2020年5月12日火曜日

 日本人に意外と有難味がないのは「水」である。イスラエルの評論家だったか「日本人は水と安全はタダで手に入ると思っている」といったそうだが、その通りである。「水」などはまわりにありふれていて当たり前になっている。地震などで水道が一時ストップして飲み水に不自由することはあるが、水そのものはどこにでもある。川、池、いざとなればそれを濾して煮沸すれば飲料として使えるだろう。また震災の時、古い井戸や地下水まで打ち抜いた手押しポンプが活躍し助かったという話も聞く。水のあふれるわが風土だからである。

 武漢ウィルスの予防のためアフリカなどの開発途上国で困っているのは流水で手を洗えないことだと聞く。飲み水でさえ事欠く人々にとって流水で手を洗うなんどというのは恐るべき浪費と映るのであろう。そんな国々からすると日本の当局が

 「石鹸をつけて爪先までごしごしと、30秒は流水で洗いましょう」

 などというのを聞けば信じられない贅沢であると思うだろう。それらの国々に対しては国際機関や善意ある団体などによって、清潔な水供給のためのインフラを援助しているが、清潔な流水で30秒手を洗うというような豊富な水供給は初めから無理である。そもそも水の絶対量がそれだけないのであるから。

 まったく我々はいい風土の国に暮らしていることを感謝しなければならない。雨が多く、国土の7割は森林におおわれ(草原などに比べると保水力が高い)、中小の無数の小川が流れ、雨も平均三日に一度は降るので降水量が大変多い。我々の先祖はこんなに水のあふれる国土をほめたたえて「豊葦原瑞穂国」(とよあしはらのみずほのくに)といった。

 生活用水には有り余るほどの清潔な水、天水(自然の雨)だけでもちろん農業ができる。しかし、より豊かになるため、さらに多くの収穫を求め、ワイらの先祖は主穀として「イネ」を選択した。イネは極めて優秀な作物である。これによって江戸時代でも三千万近い人を養えたのである。しかしイネは水田で栽培しなければならない、そして水田のためには水の供給システム(用水路)を完備しなければならない。中世などでは小規模な中小河川を利用した用水でよかったが、近世(江戸時代)に入ると大きな河川を利用した用水システムが作られ、新田が大きく広がり、コメの収穫が増大する。人口規模はコメの増産に裏打ちされ倍増する。当時の国力を示す「石高」はコメの生産量であるとともに人口規模にも連動していた。

 わが徳島藩は近世初期には25万7千石、しかし新田開発によって実際はそれ以上あった。その新田開発に不可欠だったのが用水の開発である。今、国道192号線鮎喰橋東詰めにあるのが江戸時代の用水開発の先駆者の碑がある。楠藤吉左衛門さんである。


 ちょうど田植えの時期で水田には満面の水、現在はコンクリの用水路、電気揚水機となったが楠藤吉左衛門さんのつくった袋井用水は現在も利用されている。

 わが国の水の豊富さは土の中にも表れている。大河吉野川、鮎喰川、その他の河川が徳島平野を流れているため、伏流水や地下水脈が平野を縦横無尽に走り、掘れば井戸ができる。上記から北西に2Kmばかしいくと「井戸寺」がある。奈良時代、お大師様が錫杖で突いてできたという伝説の井戸を擁しているためこの名がついた。

 井戸寺境内、水大師お堂

 中の井戸

 由緒書き

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