2022年2月3日木曜日

三回目のコロナワクチン

  3日前に市役所から3回目のワクチン接種券が届いた。今回は受けるかどうしようか迷っているところである。聞くところによると三回目は迷っている人、もう三回目はしないと言っている人が結構多い。

 その理由は、副作用がだんだんきつくなるからヤダ、という人、これからコロナは収束に向かうかあるいはうんと弱毒化するので必要ないと思っている人、そもそも信念をもって一回目から拒否している人、様々である。

 二年間にわたって特にマスコミに脅されまくり、うんざりしているところへ持ってきて、去年の秋ごろ急速にコロナ発症が減少したが、どうもワクチンの効果よりウィルスそのものの特性によるのではないか(ということはワクチンにあまり効果を認めない)、そして今、進行形で急激に増大しているコロナだが、統計で明らかなように重症化する数は母数が多いにも関わらず今回の5波が最も少なくなっているのである。そんなことから3回目の接種は積極的拒否ではないにしても迷っている人が多いのではないだろうか。私もその一人である。

 先取りして5波に襲われた沖縄では波は減少に転じているし、初発のオミクロン種の流行の南アフリカではすでに収束している。あわてて三回目を接種してもそのころに急速に波が減少に転じワクチンの免疫が切れるころ、第6波ということになれば、むしろ慌ててワクチンを打つより、迷いながらうんと先延ばしにして3回目のワクチンをした免疫が後々残るからそっちがいいかもしれないと考える。

 実のところ、二年間にわたるコロナ流行で、ワイら素人の庶民でも気づいたことがある。それはコロナ専門家(政府の専門委員を含め)の将来流行がどうなるかの見通しが当てにならない、あまり信用が置けないということである。ワクチンの予防効果は確かにあるだろうが、繰り返す上昇の波、下降の波がワクチン接種の広がりの可否では説明がつかないのは素人でもわかる。

 独立不羈が志向が強いアングロサクソン系の国(英米等)はもうマスクをつけるのもいやと拒否する人が多く、最近のニュスではロンドンはマスク強制はやめたという報道があった。日本は強制ではないが日本社会の例の同調圧力によって今でもほぼみんながマスクをしている。ワイは基本的にマスクを「つけさがす」(←これ阿波弁ですよわかりますか?)のはいやである。これについてはコロナ流行の十年も前から何度もブログに書いている。

そのブログ・ここクリック

 私の友人が面白いことを言った。

「マスクしてないことは恥ずかしいんじょ、ちょうどパンツを履かずに人前に出るようなもんじょ」

 これは友人の言葉ではなく、マスクをするのが当たり前という考えを持っている人が言ったことが、

このような言葉になって流行っていいるらしい。

 まったく!同調圧力もここまでいうか!というのが私の印象である。

 「ホウホゥ!マスクがパンツなら、隠す口元は、口唇ともいうからさしずめ「陰唇」か!おちょぼ口に女性はそうすると「小陰唇」。京唄子(古っ)なら「大陰唇」か!そう考えりゃ隠すのは止むをえない。男の場合は「陰唇」はないから、舌が「珍棒」(チンポ)か、そうすると、食べるときはマスクを外すが、チョコアイスなんどを食べて口唇の回りがチョコで汚れたら、口唇をペロペロするが、こりゃぁ陰唇を舌で嘗め回すクリニングスやもっと卑猥な性行為になるわな、こりゃあかん、もの食べるときもマスクは無理でも大きな扇を広げさがして口元を覆わにゃ」

 となるが、マスクパンツ説のなんとばかばかしいことよ!

 ここ数日まえから、ティンエイジャァが日中もウロウロしている。試験中か高校入試で早じまいかと思い、先ほど座っていた高校生に聞くと、やはりコロナの第5波で休校や早引けになっていたとのことだった。高校生やこしぃ、まったくかかっても重症化しないが、うちに持って帰って家族に移すのが困るからそのような措置なのだろうか、でもオミクロンの感染力はそんなことで収まるのだろうか、疑問の一つである。

 今回の5波で収束するか、あるいはしないまでも弱毒化でインフル並みになってほしい。さて5波は今後急速に減少するか、また減少してもさらに第6波がやってくるか、どうだろう。そういえば大昔、喜劇俳優で古川6波(ロッパ)がいたな、これも古っ!

https://www.covid19-vaccine.mrso.jp/362051/VisitNumbers/visitnoAuth/

https://www.pref.tokushima.lg.jp/ippannokata/kenko/kansensho/5047297/

2022年2月2日水曜日

2月2日の雑感日記

  今日は、高血圧を診てもらっている循環器科の予約日、四週間前から診てもらっているが最初の投薬で二週間様子をみた。朝の血圧が下がらないので、次の二週間は薬を変えた。で、今日、毎日朝夕の血圧プロット表を見ながらの診察である。私が見ても新しい投薬の二週間でずいぶん下がっている。医師は当分この薬で行きましょうという。

 気になる点をいくつか聞いた。

●この薬は前の薬よりいわゆる「キツイ」(作用が激しいという意味で)のか?⇒一段階薬効の強い薬とはいえる、とのこと

●ずっと(死ぬまで)飲み続けることが必要なのか?⇒そうなる可能性が高いが、今後の血圧のコントロールによって、薬は変わる(より弱い)のになる可能性がある、とのこと

●血圧の薬を常用することにより、高血圧からもたらされる病気のリスクは小さくなるのか?⇒(たぶん高齢者からこのようなことは何度も聞かれているのだろう、ウンザリした感じで)、前も何度も言っているように、薬を飲んだからいいというのではなく、薬とともに血圧のコントロールが大事で、そうすることにより思わぬ高血圧による発症はより少なくなる、とのこと

●副作用は処方薬とともに出される薬の説明書に書いてあるが、書いていない、多種の薬を常用することによる肝臓障害はどうか?⇒それはありうる、心配なら今後血液検査をすればよい、とのこと

 私が質問すれば漏らさず答えてはくれるが、こっちは素人、あちらは専門医、普通の言葉で述べる私の質問に、誤解が生まれているのではないか、うまく私の懸念が伝わっていないのではないかと多々感じる。多くの予約を抱えているので忙しく個人の細かいところになかなか目が行き届かないのだろう。言葉も事務的となるし、こちらもあまり時間を取らせまいと遠慮もある。(70歳を超える私からこの若手の医師を見ると、失礼かもしれないが外見なんかは高校生が白衣来たように見える若さである、言葉やコミュの世代の断絶もあるのかしらん)

 最初の診察の時、強く町のクリニック(主治医があればそちらを)を進められたが、家も近いし、10年も前からこの病院の他の科で定期的に診療してもらい常用薬も処方してもらっているので、ここの循環器科で診てもらい処方薬をもらうことを希望している、とお願いした。医師は、まぁこの血圧表を診ているとコントロールはできているようなので、同じ薬でまた様子を診ましょう。とのこと、次は5週間後であるが、医師がボソッと

 「なかなか予約がいっぱいで、(私の)予約が、はめ辛いんだよなぁ」 

 同じ病院の泌尿科の私の主治医は、循環器科で血圧の薬が確定したらこちらで出してあげてもいいとは言ってくれている、循環器科の先生にもその旨言ってあるが、できれば循環器科で診察、投薬を受けたい希望も言ってある。血圧の薬は3か月くらい出せると聞いている、三か月に一度の予約はそんなに難しいのかな?

 石原慎太郎さんが亡くなったニュースが昨日駆け巡った。ちょっと古いが「太陽族」という若い特徴的な世代を象徴する言葉を生み、昭和30年代初期の世相を歴史的に言い表す言葉を生み出した。若い人は右寄りの政治家としてしか知らない人が多いが、私はかろうじて彼の世相をとらえた「太陽族の若者」を知っている。小学校の三年生頃まで近所に大きなアミューズメントパークがあり(鴨島有楽座、大火で焼失する)、ティーンエイジャー、20歳そこそこの若者がその中、周りでうろうろしたのを覚えているが、(おそらく夏だろう)派手なアロハ、横を借り上げつつ前に少し伸ばした髪(今から思うと慎太郎刈りか)、そして黒のサングラス、の格好で粋がって歩いていたのを思い出す。石原慎太郎さんの小説「太陽の季節」と即映画化され、一世を風靡した太陽族をまねた田舎の若者であった。いまから考えると海から遠い内陸部で場違いさは否めないがこれも若者の全国的な流行の一つであった。

 太陽つながりで、慎太郎はんの「太陽の季節」は昭和31年であったが、4年後の昭和35年に、太陽と海を舞台にした衝撃的な映画が公開された、どちらの映画も私が見たのは10年以上たってからだが、フランス映画「太陽がいっぱい」である。太陽の季節は、日本の小説が元ということもあり、主人公はすべて日本人であるため、似合う似合わないにかかわらず、みんなアロハ、黒サングラスと外見からまねていったが、フランス映画の「太陽がいっぱい」は、もう絶対日本人にはまねのできない、哀愁を帯びた超美形のアランドロンであったためか、見た人は審美感や哀切感が入り混じって胸いっぱいにさせ、特に女性の心を鷲掴みにした。さすがアランドロンの外形は日本人には真似られないだろう。またサウンドトラックの主題歌も大ヒットした。こちらは内面の官能を大いに刺激したが、安易に外見はまねできなかったため「太陽がいっぱい族」は生み出さなかった。しかし太陽族は昭和30年代半ばを過ぎても、風俗として続いたのは、アランドロンの「太陽がいっぱい」の舞台の太陽と海の影響もあるのではないだろうか。

2022年2月1日火曜日

勝瑞城館跡へ行ってきました

  勝瑞城およびその館は、細川氏の阿波守護所がおかれ室町時代の阿波の政治的中心でした。勝瑞の城跡に今でも残る土塁、堀などは勝瑞城の遺構を今も伝えるものとして古くから知られていました。私は半世紀も前に「勝瑞城跡」を見学していました。

 勝瑞の「館跡」は下の絵地図を見てもらったらわかるように城跡より広大です。しかし発掘調査が最近までできずに実態はよくわかっていませんでした。そのため勝瑞城跡といえば下の絵地図にあるように右上(北東)の見性寺境内と重なる部分でした。


 近年、発掘調査が進み、その遺跡の保存にも力を入れるようになった結果、奈良平城京の史跡公園ほどではないにしても、広く遺跡敷地をとり、野外展示や発掘品の室内展示で歴史好きの人を楽しませてくれるようになりました。

 この城館については、館を巡る主要人物、京都中央政界とつながった館関係者の人間関係とその勢力の盛衰、それぞれの時代も登場人物も多岐にわたり、もう複雑(怪奇といっていいかも)、歴史の専門家でも説明が難しいほどです。(一応、この勝瑞城館の主要氏族は、細川氏、三好氏ではありますが・・)

 世は室町末期、いわゆる下剋上の時代、権力が次々と下の者に移り変わるのはめまぐるしいほど、もっともわかりやすく象徴的なのは、幕府権力が次々と下の者に移っていくことでした。まず将軍は飾りで祭り上げられ、執政の細川氏に幕府権力が移るとみるや、その下官である三好氏がまた細川氏を祭り上げ権力を奪取、しかし三好の絶頂期も続かず、その家臣である松永弾正に権力が移る、とまぁ、これは一例、これにいろいろな氏族が結びついたり、また他氏族に従ったり、従わせたりで、わかりにくいことこの上ない。

 そんなわけでこの勝瑞城の背景の歴史を知るのは、説明パネルを読むだけでもよほどの根気が必要、しかし説明は丁寧にわかりやすい文でおまけにイラストまで多用しているのですが、ともかく登場人物が大勢で、複雑な絡みのある人間関係なので、理解は相当難しい。

 ぜひ実際にこの城館遺跡に出向いて下のような説明パネルを時間をかけじっくり読んで理解してください、私の拙劣なブログではとてもお話になりません。

 説明パネル一部、こんなのが十枚以上ある、すべてよく読まないと全体の歴史がつかめない。


 それでは次に野外展示の一部を紹介します。まず勝瑞城館遺跡の広大な発掘現場(今は埋めなおしてある)の動画パノラマをご覧ください。

 野外展示の堀跡、実際の深さを再現はしていない、その場所を少々の窪地にして深い堀のあった場所がわかるようにしている。



 枯山水庭園跡(いくつかの石の並びがそうのようだ)

 礎石建築物(実際に礎石を並べその上に四阿風の建物を建てている、公園の休息所を兼ねているが、少なくとも建物の礎石や柱の並びは歴史的建造物を再現しているようだ。)

 次に資料展示室の発掘品の紹介をします。スライドショーにしてありますので画面をクリックしていろいろな発掘品をご覧ください。

2022年1月30日日曜日

ワイの桃山日記、やがて消えるんだろなぁ

  爺さんが書いた有名な日記としては永井荷風の「断腸亭日乗」がある。40歳前くらいから80歳で亡くなる前日までほぼ毎日の日記である。中高の国語教科書に乗るほど有名な文豪であるためこの「断腸亭日乗」も文学的価値のあるものとしてすべての日記は全集に収められている。膨大な日記であるため私はすべて読んだわけではないが、特に私の興味ある日中戦争から(1937年)からなくなる1959年まではすべて目を通して読んだ。特に日中戦争あたりから強まる巷の軍事色、そして太平洋戦争中の一層の軍国主義化、空襲による罹災、避難、混乱、そして敗戦後の日本史上まれにみる社会的混乱などに対する、客観的な記述と彼の冷静な分析、意見など興味深く読んだ。

 しかしそんな記述も60歳台までで70歳を過ぎると数行の淡々とした事実の記述が多くなる。彼の日記の「断腸亭日乗」と私の桃山日記とは月とすっぽん比較するのも恥ずかしいが、70歳をすぎて日記の内容・量ともめだって低下してきたのは、自分と比較してもやはり老化による書く意欲の減退があるのだなぁ、と思う。彼も高齢になって「独居老人」であるのは私と変わらないが、資産・預金などはたくさんあり、若い時から過ごしてきたいわゆる「高等遊民」(古い言葉だ!)を死ぬまで続けることができている。何より私がうらやましいのは彼の交際の範囲が広いことである。独居というとなにか孤独の感が強いが、それは荷風の場合、我が家に帰ると独居になるのであって、一歩家を出たら多くの人と会ったり、一緒に行動を共にしたり、食事をしたりしている。そして荷風の何よりの交際の特徴は歳がいっても花柳界、赤線青線の春を鬻ぐ女たち、そして浅草のような下町のエンターテーメントの従事者、美女(ダンサーなど)も多いし美男も多い、もちろん若い。そして先生、先生ともてはやされ、自らも大いに楽しんでいる。

 「まったく!うらやましい限りのジジイである」

 これなどをみると独居老人いってもワイとは全然違う。しかし老人の妙にかたくなな心理は荷風が年を重ねるにれて、これはワイとある部分似ているな、と感じることがある。荷風の場合、隣家のラヂヲの音が気になるのである。それも偏執的といっていいほど、少しでも聞こえ出すと、もういたたまれなくなって外へ出るのである。ラヂヲの音をきくと創作意欲も冷静に考えることも全くできなくなると言い切っている。そこで歳がいっての日記には「ラヂヲの音」云々で、家をでて、それが止む夜遅くに帰る、という記述が頻繁に出てくる。これはワイも老人の心理として理解できる、「ラヂヲの音」ではないにしても、独居の偏屈な老人は、隣家やあるいは身の回りの、普通は当たり前とみられ、気にしないことが偏執狂のようになって、イライラして家を飛び出、外で気を紛らかせるというのはある。ワイもそのような強い傾向がある。

 荷風さんの「断腸亭日乗」は日本語が続く限り半永久的に残るであろうが、ワイの桃山日記は、やがて消えていくだろう、別に全然それが嫌ではないし当たり前だ、でももしかするとワイのさほど長くない命を待たず桃山日記と称するブログは消えるかもしれない。というのも一度それを経験しているからである。

 以前、ブログ日記をヤフーブログに書いていたことがある。ところが3年前の5月くらいに突然、その年いっぱいでブログ事業をやめます、と通知が一方的にあった。驚いた!今まで書き溜めたブログは全部消滅か、ほかのブログに移す方法も同時に紹介されていた。ワイは前から書いていたグーグルのブログにコピーして移したが、その量は三分の一ほどである。このブログの右欄外に2022年から辿って2019年の5月を見てもらえればブログの数が尋常でないほど多いのに気遣えるだろう、それは消えたヤフーのブログを移したためである。下のタイトルの左下にある赤丸で囲ってあるように「20180713」と入っているブログはヤフーのブログだった2018年7月13日のものである。


 しかし一部移し替えたのはよかったが去年の秋くらいから文字は表示されるが、ヤフーから移し替えたブログの写真は下のように全く見えなくなっている。


 ネットではブログは人気ないといわれる、そのためヤフーをはじめブログ事業から撤退する会社が多くなると思われる、このグーグルのブログもやがて、ある日突然消え去る運命にある。まぁ、それでいいと思うが、ワイの生きてる間はあるだろうか?

2022年1月29日土曜日

医学史の一コマから

  今年で私は満71歳を迎える。若い時から不摂生、偏食、そして奔放な生活、よくぞこの歳までいきたと、ある意味感謝せねばと思ったりする(とはいえ今晩にでも死神が迎えに来たら、もうちょっと待ってつかい!、というだろうなと思うが)、人生を振り返ると、幸いなことに死んだかもしれないような事故には会わなかったが、二度、もし現代医学・医師の世話にならねばおそらく死んだかもしれないという病気にかかった。一度目は小学校5年の時、風邪と最初は思っていたが40度近い高熱が何日も続き、意識はほとんどなったが、時たま意識は回復する時があったが、ともかく苦しくて目を開けてみる視界、天井の隅には変なモノが浮かんでは消えたりしていた。それを救ったのは当時新薬とされた(田舎の医者がようやく処方できたという意味で)クロマイ(クロロマイセチン)・抗生物質であった。内服すると効果は劇的で日中に服用したとおもうが夜にはもう意識もはっきりし熱もほぼ平熱になった。子供心にも、この薬で助かった、もしこの薬がなければおそらく11歳で死んでいただろうと思った。

 そして二度目は、57歳の時、後で診断されて前立腺肥大(前立腺の良性腫瘍の一種9と分かったが、前夜の就寝前から尿が全くでなくなったのである。膀胱はパンパンになっているが、力んでも尿のしずくも出ないのである。まだ夜の開ける前であったが、はち切れんばかりの膀胱、七転八倒するような下腹部の苦しさで辛抱ができず、夜間救急外来へ駆けつけた。どうなるのだろうという不安、そしてじっとしておれないような苦痛であったが、医師は大したもんだ、このような尿閉処置には慣れているようで、導尿カテーテルを尿道口から差し入れ膀胱から尿を輩出した、膀胱から尿が出るにしたがって潮が引くように苦痛、苦しみはなくなっていった。もう地獄から天国であった。あとで考えた。この尿閉に対しもし導尿ができなければ、尿が排出できず、苦痛のうちに腎臓がやられ、最後には尿毒症になったのは疑いない。もし私が明治以前に生まれていたら、おそらくもがき苦しみながら死んだだろうと思う。

 この私の死ぬような苦痛である尿閉を救ったのは導尿カテーテルであるが、医学歴史的遺物としてみたのは長崎へ行った時であった、長崎に江戸の文政期にできたシーボルトの医学塾・鳴滝があるが、その中に当時の西洋医学の外科的器具が展示してあった。メス、ハサミのようなもの医学的のこぎり、浣腸器のようなものもあった、その中に導尿カテーテルがあったのである。これを見たとき、

 「ああ、あの尿閉の死ぬような苦しみ、江戸・文政期であっても蘭方医ならば、尿閉でも助かったのだなぁ」

 と思った。江戸期蘭方医が医学の救世主のように(名前倒れもあるが)噂されたのもわかる気がする、古来の漢方医では尿閉はお手上げだっただろう、そのままの放置では七転八倒で苦しみ抜いて死ぬだろう。私が体験したような尿道カテーテル処置によって、あぁ助かった、地獄から極楽とはこのことじゃ、とおもったが、江戸時代の患者も同じように思ったに違いない、手を合わせ拝みたくなるような、オランダ医学の成果であろう。

 抗生物質が一般化するのは20世紀も半分過ぎてからだが、西洋において科学(解剖学、化学と結びつきながら)として医学の知見や臨床処置の経験を体系化された、その進歩は遅々としたものではあるが、確実に、患者の苦痛を軽減し、目に見えて治癒できる症例も増えていった。

 この医学的遺物である尿道カテーテルを見たのはシーボルトが開いた鳴滝塾であったが、この塾の学頭というかシーボルトの第一の弟子はわが阿波藩の人である。藩医の家系であった「高良斎」である。先日、眉山会館から細道を通り寺町を歩いているとその人の墓があった。

 正善寺の墓地であり入り口にはこのような案内の石柱がある。


 そしてしたが高良斎の墓である。彼ならば江戸時代ではあっても尿閉の患者の苦しみは治癒できたのである。


 江戸時代の医師であっても、患者を救えず、死なせてしまうことは大変残念であったろうと思う。人はいつかは死ぬものである、でも苦しむ患者を診て、劇的な全快は無理としても少しでも苦痛を軽減させてあげたいと思う。若く探求心のある医者ほど医師の無力を思い知り、どうにかしたいと強く思ったはずである。でも何とかするという手立てはむつかしく、たいてい患者は今までのような苦痛をたどり、死んでいった。

 しかし、かすかな光は西方、日本のはずれ長崎からもたらされる、阿蘭陀医学ならばなんとかなるのではないか、医学の素晴らしい成果も聞こえてくる、挫折感を味わった若い探求心のある医者は、何としてもその医学をものにしたいと思ったと思う。高良斎はそのような阿波の医者だった。一カ月近くかかる長崎のまで旅をし、シーボルトに弟子入りし、阿蘭陀医学を学んだのである。文献が少ないため阿蘭陀医学によってどのような成果がもたらされたのか、詳細にはわからないが、眼科の外科的手術、各種の手術、梅毒の当時としてはかなり斬新で有効な効き目のある水銀療法、そしてこの導尿カテーテルの処置もそうであろう。

 18~19世紀にかけ西洋医学は学問として目に見えて進歩したが、西洋医学にしても江戸期、普通の町医者が苦悩したような悩みを経験している。もっとも西洋の場合はその苦悩、そして探求のためヨーロッパから最新の医学を持っているイスラム世界への学問の旅は高良斎より800年ほど早かったが。

 ここでちょっとおすすめビデオ(DVD)、市立図書館にある「千年医師物語」、うえで述べたような医師の苦悩、そして医学先進地区への長期の旅、そこでの学問、治療の無力感、それでも未来に見えるかすかな光・・・など、医学史としても、ドラマとしても楽しめます。よかったら借りてみてください。



2022年1月28日金曜日

癒し

  前々回のブログで、ウチら田舎の優秀な高校生は医学部を目指す子が多いと書いた、しかし医者は、研究者となる医者を除いて患者と向き合わねばならない。職業としてはよほどの覚悟や倫理観、そしてできれば話術が巧みであることが望ましい。というのも最近の患者は扱うのはむつかしいと思う。

 時代が進むとともに医学は進歩し、多くの病気が治るようになり、人々の健康に過ごせる寿命もたいへん延びた。 医学も科学であるから過去からの医学の知見、技術の蓄積でなっている、だから人体の生理を極め病気そのものを治すのは時代とともにたやすくなっていく、医師個人の能力の向上というより、今までの治療の成果蓄積の成果が集められ、その膨大な経験が例として、この病気治療にはこのようなマニュアル適応されるという経験がたどれるのである、だから医師は診断がついたら、その多くの治療マニュアルからどれを選択するかということになるが、これも先人の多くの症例カルテが残っているので時代とともに、この意味では医師は楽である。

 また漫画上の伝説の医師のブラックジャックのように神業的な手術の腕前はやはり高度な技術として今も医師(特に外科)に望まれるのではないかとも思うが、最近は細かい手術、それこそ顕微鏡で見なければならないような患部の手術をはじめとして、機械に頼る手術、ロボット手術ともいうようだが、そのような手術が多くなり、これからもAIを組み込んだロボット手術は多くなるであろう。そうなると容易とまでは言わないにしても昔と違い医師の知力・能力の向け方が違ってくるだろうと思う。パソコンを前に電子カルテ、そして検査技師群から上がってくる各種検査のデータ、そして過去の症例集のデジタル資料、そして治療のマニュアルの選択チャートをパソコン画面で見ながら、患者の治療を決断する、極論を言えば、患者の顔をほとんど見ないでパソコンのみで診断から治療までできそうである。手術にしてもAIを組み込んだロボット手術が主流になると医師の人力・知力は、よく言えば軽減、悪く言えば楽ができるようになる。

 このようにこれからの医師の仕事を考えていると、今朝、ニュースが飛び込んできた、どんなトラブルがあったかしれないが、もしかすると何か医師の治療上のトラブルか、たぶん患者だったのだろうある家の弔問に病院の医師が複数のスタッフとともに訪れ、この家の男から被害にあい心肺停止という、詳細は分からないが、このような医師、患者のトラブルは事件にならないまでも近年多く発生していると推察できる。なぜ、そうなるか、医師と患者の関係の希薄さがその大きな原因であるような気がする。

 確かに患者は病気に対する最も適切な処置を求めている、治療最優先ということも当たり前の話である。しかし患者の立場から言うと、肉体的治療のみを求めている人ばかりではない、「癒し」を求めて医師にすがる人もいるのである。これこれの検査の結果、このように診断がつきました、だからこれこれの治療を行います、と機械的に医師に受け答えされて、それが「癒し」となるであろうか?などというと多くの患者を診て、患者の心までいちいち知る時間もない、だからそれはむつかしい、だから日本でもアメリカのようにそのような場合は病院に心理学の専門家や医療心理療法士が常駐して分業し、そのような役目を分担するのがこれからの医療の在り方だからそうすべきだ、という意見がかえってくる。確かに複雑化、専業化した近未来の医療界はそうなるかもしれないが、やはり私としては診察室で向かい合う医師に「癒し」求めたいと思う。

 そのため私は、積極的に医師に対し、いろいろお話をする、もちろん全く関係のない話はできないが、関連した話はいろいろ思いつくし転がっている、診察室へ入る前に、いろいろ話題を考えたりもする、そして多様な話題を持ち出すことにより、それが案外私の「癒し」となっている場合がある。ただ、あからさまにそ医療関連のこととはいえ焦点の定まらないぼんやりした話を出しても乗ってこないというか無関心な医師もいる、すべて診断かつそれに基づく治療と合理的に割り切ってカルテから引き出される話題一本やりに戻る医師もいる、ちょっとそれでは「癒し」にはならない。

 「癒し」というのは多義でなかなか定義がむつかしい、「癒し」医師の専売特許ではないし、偉大な宗教家の行為にも使われたりする、しかし「癒し」は英語ではホスピタリティという、これはまさにホスピタル、病院の語源である。

2022年1月27日木曜日

津田の洲と葦原

  車を持っていない私のために友人が午後から数時間のドライブに誘ってくれた。たいがい私のリクエストを聞いてくれるので、今日も海が見たいと、そちらの方面のドライブになった。ワイは昔から山のほうが断然好きであったが、60歳を過ぎるころから、雄大で広々した、しかしあまり山のような変化は乏しい、海のほうが好きになった。ぼんやりして海を眺め、時を過ごすのに至福を感じるようになった。

 今日は新浜のマルナカの前をとおり、南バイパスを突き抜け、津田橋北詰にでて橋を渡り土手を海のほうへ向かった。適当な土手の空き地で車を止め、そこからは歩いて津田河口(勝浦川)付近にある大きな洲とそこに生い茂る「芦原」(葦やヨシが生い茂る原野)を洲が切れて波が洗うところまで行った。

 友人とは前後になりつつ、いろいろおしゃべりもしたが、お互い耳が遠くなっているのと、芦原に吹く風の音のため会話はほとんど聞こえず、後で考えると、相手の受け答えにかかわらずお互いが自分勝手にしゃべっていたような状態で、途中でそれに気づき、苦笑いした。

 小松海岸のような見渡す限りの砂浜海岸もいいが、洲が所々に島のように広がり潟湖も存在し大きな葦、ヨシの原野が存在する海岸もなかなか風情があってよい、寒中のこの場所、わびしさ、枯れた風景、まったく人気のいないところ、強風ではないが常に風が吹いている感じは決して嫌な感じではない。歳ぃいった爺さんが、船頭小唄の「♪~おれは~~河原の枯れすすきぃぃ~~~・・・」という歌を好むように、自虐でも惨めさでもなく、結構、このさびしい葦原の状況に酔って嬉々として歌うような感じとでも例えようか。

 詩心は少しはあるが、形にして和歌、俳句にする能力は備わっていないが、先人の有名な詩はどのような状況でもわいてくる。

 「葦原・・云々」ですぐ思い出したのが

 葦原やしげらばしげれおのがままとても道ある世とは思はず

 である。古典の和歌ではあるがはて、誰だったか?思い出せない。昔だと詠み人の名前なんどはすぐ思い出せたというか、和歌が浮かんだ時にすぐそれと一体になるものとして思い出したものだが、過去の私の記憶の蓄積は最近、人名をから始まりどんどん消えかかっている。今、ネットで調べると、御名は「後水尾天皇」、名前が思いつくとやっと消えかかった記憶がよみがえってきた。この歌は天皇が実際に葦原にいって詠んだのではなく、幕府(二代秀忠の時代)の皇室に対する圧迫に憤って、詠んだ歌と思い出した。

 和歌も俳句もワイの力で創作は無理だが、もし作るとしたら、枯れた葦やマコモの原をかき分けかきわけ、残り少なくなったわが身の残された「時」を象徴する寂しい葦原の道なき道をとぼとぼ歩いている心象風景を表現すると思う。