船を水門と水門で区切った閘室に入れ、その閘室の水を排水したり増水したりして、船を低い方や高い方へ進める方式があり琵琶湖疎水の水運でも何か所もその閘門が設けられている。しかし落差が大きくなると閘門方式は無理となる。終点に近い南禅寺あたりでは勾配が15分の1あるため運河からインクライン(鉄路の上を走る台車に乗せるコース)方式で船を運んでいる。蹴上船溜りから南禅寺船溜りの延長640メートルを結ぶ路線(鉄路)である。そのインクラインの廃路に沿っての桜並木がきれいなのである。

 往時、船を台車にのせてインクライン上をこのように運んでいた。

 地図の青の矢印が廃線になったインクライン

 私は20代の時にこのインクラインを南禅寺に行った時見たが桜の時期ではなかった。今、ネットのググルストリートビューでみるとうれしいことに桜満開の時に地図作成したようでご覧のようにストリートビューにそって美しい桜並木が見られる。


 なお自分でググルストリトビューの地図で桜並木を見たい方は下をクリックすればググルの地図が出てきます。(地図が出たら右下の人型をクリックし、青のストリートラインを出し、蹴上船溜まりあたりをクリックしてインクライン沿いの景色の移り変わりを楽しんでください)

2019年5月4日土曜日

小松島~牟岐へ県南の日帰り小旅行

 小松島港は旅客鉄道も航路も廃止になって久しい。南海汽船が出発した埠頭は今は海上保安庁の巡視船の停泊地になっている。朝八時過ぎ、巡視船の乗組員が訓練をしていたので撮影した。

 小松島のバイパス沿いに旗山がある。義経上陸地でここで旗揚げをしたそうだ。小さな山になっていて義経の騎馬像がある。

 阿南市の南西に午尾の滝がある。今まで行ったことがなかったので滝見物に行った。滝へ行く道の家の軒下にこのように五月人形が飾られている。勝浦のストリート雛飾りを髣髴とさせる。多分、あちらの雛飾りをまねたのではないかと思う。


 午尾の滝

 そのあと日和佐を経由して阿波サンラインを走る。展望台からの眺めが雄大で素晴らしかった。


 午尾の滝とサンライン第一展望台からの動画