2020年10月31日土曜日

ハロウィンと最近見たアニメ

今日はハロウィンである。下はアミコ二階に置かれたハロウィンのお飾り

 季節の変わり目と思われる日に『節日』(祭日)を置くのは日本も欧州も同じである。不思議と似ていて、しかしある意味真逆なのは、日本の「立春」と欧州(カトリック諸国)の「万聖節」である。日本の「立春」の方はこの日を境目に寒くて閉塞的な冬から暖かく明るい春になる節目であるのに対し、欧州の「万聖節」はこれを節目に暗くて長い冬に入る。

 似ているのは急転回する季節の変わり目の日というだけではなく、どちらもその前日(一日前)が有名な祭日になっている。立春の前日は「節分」であり、豆まきをし、鬼をはらい福を呼びこむ行事である。一方、欧州の万聖節は(万聖節はカトリックで認められたあらゆる聖者を偲び感謝する日である)日本人はあまり知らないが11月1日である。そして前日は10月31日、ここまでいうともう気づいたと思う、そうこの日は「ハロウィン」である。仮装をし家々を訪問し、菓子などをやり取りしたり、パーティーをしたりする。日本の節分の行事とはずいぶん違うが、ハロウィンの仮装は「悪霊を脅かすためにある」とか「いや、あれは悪霊そのものである」とかいう説明を聞くと、日本の節分も豆まきに追い払われる鬼に扮し(鬼の)仮装をするという部分で似ていないこともない。

 ここでちょっと注意してほしいのは、ハロウィンは万聖節の前日といったが、実は日没が終わってからのハロウィンの夜はキリスト教の暦では万聖節と同日になるのである(これは一日は日没した瞬間から始まり次の日没に一日が終わるので)、これはクリスマスイブとクリスマスが24日と25日にまたがっているが、同じ一日の出来事として見るのと同じ理屈である。

 日本の季節の変わり目は、節分そして次の日の立春と二日連続で祭日がつづくが欧州のハロウィン・万聖節(キリスト暦では先も言ったようにハロウィンと万聖節は同日)も続いて祭日がつづく(つまり11月1日~2日)続くのは「万霊節」ともいわれる。万聖節そして万霊節とよく似た言葉でややこしい。ところがこの万霊節、別名があり、こちらで呼ばれる方が一般的である。その別名は『死者の日』と呼ばれ、特にラテンアメリカでは有名で盛大な祭である。

 ここまで調べてその『死者の日』を知ったとき、つい10日ほど前にみたDVDのアニメ『リメンバー・ミー』をすぐ思い出した。子ども向けのアニメではあったがジジイが見ても面白かった。舞台はメキシコ、ご先祖の霊を迎える日として「死者の日」があり、その日は死者の国の門が開かれ、死者はマリーゴールドの花ビラが敷き詰められた橋を渡って生者の国を訪問するのである。そこで生者が手厚く死者の霊をもてなすのであるが、子孫が絶えたり、身内が死者を忘れたりすると死者の国にいる霊は、生者の国には招かれず、やがて死者の国でも二度死んで永久に消滅するのである。その死者の日ひょんなことから死者の国に紛れ込んだ少年の物語である。

 見終わった後、まさか死者の日が今日のハロウィンに続く日であるとはその時は夢にも思わず、ただカトリック教国のメキシコとはいいながら日本の「お盆」の風習によく似ているなぁ、と強く思った。アニメの中では何月の何日とは明言されていなかったので、日本のお盆と同じで暑い時期かなぁ、マリーゴールドの花も咲いているし、そのあたりじゃないかなと漠然と思っていた。

 そしてDVDのアニメを見終わって10日ほどたち印象も薄れつつあったころ、ハロウィンについてのブログを作るのでネタを集めていて目にしたのが、ハロウィン・万聖節そしてそれにつづく万霊節・死者の日(11月1日~2日)の存在であった。その時前に見たアニメの「死者の日」がよみがえり、同じ意味の言葉であると気づいたのである。

 アニメの季節感(暖かそう、マリゴールドが満開)が違うのは考えれば当たり前、11月1日~2日は欧州や日本は晩秋から初冬に向かう頃であるのに対しメキシコは緯度を見ても九州より南にある暖かい国である。落葉もないだろうし、夜の訪れも早くはならない。(メキシコシティーは高地にあり、常夏というより常春に近い)

 この頃、欧州では緯度が高いので秋も早く過ぎ去り、落葉も終わりに近づき、日没は急激に早くなり、かつ日中からすでに太陽は夕焼けのように色づいてくる。欧州のこの頃の風景はまさにハロウィンらしく下のようになる。

 ところが九州より低緯度にあるメキシコはこの『リメンバー・ミー』のポスターのように明るくマリーゴールドの花が咲き誇っているのである。


 どちらも主な色調は「橙色」ではあるが、一方は重く暗い橙色であるのに対し、もう一方は輝くような橙色となっている。

 ハロウィンの絵柄に特徴的であるのは上図を見てもわかるように地平低く大きく浮かぶ輝きが失せ直視できる太陽である。地上が暗いので月と間違われるが夕日である。こういう雰囲気の絵には満月がふさわしい気がするが、太陽歴の特定日10月31日が満月になる確率は二十数分の一で20~30年に一回くらいしかない。(太陰暦はこの点、特定日には必ず同じ月齢の形となる、例えばお盆の最終日旧暦15日は当然満月となる)

 今年はその稀な年に当たっていて、今年のハロウィンは満月と重なっている。そのため今年はこんな絵柄のハロウィンポスターが使える。月光は昔からものを狂わせ、魔界に引き込む力があるともいわれている。この図を見るとなるほどそのような雰囲気が充満している。


 これから冬至まで太陽はどんどん勢いが衰え、光が弱くなる、それにひきかえ月は増々さえわたり、月光は強くなる。12月ごろの満月は最も高度が高くなり、光も一年中で最も強くなる。陰陽の強さが逆転するのである。

 ハロウィンの行事は昔の日本ではなかった。しかし徳島でもここ20年くらいの間に定着しつつある。日本のハロウィンの特徴は聖者の日とか死者の日とかいう宗教色は一切なく、一般にはハロウィンの飾り付けをして雰囲気をかもしだすのが主である、若者はハロウィンパーティーを開いて楽しんだり、怖そうなお面や衣装を着けて仮装行列をしたりしている。だが今年はコロナウィルスの影響で大っぴらな仮装行列はひかえるているようだ。

 大昔にも年中行事ではないが何かの祝い事、特別な催しものの一環として仮装行列はあった。下は大正9年(ちょうど100年前だ!)月も同じ10月に催された仮装行列である。徳島市新町筋を練り歩いた。この年第一回国勢調査が行われるにあたりそのPRのために仮装行列を行ったとある。写真の中、中央のロイドメガネの人や一番左端の人の仮装などは、現代のハロウィン仮装行列に混じって出てもなんら違和感はないだろう。


2020年10月25日日曜日

木の実(前回つづき)

 佐古まで向かっているが、秋の中を自転車で走るためには 農道やできれば舗装していないあぜ道のようなところを通るのがよい。そんな道を選んで走っていたが、鮎喰の川を渡ると密集住宅地やコンクリ、アスハルトで覆われたところがほとんどになる。それでも比較的秋の風情が楽しめるのは眉山山系の山際である。片側は住宅地になっていてももう片側は眉山山ろくで多くの谷が切り込んでいる地形なので森や林が多く、原野に近いところもある。また寺院や神社も多く、秋色が楽しめる場所がそこここに残っている。

 峰のお薬師さんもそんな場所だ。紅葉、楓が色づくには少し早いが、さくらなどは半分以上葉を落とし病葉(わくらば)となっていたり、黄色く色づいてきた落葉樹もある。


 ここは真言宗のお寺であるので、いろいろな仏様が境内のあちこちにご鎮座していらっしゃる。一つ一つ心を込めてお参りしようとすればゆうに1時間以上はかかる。若い人ならそう時間もかけられないのでご本尊様と、御大師様、それとお堂に祀られている仏さまに手を合わせるくらいだろう。しかし時間もたっぷりあるお年寄りならばすべての仏様に手を合わせながら、深まりゆく秋を味わうのによいところである。

 三十三観音をめぐりお不動様へ登っていく道をたどっていると、プチプチという音がする。下を見るとドングリが道に散らばっていてそれが踏まれて音を立てているのである。


 谷筋にあるこの境内は上を見ると谷の両横からたくさんの木が生い茂り空がほとんど見えないくらいである。その木々から熟したドングリが落ちているのである。手に取ってみる。


 そうだ秋は色づく季節でもあるが、また実りの秋でもあるのだ。実りの秋といえば、人が作った作物の秋の収穫という意味にとるのが一般的だろうが、本来はその字「実」のように秋、森の木の実のみのりであった。一万年以上も続いた縄文時代の人々の主要な食物は、この秋の木の実であったのである。山栗などはそのまま焼いたり煮たりして食べられるが、このようなドングリは「渋み」があってそのままでは食べられない、しかし縄文人はすりつぶして水さらししたりして食べたのである。

 下に落ちた木の実、ドングリなども秋の風情を強く感じさせるものである。しかし秋の山道を散策していても大人はこのように下に落ちたものにあまり関心がないように見える。むしろ子供のほうがそんなものに目を向け、興味を持っているようだ。毎年、秋にこの辺りを通ると、よく原野、あるいはこのような境内、または山麓の開けた林の中で先生に引率された幼稚園児や小学校低学年とおぼしき子どもたちが三々五々集まって何かを拾っている。見るとドングリや木の実、あるいは黄や赤に色づいたきれいな落ち葉を集めたりしている。一度、「どうするの?」と聞いたことがある。するとこのような木の実やきれいな葉っぱを集めて、いろいろなものを作るそうだ。そういえば私がチンマイときも秋の野山へ遠足に行ってこのようなものを(たぶん先生に促されてだろうが)集めて持って帰って、図画工作の材料にしたことを思い出した。葉っぱ、栗のイガ、枯れた穂・ススキやドングリ・木の実、そういえばマツカサもあったな、それらで思い思いに工作をするのである。だいたい森の動物などを作ることが多かった。今は電子ゲムなどで遊ぶ子が多いが、野山を散策して獲物(木の実など)を持って帰った現代の童子たちも70年昔の童子たちと同じでおそらく作るのは森の動物たちじゃないかな。

 一か月前、盛りだったマンジュシャゲを見ると「♪~赤っかい花なら曼殊沙華ぇ~」と歌いたくなる癖が私にはある。秋の木の実を見るとやはり歌う癖がある。口ずさむのは『小さな木の実』である。詩は日本人がつけたものであるが、原曲のメロデェーはビジェィの歌組曲「美しきパースの娘」からとられたクラッシクである。歌詞は秋の風情を単純に歌ったものではなく、詩を聞いてもらうとわかるがなかなか奥深く意味深な詩であることがわかる。

 リズムは八分の六拍子で、南欧風の優雅な舞曲のようである。間奏部分に三連符連打のカスターネットを入れたくなる(あくまで私の印象だ)。なんか南欧の情熱的な踊り子が目に浮かんでくる。しかしゆったりしたメロデェにのっている詩はまたそれとは違ったイメージをもたらす。そこはかとない悲しい思い出とでもいうような感傷である。

 これ以上の能書きはやめます。ともかく聴いてみてください。

2020年10月24日土曜日

ススキの原は銀の色

  秋晴れの朝晩、秋冷を感じるようになった。キュッと引き締まるような秋冷は深まりつつある秋を感じさせる。高齢者になっても、そういった感覚はあるが、ほんのつかの間で長続きしない。若いうちなら深まる秋を肌で感じれば、食べ物のおいしい秋、行楽の秋、野山が色づく秋、あるい万物の凋落を感じさせるような物憂い秋、を想い、それらにはなにか心の中を幸福感でみたすものがあった。そしてそれが行動のエネルギーとなり、秋の味覚を味わい、あるいは秋の野山を歩き、または(車で)走り、おもいっきり秋を感じたものだ。

 歳ぃいくとそのような秋の幸福感は失せていった。朝起きて秋冷を感じるより先に尿意を感じ、トイレでジョロジョロと勢いのなくなったションベンをし、なぜかいつも一発、屁がブッとでたあと、冷気を感じ「あぁ~さむっ」とふたたび布団にもぐりこみ、もう眠れもしないのにグズグズしている。こんな状態で過ごしているとロォマンティックな秋を感じるなど微塵もありゃぁせんがな。

 とはいえ、日も上り、秋のよい日和となった。、足の調子もだいぶんよくなっているし、長く歩くのはまだきついが、自転車なら少し遠出ができる。そこでちょっとは秋を喫しようと、石井から佐古までできるだけ農道を選んで自転車で走った。

 きれいなススキの原があった。銀の原、と言いたいが近頃(私の若い時はホントに銀の原だったが)はセイタカアワダチソウが侵入してきてところどころ黄色の穂を見せている。

  動画を撮っていて気づいたのだが、丈の高い草が実をつけている。よく見ると子どもの時この実をとって糸に通し数珠にして遊んだ「ジュズダマ」という植物である。最近見かけることが少なくなっていた。明治以降入ってきた「帰化植物」ばかりが繁茂し、在来種はどこかへ押しやられている。昔懐かしい草の実をみつけ、ちょっとうれしくなって写真に撮った。

私の怪我からみた現代の診断と骨折の手術

 怪我の瞬間、ボキッという音を確かに聞いた、あるいはその後、感じたことのない痛みで、これはまず骨折に違いないと自覚はしたが、そんなこと自覚したところでどうにもならん、残っている1km弱の山道を必死で下り、救急車のお世話になり、救急指定の総合病院へ向かった。

 幸いだったのは平日の午後3時頃だったので各科の医師も含め医療スタッフが全員そろっていたのと整形外科にはこの時私以外の救急搬送患者はいなかったので診察もその後の検査・診断も素早かった。救急車に乗せられる前、怪我をした左足首を露出し、固定したとき怪我の部位を見たが、血の出ているような外傷はないが腫れで足首が大きく膨れ上がっていた。やはり大きな腫れは骨折に違いないとその時も思った。

 まずすぐにレントゲンを撮った。昔のフイルムの時代のレントゲンと違いデジカメと同じように瞬時に撮れて画像がモニターに映し出すことができる、撮影がすむとほとんど間髪を入れず医師がそれを見ながら話してくれた。開口一番、「骨折はしていないように見れるなぁ~」とちょっと疑問の残るような口ぶりで話し始めた。私としては瞬間、ちょっとホッとした、捻挫なら骨折ほど大ごとではないだろうと。しかし医師はしばらくレントゲン画像を見ているうちに、「いやぁ~、ちょっと、まてよ」、モニター画像に顔を近づけつつ「これ、骨折じゃ、ないのかな、いや、これ、骨折してるわ」、「CTを撮りましょ、CTを撮れば確実に骨折かどうかわかるから」、CT撮影も待つ間もなくそのままストレッチャァでガラガラ運ばれてすぐ撮影、大きなドーナツのような穴の中に足を入れて、撮影終わり、すぐまた診察室へ戻されたが戻るとはやCTスキャンの画像がモニターに映っている。何もかも早い。

 もどってきた私を見るなり、医師は「やはり骨折してますね」とモニターを一緒に見せつつ説明してくれた。それが下の画像(後でプリントアウトしてくれた)斜め一直線に骨折しているのがわかる。単純な骨折のようだが、よく見ると、骨折線を境に少し上と下の骨が微妙に食い違っている。


 「手術ですね」という。できたら今日しましょうか。といいつつ、看護婦に向かって準備やたぶん助手の医師か麻酔医のスケジュールを確認している。どこかへ内線でやり取りしていて、結局今日は都合がつかないので手術は明日ということになった。

 これに要した時間は(レントゲン、CTスキャン検査、そして医師の診断まで)20分たつかたたないかの素早さである。その時は思わなかったが後で考えるといくら平日のフルスタッフでの救急診察と言いながらこの速さに驚いた。

 この素早さを可能にした最大のものはいわゆる透視装置であるデジタル画像の処理の速さ、そして診断の精度を高めたCTスキャン装置であろう。特にCT検査の威力は素晴らしいものがある。レントゲン画像だけでは「?」疑問符がついていたが、CT画像をみたら、もう素人の私でもわかったくらいである。足首の骨は結構複雑でいくつもの骨で構成されている。そのため平面的なレントゲンでは他の骨が邪魔(影)になってわかりにくいのであろう。しかしスライス状に断面撮影しそれをコンピュタ処理し、立体にくみ上げると、複雑な骨も立体的な全容状態が明らかにされる。内部だろうが骨の状態は細かく分かる。これも瞬時の処理である。

 ところでよくCT、とわれわれ患者でも手ンごろ易く言っているが、この文字をフルで書ける人は少ない。私も聞きなれているがあいまいに理解していた。しかし入院して暇なので調べると、これは当然、医学英語の略語、日本語なら『断層X線写真』とでも言うのだろう。正式には

Computerized Tomography (scanner)

computerized はコンピュータ化する動詞であると中学生でもわかる。tomographyは聞きなれないがそのはず、ギリシャ語経由の学術語、しかし語源がわかるとけっこう覚えやすく一度理解すると一生残るからこのように覚えておくとよい。中高生なら英語で習っていて原子はatom,解剖はanatomy,というのは知っているだろう。この語幹に入っている-tom,というのはギリシャ語語源で「断」「切」という意味がある。接頭語のa-がついて否定で(a-tom、これ以上切ることができないもので原子)、an-は完全に、という接頭語がついて(ana-tomy、完全に切るで解剖)、じゃあtomにgraphy(ご存知のようにグラフィは画像の意味がある)が付くと、切断+画像(tomography)という術語の出来上がりである。

 診断は確定した、このあとの私の骨折治療は「手術」である。私がチンマイ時の骨折処置だとこのような骨折では手術はなかった。複雑骨折でもしない限り、骨折した骨の位置を正常位置に当てはめ、固定し、以後動かさないように石灰いわゆるギプスで塑像のように動かなくして最低でも一か月以上そのままの状態で自然に骨が再生しつながるのを待ったのである。しかしこれだと足にロダンの彫刻をくっつけたようなものでかなり重いし、歩行も困難、また何か月も関節、筋肉、腱を固めたまま少しも動かさないためギプスを撮った後、急には動かすことができず、大がかりなリハビリが必要となる。

 そんなわけで今は私のような骨折の場合は、切開して骨を正常位置に当てはめたら、金属具でバシッと留め、固定するのである。こちらの方がそのあとの動作にも不便が少ないし、リハビリも少ないかほとんどなくて済む、治りも早いのである。ただ金属具をはめるということを聞いたときは、それって終生体内に残しておくのかどうか気になった。医師に聞くと不都合がなければ残してもいいし、取りたい場合は一年以上すればとることもできるそうである。どんな不都合が、と聞くと、中には金属なので足が重い、とか冬、冷たいとかいう人がいるそうである。まあ、機能的にどうとか、痛みがあるとかいうものではなく、再手術してとらない人の方が多いようである。

 金属具だが、錆びるのはまずいし、またイオンなどが溶け出して有害なものは困る。いったい何の素材か、これまた手術前に聞くと「チタン合金」であるらしい。錆びないし、有毒イオンも溶け出さないそうである。またチタンは比重が軽く、強度も高いので骨の固定具に使用されているのである。要するに体内で骨を固定しておくのには最適の金属ということらしい。金も錆びないし有害ではないので昔は歯には補強材になど使われたが、体内に入れるには重いし、強度もいまいち、また高価である。やはりチタンが一番良い。

 手術あとのレントゲン写真、ちゃんとチタン金具が入って固定されている。手術時間は正味一時間余り、腰椎の下半身麻酔で行われたので意識ははっきりしていて手術時のことはよく覚えている。


 先ほどCTの説明でtomography(断層画像)はギリシァ語が語源といったがこの「チタン」もまた由緒正しいギリシァ語である。ギリシャ神話にチタン神族(巨人である)というのが出てくるがこちらから由来している。世界を支配していた巨人なので、これからいってもチタンという金属は強くて頼りになる補強材であるだろうなとイメージできる。

2020年10月22日木曜日

十周年記念日


 私個人のささやかな趣味の十周年記念である。ちょうど十年前の今日10月22日は初めてブログを開始した日である。きっかけは初級のIT技術事務科(3ヶ月コース)に入ったことであった。9月に開講され、入門程度のイラストレーターやグラフィクデザインのソフトの使い方などの実技講習を受けていた。それをきっかけに10月にネットを引いてパソコンをやりだしたのだからずいぶんのんびりしたものであった。その講習のいわば付録として、講師の先生から私のようにググルのアカウントを取っていないもののため取り方を教えてくれたり、次にヨウツベの動画編集、アップの仕方、ググルのブログの作り方なども教えてくれた。

 私としては本筋の講習内容の「イラストレーターやグラフィクデザインのソフトの使い方」より、こちらのいわば「遊び」ほうが面白くなって、以後、ブログやヨウツベを繰り返しアップするようになるのである。IT技術事務科は職業訓練に目標を置いている、そのため就職に有利な技術としてイラストレーターやグラフィクデザインのソフトに身を入れて習ったほうが良いのだろうが、このソフト、講習会のパソコンに入っているが、自分のパソコンに入れようと思ったらそれぞれ、(当時は)10万円近くのソフトを購入しなければならなかったのである。パソコンやネット回線の購入費だけでもきつかったのでとてもそんなソフトを買う(2つで20万以上)余裕はなかった。

 そんなわけで満十年ちょうどたって振り返ると、講習がめざしたスキルは全く身につかず、というより今はどんなことをしたかもほとんど忘れかかっている。いまだに続いているのはこの時以来のブログ作成(ヨウツベアップ)だけである。

 改めて一番最初のブログ(2010年10月22日)のブログを見てみる。出だしの文だけ一部紹介すると(全文はここクリック

中世の武士の服装(編集その1)

 武士の服装は、当然ながら戦いやすい服装であるのが基本であるが、江戸期も中期以降になると武士もサラリーマン化し、戦いの機能は重視されなくなる。
 その点中世の武士の服装は戦いのために極めて適した服装である。直垂というのであるが、中世でも少しずつ変化してきている。最も完成された姿は室町時代の後期である・・・・・

 第一番目にアップしたブログは日本史の服飾史のような内容になっている。こういった傾向は10年来変わっていない。日本史、世界史、宗教史な歴史ものに関するブログが圧倒的に多い。

 その次の第二番目のブログ(10月24日)を見ると、旧懐のブログとなる、これも10年たってみると、私の心情を込めたブログにはよく登場してくる。旧懐、昔を懐かしむブログが多い。10年前はまだ満59歳であった、しかし早くもこの時から「昔はよかった」風のブログを書いているのである。今、70歳を目前にこれからブログを書くとしてもますますこのような傾向が強まるんじゃないかと思う。読む人からすれば(まぁ、私の読者などは皆無に近いがもしいるとして)このような、昔を懐かしむような繰り言は読んでいていやになるに違いない。こんなブログはやめるべきだなぁ、と思うこの頃である。

 出だしの文だけ一部載せておく(全文はここクリック

おなじみの定食屋

・・・昔風の食堂です。最近の食堂はその名称もカタカナやおしゃれな名前をつけていますが、ここは伝統を感じさせるような屋号の名前を持っています。そして屋号にふさわしく暖簾も。店の大将ももう80歳を越えると言ってました。

 往時ほど繁盛はしていません。私が18歳の頃は学生で大賑わいでしたが、その頃学生だった人は今、60歳を越えます。店とともに客も年老いたのでしょう、今は年配の人が多いです・・・・・

2020年10月21日水曜日

野外彫刻展(つづき)

 あるでないで

 これは水の中に設けられた野外彫刻、デフォルメされた白い犬と丸木舟にのる写実的な茶色の犬二匹の彫刻である。この作者、去年も同じ題でやはり犬の立体塑像を展示していたと思う。ところでこの題の『あるでないで』は阿波弁を使う人でなければ分からないニュゥアンスがある。阿波弁話者以外だと普通、二重疑問「あるで?(それとも)ないで?」ととるだろう。だがここ阿波では違う。国語辞典的に意味を説明するよりそれを使う時のシュテュィェーションを説明する方が理解が早いと思う。

 息子を持つ阿波のお母さん、朝は何かと忙しい、家族の食事やらなにやらの用意でてんてこ舞い、そこへ高校生の息子、こいつがとてもドンくさいガキである。手のかかることこのうえない。弁当作ってやるが、もっていくのを忘れるくらいの大ボケ息子である。汽車の時間に遅れそうになるまで、寝てけつかるし、そのため朝食だの弁当だのでいつもバタバタしている。今日も遅れそうになり、パンをくわえながら片手に牛乳もち、同時に制服を着かえている(こんな芸当は不思議なことによくできる)。
 「かぁちゃん、ワイの弁当は?」
 作ってテーブルの上に置いているのに気づかない。うろうろ探し回っているようである。かぁちゃんイラっとして、
 「あんた、どこさがっしょんで、そこに、ほれ、あるでないで
 とこのように使う。
 ついでにもう一つ面白い阿波弁を紹介すると
 (先ほどの大ボケ息子のつづき)、かぁちゃん、食器を洗いながらチラと息子を見るとまだ弁当を探し当ててない、テーブルの上にあるのに気づいていない、息子は食器棚を開けて探し、しまいには収納棚の戸まで開けだした。かぁちゃんとうとうブチ切れて、収納棚にまで首を突っ込んだ息子に向かって大声で
 「このぉ~バカ息子ぉ!そんなところに弁当が あるかいだ!」
 
 『あるかいだ』も阿波弁話者でなければわからない言葉である。この作者も毎年『あるでないで』の阿波弁を使った主題を繰り返しているのでちょっと使い古された感がある。この『あるかいだ』は斬新である。次回はこの『あるかいだ』の主題でどうだろうと思うが、イスラム過激派の組織名と同じであるから剣呑かもしれない。

 昨日のブログで紹介した『七つの子を歌う森のなかまたち』 遠くから撮った写真でわかりにくいので再び近接・別角度の写真をあげておきます。この楽譜通り歌うと、ご存知の「♪~カラスなぜなくの カラスはやまに~」の歌となる。音符一つ一つに森の動物たちが描かれている。


2020年10月20日火曜日

秋の行事となぜかションベンタンゴ

  今年はコロナの影響で秋の行事がなくなったり変更されたりしている。秋祭りの季節だが神社の境内だけでこじんまり神事を行い、神輿などは出さないところがほとんどである。

 わが町では一世紀も昔から秋には有名な行事があった。主催者、場所は時代とともに変わったけれど途切れることなく続いてきたのが「鴨島大菊人形」である。しかし今年は密集を避けるために菊人形展は行われず、会場になる市役所広場はご覧の通り、小屋掛けの菊人形展示室はなくガラァ~ンとしている。有志の菊の品評会展示のみが開かれている。

 菊の品評・鑑賞会はこれから一ヶ月くらい開かれている。まだ開花には少し早いためかご覧のように花は小さいかつぼみである。


 他には三密にならない行事はフルスケールで開かれている。徳島城公園の「野外彫刻展」がそうである。吹きさらしの広い野外なのでこれは可となった、来月初旬にある藍場浜の「狸祭り」は密集するのでアウト、今年は開かれない。

 大手門広場の作品(31作品あるがその一部だけを紹介する。)わかりにくいが鉄柵のようなものを五線譜に見立てている、そして動物の顔をした音符が配置されている。作品の主題は『七つの子を歌う森のなかまたち』これはわかりやすい。


 下乗橋を渡るとすぐあるのがこれ、管で人の体を形作り、上に顔と髪にみたてた頭を置いている、主題が『Mr.プランツ』、確かにMrというからこういう名前の男を表しているのはわかる。でもプランツという名前に込めた意味は何だろう、おそらく植物(プラント)、それを植えたプランターの鉢に掛けている名前だろう(ドイツ系の名前にはフランツというのがある)。しかしブスッと突き刺さる注射器何だろう、枯れつつある植物(この場合は人を象徴する)に起死回生の注射ということだろうか、この意味は作者でなければわからない。主題を見ずに私の印象だけで名づけるとしたら『ケケの鬼太郎、頭に注射される』 

 

下の作品の主題は『Two watchers』、一応なるほどと納得はするが、一体何をwatcherしているのだろう?腰を落とした中腰である。顔らしき向きは一方は水平方向に近く、もう一方は頭を少し下に傾け3mくらい先の下を見ている。いったいなんの観察だろう?

 前で立ち止まりみていると、横のベンチに90歳に近いような老婆二人がいて、大福か餅のようなものを食べていたが顔を上げ、私に向かって「これ、なんつぅ 題ぇ~?」て聞く。ストレトに言ってバァチャンらわかるだろうかとおもったが「これ題にはツー、ウォッチャァって書いてあるわ、二人の観察者じゃわな」、わかったのどうか「へぇ~」という返事。

 そこで言わんでもええのに、私がさっきからこの作品をみて思い浮かんだことを口にした。

 「昔なぁ、ワイがチンマイとき、バァヤンが、葦簀(よしず)掛けの下肥を兼ねたシュンベンタンゴにこんなカッコでションベンしよったの思い出すわ」

 といったとたん二人の老婆は年甲斐もなく大笑い。歳ぃいくとあんまり笑わんというが女子高生が笑うくらい笑われた。ほんまなぁ、と相槌もうたれた。

 この老婆の時代やワイのチンマイ時までは田舎には、葦簀(よしず)掛けの下肥を兼ねたシュンベンタンゴ、というものがあった。なんでバァヤンといいながら女性がこんな中腰でションベンできるのだろうと思われるだろうが、昔は下肥を貯めるのと小用をかねた片側に葦簀をかけたオープンなションベンしかできん便所があった。知らない人がイメージするとしたら、床に大きなトタン板を広げそれを45°くらいにおこして傾け、倒れないように二か所を棒で支えたものを考えるとよい。真横から見ると直角三角形となっている。

 そして地面は直接下肥の穴があけてある。男もションベンするがバァチャンなども何の恥じらいもなくズリッとモンペなどをさげ、中腰になり、ケツをつきだし、この彫刻とまさに同じような格好でバリバリっと音も高らかに(オープンなので音もつつぬけ)ションベンをしたのである。

 フーテンの寅さんの売(バイ)の口上に「~チャラチャラながれるお茶の水、粋なねぇちゃん立ションベン!」とある。おもしろがってみんな聞くが、まさか女性が立ションベンするはずなどないと思っている。しかしワイのチンマイときは少なくとも(直立ではないが)このようにして確かにバァチャンらはションベンすることはあったのである。

 そのあとも、ベンチのバァチャンらと、昔は田舎ぇいたら、ションベンタンゴよ~け、アッチャコッチャにあったな、という話から、それに類する昔話がしばらく盛り上がった(なんか匂ってきそうなのこの話はこれでおしまい)。

2020年10月19日月曜日

故郷(平戸)離れて幾百里

  昨日から菅総理が越南、インドネシャを訪問している。就任後初めての外国訪問だそうだ。その打ち立てに二国を選んだのは何か国際政治上の意味があるのかどうかオイラにはわからないが、この二国の(よいか悪いかは別として)付き合いの度合いはこれからもどんどん上がっていくと思われる。

 というのもこんなド田舎にもかの二国からの若者が増えているのである。昨日は日曜日、いろんなところで働いている異国の若者たちも休みなのだろう、ワイが列車に乗るとたくさんグループでかたまって話している。小柄で華奢な男の子が特徴なのは越南(ベトナム)である。南国的な顔立ちで浅黒くクリッとした目の男の子が多いのはインドネシャである。結構大きな声で話しているのでよく目立つ。よく目にし耳にするのでイントネションと顔立ちの違いでこの頃は大体どちらの国かわかるようになった。

 魚と水のように親密度が高いのは今までは「台湾」と思っていたが、これからはこの二国も加わるかもしれない。もちろん「魚ごころあれば水こころ」の例えもあるようにこちらもあちらもどちらも好感度が上がればの話だが。

 この二国じつは古くは日本と相当密接だったのである。知らない人も多いが、戦国が終わり日本の大航海時代と言われる朱印船貿易のことを日本史で知っている人にはご存知のはなしである。この二国にはこの時代、多くの日本人町が形成されていたのである。ところがこれも歴史好きならご存じだろうが日本の大航海時代は欧州のように発展勇躍はしなかった、禁教令とともに鎖国政策が実施され、人の行き来も全くできなくなり、日本人町は立ち枯れてしまったのである。

 その時、父が南蛮・紅毛人というだけでインドネシャの日本人町に追放されたのが前にブログで紹介した、♪~赤い花なら曼殊沙華の「ジャガタラお春」である。立ち枯れる運命にあったネシャの日本人町とともにジャガタラお春はどうなったか、望郷の念を綴った「ジャガタラ文」が今に一通残るのみで、その後どうなったかは分からない。娘盛りに追放され(歌の文句にはそうある)、望郷の念極まって悲嘆のあまりなくなった、あるいは不幸になったとは思いたくない。いい人と結婚して子も設け幸せに暮らしたと思いたい。

 ジャガタラお春の行方は分からないが、つい先日まで赤い華やかな花を見せていたジャガタラお春の化身のような曼殊沙華の花は今朝このようになっていた(下の写真)。なんと!立ち枯れているではないか。明治大正期に流行った「のぞきからくり」の弁士なら、ここで

『あぁ~、ジャガタラお春、望郷の念止みがたく文は綴れど、花の盛りを誰知ることもなく、ついには異国の地でこのように立ち枯れたのであります。♪~あわぁ~れぇ~ぇジャガタラお春の物語ぃ~ぃこれで一巻の終わりとなりまするぅ~ぅ、チョンチョン』

 しかし根元をよく見ると、花と茎だけと思っていた曼殊沙華の幼葉が小さいながらも伸びて出てきているのではないか。曼殊沙華の花期は桜に劣らず短い、しかしこのように立ち枯れた後からは幼葉が少しづつ大きくなり、晩秋から冬、早春にかけて水仙のように細長いが立派な葉が成長し、葉で養分も作り、球根を太らせるのである。

 だからこのような新葉を見ると、ジャガタラお春の追放後も希望が見えてくる。彼女はジャガタラでいい人を見つけ結婚し、花は枯れても、葉や球根元気に生きつづける曼殊沙華のようにいい家族をたくさん持ち、次の年が来たら必ず同じ位置に咲くように、その子孫もジャガタラで栄えたのだと。

 だから汽車の中であさ黒でクリっとした目のインドネシャの若者を見たりすると、もしかしたらこの子ぉら、ジャガタラお春(史実である)の血ぃを受け継ぐ子ぉの可能性もある。それがまわりまわってこの日本へ来たんかも知れへんなぁ、と思ったりする。

 ワイの好きなマンジュシャゲの花、もう枯れてしもて今年は見られない、また来年も、と思うがそれは健康な若い衆のいうこと、来年があるかどうかもわからんこのジジイにはこの立ち枯れたマンジュシャゲが見納めかもしれへん。来年もとおもっても、例年のごとく曼殊沙華の歌入りブログを作ることができないかもしれない。そこで名残になるかもしれない『長崎物語』をヨウツベから張り付けてもう一度聴く。

 今回は今は亡き藤圭子さんの長崎物語です。

2020年10月18日日曜日

歳ぃいくとビトルズの歌詞が違って聞こえ出した、抹香臭いジジイになったせいか?

  ビトルズの曲はどれも素晴らしいと思うがその中でも「レトイトビィ」は特に私のお気に入りである。この曲は私が高校卒業したまさに3月リリスされたもので今でも聴くと青春の思い出がよみがえってきそうである。まあゴチャゴチャと能書きを垂れるまえに取り敢えずヨウツベからその曲を聞いてみよう。オリジナルではなく、ストリトミゥヂシヤンによる弾き歌いである。

     この曲を全然知らない人でも(ビトルズの曲はワイら年代では超有名だが現代の十代の坊ちゃん嬢ちゃん方は知らないかもしれない)聞いてすぐわかると思うが、メロデェイはシンプル、コォドも癖のない定石進行、キィボドの演奏技巧も簡単、塊の和音をバ~ンと押さえ、あとはかんたんな分散和音、テンポが遅いこともあって初心者でも難なく引ける。演奏技巧が超簡単ということは歌さえ上手に歌えれば弾き歌いは難しくないということである。

 母語でない日本人が歌うとしても、この歌詞自体は中学の英語の教科書・リィダァに載ってもおかしくないほどの簡単な英詩であるから、発音さえオリジナルをせぇだいて聴いてネェテェブの発音に合わせば十分聞くに堪える歌い方ができる。

 さてそれでは今日のブログのテマの歌詞についてである。この「レトイトビィ」の歌詞、歳ぃいってくると若い時に受け取っていた歌詞の意味とまた違ったとらえ方をするようになった。今も昔もこの曲の一番印象深い部分は「♪~レッビ~レッビ~レッ~ビィ~ィ~ィ~」(と日本人のワイには聞こえる)の繰り返しの部分であるのは変わらない。英語で書くと(let it be)である。まず英語原文と一般的に流布されている和訳を挙げておこう。

When I find myself in times of trouble

Mother Mary comes to me

Speaking words of wisdom

"Let it be"

And in my hour of darkness

She is standing right in front of me

Speaking words of wisdom

"Let it be"

僕が苦しんでいるとき

聖母マリアが僕の前に現れて

賢明な教えを授けてくれた

「あるがままに」と

僕が暗闇の中にいるとき

聖母マリアは僕の正面に立って

賢明な教えを授けてくれた

「あるがままに」と

 先ほども述べた様に原文でも中学英語の知識で十分理解できるものではあるが、一か所だけ難しいフレーズがある。それがこの歌詞の胆の部分でもあるlet it beである。中学英語の知識でここまでサラサラ訳して意味が把握できても、ここではて?と止まってしまう。でも日本人がこの歌に接したときはだいたい原文と同時に和訳も目にするはずだから、この訳にあるように「あるがままに」あるいは「なるがままに」がlet it beの意味であることがあらかじめ分かっていることが多い。だからその和訳に接して一応、何となくわかった気になる。しかしネイチブのように英語を使いこなす人は別として学校教育の英語の中でこのlet it beのニュゥアンスをつかむのは難しい。

 でもまぁ詩の和訳は英文学に造詣の深い人が訳したのだから、このようにlet it beを「あるがままに」乃至は「なるがままに」というのはその通りなのだろう、丸っとこのフレーズを覚えてしまえばなんかの時に使える、そして使いながらそのフレーズが身についていく。とまぁこのようにして英語学習は進んでいくのだろう。しかし70年生きてきたワイから言うと、このフレーズ全く使えなかった。この歌詞から判断して苦しい時やずごく落ち込んだとき、そうなった相手に「気ぃすることあれへんでよぉ~」と慰めに使ったり、また自分に対して「くよくよすることあれへんわ」そして「なるよ~にしかならへんわ」という言い聞かせに使える予感はしたが、はたしてどんなシュテュィェーションで使ったら良いものかと迷いいまだに使っていない。

 最近、あの世がうんと身近になってきたせいか(ブログを見てもらったらわかると思うが)、モノ参りに出かけ仏さん神さんのまえで祈願することが多くなった。ずいぶん信仰や宗教に身が入りだしたと思う。これからもせっせと後生を願わにゃとこころに決めている。そんな今日この頃、このビトルズの「レトイトビィ」の歌詞をあらためて読むと、これかなり宗教的な深い意味に解釈できるんじゃないんかしらん、いやもっというとこれ、キリスト教的な「お経」あるいは「真言」といってもいいんじゃないんか知らんとまで思えてきた。

 まず詩のいっちょ最初に「苦」がくる。When I find myself in times of trouble、これは一時的な苦しみとも解釈できる。青春真っ盛りの青年ならそうだろう、やがて苦しみは去るだろうと思うし実際見かけはそうなる。しかしお釈迦様は20代で「一切皆苦」、生きることと苦しみは不離であることをさとった。このI find myselfという言葉をみるとどうもお釈迦様の言うような「一切皆苦」という本源的な「苦」をfindしたんじゃないかと思えてくる。

 非力な迷える衆生はどうしたらいいのだろう。寺院教会、聖職者に救いを求めたくても、生活に追われ赤貧にあえぐ人々にはそれに接する機会もない。たまさか祈願しようにも、不信心を尽くした身であり、高尚なキリストやお釈迦様に救いを求めるのもはばかられる。そんな衆生に対し頼りになる身近な救い主がいらっしゃる。大乗仏教では菩薩である観音さんお地蔵さん、キリスト教では聖母マリア様である。人類を罪のため全滅寸前まで罰した旧約聖書の神の系譜を引くキリスト(神である父と一体である)はなんか恐ろしい、不信心ものは罰せられそうである。その点、やさしいお母さまのようなマリア様は誠に優しい。罰なんどを最初に持ってきたりはしない。母性で包み気軽に願いを聞き入れて救ってくれそうである。

 観音菩薩様やマリア様はどこにも表れ祈願を聞き救ってくれるという信仰が特に非力で宗教的な恩沢を受け難い貧しい庶民に広がったのはもっともなことである。そのように見ると第二フレーズ、Mother Mary comes to me、は苦しみに落ちいった人の前にフットワークも軽く表れた聖母マリアさまである(大乗仏教なら観音さんだろう)。あらわれた聖母様はwords of wisdomを授けてくれた、ここまで宗教的意味にこだわってくると当然、このwords of wisdomはワイとしては「智慧」(単なる知恵ではない苦しみの元の無明を消す智慧)であると訳したい、ホントは般若波羅蜜(仏の智慧)と言いたいがこの場合キリストのおっかさんなので智慧にしておく。

 そしてそのあと赤ちゃんによりそいあやすように 言った言葉が

"Let it be"

 この言葉はもしかして英米圏では有名な聖書のフレーズにあるんじゃないかと調べると、あった。この言葉やはりキリスト教のお経ともいうべき「新約聖書」ルカ伝第一章38節に出てくるのである。この章は天使のマリアに対する受胎告知の章である、そしてこの38節は処女懐胎して驚くマリアに、天使は神の子を宿したことを告げ、それにこたえるマリアの言葉である。全文をあげる。

Then Mary said, "Behold the maidservant of the Lord! Let it be to me according to your word" And the angel departed from her 

聖母マリアの和訳(私の拙い訳です、Beholdの古語はさまざまに訳されますが私はこのように訳しました)

{私はまぎれもない主の婢(はしため)です、お言葉に従って私(の身)は成るがままに、}

 Let it beを「成るがままに」と訳したが、聖書の言葉として受け取ると、これはまた「神の御こころのままに」という意味と表裏一体であることが分かる。「神の御計らいにゆだねる」といってもいいだろう。そして聖母は処女のまま受胎し神の子を産むのである。聖書には様々な聖的な(奇跡)場面があるがこの部分は聖書の中の圧巻といっていいだろう。それだけにこのマリアの言葉、Let it be、はこの最も重要な聖的言葉であると考える。

 ワイも若いときゃぁ、ただ表面的な言葉の意味しか関心がなかったが歳ぃいってこのように聖書からきた言葉と知り、あらためてLet it beを聞くとその言葉の深い宗教的な意味に思いをはせるのである。キリスト教とお大師っさんの啓いた真言密教を比べるのもどうかと思うが、この天使の受胎告知それに対する、聖母の言葉・態度を見ていると、神(仏)と自身の一体感、梵我一如、密教的には「即身成仏」というのだろうが思い浮かぶ、お大師さんが室戸の岩屋で修行したとき、明星が自身の体に飛び込み、大ビルシャナ仏(大日如来)と自身が一体化した宗教体験をしたといわれるが、精霊が身に宿り、神の子を身ごもった場面のこの聖書ルカ伝第一章38節のマリアの体験はまさにお大師さんの梵我一如・即身成仏の体験と通じるものがあると私は思う。

 歌の詩はさらに以下へと続く

And in my hour of darkness

She is standing right in front of me

Speaking words of wisdom

「in my hour of darkness」は、暗闇の中にいる時、と訳されるが宗教的に解釈すれば「無明の闇」(すべての煩悩、苦の大本)である。そしてそれを照らし払う「智慧」の言葉が再びささやかれる、繰り返されるのは、Let it be、である。詩はこのあと二連、三連と続くが何度も何度もLet it beを繰り返す。こうなるとまるで「呪文」のようである。いや、実際私はあらためてそう解釈した。民間レベルでは、呪文とかマジナイとか言われるが仏教に取り入れられればそれは真言、陀羅尼、マントラといわれる。キリスト教にも「アーメン」だの「アベェ、マリィヤァ」とか言うのがある。Let it beはそれに類するものであるといっていいだろう。密教の真言もマリア様のささやくLet it beもワイには同じように無明の闇を照らす智慧を招来する言葉と思える。

 排他的な宗教であるキリスト教から言わせると密教の真言などそれこそ悪魔の言葉としか言いようがないが、しかし先鋭的な宣教師は別として、ケルト民族の伝統など色濃く残る欧州の辺境では古来よりキリスト教徒とされてはいても、呪術的なもの、(マントラのような)咒言や祈祷などがキリスト教の風土の中に残っているのである。他にもマリア信仰、聖者信仰、あるいは聖遺物崇拝などに大乗仏教的な要素をオイラは見るのであるがあながち間違ってはいないだろう。

 もうオイラははっきり、Let it beはマントラ・真言の一種であると認定しよう。身口意の三密でLet it beを唱えればこれは立派に真言になる。この点真言密教はありがたい。独自の真言を唱えても誰も文句は言わない。身口意の三密が重要なのであってマントラの種類は問わない。それが証拠に密教寺院の前では様々な祈祷の文句、なかには聞いたこともないような真言を平気で唱えている人もいる。もちろん正式な作法としたらおかしいのだろうが、すべてに遍在する大日如来様からすれば各種の仏も各種真言も形をかえて現れたもので本来は一如である。

 密教寺院のまえで「♪~レッビ~レッビ~レッ~ビィ~ィ~ィ~」と新種のマントラを唱えるのは身口意の三密に留意すれば可であると私は思う。これ逆に教会で真言のマントラを唱えれば、まずおちょくりに来たのかと非難され、しまいにはたたき出されるのが落ちであろうし、ムスリム寺院だと首を刎ねられることは覚悟しなければならない。仏教(密教)の包容力・寛容にはすごいものがあると思う。

 ワイが50年若ければ、上でみたように徳島駅前で「レトイトビィ」を弾き歌いするのだが残念ながら70の爺である。それはやめて、かわりに寺の前で数珠を繰りながら「レトイトビィ」と新種の真言を唱えるほうが似つかわしいだろう。


2020年10月17日土曜日

秋雨

  今日は一日冷たい雨である。低く厚い雲が垂れこめているため、暗くなるのもずいぶん早い。気温の低さといい暗くなる速さといいもう晩秋の風情である。

 赤い曼殊沙華が線路沿いに見えなくなったなと思う間もなく線路わきに黄色い先端のある丈の高い草が目立ち始めた。セイタカアワダチソウである。今年は彼岸花の花期が遅れたためつい一週間ほど前までは確かに線路わき、畔などに彼岸花の赤い花があった。ところが早くも黄色のアワダチソウである。そのためかずいぶん季節の推移が早い感じを受ける。

 しかし季節の推移の速さを感じるのは私のような半ボケ老人だけかもしれない。一緒に汽車に乗っている高校生は今週、中間テストだった。寸暇を惜しんで勉強する彼らの一時間が、ワイのような老人がボケェ~と過ごす一時間と同じであるはずがない。他にも何やかやで密度の濃い充実した生活を送っている彼らはきっと時の推移はもっと遅く感じるのだろう。遥か彼方、薄れつつある記憶を探ると、そういえばオイラも高校の時はたしかに一週間は長かった。

 年齢と月日が過去に流れていく速さ(自分が感じる)が比例するのは何か心理的な法則があるのだろう。もう十年も前からブログでさんざん同じことを言ってきた。これだけ年齢とともに時の流れが速くなるのを思い知らされれば頭の悪いオイラでもこれはもう自然の法則なのだろうと思う。

 車窓から見たセイタカアワダチソウ

龍の祟りか、はたまたお大師っさんのバチが当たったのか

  大けがをした当初はあまりにも生々しくて(というのもケガ現場からそれこそ死ぬ思いで這うようにして道路まで下りてきて、そこから救急車によって地元の病院に運ばれ即入院、翌日手術になり、全治数か月という大けがになったため)このことについてブログのネタにする気も起らず、その代わり、けがの原因となった太龍寺参拝と旧遍路古道の写真などをもとに1~5までの太龍寺についてのブログを作った。でもまぁ、大けがから一か月半もたち、ようやく大けがについての記事を書ける気になった。

 この古道は前のブログでもちょっと述べたように龍の岩屋へ通じる道でもあった。非常に急で坂には上り下りの手助けのためロープが平行に沿って張られている。ところがそのロープ、山道の地を這うように設けられているため、泥などにもぶれまくって、ロープを握るとまるで泥の塊を握ったように手が泥まみれになってきちゃないことこの上ない。最初はそれでも握っていたが、辛抱たまららず、手を放し、杖を頼りに急坂をそろそろ下りだした。

 反射神経や筋力が優れていた若い時なら何とか急坂でも降りられたのだろうが、何度か滑るうち、とうとう、最悪の滑り方をし、かなりの高低差を滑り落ち、かつ左足を妙にねじってしまった。今から思うと確かにその時、ボキ、っとかいう鈍い音がした。今まで骨など折ったことがないので、そのときはまさかと思い、たぶん、そうあってほしいと思ったのだろう、小枝を踏みしだいたのだろうと思ったが、後々その周りの状況を考えると骨の折れた音以外は考えられない。

 骨折したに違いないと思ったのは、その鈍い音よりも、墜ちた後感じた打ち身や挫きとは違った異様な足首の痛さにあった。さぁ、たいへんだ、どうする。携帯は持っていて圏内だが、連絡したとしてこんな山道に救急隊がどのようにして駆けつけてくれる?もちろん救急隊員はそんなことも想定済みだから、頼べば否とは言わないだろうが、時間がかなりかかりそうだ。たぶん二人手で持つ担架だろう。しかし、そのけがの場所は古道をかなり下まで降りたところだったので、救急車が通る道までは1kmもないだろうと見当をつけ、何とかそこまで自力で行くことに決心した。

 けがをした左足をかばうように杖を頼りにゆっくり歩くが、どうしても左足は動かさないわけにはいかないがそのたび痛みが走る。地獄に落ちて針の山を歩かされるのはこんな感じだろうかとおもったり、なんの因果でこんな目に(その時は祟りとかバチとかは考えなかった)、とか、これから受けねばならぬ今まで経験したことのない骨折の手当や(もしかしたら切開手術か)、そしておそらく全治まではかなりかかるだろう、いやもしかすると完全には治らず後遺症に悩まされるだろう、とかさまざまな思いが次々湧いてきた。痛みとそんな暗い思いで半泣きで降り下っていった。

 谷あいに拓かれた田や畑まで降りてきたときは、ああ、もう少しで道に出ると感じた。続いて農作業小屋のようなものが見え、しばらく行って観音庵が見えてきた。その前まで車の入れる道が引き込まれている。それを見たときは、ああ、助かったと心底思った。下に見えるのがその観音庵である。あとになってググルの地図で確認すると確かに集落の最もはずれ(ということはここで車は行き止まり)にある「あせび観音庵」ということがわかった。下がそのあせび観音庵の写真である。

 この写真、実は大けがをしてようようの思いでたどり着いたときに撮った写真である。よくそんな大けがをして必死でたどり着いたのによく写真など撮れる間があったな、と思われようが古道の石仏や石造物などを写真におさめるためコンパクトな写真機を持っていたのと、当日は平地最高気温35°の猛暑である。もう喉はカラカラである。痛みも激しいし、このあせび観音庵で一服してペットボトルの水を飲んだのである。その時、撮った写真である。

 この場所まで道路は伸びているが道幅は救急車が入れるギリギリである。水分を補給し少し休んでちょっと元気が出たこともあり、そこから数十メートル歩いたところにあるもっと幅の広い道路にでてそこから救急に電話をした。救急になど電話したことが今まで一度もなかったため、市外局番なしに携帯から直近の救急隊まで連絡がつくか半信半疑で119だけを押した。すぐでた。そこで名前、年齢、怪我の状況、現在の位置、などいって救急車の要請をした。10分ほどで着くだろうとのことである。切ってからもう一度あちらから電話がかかってきた。ほとんど私から言うことはなかったはずだが、確認のためだったのだろう。下は到着する救急車、握っていた携帯の写メールで撮った。

 救急隊員は運転手も入れて確か4人いた記憶がある。足を固定し救急車に乗せ、付き添ってくれたのは若い隊員で丁寧で優しく、また運送中頻繁に声をかけてくれた(たぶん意識状態を見るためだろうが)、心もかなり折れていたのだろうと思うがそんな(マニュアル通りかもしれないが)救急隊員に感激した。手を合わせたくなるほどありがたかった。

 運ばれたのは地元の総合病院、平日の午後3時過ぎであったのでフルの医療スタッフがいて検査診断はあっという間だった(レントゲン、CTも撮って)。足首の骨折、すぐ入院、翌日手術である。その時は気づかなかったが診察が終わって病室へ行って(レンタルの)パジャマに着かえたとき、着ていたシャツ、ズボンが汗と泥でべとべとになっている、非常に汚い、また着ている自分は気づかないが汗やその他の(幸い失禁はしなかったが)匂いがきつかったに違いない。救急隊員や医療スタッフに相当不快な感じをあたえたと思った次第である。

  
太龍寺山の標高はそんなに高くはない。でもググルマップの鳥観図で見ると違った山の性質が見えてくる。赤の矢印が古道が通っている怪我をしたあたり、ずいぶん険しい山道であることがわかる。黄色の矢印が救急車を呼んだ場所である。白くがけ崩れのようになったところは石灰採掘場、二か所見える。そして一か所くぼ地がある。これが鍾乳洞が破壊された跡である。


2020年10月4日日曜日

太龍寺 その5 となえられる真言、そしてお経

  このお寺は若き空海が修行したところに建てられている。その修業は『虚空蔵菩薩求聞持法』と言われている。この寺から少し上ったところに捨身(舎心)嶽というところがある。そこでその修法を行ったとされている。そこには現在、修法を行うお大師さまの像が建てられている。お大師様のお耳を通して捨身嶽の下を見る


その『虚空蔵菩薩求聞持法』なにやら複雑な修法かとも思われようが繰り返す修法の真言を取り上げれば単純なものである。以下の真言を繰り返し唱えるのである。

『ノウボウアカシャ ギャラバヤ オンアリ キャマリ ボ(ウ)リソワカ』

 しかし常人になしがたいのはその回数である。なんと百万遍である。それを一心不乱に(雑念なく、まさに真言三昧である)、口以外動かすことなく、途切れることなく唱えなければならない。そこは布団や炬燵などのある安楽な場所ではない。断崖に向きあう捨身嶽や室戸の岬の波打ち寄せる洞窟の中など大変厳しい環境のところである。いったい何日かかるのだろう?その間食事などの必要生理要求はどうするのだろう?と疑問もわいてくる。しかし『虚空蔵菩薩求聞持法』には作法も定められていて、現代でも行う人もいる。五十日ないし百日はかかるそうであるから、生半可な宗教的情熱だけではなしがたい修法である。

 いったいどんなご利益が、とおもうが成し遂げれば、記憶力が抜群になり、また学力(知力)が格段に(それこそ凡才から天才に)増大するといわれている。確かに若き空海はこの修法後、めきめきとその(僧としての)学才があらわれ、留学してまさに天才的な能力発揮するのであるから、効いたともいえるが、もともと無才のものが果たしてとも思ったりする。

 太龍寺はこのように若き空海が虚空蔵菩薩求聞持法を行ったところから境内には「求聞持堂」がある。下の写真がそうである。境内の他の場所と違って聖域性が高いのだろうか敷地は立ち入り禁止になっていて厳しく柵で封鎖されている。ここで今でも真言僧が虚空蔵菩薩求聞持法を修するそうである。


 この寺の御本尊は虚空蔵菩薩である。だから修行者でなくても、一般の人は本堂参拝の時には虚空蔵菩薩の真言をとなえて手を合わせる人が多い(一度かあるいは三度、多くて十回以内)。 だからこの

『ノウボウアカシャ ギャラバヤ オンアリ キャマリ ボ(ウ)リソワカ』

はこの寺の参拝者はよく知っている。そらで覚えていなくても本堂横などにこのようにお唱えくださいと掲示してある。

 ほかにこの寺でよく唱えられるのは、不動明王の真言いわゆる「慈救咒」といわれる

『なうまく さんまんだ ばざらだん せんだまかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん』

 である。前のブログでとりあげたようにこの境内には「護摩堂」もあり、ここでこの不動明王の真言をとなえることはあるが、堂内やあるいは堂参拝の時に唱えられるというより、この太龍寺山全体で唱えられる真言とされている。それは江戸前期の澄禅はんの龍の窟(岩屋)参拝の時、何度も不動の真言(慈救呪)を唱えたことでもわかる。

 山岳宗教・修験道でもっとも多く唱えられる真言は不動明王の真言であり、経としては「般若心経」がダントツである。なぜかちょっとまだ考察はしていないが、ともかくそういう事実がある。とくに外で盛大に火をたく「柴燈護摩」や山岳の行場ではこの不動の真言、心経はもっとも重要視されるものである。この太龍寺は山岳宗教・修験道の聖地でもある。いたるところにある行場などでこの慈救呪、心経が唱えられていたのである。

 普通、お経は仏教で唱えられるものである。しかしなぜかこの般若心経は今でも神社でも唱える人がいる。考えるに明治以前は仏、神が完全に分離されていなかったところが多かった。たいていの神社には神宮寺が境内または隣接して設けられていた。また神社の別当も寺に置かれ江戸時代は幕府・藩によってそれが組織化されていた。八幡神は有力な神社ではあるが、そのご神体として「僧形の八幡神」などを見るとなるほど本来は仏教であるべき「経」を神社で唱えることも頷けることである。

 般若心経はコンパクトな文字数も少ない小さなお経である。しかしお大師様の書かれた「般若心経秘鍵」を読むと、短い中にもお釈迦様の初期の教え~部派仏教~小乗の教え~大乗の教え~密教の教え、と仏教史のエッセンスがぎっしり詰まっている。もちろんお大師っはんに言わせたら、密教にいたる必然的な流れを強調し、密教がもっとも重要であると強調するのであるが、この心経は、あれも「空」これも「空」そして「空」・・と喝破しながら、最後は密教らしく、マントラ・真言、あるいは陀羅尼とでもいうのだろうか、ギャァテェイ、ギャァテェイ、ハラソウギャティ、ボジソワカ、と咒言でしめっくくっている。このようなところからも密教色の濃い神仏習合の山岳宗教場では般若心経が重んじられるのではあるまいか。

2020年10月1日木曜日

太龍寺 その4 今はない龍の岩屋を江戸初期の日記に見る

  前のブログで言ったように龍の岩屋はセメント工場の原料採掘のためブチめがれてしまって今、山を駆け回ってもその存在の跡さえ確かめるのはおぼつかない(実は私は太龍寺参拝した帰り道はその幻の岩屋への古い遍路道を通ったのであるが)。そこで今回のブログは江戸初期・承応二年(1653年)、智積院のボンさんの「澄禅」はんが四国遍路を行い、その日記『四国辺路日記』を残しているのでそれをもとに岩屋の中を見てみようと思う。

 私が太龍寺参拝を終え、空海が修行されたという捨身ヶ嶽を参拝し岩屋があろうと思われる遍路古道を辿ったのは9月8日であった。奇しくも江戸初期の僧侶・澄禅はんがこの岩屋への山道を通ったのが旧暦の8月1日、新旧暦の日数差を考えると、ほぼ同じ季節であった。山中とはいえ暑かったろうと思われる。私が太龍寺境内を出て捨身が嶽に向かったのは正午をだいぶ過ぎていたが澄禅はんは当時の遍路がそうであるように早朝出発した。民家に泊まるときでもあるいは寺に泊まるときでもお見送りなんどはないものだが、この日は特殊の事情もあり、寺の下級僧侶がついてきた。原文を見てみよう。

 『八月朔日寺ヲ立テ奥院岩屋ナトヲ巡礼スヘシトテ同行衆八人云合テ下法師ニ云、是モ古来ゟ引導ノ僧ニ白銀二銭目遣シ、扨引導ノ僧松明ヲ用意シテ出タリ、此僧先達セサセテ秘所トモ巡礼ス。』

 とある。寺ではこのような龍の岩屋に入って参拝する人のためにちゃんと案内の係りの僧ががいたことがわかる。そのための案内料(祠堂金)の相場も決まっていたようで白銀二銭とある。鍾乳洞(岩屋)の中に入るため松明も前もって用意しているのである。その案内役の僧(先達)とともに松明をもって出発したのである。

 岩屋へ行く道の途中に若き空海が修行したといわれている「捨身ヶ嶽」があるのでこれを見学参拝したのち、そこより三十町(約3km)ほど下った岩屋へ着いた。原文を読んでみよう。

 『先達共ニ九人僧共手ニ々々松ニ火ヲ燃テ慈救ノ咒ヲ声高ニ唱テ穴ノ奥エ入、先サカサマニ成テ、六七間入テ少ノヒ上リテ見ハ清水流テ広々タル所也。蝙蝠幾千万ト云数ヲ不知、夫ゟ彼水ヲ渡テ廿間斗モ入ツラント思フ所ニ高サ弐尺五六寸斗ナル所在リ、頭ヲサケテ腰ヲ屈テハイ入テ二間斗過テ往事二ケ所也、其先ニ横タテ二間斗ナル所在リ、夫ゟ奥エハ不入、爰ニテ先達ノ勤ニテ各心経ヲ誦ス。夫ゟ南ノ方カト思シキ方ニ行、壁ノ如ニテフミ所モ無キ所ヲ岩ノカトニ取付テ二間斗下ル、其奥ニ高壱尺二三寸ノ金銅ノ不動ノ像在リ。爰ニテモ慈救咒ヲ誦シテ元入シ流水ヲ下様ニ渡リテ穴ノ口エ出、熱キ時分ニテ在ケルニ穴ノ中ノ寒中々云斗ナシ。又サシ下リテ岩屋二ツ在、是ハ何茂浅シ。鐘ノ石トテカ子ノ様ニ鳴石在リ、各礫ニテ打テ夫ゟ野坂ヲ上リ下リテ荒田野ノ平等寺ニ至ル、是迄三里也。』

 さていよいよ岩屋(鍾乳洞)入口である。これはただの「物見遊山・寺社見学」とは違った性格を持つものと解さなければならない。(とはいえ江戸期になると庶民の寺社参拝はほとんど今日の国内ツァー旅行のようになり、物見遊山的な性格を帯びては来るが、建前は以下のようなものである)。つまり「行」(修行)として行われるのである。

 それでは澄禅はんの日記を読みつつ洞窟の中に入ってみよう。九人各人が松明をもっている。暗黒手探りにすればもっとすごい行になると思うがそれは言わないことにする。行であるためマントラである「慈救ノ咒」を唱えつつはいる。この慈救ノ咒は不動明王の真言であることに留意してほしい。

 洞窟が狭いためか、足を洞窟の奥の向け逆さまに行く格好で12mほど進み、ちょっと伸びあがってみてみると(松明の光で)、かなり広い場所で水が流れている(鍾乳洞の中の川だろう)。記述は先サカサマニ成テ、六七間入テ少ノヒ上リテ見ハ清水流テ広々タル所也 となっている。その第一の広い窟には蝙蝠幾千万ト云数ヲ不知、コウモリが無数に住みついているようだ。気色の悪い所である。

 そこから流れる小川(に沿ってか、渡ってか)36mほど進むと高さ80cmほどの小窟がある(鍾乳洞だから様々に枝分かれしたトンネルのようなものでその一部か)、頭を下げて這い入る。先達がいるからいいようなもの道を知らねばとてもこんな迷路のようなところには入れまい。4m弱進みまた枝分かれの窟へ、そこもまた4mほどで枝分かれ別の窟へ合計二か所、進んだ先は少し広くて横縦3.6mほどの広さとなるが、その奥へは入らずとある(行き止まりではなかろうが、なにか宗教的な禁忌があるのだろうかわからない)、その記述が夫ゟ彼水ヲ渡テ廿間斗モ入ツラント思フ所ニ高サ弐尺五六寸斗ナル所在リ、頭ヲサケテ腰ヲ屈テハイ入テ二間斗過テ往事二ケ所也、其先ニ横タテ二間斗ナル所在リ、夫ゟ奥エハ不入、爰ニテ先達ノ勤ニテ各心経ヲ誦ス。そしてそこで先達の勧めでみんなで心経をとなえたとある。(銭・事実上の案内料を受け取り、毎度案内しているためマニュアル化しているのだろう、「はぁ~ぃ、みなさん、ここから奥はホントに龍の寝床でここより先ははいれません!みんなで心経をとなえ龍の祟りを防ぎましょう~、」とかなんとか・・・)

 そこから南方の洞窟を通ったようである。原文を読むと夫ゟ南ノ方カト思シキ方ニ行、壁ノ如ニテフミ所モ無キ所ヲ岩ノカトニ取付テ二間斗下ル、其奥ニ高壱尺二三寸ノ金銅ノ不動ノ像在リ。 ここがこの窟屋ツァーのハイライトではなかろうか、ほとんどロッククライミングのような鍾乳壁である。ほぼ垂直でごつごつした岩にとりつき何とか降りていく、幸いなことにその高低差は4m弱、おりた奥には36cmの高さの金銅製の不動明王が祀られていた。ここでも例によって不動明王の真言・慈救ノ咒をとなえた。それからは引き返しの道となる。以下原文 爰ニテモ慈救咒ヲ誦シテ元入シ流水ヲ下様ニ渡リテ穴ノ口エ出、熱キ時分ニテ在ケルニ穴ノ中ノ寒中々云斗ナシ。 季節は陽暦に直すと9月のはじめ、私が参った9月8日とそう違わないころ。私が参拝したこの日は予報では最高気温が35度になると言っていたまだまだ残暑の厳しいころである。しかし洞窟の中はかなり寒かったようで寒さ、中々云斗ナシ。と述べている。

 またこの平等寺へ下る遍路道(いわや道・遍路古道)沿いにはほかにも鍾乳窟が二か所あったことが知れる。又サシ下リテ岩屋二ツ在、是ハ何茂浅シ。 しかし大きなものではなく何茂浅シ。なにとも浅しと述べている。この鍾乳窟も近世になって石灰石採掘場にされブチめがれて今はない。

 ほかには山中のどこかだろうか、窟の中だろうか、「鐘石」というものがあって小石でたたくとカ子ノ様ニ鳴、カネ(子)のように鳴る、と最後に記して次の参拝場所平等寺へ向かっている。窟を石窟寺院に例えると、これはさしずめ鐘楼であろうか、天然自然の伽藍のようだ。(とは私の感想!)

 山岳宗教の聖地はその山の険しい自然と向き合い、精神や肉体を鍛える場でもある。宗教者であるから単に鍛えるだけでは済まされない。それを通じて「禅定」や「悟り」にまで達しなければならない。またそれによって霊的なパワーをも身に着け、それを人々の救済に向けるのが理想である。そのための方法が山岳における「行」である。

 山岳には険しい自然がいくらでもある。急峻な岩場、高所にある絶壁、流れる瀧、そして暗黒の世界が支配する細くて狭いがどこまで続くか計り知れぬ洞窟(鍾乳洞)、は修業の場にもってこいである。山岳宗教の聖・ひじり(半俗で庶民の直接の救済を行う宗教者)は近世になると「山伏」とか山の験者とか言われるようになるが、彼らは山のこのような行場で修行することにより「験力」をつけたのである。岩場のロッククライミングや、高所の断崖絶壁から半身以上乗り出す「のぞき」などの行は常人には恐怖でしかなく、なしがたいものである(瀧行はその中でも常人でも比較的やりやすいものである)。その行の中でも真っ暗なそして迷路のような洞窟をはい回るのもあるが上記の行以上に恐ろしい。

 しかし江戸期になるとよいか悪いかの判断はおくとして、庶民の寺社参詣(いわゆるモノ参り、)はどっと増えた。町人ばかりか下層農民でさえ農閑期には大挙して寺社参詣(山岳寺院も含む)に押しかけた。こうなると寺社参詣がツァー化し、宿泊場所、行路案内記の出版、が整備され人々の便宜を図るようになる。山伏や半俗の宗教者の中にはツァーコンダクターに特化するような者さえ出てくるようになる。つまり銭をもらっての寺社・山岳聖地の案内役である。澄禅はんの参拝は江戸前期の元禄が始まる前であるが、岩屋参拝に銀二銭目と手数料の相場が決まっていることや松明や先達の用意などにずいぶん手際が良いところを見ると、このころからそのような傾向は始まっていたとみるべきであろう。

 現代、この太龍寺からすこし北に行ったところに慈眼寺がありその奥には「岩屋」がある。この岩屋(もちろん宗教的場所である)の内部を澄禅はんのように参拝することができる(その岩屋についてのブログはここクリック)。ただし勝手には入れない。寺の受付に行って3000円びゃぁ出すと案内者がついてくれて松明に代わり懐中電灯をかしてくれそれからの参拝となる。370年前の澄禅はんの岩屋参拝と手順はかわらない。

 私が9月8日太龍寺参拝の帰り道通った「いわや道」である。370年前の澄禅はんが下った道とそう大きくは違っていない。ただし何度も言うように石灰石採掘のため龍の岩屋は今は跡形もない。

 澄禅はんはまず捨身嶽というところに参拝したが、今ここには大きな修行大師像がある。

そこを通り過ぎると「いわや道」に入る。

 輝くようなエメラルドグリーンの下草、そして古い石仏や丁石(昔の距離標識)のある道を通る。


 後半部はこのような急坂があらわれ、しがみつくロープが急坂に沿って設けられている。

 この急坂で不注意にもケガをしてしまい這うようにして1km弱を下り、阿瀬比集落が見えてきた時はうれしかった。下は集落の入口にあるお堂である。