2021年1月16日土曜日

ある宗教修行者の肖像より

   「聖」(ひじり)という宗教者がいる。歴史的ないわれを知らぬ人は字義通り解釈して「宗教的な徳の高い人、人々から慕われる聖人」と思う。歴史的にも本来の意味はそのようなものであっただろう。しかし日本史で登場する「聖」(ひじり)は違う。宗教的な徳云々は置くとしても、人々から慕われる聖人ではない。簡単にそれを要約すれば『諸国をめぐって勧進・乞食 (こつじき) などをして修行する僧。高野聖・遊行聖 (ゆぎょうひじり) などのこと。』である。行動やあるいは襤褸を着ているその格好も放浪・浮浪者、乞食と変わらぬもので、諸国をめぐり勧進や修行、祈祷などといえば聞こえはいいが、要するに定住せずあちこち遊行し、何らかの宗教に類する行為を行い「お恵み」をもらって生活していた人々である。

 だから慕われるというよりもむしろ排除したり差別されたりする場合が多かった。もちろん「聖」中には純粋に宗教的な動機そして修行から諸国をめぐる人々もいたが、多くはそのようなものではなく、乞食に近い「人々からのめぐみ・喜捨」をあてに遊行して暮らしていた人がほとんどであった。そのような聖が活躍するのは中世である。江戸時代になると社会階層は幕藩体制で固められ、そのように諸国を遊行して回る人々も禁止はされなかったが、規制され、何らかの組織に入るか、またはある頭領に統御された。そうでなくても公のところが発行した書付(免状)などの所有が求められた場合もあり、中世日本のように思うままに遊行聖ができるわけではなかった。

 さてこれからお見せするある「聖」らしき肖像画がある。時代は15世紀ころであるから室町幕府の中期である。まさに中世、聖が活躍した時代である。その図を下にあげる。


 ちょっと図の説明をしよう。なんやら貧相な顔をして足を組み手をまわして座っているのが聖らしき人である。前には椀がおいてある。椀は人々からお貰いする乞食の必須アイテムである。そして前にはなぜか木の枝が一本置いてある。日本中世の聖の肖像といっても誰も不思議がらないだろう(鋭い人は右耳の耳輪に注意を払う人がいるかもしれない、しかし仏像特に観音様などはこのように耳輪をしているのが多いので聖がこのように耳輪をしていることもそう考えれば不思議ではない)。日本中世15世紀のある聖の肖像といっても完全に信じ込んでしまいそうである。

 ところが私もこの肖像を見つけた時には驚いたのだが、これ実は日本の中世ではないのである。顔を見ると東洋系なのでそれじゃぁ中国かとも思われようがそうでもない。なんとこの聖らしき人、15世紀の中央アジアからアフガン~ペルシャあたりにいた人である、歴史でいえば「チィムール朝」の人の肖像画なのである。当然、「聖」ではない。しかしその説明をよく読むと「聖」とよく似ている。それはまず宗教の修行者であり(少なくともそれを標榜している)、各地を遊行というか巡礼というかともかく定住せずにあるく人である、そして図に椀があるように諸人の「おめぐみ」・喜捨をあてに毎日の糧を得ている、という意味で日本の聖と何ら変わるところはない。

 この肖像の人の活躍した国(地域)にも驚いたがもっと驚いたのは、この人の宗旨、仏教ではないのである。それじゃぁヒンドゥー教かとも思われようがそうでもない。このどちらかなら私もこの人の場所が中央アジアだろうがアフガンだろうが納得するのだがそうではない、もしやキリスト教徒?少数派だがゾロアスター教?いいや、違うのである。いろいろ思いつく中でもっとも思い付きから遠い宗教の人である。なんと!この人は「イスラム教徒」なのである。これはショックに近い驚きである。そりゃぁ確かにイスラム教徒は中国の新疆ウイグル地区やインドネシャに数多くいるからこの肖像のようにモンゴル系の顔つきでも不思議ではないが、だが丸坊主、髭もないという名はどうしたことか。イスラムの成人男子はまずほとんどが立派な髭を蓄え、また頭髪も剃る人はいないことを考えるとこれはイスラム教徒の中では例外中の例外なのではないか。それでいて聖に近いイスラムの修行者なのだろうか?

 ぜんぜんイスラムっぽくない。イスラムの聖職者や修行者にこのような人がいることが信じられない。どう見ても仏教系の聖職者や修行者の雰囲気である。ちなみにこの上記のイスラム修行者の顔を日本の僧侶の顔にコラージュすると下のようになる。もうまったくぴったり、ちょっとエキセントリックな高僧のようである。全く違和感がない。真言宗の阿闍梨といっても充分通用する。


  仏教、キリスト教などには聖職者がいる。真言宗では特に師となるような高僧を「阿闍梨」という。カトリックでも神父から始まって司教、枢機卿、法皇と聖職者は階層に分かれて存在する。しかしイスラム教では厳密にいうと聖職者は存在しない。ところでイスラムについて私は一般の日本人と同じくらいの知識しか持っていない。大方の世間の人と同じく高校世界史で習うくらいの知識しかない。厳格な一神教、神と俗世の人とは峻別している、そして神の前では信徒の絶対平等を説く、だから神と人を媒介するような聖職者はいないのだ、というのが教科書的な理解である。

 でもニュースなどで見ると「○○師」とか言ってイスラムの聖職者らしき人が登場したりする。あれを見て日本人は聖職者と思っている人は少なくなかろう、だがあれは聖職者ではない。このような人を「イマーム」という。強いて日本語に訳せば「宗教的指導者」となる。しかし他宗教の聖職者のように神と人の間に介在するものではないし、より神に親密な存在であることもない。本来は集団礼拝するときに唱導したりする人であり、常置の地位でもなかった。またこの人々とは別にクルアーン(コーラン)すなわちイスラム法学に詳しい知識人として「イマーム」という人がいた。これらの中で特に有徳で人々から慕われている人などを「○○師」と呼んでいるのである。(ただしこれはイスラム教の多数派であるスンナ派の意味であり、シーア派は聖なる系譜・ムハンマドの正統な継承者で聖性を有する宗教上の最高指導者をいう

 さて、最初に見たイスラムの聖らしき人、この人は「○○師」でもイマームでもない、この肖像の説明を見ると「スーフィー」とある。スーフィーの目的は神に近づくことである。そのためには禁欲、瞑想、連祷などの修行が行われる。そして特定の「師」や教団に派所属せず放浪し、物乞いするスーフィーが多かった。オーソドックスなイスラム教に対し神秘主義的な傾向が強く「神との合一」を説いたりした。そのため修行の究極の境地は自我が消滅し神の中に溶け込んでしまうことであるとされる。歴史的には(スーフィーは9世紀ころから近代まで存在する)正統派から異端扱いされるが、世界の様々な地域に広がったイスラム教圏の中で地域に見合った特徴的なスーフィーが活動し、地域、庶民の支持を受けている。

 上記の写真の人も15世紀ころペルシャから中央アジアにかけて物乞いをしながら修行(?)したスーフィーである。こう見てくるとその活動や生きざまは日本の中世に全国を回った「聖」とよく似ていることがわかる。また自我を消滅し、神との合一、という考えは日本の密教あるいは密教系の山岳宗教の考えに近い。スーフィーの場合もちろん神はアッラーであるが、これを「大日如来」に変えると密教系の聖が中世日本において同じことを言っても何ら不思議ではないだろう。

 イスラムという宗教は、日本人には(特に食べ物や酒、女性の衣服など)融通の利かない、そして戒律が厳しい、とっつきにくい宗教であるイメージがあるが、このイスラムの修行者であるスーフィーの写真を見、また彼らの行動や思想の一端を知ると何やら、日本の聖を思い出し親しみがわいてきた。

 追記
 最初の写真のスーフィーの修行者はイスラムとは思えぬような髭を剃った坊主頭である。日本のどこにでもいるような僧侶と変わらぬ格好に親近感がわく。また別のスーフィーの修行者の肖像(下記)を見ると日本の僧侶のように「数珠」を持っている。これも驚きである。「お数珠」がイスラムにもあったんや!イスラムについてまだまだ知らないことが多そうである。
 右手に念珠を持つスーフィー修行者

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