風は強いがいい天気になったので大滝山の麓~天神さん~新町川~旧寺島川沿い、そして徳島城公園まで散歩した。
大滝山麓には「お薬師さん」(薬師如来のお寺)がある。この辺りを歩く時必ずお参りしていく。
前にお参りしたのは一週間ほど前、4月8日だった。この日はお薬師さんの御祈祷日で本堂には大勢の人が集まって御祈祷していた。お経や真言をとなえる斉唱の声とともに伴奏の大太鼓の音がリズミカルに聞こえていた。「ドンツク、デンツク、ベチ、ポン、パン」、それに合わせて十三仏の真言、そして最後には般若心経が聞こえていた。
本堂の前に桜の老木がある。桜は満開をやや過ぎて散り初めの頃を迎えていた。
下が4月8日の動画、たった4秒間の落花の舞、花びらが見られるかな?
そして一週間後の今日のお参り。満開だった桜はまだ多少花は残ってはいるもののすっかり葉桜になっている。この桜の老木の下には江戸末期に活躍した医者(藩医と呼んでいる)の記念碑がある。読むと種痘を四国で初めて施した人であるという。種痘は天然痘の予防ワクチンのことである。一見、なんでこのお薬師さんの境内にこの人の碑があるのじゃろ。と思うが、よく考えるとなるほどと思う。
この人は江戸時代の「文化年間」に生まれたが、この時代、幼児の死亡原因で最も多かったのは疱瘡(天然痘)であるといわれている。ワイのチンマイ頃(昭和20後半から昭和30年)には村落のはずれに石を積んだだけの石塔やこけしみたいな小さなおっぞうさん(地藏)があった。祖母に聞くと
「ありゃなぁ、疱瘡地蔵さんや、横によ~けある小さな石塔は疱瘡で死んだ子ぉらの供養のため、おっぞうさんは死んだ子ぉらのおまもりゃ、むかしゃぁ、疱瘡が流行った時は、このおっぞうさんに赤い前垂れ作ってかけて、どぉぉぞ、おっぞさん、疱瘡が軽ぅすんますよ~に、ておがんだもんや」
このワイのバアチャンの話に、おっぞうさんに拝むが言葉がてくるが、それは、どうぞ疱瘡に罹らないように、ではなく罹って軽くて済みますようにである。江戸時代、疱瘡は麻疹同様一度は罹らなければならない通過儀礼のような(ずいぶん怖い通過儀礼だ)ものでどうしてもかからなければならないならば、せめて軽いことを願い、女の子らは疱瘡の痘痕(あばた)が残らないように願ったのである。それほど疱瘡(天然痘)は蔓延していた。
江戸期後期、人口は停滞期がつづく、理由として乳幼児死亡率の高さがあげられるが、その原因の一端が疱瘡による死亡である。その疱瘡に罹らないようにするのが「種痘」(ワクチン)である。これは18世紀末英国のジィェンナにより、牛痘(牛の伝染病)から作られたのである。この「種痘」(ワクチン)を接種することにより、天然痘による死亡をほとんど0にすることができるのである。幕末、西洋からその技術が入り、その驚くべき効果に注目した蘭医を中心に日本に広まっていくのである。その四国における先駆けとなった人がこの碑の人物であった。
あの疱瘡地蔵や石塔は区画整理や新興住宅建設のためいつのまにやら無くなった。今は天然痘も撲滅され(伝染病では唯一撲滅宣言が出た)、疱瘡地藏に平癒を祈らなくてもよくなった。しかし、病気はなくならない。今でもお薬師さんに病気平癒の願をかける人は多い。そのお薬師さんの境内に疱瘡撲滅に努力した先人の業績をたたえる碑があるのはふさわしいことである。
ところで皆さん、「ワクチン」の語源知ってましたか。英語ではvaccineですが、これラテン語からきています。ラテン語でvaccinus、これは牝牛の意味です。なんで牝牛?それは牝牛の乳しぼり女がこの牝牛から牛痘に罹り、ほとんど症状が出ないにもかかわらず、人の天然痘に対して強い免疫を持つことを、英国のジィェンナが発見したという経緯からきています。どんな連想を繰り返しても、この話を聞かない限りは、ワクチンと牝牛は結びつきにくいですね。
2020年4月14日火曜日
2020年4月13日月曜日
百年前のパンデミク その6 ワクチン、特効薬(?)
内務省衛生局の(スペイン風邪)報告書を読むと100年も昔のことでありながら、とった施策などは今現在大変なことになっている武漢ウィルスによる蔓延の対策と基本部分ではほとんど変わっていない。以前ポスターで紹介したマスクなどを見ると一世紀前とは思えぬそのデザインの斬新さに驚き、また予防注射をしませうポスターなどを見ると、今だ武漢ウィルスのワクチンさえない今より、むしろモダン(すすんでるぅ)じゃないかとも思ってしまう。(そのポスターを再び左にあげておく)
また人の密集を避ける、換気をよくする、咳くしゃみを手放しでしない、などの啓発、また国、県、民間とも協力し合っての社会的弱者救済の施策も基本は同じである。感染症対策の定石は昔も今も同じだということだろうが、報告書を読んで、百年も昔によくこれだけできたものだと感心してしまう。
感心したことの一つに愛媛県のとった社会的弱者に対する予防接種の費用対策がある。愛媛県は県内の県税免除者(所得が低いため)6万人に対して無料接種を行うことを決め、5班の医療チームを各地域に派遣し、また山村僻地の為には3班のチームを編成し実施したのである。また低所得者以外の人には一回15銭で実施したとある(この時代かけうどん一杯8~10銭)、今の金額だとせいぜい500円だろう。今、わが市で行われている高齢者向けの肺炎ワクチン(武漢肺炎ではなく普通の肺炎)接種料は4000円であるからそれなどをとっても大正期の施策の意外な素晴らしさに驚かされる。
大幅な外出自粛要請こそないが飛沫感染症のとるべき基本はしっかり取って、なおかつワクチン接種も行って、その結果、この大正のパンデミクはどうなったか?二年間にわたって三回の流行を繰り返し結局終息するが、一度目は全感染者の9割近く、二度目はその十分の一、三度目はさらにその十分の一、で終わってみれば症状のあった患者だけで全人口の6割近くが感染したことになる、その上たぶんほとんど症状の現れなかった人を加えると、この大正のパンデミックは確実に集団免疫ができておさまったといえる。
この大正パンデミックの特徴は初期における患者の爆発的増大である。徳島県において全県民の六割近くがわずか三ヶ月で感染したのを見てもよくわかる。免疫の全くない集団に感染力の強い病原菌が入ればこのようになる。それを防ぐのがワクチンがある。この大正時のワクチンはかなり初期、というよりこの流行以前から流行性感冒のワクチンとして存在していた。大量生産はすぐには間に合わないにしてもすでにあるのだから非感染者がすぐ接種すれば幾人かの感染は免れたはずである。当局もワクチン生産を急がせるとともに接種を上記の愛媛県の例のように推奨したのである。
当初からワクチンがあったのなら今流行りの武漢ウィルス感染より、有利なはずであるが、ワクチンの生産・接種は爆発的感染に追い付かなかったのである。しかし何度か前のブログでも言ったように、このワクチンは結果としてほとんど効かなかった。だからたとえあらかじめ多くの人が接種していたとしても、そして急速な流行にワクチン接種が追い付いたとしても犠牲者の数は変わらなかったであろう。この報告書でもワクチンの効力については疑問を持っているが、ワクチンが有効でなかったというのは、それからかなり後からわかったことである。
ワクチンは罹るまでの予防手段である。罹ってから頼りになるのは有効な治療薬である。この大正の報告書にも詳細に述べられている。しかし特効薬というものはこの時代に存在しなかった。タミフルやリレンザという病原体に直接作用して抑える薬は21世紀を待たねばならなかった。では庶民はどのような薬に頼っていたのであろうか。報告書の「療法」(薬)の部の緒言で次のように述べている。
「急性推移し重篤になるのもあるが、もっとも多いのは自然治癒である。このためいろいろな治療法の効果を断定するのはむつかしい。これが諸家が幾多の治療法を提唱している理由となっている。」
一回目流行時の死亡率は全国平均1.22%、大部分が重症化せずに治っている。庶民が、たまご酒で治ったわ、だの、いんやワイとこは、イモリの黒焼きぃ粉ぉにして飲んだら一発っちゃわ。だの、各種ためした怪しげな民間療法に対する、これが(上記)衛生当局の合理的な説明である。なるほどなと(自然治癒がダントツ多いのだ!)納得できる。
この報告書ではまず一番目にあげられている療法は「対症療法」である。この医学用語は今でも用いられている。つい最近までは風邪の薬はこれに類するものばかりであった。具体的な薬の筆頭にあげられるのはアスピリンである。あとにその他の解熱鎮痛系の薬がつづくが、筆頭にあげられるだけあり、アスピリンは100年たった今でも解熱鎮痛には普通に使われている優秀な薬である。あと強心剤、栄養剤、痰を抑えたり血管、運動神経に作用するものとしてアドレナリン、やエフェドリンがあげられている。こんな時代からアドレナリンはもちいられていたのだ、とちょっと驚いた。
この報告書で将来のもっとも希望のある療法として「化学療法」があげられている。なぜ将来希望のある・・といえるのかは報告書「化学療法」の項の冒頭文にこうある
「薬物療法中原因療法的意義に用いられるものを化学的特殊療法と看做し・・云々、」
今はこのような古めかしい言葉はまず用いられないが、「原因療法」とは要するに病原菌に直接作用、すなわちこれを死滅させるか増殖を抑制する薬物を使うということである。感染症の多かった当時、このような薬は、夢のような特効薬となるはずである。(そのような薬にサルファ剤、抗生物質があるがこれが発見されるのは1935年以降である)現代、細菌性病原菌はこのように直接抑えられるようになったが今もって各ウィルスについては一部を除いてそのように直接作用する薬はなく、今後の開拓が期待されている。
サルファ剤や抗生物質は大正時まだ発見されていないが肺炎球菌を殺すかまたは抑制する薬として具体的な薬のいくつかがいくつか挙げられている。報告書では当時の臨床医や研究者に、効いた薬で推奨できるもの何か聞き取っている。レミジン(肺炎球菌を殺すとある)を挙げる人が最も多い。他にはけっこう多くの臨床医がマラリアの特効薬である「キニーネ」を推奨しているが、今流行の武漢ウィルスに効いた薬として世界の多くの医者がやはりマラリアの特効薬「クロロキン」を推奨しているのは偶然の一致かもしれないが面白い。
また当時としては最もよく効いた化学療法薬に梅毒の病原体に作用する薬「サルバルサン」があったが、これを推奨する臨床医・研究者もいた。これなども今武漢ウィルスに効く薬のない中、他の病原体に作用する薬でそちらに効くものを探し出そうとしているのによく似ている。今よく耳にする「アビガン」なども転用薬である。探し求める手立ての方向は百年たってもよく似ているということか。
結局、当時としては夢のような(病原体に直接作用する)特効薬が生み出されるにはまだ早かった。そもそもこの病原体は細菌でもないから、たとえサルファ剤・抗生物質を用いても効かない、大正のパンデミクの病原体の正体はウィルスであった(H1N1型インフルエンザウィルスということが今はわかっている)。それに直接作用するウィルス薬ができるのはごく最近である。
2020年4月12日日曜日
百年前のパンデミク その5 この時の徳島をふりかえって
今とほぼ同じの県民総人口で、一回目(実質3ヶ月間の山)のスペイン風邪が終息したときの死者が4.422人(もちろん我が一県だけで)である、当時の県民の恐怖・不安はどれだけ大きかっただろうと思うが、その推測も現代から見てのものである。今現在日本国内でパンデミックの武漢ウィルスが広がっている。現在の全国内の患者は6千余、死者は約百人となっている(米、J・ホブキンズ大の調査資料、4.11日時点)。その人数でもこの恐怖・不安、そしていささかのパニックである。我々が大正・徳島のパンデミックの影響ををそれ以上に大きく見るのは当たり前である。しかし確かに社会不安、人々の恐怖、などあったに違いないが、それはいま我々が推測するものよりは小さかったであろうと思われる。なぜ人々の恐怖、不安が我々の想像より小さいといえるのか、いくつか挙げてみたいと思う。
その資料の一つとなるのがたびたびあげてきた『内務省衛生局』のスペイン風邪流行報告書である。以下その報告書に基づいて述べる。
疫病の大流行は短期間に多くの患者・死者を出す、それが社会不安・恐怖・パニックとなるのだ。中世末・西欧に広がった黒死病(ペスト)は一年余の間に西洋の総人口の三分の一(一説には半分)を死に至らしめた。年代記には疫病のため全滅した村々があることを記している。全員死亡ではないかもしれないが地域共同体が再生不可能な人数までに減ったと考えられる。恐るべき死者数である。共同体は死ぬ人、生まれる人、そして働く人のバランスの上で維持され成り立っている。共同体が壊滅するくらいの死者となればおそらく死者数は平年の数十倍の規模であろうか。もし5倍、いや10倍かな?くらいまでなら恐怖にかられながらも何とか共同体は維持できるかもしれない。そのように考えると平年より死者数がどれくらい多いかを知るのは、どれくらいこの疫病が人々に心理的社会的影響を与えたか知るバロメーターになる。
ではこの大正のスペイン風邪はいったいどれくらいの割合で人の命を奪ったのか先ほどの資料を見てみる。見る数値は「人口千人当たりの年間死者数」である。年を順々に見ていけば少しの誤差はあるが、疫病が大流行しない限りは大きい変動はない。その死者数割合で見てみる。ところが残念なことにこの資料には徳島限定の年次「人口千人当たりの年間死者数」は載っていない。しかし全国統計があるのでそちらを見てみよう。
資料は大正6年度と大正7年度を比較している。一回目スペイン風邪流行は大正7年秋に始まり次の春には終息に向かっているので年度で考えれば大正7年度内に収まる。そして前年の大正6年はまだスペイン風邪は国内に入って来てないのでその年次間の死者数の差や比を見ればよい。左にその全国合計表をあげておく。この数から比をとると、大正7年の死者の増加率は約25%である、前年より約1.25倍である。これはちょっと意外な感じがした。数倍はあると思っていた。この意外感は何だろう。
それは現代の目でもって見ているからだろうと気づいた。このあまり大きくない増加率は決してスペイン風邪で死んだ人の数を過小評価しているわけではない(徳島では一回目で約4500人もなくなっているのだ)。そうではなくてスペイン風邪で死ぬ人も多いが、そもそも毎年普通に死亡する人が多いのだ。当時は平均寿命も今よりウンと短く、子供の死亡率も高かった、土着したような感染症(肺結核、はしか、赤痢、チビスなど)で亡くなる人も例年多く、呼吸器、消化器系の細菌感染症で亡くなる人も今よりダントツに多かったのである。だからスペイン風邪で4500人も死んでも前年との増加比率は1.25にしかならないのだ。だから私が思うほどには大正時代の人々は悲惨さを感じていなかったのではないだろうか。
もっと詳しく知るため、この1.25倍の死者増加率が県民の心理、生活にどのような影響を与えたのか、当時の徳島の地方紙のストックがあればよいが、県、市の図書館の資料には欠けていて(この前後二三年がかけている)知る手掛かりはない。しかし全国紙は当時の復刻版があり見ることができる。そちらも主な記事はコピして、おいおいブログでも紹介しようと思っているが、それをみて確実に言えることは、今進行中の「武漢ウィルスのパンデミク」よりは民衆の恐怖、不安あるいはパニックが大正のほうがずっと小さいということである。これは徳島も同様であると考えられる。
当時の新聞の最大関心事は第一次世界大戦(大正7年の秋に終わった)の終結と講和に関することである。欧州に比べると戦死者の数は殆ど無きに等しいくらいだったが、日本は戦勝国となった。日本は一等国であり世界の五大国の一つと言われ始め、国民の自尊心をくすぐるようになった。独仏などは戦場となり荒廃が広がり経済が落ち込んだうえに日本を倍するくらいのスペイン風邪の死者である。それらの比較も新聞を通じてしり、彼我の違い、そして日本の幸運を思った。これは国民の心を明るくさせ気分を高揚させる好材料であった。
また景気であるが、スペイン風邪の防疫措置として当局は、最盛期に蔓延を防ぐ目的で工場、企業の一部に一時休業を要請したことはあるが、今、日本や世界でとられている大規模のものではなく、多くの死者を出したにもかかわらず経済活動は停滞しなかった。それどころか欧州が戦場となり供給が途絶えたのに乗じてむしろ日本は各種生産が活発になり好景気に向かいつつあった。徳島もこの時期はいろんな産業が活況を呈し、木工業や製糸業などが延びている。好景気も国民の心を明るくさせ気分を高揚させる好材料であった。
最後にこの資料(内務省衛生局報告書)の中に唯一、徳島県の保健行政に関する記述があるので紹介しておく。
『徳島県 民衆の多くは前流行時には本病の性質を理解せざる為め医療を怠り多数の重症者死者をだしたるに鑑み後流行時には一般に自ら警戒する処ありしも救療に関しては一層之が督励に努め貧困患者に対しては恩賜財団済生会の救療を為し一面山間其の他地方医の配慮不十分なる個所等に対しては特に技術員を派遣し予防接種の傍ら一般患者の診療に従事せしむる等専ら医療の普及に努めたるが尚名東郡佐那河内村は山村にして面積広く多数の患者発生したるに医師の乏しきを以て技術員を派遣救療せし外特に徳島衛戍病院に交渉して軍医の派遣を乞い救療の普及を計る等遺憾なきを期したり』
県民の衛生の啓発、貧窮者や医者のいない僻地の対策処置、特に感染の広がった医者の少ない地域である山村の特段の措置を報告している。これを見ると少なくとも二回目流行以後は「予防接種」があったことがわかる(予防接種の効果については今後もブログで取り上げるが結果から言うと、ほとんど効果はなかったのである)
こういう昔のことを知る手立ての一つとしていわゆる「古老の話」などがある。昭和の大戦などの近い過去の歴史を知るうえで重要な手段であるが、なにぶん百年の昔は古すぎる。ワイの知り合いのお父っつぁんが今年満101歳になるが、その人でさえ生まれたのは二回目の流行時であるため話など聞きようがない。ワイはジイバア子で祖父母に育てられた、その祖父はこのスペイン風邪流行時、20代の青年であった。もちろんその大流行を経験したはずである。生きていたときにそのスペイン風邪のことの一端でも聞けていたらと悔やまれるが、いまさら遅い。昔話は結構してくれたが今ワイの記憶にその病気流行時の話はない。でも子供の時、なぜか富山の薬売りはんの売薬箱とは別に、胃腸薬は1ポンド入りの瓶で、そしてなぜかアスピリンも味の素様の結晶のまま半ポンド瓶に入れて買っていて備えてあって、何かというとその胃腸薬とアスピリンは(目分量ではかって)飲まされた。なんでアスピリンだけこんな瓶で買って備えてあるんだろうと不思議に思ったものだが、実は先の内務省の資料の治療・薬剤の部の一番最初に挙げてある薬が「アスピリン」である。もしかするとスペイン風邪の時の経験から(当時の全国紙の新聞紙面にはアスピリンの需要が多く売り切れ続出とある)、家の常備薬としてアスピリンの瓶入りが置かれ出したのかもしれない。それもいまさら確かめようもないが。
2020年4月9日木曜日
百年前のパンデミク その4 徳島二回目流行、モラエスさんもとうとう
大正8年4月から数か月にわたり患者の0の月が続き、初夏に向かい、ようやくあの恐ろしい疫病流行が去ったことを実感しだした。人々は
「これから、夏ぅ~になるけん、なんぼぅ、たちわりいっちゅうても、風邪やけん、おさまったんじゃわだ」
「コカワしぇんしぇい、もいいよったでよ、なんやら、みんながよ~け罹ったけん、めんえきちゅうたらいうもんが、ワイらの体の中にでけて、二回は罹らんらしわ、そいでもう流行らんわ、って」
「ところで、あんたんとこ、どうじゃったで、うちは全部、寝込んでしもうたわだ、だいたいみんな治ったが、バァチャンだけはまだ咳がつづっきょるわだ」
「うちもぜんぶやられたわ、5人おる息子の総領の餓鬼ぃ~が、いっちょ重ぅて、いっときゃ、アカンと思たが、なんとかなおったわ」
「まぁ、よかったでないで、大道の仕立て屋はんとこなんか、9人全部やられて、戸ぉしめて寝込んどるんかとおもて、しばらくして、出てこんけん、巡査はんが入ってみたら、おおかた死んどって、虫の息の何人かを、離病院にはこんだけんど、結局みんな死んだそうやで、一家全滅っちゅうやっちゃ、ほれから考えたら、まぁ、ご互い、よかったもんじゃなぁ~」
などと話し合ったに違いない。何せ全県民の6割近くが罹り、五千人近くの死者がわずか数か月のうちに出たのであるから。
内務省衛生局の統計によると徳島県のこの時の死亡率は1.09%、百人の患者に約1名の死亡の割合は例年流行る風邪と比較しても特に死亡率が高いこともない、ただ違っていたのはその感染力の高さと、蔓延する急激な速度であった。患者が多かったため結果、死者も多かったのである。
ともかくホッとしたに違いないが、人々の不安は去らなかった。自分も入れて家族、身近な人、近所では罹った人が多数で、また家族あるいは友人・知人の何人かを失わない人はほとんどいなかったのである。心の中に残るこの疫病の記憶は癒えぬ傷として生々しく残っていて、まだ疼いていた。大正期はまだラジヲこそないが、徳島での新聞購読率は高く、当時としてはかなり早く海外の情報も新聞を通して得ていた。その海外の国々の中にはまだそのスペイン風邪が猖獗を極めているところもあり、紙面の海外ニュス欄では、ここでは数十万、あちらでは数百万だのという死者数の発生を伝えていた。そんなこともあり、風邪が流行りだす秋から冬に向けて季節が推移していくにしたがって徳島の人々の不安は高まっていた。
上にある徳島の市井に人々がしたであろうと思われる会話に、一度罹ったら二度はかからない、という話が出てくる。コカワ医学博士(当時の徳島の大病院の院長)の話を引き合いに出さずとも、庶民は大昔から、麻疹、天然痘などは二度とかからぬことは知っていた。そして新聞なんどを通してそれが「めんえき」と呼ぶことも。これは罹った人が多数派の徳島県民にとっては(罹らない少数派は怖いが)直近の将来には(つまりやがて来る風邪の流行期)不安を解消する希望であった。ただ一方、風邪は以前罹った人も罹り、一生のうち複数回罹患を繰り返すのも人々は知っていて今回罹った人も手放しでは喜べなかった。
次の冬を迎える秋の終わりに徳島はどうなったかを述べる前にちょっと先取りして、すべての流行が終わったのちに出された「内務省衛生局」の報告書にこのスペイン風邪に対する免疫のことが書かれているのでそれをまず見てみよう。報告書は文語的な硬い文章なのでわかりやすくなおして書くと
『二回目流行は前回における病毒(ウィルス)が残存していたものが、気候の変化(冬に向かって)で呼吸器を痛めるものが多くなるに及んで再び(それにとりつき)台頭したものである。その感染者の多数は前流行時に罹患を免れたものである。そしてその症状は(一回目と違い)重症になる率が高い(当然死亡率も連動している)。前回罹患してまた今回罹患したものもいないことはないが(つまり極少数)その者もだいたいは軽症で住んでいる。』
と報告書にはある。つまり結果から言うと一度罹っていたものはほとんどかからないか、あるいはかかっても軽症で済んだのである。
それでは実際に起った徳島の二回目の流行を「内務省衛生局」の報告書の表に従って見ていくことにしよう。
4月中旬からずっと0で推移していた罹患者は表から11月上旬に発生し始めたことがわかる(一番上欄)、そして二か月たった大正8年12月末までに977人の患者を記録している。そして死者は14人、死亡率は1%強なので、一回目と違いそう悪性度が高いようには見えない。
ところがわずか一ヶ月しかたっていない1月中の罹患者は1万5千276人となっている。前回免れたものをすべて総なめにせんとする勢いである。そして恐ろしいのは死者が1千115人で計算すると死亡率はなんと7.3%の高率になっているのである。
さらに次の2月を見てほしいのだが、死者は1千53人、死亡率は驚くなかれ!18.5%、およそ5人に一人の死亡率である。このすざましい死亡率は感染症の王者(今の一類伝染病の)ペスト、コレラ、チブスなどに十分匹敵する高死亡率である。3月も患者は減るが死亡率を計算すると16.6%、この表にはないが(次ページとなるため)4月は(患者はもっと減るが)死亡率は約7%、かなり下がった。5月からはグッと患者が減りこの月をもって二回目は終息するが最後に死神が大鎌を振るったのか、死亡率はなんと42.5%。罹った約半数が死亡という驚くべき記録をだしたのである。
第一回目の蔓延最盛期にも一ヶ月で1500人ほどの死者を出しているが母数が大きいので死亡率は1%あまり、ところが今回の1、2の各月は患者がウンと少ないにもかかわらず、前回の最盛期に近いそれぞれ千人を超える人がなくなっているのである。2割に近い死亡率である。いかに二回目の悪性度が高かったかということがわかる。
さて、徳島市伊賀町の長屋に住まうモラエス爺さんはこの悪性のスペイン風邪を免れたのだろうか。前に紹介したポルトガル本国にいる妹に出した「絵はがき書簡集」を見てみよう。左が絵はがきの絵、右が(日本語に訳した)本文である。(・・・は省略した部分)
大正9年1月24日
・・・こちらは肺炎性インフルエンザの大流行だ。僕は気管支炎と咳は治ったが、何をする気にもなれず気力がない。(しかし)眠れるし食べてもいる・・・
スペイン風邪に罹ったのかどうか、ちょっとわからないが気管支炎と咳があったので罹ってその症状が出ていたのかもしれない。
その疑問は次の絵はがき書簡ではっきりする。
大正9年3月9日
・・・おまえ(妹)と夫君もインフルエンザにかかっていたが、両人とも快方に向かっているとのこと。いまじぶんは二人とも元気に違いない。もう知っての通り(この絵はがき書簡には1月24日からここまで連絡はないが、もしかすると手紙類で知らせたのかもしれない)、ぼくもインフレエンザかそのようなものに罹っていた。同じころひいたのだね(1月2日頃らしい)。咳や熱があったが、ごく軽症だった・・・
ああ、モラエス爺さん(この時66歳、百年後の今日の元気な老人の感覚から言えばかなり年齢をプラスして考えた方がいい、ということはオイラと変われへんわ)、罹ったが軽症で済んだみたいだ。よかった、よかった!内務省衛生局の報告・徳島編などを見ると一回目を辛うじて免れた人を総なめにせん勢いで広がっていって重症化し死亡率も驚くほど高かったのに、まことに幸運だった。いやもしかすると前回症状が顕在化せず免疫がある程度できていて軽症で済んだのかも知れない。なんせ70歳近いジイチャンやから重症化すればイチコロやでぇ~、歳寄りゃ抵抗力弱いからなぁ~、今回の武漢ウィルスの疾病でも重症化して亡くなるんは高齢者がほとんどやからなぁ~。
おっと!ちょっと待ってほしい。この大正のパンデミク、スペイン風邪に関する限り年寄りが多く死んだというのは当てはまらないのである。次の内務省衛生局の死亡者の年齢割合を見ると衝撃的である。(徳島の統計はなく、これは全国統計である)
黄色枠が各年齢別の死者比率である。一番死者の比率の高いのは20代、次が30代、そして5歳以下、10代と続いている。20~50歳までの死亡がほぼ50%を占めている。最も元気な働き盛りの年代が多く死んだのである。これを見ると罹った人が年寄りだから重症化してより死にやすいとは言えない。逆にモラエスさんは歳寄りだから助かった?まさか!そうは言わないが、ともかくスペイン風邪の若い人の死亡比率は異状である。なぜこのスペイン風邪は、一回目より二回目の死亡率が驚くほど高かったのか。なぜ本来なら一番抵抗力のある若い人たちがバタバタ倒れたのか、大いなる疑問である。百年後の今日でもその理由の説明はいくつかあるが、未だに断定できていない。
ともかくモラエスさんは大正のパンデミクを生き延びた。しかし余生は果たしていいものだったか。推測はひかえる。まだ彼は十年近く、昭和の御代まで生きる。貧窮ではないにしても言葉も不自由な異国の地で、多くの持病を持つ独居老人として小さな長屋で生きていく。そして最後に訪れる死はかなり悲惨なものとなる。
「これから、夏ぅ~になるけん、なんぼぅ、たちわりいっちゅうても、風邪やけん、おさまったんじゃわだ」
「コカワしぇんしぇい、もいいよったでよ、なんやら、みんながよ~け罹ったけん、めんえきちゅうたらいうもんが、ワイらの体の中にでけて、二回は罹らんらしわ、そいでもう流行らんわ、って」
「ところで、あんたんとこ、どうじゃったで、うちは全部、寝込んでしもうたわだ、だいたいみんな治ったが、バァチャンだけはまだ咳がつづっきょるわだ」
「うちもぜんぶやられたわ、5人おる息子の総領の餓鬼ぃ~が、いっちょ重ぅて、いっときゃ、アカンと思たが、なんとかなおったわ」
「まぁ、よかったでないで、大道の仕立て屋はんとこなんか、9人全部やられて、戸ぉしめて寝込んどるんかとおもて、しばらくして、出てこんけん、巡査はんが入ってみたら、おおかた死んどって、虫の息の何人かを、離病院にはこんだけんど、結局みんな死んだそうやで、一家全滅っちゅうやっちゃ、ほれから考えたら、まぁ、ご互い、よかったもんじゃなぁ~」
などと話し合ったに違いない。何せ全県民の6割近くが罹り、五千人近くの死者がわずか数か月のうちに出たのであるから。
内務省衛生局の統計によると徳島県のこの時の死亡率は1.09%、百人の患者に約1名の死亡の割合は例年流行る風邪と比較しても特に死亡率が高いこともない、ただ違っていたのはその感染力の高さと、蔓延する急激な速度であった。患者が多かったため結果、死者も多かったのである。
ともかくホッとしたに違いないが、人々の不安は去らなかった。自分も入れて家族、身近な人、近所では罹った人が多数で、また家族あるいは友人・知人の何人かを失わない人はほとんどいなかったのである。心の中に残るこの疫病の記憶は癒えぬ傷として生々しく残っていて、まだ疼いていた。大正期はまだラジヲこそないが、徳島での新聞購読率は高く、当時としてはかなり早く海外の情報も新聞を通して得ていた。その海外の国々の中にはまだそのスペイン風邪が猖獗を極めているところもあり、紙面の海外ニュス欄では、ここでは数十万、あちらでは数百万だのという死者数の発生を伝えていた。そんなこともあり、風邪が流行りだす秋から冬に向けて季節が推移していくにしたがって徳島の人々の不安は高まっていた。
上にある徳島の市井に人々がしたであろうと思われる会話に、一度罹ったら二度はかからない、という話が出てくる。コカワ医学博士(当時の徳島の大病院の院長)の話を引き合いに出さずとも、庶民は大昔から、麻疹、天然痘などは二度とかからぬことは知っていた。そして新聞なんどを通してそれが「めんえき」と呼ぶことも。これは罹った人が多数派の徳島県民にとっては(罹らない少数派は怖いが)直近の将来には(つまりやがて来る風邪の流行期)不安を解消する希望であった。ただ一方、風邪は以前罹った人も罹り、一生のうち複数回罹患を繰り返すのも人々は知っていて今回罹った人も手放しでは喜べなかった。
次の冬を迎える秋の終わりに徳島はどうなったかを述べる前にちょっと先取りして、すべての流行が終わったのちに出された「内務省衛生局」の報告書にこのスペイン風邪に対する免疫のことが書かれているのでそれをまず見てみよう。報告書は文語的な硬い文章なのでわかりやすくなおして書くと
『二回目流行は前回における病毒(ウィルス)が残存していたものが、気候の変化(冬に向かって)で呼吸器を痛めるものが多くなるに及んで再び(それにとりつき)台頭したものである。その感染者の多数は前流行時に罹患を免れたものである。そしてその症状は(一回目と違い)重症になる率が高い(当然死亡率も連動している)。前回罹患してまた今回罹患したものもいないことはないが(つまり極少数)その者もだいたいは軽症で住んでいる。』
と報告書にはある。つまり結果から言うと一度罹っていたものはほとんどかからないか、あるいはかかっても軽症で済んだのである。
それでは実際に起った徳島の二回目の流行を「内務省衛生局」の報告書の表に従って見ていくことにしよう。
4月中旬からずっと0で推移していた罹患者は表から11月上旬に発生し始めたことがわかる(一番上欄)、そして二か月たった大正8年12月末までに977人の患者を記録している。そして死者は14人、死亡率は1%強なので、一回目と違いそう悪性度が高いようには見えない。
ところがわずか一ヶ月しかたっていない1月中の罹患者は1万5千276人となっている。前回免れたものをすべて総なめにせんとする勢いである。そして恐ろしいのは死者が1千115人で計算すると死亡率はなんと7.3%の高率になっているのである。
さらに次の2月を見てほしいのだが、死者は1千53人、死亡率は驚くなかれ!18.5%、およそ5人に一人の死亡率である。このすざましい死亡率は感染症の王者(今の一類伝染病の)ペスト、コレラ、チブスなどに十分匹敵する高死亡率である。3月も患者は減るが死亡率を計算すると16.6%、この表にはないが(次ページとなるため)4月は(患者はもっと減るが)死亡率は約7%、かなり下がった。5月からはグッと患者が減りこの月をもって二回目は終息するが最後に死神が大鎌を振るったのか、死亡率はなんと42.5%。罹った約半数が死亡という驚くべき記録をだしたのである。
第一回目の蔓延最盛期にも一ヶ月で1500人ほどの死者を出しているが母数が大きいので死亡率は1%あまり、ところが今回の1、2の各月は患者がウンと少ないにもかかわらず、前回の最盛期に近いそれぞれ千人を超える人がなくなっているのである。2割に近い死亡率である。いかに二回目の悪性度が高かったかということがわかる。
さて、徳島市伊賀町の長屋に住まうモラエス爺さんはこの悪性のスペイン風邪を免れたのだろうか。前に紹介したポルトガル本国にいる妹に出した「絵はがき書簡集」を見てみよう。左が絵はがきの絵、右が(日本語に訳した)本文である。(・・・は省略した部分)
大正9年1月24日
・・・こちらは肺炎性インフルエンザの大流行だ。僕は気管支炎と咳は治ったが、何をする気にもなれず気力がない。(しかし)眠れるし食べてもいる・・・
スペイン風邪に罹ったのかどうか、ちょっとわからないが気管支炎と咳があったので罹ってその症状が出ていたのかもしれない。
その疑問は次の絵はがき書簡ではっきりする。
大正9年3月9日
・・・おまえ(妹)と夫君もインフルエンザにかかっていたが、両人とも快方に向かっているとのこと。いまじぶんは二人とも元気に違いない。もう知っての通り(この絵はがき書簡には1月24日からここまで連絡はないが、もしかすると手紙類で知らせたのかもしれない)、ぼくもインフレエンザかそのようなものに罹っていた。同じころひいたのだね(1月2日頃らしい)。咳や熱があったが、ごく軽症だった・・・
ああ、モラエス爺さん(この時66歳、百年後の今日の元気な老人の感覚から言えばかなり年齢をプラスして考えた方がいい、ということはオイラと変われへんわ)、罹ったが軽症で済んだみたいだ。よかった、よかった!内務省衛生局の報告・徳島編などを見ると一回目を辛うじて免れた人を総なめにせん勢いで広がっていって重症化し死亡率も驚くほど高かったのに、まことに幸運だった。いやもしかすると前回症状が顕在化せず免疫がある程度できていて軽症で済んだのかも知れない。なんせ70歳近いジイチャンやから重症化すればイチコロやでぇ~、歳寄りゃ抵抗力弱いからなぁ~、今回の武漢ウィルスの疾病でも重症化して亡くなるんは高齢者がほとんどやからなぁ~。
おっと!ちょっと待ってほしい。この大正のパンデミク、スペイン風邪に関する限り年寄りが多く死んだというのは当てはまらないのである。次の内務省衛生局の死亡者の年齢割合を見ると衝撃的である。(徳島の統計はなく、これは全国統計である)
黄色枠が各年齢別の死者比率である。一番死者の比率の高いのは20代、次が30代、そして5歳以下、10代と続いている。20~50歳までの死亡がほぼ50%を占めている。最も元気な働き盛りの年代が多く死んだのである。これを見ると罹った人が年寄りだから重症化してより死にやすいとは言えない。逆にモラエスさんは歳寄りだから助かった?まさか!そうは言わないが、ともかくスペイン風邪の若い人の死亡比率は異状である。なぜこのスペイン風邪は、一回目より二回目の死亡率が驚くほど高かったのか。なぜ本来なら一番抵抗力のある若い人たちがバタバタ倒れたのか、大いなる疑問である。百年後の今日でもその理由の説明はいくつかあるが、未だに断定できていない。
ともかくモラエスさんは大正のパンデミクを生き延びた。しかし余生は果たしていいものだったか。推測はひかえる。まだ彼は十年近く、昭和の御代まで生きる。貧窮ではないにしても言葉も不自由な異国の地で、多くの持病を持つ独居老人として小さな長屋で生きていく。そして最後に訪れる死はかなり悲惨なものとなる。
2020年4月8日水曜日
百年前のパンデミク その3、特にワイの住む徳島はどうじゃろ
大正十年の内務省衛生局の報告を見るとわが徳島におけるこの疫病についての具体的な数値を挙げている。その一部が次のようなものである。
詳細に見ると各年(大正8~10年)の各月(それも前半期と後半期に分けている)の患者数、死者の数を一の位までとっている(ただし初発の10月から1月15日までは患者の爆発的な増加のため統計の初動が間に合わず、後にまとめて合算したから3か月分の統計となっている)。これを見て極めて正確である、と言いたいところだがこれは内務省が後になって各県から報告された数字に基づいたもので、それではその報告がどこからどのようになされたかが正確さを知るうえで問題になる。これは報告書でも言っているように各地の警察署による調査、各地の医者への調査などにより県単位に集計されたものである。当時は今のようにDNAあるいは抗体による検査などないが、わずか1~2ヶ月で爆発的に増えたかなり激越な流行性感冒様の症例患者である。短期間に徳島では、あの横丁、この町々、村々で、同じ高熱症例の患者が多発したのである。その総数をとればおそらく実体(本当にその新型の感染症にかかっている人)と大きな違いはないものと思われ、さすがに一の位まで正確に信用せよとはいわないが、おおむねその数値は外れていることはないと思っている。
さて内務省衛生局の報告ではこの新型の疫病、終息した大正十年にはその一般名称が「スペイン風邪」といわれていたことを述べているが、その初発は決してスペインではないことを断言している(今日の知見でも全く正しい)。そして大正7年春頃より欧州で流行りだしたことを述べ、その始まりの春は(重症化率死亡率など)普通の風邪様で良性であったのち、同年夏から秋にかけてだんだん変化し電撃的な重症化傾向が増したと述べている。
わが本邦に最初に渡来したのはいつ、誰によってか気になるところだが、報告書はそれに対して断定を避けている。しかし、大正7年5月上旬南洋より横須賀に帰った軍艦に同病の患者がいて上陸し広めた可能性、そして同年9月北米より横浜に入港した船舶に多数の同病患者がいてやはり上陸後広めたという具体的な事例を挙げている。なお初春頃、国内で同様の風邪様の病気があったが報告書に書かれているがこれがいわゆるスペイン風邪かどうかは疑問を呈している。ともかくも早ければ初夏、遅くとも晩夏には日本でも流行が始まったことは確かである。
いよいよ次はワイんくの徳島である。初発は?ちょっと見にくいが上にある報告書の一部写真を黄色線に沿って見てほしい。一番上欄、徳島の次の欄が初発月である。これで見ると十月であることがわかる。
ここで注意して見てもらいたいのは徳島県の人口と患者数の比である。10月流行から翌年の1月15日までのわずか三か月の間に罹患した人がなんと総県民の54.1%に達していることである。当時の徳島県の総人口は約75万人である。〔おもっしょいことに(?)100年後の今日とほぼ同数である。もっとも当時は若年層の人口が多く、老年人口が少なかった。またこの頃のモラエスさんの日記を読むと徳島市の人口が7万余りとある。大正期は郡部、今でいう過疎地に人々が多く住んでいたのが違っている。〕
そのわが全県民の約6割がたった三ヶ月の間に罹患したのである。驚くべき蔓延の速さである。しかし、これ、まさに今、我々がリアルタイムで見聞きしていることである。今から一か月半ばかし遡ってみよう。欧米諸国はこの疫病の感染者はほとんど顕在化しておらず、日本のダイヤモンドプリンセス号における武漢ウィルスの防疫を第三者的な目で見ており、感染などどこ吹く風と日本の当局の不手際をいろいろあげつらっていた。ところがわずか一か月半で、欧米では感染爆発でイタリヤやスペイン、米国ニュヨク州などは大変なことになっている。
そう考えると大正期の徳島で3か月の間に全人口の三分の二近くが罹患したのも何ら不思議ではない。大正期の疫病と今の武漢ウィルスの感染・蔓延の素早さはほぼ同じであるといえる。もう一度上記の表に戻ってみてほしい。次は死亡率である。徳島での初発から3か月でこの疫病で亡くなった人は第三欄の太字の数字で示されている。4.279人である。五千人近くの人がなくなっている。死亡率こそ1%強だが、全県民の6割が罹患し、総数が多いのでこれだけの数になったのである。これも今現在、パンデミックで欧米の人がたくさんなくなっているのと同じ理屈である。
なんぼう、平均寿命が今より低い大正時代とはいえ、阿鼻叫喚とまでは言わないが、世の中は疫病パニックになったのではなかろうか。もし今、県内で新種の感染力の強い流行病で五千人近くが三ヶ月で亡くなったら、どうだろうか、と思うと身震いが止まらないくらいの怖気が生じる。
では実際に当時の徳島の生活でこの疫病はどのような影響をもたらしていたのだろうか。それを知る手掛かりの一つに大正期を通じ昭和初期まで徳島市内の長屋で暮らしたポルトガル人モラエスさんがいる。彼はなかなかの文筆家で随想、日記、あるいは手紙などを残していて、当時の徳島の庶民の暮らしを知るうえでのよい資料となっている。その中から、ポルトガルにいる妹に出した絵はがき書簡がたくさんある。それを見てみよう。左は絵はがきの表の絵である。
徳島の流行が始まったのが十月(大正7年)とある。隣の県の香川、愛媛などを見ると上旬から下旬ころだろうと推測される。まず
10月12日の絵はがき書簡(・・・は省略)
幸多い1919年の新年を迎えるよう年賀の挨拶をまた送るよ。1918年の年末はよい予感がする。・・・
これを読むと徳島ではこの時点で目に見えた蔓延はしていないようである。年末はよい予感がするとまで書いているので、まだ徳島は安穏であったことがわかる。絵はがきの絵は阿波踊りである。
ところが次の絵はがき
11月17日になると
・・・僕はここでインフルエンザの伝染病に抵抗している・・・
と書いている。
さらに
11月23日には
・・・見ての通り僕はインフルエンザから免れている。さようなら
と書いている。
結局モラエスさん自身は第一回目の流行からは免れたか症状がほとんどないような感染であったようである。ポルトガルの妹にあてた絵はがきであるため、心配させまいとできるだけ抑制的に書いたのかもしれない。しかしこの大正期のパンデミックはポルトガルもほぼ同時期襲ったのであるから、詳しい説明はなくてもこの一文だけで妹には日本も同じように大流行になっていると通じたのではなかろうか。
この時期の(大正7年末)地方新聞があればこの時の流行の様子を知るうえで最もよい資料になる。そう思って市立と県立の図書館の過去の地方紙のマイクロフィルムを調べたが残念なことに大正7年の地方版はどちらの図書館も欠けていてなかった。ネットで唯一手に入った徳島地方紙のこの疫病についての記事が下の写真である。11月6日の記事である。大阪朝日新聞四国版(11月6日)の記事
内容は
「全県下を風靡し、各小学校、県立学校も閉鎖せざるは一部2~3校に過ぎず、総ての機関は殆ど停止せんとす。死亡者続出し、過日の如き徳島 附近の火葬場の如き一夜に五十棺以上を持ち込み、為に焼き尽くす能わざる状態なり‥」
一日当たりの急激な死者の増加のため火葬場の渋滞が起こったことがわかる、荼毘が間に合わず深夜に積み重なる50もの棺桶、非常にゾッとする情景ではあるが、これは今現にイタリアやスペインなどで起こっていることである。なんと大正時代から百年たち医学や社会システムがこれだけ発展していても疫病の猖獗を防げずに百年前と同じ悲惨さを辿っているのである。
このことについてはモラエスさんの随想日記「おヨネとコハル」の中にも書かれている。
『・・・たとえば大阪にしろ神戸にしろ、大きい火葬場が用意している大きいカマドではほとんど火葬もできないほど、葬式も出せない始末である。死体は火葬場のそばで腐るにまかせて幾日も自分の順番が来るのを待っている・・・私が住んでいるこの徳島でもそれとよく似た情景を見ることができる。ある夕べ、はっきり記憶している、この市のある狭い横町で、ふと五つの葬列が次々に続いていくのに出会ったことがある。そしてその全部が見たところ長くうねった一つの行列に見えた。ある仕立て屋の店に注文にいったところ、その家族全体、九人、がその疫病で寝込んでいたと知らされた。私の近所の人々、知り合いの人々、日ごろ買い物をする店の人が相次いで病床に倒れて、助かるものもあれば死ぬものもあった。子どもの看護のためとか、父、母、夫、妻、つまり愛する誰かの看護のためとかでがっくりしていて誰の顔を見てもひどいやつれようであった。』
モラエスさんがこの随想を書いた日付を見ると1919年(大正8年)の9月となっている。疫病の第一回目の蔓延は前年10月に始まり、徳島では約五千名もの死者を出し、この年の5月以降は死者0になっていて一回目の流行は終わっている。そして二回目流行が始まるのが11月下旬なので、この状況は一回目の時のことである。一回目流行時のピーク時には推定で一ヶ月に1500人くらいは徳島で亡くなっているので上のような状況になるのも、なるほどそうなるわなと頷かせるものがある。
海外から持ち込まれ、ここ徳島でも蔓延し多くの死者を出したこの風邪様の疫病を人々は「スペイン風邪」と呼んだ(スペインが発祥ではないのだが)。大正7年10月から爆発的に蔓延し、数か月後には症状の見られたものだけでも全県民の6割ちかくを感染させたこのスペイン風邪は、徳島では翌年4月後半期に患者の発生は0となり、その後、5、6、7月とずっと患者0が続き、ようやく終息したのである。まさに感染症の専門家が言う「全人口の6割以上が罹患すれば集団免疫ができ終息に向かう」という通りの展開を辿っている。
このように大正8年4月にはさしものスペイン風邪蔓延も急速に衰え、翌月5月には罹患者0を迎えた。集団免疫ができたためであろう。ところがなぜか同年の晩秋の頃には再びパワーアップして第二回目の流行が始まるのである。いったいなぜ?集団免疫は効かなかったのか、それとも病原菌が別物に変異して集団免疫が機能しなかったのか。なぞは残る。現在に至ってもそれに対していろいろな説がありはっきりしたことはわからないそうである。ともかく大正のスペイン風邪は一回目よりはるかに高い死亡率を伴って再び襲ってきたのである。
これ、今のパンデミックに当てはめて大正のスペイン風邪と同じ経過をたどる仮定すると以下のようになる。自然の流れで大半が感染するか、あるいは有効なワクチンができて多数の人々に接種されて「集団免疫」ができ罹患者が0になった、ところが再び蔓延が始まり前回よりずっと高い死亡率となって広がっていく、ということである。もちろん実際に同じ経過をたどるとは言えないが、過去のよく似た呼吸器系の疫病パンデミックはこのような経過をたどったので、最悪そうなることも考えに入れておかなければならない。
次回は徳島におけるその二回目の流行を見てみようと思っている。
詳細に見ると各年(大正8~10年)の各月(それも前半期と後半期に分けている)の患者数、死者の数を一の位までとっている(ただし初発の10月から1月15日までは患者の爆発的な増加のため統計の初動が間に合わず、後にまとめて合算したから3か月分の統計となっている)。これを見て極めて正確である、と言いたいところだがこれは内務省が後になって各県から報告された数字に基づいたもので、それではその報告がどこからどのようになされたかが正確さを知るうえで問題になる。これは報告書でも言っているように各地の警察署による調査、各地の医者への調査などにより県単位に集計されたものである。当時は今のようにDNAあるいは抗体による検査などないが、わずか1~2ヶ月で爆発的に増えたかなり激越な流行性感冒様の症例患者である。短期間に徳島では、あの横丁、この町々、村々で、同じ高熱症例の患者が多発したのである。その総数をとればおそらく実体(本当にその新型の感染症にかかっている人)と大きな違いはないものと思われ、さすがに一の位まで正確に信用せよとはいわないが、おおむねその数値は外れていることはないと思っている。
さて内務省衛生局の報告ではこの新型の疫病、終息した大正十年にはその一般名称が「スペイン風邪」といわれていたことを述べているが、その初発は決してスペインではないことを断言している(今日の知見でも全く正しい)。そして大正7年春頃より欧州で流行りだしたことを述べ、その始まりの春は(重症化率死亡率など)普通の風邪様で良性であったのち、同年夏から秋にかけてだんだん変化し電撃的な重症化傾向が増したと述べている。
わが本邦に最初に渡来したのはいつ、誰によってか気になるところだが、報告書はそれに対して断定を避けている。しかし、大正7年5月上旬南洋より横須賀に帰った軍艦に同病の患者がいて上陸し広めた可能性、そして同年9月北米より横浜に入港した船舶に多数の同病患者がいてやはり上陸後広めたという具体的な事例を挙げている。なお初春頃、国内で同様の風邪様の病気があったが報告書に書かれているがこれがいわゆるスペイン風邪かどうかは疑問を呈している。ともかくも早ければ初夏、遅くとも晩夏には日本でも流行が始まったことは確かである。
いよいよ次はワイんくの徳島である。初発は?ちょっと見にくいが上にある報告書の一部写真を黄色線に沿って見てほしい。一番上欄、徳島の次の欄が初発月である。これで見ると十月であることがわかる。
ここで注意して見てもらいたいのは徳島県の人口と患者数の比である。10月流行から翌年の1月15日までのわずか三か月の間に罹患した人がなんと総県民の54.1%に達していることである。当時の徳島県の総人口は約75万人である。〔おもっしょいことに(?)100年後の今日とほぼ同数である。もっとも当時は若年層の人口が多く、老年人口が少なかった。またこの頃のモラエスさんの日記を読むと徳島市の人口が7万余りとある。大正期は郡部、今でいう過疎地に人々が多く住んでいたのが違っている。〕
そのわが全県民の約6割がたった三ヶ月の間に罹患したのである。驚くべき蔓延の速さである。しかし、これ、まさに今、我々がリアルタイムで見聞きしていることである。今から一か月半ばかし遡ってみよう。欧米諸国はこの疫病の感染者はほとんど顕在化しておらず、日本のダイヤモンドプリンセス号における武漢ウィルスの防疫を第三者的な目で見ており、感染などどこ吹く風と日本の当局の不手際をいろいろあげつらっていた。ところがわずか一か月半で、欧米では感染爆発でイタリヤやスペイン、米国ニュヨク州などは大変なことになっている。
そう考えると大正期の徳島で3か月の間に全人口の三分の二近くが罹患したのも何ら不思議ではない。大正期の疫病と今の武漢ウィルスの感染・蔓延の素早さはほぼ同じであるといえる。もう一度上記の表に戻ってみてほしい。次は死亡率である。徳島での初発から3か月でこの疫病で亡くなった人は第三欄の太字の数字で示されている。4.279人である。五千人近くの人がなくなっている。死亡率こそ1%強だが、全県民の6割が罹患し、総数が多いのでこれだけの数になったのである。これも今現在、パンデミックで欧米の人がたくさんなくなっているのと同じ理屈である。
なんぼう、平均寿命が今より低い大正時代とはいえ、阿鼻叫喚とまでは言わないが、世の中は疫病パニックになったのではなかろうか。もし今、県内で新種の感染力の強い流行病で五千人近くが三ヶ月で亡くなったら、どうだろうか、と思うと身震いが止まらないくらいの怖気が生じる。
では実際に当時の徳島の生活でこの疫病はどのような影響をもたらしていたのだろうか。それを知る手掛かりの一つに大正期を通じ昭和初期まで徳島市内の長屋で暮らしたポルトガル人モラエスさんがいる。彼はなかなかの文筆家で随想、日記、あるいは手紙などを残していて、当時の徳島の庶民の暮らしを知るうえでのよい資料となっている。その中から、ポルトガルにいる妹に出した絵はがき書簡がたくさんある。それを見てみよう。左は絵はがきの表の絵である。
徳島の流行が始まったのが十月(大正7年)とある。隣の県の香川、愛媛などを見ると上旬から下旬ころだろうと推測される。まず
10月12日の絵はがき書簡(・・・は省略)
幸多い1919年の新年を迎えるよう年賀の挨拶をまた送るよ。1918年の年末はよい予感がする。・・・
これを読むと徳島ではこの時点で目に見えた蔓延はしていないようである。年末はよい予感がするとまで書いているので、まだ徳島は安穏であったことがわかる。絵はがきの絵は阿波踊りである。
ところが次の絵はがき
11月17日になると
・・・僕はここでインフルエンザの伝染病に抵抗している・・・
と書いている。
さらに
11月23日には
・・・見ての通り僕はインフルエンザから免れている。さようなら
と書いている。
結局モラエスさん自身は第一回目の流行からは免れたか症状がほとんどないような感染であったようである。ポルトガルの妹にあてた絵はがきであるため、心配させまいとできるだけ抑制的に書いたのかもしれない。しかしこの大正期のパンデミックはポルトガルもほぼ同時期襲ったのであるから、詳しい説明はなくてもこの一文だけで妹には日本も同じように大流行になっていると通じたのではなかろうか。
この時期の(大正7年末)地方新聞があればこの時の流行の様子を知るうえで最もよい資料になる。そう思って市立と県立の図書館の過去の地方紙のマイクロフィルムを調べたが残念なことに大正7年の地方版はどちらの図書館も欠けていてなかった。ネットで唯一手に入った徳島地方紙のこの疫病についての記事が下の写真である。11月6日の記事である。大阪朝日新聞四国版(11月6日)の記事
内容は
「全県下を風靡し、各小学校、県立学校も閉鎖せざるは一部2~3校に過ぎず、総ての機関は殆ど停止せんとす。死亡者続出し、過日の如き徳島 附近の火葬場の如き一夜に五十棺以上を持ち込み、為に焼き尽くす能わざる状態なり‥」
一日当たりの急激な死者の増加のため火葬場の渋滞が起こったことがわかる、荼毘が間に合わず深夜に積み重なる50もの棺桶、非常にゾッとする情景ではあるが、これは今現にイタリアやスペインなどで起こっていることである。なんと大正時代から百年たち医学や社会システムがこれだけ発展していても疫病の猖獗を防げずに百年前と同じ悲惨さを辿っているのである。
このことについてはモラエスさんの随想日記「おヨネとコハル」の中にも書かれている。
『・・・たとえば大阪にしろ神戸にしろ、大きい火葬場が用意している大きいカマドではほとんど火葬もできないほど、葬式も出せない始末である。死体は火葬場のそばで腐るにまかせて幾日も自分の順番が来るのを待っている・・・私が住んでいるこの徳島でもそれとよく似た情景を見ることができる。ある夕べ、はっきり記憶している、この市のある狭い横町で、ふと五つの葬列が次々に続いていくのに出会ったことがある。そしてその全部が見たところ長くうねった一つの行列に見えた。ある仕立て屋の店に注文にいったところ、その家族全体、九人、がその疫病で寝込んでいたと知らされた。私の近所の人々、知り合いの人々、日ごろ買い物をする店の人が相次いで病床に倒れて、助かるものもあれば死ぬものもあった。子どもの看護のためとか、父、母、夫、妻、つまり愛する誰かの看護のためとかでがっくりしていて誰の顔を見てもひどいやつれようであった。』
モラエスさんがこの随想を書いた日付を見ると1919年(大正8年)の9月となっている。疫病の第一回目の蔓延は前年10月に始まり、徳島では約五千名もの死者を出し、この年の5月以降は死者0になっていて一回目の流行は終わっている。そして二回目流行が始まるのが11月下旬なので、この状況は一回目の時のことである。一回目流行時のピーク時には推定で一ヶ月に1500人くらいは徳島で亡くなっているので上のような状況になるのも、なるほどそうなるわなと頷かせるものがある。
海外から持ち込まれ、ここ徳島でも蔓延し多くの死者を出したこの風邪様の疫病を人々は「スペイン風邪」と呼んだ(スペインが発祥ではないのだが)。大正7年10月から爆発的に蔓延し、数か月後には症状の見られたものだけでも全県民の6割ちかくを感染させたこのスペイン風邪は、徳島では翌年4月後半期に患者の発生は0となり、その後、5、6、7月とずっと患者0が続き、ようやく終息したのである。まさに感染症の専門家が言う「全人口の6割以上が罹患すれば集団免疫ができ終息に向かう」という通りの展開を辿っている。
このように大正8年4月にはさしものスペイン風邪蔓延も急速に衰え、翌月5月には罹患者0を迎えた。集団免疫ができたためであろう。ところがなぜか同年の晩秋の頃には再びパワーアップして第二回目の流行が始まるのである。いったいなぜ?集団免疫は効かなかったのか、それとも病原菌が別物に変異して集団免疫が機能しなかったのか。なぞは残る。現在に至ってもそれに対していろいろな説がありはっきりしたことはわからないそうである。ともかく大正のスペイン風邪は一回目よりはるかに高い死亡率を伴って再び襲ってきたのである。
これ、今のパンデミックに当てはめて大正のスペイン風邪と同じ経過をたどる仮定すると以下のようになる。自然の流れで大半が感染するか、あるいは有効なワクチンができて多数の人々に接種されて「集団免疫」ができ罹患者が0になった、ところが再び蔓延が始まり前回よりずっと高い死亡率となって広がっていく、ということである。もちろん実際に同じ経過をたどるとは言えないが、過去のよく似た呼吸器系の疫病パンデミックはこのような経過をたどったので、最悪そうなることも考えに入れておかなければならない。
次回は徳島におけるその二回目の流行を見てみようと思っている。
2020年4月5日日曜日
わが町に図書館ができた
旧協同病院の跡地に「市民プラザ」(市民センター)のドでかい建物ができた。その中に「図書館」が入っているのである。本来なら4月1日に市民プラザの落成式とともに開館式を賑々しく開くのだろうが、知ってのように武漢ウィルス蔓延のこのご時世である。1日にひっそりと開館したみたいで今日まで知らなかった。
たまたま買い物で横を通りかかって、そういえば4月開館だなと思い玄関に近づいたが、なんかひっそりしている。疫病蔓延のせいで開館が延びたのかなと思ったがそれでも玄関扉まで行くと自動でスッとあいた。中はひっそりして誰もいない、たまたま玄関奥から人がでてきたので聞くとすでに図書館は開館しているとのこと。少し廊下を進むと図書館の案内係がいて3階の図書館に案内してくれた。
図書館は下のようになっている。本も室内調度もまっさらピンピンで、リノリュムかゴム類だろうあの新車の内部のような匂いがする。新鮮で清潔で明るく、気持ちええわ~~~~。学習室もあり、もちろんWi-Fi環境も整っている。まずWi-Fi登録を済ませ、まっさらピンピンの本を早速一冊借りた。(本も大部分、新規購入したみたい、いよっ!太っ腹!)
借り出す本の雑菌を取り除く本クリナもある。
たまたま買い物で横を通りかかって、そういえば4月開館だなと思い玄関に近づいたが、なんかひっそりしている。疫病蔓延のせいで開館が延びたのかなと思ったがそれでも玄関扉まで行くと自動でスッとあいた。中はひっそりして誰もいない、たまたま玄関奥から人がでてきたので聞くとすでに図書館は開館しているとのこと。少し廊下を進むと図書館の案内係がいて3階の図書館に案内してくれた。
図書館は下のようになっている。本も室内調度もまっさらピンピンで、リノリュムかゴム類だろうあの新車の内部のような匂いがする。新鮮で清潔で明るく、気持ちええわ~~~~。学習室もあり、もちろんWi-Fi環境も整っている。まずWi-Fi登録を済ませ、まっさらピンピンの本を早速一冊借りた。(本も大部分、新規購入したみたい、いよっ!太っ腹!)
借り出す本の雑菌を取り除く本クリナもある。
2020年4月4日土曜日
百年前のパンデミク その2
このブログで武漢ウィルスについて書いたのが1月25日だった。題は『百年前のパンデミック』だった(その一月ブログはここクリック)。その時はまさかパンデミックが現実になり日本、世界がこんな大ごとになるとは予想もしなかった。その展開の速さに唖然とするばかりである。いったいこれからどうなるのであろう。一月から今までの急激な(悪い方向への)変化を見ているとこれからその傾向はもっと大きく加速度的になるんじゃなかろうかと心配する。
百年前と違い今は病理学的な知見も格段に上がり、薬、医療技術も比較にならぬほど素晴らしいものになっている。今の時点でワクチン、特効薬は皆無だが、早く見つかる予想を立てている人が多い。そうなれば武漢ウィルスに対し人々の反転攻勢が始まり、抑え込みに期待がもてるようになる。しかし、これはかなり楽観的な見方である。
我々の反転攻勢の武器はワクチン、特効薬である。その武器を手にすることはやがてはあると仮定しても、その時期である。指数関数的に感染者が増大し、全世界に蔓延して、飽和状態(つまりウィルスの側からしたらできる限り広がり、人体を屠り尽くし、ウィルスがもうワイ満腹じゃ!これ以上食べれまへんわ、という状態)までいってから、ワクチン特効薬ができても、そりゃ、もう遅い。六日のアヤメ、十日の菊である。また相手はコロナウィルスである。蔓延途中にコロ、コロ、コロナっと、別のモノに変異して、もっと強毒性を持つものになるかも知れない。(このような種類のウィルスは変異しやすいらしい)、とまあ、これが悲観的な見方である。
ネット、テレビなんどでいわゆる専門家というコメンテタの先生を見ていると、楽観論に振れる人、悲観論に傾く人とどちらもいる(どちらが大勢かというのは数えていないのでわからないが、視聴者を脅しまくる先生が多い)。政府はどのような立位置かを見るとどうも楽観論に傾いている気がする。というのもオリムピクを来年7月に延期して開催できるとしているのだから、これは楽観的ではないだろうか。
こういう世界的に大影響を与える現象(今回は感染症だが)は近未来であっても確実な予測はできぬものである。それじゃあその近未来の予測に基づく施策も立てられぬじゃないかといわれそうだが、このように人類にダメジを与える現象の予測についてよく言われることは、もっとも最悪の予測をたててそれに備えるべきだといわれている。もっとも最悪の場合、打つ手がないということも考えられるが、少なくとも心のうちでの覚悟は喚起できる。
じゃあ、今回、近未来のもっとも最悪の状況はどのようなものであろうか。小説の題名は忘れたが三島由紀夫の小説の主人公がこんなことを言っていたのを私は印象深く胸に刻んでいる。それは
『未来の出来事は不確実である。ただただ確実なのは過去に起った出来事のみである。』
この言葉は単純に過去の知見経験が近未来を予測できるのに使えるといっているものではない。しかし、過去のよく似た出来事をいくつもならべてみよう。過去の過去からみたら、直近の過去は未来になる。そのより古い過去から新しい過去に向かって発せられるものにその時点での予測がある場合がある。とすると古い過去から新しい過去に向かって発せられるその予測はどうなっているのだろう、次々と古い順に調べられそうである。それらの過去の事象を多く見ることにより、よく似た出来事の近未来の予測を立てる時、誤差のブレは小さくなっていく。だからよく似た過去の事象を知り分析することが近未来の予測に重要になるわけである。
そこで参考になるのが「百年前大正時代に全世界を襲ったパンデミック」である。これが完全に終息した大正十年十二月に日本の内務省衛生局がこの感染症についての報告書を出した。報告書の出された時代を考えるとその数値の正確さ分析の的確さは素晴らしいものがある。世界に誇ってよい報告書である。
さてその内容から我々はどんなことをくみ取れるか、見てみよう。まず、未知の新しいウィルス感染症であったのは今回と共通している。他にも共通点は驚くほど多い。かなり強力な感染力、そしてペスト、コレラなどと比べたら死亡率は低いがそれでも2~6パーセント(時、場所にもよるが10%を超えることもある)、飛沫感染で広がる、老若男女を問わず感染する、そして(当時は飛行機の移動はごく少数だった)船、鉄道によってかなりの速度で世界に広がりパンデミックになった(飛行機の大量輸送がないだけ現代より伝播速度は遅いが)。そして症例は、最初は風邪様、死に至るのは重篤な肺炎に至ってからというのまで似ている。
これは非常によく似た疫病であるといえる。違っているのは、今の武漢ウィルスは高齢者になるほど死亡率が高いのに比べ、百年前は若年層、特に働き盛りの30代、40代が高かったことである。死の悼みはどの人も平等であるとはいいながら若い人の死亡率の高さを見ると百年前の疫病のほうがより凶悪である。
次に我々人類はそれにどのように対処してきたのかを見ると、これも今の武漢ウィルスと百年前の疫病とほとんど同じであるといえる。まず、現在のところ特効薬がない。薬は対処療法のみである。マスクをして人前に出ることや人混みを避けることが求められているのも同じ。臨時休校が大規模に行われ、当時の日本では都市封鎖こそないが、劇場、映画館などの密閉して込み合う場所を避けるか閉鎖するようにも勧告されている。これらの内務省衛生局の国民への注意喚起を見るとこれ、現在の厚生省の注意と同じじゃんと思ってしまう。
百聞は一見に如かずで、百年前に内務省衛生局がこの疫病対策のため作成し配布したパンフレットを見てみよう(この報告書にその図もある)
通勤通学の汽車の中の様子である。「マスクをかけぬ命知らず」とあるインパクトの強いキャッチフレーズとなっている。見ると密閉型のいわゆる立体マスクが当時も今も同じ型であることがわかる、マスクの型は変わっていない。ただ黒マスクが多いのには意外だ。光の中微小な糸くずのようなものが飛んでいるがこれが疫病の菌であろう。
これは家庭内の様子である。家庭であってもマスクをしないで唾を飛ばしたり咳をしたりすれば菌が飛んでいるのがわかる、ここでも菌はホコリのように舞っている。
そして家庭で看病する場合でも、患者を別の部屋にして伝染しないよう求めている。現代の武漢ウィルスの感染者が増えて家庭内で看護する場合でもまったく同じことが求められる。
繰り返しマスクと嗽(うがい)を求めるポスター、百年前は手洗の奨励ポスターはないが、病気一般の感染予防に手洗い重視は当然だったからあえて言わなかったのか、ちょっとそこが今と違う。
そして次の啓蒙・奨励ポスターである。なんと、驚くことに「予防注射をしませう」である。え~~~~~ぇぇぇ?百年前の大正時代に疫病(当時の新型インフルエンザ)ワクチンがあったのかと意外感に打たれた。皮下注射を背中に打っているのが今と違う。
百年前のパンデミックは数年にわたって流行したので、その間にワクチンができたのかな?ちょっとこれは疑問であるが、しかし疫病蔓延終息後その予防注射効果の検証も入った内務省の報告を読んでみて納得?これ効いたと思います?そもそもこれはどんな経緯のワクチンか?それはまた追々述べます。
さて、いま流行りの武漢ウィルス、消息の気配はない、蔓延の上昇一途であるといってよい、中国は終息に収れんしつつあると言ってますが、みなはん、信用できまっか?ちょっとねぇ。
それでは百年前のこのパンデミック、いつ終了したか。内務省衛生局はその流行を三期にわたってとらえている。初回はグッと蔓延しかなり大規模に広がり、大勢の患者死者を出しピークを上り詰め下り、そして患者が減少し事実上0になる。しかしそれは一回目の終了で、やがて二回目が始まり、やはり同じ山の曲線を描き同じ経過をたどる、そのようにして三回も同じ疫病の流行が起こったのである。
報告書には 第一回流行(大正7年8月~大正8年7月)
患者 2116万8398人
死者 25万7363人(死亡率1.22%)
第二回流行(大正8年10月~大正9年7月)
患者 241万2097人
死者 12万7666人(死亡率5.29%)
第三回流行(大正9年8月~大正10年7月)
患者 22万4178人
死者 3698人(死亡率1.65%)
そして三回流行の総計の患者数は 2380万4673人
死者数 38万8727人(死亡率1.63%)である。
これいかにものすごい数字であるか、当時の日本総人口(植民地を除く本国)は5719万355人であるが、その日本国民の総人口のなんと41.6%が感染したことになる。ほぼ半数近くであるが、ごく軽症であったものあるいは感染しても症状の出なかったものもいることを考えると、最近よく言われている、いわゆる全人口の6割近くが集団免疫を獲得すれば伝染病は終息する、という言説であるが、なるほど症状に現れない感染者も入れるとおそらく6割に達したんじゃなかろうか。それで三回にわたった大流行は収まったのであろう。「集団免疫」とはそういうことかと上記の数字を見ているとボンクラなオイラにも納得できる。これからわかることは次のことである。
●最初の第一回流行で大多数の人が感染しまくっている、最終合計感染者全体の8~9割がこの一回目で感染している。
●二回目流行はおおむね一回感染時の十分の一程度の感染者を出している。
●最後の三回目流行は前回(二回目)のさらに十分の一の感染者を出している。
危機管理は最も最悪のケースを想定して考えられるべきだという。今武漢ウィルスは、症状、感染率、死亡率、伝播速度など百年前のパンデミックとよく似ているとみられているが、少なくともこの大正時代の感染症の広がり、被害を最悪想定して今の政府には施策を先んじて取ってほしいと願う。
現在の政府はどちらかというと楽観的見地に立っているように思われる。オリムピクを一年延ばしたが、百年前の感染症は山や谷を繰り返し、足かけ三年流行したのである。内務省衛生局の報告書を詳細に見れば、3年にわたる期間のうち確かに谷となる部分では感染者がほとんど発生していない月もあった。でも現在の一年後の7月にその谷が来るという保証はないのである。まして当時と違いオリムピクを開くと世界各国からおそらく百万単位の選手、見物人、観光客が来るといわれている。その母国の国々で果たして感染症は収まっているのか、海外から人々が押し寄せるということは、百年前の蔓延にはなかった負の要素が加わることである。
現代は大正時代と違い医学の発達が著しいから、それまでにワクチン、特効薬ができ、大正時代よりずっと早く鎮静化する可能性はある。まあそれが楽観論につながっているのだろう。でもそれは可能性である。8.9割の可能性なら一年後の安穏に掛けることもできるが、オイラなんかは五分五分という気がしてならない。国が丁半博打をするようなものである。
上記の数字を見て気になるのは第二回流行時には、死亡率がなぜかド~~~ンと上がっているのである。「一回目より二回目の流行がずっと恐ろしい?」
この内務省衛生局の報告は極めて詳細に各都道府県の月ごとの患者死者を記録している。それでオイラの住まう大正時代の徳島県の二回目の月間死亡率を見ると
「ひぇ~~~~~~~っ!!!」
こ、こ、こりは、あぁぁぁぁ~~~ああ阿鼻叫喚の巷じゃ、と言わざるを得ない?いやちょっと大げさ?
次回は絞ってワイの郷土、百年前大正の徳島をこの報告書から見てみよう。
百年前と違い今は病理学的な知見も格段に上がり、薬、医療技術も比較にならぬほど素晴らしいものになっている。今の時点でワクチン、特効薬は皆無だが、早く見つかる予想を立てている人が多い。そうなれば武漢ウィルスに対し人々の反転攻勢が始まり、抑え込みに期待がもてるようになる。しかし、これはかなり楽観的な見方である。
我々の反転攻勢の武器はワクチン、特効薬である。その武器を手にすることはやがてはあると仮定しても、その時期である。指数関数的に感染者が増大し、全世界に蔓延して、飽和状態(つまりウィルスの側からしたらできる限り広がり、人体を屠り尽くし、ウィルスがもうワイ満腹じゃ!これ以上食べれまへんわ、という状態)までいってから、ワクチン特効薬ができても、そりゃ、もう遅い。六日のアヤメ、十日の菊である。また相手はコロナウィルスである。蔓延途中にコロ、コロ、コロナっと、別のモノに変異して、もっと強毒性を持つものになるかも知れない。(このような種類のウィルスは変異しやすいらしい)、とまあ、これが悲観的な見方である。
ネット、テレビなんどでいわゆる専門家というコメンテタの先生を見ていると、楽観論に振れる人、悲観論に傾く人とどちらもいる(どちらが大勢かというのは数えていないのでわからないが、視聴者を脅しまくる先生が多い)。政府はどのような立位置かを見るとどうも楽観論に傾いている気がする。というのもオリムピクを来年7月に延期して開催できるとしているのだから、これは楽観的ではないだろうか。
こういう世界的に大影響を与える現象(今回は感染症だが)は近未来であっても確実な予測はできぬものである。それじゃあその近未来の予測に基づく施策も立てられぬじゃないかといわれそうだが、このように人類にダメジを与える現象の予測についてよく言われることは、もっとも最悪の予測をたててそれに備えるべきだといわれている。もっとも最悪の場合、打つ手がないということも考えられるが、少なくとも心のうちでの覚悟は喚起できる。
じゃあ、今回、近未来のもっとも最悪の状況はどのようなものであろうか。小説の題名は忘れたが三島由紀夫の小説の主人公がこんなことを言っていたのを私は印象深く胸に刻んでいる。それは
『未来の出来事は不確実である。ただただ確実なのは過去に起った出来事のみである。』
この言葉は単純に過去の知見経験が近未来を予測できるのに使えるといっているものではない。しかし、過去のよく似た出来事をいくつもならべてみよう。過去の過去からみたら、直近の過去は未来になる。そのより古い過去から新しい過去に向かって発せられるものにその時点での予測がある場合がある。とすると古い過去から新しい過去に向かって発せられるその予測はどうなっているのだろう、次々と古い順に調べられそうである。それらの過去の事象を多く見ることにより、よく似た出来事の近未来の予測を立てる時、誤差のブレは小さくなっていく。だからよく似た過去の事象を知り分析することが近未来の予測に重要になるわけである。
そこで参考になるのが「百年前大正時代に全世界を襲ったパンデミック」である。これが完全に終息した大正十年十二月に日本の内務省衛生局がこの感染症についての報告書を出した。報告書の出された時代を考えるとその数値の正確さ分析の的確さは素晴らしいものがある。世界に誇ってよい報告書である。
さてその内容から我々はどんなことをくみ取れるか、見てみよう。まず、未知の新しいウィルス感染症であったのは今回と共通している。他にも共通点は驚くほど多い。かなり強力な感染力、そしてペスト、コレラなどと比べたら死亡率は低いがそれでも2~6パーセント(時、場所にもよるが10%を超えることもある)、飛沫感染で広がる、老若男女を問わず感染する、そして(当時は飛行機の移動はごく少数だった)船、鉄道によってかなりの速度で世界に広がりパンデミックになった(飛行機の大量輸送がないだけ現代より伝播速度は遅いが)。そして症例は、最初は風邪様、死に至るのは重篤な肺炎に至ってからというのまで似ている。
これは非常によく似た疫病であるといえる。違っているのは、今の武漢ウィルスは高齢者になるほど死亡率が高いのに比べ、百年前は若年層、特に働き盛りの30代、40代が高かったことである。死の悼みはどの人も平等であるとはいいながら若い人の死亡率の高さを見ると百年前の疫病のほうがより凶悪である。
次に我々人類はそれにどのように対処してきたのかを見ると、これも今の武漢ウィルスと百年前の疫病とほとんど同じであるといえる。まず、現在のところ特効薬がない。薬は対処療法のみである。マスクをして人前に出ることや人混みを避けることが求められているのも同じ。臨時休校が大規模に行われ、当時の日本では都市封鎖こそないが、劇場、映画館などの密閉して込み合う場所を避けるか閉鎖するようにも勧告されている。これらの内務省衛生局の国民への注意喚起を見るとこれ、現在の厚生省の注意と同じじゃんと思ってしまう。
百聞は一見に如かずで、百年前に内務省衛生局がこの疫病対策のため作成し配布したパンフレットを見てみよう(この報告書にその図もある)
通勤通学の汽車の中の様子である。「マスクをかけぬ命知らず」とあるインパクトの強いキャッチフレーズとなっている。見ると密閉型のいわゆる立体マスクが当時も今も同じ型であることがわかる、マスクの型は変わっていない。ただ黒マスクが多いのには意外だ。光の中微小な糸くずのようなものが飛んでいるがこれが疫病の菌であろう。
これは家庭内の様子である。家庭であってもマスクをしないで唾を飛ばしたり咳をしたりすれば菌が飛んでいるのがわかる、ここでも菌はホコリのように舞っている。
そして家庭で看病する場合でも、患者を別の部屋にして伝染しないよう求めている。現代の武漢ウィルスの感染者が増えて家庭内で看護する場合でもまったく同じことが求められる。
繰り返しマスクと嗽(うがい)を求めるポスター、百年前は手洗の奨励ポスターはないが、病気一般の感染予防に手洗い重視は当然だったからあえて言わなかったのか、ちょっとそこが今と違う。
そして次の啓蒙・奨励ポスターである。なんと、驚くことに「予防注射をしませう」である。え~~~~~ぇぇぇ?百年前の大正時代に疫病(当時の新型インフルエンザ)ワクチンがあったのかと意外感に打たれた。皮下注射を背中に打っているのが今と違う。
百年前のパンデミックは数年にわたって流行したので、その間にワクチンができたのかな?ちょっとこれは疑問であるが、しかし疫病蔓延終息後その予防注射効果の検証も入った内務省の報告を読んでみて納得?これ効いたと思います?そもそもこれはどんな経緯のワクチンか?それはまた追々述べます。
さて、いま流行りの武漢ウィルス、消息の気配はない、蔓延の上昇一途であるといってよい、中国は終息に収れんしつつあると言ってますが、みなはん、信用できまっか?ちょっとねぇ。
それでは百年前のこのパンデミック、いつ終了したか。内務省衛生局はその流行を三期にわたってとらえている。初回はグッと蔓延しかなり大規模に広がり、大勢の患者死者を出しピークを上り詰め下り、そして患者が減少し事実上0になる。しかしそれは一回目の終了で、やがて二回目が始まり、やはり同じ山の曲線を描き同じ経過をたどる、そのようにして三回も同じ疫病の流行が起こったのである。
報告書には 第一回流行(大正7年8月~大正8年7月)
患者 2116万8398人
死者 25万7363人(死亡率1.22%)
第二回流行(大正8年10月~大正9年7月)
患者 241万2097人
死者 12万7666人(死亡率5.29%)
第三回流行(大正9年8月~大正10年7月)
患者 22万4178人
死者 3698人(死亡率1.65%)
そして三回流行の総計の患者数は 2380万4673人
死者数 38万8727人(死亡率1.63%)である。
これいかにものすごい数字であるか、当時の日本総人口(植民地を除く本国)は5719万355人であるが、その日本国民の総人口のなんと41.6%が感染したことになる。ほぼ半数近くであるが、ごく軽症であったものあるいは感染しても症状の出なかったものもいることを考えると、最近よく言われている、いわゆる全人口の6割近くが集団免疫を獲得すれば伝染病は終息する、という言説であるが、なるほど症状に現れない感染者も入れるとおそらく6割に達したんじゃなかろうか。それで三回にわたった大流行は収まったのであろう。「集団免疫」とはそういうことかと上記の数字を見ているとボンクラなオイラにも納得できる。これからわかることは次のことである。
●最初の第一回流行で大多数の人が感染しまくっている、最終合計感染者全体の8~9割がこの一回目で感染している。
●二回目流行はおおむね一回感染時の十分の一程度の感染者を出している。
●最後の三回目流行は前回(二回目)のさらに十分の一の感染者を出している。
危機管理は最も最悪のケースを想定して考えられるべきだという。今武漢ウィルスは、症状、感染率、死亡率、伝播速度など百年前のパンデミックとよく似ているとみられているが、少なくともこの大正時代の感染症の広がり、被害を最悪想定して今の政府には施策を先んじて取ってほしいと願う。
現在の政府はどちらかというと楽観的見地に立っているように思われる。オリムピクを一年延ばしたが、百年前の感染症は山や谷を繰り返し、足かけ三年流行したのである。内務省衛生局の報告書を詳細に見れば、3年にわたる期間のうち確かに谷となる部分では感染者がほとんど発生していない月もあった。でも現在の一年後の7月にその谷が来るという保証はないのである。まして当時と違いオリムピクを開くと世界各国からおそらく百万単位の選手、見物人、観光客が来るといわれている。その母国の国々で果たして感染症は収まっているのか、海外から人々が押し寄せるということは、百年前の蔓延にはなかった負の要素が加わることである。
現代は大正時代と違い医学の発達が著しいから、それまでにワクチン、特効薬ができ、大正時代よりずっと早く鎮静化する可能性はある。まあそれが楽観論につながっているのだろう。でもそれは可能性である。8.9割の可能性なら一年後の安穏に掛けることもできるが、オイラなんかは五分五分という気がしてならない。国が丁半博打をするようなものである。
上記の数字を見て気になるのは第二回流行時には、死亡率がなぜかド~~~ンと上がっているのである。「一回目より二回目の流行がずっと恐ろしい?」
この内務省衛生局の報告は極めて詳細に各都道府県の月ごとの患者死者を記録している。それでオイラの住まう大正時代の徳島県の二回目の月間死亡率を見ると
「ひぇ~~~~~~~っ!!!」
こ、こ、こりは、あぁぁぁぁ~~~ああ阿鼻叫喚の巷じゃ、と言わざるを得ない?いやちょっと大げさ?
次回は絞ってワイの郷土、百年前大正の徳島をこの報告書から見てみよう。
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