2024年2月7日水曜日

吉野川河川敷の菜の花

  第十堰少し下流の河川敷には菜の花畑がひろがっている。意図的に作っているのではなく、毎年花期が終わった花から種がこぼれ自然に咲き、このような絨毯畑になるようだ。厳密にいうと菜種油をとる「ナタネ」ではなく、からし菜に近い野生種だろうと思う。かなりの広い面積を占めている。


 土手を降り菜の花畑に入り動画を撮影しました。

 先日のブログで半世紀近く逃亡を続けた指名手配犯について書きましたが、阿南の街中を歩いていると角にある交番のポスターに目がいきました。見るとまだ彼の手配写真が貼ってありました。ちょうど若いお巡りさんに会ったので、彼の写真に✖の印はつけないんですかと聞くと、「まだ確定ではないからそのままなんですよ」といわれた。なるほど。

2024年2月4日日曜日

立春雑感

 今日は「立春」 24節気の一つだ、文字にはその名の通り、今日から春が始まるという意味を込めているが、もう一つの大事な意味もある、それはここから新しい年が始まるということである。「いや、旧暦には暦の上で元旦がある、本年令和六年の旧暦元旦は1月10日のはずだ!」と反論を受けそうです。確かにそうなんですが、農事を中心におく昔の人の感覚では、立春を新しい年の始まりとして認識していたのも事実です。平安朝に作られた次の和歌を見てもそれがわかります。

 年のうちに 春は来(き)にけり ひととせを
去年(こぞ)とやいはむ 今年(ことし)とやいはむ古今和歌集・在原元方

 旧暦では立春は元旦より前に来る(旧年中に)ときもあり、また元旦より後に来るときもあります。今年令和六年は旧元日より(太陽暦・1月10日)早く立春が訪れる。だから今年のような年のことを和歌に詠んでいるのである。「古い年のうちに立春が来てしまった、とすると、古い年は、そのまま去年と言っていいのだろうか、それとも古い年の立春からは、今年といっていいのかなぁ」と混乱しています。立春を一年のはじめとする考えがあったからこのような混乱・錯誤が起こるわけです。

 昨日は節分だった 立春は黄道(天球上の太陽の軌跡)をキッチリ24等分して、その一つの春分点(黄道と天の赤道が交わる点)から三つ前を立春(点)としています。そしてその前日が「節分」になるわけです。先に言ったように立春を新年の始まりと見立てると、前日の日は古い年の最後の日、この日までに付いた「悪い垢」や、悪事を擬人化した「鬼」を新しい年に持ち越さないため「祓え」(はらえ)や「鬼やらい」(おいはらう)が必要と考えたんでしょうね。それが節分の「鬼は外、福わ内」となったわけです。

 季節行事食品特売コーナ ところでワイらの小ンまい時、節分の豆まきはあり、家でもやりましたが、恵方巻の巻きずし吉方にむいて丸かじりなんてのはなかった。しかし近年、ここ阿波の国でも節分と言えば恵方巻が出回り売れるようになった。あれは、大阪の船場あたりにローカルな節分の風習としてあったものを、すし屋やスーパーが大々的に取り上げ、縁起物としていいから、とうわべは言いつつ、実のところ恵方巻寿司を多量に売らんがため普及させたんじゃないかと思ってしまう。バレンタインデでチョッコレイトをたくさん売るのと同じ販売戦略じゃないんかな。

 いまスーパやショッピングモルには、そのような季節行事関連の食品のコーナーが設けられている。一番面積を占めているのは先月から設けられているバレイタインデの各種チョッコレイトのコーナーである。これは2月14日がすむまである。


 おもっしょいのは、昨日まであった節分の豆関連の商品は今日は一斉に撤去されていると思いきや、一部の豆関連商品は残っている、その節分コーナーであった場所は、今日は「ひな祭り食品コーナー」に早変わりしている。しかし、昨日まで目にした節分の袋菓子がひな祭り袋菓子として今日もあるのである。
 アラレといろいろな豆とミックスした左のような袋菓子は節分のコーナーから引き続きひな祭りコーナーにもそのまま置いてあった。アラレと豆がミックスしてるから、どちらにも使えると考えているのだろう。
 とすると、節分の豆菓子に、芯に大豆を用いチョッコレイトをくるんだものがあったが、これなどは節分にもバレイタインデにも使えるわな。

2024年2月1日木曜日

旧寺島川沿いを散策してたら急に声をかけられびっくり

  寺島川って知ってまっか?おそらく知らんやろな。古い時代、徳島の中心地を流れていた川です。現在でも徳島市の地名に「寺島本町」というのがあります。しかしその元となった寺島川はほとんど埋め立てられ、今は一部が溝や堀となって残っているだけです。

 下は明治39年(1909年)、寺島川が流れていたころの地図です。新町川の流路は変わっていませんが、細い水色の線で示した寺島川は今はありません。上手(上流)は今の郷土文化会館あたりから新町川の支流として流れ、城山の南を通り、今の中洲市場辺りで再び新町川に合流します。見たらわかるように新町川と寺島川に囲まれた一帯は「川中島」になっています。ここが寺島になります。まさにですね。


 寺島川はほとんど埋め立てられましたが、その流路であったしるしは城山と徳島駅鉄道線路操車場の間に今も堀や溝として残っています。今日はそこに咲いている水仙の花を撮ろうと思いその流路沿いに歩きました。

 水仙はその名の示すように水辺を好む花です。旧河川沿いにたくさん群れているのかと思いきや、ありません。蜂須賀公の銅像の裏当たりの堀沿いを、水仙を探してウロウロ歩いていると、公園内の工事を見守っていたガードマンさんから急に「○○さん(私の姓)じゃないですか」と声をかけられた。おどろいてそちらを見るが、マスクをしているし、体の感じや声からは全く知らない人にしかみえない。「そうですが」というと、マスクを下にずらした。そこで初めて大昔(40年も前)の友人とわかった。「ああ、○○君、なにしてるの?」と聞いたが、元気でガードマンをやっているのはみたらわかる、間抜けた質問だ。公園内で通行者は少ないのでガードマンの仕事も暇そうだ。それでしばらく立ち話でお互いの現況をはなす。彼は私より3歳年下だから今年70歳だ。本業の散髪屋を週2日やり、4日はガードマンをやっているとのこと。息子さんが二人いるが小学校3年生になる孫も一人いるといっていた。陽気でよく笑うのは昔と変わらず、古希になっても二つの仕事をしているとは、ただただ感服する。

 いくら暇といっても仕事中である、私語が長引くのは彼に迷惑である。うれしくも偶然会った喜びの余韻に浸りつつ、またの再会を楽しみに別れた。

 その城山公園の旧寺島川沿いでようやく見つけた水仙と掘割の写真


 そのあと、ちょうど昼飯時だったので、徳島駅線路操車場の横にあるJRの古ぼけたビルの中のJR職員食堂一般の人でも利用できる)で定食(今日はウドンと助六寿司、天ぷら盛り合わせ)を食べる。これがボリュームたっぷりで450円、安い!



 それから今日、2月1日から一年間、徳バスの全路線乗り降りフリーの定期を買った。高齢者のみ対象である。その定期の名も「ながいき定期券」、一年定期なので一年間は元気でバスに乗らにゃ、そして生きてたらまた一年の更新、なるほどそうして何度も繰り返せば、ながいき定期になるわな。

2024年1月31日水曜日

今日で一月も終わりや

  令和六年一月元旦は史上まれにみるどころか日本開闢以来、初めてといってもいいだろう「元旦大地震」が能登北陸を襲った。大昔から元旦は一年の初め、ともかくみんなそろって「めでたい」といい、今年がよい年であるように祈り、祝う日であった。忌むべき言葉や行いは意識して避けた日であった。それなのに大地震、死者も多数出、倒壊・半壊家屋は数知れず、まったく、「こんな元旦って、ありか、日本を守る神様たちはどないなっとんねん。」といいたくなる。そして地震報道を見続けている次の二日には「飛行機の衝突、炎上」、テレビで見ると旅客機はほとんど爆発炎上に近いんじゃないかと思った、数百人の乗客は?(幸いなことにこちら側の旅客機は一人の死者もなかったが、海保の隊員さんは一人を除き亡くなった)もうさんざんな令和六年の幕開けであった。その幕開けの一月も今日で終わる。終わってみれば早いが、いろいろあったなぁ。

 今日、お昼のランチを、初めて行く某警察署内にある食堂ですませた。下がそのランチ(A,Bランチの二つから選ぶ、これはAランチ)、500円でご飯は盛り放題、おかずもまぁまぁで、満腹した。小鉢のサンド豆のからし味噌和えがおいしかった。


 食堂は大通りに面していて、明るく、できたての警察署なので、清潔感のある食堂である。部外者でも利用できる。この通りを挟んだ一帯は、前の文化センターや青少年センターをぶっ壊し、更地にして基礎工事をしているため、建設労働者や保安ガードマンが多い。まだ正午前だったが、その人たちがこの署内食堂でランチを食べていた。

2024年1月30日火曜日

逃亡者


 数日前の26日夕方ごろ臨時ニュースで流れた記事に驚いた。なんと半世紀にもわたって逃げ続けていた指名手配逃亡犯が名乗り出たニュースである。逃亡時は20歳だったが現在は70歳私とさほど変わらない。手配犯のポスター彼の顔は30年以上前から駅や街角で見ていた。70年代の若者を象徴するような顔かたちであった。そして他の手配犯と違い笑顔もあって、その頃はやったかぐや姫などのフォークグループのメンバーの中にいそうな雰囲気の若者であった。

 速報は、病院に重篤な末期がんで入院している患者が手配犯を自称したということで警察が駆け付け事情を聴いているとのことだった。続報が気になりその後の報道を聞くと、一週間前に路上で倒れ動けない当人を病院に運んで入院したこと、そして逃亡犯人を自称していること、そして事情を聴いた警察には、最後(末期)には本名で死にたいとのことで名乗ったこと、などが知れた。

 その後もいくつかではあるが、彼のそれまでの生活が知れる情報が切れ切れに報道された。数十年にわたってある土木関係の事業所で働いていたこと。そのすぐ近くの事業者が用意した木造の住宅に住んでいたこと。が分かった。そして報道され始めてからわずか3日目の昨日、朝、テレビを見ているとテロップが流れ、死亡とのこと。

 いろいろ思うことはあるが、なによりも哀れさをもよおしてくる。私も彼の青春時代と同じ時を生きてきた。世の中をよりよく変えてやろうと左翼運動に入った学生はこの時代多い。それはよく理解できる。私は左翼活動はしなかったがその心情は理解できるし、選挙権を初めて得た時、応援し投票したのは左翼政党だった。彼の左翼運動(今だと極左暴力集団と指弾されるが)に入った動機も世をよくしてやろうというものだったのだろう。

 「定めの針」(運命の針)は青春時代は大きく動く、西へ東へと、しかし大学の卒業が近くなると定めの針のブレは小さくなり一方向に定まってくる。大方の世間の若者は平和的な社会人となる方向へ向く、しかし彼は定めの針を暴力的革命によって世を変えてやろうとする方向に向けた。定めの針の方向による違いは、はじめは小さいが、その方向をずっとたどれば非常に大きくなる。もう元の位置には戻れぬところまで来てしまう。その結果が爆弾犯としての指名手配である。針はそこで振り切れることなく何十年もその方向に進んだ。

 そして半世紀後の彼が、今、報道されている70歳の末期がんのじいさんである。

 世間の人はどう思っているのだろうか、私はなにより哀れさを催してくるとかいた。一般の人の反応を知りたいためネットのコメント欄を読んだ。かなり厳しい意見が主流となっていた。

「ガン末期で、無保険なので、名乗って治療を受けようとした。ずるいやつ」

「名乗ったのも、最期になっての警察公安への勝利宣言だ」

 というようなものであった。しかし私はそのようには感じなかった。一週間前に倒れるまで隠れたつつましい生活をおくり、おそらく重篤な病気とは知りながら、それまで(売薬など)なんとか自分で手当てをし、倒れて人に介抱され病院に運ばれたのである。そして3日後にはなくなるのである。上記の二つのような考えは私にはまったく浮かんでこなかった。


 死の報道があった後、彼の住んでいた6畳にも満たない部屋の様子がニュースとして配信された。部屋はごみが散乱していた。そしてその住居の外観は、屋根のトタンはさびてところどころ飛ばされたのか、穴ぼこだらけ、倒れかけの廃屋のようである。そこで数十年彼は生活していたのである。最近の私の生活と、重篤な病気以外は、何が変わろうか。貧にせせられ、病を持ち、食生活さえ独り身のジジイにはきつい。やったことは確かに重罪かもしれんが、心情的に私はとても非難することはできない。

 世間一般の人がみんな厳しい見方か、と思ったが、当時の公安警察の元幹部の次のコメントにはちょっと胸を揺さぶられる思いがした。そう、まさに私もそう感じたからだ。冒頭、同情はしない、と言っているが、私も同情はない、よく似た人生航路において、彼は私であったかもしれないんだ!それは情を同じくする同情ではなく、むしろ、ほとんど彼とかわらない悲惨な老後を生きている私との同一視ではないかと思っている。

「 全く同情はしないが、死亡したのが、逃亡犯本人とすれば、50年近くになる逃亡生活で彼なりに苦労して生き延びてきたのだろうから、最後は仮の姿から本来の姿に戻りたかったかったのかも知れない、犯した罪は許されないが、ある意味、時代にもてあそばされた犠牲者の側面もあり、彼を犯罪に引き込んだ人間は責任を取るべきだ」(元警察公安幹部のコメント)

 そしてこの元幹部は、彼は、犯行グループの主要メンバーとは言えないとも言っている。そうであるなら早めに自首していればまた違った人生があったであろうに。合掌。

2024年1月26日金曜日

市役所の食堂が開いていた

 去年の六月くらいから、市役所12階の食堂は ずっと閉まっていた。あとで聞いた話では人材不足(調理員)と食材納入業者の倒産などが重なったためらしい。いつ頃開かれるか、市役所へ行ったとき、一階にある食堂案内(12階の市役所食堂はどなた様でも利用できます、と書いてあって、その週のメニューも表示してある)の掲示をみるが『当分、閉鎖しています』と書いてある。何回か別の用事で市役所へ行ったとき見たが、いつも閉鎖中の掲示である。今年いっぱいは無理か、とおもっていた。新年になって今日市役所へ行ったので、その掲示を見ると、今週のメニューが表示してある。「あ、開いているんだ」、ちょうど11時半近くだったので12階まで上がり定食を食べた。

 食券を買う前に「いつ頃から開いたのですか?」と聞くと去年の11月から再開したそうだ。しかし以前のスタッフとは違っているし、前は4~5人いたが、今は二人しかいなかった。定食の盛り付けも微妙に以前と変わっていた(量質ともに落ちた方に)。しかし定食500円は前のままだ。また自由に飲めた給湯器の日本茶はなくなっていて、お湯しか出ない。「お茶」出ないのですかときいたら、お水とお湯しかでませんのでどちらかを湯呑に汲んでくださいとのことだった。下が今日の定食である、人材の不足と食材の値上がりから、以前の定食とは様変わりしているように感じられた。まぁ500円のワンコイン定食やから、しゃぁないわな。

2024年1月24日水曜日

今朝、水の相は液体から固体へ変化

  先のブログで「水の相」について書いたが、今朝、今冬一番の寒さのため、道路の水たまりが全面凍っていた。足でつぶして氷片を取り上げると、窓ガラスほどの厚さがあった。液体から固体への「相変化」である。今日は最高気温も上がらず、一日、強風も吹いてずいぶん寒かった。