海から来るものには幸があると思われていた、と前々回のアマビエのブログで書いたが、事実、海は高波や津波(稀だが起これば大災害となる)で被害をもたらすときもあるが、全般的には幸をもたらすほうがずっと多かった。漁獲をもたらすだけではない。次のような思わぬ大収穫もあった。時はもう明治に入ってからのこと明治26年11月4日朝、ウチラの国(阿波)のアブ(阿部)湾の東端女郎ばえのはずかし灘に八間(15m)もの弱った鯨が打ち上げられた。やがて死んでしまったが、直前まで生きていた鯨である。浜のものは鯨を解体しその獲物の富を広く分配した。鯨は肉をはじめ髭、筋、皮骨、すべて捨てるところなく利用できる海の幸であり、一頭の鯨を獲ると近隣数か村が潤うといわれるほどの大きな「海の幸」であった。大いに潤った浜の村の人々は、感謝の気持ちもあったのだろう、その鯨のために坊さんを呼んで供養したそうである。
また黒潮洗う県南地方では珍しい異国の漂着物があったり、難破船から流れ着いたモノもあったりした。難破船の漂着物については流れ着いた浜の者に所有権があるとするのが、江戸時代の慣習であったようだ。
なんか棚ぼた式に海から富がやってくる話が我が国には多い、それが「常世の国」、「蓬莱山」、「補陀落浄土」などの海の向こうには良き所があるという伝説を生んだのだろう。しかし島国である日本は異国からの侵入者も海を通ってやってくる。だが凶悪な意図をもって海外から侵攻してきたのは歴史上「元寇」のみで、それも北九州の一部である。日本は幕末まではそんな心配はしなくてよかった。同じ島国でもイギリスは大陸と近いせいもあって、アングル・サクソン人、ノルマン人、ブルターニュのウィリアム征服王など度々海外からの侵入を受けている。だから日本人のように素朴に海から幸がやってくるというような感覚はない。
また人・モノだけでなく、海から珍しい生き物がやってくることもあった。最近でもこのブログで取り上げたが、この徳島にアゴヒゲアザラシが数年の間隔をあけてヒョックリとやって来て浜や河川敷に姿を見せた(その時のブログ、ここクリック)。その愛嬌あふれる姿・動作から大人気となった。今でこそアザラシなどは実物を見なくてもいろいろな情報で知っているが、江戸時代の人は海などめったに見ないどころか、一生見ないで過ごした人もあるくらいである。もしアザラシのようなけったいな生き物が現れたとの情報だけを知っても、そのインパクトは今以上である。その情報は江戸や京阪の大都市に伝えられ、瓦版などを通じて予想されるより早く多くの人が絵入りのその「けったいな海から来た生き物」をみた。
下はその瓦版である。こちらは見たところ「ゴマフアザラシ」のようだ。耳のない獅子舞のようでなかなか愛嬌のある顔をしている。
けったいな人も時々姿を見せる。この阿波国では江戸中期、県南にハンペンゴロはん(ハンガリー貴族で世界周航の旅の途中)の帆船が現れた(ハンペンゴロウについてのブログ、ここクリック)。ハンペンゴロはんは上陸したようで浜人を驚かしている(幕府の手前、上陸して村人と交歓したとは公的には言えない)、このハンペンゴロはんは世界に冠たる「ひょうきんもの」のオッサンである(欧州ではホラ男爵の冒険として知られる)、浜人は驚いたかもしれないが恐怖などは感じなかったに違いない、なんかおもろい異人はんやと浜人には映ったであろう(後の冒険譚ではハンペンゴロはんは、この阿波の国で大いに歓待を受けたと書いているが、なにせホラ男爵であるから、上陸したことは確実でもどこまでホンマかは怪しい)、もし幕府の統制・抑制がなければ上記のアザラシ以上のネタとなり江戸・京阪の人を絵入り瓦版で楽しませただろうと思う。
さて鯨にしても、けったいな生き物やあるいは異人にしても今日の我々からすれば実際に存在することは確かだと説明がつく。しかし江戸の瓦版を見ると説明のつかない「異形のモノ」が現れている。下に描かれた瓦版の絵を見ると、これは今の我々からしても説明のつかない「異形のモノ」である。見たところキメラ(ギリシア神話の怪獣)に似ている。あらわれたところは大坂の淀川というから辺鄙な田舎ではない。遠い国の伝聞でなく大坂近辺であるから何らかの生き物を見たのであろう。(一説ではオオサンショウウオとも)
凶悪げぇな姿だが説明文ではこれは豊作の予兆をもたらす縁起のいいモノであるらしい。上半分は雷光の図だが、雷光が落ちたところは豊作になると信じられていた。つまりこの二つは豊作を願う縁起物の絵図ということになる。今日でこそ新聞紙などは襖の裏張りでも使わないが、江戸期はこのような縁起の良い絵は瓦版であっても壁など貼ってたのだろう。肥後に現れたアマビエさまの瓦版も家に貼る、あるいは絵を写せば御利益があるといわれていたから、こちらの瓦版の絵もそのように使われたと考えられる。
瓦版は江戸期のマスコミ、今日の新聞のようなものであるが新聞とは決定的に違うことがある。新聞で最も重要なのはニュースである。そしてそのニュースで一番大切にしなければならないのは「事実」である。読者の興味や嗜好の欲求などは考慮されるが絶対的なものではない。しかし江戸の瓦版は徹底して、読者の興味・嗜好の欲求を重視する。事実などは針小棒大というが、少しあれば、いや全然なくても何ら問題ない。読み手買い手が喜び、買ってくれればよいのである。すがすがしいまでの事実無視である。江戸期とはいえ読者もそのことには気づいている。瓦版の記事はシャレ満載であるのもそれを裏付ける。事実ではないとわかっていても瓦版を買ってしまうのは、たとえれば自然ではありえないことで人によって造られたまがい物の珍人・珍獣と思っていても、その禍々しくド派手な表看板にみせられて、なぜか木戸銭を払って見世物小屋に入ってしまう心理とよく似ているかもしれない。
わが阿波国にもアマビエらしき出現の話はないかと探してみた。わが蜂須賀藩には城下町として人口数万人の徳島の町があったが江戸や京阪の都市と比べれば貧ちょこまい町である、そこには阿波限定の瓦版などはない。そこで昔話の中にそんな話はないかと探すと一つだけ似た話があった。県南・美波町の民話「磯島の小女臈」である。
『県南の沖に磯島という小さな島があった。全島が浜名主の土地だった。そこに長い漆のような髪を持つ小女臈(おじょろう)と呼ばれる異形のモノが住みついた。怖くて浜の人は近寄れずにいた。浜名主は鉄砲を持って磯島に上陸し、大声で威嚇した。おどりゃぁ、ここに住みつきくさって、ここはワイの土地じゃ、出てうせい!しかし小女臈はこたえなかった。そこで浜名主は鉄砲を小女臈めがけてズドンとぶっ放した。その時、小女臈は持っていた手鏡(当時の鏡はガラスでなく金属製)で弾をカィィンと跳ね返した。浜名主はそのあと小女臈に向かって、島に二人の持ち主しゃいらん、もし立ち去るなら、ワイが島に祠(ほこら)を作って祀っちゃるわい。といった。それを聞くと海中にザンブと入り、二度と現れなかった。そこで祠は約束通りつくった。』
小島に現れてその名前が小女臈(女の人魚を暗示する)であったことや髪が長く、最後は海に入って消えたということから、人魚っぽい異形のモノであると想像できる(姿かたちはアマビエと類似する)。しかし地方の古老が言い伝えてきた昔話なので、その絵も文も残っていない。この民話は肥後の国に現れたアマビエのように直接幸をもたらす話ではないが話の中に「祠」を作り祀ったとある。祀ることによって祟りを鎮めるとも読めるが、さらには祀ることによって人に幸をもたらすとも読める。そう解釈するとアマビエとの共通点は多くなる。
このように人魚っぽい異形のモノが云々、という話は全国各地に存在するが、ほとんどは「昔々、或るところに・・・」というように時代場所を特定しない民話・伝説の類である。しかし中には先に言った瓦版に取り上げられたものもある。下の図は時も場所もはっきりと限定したいかにも実際に起った大ニュースであるかのように報じられた瓦版である。
説明文を読むと文化二年四月上旬(1809年)、越中国(今の富山県)に現れ、海を荒らし漁民を困らせたため、討伐隊が編成され、退治されたとある。全長が10mにも及ぶ巨大な人魚であった。えぇぇ~~~!ホンマかいな、嘘やろ、とは江戸の人も内心ではお見通し。でもそんな怪異の話やそれを討伐した話には興味ある、見たい知りたいとホラ話であっても飛びついて瓦版を買うのも江戸の人である。もしかすると後日、両国あたりの見世物小屋で、その時討伐された人魚の一部、長い髪の毛とか大きな鱗、ひれの一部でござぁ~い、と展示されて木戸銭を稼ぐ、つまりは瓦版屋と見世物小屋との連携商売だったというのがオチかもしれない。
アマビエ登場の瓦版も真偽がどうかというような話をするのは野暮というものである。これは眉唾ものの面白い話を絵草子的に仕上げた読み物であり、なおかつ豊年祈念と疫病退散のめでたい護符の効用もある、いわば二度おいしく味わえる瓦版として売られ買われたのではないだろうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿