2023年6月30日金曜日

6月30日 雑感

  蒸し暑い、外は雨、週末の金曜でDVDが割引なので傘を差して歩いて借りに行く、小雨になるときはあっても、油断は出来ない。ビショコになるほど間欠的に降ってくる。足先の衛生のため、足が蒸れるのは良くない。耐水性の靴に靴下をはいた足を突っ込むより、素足にサンダルで歩く。若い男の子は綺麗な短靴下とこれまたまっさらピンピンげぇな靴を履いている。これはこれで清潔なだろうが、放っておくといつの間にやら長時間はいた靴下で、かつ靴もヨレヨレになるジジイには、雨で地面ビショビショの場合は素足でむき出しの履き物が向いている。今日のワイの足は風通しのよいサンダルだが、これより素足に高下駄が雨の日にはいっちょイイ、風土に培われた高下駄が雨の日には向いている。

 若い男の子、なにやら顔の口の前辺りに、大正末年ラヂヲ放送が始まったスタディオの初期のマイクロフォンのようなものを当てている。🔍 こんな形である。「ありゃ、何んぞいな?」、「中継放送でもするんかいな」と思やぁ、これがハンディな小型扇風機、充電式らしい、若い子にファッションとして流行しているんか知らん?そういや汽車の中でよぉ見るようになった。ワイはジジイらしく扇子をもってパタパタ、こっちのほうがセンスあるぅ~。

 今日は6月最終日、ありゃリャンリャァ、もう一年半分過ぎてもぉた。今年の年始、物価は上がるし、年金はチョボットやし、このまま貯金を取り崩して行けば二年でアウト、ええわい、あと二年生きたら未練なく死んでこまそ、とおもったが時の流れは早い早い、このままやとあっちゅうまに期限が来てまうやないかぃ。あと一年半とすると満74歳、算えで75歳か、我ながらよ~生きたわとおもうが、いざその時がせまると命は惜しくなるだろうなぁ。75歳を末期とするとそういや、明日は75歳で亡くなったモラエスさんの命日「モラエス忌」じゃ、彼の晩年の随想を読んでいると身につまされますわ。このことについては5年もまえからブログに書いていたが、ヤフーのブログのアホだらめ、一方的にブログを廃止しよった、テキストは(文)は残っているが、貴重な写真や絵図は消えてもた。

 今日のことを昔の暦風に言えば「水無月の晦日(みそか)」、なにが水無月なもんか、水は足るびゃぁあるわ、そして厚い雲を突き抜けりゃぁ、今夜は満月前の膨らんだ月が見れるわ(晦日は月はまったく欠けてでないという本来の意味)、もう一つ水無月の末日は昔は半年の厄を払う「水無月祓え」の日、真実!お祓いして厄落としたいわ。明日から後半年がはじまる、エエことあるかな、ないじゃろなぁ。

 面白くないニュースばっか、の中、ちょと気色の良くなる話題はアメリカの大リーグでの大谷翔平の大活躍、今日はいわゆる「なおエ」の日で、大谷はアメリカリーグぶっちぎりのホームラン数第一位をキープしながら今日はさらに一本加えて29本をマークしたが、チームは負けてしまった。しかし、すごいなぁ、顔はイイし、性格もいい、何よりあの均整の取れた体で身長は1m93cmでムキムキマッチョ、まったく日本人離れしてる、しかし顔つきは金太郎や武者人形のような典型的な日本の伝統的な若者顔、よくぞこんな日本人が生まれたわと同じ日本人として嬉しくなる。思えば、終戦後、鼻を垂らし栄養失調でガリガリのチビの子どもたち、巨人のようなアメリカ人の乗るジープの後をその子どもが走り「ギブミィ、チョックレ」といった惨めな時代を考えると、隔世の感がある。大谷翔平をみるワイの気分、「超できのイイ可愛い孫を見る気分」

 くさぐさ嫌なこと多いし、心身の衰えも激しい。でも足をひこずってでも自由に歩けることはいいなぁ、杖をたよりに弱ろぼいながらでも、死の瞬間まで歩きたいなぁ、なにも海山千里を行くことだけが巡礼修行ではあるまい、気息奄々で苦痛に苛まれながらの歩き、死の直前の一歩はお四国周りに匹敵するだけの修行の巡礼行とはならないか?遍路旅はさまざま、自分で見つければよいんじゃないかな。お大師さん、教えてつかい。

上板町佐藤塚の大師堂

  昨日おまいりした上板町佐藤塚の大師堂は単体の大師堂である。大師堂といえば最近では四国遍路の隆盛もあり、八十八ヶ寺の本堂とともにかならず付随している大師堂を思い浮かべるが、単体の大師堂もある、以前のブログでも紹介したとおりである。大師堂はその本尊として弘法大師をお祀りしている。他の仏様も一緒にお祀りしていてもそれは脇仏となる。中世そして近世にわたり弘法大師信仰は広く庶民のあいだにひろがった、とくに四国では弘法大師のふるさとでもあり、また最も重要な修行地がここに存在したこともあり、大師信仰はさかんであり、大師堂は多く存在する。現在でも地元の人の信仰を集めている(高齢者が多く、今後の維持に懸念はあるが)

 上板町佐藤塚の大師堂は吉野川の六条橋を渡って土手を降りたすぐそこにある。我が家からは遠い。しかし鉄道もなく、バスの便も悪いので自宅から自転車で向かう。自転車で行くには大変な危険を伴うのが六条の橋である。狭いが自動車の交通量はすこぶる多い。人が一人やっと通れるほどの側道幅しかなく、自転車で渡るにはかなり怖い(命知らずの若者やクソ度胸のある人は通るが)。そのため六条の橋の手前にある給食センターに自転車を置いて歩いて怖々わたる(大型トラックが紙一重で通るが風圧がすごい)。

 何人もの犠牲者をだし、やっとのことで自転車道兼舗道をつくる決断をしたようだ。下のように橋の横は舗道を支える鉄骨が作られている。真ん中までわたって下を覗くと足場が作られていて若い鳶職のあんちゃんがいる。ワイが下に向かって「いつごろできるんぇ~?」と聞くと、かなり先だという。数年もしかすると5年かかるかも、あんちゃんも詳しいことはしらないようだ。


 渡り切ったところの土手を右へ少しいくと橋も全然無かった江戸時代の渡し場「六条の渡し」の碑がある。


 そこの土手を降りたところに大師堂がある。瓦葺きのけっこう立派な大師堂である。



 「法界山」と読むのだろうか山号の額がかかっている

 拝礼場所の横にはお不動さん、光明真言碑、青面金剛さん(庚申さん)の石仏があった。新しいお不動さん以外は風化が進んでいて崩れて文字や文様がわからない部分がある。


 内部は六畳ほどの畳が敷いてあり、前に大きなお大師さまの尊像があった。左手は念珠を握り、右手は五鈷杵を握っているはずだが五鈷杵はないようだ。


 動画

2023年6月25日日曜日

平等寺~薬王寺・日和佐道を歩く(後半)

  平等寺から薬王寺までの遍路道を二回に分けて歩きました。一回目の平等寺から由岐までは以前のブログで紹介しました。昨日は由岐から日和佐・薬王寺まで歩きました。歩いた道は下の地図に示す「四国の道」とほぼ重なっています。


 途中の写真はスライドショーにまとめました( 三枚目に「大浜海岸」と出てきますがこれは「田井ノ浜」の間違いです

 

 絶景の動画

2023年6月19日月曜日

善通寺から弥谷寺まで五ヶ寺を歩いてまわりました

  昨日は讃岐にある札所・善通寺75番から逆向きに74~73~72~71番弥谷寺まで五ヶ寺を徒歩で参拝しました。

 75番札所善通寺はお大師さんの誕生の地で有名で、その寺域に大師誕生の産屋があったと伝えられています。その場所は御影堂の奥の院・誕生院といわれている所です。この寺は本山でもあるので規模も大きく、特に五重塔は圧巻でこれに勝るのは京都東寺の五重塔くらいじゃないだろうか。

下は善通寺本堂、本尊は薬師如来さまです

そして本堂の前を過ぎて広い境内をずっと行くと「御影堂」がある。この奥の院が大師誕生の場所である。



本堂から御影堂にいくとき小さな橋を渡るがその下の水面には青蓮華の花がさいていた。これは仏教では神聖な花で観音菩薩が手に持っている。アジャンタの壁画観音像(インドにある)もこの青蓮華を持っている(右手に注意)。ハスの花は大輪で白や薄い桃色が多い。このような青蓮華は大きなハスの仲間というより「睡蓮」の種類であろうが、観音様がこの花を手に捧げるときは「青蓮華」と言っている。奥の院(御影堂)行くとき橋を渡っていてふと下を見るとこの青蓮華があったので、そのことを思い出し写真に撮った。左はアジャンタの観音さん壁画、青蓮華はハスのような大きな花でないことがわかる、壁画では色が褪せているが青蓮華である。その橋の下の水面の青蓮華である。

 こちら讃岐は本日は曇りで、照りつける太陽が出ていないだけ歩くにはよかった。気温も最高は27~8℃びゃぁで、まずまずの日よりである。善通寺が75番でここから逆順に進むから、次は甲山寺74番である。遍路ガイドブックをもって遍路道を探すが、この田舎者のワイからすると善通寺はかなり大きな都会(大学もありゃぁ、自衛隊駐屯地もある)、遍路道や道しるべを見つけるのは、このような都会ほど難しい。いっそ平野や山の道の人少ないほうが見つけるのは容易である、町中で結局その遍路道がわからなくなってしまった。町の人に聞くが案外地元の人でも知らないもので、結局かなりヒンズに歩いて、ようやく善通寺市郊外で遍路道をみつけた。善通寺から甲山寺までは1.5kmとあるが倍くらいは歩いたと思う。

 で次は74番札所甲山寺
 山門の横に曼荼羅があったが、近づいてよく見るとなんと!これが仏さんでなくすべて「猫」の猫曼荼羅、よっぽど猫好きの信者が奉納したものだろうか。胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅があったが下は胎蔵曼荼羅の中台八葉院、なるほどニャンコばかりだ。
作法通り本堂(本尊・薬師如来)と大師堂をお参りさせていただく。先に善通寺をお参りしたからの印象か、こじんまりしたどこにでもあるようなお寺であった。
境内にはこのようなウサギの石像があった。「甲山のうさぎ」として信仰を集めているようだ。掲示にそのいわれが書いてある。
次の出釈迦寺を目指して歩くが、この辺りは水田地帯なので遍路道もわかりやすく、平坦な道なので出釈迦寺までの距離3.5kmも楽々歩けた。まわりではこのように水田のしろかきをしていてこれから田植えのようだ。徳島より遅い田植えだ。

 次は73番札所出釈迦寺
 甲山寺からは3.5km、最後の500mくらいは上りの道である。甲山寺を出てため池の横を通るあたりから、低いが特異な形をした山が迫ってくる。標高の割には急な山容である。この山が昔お大師さんが捨て身の修行をしたいわゆる捨身ヶ嶽ではないかと思いながら歩く。その通りで二つの山に囲まれたところに出釈迦寺があった。後方には捨身ヶ嶽・我拝師山があり、山の上には禅定院の建物の屋根が見える。
 出釈迦寺山門
 本堂(本尊・釈迦如来)、横が大師堂、型どおり参拝する
 境内に西行の歌碑があった。この近くで西行は数年過ごしたといわれている。知らなかった。西行は昔仕えた崇徳上皇が讃岐白峰で悶死した後、鎮魂・供養のため讃岐を訪れたことは知っていたが、ここに長らく滞在したのは知らなかった。近くにその滞在地といわれる「西行庵」もあるが今回は行けなかった。下はその西行の歌碑である(記念の建立は江戸時代)
境内の修行大師の後方にある山の中腹に禅定院が見えている。
同じく境内にある捨身ヶ嶽遙拝所、上まではかなり険しいが、ここからその禅定院、そして下に崖を望む捨身ヶ嶽に登れる。しかし安易にかんがえると怪我をするので注意(もちろん私は登らなかった)。
このような大師伝説がある。
 大師幼少の時、身を捨てても仏道に邁進したいと思い、この絵のように身を投げた、するとその願いに感応したお釈迦様があらわれ、天女に抱き取らせ「一生成仏」とのたまい、かすり傷一つおわなかったそうである。境内にはその当時の幼少のお大師像「稚児大師」が祀られている。このように大師が捨身したとき釈迦が出現したため、この地の寺を「出釈迦寺」と名づけたのだろう。

 次は72番曼荼羅寺
  出釈迦寺から0.5kmくだると曼荼羅寺である。大師が唐から持ち帰った胎蔵、金剛界両部曼荼羅をここに安置したので寺にこの名がつけられたようである。ご本尊は大日如来さま
 山門
 境内、右が本堂、左が大師堂
 この寺には大師お手植えの「不老の松」があり1200年以上の樹齢があったが枯れてしまい、その松で彫った大師像は「笠松大師」として信仰を集めている。 

次は最後の71番弥谷寺
 この寺は一ヶ月前に参拝したのだが、この寺域にある有名な「かなぶっさん」(金剛拳菩薩)をお参りしたというはっきりした記憶が無いので、もう一度(今回はその金剛拳菩薩さまのみ)お参りしてきました。
 曼荼羅寺から4kmとなっているのですが、途中で山道に、それも竹藪の細い山道に入り、勾配も急になるのでかなりキツかったです。途中スモモをもいでいるおばあさんがいて、お接待にスモモをあげるとすすめられましたが胃腸の調子が良くなく謝辞しました。でもありがたいことです。
 最初の歩きはこのようにいくつもあるため池に沿った道を通っていたので楽でしたが・・
急勾配の竹藪の道になり、息も絶え絶え、途中で休息を取っていると、藪の中なので蚊にアッチャコッチャ刺され、安息出来ません。苦しくともすぐ歩き出しました。
ようやく弥谷寺境内にある金剛拳菩薩につき、お参りすることが出来ました。金剛拳菩薩さまってあまり聞いたことがない御名かもしれません。この菩薩さまは金剛界曼荼羅にたくさんいらっしゃる金剛系菩薩さまのお一人です。病にきくそうで江戸時代から信仰を集めています。
金剛拳菩薩というだけに手の形が特異です。確かに両手で拳(拳固)をつくり重ねているように見えます。

 以上5ヶ寺を歩きましたが、この弥谷寺からさらに3.3kmびゃぁ歩いてJRみの駅まで行き、ようよう今日の「歩き」は終わりました。

2023年6月17日土曜日

あじさい寺

  昨日、鳴門の土佐泊(小鳴門橋を渡ったところ)にある潮明寺に友人とアジサイを見に行ってきました。潮明寺は古義真言宗派の寺で曼荼羅霊場(新四国の)となっています。ご本尊は十一面観音です。

 山門を入るとすぐこのようにアジサイが目につきます。境内もほぼアジサイの花ばかりです。




 アジサイの数が多いだけでなく、これもアジサイか?というようないろいろな種類のアジサイがありました。

 またこの潮明寺は鳴門・土佐泊にあり、平安の歌人紀貫之が土佐国司の任が果てて帰るとき綴った日記は「土佐日記」として有名ですが、そのとき泊まった湊がこの付近にあったということで、その時の和歌の碑が説明板とともにこの潮明寺境内にあります。

 また境内の銀杏の木には埋もれるようにその木に彫られたお大師様の像があります。銀杏の成長に従ってだんだん樹皮が巻いて埋もれていくようです。これも信仰の対象で銀杏の木の前には拝礼の壇があります。(後方の石壁には十三仏さんが浮き彫りされています

 境内の動画

2023年6月15日木曜日

6月15日 弘法大師誕生会(たんじょうえ)

  今日のローカル紙(徳新)を見られただろうか。見開き2ページの全面がこれ


 弘法大師空海特集、見出しには1250年とある。誕生してからの「数え」の年数が1250年である。実は今日は弘法大師が誕生したといわれる日である。記事の中でも本日はお大師さんの誕生日にちなんで、とあるから誕生日記念の特集記事なのだろう。

 それにしても1250年も昔に生まれたのに、さすがお大師さんや、ちゃんと誕生の年月日もわかっているのか、と思われようが、これはキリストの誕生日が本当のところわからないように、お大師さんの誕生日がこの日であるというような証拠の「史料」はない。生まれた年については続日本後紀などの公的な史料から宝亀五年(西暦774年)ということはまず確かなことだが、月日となるとわからない。

 では何を持って6月15日としたかというと、これは仏教の輪廻転生に基づいている。密教は大日如来を第一祖として代々師弟相伝で伝わって来た。わが弘法大師は第八番目の祖となる。お大師さんは第七祖である恵果阿闍梨(中国・唐、青龍寺)から受け継いだが、恵果阿闍梨は第六祖、不空三蔵から受け継いだ。この不空三蔵は南インドに生まれ中国・唐に渡り密教を伝えたと言われているが、その不空三蔵が亡くなったのが6月15日なのである。この不空三蔵は西暦774年に亡くなる。その年はまさに空海の生まれた年でもある。そこで不空三蔵の生まれ変わりが弘法大師空海であると信じられ、空海の誕生日が不空三蔵の命日の6月15日とされたのである。お大師さんの師・恵果阿闍梨のさらに師の不空三蔵の生まれ変わりが、恵果阿闍梨の弟子となる空海である、という関係になる。

 弘法大師は札所の寺のご本尊とならぶ信仰の対象である。札所に弘法大師そのものを本尊と仰ぐところはないが、全ての札所には本堂とともに「大師堂」が必ずある。大師は本尊に勝るとも劣らぬ強烈な信仰を集めている。

 本尊とともにある札所の大師堂ではなく、弘法大師を単体でお祀りしているところが各地にある。「○○大師」と呼ばれることが多い。前のブログの「お水大師」も単体の弘法大師がご本尊といっていいお堂である。

 今日はお大師さんの誕生日ということもあり、そのような単体の大師堂をお参りしてきた。石井町にある「夢つげのお大師さん」である。旧伊予街道沿いの町中にある。


 堂の中には石の大きなお大師像さまがいらっしゃる。お釈迦様の誕生会の花祭りのようにたくさんの花で飾られている。


 天井には遍路札やこのようなものが貼ってあった。

2023年6月10日土曜日

今日お水大師お参りに行きました

  先のブログで「お水大師」に行けなかったことを書いたが、また行く機会もあろうと自分で慰めていた。しかし気になってしかたがない。天気予報をみるとこれから雲が厚くなり夜には雨、そして雨天が数日間続くようだ。そこでおもいきって今日、再度新野駅まで汽車で行き、月夜まで往復して「お水大師」をお参りしてきました。

 行きは先日と違うコース(一部)をたどった。このような道である。目的地までの距離は短いが竹林の山を通るので歩くのはきつかった。



 確かに前より早く月夜の里についた。

 入り口付近に大師お手植えの杉(逆さ杉)がある。

 大杉の横にお堂があり、お大師さまをお祀りしてあるそうだ。これを月夜庵と呼ぶのだろうか。

 調べるとこの建物の横(奥)に数年前まで「庵」のようなお堂があったようだ。この矢印のあたり、今は更地で礎石の石組らしいのが残っている。

 さらに奥に「お水大師」がある。小さなお堂には大師像が祀られ、下は石組みの洞になっていて泉水が湧き出る小さな浅い井戸がある。(水は涸れていた)

 月夜の地名のいわれとなった説明板を探したが、お水大師付近にはなく、そこより300m手前にある、モダンな遍路休憩所にそれに関する説明があった。

 前に来たときもここで休んだがデザインに次のような意味があるのだ。
 天上が円状に開いているのは月のイメージで放射状に伸びる多数の中心柱は光る石の光明(光線)を表している。前回の私のブログのいわれと、ここでの説明とはちょっと違っている。(私の根拠はネットの参照

 まとめの動画

2023年6月9日金曜日

月夜の里 命名のいわれ(大師伝説より)

  前のブログで紹介した「月夜」の地名のいわれです。



2023年6月8日木曜日

昔の巡礼道をたどる、日和佐道、平等寺~薬王寺

  昨日、目覚めは早く午前四時前、前日まで「歩くぞ」と決めていたが、起きると心身のしんどさもあり、やっぱ、やめようか。と布団のなかでグズグズ。ほぼそちらに傾きかけた。しかし明るくなって布団からでて、昨夜用意したリュックやジュラルミンのステッキを見ていると、再び行く気になった。六時に出て汽車に乗らないと計画した時間に新野駅に着かないのでさっさと体を動かし、衣服、持ち物の支度をしていると、行く気が体に満ちてきた。

 新野駅についたのが午前8時すぎ、ここから歩き始める。まず起点寺の「平等寺」に参拝してから(旧)日和佐巡礼街道、すなわち約350年も前に巡礼僧の真念はんが辿った巡礼道をできるだけ正確になぞれるように行くつもりである。(参照は真念はんの書いた「四国遍路巡礼行記」

 平等寺からほぼ南に延びる田園の道を行く。まだどれびゃぁも歩いていないのに早くも足がだるくなってくる。いけるんかいな?と内心思うが、ゆっくり休みながらひたすら歩けばまぁなるようになる、と心を奮い立たせどんどん進む。農作業する人、また自転車で通るどの人も、歩く私に気づけば、例外なく大きく会釈してくれ、中には声をかけてくれる人もいる。歳ぃいって心もねじ曲がり偏屈ジジイのわたしであるが、優しい地元の人の挨拶にこちらも、ありがとうございます、の言葉もでて、なんか嬉しくなり、あるく力が増してくる気がする。

 私が行きたかった里、そして途中の参拝所のある「月夜の里」に歩みいる。ここがその里じゃとわかったのは、バスストップの表示、そして月夜の名を冠した「遍路休憩所(通称・遍路小屋)である。まだ真新しい遍路小屋でしばし休息、飲み物、パンを摂る。 

 月夜の里、大昔からそう呼ばれてきた里ではあるが、なんともロマンティックな名前だ。おまけに月夜の里にはバスの終点があり「月夜行き」のバスが走っている。なんと!宮崎駿のアニメにでも出てきそうなファンタスティックなバスを想像する。歩き始めてしばらくしてその月夜の終点から折り返して町へ行くバスとすれ違ったが、乗客はほとんど乗ってはいなかった。バスストップの時刻表を見ると一日五本、それも火木土は運休という月夜行きのバスである、ますます謎めいた不思議なバスである。月夜という命名のいわれは、弘法大師伝説に基づくが、明るい月夜を大師の法力によってもたらすのであるから、これも単純に受け止めればファンタジーな話である。

 一つ残念だったのはその月夜の里にある「月夜大師お水庵」にお参りするのを心待ちにしていたのに、脇道にあって、表示もわかりにくかったのでいつの間にか通り過ぎてしまい行けなかったことである。月夜の集落が尽きる頃から上り坂がキツくなり山道に入って、もうすぐかもうすぐかと思っている内に、いつの間にか下り坂となり山を突き抜けて向こうの谷にある「鉦打の里」に行ってようやく過ぎたことに気づいた。引き返すことも考えたが、前日の雨で通ってきた道路は水で足場が悪く、所々小川のようになっている道をいまさら引き返すのは止めた。

 そのかわり鉦打にあるお薬師さま大師堂を参拝した。「月夜大師お水庵」と同じように古くからいわれがある霊験あらたかな小堂である。またそこから福井ダムの奥に入り讃岐にある弥谷と同じ名前の「弥谷観音」に向かいこちらも参拝をした。

 ここまで歩いてきたが6月という雨の季節に入っているからか、歩き遍路の人には一人も会わなかった(結局最後まで誰一人出会わない)、春や秋の季節の良い時期に集中するようだ。

 参拝以外の対象で印象に残ったのは過疎少子化のため廃校になった小学校である。地域の人が整備しているため荒廃感はなく、今は地域の公民館として利用されていてきちんとしているが、校庭の一部に遍路小屋をたて、私のような歩き遍路の便宜を図っている。泊まることも可能なようで、整備された廃校にあるためかいろいろな備品、上水、トイレもそろっている。小屋内部にはここを利用した遍路の参拝札がたくさん貼ってあった。中にはイタリア、ジェノバの誰それ、とカタカナで書かれてある札もあった。だぁれもいない廃校の中にある遍路小屋で休んでいるとちょっと感傷的な気分になる。用途を終わった学校と同じく、老朽化し社会の用途を終えた私の人生と何か同調するのだろうか。遍路小屋から見える所に昔建てた「二宮金次郎」の薪を背負い本を読む銅像がある。~手本はニノミヤァ~キンジロォォォ~、と大昔の唱歌の一節を口ずさんでみるが、再び哀しい感傷が湧き出てくる。大志、立身出世、はるか遠いこどものころ夢見たが今となってはむなしい。

 ここから少し歩けばもう由岐町に入る、大昔の真念はんは一日で月夜の里の手前の遍路宿から薬王寺まで歩いたが、私はとても歩けない(二十数キロある)、今日の終点は由岐駅だ。残りはまた今度、それでも由岐駅まで十数キロ歩いた。自分ながらよくぞ歩けたと思う。この参拝道の歩きが終わった翌日の今日、このブログを書いているが昨日を振り返ると、一日ってこんなに長かったのか、そしてこんなにいろいろなことも体験できるんだなぁ、とちょっと感動している。

 もうこの歳になると人生の指針もヘッタクレェもない、老化にかまけてボンヤリと日を送っているのが現状だ。このまま死ぬのか。お釈迦さんは涅槃に入る(死ぬ)とき残した最後の言葉は「自らを指針とし、また法(ダルマ)を指針とせよ」そして最末期のことばが「たゆまず修行せよ」であった。たゆまずということは老いてもなお努力せよということであり、修行は一生つづくものという言葉であろう。

 四国遍路は(特に歩き遍路)は札所参りも重要だが、歩いて回ることにもっとも重きを置いていて、それそのものが修行と言われている。四国のうち阿波は「発心の道場」、土佐は「修行の道場」、伊予は「菩提の道場」、そして讃岐は「涅槃の道場」と言われている。歩くことは走るほど苦しくはなく、寂しい山道でもいろいろなことを考えながら歩ける。むしろ歩くことで感覚器官や脳が刺激されるためか、歳ぃいってボッとしているときより多くの思考がなせる。遍路を全部打ち果たせば、なにか得られるものがありそうな気がする、いや一回では無理でも、何回でも打つうちに、やがては。とそう思わせるものが歩き四国遍路にはある。

 真言密教では宗教者でなくとも一般人でもできる「修行」の一つとしてこの「歩き遍路」を位置づけている。そしてもう一つの一般人でもできる修行の一つに「阿字観」「月輪観」(ガチリンかん)という瞑想法がある。6月に入って初めての日だったと思うが東の夜空にポッカリとまん丸月が出ていた。美しいなと見つつ、まん丸の月の中に梵語の「阿字」を見る観想(月輪観)を試みた。こちらは歩きながら多彩な考えが浮かぶのとは違い、「我」と自然(もっというと)宇宙全体との一体感を得るべく瞑想する法だ。しばらく見続けていたが、瞑想に入れる兆候は私には全くなく、残念ながら瞑想の修行は私には向いていないようだ。やっぱ、歩き遍路を続けるほうがふさわしい。出来れば歩き遍路の「通し打ち」(全てを一回で回る)したいがなんどもブログに書いたようにまず無理だろうな。

 下の最初は、各地点で撮ったスライドショー、そして次は起点の平等寺と今回の目的地の由岐の昨日の動画です。ご覧ください。