昨日、雨もよいの天気だが、降っていなかったので、鮎喰河原を散策していた。ススキなんぞが生い茂り野草でほとんど隠れた土手横の道を歩いていた。するとどうしたわけか急に便意を催し、とても辛抱できる状態ではなくなった。近くに公衆トイレはない、ええ、どないしょぅに!
パンツ、ズボンがウンコもぶれになることを思うと、もうここは「野ぐそ」しかない。であたりキョロキョロ、人に見られるのがこの上なく恥ずかしいので、絶対見られたくない。幸い人気はない。そのうえ荻、ススキ、泡立ち草なんどの人の背丈もある野草が生い茂っている。ただ、土手は野ぐそをしようとしている場所より高く、上から見下ろす位置だから、もしかしたら見える可能性もある。
しかしもう出かかっている、ええぃ、みるならみれ、と急いで草むらに入り、ズボンパンツを下ろすと、即座に粘性のゆるぅ~ぃ便がビ音とブ音を響かせながらケツからひりだされた。
ホッとしたが、次にハッと気づいた。「あああぁ~~っ!」、先にカバンからチリ紙出してケツ拭く用意するん忘っせとった!ばらまけたビチ糞をよろけて踏まないように、パンツズボンはそのままの状態で中腰でケツを突き出し、なんとかバッグからチリ紙を取り出し、ケツ拭きをようようすませた。
チリ紙は持って帰るのが筋だろうが、糞用のビニル袋なんどないので、申し訳ないが糞もぶれのチリ紙は、そこに捨てた。糞は肥えになるが、紙はエコリサイクルにはならない。エコでゆうなら糞のあとケツを拭くのも、わらや芋の葉っぱなら、自然にエコリサイクルになるが、紙はなかなか自然土に帰らない。野ぐそといい、糞もぶれの落とし紙の放置といい、ワイは指弾されるイケナイことをしました。ゴメンナサイ、ゴメンナサイ。これからはバックの隅に落とし紙や汚物入れのビニル袋を用意します。
しかし、もしや荻ススキの野原でも間違って入る人のためには、汚れた紙類の散らばりは、ここで野ぐそしてますよ、の標になり、糞んづけるのに注意を喚起するやもしれん。昔、知らずに野ぐそを踏みつけて、靴底について、そのまま自家用車に乗って車を出発させた、ところが(冬だったかな)ヒーターで温もった車のなかで徐々に人糞のにおいが充満し、それでやっと気づき、超不快な思いをしたのを思い出した。糞は踏まないのに越したことはない。あ!でも考えたら、ワイの踏んだ野ぐそも紙など散らばってなかった。風で飛ぶこと忘れてた。やっぱ、これは言い訳や、野ぐその紙は持って帰るのがエエ。
野ぐそなんど、下卑た行為のようだが、背に腹は代えられぬ、ズボンのなかが糞尿地獄になるよりゃましだろう。でも野ぐそにもエエとこがあるらしい。野ぐその徳についてある人が「糞」いやちごうた「文」を書いている。ワイの言い訳に張り付けておく。
「糞土師(ふんどし)」を名乗る伊沢正名氏は、1974年から現在まで野ぐそを続け、自然との共生を提唱しています。伊沢氏は、人間が生きていくうえで欠かせない「ウンコ」を、自然界に生きる他の生物に対して貢献できるほとんど唯一の行為として捉えています。
伊沢氏は、著書『くう・ねる・のぐそ 自然に愛のお返しを』や『ウンコロジー入門』などを通じて、野ぐそが自然環境を守り、災害時のトイレ問題を解決する手段であることを説いています。また、生物がするうんこが他の生物に食べられ、植物・動物・菌類からなる生態系の命の循環に必要であることも解説しています。
伊沢氏は、野ぐそを続けることで、地球全体で考えたら「うんこより大事なモノはない」と語っています。
でも、紙で拭いたらエコリサイクルにならないから、その趣旨でいうと、紙は持って帰って別に処理するか、その場で捨てるなら、紙ではなくわらや柔らかい広めの葉っぱ(芋の葉)などで拭くのがよろしおますな。じゃけんど、ワイの野ぐその場所、周りは荻ススキや細長い葉の野草で、触れば切れる鋭い刃のような葉だから、無理にあれでケツ拭いたら、肛門の周りが傷つくなぁ。
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