2020年4月20日月曜日

疫病退散

 疫病(武漢ウィルス)に罹らないようにするには集・近・閉(しゅうきんぺい)を避け、手指の消毒、マスクの着用をする以外あまり思いつかない。家に閉じこもって一歩も外へ出なければいいかもしれないが、全員となると不可能である。いっちょ効果があるのはワクチンができてみんなが接種をすることだろうけど、かなり(一年以上)時間がかかりそうだ。幸いなことにわが県の感染者数は全国で三番目に少ない(3人)が、クラスタが発生しそれに伴い感染爆発した多くの都道府県を見ていると、いつウチラの県でも急激な蔓延が起こらないとも限らない。いや、密かに潜行し広がっているかもしれん。常にポーの小説の「赤い死の仮面」の恐怖を思い浮かべるほうがいい。(赤い死の仮面で前にブログを書いてます。ここクリック)

 「赤い死の仮面」を読むと絶対的な隔離にもかかわらず、疫病はやすやすと入り込む。なぜ絶対的な隔離にかかわらず「疫病」は入れるのか、それは不合理じゃないか、と思うが、この怪奇小説っぽい話は、人の傲慢、不信心に対する「罰」(報い)の話じゃないだろうかと思う。芥川の「蜘蛛の糸」のカンダタのように自分だけ(ポーの小説では自分や身内の貴族だけ)助かろうとした罰(報い)ではないのかと思ってしまう。もしポーの小説の主人公やカンダタが自分だけ助かろうとせずにいたら、篤い信仰を持っていたら、破局的な終焉は迎えずに済んだかもしれない。

 いやそうじゃなく、死はどのように足搔こうが絶対逃れられない運命だということを強烈に教える話ではないのかということも想像できる。むしろ欧州の文化的土壌から言うとこっちのような気がする。前者の、自分だけ助かろうとした報いだとか、瀆神、傲慢への罰というのは日本や印度のような東洋的解釈かもしれない。14世紀、黒死病蔓延のため人口の三分の一から半数近くが死亡した西洋ではその後「死神が描かれる」絵画が流行った。その絵画には大勢の老若男女、貴賤、聖職者あらゆる人が登場する。その中に「死神」(死の運命の擬人化)が不気味な姿見せている。そして手には死の大鎌をを持っていることが多い。ひとたび死神が、フッ、と大鎌を一振りすれば、地上のどんな人々も命を絶たれる。まことに恐ろしい絵画であるが、この教訓は「常に人は死を思え」ということであるらしい。そう考えるとポーの小説はむしろこのような欧州の中世以来の教訓の一つであると見たほうがよさそうかもしれない。

 ルネサンス期に描かれた死神の絵画


 このような絵画は、何をやっても結局は死ぬのだから、刹那的に快楽的に生きたほうが良いという教訓を示すものではない。死を常に思うとともに常に神の目を思い神の審判を思うべきだというのが表裏一体となった教訓的寓絵である。死神は描かれるがそれは決して死神への賛美ではなく、唯一神への強い信仰を促すものであった。結局、日本にしても西洋にしても非力な人間が最後によりどころとできるのは神仏ということか。

 まあ、今は科学万能の21世紀である。なにがなんでも神仏に頼るというような狂信的あるいは原理主義的な信仰を持つ人は少ない(でも世界のある地域には結構おおい)、しかし「人事を尽くして天命を待つ」という態度は今でも充分納得できるものである。あらゆる努力、手立てを尽くし、最後は神仏に祈る、というのは今でもアリな気がするがどうであろうか。

 日本は印度とともに多神教世界にある。たくさんの神さま仏さまがいらっしゃる。唯一神のようにオルマイティの神仏は少ない、ある御利益に特化している神仏が多い。神仏に参拝に行けば聖域の入り口にその神仏の能書きが書いてある場合もある。また口コミで、あの仏さんは、脳の病に効くんじょ、とか言って広まっている場合もある。

 そこでオイラの現在の行動範囲で「疫病退散」(罹らない予防で病気平癒とは違う)の神仏がどこぞにないか思い出してみた。そうすると「ぎょんさん」(祇園社)・八坂神社があった。ぎょんさんが疫病封じの神というのは昔からよく知られていた。日本三大祭りの一つである京都の祇園祭も疫病封じから始まったと聞いている。そういえば京都本社の祇園さんに参拝したとき鳥居を入ってすぐに「疫神社」というのが摂社としてあり、多くの人の信仰を集めている。ぎょんさんが疫病封じの神の性格を持っていることがこれを見てもわかる。

 ワイが疫病退散のお祈りに行ったのは大滝山にある「ぎょんさん」・八坂神社である。この大滝山のぎょんさん、なぜか栄枯盛衰の波の呑まれ今は参拝者のごく少ない寂れた小さな神社となっている。しかしモラエス爺さんのいた大正期は祇園祭の時は参拝者の列がひきも切らず今の天神社のあたりから祭りの露店が途切れることなくつづき、夏の一夜、そこをそぞろ歩いた思い出が随想記に載っている。参拝者の賑わいを見せなくなったのは大東亜戦争後であるという。今では徳島の祇園祭といえばみんな蔵本のぎょんさんを思い出すが、本来はこちらの方が主な祇園社であったのである。

 まあこんだけ寂れた神社であったら、集・近・閉(しゅうきんぺい)の心配はしなくてよさそうだから思う存分、参拝できる。

 神社だから祝詞風に「かけまくもかしこき八坂のおおみかみ、なにとぞ、はやりやまいを、おさえたまえ、しずめたまえ、かしこみかしこみ、もうしさふろう、(パンパン)」でもいいし、お経ではあるが「般若心経」をとなえてもよい。簡単に「疫病退散、御願い奉る」でもよい。人それぞれ、お願いするとよい。

 小さな神社だが、茅の輪(茅、萱、藁などで作ったくぐり輪)がある。

 これをくぐると、特に疫病封じになるそうだ。くぐり方には作法がある。作法に興味のある方はググればよい(くぐるとググるをかけているジジイギャグはずかし)。右には神馬も奉納されている。

 動画

2020年4月18日土曜日

石井の藤

 こういうご時世で4月にあるさまざまなイベント、祭り、みんな流れてしもた。石井の藤まつりも中止予定、でも藤の花は咲きだした。下は石井駅にある藤棚。


 地福寺の藤



真言密教の言葉を手ンごろ易く使うな

 ツツジの名所、椎の宮さんに行ったが、まだほとんどがつぼみでツツジの道を歩くには早すぎた。
 お宮さんだが大師堂がある。

 そうそう前のブログで言っていた、村はずれにあった幼くして亡くなった子の供養塔、小さな疱瘡地蔵さんも、こんな大きさ形だった。これも風化が進んでいるが、大師堂の敷地にきちんと並べられている。おそらく近くの路傍にあったものを区画整理や住宅地建設のためここに集められたのだろう。

 大師堂の前には光明真言の石塔が立っている。真言宗では光明真言をとなえればどのような災厄もまぬがれるといわれている。江戸期にここ四国では光明真言をとなえる、それも百万遍繰り返し唱えること、が大流行した。百万回となえると、このような供養塔を立てた。

 真言宗では真言(呪文)などを特に重視する。そして居ながらにして即身成仏となり救われるという信仰を持っている。その即身成仏に至る大事な加持に「三密」がある三密とは「身」「口」「意」である。手(身)に印契を結び、口に真言をとなえ、心(意)には大日如来を観想し一体となる、ように、言われている。

 その三密であるが、急に別の意味で使われだした。「三密」禁止である。はじめ聞いたときはオイラの家の宗旨が真言宗のためか、すぐ真言宗の言う「三密」をイメージした。しかし世に言われるのは「密閉」「密集」「密接」の三密である。武漢ウィルス感染を防ぐための方策である。それで「三密禁止・三密を避ける」ということになるらしい、しかし歳ぃいってそろそろワイも即身成仏せにゃとおもいつつ、なかなか密教の修行に踏み出せないオイラとしては、真言宗の大事なエセンスの「三密」をこのような標語に使ってほしくない。

 そう思っていると、一昨日、経済評論家の上念はんが、私は「三密」とは言いません。皆さんも「しゅう、きん、ぺい」(集、近、閉)と言いましょう。といっていたので、ああ、なるほどそっちがええわと思ったが、上念はんより、東京都のおばはんが言った「三密」のほうが影響力があるわな。みんな「しゅう、きん、ぺい」は使わんじゃろ、でも三密より、集(まるな)、近(づくな)、閉(じた空間あかん)のほうがわかりやすいと思うが、皆さんはどう思われます。

 しゅうきんぺい、を避けようでは外交問題になる?

2020年4月16日木曜日

疱瘡地蔵と徳政

沈みがちな世の中、華やかに咲いた駅の八重桜を見てから、パッと明るく本日のブログをはじめませう

 前々回のブログでも述べたように江戸期には疱瘡(天然痘)は土着し、万遍なく小流行を繰り返したため誰でも罹る病気となった。この疱瘡は成人してから罹ったほうが断然死亡率が高いので子供のうちに罹るほうが良いといわれ、子供の成長の上でほとんど通過儀礼のようなものになった。それでも疱瘡で命をとられる子供が多く、親としては路傍の地蔵、お薬師さんに願をかけ、あるいはさまざまな疱瘡除けのまじないなどを行って軽くて済むように願ったのである。その親の願いの中に、この病気の固有名をつけた『疱瘡地蔵』があった。

 そこでちょっとオイラは想像する。もし今流行の武漢ウィルスによる疾病が江戸期に大流行したとして、はたして、この固有の名前を持った、例えば『殺路無地藏』(コロナじぞう)のようなものが作られたであろうかと。まず作られないだろう。江戸期にも流行性感冒は十数回大流行する(よく引用に出す内務省衛生局の報告にもある)、少なくともスペイン風邪くらいの悪性度があったものもいくつかあった。しかし風邪地蔵というのは聞いたことがない。疱瘡のほうが悪性度がダントツに高く、子供がかかったためであろう。それから考えると、軽い風邪様で8割が自然治癒し、また重症化して死ぬのは高齢者がほとんどということを考えると江戸時代に武漢ウィルスの疫病が流行っても『殺路無地藏』(コロナじぞう)は作られなかったであろう。

 明治生まれのバアチャンからワイのチンマイ時に聞いた疱瘡地蔵はまだ昭和30年には辛うじて残ってた。他の徳島の田舎でも疱瘡地蔵は何体かあったはずであるが、疱瘡は種痘の普及とともに事実上国内から姿を消し、地球上からも30年ほど前に撲滅されてしまった。だから疱瘡地蔵も用途を終わり別の名前に変わったり、また撤去されたりした。今現在、徳島で調べても「疱瘡地蔵」は見つからなかった。全国に網を広げて調べるとヒットしたのが、奈良県柳生町にある『疱瘡地蔵』である。下がその現在の様子、今は覆い屋の中にある。

柳生の里、疱瘡地蔵

 摩崖仏になっているためその彫られた大石の表面を見るとこのようになっている。

 まぁ~、よくまぁ~、疱瘡が撲滅されこの地上から姿を消して三十年もなるのに疱瘡地蔵という名が残ったものだなぁ。と感心する。地蔵そのものは残っいても、時代とともに変わる願人のリクエストに応じて、失禁地蔵(ションベンのトラブル)、ボケ地蔵(老人性痴呆)やポックリ地蔵(寝たきり老人)と名を変えてもよさそうなものなのにと、思うが・・・・・
 ところがこの疱瘡地蔵そんじゅそこらの地蔵とは違って超有名なのである。鎌倉期に作られた伝統のあるものであるが、超有名なのは、高校のどの日本史の教科書にも載っている疱瘡地蔵なのだ。注目されるのは疱瘡地蔵さんそのものではない。この横に短冊形にある文言である。大石にレリフした地蔵さんの横に文言が刻まれていて、それが高校日本史の教科書にも取り上げられているのだ。
 この部分

 この疱瘡地蔵の碑文は、室町時代に頻々と起った「一揆・徳政」の事件の生きた資料なのである。碑文の文字は素人(国人、農民など)が彫ったのだろう、たどたどしく拙劣な文字で漢字は少なくカタカナで書かれてある。次のように書かれてある。

『正長元年(1428)ヨリ、サキ者(は)、カンヘ(神戸)四カン(箇)カウ(郷)ニ、ヲヰメ(負目)アルヘカラス』

 どういうことか簡単にいうと、

 「この年から以降はなぁ、この神戸(かんべ)郷(村落)四か所にある負債・借金は全ぇぇん部、棒引き・帳消しやでぇ、これお上に正式に認められ、宣言されたもんやさかい、四の五の言うんはナシや、念のためこの疱瘡地蔵の横にしっかり刻んどくから、みんなよ~見ぃや」

 室町期は庶民ばかりでなく上層農民、国人といわれる土着の武士でさえ、金融業者、土倉、酒屋などから金を借りてその支払いに困っていた。困窮はさらなる別の負債を生み、悪循環で負債はどんどん増えた。そこで都、地方のそれら大勢の人々が一味同心(一揆という)し、わ~~っと集団で(たぶん武装もして)京都室町にある幕府の役所に押し掛けて、デモンストレーションし、幕府から公式に「借金・負債、全部棒引き・帳消し」という宣言を出してもらうのである。お上(政府の)正式な宣言だから法的実効性は保証される。困窮のもととなる借金負債は無くなったのである。

 この政策(下から強要されたものだが)は、庶民、地方人、借金に苦しむ武士などには福音だが、貸した者らにとってはたまらない。いくら前者が多数で後者が少数とはいえ、かなりな悪手である。でもこの時代の人はこの政策を「徳政」(徳のある政治)とし、その宣言を「徳政令」と呼んだのである。あえて解釈するなら多数派が喜ぶからだろうか、この「徳政」は文言どおりなら素晴らしい意味を込めている。確かに生活苦から借金を重ね、借金が膨らみどうしようも無くなった庶民から見れば徳政に違いないが、恐るべきしわ寄せを被る人がいる。

 今現在日本も含め世界でこのような徳政(負債借金帳消し)という政策をとることは可能であろうか?もちろん非常時・緊急時にはそのような選択肢もあろうと思われる。いま世界にある国家の中には国家は絶対的主権をもっているからどんな政策をも行使できると信じている国家もある(旧共産圏諸国など)、そんな国ならば躊躇なく可能だろう。だがこれはそうとうな劇薬処方である。ある症状を抑えるために用いるが、ひょっとして副作用で死ぬ可能性のあるような劇薬である。

 現在の日本でも政府がその負債を肩代わりするような負債帳消しならば、形を変えた「徳政令」として現在の日本でも認められるかもしれない。事実、このような形を変えた「令和の徳政令」を希求する声が多い。国民すべてに金を支給せよ、というのはその最たるものである(他にも休業、損失を遍く補償するというのもある)

 疱瘡地蔵を調べていて中世の正長の徳政令に注意を向けられた。そして今、疱瘡と同じ伝染病の蔓延の中、なすすべもない人が大勢いる、そんな人は『殺路無地藏』(コロナじぞう)でも作って拝む以外ないのだろうか。いや、素晴らしい徳政令が発布され、人々は救われるかもしれない。数百年後、記念碑的に建てられた『殺路無地藏』(コロナじぞう)の横には「令和の徳政令」が刻まれているかもしれない。
 
ここからはワイのつぶやき!

 まあ、酢だの蒟蒻だのといわんとなんでもぇぇ、10万ちょうだいな、ほかはしらんが、ワイは喜びのあまりお上に向かって
 
「♪~うれしやぁな~、令和の御代の徳政令~、いよ~、(カッポン)、降るわ、降るわ、黄金の雨ぇ~~~、ちゃりちゃりちゃりんと、なりひびけ~、いよぉぉ~(カッポン)」

 と令和の徳政を讃える翁の延年の舞を舞い踊るわ。

2020年4月15日水曜日

百年前のパンデミク その7 当時の新聞を読む(大正7年)

 徳島の地方紙の大正7、8年は全部かけているので、東京朝日新聞を読む。記事は東京都下、全国の大きなニュースが中心だが、大正のパンデミクはどのようなものであったか知る手掛かりとなる。内務省衛生局報告書(スペイン風邪流行の記録)なども参考にしながら読んでいく。

 報告書によれば初発は大正7年10月中旬となっている。新聞に流行性感冒の記事が登場するのが10月22日だ。

 10月22日
これを読むとまだ新型の感冒・スペイン風邪は広がっていない。記事は感冒(風邪)一般の注意である。寒くなるので普通の風邪も多いが流行性もあることを記している。まだまだのんびりしたものである。おまけに今年の風邪は肺炎の併発もあまり起こさないとまで書いている。

 ところが10月30日になると

 10月30日
上記の日から10日もたたないうちに爆発的に患者が広がり、派出看護婦の要請が続き、あまりにも申し込みが多かったため看護婦が払底してしまい、その要求に応えられない事態になっていることが書かれている。今だと、医療崩壊か、という見出しが躍るだろう。
 また続く欄は軍隊における猖獗、学校内蔓延による秋季の運動会や遠足の中止を伝えている。どちらも集団感染による罹患者の爆発的増加があったためである。

 それからつづく下欄にはこのような記事がある。
見出しには、素人療法、とある。素人療法は危険なので医者に見せよ、と書いてあるのかと思いきやさにあらず、家庭内ではこのように療養あるいは予防すべきだという指針が書いてある。大正期に庶民は風邪など医者に見せず治していたのである。当時は医療保険などもなく医者の敷居は高かったのである。この記事で注目するところは、感染は飛沫だけでなく、患者の被服などからも接触感染すると書いてある。咳クシャミだけに気をとられてはいけない注意であるが、これは今日でも注意したいところである。
 死亡率は千分の二とあるが、これは例年の流行り風邪の場合である。まだ本当の死亡率の高さは知られていないことがわかる。だが記事ではすでに流行しているインド、アメリカでは大きな死亡率を示していることに留意している。

 11月5日
看護婦不足に続いて風邪薬の暴騰、品薄が続く。読むと、当時風邪薬の最も一般的で信頼できるものがアスピリンであったのがわかる。風邪の大流行による需要大に加え、(世界大戦)によるドイツからの輸入が途絶えたこともあり、なかなか供給が上手くいかず、価格も暴騰したことが書かれている。

 そして同日の下欄には、スペイン風邪によって家族全員が倒れたことが書かれている。まず身重の妻が死亡、後を追って夫も亡くなる、四人の子供も倒れ、うち二人は重体とある。夫は大財閥の三井の支店長代理というからセレブである、そのため記事にのったのであろうが、スペイン風邪は上級市民でも容赦しなかった。その他名もなき大勢の家庭内でも大変なことになっていたと推測される。

 11月7日
スペイン風邪は、益々猖獗を極めると、最大級の形容で感染が広がったことを報じている。軍隊は24時間大勢がすごし、寝泊まりする兵舎などはまさに三密の環境である。爆発的蔓延もうべなるかなである。この記事の左下にこのスペイン風邪の病原菌のことについての記事があるのでそちらに焦点を当てて次に読んでみよう。
おおぉぉ!今回流行の病原菌が北里研究所(当時もっとも有名な医学研究所、今もその系譜を引くのが北里大学である。)で確かめられたとある。その病原体は1892年にドイツのパイフォル氏が発見した菌と同じものであることがわかったというのである。病原体が特定されるとそれを培養処理してワクチンができる。感染予防に大いなる力を発揮する。この菌は記事にあるように16年も前に発見され、実はワクチンも存在していたのである。

 だが百年後の知見をもって見ると、これは誤りである。今ではみんな知っているようにこのスペイン風邪病原体はウィルスである。上述のパイフォル氏の菌は細菌で今日ではインフルエンザ菌(インフルエンザウィルスとは別物)と呼ばれ形状は桿菌(棒状)で光学顕微鏡で見られる(ウィルスは電子顕微鏡が発明されるまでは見られなかった)ものである。寒天培地でも増やすことができる(ウィルスは生きた細胞内でのみ培養できる)。だからこのパイフォル菌(細菌)のワクチンを接種してもスペイン風邪には効かなかった。

 スペイン風邪が猛威をふるい重症者、死者が増えるに従い、中小の製薬会社の中には怪しげなワクチンを製作して問題を引き起こしていた。それが次の記事である。

 11月15日
有用な菌(上記のパイフォル氏菌)ばかりでなく、雑菌が含まれていて接種した人に副作用が出たとある。今日でいう薬害である。このような注射液に雑菌を含むとは言語道断である。製薬会社の談として、他の製薬会社の反感(嫉妬)を買ったのだろう云々、と信じられないようなことが書かれている。疫病の蔓延に付け込んで商売していると非難されてしかるべきだが、そんな厳しさは記事からはうかがえない、この時代だからだろうか。

 そのスペイン風邪の病原体パイフォル氏菌説に対する疑問の記事である。なかなか学術的な記事である、このような疑問、検証などがやがて濾過性病原体(ウィルス)の発見に結びついていくのである。

 11月25日(二枚続き)
記事を読むと元凶はパイフォル氏菌(インフルエンザ菌)※ウィルスとは違う、と双球菌(肺炎を起こす)の二つを挙げている。パイフォル菌が主か、二つが混合して流行しているのか、という議論がある。また大流行の感冒の病原体は未だ確認に至っていない特定するのは早急であるという意見も強くあることがわかる。この記事の印象ではスペイン風邪の病原体は断定できないというのが結論のようだ。

2020年4月14日火曜日

お薬師さんとはやり病

 風は強いがいい天気になったので大滝山の麓~天神さん~新町川~旧寺島川沿い、そして徳島城公園まで散歩した。

 大滝山麓には「お薬師さん」(薬師如来のお寺)がある。この辺りを歩く時必ずお参りしていく。

 前にお参りしたのは一週間ほど前、4月8日だった。この日はお薬師さんの御祈祷日で本堂には大勢の人が集まって御祈祷していた。お経や真言をとなえる斉唱の声とともに伴奏の大太鼓の音がリズミカルに聞こえていた。「ドンツク、デンツク、ベチ、ポン、パン」、それに合わせて十三仏の真言、そして最後には般若心経が聞こえていた。

 本堂の前に桜の老木がある。桜は満開をやや過ぎて散り初めの頃を迎えていた。
 下が4月8日の動画、たった4秒間の落花の舞、花びらが見られるかな?
 そして一週間後の今日のお参り。満開だった桜はまだ多少花は残ってはいるもののすっかり葉桜になっている。この桜の老木の下には江戸末期に活躍した医者(藩医と呼んでいる)の記念碑がある。読むと種痘を四国で初めて施した人であるという。種痘は天然痘の予防ワクチンのことである。一見、なんでこのお薬師さんの境内にこの人の碑があるのじゃろ。と思うが、よく考えるとなるほどと思う。


 この人は江戸時代の「文化年間」に生まれたが、この時代、幼児の死亡原因で最も多かったのは疱瘡(天然痘)であるといわれている。ワイのチンマイ頃(昭和20後半から昭和30年)には村落のはずれに石を積んだだけの石塔やこけしみたいな小さなおっぞうさん(地藏)があった。祖母に聞くと

「ありゃなぁ、疱瘡地蔵さんや、横によ~けある小さな石塔は疱瘡で死んだ子ぉらの供養のため、おっぞうさんは死んだ子ぉらのおまもりゃ、むかしゃぁ、疱瘡が流行った時は、このおっぞうさんに赤い前垂れ作ってかけて、どぉぉぞ、おっぞさん、疱瘡が軽ぅすんますよ~に、ておがんだもんや」

 このワイのバアチャンの話に、おっぞうさんに拝むが言葉がてくるが、それは、どうぞ疱瘡に罹らないように、ではなく罹って軽くて済みますようにである。江戸時代、疱瘡は麻疹同様一度は罹らなければならない通過儀礼のような(ずいぶん怖い通過儀礼だ)ものでどうしてもかからなければならないならば、せめて軽いことを願い、女の子らは疱瘡の痘痕(あばた)が残らないように願ったのである。それほど疱瘡(天然痘)は蔓延していた。

 江戸期後期、人口は停滞期がつづく、理由として乳幼児死亡率の高さがあげられるが、その原因の一端が疱瘡による死亡である。その疱瘡に罹らないようにするのが「種痘」(ワクチン)である。これは18世紀末英国のジィェンナにより、牛痘(牛の伝染病)から作られたのである。この「種痘」(ワクチン)を接種することにより、天然痘による死亡をほとんど0にすることができるのである。幕末、西洋からその技術が入り、その驚くべき効果に注目した蘭医を中心に日本に広まっていくのである。その四国における先駆けとなった人がこの碑の人物であった。

 あの疱瘡地蔵や石塔は区画整理や新興住宅建設のためいつのまにやら無くなった。今は天然痘も撲滅され(伝染病では唯一撲滅宣言が出た)、疱瘡地藏に平癒を祈らなくてもよくなった。しかし、病気はなくならない。今でもお薬師さんに病気平癒の願をかける人は多い。そのお薬師さんの境内に疱瘡撲滅に努力した先人の業績をたたえる碑があるのはふさわしいことである。

 ところで皆さん、「ワクチン」の語源知ってましたか。英語ではvaccineですが、これラテン語からきています。ラテン語でvaccinus、これは牝牛の意味です。なんで牝牛?それは牝牛の乳しぼり女がこの牝牛から牛痘に罹り、ほとんど症状が出ないにもかかわらず、人の天然痘に対して強い免疫を持つことを、英国のジィェンナが発見したという経緯からきています。どんな連想を繰り返しても、この話を聞かない限りは、ワクチンと牝牛は結びつきにくいですね。

2020年4月13日月曜日

百年前のパンデミク その6 ワクチン、特効薬(?)


内務省衛生局の(スペイン風邪)報告書を読むと100年も昔のことでありながら、とった施策などは今現在大変なことになっている武漢ウィルスによる蔓延の対策と基本部分ではほとんど変わっていない。以前ポスターで紹介したマスクなどを見ると一世紀前とは思えぬそのデザインの斬新さに驚き、また予防注射をしませうポスターなどを見ると、今だ武漢ウィルスのワクチンさえない今より、むしろモダン(すすんでるぅ)じゃないかとも思ってしまう。(そのポスターを再び左にあげておく)

 また人の密集を避ける、換気をよくする、咳くしゃみを手放しでしない、などの啓発、また国、県、民間とも協力し合っての社会的弱者救済の施策も基本は同じである。感染症対策の定石は昔も今も同じだということだろうが、報告書を読んで、百年も昔によくこれだけできたものだと感心してしまう。

感心したことの一つに愛媛県のとった社会的弱者に対する予防接種の費用対策がある。愛媛県は県内の県税免除者(所得が低いため)6万人に対して無料接種を行うことを決め、5班の医療チームを各地域に派遣し、また山村僻地の為には3班のチームを編成し実施したのである。また低所得者以外の人には一回15銭で実施したとある(この時代かけうどん一杯8~10銭)、今の金額だとせいぜい500円だろう。今、わが市で行われている高齢者向けの肺炎ワクチン(武漢肺炎ではなく普通の肺炎)接種料は4000円であるからそれなどをとっても大正期の施策の意外な素晴らしさに驚かされる。

 大幅な外出自粛要請こそないが飛沫感染症のとるべき基本はしっかり取って、なおかつワクチン接種も行って、その結果、この大正のパンデミクはどうなったか?二年間にわたって三回の流行を繰り返し結局終息するが、一度目は全感染者の9割近く、二度目はその十分の一、三度目はさらにその十分の一、で終わってみれば症状のあった患者だけで全人口の6割近くが感染したことになる、その上たぶんほとんど症状の現れなかった人を加えると、この大正のパンデミックは確実に集団免疫ができておさまったといえる。
 
 この大正パンデミックの特徴は初期における患者の爆発的増大である。徳島県において全県民の六割近くがわずか三ヶ月で感染したのを見てもよくわかる。免疫の全くない集団に感染力の強い病原菌が入ればこのようになる。それを防ぐのがワクチンがある。この大正時のワクチンはかなり初期、というよりこの流行以前から流行性感冒のワクチンとして存在していた。大量生産はすぐには間に合わないにしてもすでにあるのだから非感染者がすぐ接種すれば幾人かの感染は免れたはずである。当局もワクチン生産を急がせるとともに接種を上記の愛媛県の例のように推奨したのである。

 当初からワクチンがあったのなら今流行りの武漢ウィルス感染より、有利なはずであるが、ワクチンの生産・接種は爆発的感染に追い付かなかったのである。しかし何度か前のブログでも言ったように、このワクチンは結果としてほとんど効かなかった。だからたとえあらかじめ多くの人が接種していたとしても、そして急速な流行にワクチン接種が追い付いたとしても犠牲者の数は変わらなかったであろう。この報告書でもワクチンの効力については疑問を持っているが、ワクチンが有効でなかったというのは、それからかなり後からわかったことである。

 ワクチンは罹るまでの予防手段である。罹ってから頼りになるのは有効な治療薬である。この大正の報告書にも詳細に述べられている。しかし特効薬というものはこの時代に存在しなかった。タミフルやリレンザという病原体に直接作用して抑える薬は21世紀を待たねばならなかった。では庶民はどのような薬に頼っていたのであろうか。報告書の「療法」(薬)の部の緒言で次のように述べている。

「急性推移し重篤になるのもあるが、もっとも多いのは自然治癒である。このためいろいろな治療法の効果を断定するのはむつかしい。これが諸家が幾多の治療法を提唱している理由となっている。」

 一回目流行時の死亡率は全国平均1.22%、大部分が重症化せずに治っている。庶民が、たまご酒で治ったわ、だの、いんやワイとこは、イモリの黒焼きぃ粉ぉにして飲んだら一発っちゃわ。だの、各種ためした怪しげな民間療法に対する、これが(上記)衛生当局の合理的な説明である。なるほどなと(自然治癒がダントツ多いのだ!)納得できる。

 この報告書ではまず一番目にあげられている療法は「対症療法」である。この医学用語は今でも用いられている。つい最近までは風邪の薬はこれに類するものばかりであった。具体的な薬の筆頭にあげられるのはアスピリンである。あとにその他の解熱鎮痛系の薬がつづくが、筆頭にあげられるだけあり、アスピリンは100年たった今でも解熱鎮痛には普通に使われている優秀な薬である。あと強心剤、栄養剤、痰を抑えたり血管、運動神経に作用するものとしてアドレナリン、やエフェドリンがあげられている。こんな時代からアドレナリンはもちいられていたのだ、とちょっと驚いた。

 この報告書で将来のもっとも希望のある療法として「化学療法」があげられている。なぜ将来希望のある・・といえるのかは報告書「化学療法」の項の冒頭文にこうある

「薬物療法中原因療法的意義に用いられるものを化学的特殊療法と看做し・・云々、」

 今はこのような古めかしい言葉はまず用いられないが、「原因療法」とは要するに病原菌に直接作用、すなわちこれを死滅させるか増殖を抑制する薬物を使うということである。感染症の多かった当時、このような薬は、夢のような特効薬となるはずである。(そのような薬にサルファ剤、抗生物質があるがこれが発見されるのは1935年以降である)現代、細菌性病原菌はこのように直接抑えられるようになったが今もって各ウィルスについては一部を除いてそのように直接作用する薬はなく、今後の開拓が期待されている。

 サルファ剤や抗生物質は大正時まだ発見されていないが肺炎球菌を殺すかまたは抑制する薬として具体的な薬のいくつかがいくつか挙げられている。報告書では当時の臨床医や研究者に、効いた薬で推奨できるもの何か聞き取っている。レミジン(肺炎球菌を殺すとある)を挙げる人が最も多い。他にはけっこう多くの臨床医がマラリアの特効薬である「キニーネ」を推奨しているが、今流行の武漢ウィルスに効いた薬として世界の多くの医者がやはりマラリアの特効薬「クロロキン」を推奨しているのは偶然の一致かもしれないが面白い。
 また当時としては最もよく効いた化学療法薬に梅毒の病原体に作用する薬「サルバルサン」があったが、これを推奨する臨床医・研究者もいた。これなども今武漢ウィルスに効く薬のない中、他の病原体に作用する薬でそちらに効くものを探し出そうとしているのによく似ている。今よく耳にする「アビガン」なども転用薬である。探し求める手立ての方向は百年たってもよく似ているということか。

 結局、当時としては夢のような(病原体に直接作用する)特効薬が生み出されるにはまだ早かった。そもそもこの病原体は細菌でもないから、たとえサルファ剤・抗生物質を用いても効かない、大正のパンデミクの病原体の正体はウィルスであった(H1N1型インフルエンザウィルスということが今はわかっている)。それに直接作用するウィルス薬ができるのはごく最近である。