2012年11月14日水曜日

時雨るるか 夜の声

 ここ数日天気が不安定である。日曜日からの悪天。それもずっと悪いのではなく、晴れていたと思えば急に突風、そして驟雨だ。冬への季節の変わり目、時雨もよいか。

 昨日も雷が鳴ったかと思うと俄かの強い雨風。ちょうど散髪をしていたが、自転車置き場の自転車はなぎ倒されていた。

 昨日は久しぶりに墓参りをしたが、となりの墓の卒塔婆がなぎ倒されて、我が家の墓にもたれかかっている。吹き散らかされた樒の葉が通路や墓石のあちらこちらに張り付いている。
 時雨の冷たい雨に濡れた共同墓地はこの上なくわびしい。

 卒塔婆をもとの位置に戻し、もとあった土台の穴に差し込んでいると上部でカリカリ音がして卒塔婆が揺れる。
 
 「なんじゃろか」

 と思い、見ると墓に飛び上がった子猫が二匹、卒塔婆が動くのを面白がってまとわりついて遊んでいる。人なつっこい子猫で手を伸ばすと抵抗もせずに抱かれた。
 捨て猫ではあるが最近捨てられたのか、栄養状態も毛並みもよい。甘える態度から見て飼われていた親猫の家で最近までいたのだろう。

 これから先のことを考えるとかなり哀れである。それならお前が飼えといわれても、無責任な飼い方はできない。喉と頭を撫でてやっておいはなしたが、場所を離れず、二匹が飛んだり跳ねたりして遊んでいる。

 夜に入っても冷たい時雨と突風は時おり襲ってくる。墓地と我が家は500mも離れていない。暗くなってから、気になり、ちょっとした餌をもって墓地に行った。暗い墓地は人気がなく、子猫の声もしない。呼ぶが、ニャンともスンとも言わない。

 餌は持ち帰った。あの子猫どうしているのだろうなぁ。私が行ったときは近くにいないのか泣き声を上げなかったが、深夜になり、石ばかりの墓地で餌や親、暖かい寝床を恋しがってネウネウと泣いているんじゃないだろうか。

 犬と猫の違いはあるが芭蕉の一句を思い浮かべた。

 『草枕 犬も時雨るるか 夜の声』

2012年11月11日日曜日

雨の日の博物館内外

 今日は先日より予定していた徳島城博物館へ見学に行ってきた。今日は学芸員による展示説明がある。2時からだが、正午を過ぎるあたりから雨風とも強くなり、よっぽどやめようかとも思ったが、前から楽しみにしていたことでもあり、傘を吹き折られる心配をしながら博物館にたどり着いた。玄関前でズボンを見ると、すっかり濡れそぼっていた。

 テーマは『唐入りの時代』(秀吉の大陸出兵)である。

 内容についてはまた別のブログで紹介いたします。

 さて、着いたのは1時半、少し時間があるので、博物館内のホールの徳島城庭園の見えるソファーに座って熱い緑茶を飲んでいた。(この博物館は緑茶サービスがある)

 外の庭園は強い雨風で人のいないだろうと思っていたが、ピンクや銀やそのほかの派手な色の服を着た若い子がちらちらしている。

 「なんじゃろ?」

 よく見るとコスプレ大会である。この雨風でも熱心なコスプレをやっている、雨の中、ギャラリーもほとんどいない。

 透明なガラスの壁を通して写真を撮った。中にはポーズをとってくれる子もいた。
 私もコスプレをしてみました。



2012年11月9日金曜日

秋の夜を如何にとやせん

 人恋しくなる夜、でも誰もいない。こんな夜はハイボールでも飲もう、あの懐かしい曲を聴きながら・・・・・・

これは前の方が良かった

 最近、IE8(エクスプローラ8)のブラウザでGメールやニフティーのホームページを見ていると、このIE8ではやがてこの画面はサポータされなくなり、一部機能が正しく作動しないことがあります。とのお知らせが画面に出るようになった。同時に新バージョンのブラウザを勧めるお知らせもある。

 エクスプローラの新バージョンはIE9である。指示に従ってダウンロード、インストールした。しかし、慣れないせいばかりではない。極めて扱いにくい新バージョンと称するエクスプローラ9である。
  
 あちこちせせって、クリックしたりして試したが、ググルクロムや火狐と同じようになっている。エクスプローラにはエクスプローラの長所があったが、それがなくなり、ググルクロムや火狐と扱いが変わらない。差異がないなら3つもブラウザはいらない。

 「これはなんなんだろう。だまされた。前の旧バージョンIE8の方が良かった。」

 さっそく前のものに直そうとして、アンインストールのため、コントロールパネルのインストール一覧をさがしたが、見当たらない。ウィンドーズのシステムに食い込んでインストールされたのかもしれない。
 困ってしまった。

 こんな時、パソコンには『システム復元』というのがある。これを利用して直前の状態に復元することにした。
 手順に従ってやると、前日の状態に戻り、エクスプローラ8に戻った。

 私のような年配者は、新バージョンは苦手である。以前使っていた慣れたものがいい。しかし、パソコンのソフトは次々バージョンアップされる。やがて古いのはある日、廃棄されるのだろう。
 新バージョンに慣れなければ、やっていけなくなる日が来る。

 「でも、その時までは生きてはいないだろうから、まあ、いいや」

2012年11月7日水曜日

あき色とバッハ

わずか40秒の、チェンバロのための組曲より小品を選びました。
(イギリス組曲第6番、ニ短調より)
   

2012年11月5日月曜日

長崎かすていら


 皆さんはどのようなお菓子が好みでしょうか。最近の若い人は洋菓子の好みが多いようで、チョコレート系のお菓子なんかが嫌いという人はまずいないようですね。

 このチョコレートはヨーロッパでも比較的新しいお菓子のようです。原料のカカオ豆はご存じのように新大陸原産ですから、当然、ヨーロッパに伝わったのは16世紀以降です。最初はコーヒー豆のように煎じるか何かしてココアのような飲料として用いられたようです。固形の板チョコが作られるのは19世紀中頃ですから、これからお話しする江戸時代には、皆さんのだぁ~~い好きなチョコは日本にもヨーロッパにもなかったのです。

 チョコこそありませんが、この時代(江戸期)のヨーロッパの洋菓子はだいたい現在のようなものが出そろっています。ここでその原料をちょっと見てみましょう。小麦粉はまあいいとして、バター、練乳、あとナッツ類などが使われます。
 どれもこれも脂肪分たっぷりです。それが洋菓子のおいしさの素でしょうか。でも砂糖以外はほとんどが各種の脂肪というのは健康面から感心しませんね。
 よくバランスのとれた食事をといいますが、極めてバランスの悪い『お菓子』は食事とは別のものという考えなんでしょうね。(お菓子は別口、とか別腹というのはそういうことか!)

 それに対し、江戸時代からある和菓子に注目してみましょう。ここでは長崎かすていらをとりあげます。原料は砂糖、小麦粉、水あめ、卵、その他です。原料の栄養素から見ると、脂肪過多ではありません。炭水化物、タンパク質、脂質がバランスよく入っています。カステラはずいぶん健康志向のおかしなのです。菓子でも食事と一緒で和風は健康にいいんですね。

 このかすていらのバリエーションである、小豆入りのカステラ(具体名でいえば小男鹿・さおしか、下記図)
 の場合なんかは小豆が入っているため、三大栄養のほかに『植物繊維』も豊富である。

 江戸時代長崎で作られ始めた長崎かすていら、はポルトガルから入った南蛮菓子としてのルーツが知られていますが、私に言わせればアチャラのスポンジケーキなどとは別物、日本のオリジナルといっていいでしょう。

江戸時代に日本に来たオランダ人も朝鮮人も中国人もこれを和菓子として認識しています。カステラを作る和菓子職人の腕は世界的にも一流で、これを茶菓子に食べたオランダ人も、

 『う~ん、こんなうまい菓子を作る菓子職人は世界広しと言えど、オ~ランダ!』

 と言ったとか言わなかったとか・・・

 江戸時代の長崎かすていらの世界にないおいしいところは

 これ以外にも長崎で和菓子は発展展開をみせ、多様でおいしい菓子が作られます。長崎がこのような素晴らしい菓子を生んだのはオランダとの貿易によって入ってくる豊富な「白砂糖」があったからだといわれています。
 日本人の贈答好きはこの時代から。高級和菓子のかすていらなんかは当時高級贈答品としてかなりの需要があったと思われます。

 オランダからの輸入砂糖はかなりの量にのぼりました。多くの和菓子が作られた証拠です。

 先日出島に行ったときに、輸入砂糖と、それからつくられた和菓子の動画を撮ってあります。ご覧ください。

 きょうは長崎かすていら、の宣伝になりましたね。長崎かすていら本舗から

 『宣伝料をいくらかもらいたいですわ~』

追伸、江戸のオランダ人の定宿、長崎屋はカステラ本舗とは全く別物です。当時の唐物(オランダ商品を扱う)店だったようです。

2012年11月4日日曜日

江戸を歩く 本石町 長崎屋

 花のお江戸を歩いても先日の長崎旅行が思い出される。

 『一体、お江戸と長崎とどうつながるのか?』

 それは時々このブログでも取り上げた長崎出島・商館長の『江戸参府』、オランダ人は商館長と医師、書記の3~4名、残りは日本人ばかりが長崎から60人余の大名行列の格式で江戸城まで将軍に拝謁に出かける行事である。1790年までは毎年、以後は4年に一回となるが幕末まで続けられた。

 目的は、ヨーロッパで唯一、貿易が許されたことへのお礼言上、それに伴い贈り物献上、そして、今後の貿易の許可である。

 下は品川辺りを行くオランダ使節一行の行列の一部
 オランダ使節は江戸では、外国からの賓客であるから、丁寧にもてなされた、ただ、幕府の施設には泊まらなかった(なぜだろう?)、商人の『長崎屋』を定宿としていたのである。

 今回、日本橋近くの室町にその場所があるので見に行った。当時の江戸きり絵図ではこのあたりである。当時は江戸・本石町といった。
この近くには、時を知らせる、時鐘があった。

 江戸の人はヨーロッパ人などめったに見られないので、オランダ人がここに泊まったときは野次馬がどっと押し寄せた。北斎の版画にその様子が残っている。
 この場所は日本橋から歩いて5分ほどのところなのだが、場所がわからなくて、お巡りさんやガードマンに聞いてようやくその場所に行きあたった。
 しかし、現在、残っているのは地下鉄の入り口にその長崎屋があったことを示すプレートのみで、せっかくいったのにがっかりした。

 そのときのブログです。ここクリック