昨日、神山町上分・中津にある満月イチョウを見てきました。この時期イチョウの木の全景が見えるところから見ると、まるで満月のように見えるところからこの名が付きました。まだ午後一時頃でしたが、陽は早くも山にさえぎられ、この辺りは陰になっていました。陽光が当たっていれば輝くような黄色になり、より満月に近くみえたのに残念でした。
2024年12月4日水曜日
2024年12月2日月曜日
土曜日から日曜にかけてのこと
神山映画祭
土曜日午後から神山映画祭に行った。入場無料、神山中学校が会場である。イヴェント、バザー、出品各映画作品などあったが、私の目当ては蔦哲一朗監督の『黒い牛』である。上映前後に監督自身のあいさつや説明もあった。
この作品、我々普段テレビ映画で見慣れている(娯楽性をもちストーリーもわかりやすい)ものに比べると、何かを暗喩する象徴的シーン、つまりわかりにくい場面が多く、また展開の意外性もあり、ちょっと難解な作品となっている。題名のように黒い牛が出てきて展開していくが、主人公の男も注目される。
全くの予備知識もなく、また作品についての解説なども全く知らずに見始めたが、部分部分(各シーン)での象徴的意味を自分なりに解釈しながらみた。シーンのほとんどがモノクロであるが最初と最後のシーンのみ天然色(カラー)となる。
最初は赤々ともえる山林の火災から始まる。これはおそらく焼き畑民、山岳民、もっと深くよむと縄文系の人々が、山を追われ里に住まざるをえない状況を象徴しているのではないか。主人公の男はそんな山岳民、古代縄文人の子孫じゃないかと思うと、その風貌、行動がよく理解できる。
映画の早い段階で男は黒牛を得る。どこから来たのか、一切わからない。まるで野牛のような牛を捕獲して農作業用の牛として使う。感心したのは主人公の俳優さんの牛の扱い方のうまいことである。このひと俳優兼牛飼いじゃないかと思ってしまった。その牛とともに江戸期からワイの小まい頃まであった草ぶきの百姓家で暮らす。この牛のいる百姓家を見ていると、昭和30年代までうちらの田舎では、この映画のように同じ棟で農耕牛を飼っていたのを思い出した。
まるで沼か湖のような深田の代掻き、そして白雨と呼んでもいいような一面白くなるほどの豪雨など、水のシーンも多い。吹き降りの雨と風、黒い土や泥(モノクロだから当然だ)、剥き出しの自然にさらされ、人牛一体となって農耕に励むシーンのなどは、仏教でいうところの地、水、火、風、空という五大と呼ばれる宇宙を構成する5つの中に人も牛も存在していることを強く思わせるものとなっている(まぁこれも、ワイ一人の感想じゃが)
え?蔦監督はん、こんな仏教の深遠な真理を匂わすように作品作ったんじゃろか、いや、ワイの深読みのし過ぎやろか・・・しかし、寺を出て遍歴する禅僧が、唐突に男と牛の中に入ってくる。経をあげたり、禅僧らしく、禅の文句を唱えたりもする。やはり仏教の何らかのメッセージがこの作品に込められているんか知らん。
などなど、ワイは考えつつ真剣に映画を見ていたが、周りのおっさんやおばはん連中はどうも違う感想を持っているようで、映画が半分進んだころ、後ろの三人組のおばはんがブツブツ言い始めた。「あんたわかるで?」「ストーリーがわからん」「もう、でるで?」「もうちょっとした出んでか」、そして隣のおっさんは時計をちらちら見だした。くりかえし20ぺんも腕時計を見ている。退屈しているのが態度からわかる。
そして終わりが近づいたころ、画面は突然、真っ白にホワイトアウト、それが数分(感覚としては5分びゃぁも)つづいた。これ、故障か、あまりにも長いのでそう思った。昭和30年代の映画館ならフィルムが焼き切れてこんな状態になることがあり、そんなホワイトアウトが長く続くと、観客らは(ワイは子どもなのでしないが)ピーピー口笛を吹いて騒いだが、そんなフィルム焼き切れ事故状態であった。
後ろのおばはんも横のおっさんもそれを切りに出て行った。ワイは辛抱強く見ているとやがてホワイトアウトの画面は徐々にモノの形を浮かび上がらせてきた。雪山か火山地帯の白い硫黄や噴煙ガスのシーンか、よくわからない展開である。
最後にはまた天然色のシーンに戻る。隠岐の島の摩天崖の上の草地に牛がいる。そして子牛の死骸も、遠くには青い海、青い空、ところが急に火山噴火か原爆実験か、炎と黒いキノコ雲が上がる。この意味は果たして何だろう?あの黒牛や男はどうした?
この最後の疑問は映画のあとの監督自身の解説でわかった。「人類が(水爆戦争で)滅びてしまっても、自然や生物はその後も続いていく」との意味の言葉を言っていた。下は上映後の監督のインタビュ
この作品「黒い牛」を見終わって、率直に思ったことをブログにこのように書いてきたわけだが、ブログを書きつつ、調べると、この映画は禅宗の「十牛図」をベースに作られているのがわかった。確かに映画は十章の巻に分かれていて、その各巻の最初に下図の図が小タイトルとしてでてくる。その禅宗の「十牛図」を示すと下のような図となる。
これで見るとあのホワイトアウトも、あ、八章にあったのだとわかる。八章・「人牛倶忘」である。そのこころは「自分のいるべき場所、たどり着いたのは無の世界」であるとある。そして最後の隠岐の島の摩天崖の上の草地の牛シーンは第九章・「返本還源」である。そのこころは「童子(この場合牛飼いの男)の姿も牛も消え、ただ自然の風景が広がる」となっている。
今日になってブログを書きながら、この映画のベースに十牛図がなっていることを知り、多くの場面、そしてその象徴的意味が仏教思想に根差すものであることが、自分なりだがよく理解できた。最後にたどり着く「無の世界」とは何か?虚無か、いわゆる涅槃か、仏教思想は般若心経でその「無」を強く打ち出す。これは有名な経で、真言宗、禅宗で重んじられるが、その「無」(空といってもいいだろう)は、とても難解である。しかしこの世に生きながらその境地に達することができるとも。これ以上の理解は、人それぞれであろうか。蔦監督はんは、映像でそれを表現したのだろう。最後の異常に長いホワイトアウトと「隠岐の島の摩天崖の上の草地の牛シーン」である。
じゃぁ、最終章の十章・入鄽垂手(にってんすいしゅ)はどうなった?「柔和な布袋和尚の姿になった童子が市井に出ていく」というシーンは?
これは今になって思い当たる。映画の九章のシーン(摩天崖と牛)が終わりエンドロールが始まった。残っていた観客も大方が席を立ち始めた。私は、このような映画として、もしやエンドロール後の最後になにかひと押しがあるかもとの予感があって辛抱強く座っていた。そしてエンドロールが終わるとその十章(柔和の布袋和尚の姿になった童子が市井に出ていく)の図があらわれた。なるほど、蔦監督は、見終わった観客が席を立ち、外へ出ていくのを、十章のこころ「柔和な布袋和尚の姿になった童子が市井に出る」、にオーバーラップさせていたのである。
DJポリスみました日曜日図書館に行ったが、周りの道路はただことない人出、図書館横から吉野川橋へ向かう大通りは車全面通行止め、でたくさんの人がそこ(車道)を歩いている。
「なにごつ、ぞいなぁ」
と花畑踏切まで人混みをかき分けていくと、そこにDJポリスはんがいた。これが有名なDJポリスはんか、こんな田舎で見られるのはめんざしいので写真に撮った。そのあと紅葉見に行くのですぐ帰った。後で聞くと阿波踊りへスタが開かれていたようでデェズニのパレドや踊り子連の阿波踊りがあったそうだ。
貞光土釜と鳴滝そして紅葉
昼から、県西部へ紅葉見に行ってきた。貞光奥の端山では道路の街路樹にカエデが植えられていてきれいに紅葉している。
土釜と紅葉
鳴滝、三段のカスケド滝で全落差は85mで県下一だそうだ。錦繡の山肌に数条の滝が見られる。