2020年9月20日日曜日

長崎物語(曼殊沙華)考

 まず歌詞を読んでみよう

赤い花なら 曼珠沙華(まんじゅしゃげ)

阿蘭陀(オランダ)屋敷に 雨が降る

濡れて泣いてる じゃがたらお春

未練な出船の あゝ鐘が鳴る

ララ鐘が鳴る


うつす月影 彩玻璃(いろガラス)

父は異国の 人ゆえに

金の十字架 心に抱けど

乙女盛りを あゝ曇り勝ち

ララ曇り勝ち


坂の長崎 石畳

南京煙火(はなび)に 日が暮れて

そぞろ恋しい 出島の沖に

母の精霊(しょうろ)が あゝ流れ行く

ララ流れ行く


平戸離れて 幾百里

つづる文さえ つくものを

なぜに帰らぬ じゃがたらお春

サンタクルスの あゝ鐘が鳴る

ララ鐘が鳴る

 日本の演歌には叙情的歌詞が多い。もちろんこの歌もそうなのだが、しかし題に「○○物語」とついているだけあって歌詞にはあるストーリーが込められている。今は亡き名司会者だった玉置宏が、歌は「三分間のドラマでもある」といっていたがまさにこの長崎物語は三分間のドラマである。

 まず第一連目の歌詞に「♪赤い花なら曼殊沙華、阿蘭陀屋敷に雨が降る」と歌い、それを聞くものにその情景と異国情緒を思い浮かばせる。それを「♪濡れて泣いてるジャガタラお春」と続けることによって、美女だがなぜか忌まれ、泣いている薄幸の女性がその情景と重なる。

 ところでなぜ赤い花なら曼殊沙華なのだろう、それが薄幸の美女とイメージされるのだろうか。今の若い衆(し)は曼殊沙華を先入観なしに愛でるから、純粋に美しい花として受け取れる。日本原産リコリスの一種として栽培されるくらいだ。しかしこの歌の歌詞の作られた時代の曼殊沙華のイメージはそうではなかった。これには私の体験を話すほうがいいだろ。昔も曼殊沙華は今頃の時期にたくさん咲いてあちらこちらに赤い帯のような花群があらわれた。しかしその場所は寂しい土手沿いだったり、墓地が多かった。ワイのちんまい頃、こどもの目には、時代劇のお姫様の豪華な髪飾りのような形をしている大輪の花が美しく映った。家に飾ろうと何本か摘んで帰ると祖母から「ソウレン花(葬式か?)やこい持って帰って来ぃまわって!こんな花は家に飾るもんとちゃぁうんでよ、はよ、捨ててきなぃ」といわれた切り花にして飾るなどもってのほかだったのである。

 今になって調べると忌み嫌われる理由はいくつか列挙されている。墓地などに毒々しい赤(これも主観だが)として土中から葉も持たず茎のみがある日突然にょっきりと出てくるのは、なにか墓地の土中の遺体遺骨から生え出たようで気色悪かったこと。その形が葬式の模擬花に似ていること。茎を折ると何か酔うような匂いがすること、そして有毒植物(茎根に毒が含まれること。などである。そんなことから人々に縁起の悪い花として忌み嫌われたものと思われる。

 その忌避されつつも美しいところが、曼殊沙華と国外追放されたジャガタラお春と共通するのである。人は美しいものを純粋に愛でるという本来の性質がある。しかし慣習、決まり、噂などなど後天的な先入観から美しいものであっても曼殊沙華のように忌避するものがある。うわべだけを見るとジャガタラお春は、異国人とのハーフ、あるいは邪教の(耶蘇教)の信者の疑いを強く持たれていたとみられる。それが表向きは忌避される理由となりえる。それはまさに美しい花でありながら慣習や言い伝えなどによって忌避される曼殊沙華と同じである。

 第二連目の歌詞を見ると、耶蘇教を心に秘めていた、とも読めるがあくまでも心に秘めていたのであって、態度に、ましてや公に表明したものではない。長崎地方はこのようなカクレキリシタンが島原の乱以前にはたくさんいた。だから表面上はともかく人々が本心から忌避したとは思えない。人々が忌避せざるを得ないのは幕府による厳しい「お達し」のためである。それはジャガタラお春の国外追放である。このお達し(法令)によると、かくまったものは同罪、知って訴人に及ばないのも有罪、連座制もあり、また訴人を奨励し褒美も出た。このような状況では人々はジャガタラお春を忌避せざるを得なかったのである。

 隠れキリシタンでさえ適応されなかった国外追放がなぜ、か弱い彼女に適応されたのであろうか。それは鎖国令の条文を読めばよくわかる。鎖国令は都合四回出されているが。第三回寛永十三年(1636年)の条文にはこのようにある。

●一 バテレンを密告した者にはほうびを与える。(以下略)

●一 南蛮人の子孫は日本に残留させないように,詳細に厳命するものである。(以下略)

 日本人の母を持ち、ずっと日本で育った日本人であっても父親が異国人というだけで彼女は有無を言わさぬ追放である。だから一連目の歌詞「♪未練な出船」は自分が乗らねばならぬ追放船である。

 いったいどこへ?最後の歌の連を見てみると、「♪平戸(長崎北部港町)離れて幾百里、つづる文さえ着くものを、なぜに帰らぬジャガタラお春」、とある。具体的にどこの国か示されてはいないが、彼女の持つ二つ名「ジャガタラお春」にその解答がある。ジャガタラとは現代のインドネシャ、ジャワ島である。ここはこの時代から20世紀半ばまでオランダ植民地であった。彼女はジャワ島へ追放されたのである、そして父は最初に平戸にやって来たポルトガル人か後に平戸に商館を立てた阿蘭陀人であろうと推定される。

 この歌詞の3分間のドラマはあくまでもフィクションではあるが、ジャガタラお春は実在の人物である。「ジャガタラ文」として有名である。史実の彼女は望郷の念止みがたく、不可能と知りつつ、祖国の縁ある人に送る文にその思いを書いているのである。

 「恋しや、恋し、一目だけでも、故郷を見たい・・・」

 この望郷の念に対する抒情は歌・長崎物語の最後の連に歌われている。

 「♪平戸離れて 幾百里 つづる文さえ つくものを なぜに帰らぬ じゃがたらお春 サンタクルスの あゝ鐘が鳴る ララ鐘が鳴る」

 今日みた曼殊沙華

 そして今日のヨウツベの歌動画はオリジナルの「長崎物語」1939年(歌・由利あけみ)を共有、張り付けておきます。歌詞を見ながらお聴きください。




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