検索キーワード「徳島大空襲」に一致する投稿を日付順に表示しています。 関連性の高い順 すべての投稿を表示
検索キーワード「徳島大空襲」に一致する投稿を日付順に表示しています。 関連性の高い順 すべての投稿を表示

2023年7月3日月曜日

忘れてはならないこと

  78年前7月3日の深夜から翌日未明にかけて徳島は大空襲に見舞われ、多くの尊い人命が失われ、市内中心地はほぼ焼け野原となった。しかしその時は、もう人の一生の長さくらいの過去となり、次第に生々しさは消え、歴史となって行きつつある。

 今、ウクライナで現に市民が惨禍に巻き込まれた痛ましい映像を見るにつけ、「ここ徳島でもそれに勝る被害があったんだよなぁ」、との思いを強くする(公式には死者1000余人、負傷者はおそらく万単位となる)

 徳島大空襲のブログをまとめましたのでご覧ください ここクリック

2022年10月24日月曜日

令和四年・鴨島大菊人形

 今日は「鴨島大菊人形」の紹介ですが、一方的な記述を避けるため、本日は二人の対話形式でイベントを紹介したいと思います。まずキャラの簡単な紹介から

 👨 20代後半のサラリーマン、早くもくたぶれがみられる、真面目一方でやって来たためか、彼女いない歴も年齢と同じ、常識人だが融通が利かない、ITが得意で勉強好き キャラ名はヒロシ

 👩 年齢は絶対言わないため不詳だが、一度口を滑らせて、徳島大空襲で東の空が赤くなったのみたわ、と言ったので80才はとうに過ぎている勘定、香水キツイ厚化粧で、本人は40才前後の上品で美しいオバさまに見られたがっている元気なオバハン キャラ名はビデ夫人


鑑賞する二人 

👨 今、吉野川市役所の敷地内で菊人形をやっていますがビデさんはもう見られましたか?もし暇ならボクと一緒に行ってみませんか。

👩 あら、うれしい、デェトみたいね、母子と見られたらいいけど、恋人同士とみられたらどうしよう、知り合いにあったらあなた、うろたえるんじゃない

👨いえそんなこと気にしませんから、さぁ一緒に行きましょう(内心)れはない!むしろ祖母孝行やってるのかなと思われるわ!

  さぁ着きましたよ。



👩 あら、菊人形だけじゃなく、菊の品評会もやっているのね。鉢の菊や懸崖菊はまだ蕾や開きかけが多いわね、ちょっと早かったかしら。

👨 そうですね、遠くから来る人はたびたび見られないので、この開き具合だと数週間後の盛りに見に来ればいいかも知れませんね、来月の20日までやってますからね。でもビデ夫人や僕は町内だからたびたび見に来ればいいじゃないですか。

 次のメインの「菊人形」のブースを見ましょうよ。



👩 まぁ、こちらの菊人形は小菊で作られているからか、菊もきれいに開いて衣装もきれいこと、うふっ、小菊といやぁ、十年前、祇園で舞妓に出てた時、わたし「小菊ちゃん」て呼ばれたのよ。

👨 (内心)あ、いかん、またボケからくる妄想が始まったか、話題をそらさにゃ、取り合ずブースの菊人形の場面、全部見てみましょうよ、

👩 毎年、大河ドラマが主題でその菊人形シーンをやってるそうね、この場面は今年の大河「鎌倉殿の13人」ね。ヒロシ君、なんでもよく知っているのに、このシーン、大河のどんなとこなのさ、さぁ早く私に説明してちょうだい。

👨 ビデ夫人、じゃぁ説明しますからよく聞いてくださいよ、まずこのシーンの主題名「頼朝旗挙」とありますね、頼朝の旗挙げ、すなわち伊豆の流人であった頼朝が京の平氏政権に反逆するため武装ほう起したことです。1180年のことです。そのシーンですよ。

👩 あら、そう、でもこの三人のうち、一人、坊ンさんがいるじゃないの、戦闘開始のシーンでこの坊さん、場違いなんじゃない、後白河法皇ってあるけど。

👨 いや、これは菊人形場面の作成上、大河のキャラを無理やり1シーンに詰め込んだのであって、頼朝、義時は伊豆の挙兵で直接協力しましたが、後白河法皇は京都にいましたからね。

👩 そう、なるほどね、でもこの坊さん、同じシーンに納まっていると言うことは源氏の味方なんでしょう?どうなの?

👨 う~ん、味方か敵かで分けるのは微妙ですね。そもそも後白河法皇は「一天の君」と言われる帝王ですから、彼が支持する源氏あるいは平氏が正統政権となり、それに反対するのが敵となります。そうすると1180年の時点では京都の後白河法皇を擁する平氏に反逆してますから、この時は頼朝は建前は後白河法皇の敵となります。ですけど後白河法皇はなかなかの策士、日和見主義者という人もいますが、時と状況によっていろいろと支持する相手を変えています。まぁ、それだけ歴史好きから見ると面白い時代ですが。

👩  あぁやめて!よくわからなないわ、分かる話をしましょう。大河のキャストは後白河法皇は西田敏行。頼朝は大泉洋、義時は小栗旬でしょう。毎年の大河の菊人形の顔つき、年によって似ていることもあるしそうでないときもあるわね、以前の清盛だったかしらあの人形の顔は主役の松山ケンイチによく似てたわ、それに比べ義時は小栗旬に似ていないし、後白河法皇なんか西田敏行とぜんぜんにていない、これだれよ、って感じね。でも頼朝は横顔がちょっとだけ大泉洋に似てなぃ?三枚目で馬鹿ズラの感じが良く出てるわ。

👨 もぅ、ビデさんの批評は遠慮なしですね、

 さぁ、次を見ますよ、えぇっと、このシーンは「北条の姉弟」となってます。義時は北条の総領、政子はその姉で頼朝の正妻ですよ。


👩 政子ね、この人はよく知ってますよ。女人ながら鎌倉幕府の隠れた将軍、尼将軍とか謂われたんじゃない。日本史上、女性が政治の第一人者になるのは希なのにたいしたもんだわ、私も女性として尊敬するわ。

👨 そうでしょうね、ビデ夫人と相性が合いそうですね。彼女は頼朝の正妻で二代と三代将軍の実母だから幕府の力を握ったのも分かるのですが、京都方から鎌倉が朝敵として追討令を出されたとき、彼女が鎌倉御家人の前で行った演説は幕府存続のため万丈の気をはいたものとして有名ですよ。だから頼朝正室そして将軍実母としてのお飾りの権威だけでなく、政治的な実力もあったと思われています。

👩 私もね、実はね(と急に声を落として)、祇園の舞妓からねぇ、某国の大統領に見初められてね正妻に迎えられたのよ、そして某国の大統領夫人になったのよ、だから私も鎌倉幕府の政子さんのように、彼女の苦労、分かるわ、でも悲しいことにクーデターが起こってね、私は追放なの、あぁ、政子さんのように気丈だと良かったんだけど、私はかよわかったの、クーデターの時は美人薄命で断頭台の露と消える覚悟までしたのよ、すんでのことで・・

👨 (ぁ、いかん、また妄想がぶり返した!さぁさぁ、ビデ夫人!次のシーンにいきますよ。

 次の場面、どこの、そしてどうゆうものかわかりますか。よく見てくださいよ。説明文も読んでくださいね。


👩 まぁ美しい(しばらくウットリ見つめ、おもむろに説明文を読む)、場所は花の吉野ね、咲きそろう桜、そして義経は日本の三大美男武将の一人ね、そして恋人の白拍子静御前も美女ね、舞姿も美しいわ、私が舞妓の時の踊りを思い出すわ(まただ!)、説明を見なくてもわかるわ、きっと悲しい別れね、説明にはこのあと謀反人義経の女として捕まり鎌倉に送られたとあるわ、なんという悲劇でしょう(ビデ夫人、ハンケチを取り出し泣く真似をする、このような場合、一連の所作が終わるまで放置しておくのが一番

👨 (十分時間を取った後)ビデ夫人、ちょっとボクが解説していいですか?確かに美しい花の吉野の花盛り、そして天下の美男美女、この上ない美しいシーンですが、史実をいえばこれはないですよ。吉野山に潜伏し静御前と別れたのは事実としても、花の季節じゃないですよ。旧暦の11月、冬ですよ、それは後に静御前が詠んだ和歌「吉野山、峰の白雪踏み分けて、入りにし人の 後ぞ恋しき」という歌からも花の季節じゃないと分かりますよね。また鎌倉に謀反人義経の女として送られますが、舞を所望されただけで許されます。このとき身ごもった義経の嬰児は殺されるという話もありますが、史実としてはわかりません。ともかくゆるされ、母と一緒に余生をおくります。その鎌倉に連れてこられたときの舞の歌が「しずやしず、しずのおだまき・・・

👩 (怒!)ちょいと!ヒロシ!あんたが歴史に詳しいのはよくわかったわよ。私のような美女と(どこが!)いっしょにこんな美しい別れのシーン見て、私が美しいわ、と感動しているのに事実だかなんだかしらないけどそんな無味乾燥な能書きならべてどうするの。だからアンタは今まで彼女一人出来ないんじゃない。こういうときはね、能書きなぞタラタラ言うんじゃないの、私と一緒に、フリでもいいから感動して、この白拍子静御前、まるでビデさんのように綺麗ですね、とかいうの、まぁ、ヒロシに比べたら私は少し年増だから(少しどころか半世紀以上あるわ!)、言いにくかったらせめて「この静御前、ビデさんの若いときに似てるなぁ、楚々とした美しさなんか今でも変わりませんよ」とかいうの。女はそういうのに弱いの。まったく、ヒロシは、ムードのあるとこでお経を唱えるようなもんよ、わかったわね。

👨 (トホホ)はい、肝に銘じます。これで大河ドラマの3シーンは見終わりましたが、次にもう一つ「ゆるキャラ」菊人形があるから見てみましょう。

 さあこれです。


👨 わが吉野川市のゆるキャラのカップルです。「ヨッピーとピッピー」とあります。恥ずかしながらボク、吉野川の住人ですけどご当地のこんなゆるキャラは知りませんでした。ビデさんは知ってましたか。

👩 私はとうにご存じよ。

👨 それにしてもこのネーミングのいわれはどこからきたのかな、ボクはそっちに興味があります。奈良の「セント君」は2010年の、奈良平城京の遷都1300年祭から来てるし、「クマもん」のクマは熊本のだし、いったいなんだろ?

👩 まったく、アンタは!小利口なくせにこういうのは知らないのね。よぉ~に聞ぃときや、今を去ること200年ほど前、このあたり一体は低湿地だったの、だからね作物の実りも悪く、貧しい家が多かったわけ。

👨 (歴史好きのヒロシ君、俄然、興味が沸き起こり真剣にビデさんの話に耳を傾ける)おお、面白そうな話になりそうですね、ふむふむ。

👩 あまりの惨めさを忘れるため、亭主は嫁をひっぱたいてなけなしの金を引っ張り出し、酒を飲んで酔っ払ったわけ、

👨 ふんふん、それで

👩 残された嫁や子は食うや食わずで体力も衰えきっていた、また住んでるところは低湿地だったため赤痢まではやり弱った体を襲ったわけ。亭主は一日中酒を手にし酔っ払い、嫁子は赤痢や流行性の胃腸病で腹を下し息も絶え絶え。

👨 うわぁ、悲惨ですね、それからどうなりました?

👩 どうなりましたって?それでおしまい。

👨 ちょとビデ夫人!それがなんでゆるキャラのネーミングになるんですか、わけ分かりません。

👩 だから亭主は酒に酔っ払い「ヨッピー」君で、嫁子は下痢腹、ビチ糞で「ピッピー」ちゃん。

👨 え!(目が点)、それホントですか。

👩 馬鹿ねぇ、嘘に決まっているでしょ。でもそう覚えればアナタ、この名前もう覚えたでしょ。

👨 確かに、酒にヨッピー、とお腹がピッピー、しっかり覚えました。でも本当はどうなんです、それが分かりませんが、

👩 ふん!こんなド田舎のゆるキャラなんてどうせ大した理由なんかないわさ、そうとでも覚えておきなさい。

👨 もう、ビデ夫人は無茶なこと言いますね。

👩 これでもう鑑賞は終わりね、私なんだか疲れたわ、少し足元がヨッピーだから、ヒロシ、アナタ、優しくアタイをおぶって帰って頂戴。

2022年7月3日日曜日

ウチに眠るセピア色の写真より

  徳島空襲のブログを書いていて、ふとある写真を思いだした。それで古いアルバムを押し入れから引っ張り出し(頁がちぎれてバラバラになったいた)その写真を探した。あった!それが下の写真である。正確な年月はわからないが、終戦近くの我が家(私が子供の時に住んでいた家)であることは確かである。「じいちゃん、ばぁちゃん、ふるばぁちゃん、お久しぶりでございます、わたしもジジイになりました、もうじき、ほっちへ行くけんな」

 写るのは祖父母と祖父の母親、つまり私の曾祖母である。小さい子供がいるが私の親父ではない、近所のこどもだと聞いているが詳しいことは知らない。わたしの親父は当時、長崎県の大村か諫早の航空隊の訓練生だったのでここにはいない。

 多分私が小学校時代の時、この古いアルバムを見て、自分が生まれる前の古い写真にたいする好奇心からいろいろ聞いたと思われる。そのとき徳島大空襲のことを聞いたことをおぼろげながら思い出した。

 我が家は鴨島町にあったので徳島からは20km離れているからもちろん被害はなかった。しかし東の空が異様に赤かったと言うようなことを話してくれたような気がする。なぜこの写真から祖父母が徳島大空襲についての話をしたかというと、この写真を見ながら私は祖父の右後ろに立てかけてある箒を逆さまにしたようなものについて聞いたのである。「これって箒ぇ?」、その説明はおおむね以下のようなものであったと思う。

 これは空襲で火災が起きたとき(焼夷弾攻撃で)、その先についているビラビラの縄か布に水をたっぷりしみこませ火炎をそれで叩いて消すのだそうである。『火はたき』と呼ばれる手作りの防火用具だそうである。それらは各家庭でめいめい作って備えるだけでなく、それを持って近隣住民全員参加の防火訓練が度々おこなわれ、隣組(町内会)のみんなと協力して火はたきをつかったり、集団のバケツリレーの訓練をしたということも話してくれた。

 人の記憶とは不思議なもので、昨日徳島大空襲のブログを書き上げそれを読み返していると、そういや、子供の時一枚の古い写真をみて空襲や防空防火のはなしを祖父母から聞いたことを思い出したのである。今まで完全にその記憶は眠っていたのに。

 このような準備や訓練も、前のブログで紹介した「徳島大空襲の手記」によると、極めて発火性が高い液体が吹き出し、爆発的に発火し、花火のように火炎が周りに飛び出す焼夷弾に対しては、日頃の防火訓練や防火用具は、ほとんど無力だったことを大勢の人が証言している。

2022年7月2日土曜日

明日は何の日 その2(徳島大空襲)

  明日は7月3日、77年前のその日、戦時下でもあり統制下の耐乏生活ではあったが徳島市では日常の生活が営まれていた。市民が就寝につく時、明日も同じような日常が繰り返されるであろうことを疑った人はいない。この日は平日の火曜日、多くの大人は明日も仕事に従事し、子供たちは学校、または学徒の勤労奉仕に精を出すことになろうと思ったに違いない。

 しかし翌朝の(4日)の朝日を迎えるころ町は一変していた。深夜から未明にかけての焼夷弾攻撃により町の中心部はほぼ壊滅、まだ炎が残っているところもあったが、木造の建物は焼失、鉄筋の建物も外壁は残していたが内部は焼けていた。一面と言っていい焼け野原になっていた。無念にも翌朝の朝を迎えることのできなかった死者が千人近く、火傷、怪我などを受けた人は数知れなかった。このころになると他の大都市の空襲による大被害も聞こえてきてはいた、徳島もやがては、と覚悟する人も多かったが、実際の空襲の受けて、まさかここまでひどいとは思わなかったのではなかろうか。3日夜から明け方近くまで絶え間なく焼夷弾攻撃を受け、人々は必死で逃げまどい、明るくなって目にする前日と比べあまりにも変わった地獄のような町の姿、黒焦げであちらこちらにころがる死体、火傷で苦しむけが人のうめき、地獄絵図がここ徳島で現実となったのである。

 市内焼失地図


 焼け野原となった市街

 今、ウクライナではロシアによる都市への爆撃が行われている、ロシアは誤爆と主張したいようだがかなり怪しい。学校、病院、劇場、ショッピングモールが攻撃され大勢の市民が犠牲となっている。悲惨なことこの上ないが、多くの日本人にとってはそれは1万kmも離れた外国の出来事、絵空事とは言わないが、テレビでよくみる紛争地域の一つを放映してるなという感覚であろう。これが死体や断末魔に苦しむ人々のリアルな映像・動画にでも接していれば現代日本人も市民生活への爆撃がいかに悲惨なものかより知ることができると思うが、ご存知のようにテレビの編集ではそのよう映像は事前にカットされ(心的な病気にでもなると思っているのだろうか)流されないので、より切迫した悲惨な映像はあらかじめ除かれている。

 徳島の(特に若い人に)市民への爆撃がいかに悲惨なものになるかを知るには、何も1万kmも離れたウクライナの都市を例に出すより、我々が住しているこの土地で77年前に起きた徳島大空襲のことを知ってほしいとおもう。しかしほとんどの人はそれを知らないし、また「徳島大空襲」というのを言葉として聞いても、それについて詳しく知ろうとはしない。現代の人々は戦争で亡くなった鎮魂の日そして悔悟の日として8月15日を記念し、悲惨だった戦争についてあれこれ考える。しかしこの徳島においては戦争の最大の荒廃・犠牲のピークは7月3~4日であったのである。徳島の人としてはもっと知られかつ偲ばれて良い日である。

 私は昭和25年度生まれであるから空襲の体験はない。しかし、直接体験している人があれば話を是非聞いて徳島大空襲がいかなるものであったかその口から聞きたいと思っていた。しかし空襲時、物心がついた小学生であっても、今生きていれば85歳以上となる。先日知り合いの母親で、長寿で元気でいる人に徳島大空襲のことを聞いた。しかし当時は徳島近郊とはいえ郊外の村だったところに居住していたし、小学校低学年であったため「市内の空が真っ赤になり、滝のように落ちる火花(焼夷弾が)が多量の花火みたいななぁ~」との感想しか聞けなかった。本当に火炎地獄のような市内中心地にいておそろしい体験を刻んだ人はほぼ死に絶えた。

 しかし徳島大空襲とはいかなるものかもっと知りたいという私の欲求に答える手段は今でもある。図書館の古い蔵書から探した一冊が左記の本である。今から51年前、昭和46年に出版された。約60人の実際に被災された方が書いた、あるいは口述筆記の「体験談」である。登場する人はごくごく普通の市井の人、商業の人もいれば勤め人もいる、主婦、隠居さん、公務員・教師、通信運輸関係の人、などなど、要するにほぼすべての分野を網羅して話を集めてある。戦災当時50歳、60歳を超える人でも昭和46年当時はまだまだ活躍していて生々しい体験談を述べている。大方の人は自分の体験など文章にしたことのない人である(そのため口述が多い)。それだけに素朴な文、方言を交え、体験したことを述べ、感じたことを直截に自分の言葉で述べた訥々とした文章に真に迫る臨場感を感じた。

 体験談のどれにも当時すんでいた現在もほぼ同じ地名が残る住所、そして本名が記載されている。77年前に市内で生活していた私の大叔父、大叔母、あるいは親戚の名前がその中にみられても不思議ではない、そう思わせるくらい同じ方言をしゃべり、共通の地方色をもった人々である。しかし本名を見たところ私の親戚はいない、しかし郷土の体験談だけあって私との意外なつながりも発見できる。以下はその一つ

 焼夷弾攻撃は火災を起こすだけではない、なんと徳島中心市街地に354,664本も焼夷弾が上空から落ちてくるのである。その数と市街面積をおもうと密集して落ちているのである、そのため焼夷弾が人に直接当たる確率は高かった。直撃すれば多くは即死した。頭にあたり、まるで噴水のように脳漿が流れ落ちる人もいた。体験談中、直撃を受けたが肩に当たり即死を免れた人がいた、しかし腕は大きく損傷を受けちぎれそうなぶらぶら状態、それでもなんとか応急手当を受け、避難した先がなんと私が子供の時祖父母と住んでいたウチのすぐ近く、そして急いでみてもらった医師が私が小児のときお世話になった同じ先生だった。その方、壊疽を起こしかけ腕切断も一時は決断したが家族の必死の介抱(貴重な氷を手に入れずっと冷やし続けたそうだ)で半年間の療養のあとようやく肢体無事のまま危機を脱したそうである。もしウチの祖父母が生きているときならばこの人のことをよく知っていたと思う。これはわたしと意外なつながりを感じさせるエピソードであった。

 本の出版の昭和46年当時なら、あ、これ私の親戚、あるいは知ってる人じゃ、と思いながら我がことのように思い読んだ人も多かったと思う、しかし半世紀以上たって直接知る人がほとんど絶えた今、本から想像力を駆使してこの悲惨さを(本の上だけだが)知らなければならない。

 それにしてもこのような都市の一般住宅密集地の焼夷弾による絨毯爆撃は人道上目に余るものがある。東京下町では周りからまるで取り囲むように最初に焼夷攻撃をしかけ、火炎が取り巻き、人々が逃げられないようにしてからくまなく絨毯を広げるように、焼夷弾で人も家も焼亡させていった。まったく信じられないような鬼畜の行為である。いったいどんな理屈、どんな意思でこのようなことを行い得るのだろうか。

 都市に住む無辜の住民に対する無差別爆撃の最初は1937年、スペイン内乱時においてフランコ政権を助けるためイタリアとドイツのファシスト党がスペイン北部にある小さな町「ゲルニカ」であると言われている。第一次世界大戦の時の初期の飛行機は布張りの双葉機で小さく馬力も弱く、積載量もうんと少なかった、飛行機から操縦士がレンガを落として地上の敵を攻撃したというような嘘のような本当の話がある。しかし戦闘が激しくなるにつれ航空機の攻撃力は格段に進歩し、すぐに機関銃を備え、また小型爆弾を航空機から落とせるようになる(初期は操縦士が手で小型爆弾をつかみ目測で落としていた)。そして第一次世界大戦が終わり、ナチスドイツが再軍備を行う1930年代になると、空襲で爆弾を目的地に落とし破壊することに特化した「爆撃機」が現れる。その目的地が都市に選ばれたとき(ゲリラ、パルチザン掃討という名目はあったにせよ)それが都市無差別攻撃になったのである。史上初といわれる「ゲルニカ爆撃」である(ピカソがこれに怒り、有名な作品ゲルニカを書いたのは有名な話である)

 日本軍も都市無差別攻撃については拭えない汚点を残している。1937年から始まった日中戦争で中国の首都南京を落とし、これで停戦かと思いきや蒋介石政府は奥地の重慶に逃げそこを拠点に戦争を継続する。そこで日本軍は爆撃機を用いて重慶爆撃を行ったのである。それが無差別都市爆撃となり、あちらの言い分では1万余の民間人が死んだことになっている。これについては日本人の私として弁護するつもりはない。戦争行為だから軍人やゲリラ、パルチザンなどが死ぬのは仕方ないとしても民間人への無差別行為は許されるべきではない。ただ初めから無差別都市攻撃を意図したかは疑問がある。

 ここで「無差別都市攻撃」という言葉が出てきたがちょとそれについて考えたい。無差別都市攻撃の反対概念は何だろう?それは「精密爆撃」である。ピンポイントで軍事目標を狙えればそれに越したことはない。しかし今の進んだ軍事技術の粋である誘導ミサイルでも誤差は出るしピンポイントとはいえある範囲の円形の誤差はある。まして当時の日本軍の重爆撃機とは行っても爆弾は自由落下させるのである。航空機の高度そして飛行速度、機体の向きのベクトル、そればかりか飛行機から地上までの風向、風力を知り、それらを瞬時に計算して落とすタイミングを計らねばならない。それでは精密爆撃は可能なのか?結論から言うと一応いろんな変数を考慮しつつ爆撃しても誤差は数百mにもなり、精密爆撃にはならず、事実上家屋の密集する都市攻撃においては民間家屋民間人を巻き込む無差別爆撃となってしまうのである。日本軍は重慶の蒋介石政府の拠点を狙いたかったが結果として無差別爆撃となったのである。

 これは日本本土にたいするB29爆撃機攻撃についても同じことがいえる。若干の人道的配慮もあったし、何より日本の航空機産業、軍事産業をたたくのが第一義であったためアメリカ軍も最初は「精密爆撃」を意図していた。当時としてB29は最新鋭の超一級の大型爆撃機で機内にある爆撃標準器も上記の変数を入れれば即座に標準器のスコープの十字状に目標位置が目視で出て、それにあった時点でスイッチを押せば精密爆撃の爆弾が(理論上は)目的地に落下していくはずであった。しかしやはり日本軍と同じようにそれを使っても精密爆撃はかなり難しく、また高射砲などの反撃を避けるため1万メートル上空を飛んだとき経験したことのない強風に遭遇し(ジェット気流である)、超高空からの精密爆撃は極めて難しいことがわかった。結局難しい精密爆撃よりより安易な都市無差別攻撃(それも民間家屋を焼失させる焼夷弾爆撃)を選ぶようになる。

 都市無差別攻撃について、いまだにアメリカ人のいう理屈は次の通りである、その1、日本人は女性子供の別なく町中で兵器を作る作業に従事していてどこどこが軍事工場でここは民間地区だという区別はない。その2,重慶爆撃のように無差別爆撃を行ったのは日本の方が先であり、また真珠湾攻撃のような卑怯な攻撃をおこなった日本人に対し軍人民間人の区別なく懲罰すべきだ。その3,あくまで戦争邁進に突き進む狂信的な日本人を止めるのは都市を焼き払い厭戦気分を起こさせる以外にない。その4,確かに民間人は無差別爆撃で多数死んだが、それによって終戦が早まったのは事実で、これは戦争が続けばさらに増えるアメリカの軍人だけでなく、一般の日本人の命も多数救ったことになる(これは原爆投下正当化の理屈と同じである)

 このアメリカの理屈、どうだろう?とても納得できるものでない。戦争とは敵も味方もこのような理屈を打ち立てるのである。

 B29戦略爆撃機の搭乗員も家に帰ればおそらく善良な人々であったであろう。どんな理屈であれ、かれが弾倉のハッチを開き、投下のスイッチを押せば、下にいる普通の女子供が死ぬことは想像できぬことではないはずである。しかし高空からの爆撃はそのようなリアル感を喪失させる。ドローンによる自走爆撃をパソコン上で見ながらまるでテレビの戦争ゲームのように人が死ぬが現代の戦争であるが、高空の飛行機上からの爆撃はまさにそれと同じようなものである。飛びながらボタンを押すだけ、B29戦略爆撃機の搭乗員は多数の人を殺したという重みは感じないですむ。もしチクリと良心が痛んだとしても先ほどの四つの理屈がアメリカの飛行兵士の大義となりそれ以上の苦悶からは解放される。

 無差別都市攻撃でなくなった無辜の人々に我々はなんといって鎮魂したら良いのだろうか私にはわからない。広島の鎮魂記念碑に「過ちは繰り返しませんから、安らかにお眠りください」とあるが、いまでも過ちはなくならずに繰り返しているではないか、そもそも人として存在する以上過ちは永久になくならないのではないかと疑念がわいてくる、碑の文字もむなしく響く口先だけの言葉のように私には思える。

2021年11月3日水曜日

昭和16年・徳島を舞台にした映画のロケ地を回る

  昨日、県立図書館の視聴覚ライブラリで昭和16年制作(マキノ雅弘監督)『阿波の踊子』という映画を見た。時代劇で、徳島ではおなじみの阿波十郎兵衛が家老の悪巧みによって処刑された後、その弟が阿波に帰ってきて家老を討つ話である。しかしお堅い勧善懲悪の筋ではなく、若い娘の恋情あり、道化たキャラの滑稽なシーンもふんだんにあり、また映画の最後のクライマックスは怒涛のように踊り狂う阿波踊りがあり、その踊りの渦の真ん中で仇が討たれる。その踊りのシーンはけっこう長く、これでもか!というくらいたっぷりと阿波踊りを見せてくれる。この映画の野外ロケのほとんどが当時の徳島で撮影されている。映画の徳島城下は江戸時代の町並み設定ではあるが、実際は80年昔の徳島の町並みをそのまま使っている。

 昭和16年4月にロケをした、ということはこの年の12月に真珠湾攻撃で大東亜戦争が始まるからその直前である。戦争前だからまだこのような娯楽性の高い時代劇が作られたのであろう。野外ロケが多いが、当時の市街地の家はまだ藩政時代の情緒を残す木造の町屋である。しかしこの時の徳島の市街は約4年後の徳島大空襲でほぼ焼けてしまっている。それとともに藩政時代を髣髴とさせる町屋も消滅してしまった。今、時代劇の町屋のシーンで、町並みがそっくり使えるところは脇町のごく一部の通りくらいのものだろう。現代の徳島の市街地をそのままに時代劇なんどは撮影できるはずもない。しかし、戦災前の徳島市街地では違和感なく時代劇の町屋の野外ロケができるところがあちらこちらに存在したのである。

 能書きたれはこのくらいにして、それでは市街地の野外ロケシーンを映画から見てみよう(一部ではあるが)

 

 橋のシーンが二か所出てくる。同じ橋を別のアングルから撮ったのかと思われようがよく見ると橋の形態が違っている。最初の橋は平橋であるのにたいして次に出てくる橋は真ん中が高くなる太鼓橋である(曲率は緩いが)。

 さてそこで今日はこの橋のあった場所を探して町をうろつくことにした。もちろん80年も昔の橋が今残っているはずもないが、川や山まで消滅したわけではなく、この二つの橋のあった場所には今でも新たな橋があるはずである。

 手掛かりは遠くに見える山である。川は護岸工事をしたりして岸やあるいは流路も少し変わるかもしれないので当てにはできない。そこで80年たってもまず変わらぬ山の形をみてロケ場所を特定することにした。最初の橋の向こうに見える小山はどう見てもこれは城山に間違いないということは助任橋か?さっそく行って眺めてみた。

 助任橋北詰より


 似ていそうだ、すると一つ目の橋は助任橋か、次に福住橋に行って城山の方を眺めたがビルの陰で城山が見えない。


 次に福島橋の方へ回った。途中には護岸の松並木などがあり、松並木の近接シーンだと今でも時代劇のロケ地として使えそうだな、と思いつつ、松並木の尽きるあたりまで来るとこんな石碑があった。

 なに!「阿波の踊り子」と彫ってある。これって昨日見た映画の題じゃ!裏を見ると


 な、な、なんと!昭和16年ここでこの映画のロケをした記念ではないか。ということは上の二つの橋の一つは昔の福島橋である可能性が高い。映画のシーンではこれ


 しかし福島橋に立ち城山の方を見るがビルにさえぎられて城山が見えない。


 ググルマップの立体図で福島橋あたりの上空から城山を見ると下のようになる。


 城山の形の見え方からしてまず最初の橋は福島橋に違いないと思った。じゃぁ二つ目のこの橋はどこだろ?


 わからないので、ここで橋めぐりは中止して図書館へ帰り、文献で昭和16年のロケ地を調べてみた。するとこのロケの阿波踊りは福島橋と徳島橋の間で行われたとある、え?徳島橋?聞いたことない、どこにある橋やろ?徳島橋を調べると、聞いたことのないはずである。この橋どころかその下を流れる川ともども消えてしまっていた。つまり大規模に埋め立て川の流路全域が無くなっていたのである。その川の名は『寺島川』、下図のように流れていた。見えにくいが文化センター・青少年センターの裏にあるJR牟岐線の線路がほぼ寺島川にあたる。そして中洲市場あたりで新町川と合流する


 徳島橋は青少年センターから鉄道線路の跨線橋を跨いで市役所に行く陸橋のあたりにあった。いまその跨線橋の上に立ち、眉山を眺めるが、ドデカい市役所ビルに隠され眉山はほとんど見えない。


 徳島橋があったあたりからググルマップな鳥瞰図を見るとこのようになる。遠景に見える眉山の左になだらかに下る稜線が二つ目の橋のバックにある山の形と似ているように思う。

2020年7月4日土曜日

今日は7月4日、徳島では

図書館のカウンター近くに30冊くらいの本(パンフレットではない、最後まで読むと154pもあった)が平積みされて置いてある。確か前日はなかった記憶がある。横にご自由にお持ち帰りくださいと書いてある。左の本がそうである。表題は「語り継ごう、徳島大空襲」である。内容は徳島大空襲を受けた人の体験談を書いてある。

 パラパラとめくるとおよそ50人の空襲当時の恐怖の体験談が載せてある。目次にはその人々の現在の住所と名前が並んでいる。ふとその名前の一人を見るとなんと私の小学校6年生の時の担任だった人の名前と同じである。同姓同名もあるので住所を見ると私の住んでいる町となっている。その体験談を読むと間違いないことを確信した。その先生は若い時軍隊に入っていていろいろな訓練を受けたことを教室で話されていた。防毒マスクの使い方とか、実際に催涙ガスを使って訓練を受け、装着が甘くて涙や咳が止まらず困ったことなど面白く話してくれたのを思い出した。体験談には空襲当時は蔵本の連隊で訓練の隊長をしていたことが書いてあり、そのことからも間違いなくその先生である。昭和37年の頃、39歳だったので、昭和20年の体験談の年齢ともあっている。恩師の名前を発見したこともあり、その冊子を頂いて帰った。

 154pもある冊子であるが非売品で発行者は「徳島市」となっている。今の時点から見ると徳島大空襲は75年前であるが、この冊子の発行日は平成23年となっている。空襲から数えると66年経過している。おそらくこの平成23年頃が空襲の体験談を集められるギリギリのタイムリミットではなかったのかと思う。それからさらに9年、戦後75年もたった現在、令和2年になると体験した人もほとんどは鬼籍に入っており、原稿を集め編集するのも難しいと思われる。まだ多くは読み進んではいないが、原稿は当人が原稿用紙に文章を綴って寄稿したものばかりでなく、聞き取ってもらって文章にしたものもあり、生々しい貴重な空襲の体験談となっている。

 そして私がこの冊子を手に取ったまさにこの日、7月4日は徳島大空襲の罹災日だったのである。その日に合わせて図書館にこの無料の冊子が置かれたのであろう。75年前のこの日の午前0時を過ぎたころから空飛ぶ要塞といわれた戦略爆撃機B29の編隊による焼夷弾投下の波状攻撃を数時間にわたって受け、徳島市街は阿鼻叫喚の焦熱地獄となったのである。正確な数は不明であるが約1000人の人が亡くなったといわれている。夜が明けると徳島市の大半は焼失していたのである。

 体験者の多くが亡くなった今、このように冊子にして体験談を後世に残すのは大切なことであると思う。しっかりと読ませていただきたい(さっき35pまで読み進んだ)。この体験談を寄稿した私の恩師、生きていれば97歳だ。成人してからのち、同窓会にも参加せず、あえて恩師の消息も聞かない不義理を重ねてきたことが恥ずかしい。小人は歳ぃいくと恥多し、というがホンマやな。