2011年6月8日水曜日

6月は新じゃががおいしい

 今、新じゃがが出ている。
 お店で小ぶりの男爵イモを買った。とれた旬なので固く、皮の色つやもよい。
 新じゃがなので水につけて、錆びて使えなくなった出刃包丁の刃先でこすると、面白いように皮がぴろり、ぴろり、とむけていく。新じゃがの特長なんでしょうね。むいて丸坊主にしても皮がついていた時と同じような色つやをしている。

 「よ~し、今日は、肉じゃがにしよう。」

 肉じゃがの肉って高級肉は全然おいしくないんですね。牛のくず肉、それも脂肪分や筋があるほうがうんとおいしい。
 安い材料を使うのにおいしいのは、やまさんにとって福音だ。187円のパック肉を使う。あと玉ねぎと人参はあるから、残りはあらかじめ短冊に切ってあるコンニャクを買う。

 さっそく調理にとりかかった。いつも、材料の量も不定で計らず使うから目分量で調味料を入れる。そのため味が毎回変わるんだけど、今日は砂糖、醤油のバランスが偶然よかったみたいで、とってもおいしく仕上がった。
 イモを口に頬張る。まだ熱いのでパクパクすると、表面がとろーととけてくる、かむとほくほくしてジュワーとおいしさが広がる。牛脂が人参や玉ねぎ、コンニャクに程よく絡み味を倍加させる。
 筋っぽいコリコリした肉もいいね。
 聞くところによれば、肉じゃがって昔の帝国海軍のメニューだったそうです。それがオリジナル。

 う~ん、お、い、し、い!
 皆さんも新じゃが料理、作ってみてください。

Nomadに生きる、悪くないね

 二年半の刑務所入所が迫っているホリエモン。今日のスポーツ紙をみると美しくセクシーなメードのおねいさんに囲まれた写真が載っていた。

 「アキバのメイド、ホリエモンをお見送り、いってらっしゃいませ。」

 また顰蹙を買いそうなことだが、私は眉を顰めるどころか、このおピンク壮行会を見ていて、拍手の一つもして激励してやりたいと思いました。ま、もっとも私などは近くにも寄れないだろうが。

 これだけ俗物性を見せることは只者ではない。皮肉でなくほんとにそう思う。ガチガチで小うるさい日本の社会で古き良き時代のアメリカ的な成金・俗物を演じるのは非常に難しい。

 彼が刑務所の塀に落ちたのもいわば日本の社会が彼をあるまじき日本人として嫌悪したためではないかと同情している。

 まあ、今までのことはどうでもよろしい。
 今日そのおピンク壮行会をみて、おや、っと思ったのは、彼が

 「もうヒルズ族を卒業して、住居を持たない遊牧民(ノマド)になる。」

 といったことである。

 「これから遊牧民に生きる!」

 素晴らしいことじゃありませんか。大金持ちにして遊牧民になる。それはなかなかできることじゃないですよ。

 アナーキズムに通じるかもしれませんが、そもそも誰の持ち物でもない「土地」を私有と称し、囲い込み、必要以上の大きさの家を建てる。なんかおかしいと思ってました。
 人の、土地・不動産(家など)に対する執着は物凄いものがあります。
 私は、庶民のせせこましいささやかな宅地や家のことは言ってませんよ。

 遊牧民になり土地所有の概念も持たない。そしてそれを実践する。いいことじゃないですか。

 なぜか、金持ちになると、広い土地を所有し、大邸宅を建てる傾向があるんですね。大金持ちになると動かないステータスになる不動産を所有したがるんでしょうね。土地に執着する傾向は「農耕民」に強いんです。
 無一文から金持ちになった人は若いうちは一つの場所に定着せず、また不動産などにも執着せず、「遊牧民」的なんですけど、金持ちになった途端、「農耕民」になるひとが多いですね。

 遊牧民は放浪が好き、また不動産・土地に対していたって淡白です。貴金属・宝石・装飾品は好きだそうですが。

 で、ホリエモン、これから「遊牧民」(nomad)として生きるとのこと。金は腐るほど持ってる彼、ホントに遊牧民になるかどうかこれからじっくり観察させてもらいます。

 ちょっと古い言葉だけど、まさか「高等遊民」と「遊牧民」とを言い間違えているってことはないでしょうね。

 大金持ちにして「遊牧民」、なりきったら遊牧民族で徒党を組み保守的な「農耕民」を襲撃して「動産」を巻き上げるもよし、ほんとに家畜を遊牧するもよし、移動できる遊牧テントに美女のハーレムを作るもよし、アッティラ、チンギスハン、ティムールのように生きてください。あなたは金、力を持ってるし、何より春秋(これからの人生)に富みますからね。
 期待してますよ。
 どうか、わたしのイメージしてる遊牧民になってくださいよ。

今日のつばくろ そのⅡ

 そろそろ巣立ちが近づいている
大きくなって巣からはみ出さんばかり。

 全部で5羽の子どもだが1羽は端にいる。










 端の一羽、飛び立とうとしているのか。













毛づくろいしている。飛び立つ準備なのか。














飛び立っているところではない。巣のごく近くでホバリング、羽ばたく準備であろう。すぐ巣に戻った。
巣から出ている。もう、明日にも旅立ちかもしれない。
 親はまだ餌を運んできている。

 一旦巣立つときっぱりと親離れする。
 もうなわばりの関係では敵同士、いっさいの親子の情は解消する。

 その日から生きるも死ぬも自分の才覚。
 だが、人の親子の関係は死ぬまでつづく。

 ヒトは他の生物にない老親の扶養をする唯一の生き物である。
ネアンデルタール人かららしい。

 鳥類は巣立ちまでの数か月で親子の情は消滅する。
 しかし、つがいの関係はどちらかが死ぬまでつづくことが多い。そう考えると、夫婦の絆が親子より強いと思われる。
 人も昔から
 「親子は1世、夫婦の契りは2世。」
 と言われている。夫婦のきずなが強いのだ。
 配偶者を大切にしましょうね。 

2011年6月7日火曜日

栗の花

 今日、自転車に乗っていると栗の花の匂いが漂ってきた。花の匂いとはいえ、特異な匂いで、あまりおおっぴらに
 「匂うなあ~」
 とか、間違っても
 「いい匂いじゃなあ~」
 とかは言いにくい花の匂いである。

 ちょうど今の時期花が開いて香りを漂わせている。
 山の中ばかりでなく、市内の公園などの緑地にもあり、思わぬ街中から匂ってて驚くこともある。

 はっきり言うとこの花の匂いはsemen,spermと同じ匂いなのである。成人以上の男性なら思い当るであろう。

 私がこの花のにおいを意識したのは高校1年生の時であった。通学路に栗の木があったこともあろうが、これ以前も田舎で暮らしているから栗の花の匂いを嗅いでないはずはないのだが、記憶にない。
 精通以後に意識するようになったのも考えれば当たり前である。

 この花自体目立つものではない。実は高校1年の時、匂いを意識したといったが、その時はまだ何の花かわからなかった。なんかの花らしい匂いとは思っていたが、その元はその時はわからなかった。まして、栗の木の花がどのようなものであるかも知らなかった。

 私の性徴は一般男子とそう変わらず、中学時代の終わりころ精通を迎えた。中学時代は恥ずかしくて、自己嫌悪に陥ったり、努めて意識に上がらぬよう抑圧したりしていた。

 だが、高校生になると、クラスにあけすけに話す友達なんかがいて、そいつなんかは

 「俺は週、〇回、masturbationした。」 だの

 「どのようにejaculationした。」とか微細に話したりしていた。

 まあ、そんな影響もあったのか、自身が成熟してきたのか、そのころになるとそう恥ずかしがらなくなった。
 英語や国語辞典、解剖図入り百科事典で「性」関係の知識を吸収したものそのころである。「性」関係のずいぶん難しい英単語や難解な漢字熟語をすらすらおぼえた。英語や国語の授業ではいたってぼんやりしてたのにこういうことになると聡くなるんですね。

 そして、百科事典で
 「semen,spermは、栗の花に似た特有の匂いがし・・・・・・・」
 と知り、植物図鑑で確かめ、実際の花を6月の今頃見ました。

 花というには花らしさがない。なんか白いゲジゲジみたいで、美しくない。匂いが強烈だから認識はするものの、目立たないから、これが元だとは気付かない。

 「まあ、こんな匂いの花だから、分相応の形なのかなあ。」

 ここで美しくないといったが、それは華やかないかにも花らしい花を基準にすればの話であって、特異な形の花は鑑賞にもたえるし、詩や文学の対象にだってなるだろう。
 どの花も平等であって優劣はない。

 しかし、匂いが極めてある特定の印象を与えるため、はたして誰でも話題として

 「好んで、栗の花、など取り上げるだろうか?」

 今日のブログのテーマなんか

 「お下劣!」

 と眉を顰めているんじゃないでしょうかねぇ

 詩歌に「栗の花」をさがすと有名な「奥の細道」の次の句が浮かんできます。

 世の人の 見付けぬ花や 軒の栗 

 地味で目立たず、おくゆかしいことよ・・・などが伝わってきますが、さすが芭蕉さん、格調高くて、

 「ほれほれ、あの、匂いじゃわ~」

 なんどと匂わすことはおくびにも出してません。

 それじゃあ、パロディーや滑稽味が主の「狂歌」や「川柳」はどうじゃろか、と探すと、ありましたありました。

 谷地撫でて匂いおこせよ栗の花雄芯(おしべ)萎えても春を忘るな 
 (荻生待也狂歌作品集5. 春情歌(はるつげうた)②より)


 これは、菅原道真の「東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」という有名な和歌のパロディーです。
 現代の人の狂歌ですが、いや、さすが、いいですね。
 「谷地」、うふ!「撫でて」、うふふふ、わたしは・・・・そう、そのように解釈しました。
 「オシベ萎えても春を忘るな」 やまさんのような年寄りですかねぇ

 川柳では

  栗の花 香りに笑う せい人や

 「hikariOkei」さんという、現代の人の作です。
 前記の狂歌は年寄りの雰囲気ですが、こちらは若い人ですね。
 若い男のまじめなグループが歩いてて急にこんな匂いを嗅いだら笑ってしまう以外ないような気がします。
 「せい人」と平仮名表記もいいですね。成人、性人、醒人、聖人、精(液)人・・・・などやまさん、勝手に想像し放題です。

 これから歩いててしばらくはこの匂い鼻につくだろうなあ、やまさんも一句作ろうかな。

2011年6月6日月曜日

今日のつばくろ

 こらー、ええ加減に巣立ちせえよ~
 親よりでかいからだしやがって
 手本は二宮金次郎~♪ こんな歌知ってるのやまさんだけ。 
 大昔は学校という学校にありました。今、これは、テクノスクールにありました。
 質素、倹約、苦学、篤農、こんな徳目も今の生徒には死語。
 育むだけではだめ、教えて、教育。
 人はツバメと違いますぞ。

Gアースのためへとへとになり、嫌気がさす

 ようべ、「東ローマ帝国」という教養番組を見ていたらギリシャ正教の修道院でバルカン半島の辺地にあるところが出てきた。
 グーグルアースで立体的に見たくなって、この間消えたショートカットのアイコンを復活させ、使えるようにしようとチャレンジしてみた。

 まず、最良の状態に復活させるため、アクセサリ⇒システムツール⇒システムの復元、で、Gアースが使えたときの時日に戻した。

 しかし、ウインドにはショートカットアイコンは出てこない。

 で、次にヘルプ、に入り、探すと・・・・・・

 「ショートカットアイコンが勝手に消えて、Gアースが使えなくなったとき」

 というのがあったから、それを見ると、復元プログラム(発行元グーグル)というのがあったので、指示どおり、クリック、その後の手順もチャートしてあったが、そのとおり、進まない。かってに作動中の表示が出て終了。
 わけわからんうちに終わった。

 そして、ヘルプが消えて、ウインドウを見ると

 「おおおおおおお!Gアースショートカットのアイコンが出てる!」

 「やった~、成功~♪」

 ダブルクリックでGアースを開く、漆黒の宇宙に青く輝く球体の地球が・・・

 「これこれ、待ち望んだぞよ」

 ところが、なんか、おかしい。

 白べたの小さな長方形が横にあり、普通ある説明も、作動するキーも、チェック欄もなんもなあぃ~

 どこクリックしても、ダメ、やがて、地球にも、白の紗がかかり、ぼんやりと・・・・・・・、

 終了させ、初めからやるが、何度でも同じ、
 そして、よく見ると、球体の地球、なんと

 北半球の半分ほど、貼り付けたようになっていて、赤道と子午線の間がほころびてめくれあがっているではないか。

 まるで「少年の科学雑誌」の付録についている地球儀模型作成セットを、不器用な子供が失敗し、ずらして球に貼り付け、あちこちにずれができたり、糊が取れ、めくれあがったりしてる状態。

 「なんじゃ、これ、しんじれんわ~」

 見るも無残な、宇宙空間に浮かぶ「張りぼてでほころび、めくれたおんぼろ地球」が・・・・・・
 そしていらっても、無反応の画面が消えず、見たくもない地球の張りぼてが真夏の西瓜かかぼちゃのお化けのように浮かんでいます。

 この象徴的なことは、私には「啓示」として、しっかり受け止めさせていただきました。
 はいはい、よ~く、わかりました。

 6カ月前、Gアースの立体的でバーチャルな世界旅行に堪能して、その新世界にやまさん

 「おぶけました」

 未来の新次元世界と本気で思いました。やがて、実体とGアースが作り出す幻想の地理空間の差は無くなり、部屋にいたまま本物と寸分違わぬ旅行体験できると夢見ました。

 おそろしいバーチャル世界が実体として認識される予兆がGアースにあるといったら大げさでしょうか?

 203X 年、空を見上げたやまさんは驚きました。ちらっとですが、青空がめくれ、めくれた隙間から漆黒の闇が見えました。ほんの一瞬。

 「目の錯覚か?」

 その時は思いましたが、時間がたつにつれ疑問はどんどん膨らんできます。

 「あのめくれた隙間からちらりと見せたのは、この世界が実は張りぼてで、バーチャルな幻想世界ということを意味するんじゃないのか。」

 「一瞬でもこの世界の舞台裏が実はあるんだということを見てしまった人間は、もう、この世界が実体のあるものとして信じられなくなる。」

 「いつから実体から離れたんだろ。」

 このGアースがほころびを見せたことは、私にとって覚醒であり、越えてはならぬ一線を踏みとどまらせる啓示でした。

 さっそくGアースをアンインストールして永遠におさらばしました。
 もうへとへと、PCにいじめられぬ、惑わされぬ昔の牧歌的世界へ帰りたいわ
 

2011年6月5日日曜日

つばくろの子育てを見て思うこと

 駅の軒下にあるツバメの巣の雛もずいぶん大きくなった。一週間前に見たときはまだ小さな雛だったが、今日見れば、もう親と変わらず・・・・・・

 「お、今、親が餌を運んできた。なんと!親よりでかい!」

 ところで、親ツバメの体。昔からよくあるフォーマルな衣装に例えられているのを思い出しませんか。白と黒のツートンカラー、ツバメの名前にちなんだ服。
 そう「燕尾服」です。
 このちょっと気取った格好のツバメ、またスリムで繊細な体もしてますね。

 さあ、それで、このでかくなった雛との対峙です。巣からはみ出さんばかりに出てる雛、頭の部分しか見えませんが親よりでかく見えます。倍以上の頭に見えます。
 その雛が、ピヨピヨ、ならぬ、ピチュピチュピー、一斉に鳴いています。親がくわえてきた餌を兄弟の中で一回でもらうのは雛一羽ですから、必死に
 「我が最初じゃ!」
 とアピールのため口を頭の大きさ以上に大きく開けることになります。

 そのため、小さな貧相な親はでかい雛に飲み込まれそうになって餌を口に放り込んでやります。
 小さい雛なら、可愛げもあるがこんなにでかくなって、

 「親も苦労するな。」

 実は雛は見かけほど実態は大きくありません。鳥は雛のうちは産毛がふわふわして実体以上に大きく見えるのです。まえにペンギンの雛の茶色のでかいラグビーボールのような姿にびっくりしたことを思い出しました。
 もう巣立ちも近いのでしょう。

 一週間前のまだちいちゃな雛がピーピーいってた時の可愛さはだんだん薄れましたが、親は巣立ちまで例え自分が食べなくてやせ細ろうが、雛が見た目自分よりでかくなろうが、せっせと餌を運びます。
 30歳過ぎた引き籠りの子に親がやつれようが、つかれようがせっせとつくす人間界のことをちょっと思い出しました。

 これなんか見るともう「いじらしいような、せつないような、愛情」ですね。古典語で『かなし』という語があるんですけど、現代語の「悲しい」という意味でなく、このような「いじらしいような、せつないような、愛情」なんです。

 人、特に日本人はこのような鳥たちに「愛情」の純粋の形を見て、「愛情」の美しさのお手本としたんですね。

 親が子を思う愛情の深さは

 「焼け野のキギス(雉子・きじ)。夜の鶴」

 と言われます。野焼きで巣が焼かれるとキジは子を守って焼け死にます。巣に霜が降りる寒い夜、鶴は羽を広げ子を寒さから守ります。

 また男女の愛情の深さも鳥にお手本を見ます。

 「鴛鴦の契り」

 オシドリはいったんつがい(夫婦)になるとどちらかが死ぬまで仲良く一対で行動します。

 もちろん、鳥は本能に基づいた行動であり、パターン化されたものであります。しかし、それを美しいと見、愛情の純粋なものとして手本に取り上げ、人のこころに受け取られたことが重要です。

 高度な知能を持つ人は本能に基づいたこのような愛情をさらに発展させ、高次なものにしていきます。
 このような高次な「愛」への思索にかけてはキリスト教の坊さんがお得意ですね。彼らは子を持つことも妻を持つことも禁じられています。
 だからこそ、子や妻への「愛」を超えた上次元の「愛」を説けるのかも知れませんね。