2011年6月20日月曜日

川の水嵩が増した

 我が家は川に面している。朝からの雨で水嵩もご覧のとおり、道路が冠水することも一年に一度くらいはあるが、今回はそれはないだろう。午後から小雨、止むところもある、と予報でいっていたから。

 家を建ててから幸い敷地まで冠水したことはないが、近年、大雨傾向の異常気象が続き、各地で降水記録を更新してるから、今後はわからない。
 河川に面した土地を宅地造成して盛り土した土地だから、最近言われている南海大地震が起きれば液状化で基礎土台がぐちゃぐちゃになり、たぶん家は崩壊すると思う。

 せめて私がめでたく旅立つまでは、冠水も土台崩壊も起きて欲しくない。

 また、コーヒを飲む。ションベン製造機になる。

 この写真を撮ろうと外へ出たら、もう中学生が下校していた。警報が出て放課になったようだ。

 まだやみそうにない大雨、カミナリさえはためき鳴り渡っている。

ながせ、こんな言葉使うの俺だけだろな

 雨の季節も、しとしと雨も嫌いじゃないけど、こうも毎日つづくとうんざりしてくる。今朝は目覚めたときから
 「ドチャー」
 という音が聞こえていたくらい強い雨。
 明治生まれの祖父母は梅雨のことを
 「ながせ」
 と言っていたがこの言葉の持つ響き、ぴったりだ。だが今こんな阿波弁使う人もいまい。

 頭が痛い。なにもかもぼんやりしてる。
 とりあえずコーヒを作ろう。

 雨の一日、何をするにしても頭だけはシャンとせねば。

2011年6月19日日曜日

長いのはいかんなあ

 毎日暇な上に雨が降り続き、外へ出れなくて家で過ごす時間が多くなる。いきおいパソコンに向かう時間が長くなり、それに伴って、ブログも長くなる。冗長なブログは書かないようにしようと思ってもくだくだと書いてしまう。

 作文技法の上手下手、また内容の質はおくとしても、一番大事なことは、伝えたいことを文章にできているか、そしてそれが読み手に伝わる文章か。の2点である。くだくだと長くなると幹より枝葉が多くなり、幹が隠れてしまう。伝えたいことが幹とするとそれは隠れては困る。
 「だから長々しいのは、よせ。」ということである。
 
 まあ、それ以外にも筋道のしっかりした論理的な文章を書くよう目指せという人もいるが、これについては言い訳がある。
 私のブログはあくまでも「日記」である。日々心に思い浮かんだことや、日々の出来事を見、感じたことを思いのまま書き綴れるものとして「日記」の様式を選んだのである。
 小論文を書くわけじゃないので、気の向くまま、心の向くまま、一貫性のない叙述だって許されるはずだ。
 「夢日記」というのをつけてる人がいると聞く、自分の見た夢を朝起きると忘れないうちにすぐにノートに書くそうである。この日記などは論理矛盾、筋の破たん、何の脈絡もない唐突な展開ばかりだろう、だってそうじゃなきゃ、「夢」ではない。

 ほらほら、私の文の悪弊として言った通りになってる。何が言いたいか「幹」の部分がかくれ、夢日記などと枝葉の関係ないものが混ざってきている。そのようにうだうだ書いてるからまた長くなる!

 結局は、つれづれなるまま、思い浮かんだことを書き散らす日記ということで筋、論理からは外れていますのでご承知ください。

 それにしても、歴史上も今も日本人って人に読まれることを前提に書く「日記」だの「ブログ」だのが好きですね。
 当たり障りのない花鳥風月などを書いてる日記も多いんですけど、中には赤裸々なのもありますよね。私もその傾向がなきにしもあらず、なんです。
 そんな日記を人に読んでもらうことを前提に書くって、悪く例えれば、自分のマスターベーションを人に見せたがっているようなちょっといやらしさを感じるんですが・・・いやいや、こんなたとえ話、考えてはいけませんね。

 今日から少し短く簡潔に書こうと思っている。

あじさいの季節      
 欧米などでは6月は一番明るい季節なのに今日も雨空で陰鬱である。しかし厚い雲や雨で暗く、じめっとすればするほど何故かあじさいは冴えた美しさを見せる。
 蛍光のようにまわりの光を受けた以上に光を跳ね返すような花弁のためだろうか。

 公園であじさいを2枚撮影した。上は「ガクアジサイ」、下は柳の根方の「赤いアジサイ」
どこも今アジサイがきれいである。

 「アジサイの花ことばってなんじゃろ」

 家へ帰ってネットで調べるとなんと10以上もある。目を通してみるが、私にはピンとくるものがない。
 だから私は自分で「花言葉」を作ることにした。漢字2文字で次のようにしました。

 「微」     

 アジサイって土地の性質によって色が変わっていくし、なかには千変万化し、白~青~赤~紫のグラジュエーションを見せ、えもいわれぬ色の乱舞になるのもあります。
 この変化する色を断定的に割り切り表すことは無理があります。それこそ「微妙」な色の味わいを感じて欲しいものです。

 日本的な美の形容詞に
 「微かなる」(かすかなる)、沢の蛍の微かな光・・・
 「妙なる」(たえなる)、妙なる琴の音・・・
 があります。この2つを結びつけたものが「微妙」なのです。

 花々や新緑が輝くように美しかった初夏とぎらぎらするまぶしい真夏に前後を取り囲まれ、しっとりして少し暗い今の季節、美しく咲くアジサイに「微妙な美しさ」の言葉を与えたいと思います。

2011年6月18日土曜日

デジタル人間、アナログ人間、いいえ私はアナクロ人間

 去年の秋からネットを家に引いてやっています。
 最初は、9月からIT職業訓練校に入学するので去年の8月に初めてPCを購入しました。その時はネットは引くつもりはありませんでした。
 主にワード、エクセル、パワーポイントの技能を身につけるのが目的でした。そのためインターネットについてはやるつもりはありませんでした。

 ネットを引いたのはこの時通っていたITの職業訓練校の先生の次の一言でした。

 「ネットを使いこなせるようならなければパソコンができるとは云えない。」

 訓練が始まって1か月たっていました。その時までに、ネットにつながった訓練校のPCを日々動かしていて、ネットにつながっていなければオフィスの機能も十分に発揮できないと自分でも強く思い始めていました。
 ワードで作った文章の中のちょっとした絵、クリップアートを入れるのにもネットにつながっていなければ手に入りませんものね。
 家のPCのみでオフィスの練習したところで、ネットの絵、動画などの情報が手にいらなければ、
  
 「なんも、面白っしょない!」

 それに訓練校でMOTOさんやあさとさんから、You tubeの使い方(この時はこんなことも知らなかったんですよ)を教えてもらい、演歌、古い歌、などを聴いて

 「You tubeを家でやりたい」

 と動機が高まってましたからね。
 結局、先生の一言が背中を押しました。
 それで毎月の使用料を覚悟の上で10月からネットをひいて、今日に至っております。

 しかし、ネットでやることは、訓練校で教えられたことのみで、新しい冒険はほとんどしません。ブログを作り、そのコメントを通じて訓練校の仲間のみとのコミュニ。若干の友とのメール。ネットでの調べもの。You tubeで音楽を聴くこと。
 これらは全部授業で教えられたことです。

 唯一、自分でダウンロードして『グーグルアース』をやり始めましたが、慣れないことは自分勝手にするもんでない。なにか恐ろしいネット上のトラブルに巻き込まれ、アイコンもソフトもフェイドアウトしてしまいました。

 「かんにんして!もう、二度とせえへんから。」

 もう新儀の冒険はこりごり、新しいことはやめました。だから、オークション、ネット販売、旅行、クーポン、などなど、ネット上のそれらは今までやったことがありません。

 若い人は笑うでしょうね。だって、こんなデジタル世界、死ぬまで縁がないと思っていたんですよ。それがたまたまひょんなことからIT職業訓練をすることになり、思わぬ世界へ踏み入りました。
 しかし、ずぶずぶのアナログ人間どころか、考え方などはアナクロ人間(アナクロニズム・時代遅れ時代錯誤)。習った決まりきったことしか今までできていません。

 昨日は、清水の大舞台から飛び降りる覚悟、で新儀の挑戦を恐る恐るやりました。
 それは新しいブログ(今まではJメイトの仲間内のみ)にコメントを載せることでした。タヌキのジョージ君が最近出番が少なくなっていました。昨日は久しぶりにブログに姿を見せたので、どうしてもコメントを入れたくなったのです。

 ずいぶん迷ったのですよ。新しくアクセスしてなにか恐ろしい破壊的なことに巻き込まれはすまいか。画面が爆発するような最強のウイルスに感染はすまいか。
 でも、このブログ、K市の商工会議所が作成してるから、思い切って信用することにしました。新規コメントの前に、名前、メールアドレス、ウエブサイトを入れるときは、心臓が早鐘のように鳴り響き、手に汗握りました。承認コメントだったのでその時はまだ入りませんでしたが今日見るとコメントが入ってました。

 「ひとまず、ホッ」

 ああ、新しいとこに、つながった。感動です。
 お若いデジタル人間から見るとほんと馬鹿なこと、でしょうね。

 デジタル人間といえば今日テレビで「デジタル美少女」を見ました。おぶけたので紹介します。信じられませんでしたが、真実、デジタル美少女らしいです。
江口Imeちゃんというそうです。びつくりするような美少女です。某製菓会社のCMにも出てるそうで、動画なんか見ると実体のある少女と見えるんですが、これCGらしいのです。まさに「デジタル美少女」です。悪く言えば合成人間、まがい物です。(実名、写真を載せればいいんでしょうが、この美少女のグループ、若い人たちに物凄い人気らしいのです。うかうかブログに載せて、あやしげぇなオタクとやらに因縁つけられるのも剣呑なのでこのようにしました)

 もうついていけれませんわ。やがてこんなデジタル美少女に恋をする若い男も出てくるのかね。アナクロ人間のやまさんには

 「知らない世界じゃ」

 といいつつ、わっしの好きな春日八郎の「長崎の女」、歌いよる「初音ミク」あれもデジタルじゃそうな。

2011年6月17日金曜日

神農さん

 しょうもない言葉遊びにちょっと付き合ってください。

 まず、反対語からいきますよ。
 「苦しいのはいやじゃ~ぁ」の「苦」
 で、苦の反対は
 「快」のような気もするが、「苦楽」という言葉があるから
 「楽」

 ところで「苦」っていう字、分析的によく見てください。くさかんむりがありますね。「苦い」と送り仮名を打てば「くるしむ」から「にがい」になります。くさかんむりからもわかるように「苦い」はもともとある植物を舌にのせた味から来ています。
 センブリ、リンドウはおそろしく苦く、何千倍に薄めても苦みを感じます。

 植物の中にはアルカロイドという化学物質が含まれているのが多いんですが、この化学物質は人間の体に何らかの作用をもたらします。それがどのようなものかその植物を初めて口にする人間にわかるはずはありません。ひょっとして心臓を麻痺させる効能かもしれません。
 このアルカロイドは苦みを感じるものが多いのです。

 人にとって怪しい作用の化学物質を含む植物、人の体はこれを警戒して、このような化学物質に対しては、舌が苦みを感じるようになりました。
 つまり苦みは「甘、辛、酸」と比べ、「警戒」の味なのです。

 だいたい率直な子供などは「苦い」となれば吐き出します。「苦い」は毒の場合があるから「苦しむ」を本能的に避けるんですね。苦いと苦しいはこの意味で関連した文字ですね。

 長々と「苦」について説明しましたが、じゃあ反対の「楽」。
 いいねぇ~、苦なんかはお付き合いしたくないが、楽は大歓迎、死ぬまで添い遂げたいわ~ぁ。

 「苦」の味は「苦い」でしたね。じゃあ「楽」のお味はなんかなあ~?「甘い」いえいえ、違います。
 それでは「楽」を味わいましょう。
 って、なんで?「楽」ってか、そんなん、実体がないわ!

 じゃあ、無理に実体をつけて味わいましょう。「苦」のようにくさかんむりをつけると、味わえる植物に変化するかな~?「楽」にくさかんむりをつけると・・・・・・・・・・・

 おお~!「薬」じゃ。

 苦を取り去り、楽を与える植物、それが「薬」ということなのです。

 面白くない言葉遊びにつき合わせてすんませんでした。

 今日はその薬になる植物が何百種類もある「植物園」を見学してきました。蔵本の薬草園です。
最近は純粋な「化学物質」ばかりの薬になり、薬用植物なんかは「漢方」以外ではあまり用いられませんね。
 でもやまさん、化学物質の薬より、薬用植物の薬が最近どんどん好きになってきています。くすりは文字通りくさかんむりの薬用植物でなければ本もんじゃないとまで思っています。

 「アホなこというな!癌にそんな薬用植物なんか効くもんか」

 ちょっとまってくださいよ。そもそも癌に特効薬ってあったっけ?ないでしょ。五十歩百歩のちがいじゃないですか。

 またロマンの話になりますが、わたしね、こういうこと想像するんですよ。
 どこか異界、それはアマゾン、アンデス、ヒマラヤ、中米かもしれない人跡未踏の奥地に誰も知らない植物があって不思議な薬効を持っている。その中には癌に効くのがあるかもしれない。
 うれしいことに地球にはまだまだ知られていない植物がたくさんあります。とくに熱帯雨林、高山植物の中などに奇跡の植物種が存在することは大いにあり得ます。

 インディー・ジョーンズじゃないけど若ければ探求の旅に出たいね。そして自分でその植物を舐めて第六感で確かめたいね。

 紀元前数千年前に中国に「神農さん」という人がいたそうです。体が透明で内臓が透けて見えたそうです。その人がいろんな植物を舐めて薬を発見して人に教えたそうです。内臓が見えるから、その色や動きで毒か薬かわかったそうです。まるでモルモットのような人ですね。 

 私も年齢を考えて、四国山地ぐらいならと、山を駆け回り、植物をねぶりまくり、薬を発見しようかと考えています。
 不老長寿はちと無理にしても強壮・回春ぐらいは・・・
追記  
 そうそう、奇跡の薬用植物と言われたマラリアの特効薬の「キナ」は、インカ帝国からマヤ帝国の版図のなかに自生してるって聞いたことがあります。
 マラリアなんぞ罹ったことないからわからないけど、ほんとの特効薬だそうですよ。
 「だからさぁ~、探せば他にもあるって。」

 あ、またまた思い出したことがあります。この「キナ」。マラリア以外にも妙な使われ方をするって聞いたことがあります。効能は「子宮収縮剤」。
 ということは・・・・・中条流、月水早流し、こおろし丸、
 ひえ~、ちょっとこわい、これも薬になるんでしょうか。

2011年6月16日木曜日

映画からお勉強する古代アメリカ文明

 「アポカリプト」の映画は作られた時から、史実として存在した2つの文明を混同しているという指摘がありました。「マヤ」と「アステカ」です。映画はマヤ語でつくられていたため、マヤ帝国か、と思うのですが時代を見ると(スペイン人が最後登場する)これはアステカ帝国です。

 しかし、どちらも古代アメリカ文明に違いはありません。多くの部分で共通するものがあります。今日は、できるだけフィクションは排除し、この映画からわかる古代アメリカ文明の特徴をとりあげます。見終わった感想なども交え、お勉強できたことをブログにまとめました。

金属の利器  
 最初に映画のワンシーンをご覧ください。右の戦士の右手に持っている武器にご注目ください。
映画ではこのナイフ状の武器のアップシーンもあるのですが、これではちょっと見にくいかもしれません。
 これは金属ではありません。石器なのです。黒い色をしてますね、これは「黒曜石」からできています。

 「なんでそんなこと断定できるんじゃ!おまいは小道具係のスタッフか?」

 と言われそうですが、これは石器をホンの少し勉強したことある人ならすぐわかります。鋭い刃をもつナイフ、矢じり、槍などに多く使われます。
 「黒曜石」は天然のガラスなのです、割れ目が極めて鋭く鋭利になります。皮膚、肉などは容易に切り裂けます。割れたガラスでけがをしたことのある人ならその切れ味はよくわかると思います。

 よく切れる刃を作るのに必要な黒曜石は珍重されました。だから古代はこの「黒曜石」は交易品として非常に貴重な価値で取引されました。
 しかし、帝国は広範囲を支配におさめ、黒曜石も独占的に所有したのではないかと思っています。

 この映画で見る限りは金属器は使っていません。実際に古代アメリカ文明は金属器は装飾品の金銀、若干の自然銅が知られていただけで、利器として金属は使用していません。

 新石器時代と古代文明との違いは利器が石器か金属かといわれています。これでいうと古代アメリカ帝国は旧大陸でいう古代文明の入り口近くの段階にあったといわれそうです。しかしこれは、あくまで旧大陸の文明基準です。金属器は発達しませんでしたが、他の分野では旧大陸の古代文明と同等かそれ以上のものもありますから、金属器の有無だけでは一概に判断できません。

疫病およびシャーマン  
 捕えられた主人公が帝国の中心部へ向かうとき疫病の村を通りますね。疫病でばたばた村人が大量死しています。
 「疫病・パンデミック」
 これも古代文明を語る上で重要な要素です。

 人類史上、最初の文明は都市に人を密集させ、通信・交通手段網を築きました。人の集中、広範囲にわたる人の大量かつ速い移動は、今まで地域限定の風土病にしかすぎぬ伝染性の病気を帝国全土、そして古代世界すべてに広がる「パンデミック」という恐ろしい病気に変えていきます。
 伝染性の病気は広がるにつれ、DNAを変質させ、より感染性、致死率を強めていきます。

 文明は人類にとって「最大多数の最大幸福」という面も持っていますが、パンデミックによって文明人口の大半が死亡するというリスクも負ったのです。

 さて、映画です。よく見ると死亡者、瀕死の人、少女の顔や皮膚にに痘瘡状のたくさんのポツポツが見られます。発疹よりもかさぶたに近いでしょうか。
 このような症状が出て、死亡率が高いので思いつくのは、「天然痘」と「麻疹(はしか)」です。この映画ではこれ以上詮索は無理ですが、私はこれは「天然痘」を暗示してるのではないかと思います。
 確かに天然痘は旧大陸の病で、最後のシーンでのスペイン人の遭遇がありますから、この時点の感染は早いのでないかとも考えられますが、征服の20年前からスペイン人は、小規模な上陸をしてますから大規模遭遇以前に疫病に感染するのはあり得ます。

 抗体の全くない民族の「天然痘」「麻疹」に対する感染率・死亡率の高さは身の毛もよだつもので、全部落絶滅もあり得たのです。
 一説にはこの2つの疫病でアステカ帝国地域の人工は20分の1になったといわれています。これなどを知ると、スペインのごろつきどもより疫病が文明を滅ぼしたという面が強いです。

 そして少女が憑依して運命を語ります。この憑依状態の女性をシャーマンと呼びます。科学的にはヒステリー症状というらしいのですが、私はそんな科学的な割り切り方は支持しません。
 古代社会ではシャーマンは重要な地位をしめます。日本の卑弥呼の例でもわかりますね。神権政治にシャーマンはよく登場します。
 特に北方アジアの女性遺伝子にこの素質が多いのではないかと独断的に思っています。この少女の遺伝子の中に氷河時代アジア北方から渡ってきた遺伝子が紛れ込んだとしても不思議ではないと思います。
 結果的に予言は恐ろしいくらい当たります。熱に浮かされた少女が突然憑依するところは、じわ~と後から効いてくる恐ろしさがあります。

 「ほなけど、白人たちの観客にこのシャーマンの意味わかるんじゃろか。疑問じゃ」

人身御供  
 さぁさ、寄ってらっしゃい。見てらっしゃい、世界の不思議、驚異の世界、神の祟りか、因果の報いか、ここに出でました人身御供。胸をザックと切り裂き、心臓を抉り出せば、まだピクピクと・・・・・・・

 と前口上を張り上げたくなる。映画の中の最大のハイライト。
 あまりのむごさに顔をおおう人も、しかし、たいがいはおおった手の指の隙間から覗いてます。

 「ひどい、ひどいわ~」
 「極端に残虐すぎるんじゃないか」
 「こら~!オカルト、スプラッター映画か、たいがいにせい」

 とお叱りを受けそうなシーンですが、細部はこだわらなければ完全な史実。このような方法で毎日、いいですか日替わりですぞ!このような方法で人身御供されてました。
 古代社会では驚くべき数の生贄、王の死後、多数の殉死者を出すのは一般的でした。
 中国の古代社会の殷の「殷墟」の墓では、1000体近い殉死者が一緒に葬られています。まあ、どこもこんなもんです。

 決して誇張とは考えないでくださいね。アステカでは上のイラストに見られるように同じことが繰り返し行われていました。(この絵は高校の世界史の教科書からとったからまず間違いはないでしょう)


とうもろこし畑
 主人公が広い闘技場のようなところに引き出され、槍や弓で犬追物にされなぶり殺しに会うシーンがありましたね。
 覚えてますか、思い出してください。
 唯一、逃げられるとしたら、はるか向こうに何やら人間の背丈より大きい、黄色く枯れた、茎と葉の植物の畑がありましたね。実際、主人公はそこへ逃げて助かるんですけど、これはトウモロコシ畑です。

 監督は意図してこのシーンを設定したのかどうかわかりませんが、これもアステカ文明を象徴するものです。

 最初の文明は、野生種から穀物を発見し品種化し、それを灌漑技術の助けなど借りて穀物を大量生産し、その余剰の上に成立しました。
 このアステカではその穀物は「トウモロコシ」だったのです。だからトウモロコシは文明を下から支えるもっとも重要な生産物なのです。

 さらりとトウモロコシ畑を入れてますが、やまさんは見逃しませんでした。


白い人々の先頭に立つ人は 
  主人公が最後に海岸で目にするもの、それはこの文明の未来を暗示するものでした。
 ヨーロッパの外洋帆船が沖に停泊し、そこからボートがこちらへ漕ぎ渡ってきます。アステカの人が「白い人」と呼んだスペイン人です。この文明には言い伝えがあったそうです。「白い人に征服される」と。そのとおり征服され滅亡するのです。

 このボートの先に十字架をもって乗っている人、他の乗組員とは違った格好をしています。宣教師と思われます。
 新大陸の征服地に真っ先に送り込まれるのはこの宣教師だったのです。ヨーロッパ人らにとっては無知蒙昧な土人に福音を伝える役割でしょうが、アステカ人には不幸をもたらし、アステカの神々にとっては悪魔でした。

 他の神々を許さない一神教で強い折伏(屈服させ信じさせる)の情熱を持つのがこの時代のカトリックの特徴です。その神の先兵が宣教師です。
 力による支配を背景にどんどん信仰を教え広めます。今現在、インディオを含め中南米はほとんどがカトリックなのを見てもわかるでしょう。

 宗教活動が悪いとは決して言いませんが、文明を滅ぼす軍隊の先頭に立ち陰に日向に手を貸したことや、排他的独尊的な教義を押し付けたため、多くの神々とともに文化まで破壊し去ってしまったのは、許すことはできません。

 「野蛮、異端」

 のもとにどれだけの文化・文化財が世界から失われたでしょう。本当に残念です。

 監督は白い人々のシーンの意義を十分認識した上で、最後に持ってきたと私は思っています。この最後のシーンを破壊荒廃をもたらす象徴と受け取った観客は私以外にも多くいるだろうと信じています。

最後に    
 映画はサバイバルアクションの範疇に入るのでしょうが、ヨーロッパの影響が入る前の古代アメリカ文明とその辺境という時代・場所設定がされていたためか、最初からそのようなアクションものとしては見ませんでした。
 この主人公もハリウッドにありがちなスーパーマンのようには描かれていません。けっこう弱さのある人物として登場しているので親近感を覚えます。

 マヤ語で「立て、立て」と言ってるのがありますが、聞くと日本語で「立て」と言ってるように聞こえました。似てる言葉のように思います。

 男はみんなお尻丸出しのふんどしで全裸に近い格好。でもすごいファッション性を感じるのは、みんな体にペインティングしたり、痛いのに穴をあけて耳輪、鼻輪、口輪、頬輪を思い思いにしてるからでしょうか。男のじゃらつかせるネックレス、ブレスレットも魅力的。

 これ、すばらしいクールビズだわ。おっさんおばはんは遠慮していただくとして若い日本の男女もこんな「アステカファッション」、流行らんかいなあ~。

 水中出産シーンもたまげました。水中で胎児を

 「チュドーン!噴出」

 そして、怖いけどなぜか笑ってしまう遊園地のお化け屋敷のようなシーン。これこれ。
笑うてはいかんと、理性は命じるが、笑ってしまいました。

 この人、このままでほとんどアステカの神像になってますよ。

 それからこの映画、別の観点、エロス度から見ても高得点ですが、今回はその話はやめておきます。

2011年6月15日水曜日

癒しの砂浜

 文豪夏目漱石の小説「草枕」の最初は次のような文で始まる。

 山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
 智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟(さと)った時、詩が生れて、画(え)が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣(りょうどな)りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。』

 まことに人の世は住みにくい。近頃特に感じる。
 そして住みにくくしている原因は漱石も言っているように「智、情、意地」を持つその人である。その中でも年が寄ると意地がへんに凝り固まって周囲との軋轢を生む。
 若い人はこのような老人を「意固地、頑迷、偏屈」と呼ぶのだろう。

 もっともまだそのような分析を年寄りに加えてくれるのはよいほうで

 「変な爺さん」あるいは「無視」で終わる。

 そんなことがあると人との付き合いも嫌になる。そしてほんとに安らかなとこへ行きたくなるが死にでもしない限り人の世はどこまでもついてくる。

 漱石は、それが嵩じて悟ったとき、詩が生まれ、絵ができるといったが、住みにくさはどんどん嵩じるが、悟りは来ない。したがって詩もできなければ、絵も生まれぬ。

 嫌だといって人との交わりも絶てぬ、逃げていくところもない、悟りも啓けない。四面楚歌で重苦しくて仕方ないが辛抱あるのみか?
 賢人はいろいろ心の苦しみを無くする方法を言ってくれるが、あまり信用していない。今まで60年近く生きてきてさまざまな病気になり苦しんだが、特効薬に当たった例なんかは一度もない。それと同じで心の苦しみに特効薬などなかろうと推察する。

 まあ特効薬はないにしても少しは苦しみを軽減する薬はある。こころも同じことであろう。

 対症療法にすぎぬかもしれぬが最近はこころを空白にしてぼんやり海を眺める方法をとっている。昨日、落ち込み、気力も萎えることがあり、今日は海へ来た。
 潮風に吹かれ、寄せては返す波を見ているとだんだん落ち着いてくる。できるだけ何も考えないようにしようとするがそれはちょっと無理なようだ。でも、爽快で悪くない気分だ。
 深々と深呼吸をすると重苦しさが吐きだされていくようだ。

 「やっぱり来てよかった。」

 なぜか旧懐の念が沸き起こってくる。

 足跡一つない向こうまでつづく砂浜を走ったあの夏。
 はたちのあの夏に帰りたい。
 もう一度燃える夏を抱きしめたい。
 いてもたっても居られぬどうしようもない衝動。帰るはずもないのに。

 でも気分はますますよくなる。
 
 もう一度深呼吸し、堤防のほうへ向かって歩き出す。堤防の上に立ち浜を見ると私の足跡のみが海に向かってつづいている。

 伊勢物語の一節の和歌を思い浮かべて口にする。

 いとどとしく 過ぎゆく方の 恋しきに うらやましくも かへる浪かな