2012年1月4日水曜日

その後の雪


 昼まで牡丹雪のような大きな雪が降っていたが、正午までには止んだ。

 下は正午すぎ、近くの畑はうっすら雪化粧。
 
  午後から列車に乗ったが鴨島より蔵本・徳島の方が雪が残っているようだった。


 車窓から眉山の雪化粧を撮る。

 『白眉』(←クリック)とは縁起が良い。白く染まった眉(まゆ)山を見ながら思う。

 「故事成語の意味のみでなく、文字どおり皆さんが眉が白くなるまで幸せにあれと願う!」

ゆきのおもひで


 午前九時すぎ、冷たい雨がみぞれに変わった。

 不安定な天気なのだろう、時をおいてみぞれから牡丹雪に変わり、それからまたみぞれ、牡丹に・・・

 眺めていると若かった時、大雪の中の一人旅、そして青春時代流行った歌が思い出としてよみがえってきた。

 それを書いたブログを作ったことを思い出した。

 「あ、もう2年も前になるのだ。せいぜい去年の10月、一年を機にやめようと思ったブログだが、もう2年になるのか。」

 その時のブログを呼び出し読んだ。

 http://koromonotate.blogspot.com/2010/12/blog-post_08.html

 一昨年の12月8日である。読んでみた。

 「ああ、しょうもないことを書く癖は今も同じ、ブログを思い出の繰り言にするのもまた同じ、何年ブログを作り続けても、もはや同じことの繰り返しか!もうそろそろブログをやめる時期かもしれない。」

 今、午前9時50分、まだ雪は降っている。

 青春のおもひでうたの一つを聴く。(ヨウツベ作品から貼り付けました)


2012年1月3日火曜日

徳島冬の風物 デカマスク考


 インフルエンザもまだ流行っていないのにデカマスクをしてる人が増えた。今朝、徳島行の列車に乗ったら車両の半数近くの人がデカマスクをしていた。
 昔のガーゼの小ぶりのマスクと違ってこのデカマスク、使い捨てで衛生的、30枚束になって百数十円という安さなのでみんなこれをしている。デカマスクと私が名づけたのは顔の下半分以上覆うのに加え、あごの下までマスクがぴったりとフィットしている。これで冬のニット帽を目深にかぶるともう目以外は顔はすべて隠れる。

 このようにやたらとマスクで顔をほとんど隠す人が(意図せずとも結果的に)増えた。特に徳島は多い気がする。
 この現象、文化人類学的にどうなんだろ?小難しいことはわからぬが、流行しているのはどうも日本、韓国(たぶん日本の真似だろう)の地域だけである。

 今のとこまったく流行性感冒がないにもかかわらずマスクが、それもデカマスクが多いのはどうしてだろう。
 世界的にこんな現象はないので、アメリカの人にこの流行現象を聞くと、やはり異常に感じているそうである。
 「アメリカではこんなデカマスクはしないのか?」
 と問うと、かなり重症の呼吸器系の病気の人はするそうだが、そんな重症の人は、街中をひょろひょろ歩いたりしないそうである。だからまずないそうである。
 じやあ。ファッションとしてはどうかと聞くと、
 こんなデカマスクをして、銀行や公共の場所はもちろんの事、ちょっとした店に入ろうものならセキュリティチェックに引っかかり、ポリスやガードマンに取り囲まれるそうである。

 「確かにそうだ。」

 以前から感じていたが、デカマスクで自分の顔を分からなくするのは、その人は気色よいかもしれないが、対する人は少し不気味である。
 しかし平和で温厚な人の多い日本では取り立ててやかましく言わないようである。世界的には顔がわからないデカマスクをしてピンコシャンコ元気に動き回るのは「胡散臭い奴」と見られるのが当たり前で、容赦なく、会見や入場を断られるか、「マスクをとって顔を見せてください。」とはっきり言われるでしょう。

 日本だと仮病とわかっていても
  「ゴホンゴホン、すんませんねぇ~~、ちょっと風邪気味なものでね、こんなマスクしてます。」
 で許されますが、世界の常識では

  「デカマスクをするほどの症状なら、どうぞ病院へ行かれるなり、ご自宅に帰るなり、どうぞお引き取り下さい。」
 ぴしゃりといわれてお終いですからね。

 まあ日本の常識は世界の非常識といわれますが、最近は日本の皆さん誰でも世界旅行に行ったりしますので世界的なスタンダードはそうであることを忘れぬ方がよろしいかと思います。

 ところでなぜ風邪でもないのにデカマスクをする人がいるのかちょっと考え、いくつか理由をあげてみました。

 1、寒いので顔を大きく覆うデカマスクをしてる(一番多い理由じゃないかな)

 2、とってもシャイなので顔を見られるのが恥ずかしい(この人は盛夏でもしてる可能性あり)

 3、何かの原因で顔を隠さねばならない(平気でデカマスクができるこの時期、プチ整形にもってこいかも)

 4、2と逆で自分の美しい顔を人に見せるのが勿体ないと思っている。見せるのはダーリンだけよ!というほとんどアラビアンナイトの世界。

 5、口が臭い、あるいは口臭があると思い込んでいる。

 6、皮膚をできるだけ外気、あるいは太陽光線に晒したくない。(けっこう多いと思いますよ、今の太陽光が一番弱い時期、平気で日傘をさして街を練り歩いているおばはんがいますから)

 くらいでしょうか。

 ここで是非、やまさんの好みというか希望を述べさせてください。

 「年配の人はどうぞおやりください。でもね。素顔が一番美しい時期の17や18の若者がするのはよくありません。自然の摂理(なんとおおげさな!)に反しています。病気の人以外は素顔にしましょうね。お願い。」

 それにしても目だけが出たデカマスクはほんとに異様な気がしますよ。
 昔、ガキの時分、白黒TVで「ナショナルキッド」というヒーローものの草分け番組があったが、そこに散髪屋の制服みたいなのを着て、デカマスクをした宇宙人が出てました。

 そして宇宙語で「ケタケタケタケタ・・・・・」とか喋ってましたが、
 デカマスクを見るといつもその宇宙人を思い出します。

 どうしても流行でやむを得ないんだったら、あのでかい白マスク、せめてもっと創作的なデザインにしたらどうでしょう。

 そこで以下はやまさんのアイデアです。皆さん、商標登録はしませんのでご自由にお使いください。

自然体マスク、(ちゃんとした口を描いてある)
三つ目タイプ、(霊視できる第三の目をデザインしました)
言わざるマスク、(おしゃべりな人に口、ガムテープ!)
宣伝口コミタイプ、(若干宣伝料が入る)
アイデンティティタイプ、(誰かがわかるマスク)
愛国者タイプ、(国旗をデザインしました)

1月3日 今日のニュース雑感


さすが平和な日本、警察も吉本新喜劇を演じだした。
 オウム真理教信者の手配犯、平田信容疑者が年が変わるわずか10分前に自首してきた。本人が自首した動機をいろいろ言っているが、それは今のところどうだかわからない。
 逃亡に疲れ、自らのこれまでの境遇に対し思うところあり出頭したのなら、なにか人間ドラマになりそうなものを感じる。
 しかし、冷徹に考え本人、あるいは何らかの組織が計算ずくで自首の道を選んだのかもしれない。だが、これはこれでまたサスペンス的なドラマになりそうである。

 喜劇を演じたのは警視庁である。
 「特別手配の平田です。」
 と名乗ったにもかかわらず。うるさがってか
 「あっちの方の警察署の方がいいんでないかい。」
 と追っ払ったとか。

 この平田、いたるところに写真ばかりか等身大の写真パネルを人型に切り抜いて立てかけてあったのに、警官がわざわざ目の前に出頭した本人を、まるで

 「あっちへ行ってんか!シッシッ」

 これは関西の吉本新喜劇の一シーンとしか思えない。

 警察も新年の『初笑い』を提供してくれた。

ブッチャーが引退した!
 プロレス全盛時代、楽しませてくれた人だった。とっくに終わっていたと思っていたのに

 「え~~~!引退ということは今まで現役だったの?」

 プロレス界のご老人を大切にする風土には以前から敬意を払っていましたが、いいですね。やまさんもご老体ですから、こんな風土が広がるといいですね。

 なにせジャイアント馬場も最後は「アッ~~ポゥ~~」とかいいながらよぼよぼの感じでしたがプロレス界の大御所として大切にされましたものね。

 『ブッチャーさん、ご苦労様でした。』

2012年1月2日月曜日

光と闇


 昔は少々小難しい本でも集中して一日で読み切ったのを考えると、この歳になって、ホントに本が読めなくなったと情けなく感じている。もう3週間になるというのに図書館で借りてきた本が全部読めない。
 今までに読んだのは五分の一ほどである。面白いのだが、ギリシャやメソポタミア、ペルシャ、ユダヤの旧約聖書、そして新約聖書の話など各地の古代文明の神話が本の筋の展開として豊富に入っている。そのためかなり長いその挿入部分の話を読まなければ理解が次に進まないので厄介である。
 まったく違う文明圏の古代神話が次々と出てくるのを、本の筋の流れを踏まえたうえで、全体的に把握しながら読むのは相当な知的作業である。

 面白そうな本の題『グノーシスの神話』という名前に魅せられて借りたがなかなか読めないので後悔している。しかしとっかかった以上最後まで何とか読みたいと思っている。(断片的な理解になっても)
 題の下に出版社が小さく書いてある。今になってみるとこれ「岩波書店」である。この本屋、新書以外は小難しい本ばかり出している。大学のテキストに好んで使われたりする本屋である。
 ちょっと意地の悪い捻くれた私などから見ると、わかりやすくい話を無理にわかりにくく難しくしたような本ばかりを出版している本屋ではないかと思ってしまう。

 「まあ、頭の悪い私のひがみでしょうけど。」

 もう洪水のように次々とあふれんばかりの古代文明各地の神話、そして思想が入っているこの本を私のような理解が良くないものが読むうえで手掛かりになるのは本文にある「キーワード」である。
 しかし、本に「みなさん!これがキーワードですよ!」と書かれているわけではないから、当然自分で見つける。この時、著者の意図と違う「キーワード」を見誤って頭に入れれば、とんでもない理解に終わってしまう。
 おそらく、難しい本を無理して読んだときは、誤った本の理解に終わったことは、私自身多いと思います。

 それで五分の一ほど読んで一番頭にこびりついたキーワードは

 『光と闇』、『物質と霊』、『善と悪』

 これらの3つキーワードは二つの言葉が合わさっていますが、3つとも前者後者それぞれ相似形になっています。
 グノーシス主義がどうも二元論であるということはわかるのですが、本を全部読めてない今、判断するのは早計かもしれません。

 「何とか最適な読書環境を整えて集中して読まねばイケない」

 と思いつつ昨夜もDVDを見たり、ネットで遊んだりで読み進みませんでした。

 そして今朝未明、目覚め、それまで読んでいてキーワードとして頭に入れてあった『光と闇』についてある実体験したことがよみがえってきました。

 目覚めは6時前、6時過ぎると窓を通して薄明るくなると思っていたのですが、何分たっても明るくなってきません。布団の中から窓明かりがみえるため早く目覚めたときは窓が徐々に薄明るくなるのが見えます。ところが今朝はその時刻が来ているはずなのに明るくならない。
 布団の中でもじもじしながら、頭もまだ目覚めていず、ボーっとしていたのでしょうか

 「このまま闇が続いて明けないのではないか」

 という恐怖にとりつかれました。

 「まだ明けない。まだ明けない。いったい何分待つのだ!」 

 皆さんは真の闇の恐怖を感じたことがあるでしょうか。全く光のない地下のトンネルに生き埋めにでもならない限り、まずそんな体験はしそうにありませんね。夜でもいたるところに遍在(偏在とは違いますからね。念のため)する人工の灯りの為、闇もその存在を失いつつあります。今の人々に闇の恐怖などいってもピンとこないでしょう。

 わたしは50年ほど昔、近い体験をしたことがあり今でもその恐怖はこころの中に残っています。小学校3年生くらいの時、親戚の大きな百姓家に泊まったとき、慣れない寝具、環境だったせいか、深夜、いや未明に近い頃、いつもは明るくならなければ目覚めないのに目覚めてしまったのです。母屋の奥の奥の部屋だったため多くの襖が閉(た)てられていて、夜の星明りの微かな光さえも届かない空間でした。

 目覚めた時、真の闇、でした。私一人が座敷に寝ていたため誰もいません。その時の恐怖、なんといっていいかわかりません。
 引きつったような大声、たぶん泣いていたんでしょうね、で叫びました。しかし、反応はありません。それが闇の恐怖を倍加させました。非常に長く感じられたそのあと、ようやく家人がやってきて電灯を付け、闇から救われました。
 そのあとの記憶はありません。

 生きることの対極にある「死」というものはこんな「真の闇」が永遠につづくことなのではないのか、というような恐怖が、そして「死」というものが絶対拭い去ることが出来ぬものだ、ということがやんちゃな子供の心に兆した最初の経験だったように思われます。

 夜の闇は明ける前が一番深いといいます。いつまでも明けぬ暁闇にそんなことを考えていました。

 冬至を過ぎても夜明けはどんどん遅くなっていきます。そして明日から13日くらいまでがもっとも一年で夜が明けるのが遅くなるそうです。

 7時近くなりようやく窓が明るくなりました。今朝は雲が厚いこともあったんでしょうか。明るくなるのがずいぶん遅く感じました。

 「ああ、朝の光のなんと素晴らしいこと、闇の恐怖を一度でも体験したことのあるものは光のありがたさは何にもたとえがたいものです。」

 光と闇のゾロアスター教はグノーシス主義とよく似た二元論に立つ宗教です。光と闇の二神がいます。
 その光明神は「アフラ・マズダ」。
 その始祖は「ツァラトゥーストラ」。

 聞いたことありませんか?年配の人なら東芝の電球の商標名は昔、マツダランプと言っていたのをご存知でしょう?この「マツダ」、光の神のアフラ・マズダのマズダから来ているものです。
 もう一つの「ツァラトゥーストラ」を知らないという人の為によく知られたBGMをご紹介します。
 題名は『ツァラトゥーストラはかく語りき』


2012年1月1日日曜日

午後の部はアクシデントでようブログにせん!午前の私一人の巡礼のみアップします

白髭のじじいでござい~


 効率と合理、若さが幅を利かす現代社会。やまさんのような惨めったらしい白髭の爺なんかまったく価値のあるものではございません。
 ましてやこのじじいをもてはやしてくれることなどあろうはずはござりませぬ。

 しかし、昔から新年を寿ぐ能の『翁』の舞いは「白髭のじじい」と決まっております。

 「なんで?」

 あらゆることに生きにくかった昔、白髭のじじいになって、腰も曲がり、よぼよぼでも、それは、有り・難い、長命のしるし。短命で死ぬものが多かった時代、長く生きた白髭の爺はめでたく、神々しいものだったんですね。

 そのじじいが天下泰平、五穀豊穣、千秋万歳を寿ぐことはまったくもってふさわしいことだったんですね。

 昔の日本人は翁(じじい)と幼い子どもに神性を見たといわれています。

 「ああ、やっとやまさんの出番が正月に訪れた!」

 そこで遠慮なく、白髭のじじいとして罷り出でまして皆様方の御健康、御長命、御幸福を祈念いたします。