2021年9月30日木曜日

西由岐の八幡神社に行ってきました

  コロナ下で中止になっていますが、九月に行われる西由岐八幡神社の祭礼では大練といって中学生による「奴ぶり」が見られます。以前ブログで(8月17日ブログ)説明したので詳しくはそちらを見てください。下の写真のような「奴ぶり」です。



 その行程ですが、由岐駅で降りて二階にある郷土資料館を見学、それから街中にある八幡神社へお参り、近くにある城山で由岐漁港を見下ろし、そこから田井ノ浜へいって大波にビックリし、さらに岬をこえて木岐漁港へ、そこの満石神社をお参りして、木岐駅から帰ってきました。下がその動画です。

2021年9月29日水曜日

今日の出来事 あれやこれや思うこと

  事実上の新しい首相が決まった。私としては、地味だが苦労人で苦学の末政治家になり首相まで上り詰めた菅さんを支持していたのだが、マスコミだの有識者だのに叩かれまくって一年でやめてしまったのは残念である。オリムピクも無事乗り切り、コロナも近頃ワクチン効果で激減しているのに、まるで(時代劇なら)なんもかんも責任押し付けられて詰め腹切らされる家老のようで気の毒な気がする。

 さて新しい首相になっても今と政治はさほど変わらないだろう。やがてある総選挙でも現与党が拒否される恐れはないと思う。ただ下世話で些細な今日の出来事から、今の政治に課せられている巨大な重荷についてちょっと心配がある。しかし政府のそんな金銭の重荷なんどワイのような庶民が大して心配せんでもええ様な気がするが、そうとも言えない、その重荷が回り回って貧なこのジジイにパンチを食らわすんじゃないかと心配なのである。その些細な出来事とは・・・

 今日ワイが昼飯を喰うちゃりまひょうと牛丼の「M屋」へ入って牛めし並みを注文したところから始まる。牛めし並みは味噌汁付きで320円である。安い!昼飯がそれだけで食べれるのは貧なジジイにはうれしい。ところが食券の自販機でいざ買おうとなるとなんと!前回とは違っていて、380円になっているのである。60円も値上がりしているのである。たった60円びゃぁ、というなかれ!貧なジジイには痛い。世にはわずかの収入しかない人が大勢いる。その中でももっとも生存に必要な食に回す金がどうしても多くなり(それが高エンゲル係数となるのだろう)食費が大部分を占める貧者には食の値上がりは大変痛い。牛めし一杯の値上げの比率をみるとこうも言いかえることができる。今まで一ヶ月カツカツの食費3万2千円でなんとか生活していたのが、急に一か月の必要食費が3万8千円に値上がりするのと同じことである。32000円でカツカツなのに38000円になればどうする?栄養減らさなしゃぁないことになる。エンゲル係数の高い貧者に対する食費の値上げとはそうゆうことである。

 実は日本は今までデフレ傾向が続き、物価値上げはほとんどないか小さなものだった。わずかな年金暮らしのジジイでもなんとかやっていけるのはこのデフレのお蔭である。ところがこのデフレは終わり、インフレ傾向に転じ、それも急激なインフレがおこればどうなるのだろう。そんな心配はワイのような経済に疎いものでもわかる、それはここ1~2年膨らんだコロナによる巨大支出である。ワイも貰うてうれしかった国民全員一律の十万円給付から始まって、コロナによる店舗、個人への休業補償や、給与補填など、一体どれくらいの金を振りまいたことか、国庫の収入のバランスの上での適正な支出ではない、緊急事態だからと、国家が金をいくらでも印刷すればいい、とばかり、適正収支バランスを無視して巨額の支出をやって来たのがコロナ下の金融経済である。

 もうこの結果は頭のわるい猫でもわかろうというもの、たまりにたまった皺寄せは、増税&インフレに向かい無理な撓みを直そうとするだろう。牛めしの60円の値上がりが季節ごとあるいは月ごとに繰り返されたら貧な年金ジジイはどうすりゃいい?

 30年ほど前、ソビエット連邦が崩壊したとき、テレビでこんなニュースを見た、マイクに向かってソ連の年金生活者の婆ちゃんが涙を流しながら、次のように言っていた。政治の混乱、ソ連の崩壊で毎月のように物価が上がっている。とうとう月の生活費が私の年金の5倍もいるようになった。貯金も使い果たし売れるものもみんな売った、私はこれからどうして生きていたらいいのだろう。と。

 まぁ、日本ではそこまでハイパーインフレになることはないと信じたいが、今日まで各自民党総裁候補の経済政策を聞くと、今はコロナ下だから、収支バランスには目をつむって支出すべきはしないと、元も子もなくなると、いう。結局国家の特権である金の印刷でそれを賄うということか、貧なジジイには増税はないだろうが、インフレは覚悟せにゃぁならんかもしれん。牛めし60円の値上げは些細かも知れないが、多くの食品が季節、月の変わり目に値上げする時代が来るかもしれない。

 日本国を船に例えるとこれから首相になる人は大変である。マスコミの一部が言うように首相は貧乏人のことなどさほど気にかけてはいないというが、私はそうは思わない。船長は三等船室の旅客であってもその命を預かっているのは一等船客と変わりがない。船長には、ごくろうさんです、なんとか良い方向へ操縦してくださいと願う以外ない。それで思い出すのは映画の「タイタニック号」の最後である。氷山とぶつかり亀裂はとうとう船体を真っ二つにする寸前である。救命ボートはすべて下ろされ出払い、残っている船客はもうなすすべはない。もちろん船長は船と運命を共にするつもりであるが、行き場のない船客が甲板をさまようのを見るのは断腸の思いであろう。その時、一人の船客のばぁちゃんが、船長に向かって、「船長さん、私はどうすればいいのでしょう?」と穏やかに聞く場面があった。船長は何も答えず、うなだれて、その場を離れるが、なぜかそのシーンで涙が出てきた。日本国をそんな悲劇の船にしないよう船長である首相には頑張ってほしい。

 それにしても日本はいい国である。最高権力者を決める争いに敗れても、ステージ上で4人手を組んで、明日からみんなで協力して頑張ろう、といってにこやかに手を組む。まさか命の心配などするものはいない、しかしそれが世界の多数の国の常識ではない。露骨に左遷されるのなどはいい方で、亡命、あるいは負けた相手の逮捕、処刑もありな国が多い。

 コロナ下で専制主義の方がコロナ抑制に効果的であるとよく言われるが、あれやこれや議論が百出して対策が遅々としていても、政敵がぶち殺されるシステムよりみんな仲良しのデモクラスゥィのシステムがずっと良い。

 話は変わるが、九月になっても暑い日が続いている。午後、冷たい飲み物が一杯欲しくなる。最近このジュースが気に入って毎日買って飲んでいる。某コンビニのプレミアム商品で一本84円である。100%果汁ジュースで、その名もメロンなんちゃら!下の写真がそうである。

 なんしにワイが好きで毎日飲んでるかというと、これがマスクメロンの濃密な甘みテイストにそっくりな味でマスクメロンの汁を吸っている気分にさせられるからである。でも100%に騙されてはいけない、メロンなんちゃら、と表記はあるが、横の小文字を見てほしい、ブドウ、リンゴ、バナナときて四番目がメロン果汁である。つまりメロン果汁は四番目の量である。しかしこの4つの果汁の微妙なブレンドのせいか、ワイの鈍な舌にはマスクメロンの濃厚な汁として感じるから、これを気に入っているのである。ちなみにマスクメロンのマスクとは「ムスク」つまり魅惑的な香りの「麝香」のことでそれから来ている。

 320円の牛めしが380円に値上がりしてブ~垂れているワイだが、そういや入院したときの食事、あとで明細見たらなんとこれが一食100円以下、たぶん70円かな?病室のみんなは食事が貧相でまずいといってたが私はありがたくおいしく頂けた。下が入院していた時のある日の昼食、これで70円とはもう一度入院したいわ(←これ冗談!)


ちょっと弱音を吐かせてもらいます

 華厳教に「すべては(仏も含め)人の心が作り出すものである」とある。華厳経の「唯心偈」というのが同様のことを言っているのであながち的外れなものではないだろう。なるほど辞世の句などを見ると「・・一生は夢幻の・・云々カンヌン」などというものが有名なものだけでも複数句あるから、そのようにとらえている人もいるのだろう。

 しかし入院して手術後の耐えられない痛みに呻吟していた時、このなんとも耐えられない痛みは、妙な理屈かもしれないが、現実根ざして人は生きているんだ、という実感を呼び起こす。そうでなければこんなやるせない死んだほいがましだとも思わせるような痛みが、自分の内奥から沸き起こってくるはずはないと思ったりする。

 デカルトは「我考う、故に我あり」とほとんど悟りのような絶対「我」にたどり着いたが、無慈悲に沸き起こってくる痛みも、デカルトに劣らず、「激痛あり、故に我あり」の感を強くし、激痛を乗り越えるのも(乗り越えられないかもしれないが・・)その先にある「死」も夢幻ではない「我」を強く感じさせる。

  幸い退院して今は比較的安穏な日々を送っているが、いわゆる「睡眠障害」はずっと続いている、全然眠られないというのではない、寝ても眠りは浅く、すぐ忘れ思い出せないが、不快な(目覚めの気分が悪くなるような)とりとめもない夢をたくさん見る。前立腺の病気があるので小便に何度も起きるから、浅い眠り、不快な夢は、とぎれとぎれにずっと続いて朝を迎えるが、4時過ぎると寝れないので、精神安定剤を一錠その時間帯にだいたい服用する、そうすると明るくなって最後の目覚めが来る。

 当然朝は気分がすごく悪い(落ち込むなどとはまだ生易しい表現である)、体調もどん底のようである、こんなときは死にに向かいつつある自分を実存的に実感する、といってもこの感覚、70歳を過ぎた多病の爺でなければわからない、このような「死に向かいつつある自分を実存的に実感する」というのはそのような歳になって体験でもしてもらわなければ説明のしようがない。

 日々充実して楽しく過ごせればいいんだが、歳ぃいくと楽しみもなくなる、というか何をやってもそう楽しくないようになる、その中でも比較的自分の趣味に合った楽しみ娯楽、読書などに時間を割いているが、それも年々歳歳、読解も理解も浅くなり、高度なことは考えられなくなり、ぼんやりとほぼ空白な時を過ごすことが多くなっている。歳ぃ行くということはそうゆうことだな、と諦めな仕方ないが、それでも私のような貧なジジイと富裕なジジイとでは歳ぃいっても幸福度がちがう。金で老衰や死をあがなうことはできなくてもやはり金の力は歳ぃ行ってからの満足度、満ち足りた思いに対する影響は大きい。貧ではあっても家族に囲まれていればなかなか金ではあがなえない喜びを得ることができるが、独居老人でもあり「こなきジジイ」の私はそんな喜びもない。 

  週の初め札所4番の「大日寺」へ行った、真から信心しているとはいいがたいが若い時からお寺や神社は好きである。趣味の一つとしてこれからも足腰がたつうちはあちらこちらの神社仏閣に詣でたい。


 青不動


2021年9月26日日曜日

ゆうえんち

  今日は自転車の遠乗りをしてきた。文化の森駅~法花~北山~方上~渋野までの往復。その目的の半分は秋のサイクリングであったのだけれども、数年来消息が途絶えている人にもしかしたら会えるかも、というのがその半分である。

 いったところは方上から渋野に向かうあたりにある動物園横の遊園地である。なんで遊園地かというと数年前までその人はそこの遊具係のアルバイトをしていたのである。休日、土日のみの勤務であるので今日の日曜日ならもしやいるかと出向いたわけである。

 方上から渋野へ向かうのは登坂でかなりきつい、半分までの登坂は何とか自転車をこいでいてがあんまし苦しいので半分は自転車を押して歩いた。大きなため池のそばにモラエス広場があるがここまで来たら遊園地は近い。なんでこんなところにモラエスのメモリアルが?と思うが実はこの近くにモラエスさんのお位牌の祀ってある寺があるのでそれにちなんだのだろう。


 ススキの化け物のような丈の高い多年草があるがこれはアメリカ原産の禾本科の植物だろう。向こうに遊園地の大観覧車が見えている。


 入り口には秋の季節のお飾りが入場者を呼び込んでいる。まだ一月早いがハロウィン祭り飾りである。


 有料遊具は10以上あり、すべての係員の顔を確かめたが、目的の人はいなかった。数年前にはバイトしていたといっていたが、それ以降消息が途絶えていたのでその間にやめたのだろう。現業の人にこれこれの人知りませんか、とまで聞くつもりはなかった。

 目的の人にも会えず、ぼんやりと遊園地のベンチにすわった。考えると70歳の爺が孫を連れているわけでもなく一人遊園地でポツネンとしているのは間の抜けた姿ともいえるし、またずいぶん孤独な哀愁を感じるではないか。芭蕉翁は、楽しみのために設けられた「鵜飼い」をみて、『おもしろうて、やがて哀しき鵜飼いかな』と発句を詠んだが、これなどは

 『なんのおもしろみもなく、ただただ哀しき遊園地かな』

 であろう。えらい場違いなところに来たものである。

 熊野曼荼羅に人の一生を円環の道に例え、嬰児~幼児~大人~老年~死へと年齢に応じた人が(同一人でだんだん老いていく)その円環の道を進んでいく図がある。遊園地の大観覧車を見ているとその熊野曼荼羅の人の一生の円環の図を思い出した。下が熊野曼荼羅、その上部が人の一生の円環部分


 そして今日の大観覧車


2021年9月22日水曜日

夜汽車と仲秋の月

  昨日は旧暦八月の十五夜、午後7時半すぎ途中駅で6分の待ち合わせ時間があったのでホームにでてみると東の夜空には仲秋の満月が。月は真ん丸で明るい光を放っているが群雲が周りを覆っている。

 徒然草に、花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは、というのがあるが、このように月に群雲も風情がある。


2021年9月20日月曜日

初秋の色

 畦や野原に群れて咲く、というよりまるで葉っぱのない茎だけの造花を突き刺したような不思議な姿のマンジュシャゲ、よく言えば情熱的な赤、悪く言えば毒々しい赤、花期も短く、彼岸過ぎると終わってしまう。派手だが儚いこの花はわたしのお気に入りである。


 マンジュシャゲのすぐそばの畦に咲いているのが小さなつゆ草、可愛い花の青色を見るとなぜかホッとする。さわやかな青だ。昔の日本人はこの露草の色を「縹」(はなだ)色と表現した。たとえば、縹色の小袖、縹色縅(おどし)の鎧、縹色縅鎧などは若武者に似合いそう。


月色 月色って何て言ったらいいんだろう、白でもないし、黄色(淡黄色も含む)でもない、クリーム色、ベェジュとも違う、なんだか微妙な色でやはり「月色」としか言いようがない。そういえば手作りの月見団子も飾りのすすきも月色に似てる。明日は中秋の名月、満月と久しぶりに一致するそうだ。

2021年9月18日土曜日

シングルレコード

 数日前、フォークシンガーの訃報を聞いた。フォークグループ「猫」のメンバーの大久保一久さんが亡くなったと。

 このグループ「猫」については忘れられない曲がある。『雪』である。なぜ忘れられないかというと、このフォーク曲『雪』は私が初めて買ったシングルレコードだったからである。それまでウチにレコードなどはただの一枚もなかった。というより、このはじめてのシングルレコードを買ったのはポータブル電気蓄音機を買ったのと時が同じであった。それまでは蓄音機がないのに当然レコードもないのは当たり前、大学生になって自分の小遣いから安物の小型の電気蓄音機を買ってから、徐々に購入したレコードの枚数が増えていったのである。

 それまでは音楽はラヂヲを聴いていた。深夜放送などでは当時全盛だったフォークの曲がよく流れていた。私もみんなと同じようにフォーク好きの青年になっていたが、それはラヂヲから流れる曲に影響を受けたからである。しかし私の友人なんかは高校生の時にはすでに家に電気蓄音機、あるいはもっと豪華なステレオ蓄音機などを所有していて、あれこれのレコードを買っていた。友人の家に遊びに行ったときお気に入りのシングルレコードや、LPレコードを聴かせてもらって、うらやましく思ったものである。

 ようやくなけなしの小遣いをはたいて買えたのはもう大学生になっていた。しかし電気蓄音機はそれだけ持っていても仕方がない、レコードがあって初めて価値があるものとなる。今でいう「ハード」と「ソフト」であろうか。「ソフト」であるレコードを買い揃えるにもかなりの金がかかる。LPレコードなどは2~3枚買うと、私の買ったおもちゃみたいな安物の小型電気蓄音機と同じくらいの金額となる。

 さて電気蓄音機を買って、最初に買うレコードは何にしようか、お気に入りのフォークにしようと思ったのは当然だが、お気に入りも十数曲あったはずである、その中で(もう半世紀も前なので詳細はよく覚えていないが)選んだ第一号レコードはシングルレコードの「雪」(フォークグループ「猫」)だった。LPレコードほどではないがシングル盤も価格は390円だった。日々の小遣いで買えるものではない、なにせ当時の大学の学食の昼飯でさえ70~90円でセット定食が食べれたのであるから、そうそう手ンごろ易く買えるものではなかった。その後ちょっとづつシングル盤も増えていった。ちなみに初めて買ったLPレコードはイムジティ楽団のビバルディ「四季」であった。

 左が初めて買ったシングルレコードジャケット、猫の『雪』である。今から思うと一般的にはそう流行した曲ではなかったが、当時の私は気に入っていた。擦り切れるほど度々聴いていたが、時がたち、聴く回数も減り、そのうち押し入れにしまい込み、やがてCD時代となり、引っ越しなんどもあった失せてしまった。



 下がその当時の曲「雪」である

 

 電気蓄音機とシングルレコードが自分のものになったのは大学生の時であったが、中学時代にほぼ定期購読していた雑誌がある、雑誌名は忘れたが「少年の科学」雑誌関連の本である、その綴じ込み付録にシングルレコードではないがペラッペラのセルロイド様の「ソノシート」と称するレコード盤によく似た円盤が入っていた。蓄音機にかければ曲が聴こえるのだが蓄音機を持っていなくても聴けるようになっていた。同じ付録に切り抜き厚紙とアルミホイル、針、手回し取っ手、などが入っていて組み立てるとだいたい下のような即席の蓄音機が出来上がるのである。


 ソノシート(レコード)の中心に近い部分に中心穴とは別に穴が開いており、そこに釘のような取っ手を突っ込み手でソノシートを回転させるのである。すると溝を針が擦るように動き、その振動が針を通じて張られたアルミホイルシートに伝わりそこから音が発せられるのである。しかし手で回すため速度はムラがあり、へんな抑揚の曲となるのである。また音量もかすかであり、耳を澄ませば聞こえる程度のものである。

 しかし少年科学雑誌の付録らしくなぜ音がレコード盤に録音されまた再生されるのか、その付録を組み立て、そしてそれを手で動かすことによって、その原理がよくわかる仕組みになっている。いまやCDがどんな原理で音が録音され再生されるか、ほとんど知ることのない時代となっているが、昔は発明王エディソンの蓄音機の実験の雰囲気をこのようにちょっぴり味わえ、その原理もなるほど!と納得できるように体験できたのである。

2021年9月11日土曜日

寅さぁ~~~ん、あなたが夢見た場所に行ってきましたよ

  今日のブログはまず10年前の私のこのブログ(ここクリック)読んでから以下ご覧ください。


 空前の映画シリーズとなった「男はつらいよ」は1969年~1996年まで48作を数えた。寅さんは旅を渡世とするテキヤであるため48作の映画は全国津々浦々を舞台としていた。日本の都道府県は47ある。映画は48作だから、すべて網羅しているのだろうと思っていたが、行っていない県が若干ある。「高知県」「富山県」「埼玉県」の3県である。実はもし渥美清さんが亡くならなければこの3県がロケ地として候補に挙がっていたそうである。

 10年前の私のブログを読んでくだされば徳島の島田島スカイラインの四方見展望所がロケ地となっているのがわかると思います。この風光明媚な場所で26作目のエンディングのシーンが撮られました。これが封切られたのは昭和55年で当時から寅さんの大ファンになっていた私は映画館に見に行きました(あぁ、この時ワイはまだ青年といっていい29歳でした)。映画を見るまではこの26作目にまさか徳島のロケ地が出てくるとは思っていませんでした。この映画の主舞台は北海道奥尻島と東京だったからです。しかしエンディングで思いがけなく鳴門公園の四方見展望所が出てきたのには驚きとともに大変うれしかったのを覚えています。「寅さん、徳島にも来ていたんだ!」

 この徳島ロケ地のブログを書いて10年過ぎた昨日、何気に図書館の寅さん関係の本を見ていると、なんと、上記の場所以外にも徳島にロケ地があったのを知りました。その場所は鳴門市大津町にある「厳島神社」の境内でした。さっそく今日、行ってきました。

 この神社境内のシーンは、必ず(どのシリーズにも)ある冒頭の「夢見」から目覚め甘い夢からハッと現実に帰る場所でした。

 甘い夢から目覚めたところ


 立ち上がって背伸びをしながらあくびをするところ


 この撮影から41年たった今日の厳島神社


 境内の植生は大きく変わり松が亡くなっている。また境内と川の間の境は護岸コンクリートが施されている。寄付者の名を描いた石柱も動かされているが、五角形の石柱「地神塚」は昔の位置のままである。また川向こうの街並みも41年たち、ほぼ建て替えられている。

 厳島神社動画

2021年9月10日金曜日

14号台風予想どうなるか?

  下は気象庁の台風14号の今後の進路予想図である。


 15日(水曜)までしかわからない。それも台風の中心予想半径は今日から(10日)から日を追うごとに大きくなるから、15日の台風位置は西は中国大陸上陸から東は鹿児島大隅半島までずいぶん広がった予想になっている。

 もっと先、具体的には一週間から10日くらいの予報はないものかと思う。ネットで探すとあった。下がそうである。


 10日のちの予想までやってくれている。これによると、17日(金曜)の午後7時における台風予想はなんと我が四国の足摺岬に台風14号の中心ある。

 一週間後ではあるがずいぶんときっぱりと、ココだと言い切っている。気象庁の大きく半径をとった予報位置情報より狭まった予報を知りたい我々としてはありがたい。さて問題はその精度である。

 気象庁の予報は、誤った場合の影響が大きいので台風については10日も前に予報は出さないし、数日前の予報でも予想半径を大きくとっていてこの中のどれかには中心が存在するようになっている。しかし二番目の図の予想は欧州のある機構が出している世界規模の大気循環予報であるため、日本の気象庁ほどには日本国民に対して責任を負っていないのでこのようにかなり思い切った予報ができるのであろう。

 この欧州の大気循環予報によれば

 「あかん!うちのほうへきよるがな!」

2021年9月9日木曜日

やって来ましたこの花の季節が

 今年初めてマンジュシャゲの花を見た。国府町の遍路道の畔で。この花を見ると自然と「長崎物語」の歌が口をついて出てくる。

 あかぃ花なら🎵マンジュシャゲ~🎶チャカチャンチャン 

 

2021年9月7日火曜日

病院ディルームの眺め四国山脈パノラマ

 苦しかったのは手術の夜だけでそのあとは、ベットで寝るか点滴スタンドをゴロゴロ押して4Fフロアを歩くだけ。点滴も二日目で取れたあとは体の自由度も増したが、コロナの影響でほぼ閉鎖病棟化しているので、ディルームでボンヤリ椅子に座って景色を眺めるか、自分のベットの横の椅子に座り面白くないテレビ放送を見るか、持ち込んだ読書するしか時間は過ごせない。しかし三食上げ膳据え膳で空調はととのい、衣食住は何の心配もない。もちろんできるだけ早く退院はしたいが、考えるとほとんど苦痛もなく体の自由もきき、ひたすら手術の傷がいえるのを待つ入院てなんて贅沢なんだろうと思う。

 ただし外界の刺激が少なくなるから私以上の年齢の者には長期入院によってボケないまでもますます何かをしようとする気力が失せ、安逸に過ごそうという怠惰的な方向に向かう癖がつくかもしれない。いずれにしても早く退院して社会に復帰する方がいいに決まっている。

 (コロナの為)鍵がかけられている閉鎖病棟なのではあるが、一階にある売店に自らの必要品を購入するため行きたいと申し出れば看護婦さんがカギを開けてくれて一階フロアの売店まではいける。私はコーヒが好きなので日に二三回下まで下りて行ってドリップ式のコーヒーを買ってきた(4Fには缶コーヒの自販機しかない)。それをディルームでゆっくり飲むのである。というのも、このディルームはまるでホテルの展望室のように眺めがよく、私のお気に入りの場所である。四国山脈がパノラマになって眼前に展開しているのである。コーヒーを飲みながらこの四国山脈のパノラマをボンヤリ見ているとなんとなく心の中にジワ~ッと、小さな幸福感が広がってくる。70を過ぎたジジイの行く末の予感される悲惨さも忘れさせてくれる。(右端には霊峰・高越山が見えている

 

 左から右へ移るパノラマの全景のもとに私は育った。小学校、中学校、そして高校もこのパノラマの中に納まっている。三つ子の魂百までというがこの一つの全景の中に私は育ったんだなぁと感慨を強くする。その三つくらいの時、この屏風のように南の方に立ちふさがる四国山脈をみて、まるでそれが世界の果ての境界であるように思っていたのは、今から思うと笑止なことではあるが、うんと小さい世界観しか認識できない三歳の幼児にとってそれは私の取り巻く世界の南の果ての境界であった。祖父に聞いた。

 「ジイチャン、あの山の向こうにはなにがあるん?」

 いったいなんと答えてくれたか記憶にはないが、納得できるものではなかったとおもう。しかし同じ幼児の時、あの南の、私の小さな世界の果てと思っていた山脈を越えて行き来している人を何人か知った。その一つは、あの世界の果ての境界の山に向かって行く人、白い浄衣を着たお遍路さんと山伏の格好をした人々である。私の家の前で経を唱えたりホラ貝をふいたりしてバァチャンが喜捨したのでその時、あの山を越えていく、と聞いたのだろう。

 その二は我が家にあの山を越えてモノを売りに来る人である。多く接触があったのは「炭売り」である。当時昭和30年くらいは木炭は我が家の重要な燃料であったのである。大人になってその木炭は山の向うの神山で炭焼きさんが焼いて、木炭入りの俵に調整して、わが町まで下りて売りに来た人であるとわかったが、里に住み、農業や商人、勤め人しか目にしない当時の幼児にとっては、その格好も少し変わっていたせいもあり、ちょっとした「異形の人」であった。

 そして山を越えてきた人で、一人しか記憶にないが、強烈だったので覚えているのは「シシ肉売り」であった。シシ肉なんどといえば都会の人は何のことやらわからないだろうが、古い阿波言葉で「シシ肉」といえば野猪(イノシシ)の肉である。それをあの山を越えてわが家に(というか近所あたりに声をかけて)売り歩いてきたのである。ジイチャンがその一片を買ったのまで覚えている。血の染みた大きなまな板の上でシシ肉売りが包丁でさばいて大きな肉片を切り取ったがその肉の赤さ脂肪の白さをなぜか今でも鮮明に覚えている。これも今になって思えば山向うの神山奥の、当時はまだいた猟師さんがシシ肉を売りに来たものと推定されるが、幼児の私にとっては世界の境界の外からやって来たちょっと畏怖するような異形の人であった。

 四国山脈を見ながらそんなことを思い出していた。今から思うと幼児期の世界観はなんと狭かったことだろう。ホントに目の見える範囲しかわが世界は存在しないと思っていた。しかし人の持つ「本源的な世界観」って、それを基礎にしたものであるのではないか、大人になり視野も思考もが広がっても、大海を望む海岸に住む人にとっては、海の水平線が世界の果てであった。古代人はそのような世界の境界・水平線の向こうにあるのを「常世の国」といって別世界と思っていた。現代になって世界の果てがどんどん広がって世界の果てはなくなったか? 今人類が認識している世界の果ての、その広がりは信じられないくらい大きいが何百いや何千万光年の宇宙の向こうには、やはりわが世の果ては存在するのである。三歳の幼児が思った壁のような四国山脈が世界の果てでその向こうは幼児の理解の埒外であるのと何が変わろうか。

 ここまで思いを巡らすと、ちょっとため息をつく、三歳から私もずいぶん大きくなり、そう明瞭ではないが頭もそれなりに働くようになった。書物やネットを通して、私の持つ世界観の広がりや質も向上したような気でいる。世界観が広がり、知ることは喜びであった。しかしそう遠からず、人生の行きつく終わりにある境界(果てといったほうがいいだろうか)がやってくる。その境界を突き抜けるときの言い知れぬ恐怖はある、誰しももつものだろう。しかし、日がな一日このような、かって世界の境界でもあった四国山脈を見ていると、そのように認識し考える私もごくごくちっぽけな取るに足らないような気がしてくる。しかしそれだからといって命を軽くは考えたりはしない。

 この不動の四国山脈は古生代は海の底だったのを知っている。そしてその後、大隆起をおこし高い山脈となったが、ゆっくりと浸食が進み、数億年かけてこのようなパノラマになったのである。静的な山を静止した私が見ているように思っても、違う時間のスパンで見れば時々刻々とそれは変化しているのである。そしてその変化は極めて長いが、私と変わらぬ終末が待っているのである。ときは進み進んであらゆる森羅万象を含む宇宙も「消滅」の時が来るのである。わがちっぽけな命とそのサイクルはなんら変わらぬのである。そのように考えると、私にやがて訪れる「死」も受け入れられそうな気がする。ましてや今まで70年もわりと好き勝手に生きてきたんだもの、断末魔の苦しみは回避したいが「死」そのものも昔ほどは怖くはなくなっている。
 

2021年9月6日月曜日

しばらく入院してました・骨折を固定していた金具をとった

  ちょうど一年前足首を骨折し、骨折した骨を固定するため金具を挿入する手術を受けた。そのときは一週間弱入院して退院したが、さて、その異物である金具は体内に残ったままである。しかし医師の言うには、半年が経過して十分骨接ぎができたら、金具は取ってもいいしそのまま半永久的に(つまり死ぬまで)入れておいてもよいとのことである。そうは言われてもどう判断するか迷う。さらに医師に聞くと何かの不都合を感じて取る人もいるし、たいていは特に問題なくそのまま残す人が多いそうである。

 手ンごろやすく「取ってもいい」っつうたってもちろん足首の切開手術をまた受けにゃぁならん。手術こりごりの私としては早々と残すことに決めていた。なんか不都合があれば、しゃぁないと思っていたが一年たって不都合は感じなかった。ただ手術後の傷が少し凸凹して痕跡が残っているのが気にはなったが。

 ところが先月の終り頃、風呂に入って踵や足首をあかすりでごしごしこすっていて傷跡を少し傷つけてしまったらしい。傷はもちろん治っているのだが皮膚が凸凹しているので少し擦りむいたらしい。それがいけなかったのだろう、足首の皮膚が薄いうえに下に金具も入っていて血流も十分でなかったのか、化膿して赤くはれてきた。最初は擦り傷くらいと思い自分で薬をつけて治そうとした。しかしちょっと治りが遅いのが気になっていた。そして数日たった夜中、トイレに行こうとスリッパをはいたらスリッパに糊でもついたように足裏が粘りつく、明るいところで見たら足の裏は血がべっとり、シーツにも血がついている。その化膿した跡からジュクジュクと出血してそうなったのである。

 翌日、整形外科へいってみてもらったが、化膿しているのでやはり金具は取ったほうがいいとのことで、いやいやながらまた入院手術となった。手術自体は大したことはないのだが持病を抱えている私としては術後の発作が気になっていた。もちろん執刀医にも伝えてあったがやはり術後発作が起こり、夕方終わった手術のあとから次の日の明け方まで大変苦しい思いをすることになった。もう思い出すのも嫌なので具体的には言わないが、なんとか乗り切り、二日目からは平穏で退屈な入院生活となった。そして今日、めでたく退院となった。数えると10泊の入院となっていた。初めの骨折入院より長くなった。

 取った金具は記念にもらった。


 死に病にたった一度だけそれもごく短く入院して大往生するのがいいと思っていたが、去年今年と連続である。歳ぃいって多病になれば、死ぬまでに何度入院するだろう、嫌な予感がしてきた。できたら入院などしとうはない。
 
 十泊した病室のベッド