2012年11月26日月曜日

事故で緊急外来へ

  佐古駅前を自転車で走っていた。雨が降っていたのと段差があるのが原因だろう。自転車がスリップしたかと思う間もなく、自転車ごと転倒。体をしたたかに打った。
 
  しばらく痛みで起き上がれない。起き上がる前から、かなりの怪我の予感がする。

  起きてみると、あちこちが痛い。手を見ると、左の中指が変な方向に曲がっている。
  人一倍、血を見ることや、事故の怪我を見るのが嫌いな私の驚き。御想像ください。

  うろたえまくり

  「どなんしょう、どなんしょう」

  「救急車だ!」

  なぜか携帯がつながらない。そう痛みはないので、少し冷静になった。佐古駅前なのでタクシーで県立中央病院緊急外来へ行った。

  レントゲンで見ると見事に指が外れて妙な方向に向いている。

  治療後はこんな状態

 精神的落ち込みもあるので、 しばらくブログもアップできないかもしれません。

 ところでブロガーは今日、急に1GB以上の画像がアップできなくなってます。なぜでしょう。(4枚のこのサイズの画像は拒否されます)そしてポップで有料ブロガー月300円のお知らせがでます)

 ブロガーはCMもなくよかったのですが無料のブロガーが1GBになるんだったら他の容量の大きいブログでアップします。
 2年ブロガーのお世話になったが、乗り換える潮時かなぁ~。ググルもどうしたんだろ。

2012年11月25日日曜日

高知へドライブ

 久しぶりに茶飲み友達と高知へドライブに行きました。一応、目的は高知美術館の「絵金」(江戸期の高知城下の絵師でおどろおどろしい役者絵を得意とする)の鑑賞です。しかし紅葉もついでに見るということで大歩危に寄りました。

 高知についてまず、日曜市を見て回り、市場でカツオのたたき定食を食べました。
 目の前で炙ってくれるカツオのたたき定食
 クジラとウツボの天ぷらも買いましたが、私はよ~食べなんだ。
 日曜市の通りの行き止まりは高知城の大手門なので高知城も見ました。
 そして最終目的地美術館へ
 下はまとめの動画です

2012年11月21日水曜日

助任緑地公園

 墓の敷地そのものが公園というのは珍しいのではないだろうか。ふつう、墓が緑の木々や芝生に覆われていても墓とかかわりのない市民が憩いの場所とするには、ちょっとビビる。

 しかしこの助任緑地公園はある一族の広大な墓地を公園にしている。もちろん墓はそのままでお祀りしてある。その一族とは江戸時代この阿波藩の藩主蜂須賀家の代々藩主と家族である。
 これだけ年月がたって、しかも阿波の藩主の墓という歴史財であるので、もはや墓という意識もないのであろう。

 蜂須賀家の正嫡は現代、絶えたと聞く。そうならこんな代々の大きな墓をお祀りする人はいまい。そのため公園にして国か市に管理、整備をまかせているのだろう。

 晩秋の静かな公園は小春日和の日もあってか、小学校や保育園の子供たちが野外学習をしていた。犬を連れた散歩者もいる。墓の台の芝生には『犬の糞をさせないように』との注意書きもある。
 糞はダメだが小便は仕方ないということか。見てはないが、中には犬が片足をあげて墓石にションベンをしていることもあるかもしれない。

 ともかく、ここは緑地公園であって、墓であるという畏怖、畏敬を伴なう意識は市民にはない。



 しょせん墓というものはこんなものではなかろうか。年月を重ね、代を重ねると、石で作られた墓であっても苔むし、彫られた文字も消え、祀る子孫も歴史の中に霧消していく。
 無縁墓から、ただの石へ、それさえも風化し、自然に帰って行く。それがあるべき姿である。

 インド渡来の本来の仏教はそんなことはわかっていた。先祖祀りについては本来仏教は関心がなかった。墓とか先祖祀りは仏教とは関係がない。

 公園を歩いているとこんな五輪の塔があった。私の見るところなかなか示唆に富むものであったので撮影した。
 下から、地、水、火、風、空、となっている。

 人はこの地球の岩石圏()と水圏()のごく薄い間で生まれる。旧約聖書なんかでは人は土と水とを練った粘土で作られたという。

 まさに人そのものが土と水、そして活躍するのは、地と水の空間。

 やがて朽ち果て死す。

 によって元素に分解され

 その煙はによって還元されていく

 そしてすべては『空』に返って行く。

 墓などいらないのではないか

鳥辺野に 捨てにし人の 跡たえて 
雲さえ 風にをくれ先立つ
書き付けし その名ははやく 消え果てて
たれとも知らぬ 古卒塔婆かな

2012年11月18日日曜日

中世を歩く その2 56億7千万年

 義政の時代西暦1467年に始まった応仁の乱より以降、全国は群雄割拠、各在地領主たちは勢力拡大を求めて争うようになる。いわゆる戦国時代の始まりである。

 もっともこの阿波の国では南北朝時代より(14世紀中期)南朝方武士と北朝方武士とに分かれあい争っていた。そのため有力在地領主の館は戦に向くように整えられていった。館は、砦になり、やがて自然の地形、川、谷、山、崖などを利用した山城へと発展していく。

 南北朝~戦国時代~秀吉政権時代~江戸初期まで同一の場所で規模を拡大しながら築城を重ねていった山城に一宮城がある。

 18日にその一宮城に行ってきました。広い山域に何とか丸、曲輪(くるわ)、など多くの城址の遺構があちこちに散らばるようにあるため、かなり歩きました。

 遊歩道は整備されていてこのような感じです。
 この城の発掘調査であるものが発見されました。これです。
 『経筒』?なんでしょうか。

 仏教でもキリスト教の最後の審判によく似た思想があります。

 死んでも極楽に行けず、霊魂がこの世にとどまり、成仏できぬ人でも、はるか未来に現れる『未来仏』にすがり、救済されるというのです。しかし、その時、仏の教えはすでに滅びてしまっています。その時の為に土中に経の入った金銅製の経筒を埋め、役立てようというのです。

 そのはるか未来に現れる未来仏の御名は『弥勒菩薩』。どれくらいの未来かというとなんと、56億7千万年の未来。途方もない未来です。

 説明板を読んでみましょう。
 もう11世紀には仏法は衰え、災厄が降りかかる末法の世になるといっています。この説明板では未来はいつとは書いてませんがそれが56億7千万年なのです。

 この城で戦いに明け暮れていた武士たちは、戦国乱世、まさに末法の世で、修羅道、餓鬼道、畜生道を苦しんでいたのでしょう。
 正しい行いをしようにも自分は武士、殺し合わなければなりません。死後、簡単に救われるとは思っていませんでした。悪業に引かれ、死後も輪廻転生を繰り返し、苦しみが車輪のようにいつまでも廻ると思っていたのでしょう。

 だからその輪廻転生が尽き果てるはるか未来、56億7千万年後に現れる救済仏、弥勒菩薩に会ったときのため経を埋めたのだろうと推測するのです。

 この場所から上の方、本丸までは動画を撮ってありますから、ご覧ください。

2012年11月17日土曜日

中世を歩く 勝瑞城跡

 今の日本の状況どころではない、その何倍もの国家的混乱、血を流す内乱が勃発。家の跡継ぎは決まらず、後継者が血肉の争い。自分より力も富も持っている嫁はんとは別居状態。

 一応、自分が政治のトップだから、毎日、処理しきれない問題が持ち込まれ、山積み状態。しかし、ほとんど対処できず、もうずっと昔から、無能のトップと、烙印をおされている。

 中世後期こんな男が日本にいた。その名を足利義政、室町幕府八代将軍である。彼は現実世界には無能の人であったが、文化、精神世界に生きた。
 餓死者・戦死者が満ちた洛中の死臭も気にならず、民の怨嗟の声も聞かず、ひたすら精神世界に生き、文化の創造を楽しんだ。

 今、こんな男に興味が湧いてきた。こんないやな俗世、雑事、家庭内のごたごたに囲まれたら、逃避したいのはわかる、わかるが、本当に心から精神世界に遊び、何か文化と呼べるモノにに昇華させる、などという芸当は普通はできまい。

 しかし彼はそれをやった。

 「自分もそうしたいと願う」

 昨日、人っ子一人いない公園の東屋でそんなことを考えた。
 この公園の東屋、こんなところである。

 むこうに何か建物が見えらますね。あれはなんだと思います?
 堀の手前から撮影してみた。

 ここまで近づいてこのように池のようになった掘割から眺めると、すぐある有名な中世の建物が連想されます。
 これが京都にあるオリジナルです。

慈照寺、別名銀閣寺。もちろん細部は違いますが、この公園の設計者もこのことを念頭に設計したのではないでしょうか。










 もっと近くで撮影しました。
 
 銀閣寺を建てたのは上記の男、将軍義政です。この場所、勝瑞城跡は彼の有力被官(管領)、まあ筆頭家来です、の細川氏のこの時代の根拠地だったのです。義政と細川そしてその居城(勝瑞城)、密接なつながりがあるのです

 そんな関連からこの史跡公園を整備するにあたってこのような銀閣寺様式を真似た建物を建てたのでしょう。

 話は前後しますが、ここ徳島の藍住の勝瑞城跡の東屋に坐って、あの男、義政について考えたのはこのような足利時代の様式を思い出させるモノを見たからなのです。

 動画も撮影しました。

2012年11月16日金曜日

今日のニュースから

 ここ数日どん底状態が続いている。

 ネットの動画ニュースを見ていると、衆院解散の映像が映し出された。解散すると宣言したところで間髪を入れず、皆さん、ばんざ~~い、はて、いったい何を バンザイするのだろう。

 私の見るところ、これは、もうどうしようもないから、『お手上げじゃ!』のやけくそバンザイだろう。 

 袋小路に入り出るに出られぬ息の詰まりそうな状態にある私も、もうどうしょうもない、お手上げじゃ、という意味で、やけくそバンザイをやってみた。

 気分はよくはなりはしないが、なんかアナーキーな笑いが(狂気の笑いと言った方がいいか)もれてきた。

 「あははは!なるようになれ!バンザイじゃ」

 どっぷりと、引きかえしもできない狂気に身をゆだねるのが楽かもしれない。狂気になるのは最終的な自己防衛の心理メカニズムかも知れない。

 究極の解決は、狂気か、自殺か、自己破滅かもしれぬと思いはじめた。嫌な世に住んでいるものである。

 さて、次のニュースは、自己破滅に身を置いた人である。

 よく見知っている某公共放送の有名アナウンサーが痴漢逮捕。

 この人がそうなのかどうかはわからないが、どうしようもない状態に置かれたとき、犯罪や社会的に許されない行為を行って、自ら破滅させることによって今の状態を突き破る人がいる。

 もうすぐ平成24年の最後の月、師走である。狂気、自殺、自己破滅に走る人が増えるんじゃないだろうか。

2012年11月14日水曜日

明後日解散?徳島県は大騒ぎ?

 まあ、私にとってはどうでもいいようなことなんだけど明後日解散とか言ってる。

 徳島はちょっと大変なことになりそうだ。

 徳島選挙区は3人の代議士を選ぶ、激戦区が多い。

 ところが年内解散、総選挙のお約束事が0増5減案。

 徳島がその5つの中に入り、定数が3から2へ、

 ただでさえ競争の激しいとこへ持ってきて、代議士が一人減る

 今、5人もいる(比例区もあるから)代議士先生は、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ、よいよいよいよい。

 少数精鋭となってほしいが、どうだろう

 内心、まだまだと思っていた人が多い。それが俄かの解散。首相が明後日解散すると、明言するのは滅多にない。

 なんで、と思う。うそつき首相、と呼ばれるのにブチ切れたという説もあるが、私の見るところ、第三極の政治勢力がまとまるのを避けたかったんじゃないのか。

 師走は師(先生)が走ると書く。今月から来月にかけて、先生方がウロチョロしたり、走ったりする姿が見られるだろう。
  (定数減は今回の衆院選には適用されないとのニュースもあるが、どちらだろう)

時雨るるか 夜の声

 ここ数日天気が不安定である。日曜日からの悪天。それもずっと悪いのではなく、晴れていたと思えば急に突風、そして驟雨だ。冬への季節の変わり目、時雨もよいか。

 昨日も雷が鳴ったかと思うと俄かの強い雨風。ちょうど散髪をしていたが、自転車置き場の自転車はなぎ倒されていた。

 昨日は久しぶりに墓参りをしたが、となりの墓の卒塔婆がなぎ倒されて、我が家の墓にもたれかかっている。吹き散らかされた樒の葉が通路や墓石のあちらこちらに張り付いている。
 時雨の冷たい雨に濡れた共同墓地はこの上なくわびしい。

 卒塔婆をもとの位置に戻し、もとあった土台の穴に差し込んでいると上部でカリカリ音がして卒塔婆が揺れる。
 
 「なんじゃろか」

 と思い、見ると墓に飛び上がった子猫が二匹、卒塔婆が動くのを面白がってまとわりついて遊んでいる。人なつっこい子猫で手を伸ばすと抵抗もせずに抱かれた。
 捨て猫ではあるが最近捨てられたのか、栄養状態も毛並みもよい。甘える態度から見て飼われていた親猫の家で最近までいたのだろう。

 これから先のことを考えるとかなり哀れである。それならお前が飼えといわれても、無責任な飼い方はできない。喉と頭を撫でてやっておいはなしたが、場所を離れず、二匹が飛んだり跳ねたりして遊んでいる。

 夜に入っても冷たい時雨と突風は時おり襲ってくる。墓地と我が家は500mも離れていない。暗くなってから、気になり、ちょっとした餌をもって墓地に行った。暗い墓地は人気がなく、子猫の声もしない。呼ぶが、ニャンともスンとも言わない。

 餌は持ち帰った。あの子猫どうしているのだろうなぁ。私が行ったときは近くにいないのか泣き声を上げなかったが、深夜になり、石ばかりの墓地で餌や親、暖かい寝床を恋しがってネウネウと泣いているんじゃないだろうか。

 犬と猫の違いはあるが芭蕉の一句を思い浮かべた。

 『草枕 犬も時雨るるか 夜の声』

2012年11月11日日曜日

雨の日の博物館内外

 今日は先日より予定していた徳島城博物館へ見学に行ってきた。今日は学芸員による展示説明がある。2時からだが、正午を過ぎるあたりから雨風とも強くなり、よっぽどやめようかとも思ったが、前から楽しみにしていたことでもあり、傘を吹き折られる心配をしながら博物館にたどり着いた。玄関前でズボンを見ると、すっかり濡れそぼっていた。

 テーマは『唐入りの時代』(秀吉の大陸出兵)である。

 内容についてはまた別のブログで紹介いたします。

 さて、着いたのは1時半、少し時間があるので、博物館内のホールの徳島城庭園の見えるソファーに座って熱い緑茶を飲んでいた。(この博物館は緑茶サービスがある)

 外の庭園は強い雨風で人のいないだろうと思っていたが、ピンクや銀やそのほかの派手な色の服を着た若い子がちらちらしている。

 「なんじゃろ?」

 よく見るとコスプレ大会である。この雨風でも熱心なコスプレをやっている、雨の中、ギャラリーもほとんどいない。

 透明なガラスの壁を通して写真を撮った。中にはポーズをとってくれる子もいた。
 私もコスプレをしてみました。



2012年11月9日金曜日

秋の夜を如何にとやせん

 人恋しくなる夜、でも誰もいない。こんな夜はハイボールでも飲もう、あの懐かしい曲を聴きながら・・・・・・

これは前の方が良かった

 最近、IE8(エクスプローラ8)のブラウザでGメールやニフティーのホームページを見ていると、このIE8ではやがてこの画面はサポータされなくなり、一部機能が正しく作動しないことがあります。とのお知らせが画面に出るようになった。同時に新バージョンのブラウザを勧めるお知らせもある。

 エクスプローラの新バージョンはIE9である。指示に従ってダウンロード、インストールした。しかし、慣れないせいばかりではない。極めて扱いにくい新バージョンと称するエクスプローラ9である。
  
 あちこちせせって、クリックしたりして試したが、ググルクロムや火狐と同じようになっている。エクスプローラにはエクスプローラの長所があったが、それがなくなり、ググルクロムや火狐と扱いが変わらない。差異がないなら3つもブラウザはいらない。

 「これはなんなんだろう。だまされた。前の旧バージョンIE8の方が良かった。」

 さっそく前のものに直そうとして、アンインストールのため、コントロールパネルのインストール一覧をさがしたが、見当たらない。ウィンドーズのシステムに食い込んでインストールされたのかもしれない。
 困ってしまった。

 こんな時、パソコンには『システム復元』というのがある。これを利用して直前の状態に復元することにした。
 手順に従ってやると、前日の状態に戻り、エクスプローラ8に戻った。

 私のような年配者は、新バージョンは苦手である。以前使っていた慣れたものがいい。しかし、パソコンのソフトは次々バージョンアップされる。やがて古いのはある日、廃棄されるのだろう。
 新バージョンに慣れなければ、やっていけなくなる日が来る。

 「でも、その時までは生きてはいないだろうから、まあ、いいや」

2012年11月7日水曜日

あき色とバッハ

わずか40秒の、チェンバロのための組曲より小品を選びました。
(イギリス組曲第6番、ニ短調より)
   

2012年11月5日月曜日

長崎かすていら


 皆さんはどのようなお菓子が好みでしょうか。最近の若い人は洋菓子の好みが多いようで、チョコレート系のお菓子なんかが嫌いという人はまずいないようですね。

 このチョコレートはヨーロッパでも比較的新しいお菓子のようです。原料のカカオ豆はご存じのように新大陸原産ですから、当然、ヨーロッパに伝わったのは16世紀以降です。最初はコーヒー豆のように煎じるか何かしてココアのような飲料として用いられたようです。固形の板チョコが作られるのは19世紀中頃ですから、これからお話しする江戸時代には、皆さんのだぁ~~い好きなチョコは日本にもヨーロッパにもなかったのです。

 チョコこそありませんが、この時代(江戸期)のヨーロッパの洋菓子はだいたい現在のようなものが出そろっています。ここでその原料をちょっと見てみましょう。小麦粉はまあいいとして、バター、練乳、あとナッツ類などが使われます。
 どれもこれも脂肪分たっぷりです。それが洋菓子のおいしさの素でしょうか。でも砂糖以外はほとんどが各種の脂肪というのは健康面から感心しませんね。
 よくバランスのとれた食事をといいますが、極めてバランスの悪い『お菓子』は食事とは別のものという考えなんでしょうね。(お菓子は別口、とか別腹というのはそういうことか!)

 それに対し、江戸時代からある和菓子に注目してみましょう。ここでは長崎かすていらをとりあげます。原料は砂糖、小麦粉、水あめ、卵、その他です。原料の栄養素から見ると、脂肪過多ではありません。炭水化物、タンパク質、脂質がバランスよく入っています。カステラはずいぶん健康志向のおかしなのです。菓子でも食事と一緒で和風は健康にいいんですね。

 このかすていらのバリエーションである、小豆入りのカステラ(具体名でいえば小男鹿・さおしか、下記図)
 の場合なんかは小豆が入っているため、三大栄養のほかに『植物繊維』も豊富である。

 江戸時代長崎で作られ始めた長崎かすていら、はポルトガルから入った南蛮菓子としてのルーツが知られていますが、私に言わせればアチャラのスポンジケーキなどとは別物、日本のオリジナルといっていいでしょう。

江戸時代に日本に来たオランダ人も朝鮮人も中国人もこれを和菓子として認識しています。カステラを作る和菓子職人の腕は世界的にも一流で、これを茶菓子に食べたオランダ人も、

 『う~ん、こんなうまい菓子を作る菓子職人は世界広しと言えど、オ~ランダ!』

 と言ったとか言わなかったとか・・・

 江戸時代の長崎かすていらの世界にないおいしいところは

 これ以外にも長崎で和菓子は発展展開をみせ、多様でおいしい菓子が作られます。長崎がこのような素晴らしい菓子を生んだのはオランダとの貿易によって入ってくる豊富な「白砂糖」があったからだといわれています。
 日本人の贈答好きはこの時代から。高級和菓子のかすていらなんかは当時高級贈答品としてかなりの需要があったと思われます。

 オランダからの輸入砂糖はかなりの量にのぼりました。多くの和菓子が作られた証拠です。

 先日出島に行ったときに、輸入砂糖と、それからつくられた和菓子の動画を撮ってあります。ご覧ください。

 きょうは長崎かすていら、の宣伝になりましたね。長崎かすていら本舗から

 『宣伝料をいくらかもらいたいですわ~』

追伸、江戸のオランダ人の定宿、長崎屋はカステラ本舗とは全く別物です。当時の唐物(オランダ商品を扱う)店だったようです。

2012年11月4日日曜日

江戸を歩く 本石町 長崎屋

 花のお江戸を歩いても先日の長崎旅行が思い出される。

 『一体、お江戸と長崎とどうつながるのか?』

 それは時々このブログでも取り上げた長崎出島・商館長の『江戸参府』、オランダ人は商館長と医師、書記の3~4名、残りは日本人ばかりが長崎から60人余の大名行列の格式で江戸城まで将軍に拝謁に出かける行事である。1790年までは毎年、以後は4年に一回となるが幕末まで続けられた。

 目的は、ヨーロッパで唯一、貿易が許されたことへのお礼言上、それに伴い贈り物献上、そして、今後の貿易の許可である。

 下は品川辺りを行くオランダ使節一行の行列の一部
 オランダ使節は江戸では、外国からの賓客であるから、丁寧にもてなされた、ただ、幕府の施設には泊まらなかった(なぜだろう?)、商人の『長崎屋』を定宿としていたのである。

 今回、日本橋近くの室町にその場所があるので見に行った。当時の江戸きり絵図ではこのあたりである。当時は江戸・本石町といった。
この近くには、時を知らせる、時鐘があった。

 江戸の人はヨーロッパ人などめったに見られないので、オランダ人がここに泊まったときは野次馬がどっと押し寄せた。北斎の版画にその様子が残っている。
 この場所は日本橋から歩いて5分ほどのところなのだが、場所がわからなくて、お巡りさんやガードマンに聞いてようやくその場所に行きあたった。
 しかし、現在、残っているのは地下鉄の入り口にその長崎屋があったことを示すプレートのみで、せっかくいったのにがっかりした。

 そのときのブログです。ここクリック
 

2012年11月3日土曜日

江戸を歩く 商売と金の中心地

 今回の旅行で江戸の名残を求めて東京中心部を徹底的に歩くつもりだったが、老化による体力の衰えを忘れて、初日から無理をしたのが祟って、(スカイツリーから隅田川沿いを両国まで歩いた。)くたびれて歩けなくなった。結局、日本橋界隈を中心に比較的狭い範囲を歩くことになった。

 前回では江戸時代の街道の中心地、日本橋を取り上げたが、この日本橋あたりは交通の中心地であるばかりでなく、商業、金融の中心地でもある。

 まずは日本橋!
江戸時代、書肆から出版されたもの切絵図がある。これを元にたどっていこう。

 日本橋から北に向かうと駿河町がある。ここらあたりが当時の最大の商店があったところである。その名は、『三井、越後屋』
 現銀掛け値なし、の商売で全国一の店舗に発展した。
 うれしいことに江戸時代から数百年たっても、この場所にはその三井、越後屋の直系の店が今も存在する。日本は世界にも誇れる老舗(創業、江戸時代なんかはザラ、中には千数百年前の飛鳥時代創業というのもある。)の多い国だ。

 屋、頭をとって、『三越である。江戸時代とほぼ同じ場所にある。日本橋から見える。

 ここは日本橋の北詰、江戸時代はここを曲がると江戸城が直線で見えてくる。そして江戸城のバックに富士山が見えるという、まさに店舗としては天下一の一等地である。
 下は朝鮮使節が江戸城に上がるとき、駿河町越後屋の角を通る『図』である。

 今、デパートの売り上げは伸び悩んでいるが、老舗の三井・越後屋、三越はその歴史と伝統を背負って今も雄雄しくここに存在する。

 商業のシンボル、呉服屋(今は百貨店に変わったが)は江戸時代と変わらず今もここに存在することは歴史好きにとってはうれしいことである。上の写真では近代的なビルとなったが、絵図で当時の様子がしのばれる。
 また、江戸東京博物館ではこの店の模型が展示されている。下は私がカメラに取った写真である。
 
また、金融の中心も江戸時代に変わらずこの近くにある。まず江戸時代の切絵図から

この金座そしてその隣の両替町のある辺りに今あるのは、

 そう、日銀、日本銀行である。このあたりには銀行の本店も多い。ここからすぐのところには銀行の父とも言われる渋沢栄一の銅像があった。


 江戸時代から変わらず商業と金融のシンボル的存在の三井・越後屋、金座・両替が『三越』、『日銀』と名を変えたが、今もその伝統を受け継ぎ同じ場所に存在するのである。
 
 

2012年11月1日木曜日

早くも初冬か

 午後から北西の風が強くなり、日も雲に隠れ、寒くなった来た。

 早くも初冬か、家にじっとしているとじわっと底冷えがしてくる。ぶるると震える、身も心も寒くなる

 初老に初冬はきつい

 こんな夜、どう過ごそうか、侘しさが増してくる。

 皆さんはこんやどうされてます。

 奥さんの暖かい膝枕で、あるいは熱燗で、または熱い風呂に浸かってゆったりと

 極楽は初夏の昼下がりが永遠につづくと誰か言っていた。いい季節の設定だ。

 ホントにこれからこの寒さをどうしのごう