一昨日、昨日と回った寺は、大日寺、常楽寺、地蔵院(名東)、地蔵寺(小松島)である。このうち大日寺、常楽寺は札所である。御本尊は、大日寺は千手観音菩薩、常楽寺は弥勒菩薩、地蔵院、地蔵寺はともに地蔵菩薩である。まわった時に撮影した写真をあげておく。
今日のブログの題は、現世、来世、未来の仏である。いったいどんな仏か?ご本尊の前での祈願が現世に生きる者の御利益(ごりやく)を願うものであれば、「現世の仏」、自らの死後の魂の安寧や亡くなった者の冥福を祈る者であれば「来世の仏」と言っていいだろう。そして「未来仏」である。この未来仏についてはちょっと説明を要する。来世、未来を考える場合、当然、死後も魂があるのであるが、もし来世の仏で魂が救われれば、天国あるいは極楽のようなところで永遠に至福を過ごせるのではないか?とすると、未来仏は出番がないのではないか。
しかし、(現代仏教では宗派によって違うが)そもそもの仏教では、現世は現在人間界にいる魂と考えている。もし、地獄にいるならそこが現世である。そして人間界で行いが良かったら死後の魂は天に上る。そしてそこに存在するが、天にも段階があり、上位の天へ行くには死後魂となってもその世界で修行しなければならないと考えているのである。
魂は上位の天に上るだけでなく、下に落ちたりもする。現世での行いがよくなく悪道(地獄、畜生、餓鬼、修羅道)に落ちた魂は永遠に責め苦を負わされるのではなく、上昇の機会もあると考えられている。魂はこのように天、人間界、地獄、畜生、餓鬼、修羅道の六道を輪廻するのである。だから魂にも未来はあるのである。その遥かな未来、56億7千万年後にあらわれ、それらの魂を掬いとり、成仏(輪廻から逃れる道)させるのが未来仏である。
上記の寺でいえば、千手観音さんは現世仏、お地蔵さんは来世仏の性格が濃ゆい、そして弥勒さんは未来仏である。ただし観音さんとお地蔵さんは現世でも来世でもどちらにも頼みにされる仏であるから、単純に現世仏、来世仏と分けられるものではない。
私のように現世での行いが良くなく、地獄道に落ちてしまう人間にとってもっとも頼みにできるのはお地蔵さんである。地獄でもちゃんとお地蔵さんはいて、救いの手を差し伸べてくださるのである。よく使われる慣用句に『地獄で仏』というのがあるが、まさにこのことを表しているのである。
過去の私のブログを探していると、地獄とお地蔵さんのテーマで書いていた。内容はすっかり忘れていて、自分のブログを読み返しながら、「なるほど勉強になったわ」、である。その地獄・お地蔵さんのブログはここクリック
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