2011年3月31日木曜日

捧げる歌

 明日からは新年度、新しく旅立たれる方もいるでしょう。その人たちに捧げます。
 拙劣ですがムウビメエカでミュージックビデオを作りました。

2011年3月30日水曜日

小さい町だがこんなものもある

 前のブログでわが町の飲み屋横丁を紹介したが、今晩は夜のウォーキングに出てこんな店を見つけた。昼に通ったときは目立たないのでわからなったが、これ、今流行の
 インターネットカフェ
 飲み屋は風営法の規制を受けるため24時間・深夜営業はできないが、インターネットカフェの場合は飲食店の範疇なのか夜通しずっとやっている。
 貧ちょこまい街だがこんなモダンなものまである。もちろん一度も入ったことがない。たぶん若い人ばかりなんでしょうね。
 いったい何をやっているんでしょう。ゲームが中心だと思いますが・・・・・・・・・・・・・・・
 外から覗いてみました。怪しげな雰囲気が漂っている気がします。私のイメージでは、天才的なハッカーや国家転覆をたくらむウェブおたくが巣食っていそうです。でもこんな田舎にまさかな!

 夜の公園まで歩いてきました。ちらほら咲き出した桜がぼんやり白く闇に浮かびます。今年は雪洞がまだ吊られていません。派手な提灯類、イルミネーションは大震災のため自粛しているのでしょうか。
 公園で同じように反射タスキをかけたかなり年配で腰が少し曲がった爺さんと並行して歩く形になりました。
 「今年はいつまでの寒いですね。」
 とあいさつしたら、大きな胴間声で
 「え~ええ、そうですな」
 と答えつつ、お尻からおおきな音で屁が
 「ぷ、ぷ、ぷ、ぷ、ぷ、」
 なんと歩くリズムにあわせスポポンスポポンと音がつづきます。いくらなんでももう途切れるかなと思ったが10メートルくらい歩く間、高らかになりっぱなし。リズミカルで音楽的でさえありました。

 歳よると肛門括約筋も緩み屁が出やすくなると思うのですが、信じられない長さつづくのは、このゆるみが排出だけでなく、緩み時の吸入によって空気が補給されているからだと推測されます。
 たぶん直腸の陰圧によってお尻の穴が呼吸しているようなことになっているのでしょう。

 確か今昔物語か宇治拾遺物語に「屁こきの翁」の話が出てきたような気がします。この翁(じいさん)屁で音楽を奏でたといいます。腸のガスだけで音楽を奏でる屁が出るはずはありません。合間に呼吸のように空気を吸ったのでしょう。当然空気だから臭くないでしょう。器用な爺さんです。

 連発を続ける爺さんはメロディーこそありませんが、結構拍子は取れてます。さすが公園を横切るころには括約筋も疲れたのか、ピスピスという小さな泡のような音に変わり結尾を迎えました。

 おなら一口メモ
 逆立ちしておならをすると空気が吸い込めて補給できるためいくらでもおならができます。曲を奏でたい人はまずこの方法で練習するとよいでしょう。
 

2011年3月29日火曜日

お顔がつるん

 霊力の源である顎、口、頬のヒゲを今日剃ることにした。
 霊力と言っても予知能力があるわけでもなく、鉛筆一本動かせるわけではない。自分で勝手にそう思い込んでいるだけである。しかし、自分ではまだ発見できていない何か霊力はあると信じている。その元のヒゲを剃ったのだから霊力も消えた。
 そってスースーする顔の下半分を撫で、仙人から俗人に戻ったような気がちょっとする。

 さて、剃る道具であるがT字型の安全剃刀しかない。ところが霊力を感じさせるほど(と私は思っている)伸びているためそんな剃刀では剃れない。バリカンがあればそれであらかた剃ってからT字型の安全剃刀で剃ればいいんだがバリカンもない。
 日本剃刀やゾンリンゲンの剃刀などで下手に剃れば顔中血だらけになるのは必定。さてさて困った。

 しばらく考えて二段構えで剃ることにした。
 まず家の庭に出た。鏡を壁に立てかけ用意した鋏で出来るだけ根元からジョキジョキ切っていく。ぱらぱらと庭に落ちていく。ほとんどが白髭である。
 自分で鋏で切るのだからそろわないひどい短めの髭面になる。とっても情けない顔が鏡に映る。急いでデカマスクをして第一段の剃りは終わる。
 落ちたヒゲを集め庭に穴を掘って埋める。
 知ってますか?天皇さまの切った髪、ヒゲ、爪は決して人目・手に触れたりしないように深い穴に埋めること。私と一緒じゃ。

 「お前は 天皇か?」

 次は第二段。T字型安全剃刀できれいに剃ります。これは顔を熱いお湯でふやかさなければだめなので、今日はこれから温泉に行きます。
 久しぶりの温泉なので今日はいい日になりそうです。

 温泉は「御所の郷」にしました。まだ日が高いので行く前にちょっと奥にある御所ダムに行って散策しました。
 このダム私と同じ年齢です。ダムもこれくらいになると貯水量より堆積した土砂の方が多くなり、やがて貯水ダムでなく砂防ダムに近くなります。堆積した土砂が厚く積もったダムの水際まで降りて写真を撮りました。

 どっきゃらの政党が

 「コンクリから人へ」

 なんどとかっこいいこと言って八ッ場ダムが完成間近なのに息の根を止めましたね。原子力があかんようになって炭酸ガスの出ない水力発電なんかクリーンなエネルギーなんですが早まりましたね~ぇ。
 スーパー堤防、仕分け!で、廃止しましたが、1000年に一回の津波が来ましたね。これも早まったのでは?
 某政党、やること裏目裏目に出ますね。まるで私の人生の真似をしてませんか。
ダム内部の湖面からダムの裏を見る

ダムの湖面から奥の阿讃山脈を見る
 温泉でヒゲをきれいに剃って鏡を見るとずいぶん間の抜けたような顔がそこにあった。
   

2011年3月28日月曜日

鎮魂

 今日もトップニュースは原子炉事故と放射能、多くの時間を割く。
 東北での死者は驚くべき数に増えているのに、数万になろうという死者のことはどうなったのだろう。
 「生きている人の脅威が最重要である。」
 「去る者は日々疎くなっていく。」
 それはわかる、それはわかるが、悲しすぎないか。

 災害の多い日本列島に住みついた我らの祖先も幾多の災害に多くの命を持って行かれた。
 われらの先祖は死者に対して社会や集団として多くの鎮魂の儀式、作法を持っていた。

 いまさら古い鎮魂の儀式や作法をやれと言っているのではない。
 せめてせめてトップニュースに死んだ人のことを鎮魂の為に持ってこれないものか。

 万葉の歌集を開き、次の歌を読みながら、多くの子を亡くした親の為に号泣した。わたしの鎮魂はそれくらいしかできない。子を持たない私でさえこれだけ悲しいのだから、東北の人の悲しみはいかばかりか。
 わかければ 道行き知らじ 幣はせむ 黄泉の使 負ひて通らせ
(まだ幼いのであの子はあの世への旅路を知らないであろう。あの世への案内のものよ、どうかあの子を負ぶっていってくださいよ。)

 この世は確かに生者のものではありますが、数万にのぼる死者の鎮魂の作法を忘れたようなニュースのトップで多くの時間を割く原子力事故放射能報道には納得できません。ましてやこの事故で一人でも死んだんでしょうか。

 高齢で病気がちな私だからでしょうか、死者の世界を思い、鎮魂のことを思うのです。
 
 駅の横の公園にコブシが咲いていました。東北の春はコブシがとても美しいですが、今年はそれを思い悲しみがまた湧いてきました。
コブシの花と鐘楼(西麻植駅公園)
みちのくのコブシの花の美しさを思い涙がこぼれる。

無残なり春三月、花は咲けどもこぼれる笑顔はいづこ。

息吹く春を迎えても 君は帰らぬ。

泣いて君が戻るなら いくらでも泣きもしょう。

涙が枯れ果てても 呼び声がむなしく響くだけ。

2011年3月27日日曜日

え~っ!長生きはするもんじゃ

 いやあ、いまTVを見てるが、徳島城南が強豪報徳学園に勝った。
 あ、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ、よ~い、よ~い、よい!
 平成の御代まで生きて思わぬことを見聞きすることこそめづらしけれ。
パチパチパチ、ようやった!
徳島男子、かっこいい

予言、占い・・・のつづき

 前のつづき
 私のようにだいたい毎日ブログを書いていると、自分のことのみでそうそう主題があるものではありません。時事問題、天候、時として大事故、天災などを採りあげます。そのとき筆が滑るというか大げさに調子に乗って予測や悲観的な見方を書きます。
 これは私だけに限るものではなく新聞のコラムなども、将来に対して楽観的な見通しを語るより、悲観的な展望をのべることが多いようです。面白いことにこのような傾向は、中世の運命論、終末論に憑りつかれた年代記の作者と変わりないように思われます。

 このように将来に対し悲観的なことを書く回数も多く、また多くのブロガー、コラムニストがこのような傾向を持つとすると、いつか、そして誰かは必ず、前もって、今年はたいへんなことが起こりそうだ。もっと具体的に大地震・津波が来ると書いたりした人がいるに違いありません。
 数多くの予言・予測に近いような文章があるとすると、誰かは言い当てることがあるのは当然という気がします。
 私のブログをみても先に紹介した1月8日もそうでしたが、1月26日の「地獄の口が開く」、2月1日の「パニック映画」、の記事も言い張れば、予言ととれないこともありません。

 このようにたまたま当たるのが中に出てきますが、正確にぴたりと当たるのはさすがに確率的に難しいようです。
 しかし、大体においてこのような予言が当たり、それが自分の未来を予兆出来る能力に違いないと思っている人は、ピタリと当たらなくても、実はそれは
 
 「神やあるいは天が、信じる人を選ぶため、はっきりとは言わない形で、仲立ちである自分に黙示として示したものである。」

 「それを読み解き、信じられるのが自分であり、今回の災害ははっきり自分にはわかっていた。そして警告も発していた。」

 などとうまく言います。こうなれば宗教カルトですね。

 信じさせる人、信じる人が出てくると、

 「なぜ、我々はこんな災厄を受けねばならないか?」

 の答えが欲しくなります。この土壌の上に、中世は終末論が大流行りします。そして「救い」を中心に据えた宗教も大流行りします。
 
 中世のようなことが流行るかどうかわかりませんが、歴史は繰り返すといいます。理性が支配するという現代ですが、さてどうなるでしょう。

予言、占い、黙示、終末、救い、そしてカルト

 今回の大災害の人的被害、物的被害の大きさは昭和20年の敗戦以来最大といわれています。まだ最終的にどれくらいの被害になるか確定はしていません。死者・行方不明者は日を追うごとに増えるばかりです。今日の時点で死者・行方不明者は2万7千人、おそらくなどという言葉は使いたくないんですが、3万人は越えると思われます。一説には5万人を超えるのではないかという人もいます。

 この恐るべき被害は地震によってもたらされました。災害の中で地震は突然襲ってきて予測不可能です。(科学的に予測することは無理と断言する学者もいます) 
 科学者も漠然と、そろそろ起こっても不思議ではないと、いうような言い方はしますが何年何月何日、ということはできません。
 他の大きな災害、例えば私が小学校3年の時実際体験した「伊勢湾台風」による風水害は死者・行方不明者が5000人を超えました。しかしこれは何日前からラヂオで来ること、大きな台風であることは予想されてました。

 しかし、地震は台風と違います。今回の地震は急に突然にやってきて大災害をもたらしたのです。
 もし仮に、この日に地震が来ることが予測できていたら、死者は0人にできたでしょう。ですが科学では言ったように日にちを言い当てることは不可能です。

 思いもよらぬ時に地震に襲われ人の運命が翻弄されるのは現代も中世の日本でも変わりありません。科学が発達し知見も広がりましたが、予測不能なことで運命がもてあそばれるのは同じです。

 現代日本人は地震の遭遇に対し

 「地震じゃあ、仕方あるまい。」

 と、予測不能で起こったことに対しては甘受せざるを得まいと考えています。(もちろん事前・事後の対策については積極的ですが、起こることそのものに対しては何ともしがたいと感じています。)

 この点、中世日本人の方が積極的なように見えます。
 いつ起こるかわからない。とか、仕方あるまいという風には考えず、いつかを知ろうとし、なぜ起こるのか、特に人間界の事象との因果関係からおこる原因を考えたりします。そして起こることを事前に食い止めようとしたりもします、「封じ込め」ですね。

 中世人はみんな挙げてこのことに積極的でした。ただし現代人の多くが用いる方法ではありません。

 それは、予兆を読み解くこと、それに伴う「予言」、各種の「占い」、密教などの修法・呪文(一種のカルトですわ)です。

 ばかなことだ、と多くの人は一笑にするでしょうが、現代でも中世の人々が信じた方法が脈々と生きております。阪神大震災の時、あるカルト教団がこの地震を予言したとして話題になりました。

 今回の大震災・津波も少し落ち着いてくると、実は予言されていたということが出てくるような気がします。

 ちょっと次の文を見てください。これは今年の1月8日ある人の書いた文章の抜粋です。

 「辛卯の歳、新年早々、向こう岸まで全面氷結したこの年・・・・・・・・恐ろしい災いが降りかかる予兆で幕を開けた。」


 今年は辛卯(うさぎ年)、なんか当たっていそうな予言ですね。文も重々しいし、いったい誰が・・・・・
 
 これね、私の1月8日のブログの文章です。(お疑いなら見てください)
 いったい何が言いたいかというと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   
 眠い!明日につづく

2011年3月25日金曜日

灯油の購入制限とまた値上げ、ため息をつく

 彼岸を過ぎても寒い日が続いている。まだ数日は寒さが続きそうである。まだ石油ストーブを片付けるわけにはいかない。この様子だとまだあと数回は灯油を継ぎ足さなければならない。暖房費も始末したいのは山々であるが、風呂のボイラーの灯油も少なくなっていることでもあり、2缶だけ灯油を買いに行った。


 しかし、スタンドには張り紙がしてあって、お一人1缶までとある。大震災の為と、理由を書いてある。仕方ない、1缶だけセルフで入れたが、前回の購入時に比べると大幅に上がっている。


 灯油を買っても、量も少なくなり、高額になった。


 ここ四国において灯油は生活必需品か、と問われると一概には言えないが、それに近いものではある。灯油などは望むだけを安く手に入れられればいいのだが、東北の震災にあわれた人のことを思うと、それは贅沢であろう。四国では3月末近くなっているのだから、暖房も厚着で辛抱できないこともない。また風呂のボイラの灯油も風呂に入る回数を減らせば消費も抑えられる。
 便利、快適な生活に慣れてしまっているが、昔の生活はもっと不便だったことを思えば耐えられないこともない。しかし、高齢になって生活の質を少しでも落とすのはきついものがある。
 あ~あ、ため息が出てくる。


 早く日本列島全体が暖かい春に包まれることを望む。

V6? ふむふむ、なるほど

 みなさんタレント名よく知ってますね。奥さんの名前まで。昨日のブログの続きですけど、このキャスターは井ノ原っていうんですね。V6のグループの一員だということも知りました。昨日の画像はNHKの「あさイチ」を検索し、そのなかから画像を検索しました。

 V6ってなんか聞いたことあるような気はするんですが、
 「必須ビタミンが6種類入った栄養ドリンクかな」
 ぐらいにしか思ってませんでした。
 
 グループ全員でとった集合写真を見ましたが、はっきり言って驚きました。震災のニュースの時、まるでオリバーツイストに出てきそうな,葬列の時付き添う葬儀屋の「泣き」を専門とするイケメンで,涙をさそう職業「泣き男」みたいなイメージと全然違いました。
 陽気で底抜けに明るく感じます。いや~、美女は化けるといいますがどうしてどうしてわかい男も信じられないほど化けますわ。
 でも、これって役者としてはすぐれた能力ですね。冠婚葬祭いずれもいけますね。TV局にはお得なキャラですね。

 ところでこのグループ、歌い手なんでしょ?上手なんですか?わたしも若い人の歌を研究してイメージビデオを作ろうかな。
 ここ一か月、BGMをいれたイメージビデオをムウビメエカで作ってブログに貼り付けているんだけど、その歌手、こまどり姉妹。八代亜紀。大川栄作。三沢あけみ。などV6の歌と比べたら4世代以上違う。がんばって若い歌い手のイメージビデオに挑戦してみますわ。

 あ、そうそう、この井ノ原さんに似た郵便局員、うちの近くの郵便局で見たような記憶があるんだけど、このキャラ、庶民的なキャラでもいけますね。

2011年3月24日木曜日

ニュースキャスター

 最近のニュースショーというかニュースバラェティー番組、鼻についてしょうがない。まあ、個人の好き嫌いの問題かもしれないので、そのつもりでお読みください。

 芸能ネタや、「最近の政治家はなっとらん!」というような政治ネタ、三面記事のおもしろおかしげいな脚色ネタ、などはどうぞ御随意に、で別にかまわないんですけど、今回の大震災をこれらのニュースショーで見ていると
 当然というか、いつもの同じキャスター、コメンテーターでやっている。同じ顔、同じ喋り、おなじような切り口、説教口調、大震災の2~3日あとくらいまでは自粛のつもりか重々しかった態度もやがていつものように自分を高みにおいて言いたい放題。

 特に(これは私の独断偏見ですから)朝のニュースショーのMM氏、夜のニュースショーのF氏の震災に対する報道姿勢が気になっております。まあ、賢い方々ですから批判されるようなへまはしでかすわけもなく、とてもソフトにそつなくやっておられて、歌舞伎の大立役の研究でもなさっているのかご婦人方の受けが良いようです。型にはまった決め台詞もお上手です。
 しかし、私はなぜか鼻につくんですよね。

 震災後しばらくはいろいろな局のニュース姿勢、報道の違いを見るためどのチャンネルも見たんですけど、鼻につきだしてからはその番組は見なくなりました。
 大震災のような報道は、感情や司会者のコメントなんかいれずに淡々と客観的な報道をしてくれるのが一番受け入れられます。

 ニュースショーはもういいや。キャスター、コメンテーターの言葉なんか聞きたくない。と思っていました。

 しかし、ちょっと見直したニュースショー仕立ての番組がありました。

 NHKの「あさイチ」です。
 抑制されたキャスターの態度、それでいて、被害者の苦しみ、悲しみはひしひしと伝わってきます。中でもうつむき加減に深刻に聞いている素人キャスターに大変感心しました。まだ若い男の人です。でしゃばらず本職のアナウンサーの邪魔にならず、私から見ているとあまりにも引っ込み過ぎてもどかしささえ感じます。そして震災の報道をしているときとてもつらそうな表情をしています。

 わたしから言わせれば震災報道ニュースショーのキャスターではこの人がぴか一です。キャスターとして下手かもしれませんが、心理的にとても癒されます。不幸な人々がたくさんいるとき、こんなにつらそうにしてくれるキャスターが鼻につくことなく自然に受け入れられます。さすがNHK、この人どこから引っ張ってきたんだろう。
左がその素人キャスターです。 

2011年3月23日水曜日

追伸 今夜は寒い

 お彼岸も過ぎたというのに、寒い。
 今夜の夜のウォーキングは新町川水際公園を歩いている。
 真冬並みの格好で歩いている。数日は寒い日が続くそうである。
 両国から秋田町の方を眺める。
 わが町の飲み屋横丁と比べ華やかである。
 

赤い灯、青い灯、飲み屋横丁

 わが町は3万に足りない小さな町であるが、飲み屋・スナックなどいわゆる遅くまで開いている酒を供する飲食店が街の規模に比較して多いといわれている。吉野川の北岸も含めて近隣の街にはこのような店が少ないからこれらの街の客も呼び寄せて店の数も多いのだろうか。

 わたしが子供の時からこれらの店が集まった飲み屋街は町の一角の決まった位置にある。もちろん店はめまぐるしく変わり、これらの店に老舗などない。
 お店に昔は「女給」さん(ひぃぇ~、この言葉死語になっとる。変換できん)、今はホステスさんと称する女の人が何人か酒食に侍り、給仕をする。(なんか説明が大時代がかっているけどこらえてください)

 私が小学校の頃は家に内風呂がなかったため町内に5軒以上あった銭湯へ祖父母と一緒に行った。ちょうどこの飲み屋街を突き切ったところに銭湯があるため暗くなって通ると、この辺りは一種異様な雰囲気であったのを覚えている。
 貧しかった田舎の家々の灯りは白熱灯の単色の薄明かりがほとんどであったが、この辺りの店は赤や青その他の色のついた幻想的な灯りであった。通りを歩くと酔客の群れ、女給さんの嬌声、さざめく歓楽の波が揺れていた。
 子供にこれらの店は酒食だけでなく、媚を売ることも含まれているとはわからなかったし、理解もできないだろうが、なんか淫靡で子供が決して踏み込んではならないところであったのは漠然とわかっていた。

 「おとなにならなければ、知ってはならない世界があるんだな」

 そして、わたしは大人になったが、幸か不幸か、体質的に酒類は受け付けない。また、酒食にホステスさんを侍らせる趣味もない。だからこれらの店には積極的に行こうとは思わない。友達に誘われて何回か行ったきりである。

 だからこれらのお店街は私にとってはまだ子供の頃のイメージのようにまだ異界の雰囲気を残している。

 昨夜、夜のウォーキングに出た。反射板をタスキにかけてくてく歩いた。この飲み屋街を通った。今になってみれば飲み屋街というようなたいそうなものではなく、せいぜい横丁である。それでも小道の両側はびっしりこれらの店が並んでいる。
 夜、7時過ぎに通ったためか、まだ酔客は一人もいない。道は閑散としている。これから賑わいを迎えるのだろうか、ふと見ると、ホステスさんの出勤だろうか、三保の松原に降り立った天女のような女の人が向こうから歩いてきた。ひれのついたような長めのドレスを着て、香水のにおいをさせながら、ゾベリンコ、ゾベリンコ優雅に歩く。

 「一生、これらの世界を知らずに終わりそうである。」

これが飲み屋横丁、昨夜、暗くてよくわからない。
 しかし、私の心象もこれと同じ、わからない世界だ。







今日の昼間に撮った。昼見るとごちゃごちゃした横丁である。 

2011年3月22日火曜日

放射能、ちょっと神経質では

 関東6県の青果や牛乳に残留放射能が検出されたといって大騒ぎになっています。出荷停止、回収と続き生産農家は大打撃です。都市部の消費者はそれを食べないようにすればいいでしょうが、農家は残留生産物のみか風評の為、その地域の他の生産物で残留のないものまで売れなくなる恐れがあります。全く売れなくなればすぐに収入減となって現れ、ただでさえ苦しい農業経営が立ち行かなくなってしまいます。
 三陸の盛んな漁業も津波で壊滅的被害と言われているのに農業にもこの残留放射能被害、それに伴う風評被害が広がれば、日本の第一次産業は消滅的な危機を迎える恐れがあります。

 原子炉事故とそれに伴う放射能の汚染の広がりを最小限に食い止めなければならないのは、喫緊の課題で、全力で取り組まなければならないことですが、今回の残留放射能野菜、牛乳の報道、対処の仕方、ちょっと大げさではないのかと思います。

 私は医者・学者でないので断定的なことはいえません。ただ常識で考えるだけですが、今日の夜のニュースをみてこの話、騒ぎ過ぎではないかと思いました。
 ほうれん草の残留放射能について学者がコメントしてました。

 「えー、この値だとほうれん草を毎日100キロ(グラムちゃいますよ)食べ続け、何か月後に・・・・ムニャムニャ・・・っで、それくらい大量摂取でようやく何らかの健康被害・・・だから普通に食べる分には問題ない。」

 思わずわたし!吹き出し、TV画面に向かって突っ込みを入れました。

 「ほうれん草はシュウ酸が含まれているからそんなに多量に摂ったら、放射能障害の前にそっちの害がでるわ!」(シュウ酸で結石になる)

 「これだけ大量摂取してようやく・・・害が出る」だから「安心なんだ」と説明するのはわかるんですが
これこれ食べて害が出る。というような説明のしかた、安心のさせ方で、みなさん納得してその産地の生産物を買いますかね。聞いた人は

 「ほ~ら、量の多寡はあってもやっぱり健康被害が出るんじゃわ。」

 わたしゃ、消費者によけい風評被害を広め、誇大妄想を喚起するのではないかと思いますがねえ。

 むしろ自然放射能、さまざまな住居地に居住する人が自然から受ける自然放射能から説明したらどうでしょう。
 鉱物の露頭がある地方や温泉地などでは自然放射能の値が高い地方があります。別に人跡未踏地でなく有史以来人々が何の障りもなく住んでいた地方です。
 自然放射能の低い地方、高い地方、みんな平和に難なく暮らしています。これいったい放射能は何倍違うのでしょう。

 私、今60歳ですが、いま問題になっている、放射性ヨウ素、セシュウム、ストロンチュウムなんどとっくの昔ニュースで聞きましたし、わたしもそれ、もしかして過去にたっぷり浴びてますよ。
 私が中学生くらいまでアメリカ、ロシアは狂ったように熱核兵器(水爆の周りをウランで囲み極めて多量猛毒の放射性物質をまき散らす最悪の兵器)を大気圏で実験しました。とどめはノバジェムリャ島で行った50メガトンの核実験、これ3発で熱と放射能で日本が全滅します。

 で、幸か不幸か偏西風がおし寄せ吹き溜まる日本には連日、
 
 「放射能が降ってる、降ってる、今日も降ってる」
 
 忘れもしない、小学校の高学年の時。核実験から何日か経った頃。雨の日、学校の先生からなんて言われたと思います?

 「雨に濡れないようにしましょう。放射能の雨です。濡れると毛が抜けて、放射能禿げになります。」

 第五福竜丸からあげられたマグロからはアメリカの核実験の影響で、なんとガイガーカウンター(放射能測定器)の針が振り切れるくらいの放射能が検出されました。

 日本全土が放射能汚染されてました。
 わたしはそんな中で育ったんですよ。この時代との比較も出せばどうでしょう。
 自然放射能、そして50~60年代初期の連日連夜の核実験、これと最近の放射能汚染と比べ、それ以上なら、まあ、次の心配をしましょう。

 小話を一つ

 顕微鏡という便利なものが発明されました。熊さんはそれでまな板、そしておはぎを作るきな粉を顕微鏡で見ました。
 するとまな板には細菌がうようよ、きな粉にはダニがうじゃうじゃ、熊さん母親に向かって言いました。

 「おっかあ、これ見ねえ、きたなくて、もうおら食えねえぞ、死んだらどうするだ」

 「馬鹿をおいいでないよ、おまい、30までこれで生きてきて、おっかさんは60だよ、それで死んだかい!」

 チャンチャン!

切幡寺参拝

 毎年、春秋の彼岸の中日には切幡寺へお参りにきているので、今年も参拝する。歳とともに333段の石段がきつくなる。
 花木の市、刃物市など買はしないが、目を楽しむためにゆっくり見て回った。
 こどもの頃、祖父母に連れられてきたときは、「経木流し」(経木に祖先の霊の名前を書いて、水をかけて供養する)を毎回したが、今は本堂で手を合わせるだけである。
長い急な階段が続き、息が切れる











参道には露店がつづく
手を引き急ぐのは仏縁を結ぶため
 この男女極楽往生疑いなし







 
 本堂前、線香の煙がもうもうと立ち込める
 ご本尊は観音様

2011年3月21日月曜日

おもしろうてやがて哀しき遊園地

 もう50年以上も前だが私の子供時代も遊園地はあった。
まだ貧しく遊園地で遊ぶことなど夢のような娯楽だった昭和30年代
 私にとってそこは天国のような夢の世界。非日常の異界でもあった。
 その異界では微熱に浮かされたときにみる夢のように楽しい夢がすぐ恐ろしい夢になり、すぐ横に奈落がぽっかり口を開けていた。

 ピノキオは遊園地で遊びほうけて同じように遊園地に憑りつかれた子供たちとロバにされ、サーカスに売られる。
 「遊んでいたら、曲馬団に売られる」
 「ロバにされる」
 大人に脅されたのかどうか知らないが、遊園地で思う存分遊ぶことは、子供心に、売られる!ロバになる!こと。
 ハメルンの笛吹き男に連れられ永遠の遊園地に閉じ込められた子供たちもいた。
 遊園地は甘美な夢の世界とうつつをぬかすことの罰の恐ろしい世界とが同居するところであった。

 いまから考えればバカな思い込みだが、本当に貧しかった時代、遊園地で楽しみを永続させることにやましさ、背徳をかんじていたのかもしれない。

 今夏で終わる遊園地に行った。日曜というのに人ずくなではやくも衰退が兆している。
 こどもの時感じたしびれるような甘美さも、その陰に隠れ、ちらちら見えた魔界もどこにもない。

 60歳になった今、ディズニーのカラー映画のような遊園地は平板なセピア色に色褪せ、ベニヤの建具、禿げたペンキ、あくびをかみ殺す従業員が目につく。

 ああ、来るのでなかった。子供の夢のまま封印すべきであった。
 
     「おもしろうて やがて 哀しき 遊園地」
ムウビメエカで遊園地イメージビデオを作りました。

2011年3月20日日曜日

怒りが

 すんでのところで騙されるところだった。皆さんよく聞いてくださいよ。今回の原子力発電所の地震津波被害。学者などは
 「想定外の地震・津波だった。」
 と言っています。わたしもTVで何度も聞きました。暗に
 「そんな想定外の大地震・津波が来たんだから不可抗力に近い。」
 と言ってるように聞こえました。
 私も仕方ないところがあるなあ。と思い。これからも原子力発電に頼らなければならないとの考えに傾いていました。

 ところが、これが想定外ではなかったのです。インターネットという便利なツールを手に入れたやまさん、いろいろウエブで調べました。すると日本の年号で貞観11年5月26日、西暦869年に大地震それに伴う大津波が起こっているのです。この時は仙台平野の大部分が水没したと記録に残り、地質的な調査と合わせ、今回の大地震・津波と比べてもまさるとも劣らないものであったということがわかりました。学術的に(文献だけでなく地質的にも)研究されていて信用できる情報とみていいと思います。
 なんなら、みなさん、「貞観 地震 津波」のキーワード検索してみてください。
 今回以上のが確実に、歴史時代(平安時代)あったのです。

 これが起こっているのに、今回の地震は決して想定外とは言いません。

 私は原発事故に関し、強い疑惑が湧いてきました。
 
 「原発を設計する時、想定震度予測は当然地震学者など専門家を入れてやるんだけど、もしかして曲学阿世の学者、原発建設にはじめからのイエスマンの御用学者でのみ構成されていたのではないだろうか」

 福島原発はマグニチュードの想定が7,9と言われています。貞観の地震は今回以上だから9より小さいはずはありません。
 昔確実に大きな規模の地震があったのにこんなに小さく見積もって、「想定外」!それはないだろう。

 コストを安く、地域住民を安心させるため、あえてこの貞観地震を無視したのなら、許せません。原発政策そのものも全く信用できない。
 1150年も前の地震だから数千年に一回の地震で、まさか今起こるとは
 「想定外」です。という人がいるかもしれません。
 しかし、現に起こった今、その言い訳は絶対通用しません。

 このことはうやむやにせず、必ず検証してほしいと思います。もし原発建設に都合の良いように過去の地震が無視されるなら、原発は不便でもきっぱりやめるべきです。
 原発をやめる不都合よりチェルノブイリが日本に現出することの方がもっと恐ろしいからです。

2011年3月18日金曜日

中世の随筆が使われる

 これだけの災害になるとコラムや新聞の 随筆はこの震災・原発事故のことを外して書くわけにはいかない。しかし敗戦以来の人的物的な大被害で月並みな文章など空々しく感じる。言葉を失うような被害に文字通り言葉を失うのだろうか、しかし、それじゃコラムや定期的な時事随筆など書いてる人の沽券にかかわるだろう。
 格調高い大新聞などはどのような書き方をするのだろうと、この間から注意深く記事を読んでいる。やはりというか、難しい時には歴史から引っ張ってくるのが一番無難であるという予想通り、中世のある随筆をコラムや新聞の随想に使っている。

 実は私も2日前にこの中世の随筆を使おうと思って家の書庫から探し出していたのである。ところが地震の被害に対する感想のブログに誰もかれも、この随筆を引用している。私が使うのが嫌になるほど。そして昨日はあの光り輝く朝日のコラム「天声人語」までこの随筆の引用である。
 万を超すかもしれぬ死者を出した今回の災害に下手に自分だけで文章を組み立てるより、歴史上有名な随筆に書かれた災害の文章を使う方がより重みを増すし、歴史の評価に生き残った文章だけに不幸なこととはいえ多くの人に受け入れやすいものとなる。

 とはいえ中世の随筆である。みんなが全く知らないようなものでは話にならない。ある程度内容を多くの人が知っている随筆、それも大災害の内容、そんなの
 「あったっけ?」
 あるんですよ。必ず高校の古典に入ってる教材が

 「ゆく川の 流れは 絶えずして しかももとの水にあらず・・・」

 「方丈記」 鴨長明筆、

 大災害の見本みたいに大火、竜巻、日照り、水害、飢饉、そして地震(ナイという)。流麗な古文でつづられ恐ろしい災厄の記述だが畳み込むようにすらすらと頭に入ってくる。悲愴美さえ感じる。
 本文を示すと

また、同じころかとよ、おびただしく大地震(おほなゐ)ふることはべりき。そのさま、世の常ならず。
山はくづれて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。
土裂けて水湧き出で、巌割れて谷にまろび入る。
なぎさ漕ぐ船は波に漂ひ、道行く馬は足の立ちどを惑はす。
都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟、一つとして全からず。
あるいはくづれ、あるいは倒れぬ。
塵灰たちのぼりて、盛りなる煙のごとし。
地の動き、家の破るる音、雷に異ならず。
家の内にをれば、たちまちにひしげなむとす。
走り出づれば、地割れ裂く。
羽なければ、空をも飛ぶべからず。
竜ならばや、雲にも乗らむ。
恐れのなかに恐るべかりけるは、ただ地震なりけりとこそ覚えはべりしか。
かく、おびたたしくふることは、しばしにてやみにしかども、その余波、しばしは絶えず。
世の常驚くほどの地震、二、三十度ふらぬ日はなし。十日・二十日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、
あるいは四、五度、二、三度、もしは一日、二、三日に一度など、おほかたその余波、三月ばかりやはべりけむ。

 コラムやブログに引用として使われるのももっともという気がする。再現するかのような言葉は一言でも被災者を傷つけるかもしれない。しかし850年も前の災害でしかも古文に託したのなら・・・

 で、やたらと最近の記事に「方丈記」の引用やこれのモティーフとしたものが多く、私も使おうと思って嫌になったりしたがそういいつつ、
 「お前も使っているではないか」

 方丈記にはインド哲学の影響が見て取れる。世界は4大元素に帰せられるそうである。(本文にちゃんと書いてある)
 風、水、火、地、である。そしてそのそれぞれの災厄がある。地震は「地」である。もしそうなら、原発事故はさしずめ「火」か、津波は「水」、そして残る「風」は、おそらく原発の発熱が止まらず放射能が広がり広域が死の原野に拡大が「風」、風のように見えず広がる。

 4つの災厄がそろったとき世の終わりか。

 しかし「方丈記」は終末の預言書ではない。最後は平安を迎える。興味のある方は続きを読んでみてください。

2011年3月17日木曜日

もどかしそうに見えるが

 TVで空からの放水作業を見ている。落とした水が白く滝の飛沫のように広がっている。目標のプールに入っているのだろうか。ずいぶん余分に他へ散らばりこぼれているように見え、もどかしさがつのってくる。
 しかし、放射能の影響でこれ以上高度が下げられない中、自らの危険も顧みず作業を続ける自衛隊の人は一生懸命やっている。見ていて何もできない私などただただ頭を下げ感謝し、無事に成功することを祈るばかりである。

 それにしても地震・津波による原発事故はいったいこれからどのようになっていくのだろうか。最初はそんなに大事になるとは思っていなかった。政府・東電・マスコミの広報を聞いているとそうおもっていた。
 だから、津波のあと原発事故のニュースを大きく取り上げ始めたとき、一方では津波で万単位の死者が出るかもしれないのに、扱いが違うだろ。と内心思っていたが、しかし終息を見せず次々とおこる爆発や炎上をみせられ、津波の被害ニュースを上回る報道を聞かされていると、これは大事に違いないと思い始めた。 

 時間の長短はあってもいつかは終息はするだろう。しかし、もっとも恐れるのは健康被害、いやもっと悪く致死的な放射能を多量に残して終息することである。複数の県が人が住めない地になるかもしれない。どのレベルの量の放射能を残して終わるのか注視していなければならない。

 この事故が終わってからの話にはなろうが、我々はある決断を迫られるかもしれない。
 安価で良質でたっぷりの電気供給をとり原子力発電を選ぶか、それとも高価でそして不安定なため時々停電するかもしれぬ原子力以外の発電方法を選ぶか。

 人は皆、太陽、風力、潮力、地熱などエコ発電に切り替えればいいと安易にいう。しかしそれがすぐ実現するのだろうか、安定した供給がなされるだろうか、私は楽天的になれない。

 今、東日本では原発が何基か止まったため停電を実施している。原発をすべてやめる選択はあっていい。私も21世紀中に無くせばいいと思う。だがやめたとき質の悪い電気や停電、供給制限を受け入れる覚悟まであるのだろうか。私はない。じゃあ、お前とこに原発作るか?それも、いや!どうする。

 これは難しい問題である。だれかよい知恵を出してくれぬものか。

2011年3月16日水曜日

十年前の今日

 十年前の今日、何をしていたか?
 私は覚えている。某所で一年の臨時職員だったが結構いい給料で働いていた。ボーナスも出たため一年間で車も買えたし、かなりの貯金もできた。しかし年度替わりで臨時の雇用期間も終わるため3月は次の職の心配をしなければならないのだが、もともと楽天的な上に一年で車も買えたし金もたまったため、次のステップに向かう動機は極めて低かった。のんびりと構えていて4月から当分ぶらぶらしてもいいわ、などと不埒なことも考えていた。
 
 それで雇用も終わりに近づいた3月16日、有給休暇をとり、県南の雄大な見晴らしの温泉に行った。
 その場所をさっき、インターネットの地図で調べたら今はなくなっている。確か名前は「お水荘ヘルスピア」という大温泉保養施設だったと思う。十年前に行った時も客も少なく、さびれつつある感じだったからあれからつぶれてしまったのだろう。
 そこへいった理由は2つあった。素晴らしい見晴らしであること。ドさ廻りの旅役者のお芝居が見られることである。
 かなり早いうちに陸の孤島と言われている阿部(あぶ)にある温泉保養所に着いた。彼岸も近いこの頃、春の暖かい陽光で霞が立っていたのを覚えている。
 大展望浴場に入ったが誰もいない。私一人である。いくら平日といっても何人かは入っているだろうと思ったが、団体客が潮が引くように引き上げた後でのんびり入ることができた。
 
 眺めは最高、崖のような海岸がはるかかなたまで続き、霞に煙る海岸の遠くには鹿首岬、潮吹き岩が見えている。
 上は保養施設のあるあたりから眺めた景色である。
 温泉に満喫したあと、食堂兼劇場に入り、食事をしながら、旅劇団の股旅物の芝居を観た。こちらは団体客が坐っていて賑やかであった。

 そして十年後の今日、まさに今日から手続きのできる日となったため、午前中に佐古の事務所に手続きの申請に行った。小遣いにもならぬわずかな年金をもらうため。

 今日3月16日は私の満60歳の誕生日である。
 十年前の日には
 「ああ、半世紀生きたんだなあ。」
 と感慨に耽ったのは覚えている。しかし、ウキウキと陽気で楽しかったのもまた思い出す。

 十年前の暖かい春の日とは違う今日は冬が戻ったような小雪舞う寒い日。昨夜から体の不調も続き、気持ちも何となく暗い。遠出の温泉入浴も今はままならぬ。
 十年後はどうなっている。

言問わむ 人さえ稀に なりにけり わが世の末の ほどぞ知らるる (後醍醐帝)

2011年3月15日火曜日

甥っこが来た

 名古屋から甥っこが来た。四月から大学生で母親(私の妹)と一緒にやってきた。
 私には子供はいないので、少しでも私に似ているところがあればうれしいな、と思い観察するが、どうも似ていそうにない。強いて言えば社会系科目が得意なことぐらいか。顔も百キロ近い体形も似ていない。

 子のない伯父が甥を可愛がるのは世間によくある話である。史上有名なのは、ルネサンス期のローマ教皇である。教皇は当然独身で子供は持てないから世襲の弊害はないと思われがちだが、甥を引き立て世襲に近い権力独占を図った。
 地位も財産もある伯父なら甥の為に何かできようが、吹けば飛ぶような伯父では何もできない。甥も残念であろう。

 でもまあ核家族化した現代日本で伯父を当てにする甥はいまい。独立独歩で頑張ってほしい。
 一晩だけで明日は帰っていく。
 ときどきインターネットでメールを寄越せよ、とだけ頼んでおいた。

2011年3月14日月曜日

猫駅長がいなくなった

 ここ数日、大災害にあわせるように体調不良が続いている。食欲はないし、夜も眠れない。体もだるい。

 癒しを求めて猫駅長のところへ行ったら何といなくなっている。聞くと、何のためか猫を連れ去った人がいるそうである。
 かわいがるため連れ去ったのならいいが、それはわからない。

 そのまま駅から列車に乗り徳島へ行く。徳島城公園へ行くとちょうどお昼時になったので、ベンチに座り弁当を広げると、人懐っこそうな猫が足元に来てじゃれる。弁当を少し分けてやるとぺろりと平らげた。満足したのか長々と寝そべり、腹を上に向けたり、横に向けたり、ごろごろしている。
 ぼんやり見ていると少し癒されてきた。

 猫駅長もこのノラも明日のことなどわからぬ、まことにはかない猫人生であるが、全然憂いなど感じてはいない。喰って寝、ゴロニャンの楽しげな様子である。

 猫駅長もどこかでお気楽に生きているんだろう。きっとそうだ。

2011年3月13日日曜日

義援金 義捐金 喜捨

 今日、徳島駅で降りて駅前の歩道に出ると、同じ色のジャンバーを着た人が7~8人、箱とプラカードを下げ、道行く人にちょっと詰め寄るようなかっこうで、何か叫んでいる。一瞬わからなかったが、すぐ気が付いた。
 
 「ああ、東日本大震災の被災者に対する寄付金集めだ。」

 「まだどれくらいの規模の被害に拡大するかわからないのに、ずいぶん早くから寄付あつめするんだな。」

 と心では思ったが、遠く離れていて何もできない我々の善意が形になり、目に見える助力に結びつくにはこのような寄付がもっともよい方法であることは言うまでもない。
 歩み寄るような受託者(寄付を集める人)を避け気味にそのまま通りすぎる人もいれば、中には自分から進んでいって箱に金を入れる人もいる。みんなそれぞれである。

 「おいおい、お前はどうなんだ?」

 私は、寄付をしなかった。別に寄付に対し、主義として反対ではないし、それどころか今回の震災に自分なりに助けられるためには金銭を出すのが一番いいと考えている。
 今日、この場でしなかったのは深い意味はない。さっきもちょっと言ったが、すこし早いような気がしただけである。もちろんいろいろな手当は早いほどいいだろうから、早く金を集めることに抗うつもりはない。しかし、またそれは善意で自発的な行為だから、もうすこし見極めてから出そうとする人がいてもいいだろう。
 世紀の大天災からまだ丸二日もたっていない。後から後から必要な物資・金はこのさきずっといるだろう。先に出す人、後から出す人、次々あらわれれば長く援助が続けられる。

 作家の曽野綾子さんは日本財団の会長として困っている国の人々に援助金を出す立場の人として次のような主旨のことを言っている。

 「本当に困っている人々の元に必ず援助が行くように方法を考えて援助はすべきである。援助は尊い行為である。しかし金を出して、ああ、いいことした。で終わっては無責任、自己満足に陥ってはならない。貧しい国の援助金は、国の役人、もしかすると受託団体の私欲のため途中で抜かれることが往々にしてある。直接手渡すことが確実なような方策をしなければならない。大変だが、援助する人はそれだけの責任も負ってほしい。」

 いま、そしてこれから活動しようという日本の団体にこの言葉は当たってはいないだろう。しかし、最後の言葉の、「援助する人はそれだけの責任も負ってほしい」というのは傾聴に値すると思うのだがどうだろう。
 責任といってもこの場合、そんな難しいことではない。ちょっとだけ考えればいいような気がする。一番必要なものは何か、それはいつか、確実に送り届けられるか、それは物資か金か、集まりすぎて無駄にならぬか、
 これからもしかすると何か月にもわたって援助は必要となる。じっくり考えて見極めてから援助をする人がいてもいいだろう。

 アグレッシブに歩道で活動する義援金集めのグループとは裏腹に歩道の隅のビルの壁の前にひっそりと立つ僧形の人がいた。手には金を入れる托鉢を持っている。
 このような托鉢に小銭をいれるのを

 「喜捨」

 といった。「喜捨」には先ほど言った「義援金」のように七面倒な「責任」などくっついてはいない。文字通り、自ら喜んで捨てる、のだから。
 捨てるといっても仏教の思想にもとずく深遠な意味を持った行為。軽薄な行為と誤解しないでください。仏教には「捨身」という、自分の身、すなわち命を捨てるほどの尊い行為があるのです。「捨つ」というのは仏教的には立派な行為です。

 なぜかこっちの方には今、金を「喜捨」したくなりました。

 「で、どうした?」

 「喜捨は、道行くひとびとのこころごころでっさかい、いわぬが仏、いや、花。」

 本来は「義捐金」という文字ですが、最近は「義援金」と書きます。なぜかなあ、と思っていたらチィターに若いおなごしが
 
 「義捐金という字は、捐に捨てるという意味があってどうかと思います、私は、助けるという意味のある、援、の方がふさわしい気がして、いい言葉ができたと思っています。」

 と書いてました。なるほど!
 まあ、捨てる、という意味は仏教的な意味があり、ごみを捨てるなどという意味とはちょっと違うんですけど、今風の意味では確かに、ポーンと捨てるだわな。

 でもそれなら、よけいに「義援金」にはちょっとした責任もついていると考えるべきでは。

2011年3月12日土曜日

3月12日 TVを見つつ

 奥松島、陸前高田、むかし車でのんびりした旅行をしたところです。陸前高田では車を市役所において、そう広くない街中を隈なく歩き、すぐ近くにある白砂青松の海浜まで散策しました。
 その陸前高田が壊滅状態のありさまを見て涙がこぼれました。もう根こそぎとしか言いようのない破壊。せめてせめて人命だけでも無事であってくれれば・・・・・・・・

 マグニチュード8,8という規模は何百年に一度という大地震だそうです。
 
 それは数十世代に一回くらいだろう、でもなぜ、我々の世代なの?
 なんの悪いこともしてないのに、落ち度のない人々を奪いさる。
 それが天災だ。というにはあまりにも悔しすぎる。
 旧約聖書では神の試練と説くが、それはひどい、そんな神などあるものか。

 起こってしまった今となっては、救助、保護、そして復旧に力を尽くさねばならない。頼りになるのは、やはり政府・政府機関。
 最近、さんざん政府の弱体化が進んでいるように言われているが、どうか強い力を発揮してほしい。国民に、「さすが日本政府!見直した!」といわれるように。
 

2011年3月11日金曜日

3月11日午後2時46分

 TVの津波を見て息をのんでいます。信じられないような光景です。人的な被害がないことを祈って・・・・・、しかしTVでは死者の数を報道し始め、それが増えていっています。
 
 通信がつながりにくいことも言われています。このようにブログの為インターネットを漫然と使うのもはばかられます。今日は慎み、TVを見守りながら、できるだけ多くの人の無事を祈ります。

2011年3月10日木曜日

徳島城公園で青春を見る

 今日お昼に徳島城公園にいたら袴姿のレトロな女学生と黒スーツ姿の若い男が群れをなして歩いている。
 おお、どこかで、卒業式か。と思い遠慮なく、中の一人の娘さんに、矢絣の着物に袴の格好に合わせるように言葉を改め、

 「も~し、も~し。おじょちゅう。ちとものをお尋ね申す。卒爾ながら、いずこの学校の卒業式でござろうか。お教え願いたい。」

 というつもりだったが、中身はモダンギャルなので普通に聞きました。AN学園とのことでした。

 「いいねえ~。わかいしは。」

 春の素晴らしい陽光の中、ひかりかがやく若人。
 就職率が抜群の実績を誇っていると常々宣伝している専門学校だから、みんな、もうすでに就職もきまっているのだろう。希望に胸を膨らませ卒業式に臨んだのだろう。

 もう一度、

 「いいねえ~、若いってすばらしいことだ。卒業式のあとこのように群れて歩いているのをみると、こっちまでなにかしら幸せな気分になってくる。」

 自分が年老いたのを託つのではありませんし、わかいしが羨ましいわけでもありません。人間の讃歌として自然にこのような感情が湧いてきます。
 
 前にもブログに書いたかもしれませんが、ヒトってほんとにすばらしい。成長しきるのに20年もかけられるヒト、精神的な成長はその上まだ数年続きます。こんなに長い成長の時間を与えてくれた神様に感謝したくなります。他の生き物では稀有なこのなが~い期間。私は神が人を愛するゆえの恩寵だと思っています。
 我々は「青春時代」と呼んでいます。
 今日の彼ら、青春時代の真っただ中です。わたしが素晴らしいと思う以上に彼らは自分のことを素晴らしいとおもっているでしょうか。それは過ぎ去ってみなければわからないかもしれません。
 
 「輝くものそれ自体は、自分の輝きは案外わからないものだ。しかし、外部からみてみればいかに輝いているかわかるものである。」

 私にも自分なりの青春時代があったことを思い浮かべ、彼らのこれからを祝福する気持ちで眺めていました。

 そういえば、ずっと昔、だれか忘れましたが、詩人が

 「私が神様だったら、青春時代を人生の最後に持ってくるのに。」

 といったそうですが、いかにも美を愛する詩人の言葉ですね。しかし、神様はまえに言ったようにヒトに充分な恩寵を垂れています。人生最後の老後を青春時代に置き換えるというのは、あまりに欲深、青春で人生を締めくくるというのは、ヒトが天使や神にしてくれというのに等しいことです。

 今のやまさん、老醜が兆しています。病も持っています。多くの恥もかきました。生きるのにも次第に息切れをするようになりました。この先、糞尿まみれで動けなくなるかもしれません。
 でも、そうあるからこそ、死を迎え、受け入れられる。
 これ、青春時代が人生の最後にあったら、やまさん、死んでも死にきれませんわ。絶対、死ねん!

 暗くなって徳島駅前を通ったら、ストリートミュージシャンが歩道で歌ってました。いつも私の知らない歌だけど今日は違っていました。

 いつか行った映画がまたくる~ 授業を抜け出して二人で出かけた

 就職が決まって 髪を切ってきたときに もう若くないさと
 君に言い訳したね~

 過ぎ去った昔が 鮮やかによみがえる 
 君も見るだろうか いちご白書を~

 私が24歳、青春時代が終わったときの歌でした。

2011年3月9日水曜日

春遍路

 わが町には第十一番札所「藤井寺」があり、歩き遍路の道があります。一番から十番札所までは吉野川北岸にありますが、十一番藤井寺からは南岸になります。
 そこで遍路道は吉野川を横切ることになります。何キロにもわたる川中島は、さえぎるものとてない広野です。北風を受けながら歩くにはきついものがあります。
 しかし、寒い冬が過ぎ、菜の花の咲く季節になると歩き遍路が多くなってきます。
 
 川島潜水橋を鈴を鳴らしながら渡るお遍路さんはポスターや写真に好んで取り上げられています。
 
 今日はムウビメエカでその春遍路のイメージ動画を作ってみました。

2011年3月8日火曜日

ヴァンダリスム

 ヴァンダリズムって何か知ってますか。その説明の前に次の写真を見てください。

 今日鴨島駅でホームから向こうのホームを撮影したものです。ホームの屋根をよく見てください四角いものが5つのってますよね。これ座蒲団なんです。
 なんで座蒲団が屋根にのっているのか?それは誰かによってこちらのホームの椅子に置いてある座布団が向こう側のホームの屋根に抛り投げられたのです。

 この座蒲団、寒い時期、ホーム上の個々の椅子に備え付けられています。町内の老人ホームのお年寄りたちがボランティアで毛糸の座蒲団カバーを編み、クッションを入れて作ったものです。冷え冷えした椅子に座るのは大変だろうと思いやりから作ってくれたもので、毎年、カバーは新しく入れ替わっています。

 座布団がひとりで屋根に登るはずありません。誰かがこちらのホームの座蒲団を取ってブーメランやフリスビーよろしく屋根に向かって飛ばしたに違いありません。

 誰がやったかわかりませんし、予測でいうのはやめますが、面白半分に間違いないでしょう。やった本人は少々のいたずらという、軽い気持ちでやったのでしょう。
 しかし、作ってくれたひとの善意を踏みにじるばかりでなく、屋根にほうり上げられた座蒲団を回収したり、雨や埃によって汚れたカバーの洗濯などの手間を考えると、いたずらとして笑って済ますことはできません。
 やった人に対し怒りが湧いてきます。

 このような公共物に対する破壊行為、または汚損行為をそれを目的におこなうこと、そしてその風潮を「ヴァンダリズム」 といいます。
 ローマ帝国末期、ゲルマン民族などが侵入し帝国が崩壊します。学校で「ゲルマン民族大移動」という単元で習いましたね。思い出してください。いろんな部族名が出てきたでしょう。フランク族。ゴート族、アングル族、サクソン族。そのなかでとりわけ獰猛でローマの美しい建築物、器物を破壊しまくったのが「ヴァンダル族」。語源はそこから来ているようです。

 わが町鴨島でヴァンダリズムが見られるようになったのは、大変嘆かわしいことです。
 「座蒲団をいたずらで屋根に放り投げたくらいで何を大げさな」
 と言われるかもしれませんが、ニューヨークやロンドンでは公共物のちょっとした破壊・汚損が次第にエスカレートしていきました。街が壊れ、汚くなるとやがて治安の悪化になります。それがだんだん凶悪犯罪の発生に結びついていきます。
 「壊れ窓の理論」
 です。公共物の窓が最初に割られる、それが広がり、次第に大きな破壊行為となり、治安悪化、凶悪犯罪の多発と辿っていきます。
 だからこの理論は最初の壊れ窓を作らない施策が重要だということも教えています。

 わが町が一時期のニューヨークのような治安悪化の街にすぐなるとは思えませんが、このようなヴァンダリズムを見逃していると悪い方向へ行きそうな気がします。
 夜、健康の為のウォーキングもできないような街にはなって欲しくないです。

2011年3月7日月曜日

歯医者に入れた歯を調整に行く

 入れた歯のかみ合わせがすっきりしないので歯医者に調整に行ってきました。最初ですから違和感があるのは当然なんですが、人工の歯が大きいような感じでここがカチカチと当たるようで全体のかみ合わせがおかしいのです。

 予想した通り人工歯を削られました。すぐにはわからないので、何度か食事をして馴染むかどうか様子を見ようと思います。
 歯を石膏か何かでかたどり、全体のバランスも考えて義歯を作るんでしょうけれども、微妙な調節は入れて見てその当人の感覚によらざるを得ないのかなあ、と思います。ロボットの部品を作るわけではないので、規格にあえばいいというものではないのでしょう。
 これで馴染まなければまた通院して調整することになります。削りながら、歯科医師が

 「これでどうです?マシになりましたか?」

 と聞きますが、実際に食事をとり咀嚼をやってみなければわからないと思うのですが、このように聞かれて返答に困ってしまいました。削っているのだからカチッと歯の当たる状態は変わっているのはわかるが、それがうまく咀嚼に結びつくかその場ではわからない。
 その旨を言うと

 「じゃあ、これで様子を見ましょう。」

 歯医者って義歯や入れ歯をうまく作り、全体を考えて、その人の個性にあわせ微妙に調整しなければならない。医者の技というより、熟達した職人技や芸術的な職人技というべきなのではないのでしょうか。
 入れ歯などの作成は少なくともそのような技を持つ歯科医師の方がいいと思うのだがどうだろう。もっとも最近はどこの歯医者でも外部発注が多いと聞くから、神業的な職人技など必要ないのかもしれない。

 入れ歯ってずいぶん昔からあるようです。徳川家康の「入れ歯」が久能山の東照宮に残っています。日本は職人技の国と言われていますから、入れ歯の機能・性能が優れていたのは昔から有名で欧米よりずっと進んでいたそうです。江戸時代の日本の入れ歯は口に入れて実際噛むのに有用だったそうです。
 欧米はこの時代は(江戸中期)入れ歯は噛むためというより容貌を整えるためだったようで、噛める作用はなかったといわれています。
 左は米国初代大統領J・ワシントンですが、口元を見てください。グッと噛みしめているでしょう。これスプリングのついた入れ歯を上下入れていて、グッと噛みしめていなければ、バネがついているので口から飛び出たそうです。
  うかうか口を開けてピュッと入れ歯が飛び出たら、びっくり箱状態、子供や気の弱い人は恐慌をきたすでしょう。
  この入れ歯も噛む能力はなかったようです。同時代の日本の入れ歯は噛める作用がありずっと進んでいました。

 私の歯の方が、今は不都合が起こっていますが、ワシントンの見せかけ歯よりはましなんですかねえ~。

食事をしましたが、なんかまだカチカチ当たる感じですっきり噛めません。トラブルは続きそうです。ほんとに嫌になります。

2011年3月6日日曜日

雨の黄昏時

 また、ムウビメエカをいらってみました。

2011年3月5日土曜日

歯と寿命

 今日歯医者へ行って歯を入れた。技術的なことはよくわからないが、完全に歯のない部分が一本あるがそこへ義歯を入れ前後の歯とともに銀で覆っている。
 今、半日たつが馴染めなくて気持ちが悪く、かみ合わせも今までにない人工の突起が出来たためか、しっくり合わない。

 私はいつまで命が持つかわからないが、この先、命を延ばしても人工の歯が次第に増えてくることは確かである。
 最後は総入れ歯か?でも、そうなるのにはまだまだ年数がかかるから総入れ歯まで生きれば、それはそれでめでたいことかもしれない。

 なんにせよ自分の本物の歯で生活できるのが一番いいに決まっている。重金属の材料の歯など溶け出る量はごく微量かもしれないがよいはずがない。お仕着せの人工歯は噛む作用にも無理があるだろう。
 でも、年齢がいって擦り減ったり、歯の病気などで歯のない状態よりはマシなのだろう。いまさら乳児のように歯が生えてくるわけでもないので、仕方ない。

 高齢になって歯のトラブルを嘆いているが、しかし他の生物との比較で、公平に考えてみると、
 「まあ、神様は、ヒトに対して、ずいぶん、贔屓したように恩寵を垂れたもんだな。」
 と正直に思います。
 高等生物で80~90歳までの寿命を与えてくださったヒト以外の生物がいるでしょうか。
 ただ長いという寿命ばかりではありません。神様のわれわれに対する恩寵をもっとも感じるのは、成長もうんとゆっくり時間をかけるようにしてくれたことである。
 男子などは18~19歳まで身長が伸び、肉体の成長が続きます。これだけ成長に時間をかけられるからこそ、言語、文化、高度な教育を施すことができ、それぞれに人格をもつ人間となれたのは間違いない。犬のように1~2年でおとなになればこうはいくまい。

 ヒトはご存じのように猿から進化した。哺乳類の分類の目安の一つは歯の本数、形体である。この分類からいくと人も猿も32本、門歯、犬歯、小臼歯、大臼歯の形体も一緒、霊長目の同じグループです。
 しかし同じ霊長目といっても、ヒトに一番近いチンパンジーやゴリラの寿命はヒトの半分もないであろう。いったい進化のいつごろから寿命を延ばせたのだろうか。

 その時、神さまは命の寿命は充分に与えたが、どうも歯だけは猿の時代のままとされたのではないかと思います。歯だけはうかうかして寿命を命と同じに与えるのを忘れたんでしょうね。

 犬や猫に神様が与えた命の寿命はせいぜい15年ほど、それでも犬や猫は一生懸命いきています。90歳になんなんとする寿命を与えられても不平顔なのは人間だけ。

 こうゆうふうに考えると、歳がいって
 「歯がダメになってしもうた。」
 と嘆くよりも、猿と同じ32本の歯を持ちながら、その歯以上の長い長い命を与えてくれたことを感謝しなければなりませんね。

それにしても入れた歯、馴染んでないわ、噛みにくいわ。

 

2011年3月4日金曜日

金磯から赤石駅へ 磯に佇む女一人 ここは愛の終着駅

 小松島ハローワークで検索のあと以前の訓練生と会い、少し話をする。今日はとても寒くて真冬に舞い戻ったような一日でロビーで話していて外を見ると雪が降っていた。
 
「降る雪や 明治は遠く なりにけり」
 
 という句があるが、パロディーで
 
「降る雪や 求人は遠く なりにけり」

 と言ってみたくなった。
 
 いずこも同じ求人状況で厳しいのに変わりはない。お互いに
 
 「わが世の春に再びめぐりあはむ。」
 
 ことを期してAさんとお別れする。
 
 凍りつくような寒い日だが、せっかく小松島まで来たのだから、めげずに砂浜海岸をあるくことにする。
金磯の海岸を歩く
遠くには弁天島が見える









 
岩海苔を採っているのだろうか











 
浸食作用だろうか洞窟になり、海に向かって開いている









 
沖に小島がみえる



コートの襟を立て、磯にたたずむ美女一人、寒い北風に長い髪をなびかせじっと海を見ている。
 
 ゆっくりとポケットから白い封筒を取りだし、破り、小さくちぎる。

 風に白い紙が雪とともに舞う。

 この女にとってここは
愛の終着駅 
それではイメージビデオをどうぞ

2011年3月3日木曜日

進化する活動大写真 サイレントからトーキーへ

 携帯の動画なのでシャープな映像は望むべくもありません。そこで自虐的に115年前の解像度も悪く動きもぎこちない活動大写真になぞらえました。


 「エジソン翁発明・グァイタスコープ」
 写真が動く!音も出る!
 世界の不思議、世紀の謎、さあさ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい
 御代は見てのお帰りだよお~ぃ!
 
 その1 「徳島駅前・バッハ」
 その2 「鴨島水際公園・こまどり姉妹」


なんとかムウビメエカでBGMを入れて編集できました。

2011年3月2日水曜日

仕事ではないけれどこれから毎日徳島へ

 三月になり今日、徳島までの定期券を買う。いよいよ春到来、花木も咲く季節です。

今日から毎日、徳島近辺へ通い、いい職にぶち当たらないかと考えています。
「犬も歩けば棒に当たる」
というではありませんか。棒が職になったらいいんですが、車などになったらえらいことなのでせいぜい気をつけます。

 さっそく今日は勝鬨橋の某所に臨時職員・非常勤職員の登録手続きの書類をもらいに行ってきました。後で書きいれて登録しようと思っていますが、登録したからといって声がかかるとは限らないので、こちらはあまりあてにはできません。なにせ前に7~8年間登録してあったけど全くお声はかかりませんでしたから。

 昼が来てもうすら寒く、時雨もぱらついてきましたが、勝鬨橋まで来たので、久しぶりにJメイトに寄りました。
 Pacoさんが仕事をしてました。お仕事中で少ししか話すことができなかったのは残念でした。
 
 修了しているのに先生にお会いしたら、甘えてしまってムウビメーカの使い方の一つをアドバイスしてもらいました。自分で試行錯誤でやればいいんでしょうけれども、やっぱり先生に一言いってもらえるだけでも、励みになります。教えられる内容より先生とのコミュニケーションがえっぽど力になります。わたしがずっと年上だけれど、師は師、慈父のように訓練校時に優しく教えていただいた時と同じに思っています。

 で、このブログを書きあげたら、さっそくムウビメエカをいらってみようと思ってます。できれば私のオリジナルのミュージックビデオを作りたいんですけど、どうかな~?

2011年3月1日火曜日

野良猫小劇場その2

 私は列車の乗り降りにはふつう鴨島駅を使うが、図書館で本を利用する時、川島の図書館まで行くため川島駅を乗り降りに使う。市内の鴨島町には図書館と呼べるものがないので、よく川島図書館へ行く。

 暖かければ自転車でも行くが、寒い季節で北風などが強いと列車で行く。
 この日、本を借りて帰るため川島駅へ行くと入り口に駅長猫がいる。
 小さな田舎の駅だが、一日に数本特急も停まる。ちょうど、今、上りの特急が着いたところで、時間待ちの為、5分ほど構内に停車している。

 そこで、この駅長猫、降りる人、あるいは乗る人を見守るためか、入り口で立っている。