2011年6月12日日曜日

今日も一日雨、50円で言語学、文化人類学のお勉強

 朝から今日は一日雨、午後になってさらに雨脚が強まる。まだ小雨の状態の午前中に買い物に街に出た。家の中で退屈するから今日もDVDを借りることにした。
 私の街には大きなレンタルビデオ屋さんが3軒もある。値下げ競争が始まったのか、私がよくいく店はこのあいだから旧作全品50円で借りられる。

 今日はあらかじめ見たい作品の心積もりがあったので迷わずその1本を借りる。実はこの作品、もう1年以上前に見ているのである。
 「それなのになぜ?」
 昨夜ある人にこの作品を推奨したのである。もちろん一度見たから勧めたのであるが、今から振り返って考えてみると肝心なところが頭に残っていないのである。

 映画としての筋はもちろん残っている。しかしこの映画にはそれ以上の見どころがあるのである。その観点からみれば
 「一度見ただけではダメだ。」
 でもう一度借りてみることにしたのである。いやもしかすると数度見なければならないかもしれない。それならば一週間借りられるから、じっくり見られる。

 前に見たときはアクションものの娯楽性の強い作品というように解釈していたため、日本語吹き替えバージョンで見た。
 しかし、この作品、オリジナル言語はなんと「マヤ語」。マヤ帝国とその辺境が舞台だから確かにマヤ語というのは理解はできるが、映画としてその言語でつくれるか、というと話は別である。
 普通、ありえない。世界が市場のハリウッド作品ならば迷わずオリジナル言語は「英語」になる。ところがこの映画の監督はこだわりが強く、本物のオリジナルにこだわったのである。前にもキリストの最後を描く作品に当時のキリストが喋っていた言語といわれる「古代アラム語」を使用したのである。

 まずみるまえに「マヤ語」とはいかなるものかちょっと調べた。
 中米ユカタン半島あたりで使われたいた言語でネイティブアメリカン(インディアン)言語の語族である。
 母音構造は我が日本語とよく似ていて5母音。
 RとLの区別もなさそうである。これも日本語と同じ。
 子音も英語にくらべれば単純で日本人が発音しやすい。
 文法構造、語彙の構成、は調べたが専門家でない私にとって難しすぎてわからない。

 マヤ人たちは数万年前、氷河期の最中、アジアの北方から移動した「古モンゴロイド」の子孫であるといわれている。縄文語やアイヌ語とその「祖語」(先祖の言語)が同じかもしれないと前々から思っていた。
 北海道を何か月も旅行した時に、あちこちの博物館でアイヌ語を聞いたことがある。こういった言語は理屈より、実際耳で聞いた方が
 
「あ、これは親戚関係にある言語じゃ」

 と感覚で判断できるかもしれない。また私の古いDNAの中に残っている縄文の響きがよみがえるかもしれない。などと思いつつまず第一回目を見ることにした。

 今、15分ほどマヤ語を聞いた。インスピレーションはないが、確かに英語よりずっと親密に我が耳に響く。私には朝鮮や中国語より近い気がする。

 映画のキャストはほとんど無名の人である。それもそのはず、エキストラを含めネイティブが多い。
 顔やお尻丸出しの体形を見ても、われらアジア人の親戚。
 いやむしろアジアの中でもとりわけ日本人に近いと思う。日本人は古モンゴロイドの血を引く人が多く、大陸のアジア人に比べ、蒙古襞(目の上の脂肪の襞)が少なく、二重瞼が多い。マヤ人の肌や男ではあるけれどカラスの濡れ羽のような長いつやつやした黒髪をみてると異人種を見てる気に全然ならない。
 これは文化人類学的観点からみた感想。

 もちろん娯楽映画作品であるのでフィクションもある。しかし、見つつ調べ、かつ勉強しつつ、どこが本物でどこが間違っているかなどと批判的に見られる映画としては最高である。

 まだ見はじめて15分であるが、一週間、マヤ語、文化人類学、文化、などをお勉強させてもらおうと思っている。これで50円は安い。

 申し添えると、マヤは「文字」を持っていた。解読が難しいようである。珍しい20進法をとり、0も知っていたといわれ、数学もかなり発展していたようである。
 天文暦、金星暦というのを聞いたような気がするが、この映画を手掛かりに今言ったような文明の中身も知られればいいが、それは今わからない。

 2012年に世界の終末を予言する。とマヤの関連でいわれているが、どの文明圏でも終末論は語られる。その一つとして私は見ている。
 この映画の一番最後で、その文明の終末を招く象徴的なことが待っているが、今は言わないでおこう。

 題「アポカリプト」   

2011年6月11日土曜日

時代劇に見る風習・民俗

 雨で家にいる時間が長くなる。退屈なのでDVDを借りた。たまたま最新作一泊105円の見たい作品が返っていたので見た。
 時代劇、「武士の家計簿」
 天保時代(1830~40年)から幕末にかけての実話をもとにしたある武士の一家の物語である。

 私は面白かったが、こういう時代劇は好みもあるのでブログではあえて勧めません。
 
 今日はあらすじや見どころを紹介するのではなく、今に残る、あるいは最近まで残っていた風習・民俗についてこの映画の場面をもとに取り上げます。

 映画をもとに民俗や風習をとりあげるのには映画の時代考証がかなり正確でしっかりしたものでなければならないのは言うまでもありません。

 かなり意地の悪い小姑のような目を持つやまさんは、映画の細かい小道具類、ちらっとしか見せないからわかりにくい什器類も見逃しません。
 それでみても申し分ない映画でした。

 ちょっと見てください
この煙草盆極めて史実に忠実です。四角い木の箱(盆)に白い陶器の器は火種を入れるところ、今吸い点けています。その手前の茶色の竹筒は、キセルをこの上でぽんと叩き灰を中に落とすものです。
 
 ここまでなら普通の時代劇でも使うでしょうが、私が注目したのはその横の紙包みです。文字が書いてあるでしょう。これ「國分」と書いてあります。

 知る人ぞ知る國分は江戸時代刻みタバコの名産地、当時、量り売りの紙包みを置くことでリアルさ100点!

 さて、次は私が高校生頃まではまだ残っていた風習民俗についてです。次の2つの写真をご覧ください。
 上の写真は臨月を迎える産婦に白砂糖を送るところ。下は出産後、産褥に臥す妊婦が白砂糖を舐めるところです。
 こんな贈答の場面が出てくる時代劇って私は見たことなかったからびっくり。
 もう、若い人たちの贈答に関する歴史の教科書にしてもよいような場面です。

 江戸時代、白砂糖はオランダからもたらされるもので、超高価で、贈答品といっても将軍家、大名、大商人ぐらいが対象。しかし、中期以降になると、讃岐、阿波などでサトウキビから白砂糖が精製されるようになります、今に残る「三盆糖」ですね。それで、中小武士や町人にまで高価・貴重とは言いながら手が届くようになった。
 だから、この時代、白砂糖をいただくことはたいへん貴重なすばらしい贈り物だったのです。

 そして白砂糖は「薬」と同一視される滋養のあるものでした。ちなみに江戸時代、白砂糖はどこで売られていたか?なんと、薬問屋だったのです。

 そのため、下の写真、妊婦(仲間由紀江)が薬・滋養として白砂糖を食しているところです。

 どちらの風習も私が子供の頃まであったのです。贈答に白砂糖を送ることは高校生頃まで残っていました。
 今だと、贈答に白砂糖など送ったら馬鹿にされかねませんが、いくら今の時代であっても、安いという理由でこんな伝統のある贈答品を馬鹿にする人がいたら、少なくともその人は歴史の見識のない人でしょうね。

 お若い人、ぜひ知っておいてくださいね。

 次の民俗・風習は形を変えて最近増々盛んになっています。次の写真をご覧ください。
 えええ、何、これ?子供が飛んでる。遊び?にしては・・・子供も大人もえらいフォーマルな?
これを見て何をしてるか答えられれば、歴史検定で高得点間違いなし。

 武士の子が5歳(数えだから満年齢は4歳)になったとき、今までの、そしてこれからの無事の成長を祝う、また通過儀礼としての「袴儀」(はかまぎ)なのです。

 この子ども、後ろにある碁盤台から飛び降りてます。まず碁盤台に上がり、この日初めて袴を着するのです。後ろに控えている大人が烏帽子親となり、袴の紐を結びます。そして、正装が終わると飛び降りるのです。

 ここまで説明すると現代に引き継がれた風習が思い浮かびますね。そうです。

 「七五三」です。いまは格好だけこの写真のようにしてお宮参りで終わりますね。しかし、本来はこのようなものだったのです。

 外にも歴史的遺物の見どころとしては「四文銭」、「碁」、「矢立」などなど、たくさんあります。動画で見る歴史博物館の趣のある映画です。興味のある方は鑑賞してみてください。
 一般的な評価も悪い作品ではありません。

土曜の朝

 働いていて週休2日の人は土曜の朝はゆったりできる雨の朝かもしれない。
 ずっと失業中の私はいつもの朝。でも今朝は大雨、ときどきかなり強い雨が降ってくる。そして薄暗い。

 どこへも出かけられないなと思いつつ、昨夜たくさんドリップしたコーヒーを飲み、ぼんやりTVのニュースを見ている。

 MOTOさんのところはかわいい子猫が5匹いるといっていた。こんな時、子猫がまとわりついてきたらいいだろうなと昨夜の話題を思い出しつつ想像する。

 TVから流れるニュースを聞き流しているが、昨夜の話題に関連したキーワードで、listen to、聞き耳を立てる。

 「ドイツのO-104病原性大腸菌、もやしが原因」

 へ~、たしか昔、日本でももやしが原因と騒がれたな、と思い出す。昨夜トシ君ともやしもん、それもO-157の話をしたな。

 「AKB48、選挙投票で順位・序列を決める」

 うわ~、シビアーな世界じゃ、これはしんさまとの話題だったな。一位になるため犯罪的な策を弄する少女漫画の世界をふと思い浮かべる。

 年寄ると牛の反芻のように、過ぎ去った過去をはき戻し、口中でまた味わうものなのか。嫌だな。
 前向きに、未来を作り出したいが、
 今日は大雨、とじこめられ、何をしていいかわからない。冷めて香りも味も抜けたコーヒーを飲みつつおもう。

2011年6月10日金曜日

飲み会終わって

 こんなに喋ったの久しぶりだな。ハイボール1杯も空にできなかったけど、程よく快活に酔った。アルコールよりみんなとの話に酔ったのかな。

 どんな話題かも思い出せないくらい、取りとめもない話が次々、おまけに酔って耳が遠くなっていてでかい声なのに。でもみんな嫌がりもせずやまさんの話を聞いてくれた。

 ああ、馬鹿なことをしゃべりすぎたのかもしれない。許してくださいよ。
 きっとね、孤独から束の間、みんなのおかげで解放され、喜びに舞い上がってわけがわからなくなったんですよ。

 ほんとに考えると不思議だなあ。一年前まで見ず知らずの何のかかわりもなかったんですよ。それが、回を重ね、こんなに和気あいあいと集い、お話しできる。
 うれしいな。うれしいな。
 人生、もう少し長く生きてもいいな。と心から思います。

 今夜は雨、行き帰りはちょっと大変だけど、雨もいいね。

 しっとりと濡れた世界に囲まれ、雨に降りこめられた雨宿り人が集う。老若男女、職業もばらばら、いっときの驟雨にたまたま・・・・いえいえ、そうは考えません、前世の縁かも。

 われらは降りこめられた雨宿り人ではありませんが、今回の縁は人生の雨宿りのような象徴と私はとらえています。
 そうであるなら、雨夜の集い、歓談もいいじゃありませんか。
 そういえば千年前の、「雨夜の品定め」で有名な源氏物語の歓談、これも梅雨の夜だった。

 時間はあっという間にたち、列車の刻限なので、先に出させてもらった。
 名残はつきませんが、また、会えますよね。

 駅へ急ぐ道、うるんだイルミネーションが蛍光を放つ。
 宴果てて、雨の中、道々みんなは何を思って帰るのだろうか。
 写メールでささっと撮る。
 

うわ~っ この空模様 

今、三時、ちょっと外へ出た。降ってるかなと思ったが、まだ降っていない。空は暗く、大雨でも不思議でないような低く厚い乱層雲が手が届きそうなところまで垂れさがってきている。

 朝からこんな空模様。

 「お天道はんもよく降らずにこれだけ辛抱できるもんやな。」

 普通だったらとっくに降っているだろう。「過飽和」という言葉が浮かぶ。雨雲の容量以上水分があるのに雨滴にはなっていない。そんな状態を想像させる。

 梅雨や熱帯低気圧が近づいたときの大雨の直前に見られる。しかし、今日はその直前がなが~ぃ!朝から今まで。

 今は家の中にいるからいいが、夕方、列車で徳島へ行く。飲み会だ。

 「急性の下痢を辛抱し、辛抱し、たまりたまったように、私が家を出るころに、いっぺんにドシャー、後は一瀉千里、おまけに止むことなく夜じゅう。」

 「どうする、どうする」

 覚悟を決めていきますわ。

 重っ苦しく空からの水圧が高まる中、家の近くの公園の紫陽花は美しさを増している。この花は空気中の水分が多ければ多いほど、曇天になればなるほどきれいになる。
 紫陽花、漢字で書くと陽の文字が入っているため、なんか太陽と親密で陽性の花のような気がする。しかし、英語ではhydrangea,ハイドランジア、hydr-はギリシャ語語源で水を表す。ちなみにラテン語ではaqua-アクアが水の語源となる。お墓の前の水入れに「閼伽水」と書いてあるのご存知でした?この閼伽(アカ)は同じ印欧語族のサンスクリット語、いわゆる梵語。ラテン語のアクア(アカ)と親戚の言語だから似ているんですね。
 それはさておき、英語の方のネーミングが語の中に「水」の言葉が入り、紫陽花の性質にふさわしいような気がする。
 とはいえ紫陽花は日本原産の土着の花。日本の6月にもっとも似合う花になっている。
 こちらは噴水前、下回りたっぷりの水、そして噴水のしぶきでビショコになりながらも、やはり水気を好む花。
 見てる人もいずれアヤメかカキツバタと言いたいが平日の3時前、爺さん婆さんばかり。

 これらの花ならばビショコに濡れても美しい、が、やまさん、今晩、濡れそぼって飲み会でみんなに会う。間違っても美しいとはいってはもらえまい。
 それどころか濡れて変な臭気を発散するかもしれない。せめて、嫌わんといてなぁ~ 

 同窓会の話

 さっき郵便受をみたら往復はがきが入っていた。見ると中学の時の同窓会案内とある。

 奇しくも今日の夜、去年、IT技術を一緒に学んだみんなとの飲み会がある。この会、同窓会というにはちょっと憚りがある。
 去年の秋に終わった短期の職業訓練で年齢、キャリアもばらばら。そういったみんなの集まりで、ガキの頃からずっと一緒だった中学の同窓生とは同じには比較できない。

 しかし、まだ終わって半年しか経過していないのに今回も含めると3回目の飲み会である。おそらくみんな、集まり好き、話し好き、飲み好きなんだろう。でも考えてみると3回は多い。3回目もとなると同窓会と呼びたくなる。むしろよそよそしいはるか昔の中学の同窓会より親密な気がする。

 中学の同窓会をよそよそしいと表現したが、実際そんな目にあったことはない。
 なぜなら、一回も出席したことがないから、雰囲気などあれこれ言えるはずはない。

 今年はみんなが還暦を越した記念だそうである。会社員、公務員、先生、銀行員みんな今年の3月に退職したはずだ。なぜ、この職業を並べたか?それは葉書の下に印刷されてある幹事の20人の今までの職業だからだ。

 もう60歳となると富や名誉、地位は定まってくる。そんなのは別にどうってことないが、うらやましいのがこの年からもらえる莫大な年金である。この幹事さんらこれから悠々自適の生活であろう。貧窮にせせられた惨めな暮らしとは縁遠い。
 そんなところへのこのこと・・・・・・・・・・・・・・・・
 という俗な理由で、今回も出席しない。そう、そういう理由にしておきます。

 華やかな同窓会で私の名前がみんなの話題にちょっと上るかも知れない。

 「おい、あいつはどうした。やまさん?」

 消息を知る何人か、今のやまさんの状態を話すかもしれない。そのときみんなが口には出さぬが、そんな俗な理由でこないと心の中で納得してくれるのが一番いい。

 「おいおい、それじゃあ、今日の飲み会に嬉々として参加するのは、貧乏人の集まりじゃからってか?」

 いえいえ、そうではありません。わたし、「縁」というものにずいぶん引かれているんです。60歳といえば現役引退の歳、今までも失業が長く、これからも人とのコミュニケーションもなくなる。会話さえめったにしない。
 そんな中、僥倖としか思えない職業訓練との仲間づきあい。人生の終盤に結ばれた人との縁をできる限り大事にしたくなりました。
 「袖すりあうも多生の縁」
 この歳になっての新たな縁は有難いことです。(合掌)

 それはそうと、これから雨、夜に入って強まるとも、
 飲み会の場所までの家からの行き帰りの厄介さを思う。

 今、枇杷の季節、あちこちで熟れている。見てると食べたくなったので、農産市で1パック150円で買う。
 ビワの詩を思い浮かべながら食べる。

 ビワは優しい木の実だから
 抱っこしあって熟れている
 薄い虹あるロバさんの
 お耳みたいな葉の陰に
 

2011年6月9日木曜日

6月9日 雑感

 今日は6月9日、酔生夢死に向かってまっしぐらのやまさん、前日も前々日もたいして変わることなく、同じように時が過ぎていく。今日もまた同じ繰り返しか。

 明日10日になるとちょっと非日常になる。久しぶりにみんなに会って話をするからだ。ともかく、日常はほんと、誰かと話をする機会がない。明日、みんなと会えば、たぶんこの一か月の私の全会話より多いくらい話すんだろうな。と思う。それくらい、日常、人と話す会話が少ない。

 10日はだから同じ「時」でも過ぎ方が違うような気がする。濃密な「時」が期待できる。しかし、神様は同じ一日を24時間与え、設定してくださっているのに、明日と、今日6月9日を比べるとどうして今日が薄っぺらく、砂が流れるようにしか感じられないのだろう。

 そういえば明日は「時の記念日」だ。
 「時を大切にしましょうってか。」、
 「今日9日は、大切じゃないんだ。」

 今日9日はなんかあったかな。記念日かしらん?なんかメモリアルな日でもあれば、少なくとも印象には刻めるから、薄っぺらな「日」、味気ない「時」のさらさら感が少しは癒されるかも知れない。

 「日本の記念日は語呂合わせで儲けられることが多い。たとえば6月4日は、ムシ、で虫歯か虫の日のように、じゃあ、6月9日は?」

 「シックス・ナインの日?」

 「まさか!」

 ウエブで調べても記念日ではない。やっぱり印象薄い日になるんだ。
 そこで「今日は何の日」で調べると、いくつかずらずら出てきた。なになに、6月9日は?

53年 - 後にローマ皇帝となるネロがオクタウィアと結婚。
62年 - ローマ皇帝ネロの最初の妻だったオクタウィアが自殺させられる。
68年 - ローマ皇帝ネロが自殺する。
 
 これ全部6月9日のできごと。

 「うわ~、ろくでもない。暴君ネロが出てきた。かなり偏執狂の傾向があるから6月9日にすべて合わせて仕組んだのだろうか?」

 結局、今まで過ごした多くの日々と同じように印象薄い日になりそうです。

 昼から山際の寺へ行く。
 「地蔵院 真言宗 大覚寺派」と掲げてある。
 大覚寺派!この寺も大覚寺と同じように境内の前に美しい池がある。

 すこし、むせる中、自転車を漕いできたので汗が出たが、池の遊歩道の東屋に坐り、池の水面を渡る風に吹かれると気持ちよい。

 「ああ、極楽じゃぁ~」

 そういえば極楽って、こんなところかも、季節も暑い時期だ。

 極楽はいつも午後を少しまわったところだというから、まさに今、そして蓮が開くというから、夏だ、そうして池を渡る風に吹かれ、池の向こうには仏様の住まいの阿弥陀堂が。
 
 「なんだ、これと同じじゃないか。」

 「そんな、極楽が、永遠につづく!さぞ、退屈だろうな。やまさんの日常も変化ないけど、極楽はもっとじゃ!」

 人のあの世に対する想像力も、人の世の幸福、不幸と同じ。「幸福」は誰が考えても似たり寄ったり、単調である。極楽も一緒、誰が描いても同じ極楽・天国の風景。ところが不幸は多くの種類があり、枚挙に暇ない。地獄も一緒。よくこれだけ考えれるな、というくらい恐ろしい地獄が用意される。焦熱地獄、針山、血の池、無間地獄・・・・・・拷問博物館よりたくさんある。

 「苦しいけど、毎日日替わりで責められ、退屈はせんわなぁ」

 地獄では犯した罪を責め苛まれ、次の日は新たな責め具が毎日使われ、現世だった時の「自我」の犯した報いを嫌でも覚醒させられる。自我も消滅しようがないわな。
 それにひきかえ永遠に変わらぬ極楽は、退屈もやがて突き抜け、自我もしだいに薄れ、阿弥陀様と一体化して溶け込むかもしれない。

 天国か地獄か?どっちも永遠には行きたくない。第三の選択で「無」というのがあるのかな。いや、選択しなくても、一切は「無」に帰するのが本当か。「空」と関係あるのかしらん。

 帰り、駅のツバメの巣を見ると、めでたく巣立っておりました。