2024年11月20日水曜日

また私に近い歳の有名人がなくなった

  火野正平さんが亡くなったというニュースを今日の午後聞いた。今年、それもわりと最近、BS・NHKの「にっぽん縦断 こころ旅」で元気に自転車を転がし全国各地を回り、視聴者から寄せられた思い出に基づく心の旅を続けられていたのに。だから逝去のニュースに、え、何で急に、と驚くとともに同世代としてとても残念でさびしい。

 今日は、正平さんを追悼の意味で、二年前わが故郷に「心の旅」で来てくださったときの私のブログを再掲いたします。火野正平さんのご冥福をお祈りいたします。

2022年、10月20日のブログより

 昨夜、何気にテレビを見ていると目に飛びこんだのが私が毎日使っている「鴨島駅」である。そこに「火野正平」さんがいる。驚いた!番組名を見ると「こころ旅」とある、これは読者の手紙を元にその手紙にある場所を訪ねる番組である。

 正平さんが手紙を読んでいるのを聞くと、主は70歳ちょい手前の女性、そして訪ねてほし場所は「県立川島高校」、半世紀以上前、ある親しい友人と楽しく会話しながら川島駅から坂を上って通学したこと、そしてその友は30代半ばで病で亡くなったことが記されていて、その半世紀以上前の女子高生の時友と共にあるいたその「坂」をぜひ正平さんに訪ねていってほしいとのことであった。これを聞いて二度びっくり、なぜなら、私がやはり半世紀以上前、同じ坂を毎日通ったのがこの川島高校だったからである。(このブログの右上のプロフィール欄にワイの高校時代の写真を貼ってあるが、この写真はその高校のクラスの集合写真の一部である

 出発地はだから、わたしのおなじみの鴨島駅。下は鴨島駅ベンチに腰掛ける正平さん。正平さんも歳ぃいったな、なんかこの写真を見ると、まるでワイが鏡に向かっているようやわ。


 今朝、汽車に乗るとき鴨島駅の同じ場所を確認した。そう、この下図の場所が、今でも高校生が汽車の時間待ちをしているベンチで、正平さんはすわっていた。


 駅前から南の向かっての通りの一つにボロボロになったアーケード街がある、正平さんはそこを自転車でゆく。大昔、手紙の主やワイが半世紀以上前の高校生の時は、この通りも「銀座通り」と呼ばれ、いろいろな店がひしめき、買い物客でにぎわっていた、しかし今はずっと南の国道ぶちに賑わいの中心は移ってしまい、現在ではほとんどの店が閉まっていてシャッタ―街と化している。


 「いやぁ~、こんな撮影があったとは地元じゃが、知らなんだ、知っていたら何があってもそれを放っておいて見に行ったのに、残念。それにしても何時撮影に来たのだろう。この後、なぜか吉野川土手沿いを(上の写真から向かっているのとは方向が違う)走った時、その撮影時の手がかりがあった。曼殊沙華が真っ盛りなのである。今年は盛りが少し遅かったので9月下旬ころと思われる。下は曼殊沙華の咲く吉野川堤防上の道をゆく正平さん。(今日、鴨島駅の駅員さんに聞くとやはり9月下旬に撮影に来たそうだ


 そして例の「坂」を、正平さんも川島高校生のように徒歩で上った。「あぁ、ワイもこの坂を上ったはるか昔の高校の時が思い出されるわ」


そして川島高校校門前につく、実はワイが高校の時(手紙の主もだが)は正門はこの場所とは違っていた。校舎ももちろん(現校舎もかなり古くなっているが)ワイの時とは違う、まだ木造だった。そして最後に、校舎(後方の鉄筋コンクリト)が見える坂の途中で立ち止まり、改めて読者の手紙を読む正平さん。


2024年11月19日火曜日

ガイド付き寺町散歩 

 一昨日(日曜日)、図書館主催の寺町歴史散歩に参加した(申込者は20人ほど)。寺町にある寺をガイドはんと一緒に歩いて、歴史的な遺跡、遺物(お寺が多いので歴史上の人物のお墓が多い)を見学し解説を聞くものである。下は散歩途上その解説の様子、赤のベストを着ているのが一緒に歩いてくれたガイドはん。


 ここらあたりはワイ一人で足るびゃぁ歩いているので、ほとんど新しく知ることはなかった。ブログにも何度も取り上げている。そのなかで知らなかったのを下に写真と共にアップしておく。

 上の寺の山門を入ったところにある踏み板は三畳ほどあるが一枚の大きな阿波の青石で作られている。


 前(一人で)寺町をフラフラ歩いた時は、こんな六地蔵はなかったが、今回新しく作られている。伝統的な六地蔵と違い、ずいぶん斬新である。一番端の空を飛ぶオッゾウはんなんどはまるで鉄腕アトムである。寺の境内には入れないので、裏と横から撮影した二枚の写真

 

 歴史好きのワイでもこれはしらなんだ!滝薬師境内にある供養の奉納石塔に刻まれているのが江戸期の徳島城下の「鳥屋新助」はんの名前、この人は城下で商売を営んでいたそうだが、なんと天保の改革ででてくる町奉行の「鳥居耀蔵・甲斐守」のおじいちゃんだとか(母方だろう)、へぇぇぇ~、である。下がその石塔


2024年11月18日月曜日

トラのはなし

五黄のトラ

 ワイの同級生の(十二支)の生まれは、おおかたは寅年となる。だいたい同級生の四分の三は寅年で、残りの四分の一はウサギ年となる(日本では4月生まれから一年間同学年となるので)、ワイは三月生まれなのでウサギ年だ。それがどうした?という話だが、どっちゃ生まれでも変わらんだろうと思うのだが、ワイが小ンまい時、祖父母から残念なように言われたのは、「おまぃが、もちっと早よぉ生まれとったら(前年12月までにおじみそ怖じミソ?か・ウチらの地方の方言で、怖がり)や、いじめられっ子にならなんだのになぁ、数か月早よぉ生まれてたら、ウサギで無ぅて、寅年も寅年!五黄の虎じゃったのになぁ、そしたらよかったのに」

 これは何度も聞いたので、その「五黄の虎」っちゅうんはえっぽどイイ生まれやったんやな。と思ったものである。まぁ、寅(虎)は百獣の王だからわかるが五黄とは?なんじゃろ、明治生まれの祖父母が育った時代は「九星気学」による天運が人に大きく作用すると考えられていた。九星とは「一白水星. 二黒土星. 三碧木星. 四緑木星. 五黄土星. 六白金星. 七赤金星. 八白土星. 九紫火星」である(各星が人の運命に作用するというのは西洋占星術にもある)。この五番目が「五黄」となる。それと「十二支」を組み合わせると9と12の最小公倍数の36の組み合わせができる。つまり寅年と五黄の組は「36の1つ」となる。1950年の次は1986年、その次は2022年であった。

 その五黄の寅生まれの、九星気学による天運によればその歳生まれは、非常に強い運勢を持つと言われているとのことである。それだから、九星気学による「運勢暦」を毎年買って、その吉兆をみて、家庭の行事や、今年の運勢はどうか、と参考にしている明治生まれの祖父母は、ワイが五黄の寅生まれでなく、四緑木星の卯(ウサギ)だったのが残念でならなかったのだろう。でもワイとしたら、五黄土星はともかく寅(虎)なんぞ動物として好きではない。ウサギのほうが良かった。もっともベトナムやベラルーシ(ウクライナの隣国)での「十二支」にはウサギはなく(虎はある)、ウサギの代わりに猫となっている。猫大好きのワイとしたら、猫年生まれがよかったが。

茶トラ

 そのワイの大好きな猫であるが、ねこでトラといえばとら猫だろう。一昨日、小松島のある寺の山門をくぐった時、子犬ほどの大きさの茶色のトラねこが土ベタに半分横になり体を大きく曲げて自分の股をなめていた。ワイが近づくと、動きがパタと止まったが、じっとそこを動かず、胡散臭げに顔をこちらに向けた。しかし逃げるでもない。早よぉ行けや、と言ってるみたいに睨んでいる。太々しい感じのする猫であった。

 祖母も猫好きだったせいかワイの子ども時代はずっと家に猫がいた。物心ついたころから高校生までに間に飼った猫は5匹くらいだろうか。いずれも種類は、三毛(三色のブチ)やタマ(白黒二色のブチ)であった。トラは飼っていなかった。というのも、トラは気が荒く、家にいつかないから(祖母が飼うのはおとなしいメス猫ばかりだ)と祖母は行っていた。トラ猫の性格にこのようなものがあるのか、と調べるとトラ猫が特に気が荒い性質はないようだが、茶トラは大方がオス猫で、そういったこともあって祖母は飼わなかったのかなぁと思っている。(全く茶トラのメスはいないわけではなく二割程度はいるそうだ

ふうてんのトラ

 ふうてんのトラとは映画「男はつらいよ」の主人公である。シリーズ映画であった。ロードムービーであるが、「ふうてんの」といわれているように、アウトローな身で(一応、テキヤという根無し草のような商売をしているが)気ままに全国をフラフラ経めぐる。そして絶対成就しない恋も毎回のお約束事である。これはとんでもなく長く続いた。たしかシリーズ映画の長さではギネスに認定されたようだ。始まったのは1969(昭和44)年8月封切り、が第1作でその後次々作られ最後の48作目は1995(平成7)年12月封切り、であった。始まりは私が高校三年の夏、私が45歳になった年のお正月映画が最後であった(主演の渥美清さんの死で

 私はこの映画の大ファンであった。20代の時、市内の封切館ではじめて見た時、「ああ、こんな生き方もあるんだ。出世や金持ちになるだけが人生じゃないんだ」と青臭い考えだが思ったものである。トラさんの生き方に全面的に賛成したわけではないが、もともと旅行好きで放浪癖のある私は、トラさんのように全国を放浪し経めぐる生活にはあこがれた。いつか自分も全国を巡ってフーテン暮らしができたらいいなぁと、できないながらも夢見た。

 そして39歳の年が終わる時、仕事が嫌になってやめ、車でだが全国放浪の旅に出た。最初の二年間はまったく故郷に帰らなかった。そのあと四年間は、半年は家にいてあと半年は全国放浪という生活が続いた。まさにトラさんのようなフーテン暮らしである。

 足の向くまま気の向くまま全国をフラフラするフーテン暮らしは、今思い出しても、うっとりするくらいすばらしかった。まだ40代前半で体力も気力も充実していて、知らぬどの土地へ行っても楽しく過ごせた。山や海岸、湖でぼんやり過ごしたり、知らぬ街の雑踏を歩くと、なぜかわくわくして気持ちがはしゃいだ。九州や東北、北海道には無料またはわずかな入湯料で入れる、露天や地域の温泉もある。出たり入ったりでその地でゆったり過ごした。また名所古跡を尋ね、歴史上の出来事を夢見て半日過ごしたこともある。

 ただ「トラさん」と違ったのは、彼はフーテン暮らしをしていても、テキヤで稼いでいた。その仕事の性格上、有名観光地神社仏閣で商売をするから全国を経めぐることもできたわけだ。それで金が稼げるから、フーテンのトラさんの仕事としてはこの上のものはない。だが、私はそんな稼ぎはできなかった。ただ銭をできるだけ使わないような放浪のフーテン暮らしである。だから蓄えた金も少しずつだが確実になくなっていく。5年もたてば金もほとんどなくなった。

 平成8年の8月、北海道を旅していた。テントで寝たり、車で寝たり、また北海道にはほとんど無料のライダーハウスもあり、放浪のフウテン暮らしにはそう金もかからなかったが食料、ガソリン代、フェリー代、などはいる。そろそろ持ち金もそこをついてきた。野宿が寒くなる9月ごろには家に帰って、生活費のためにいよいよなにか生業につかにゃあかんな、と考え始めていた。

 その8月の初めころ、網走駅でのことである。夕方、駅前のスーパで食料を仕入れ、車は駅の無料駐車場にとめ、駅の待合室のイスに座り、豆をかじりながらコーヒを飲んでいた。駅待合室には備え付けのテレビがあった。そのニュースから流れてきたのが、渥美清さんの死亡である。結局その年のお正月映画(前年12月23日公開)48作目が遺作となったのである。「もうワイのフーテン暮らしも終えなけりゃとおもったころ、フーテンのトラさんも死んでしまった。なんか、これは因縁というか、フーテンのトラさんとの同調とでもいうか、そんなものを感じるなぁ」とニュースを見終わったあとそのような感慨にふけった。

 フーテンのトラさんとの因縁そして同調していると思うためか、今もこの映画1~48作は何度でもみる。なにせ私が高校3年から45歳になるまで作られた映画である。その各々を見るたび、その年の自分のしていたことを、思い出し、懐かしさに浸る。この映画が喚起するその年の思い出は楽しさもあるがほろ苦さもある。しかし心地よいものである。

あめトラ

 マスコミのセンセーションな見出し時の推移順に挙げてみる
 
もしトラ⇒ひょっトラ⇒ほぼトラ⇒確トラ⇒またトラ


 断定はできないがこれを見ると、日本のマスコミは、アメリカ大統領に再びトランプさんが返り咲く可能性を軽視していたんじゃないかと思えてくる。この見出しの流れを見ると、マスコミは嫌な奴だからなって欲しくないと内心思っていたんじゃないか、でも、もしなったらどないしょうに、そして選挙が進んでくると、ひょっとすると、から、ほぼになり、ついに定をへて、ついにまたトラに。


 前もブログに書いたが、私はアメリカ共和党贔屓ではあるが、必ずしもトランプはん贔屓ではない。ただ、彼は喜怒哀楽がわかりやすい、大統領として見るのでなく、ただのアメリカのおっさんとしてみれば(横からみているだけなら)、かなり面白っしょいおっさんである。
 

 私が大笑いしたエピソードの1つを紹介しよう。上の写真はトランプはんと同じ共和党のマルコ・ルビオ上院議員である。かれとは8年前共和党の大統領指名選挙を争ったが、今回、トランプはんは彼、マルコ・ルビオ氏「国務長官」に指名した。かなり仲がよさそうであるが、8年前、共和党指名候補選挙を争ったときは厳しい論戦があった。その論戦がまた面白い。

 口が悪く、金持ちのわりに下品なトランプさん、マルコ・ルビオさんが背が小さいので「お前はちびマルコ」だと挑発した。もっとも英語ではLittle Marcoであるが、日本人の私はその日本語訳のちびまる子で笑いのツボにはまってしまった。
 上の写真でみると確かにトランプはんより低いが揶揄するほど低くはない。逆の高身長に関しては、テレビ映えする高身長の人物大統領選に勝つとの俗説もある。身長188センチと背が高いトランプ氏からの皮肉は、ルビオ氏のプライドを刺激したようだ。
 「政策の話をしよう」とかわしていたルビオ氏だったが、挑発に乗って「トランプ氏の手は小さい」と身体的特徴をあげつらった。同じ土俵に上がったルビオ氏を、トランプ氏は見逃さなかった。「マルコは『手が小さいやつはあそこも小さいに違いない』と言うが、私には何の問題もない(つまりチ〇ポは大きい)」とやり返した。手以外そんなことは言っていないマルコ・ルビオはんだったが、シモの話題に引きずり込まれてしまって、トランプはんの威勢に完全に押されたのである。で、ちびマルコはんは敗退した。

 このマルコ・ルビオさん、共和党員らしいいい政治家である(と私は思っている)。そんな揶揄して敗退させた相手ではあるが、ちゃんと実力を認め、トランプはんは国務長官に指名した。もしかして期待できる大統領になるかもしれん。ええトラになったらいいな。

2024年11月16日土曜日

野ぐそ

 

 昨日、雨もよいの天気だが、降っていなかったので、鮎喰河原を散策していた。ススキなんぞが生い茂り野草でほとんど隠れた土手横の道を歩いていた。するとどうしたわけか急に便意を催し、とても辛抱できる状態ではなくなった。近くに公衆トイレはない、ええ、どないしょぅに!

 パンツ、ズボンがウンコもぶれになることを思うと、もうここは「野ぐそ」しかない。であたりキョロキョロ、人に見られるのがこの上なく恥ずかしいので、絶対見られたくない。幸い人気はない。そのうえ荻、ススキ、泡立ち草なんどの人の背丈もある野草が生い茂っている。ただ、土手は野ぐそをしようとしている場所より高く、上から見下ろす位置だから、もしかしたら見える可能性もある。

 しかしもう出かかっている、ええぃ、みるならみれ、と急いで草むらに入り、ズボンパンツを下ろすと、即座に粘性のゆるぅ~ぃ便がビ音とブ音を響かせながらケツからひりだされた。

 ホッとしたが、次にハッと気づいた。「あああぁ~~っ!」、先にカバンからチリ紙出してケツ拭く用意するん忘っせとった!ばらまけたビチ糞をよろけて踏まないように、パンツズボンはそのままの状態で中腰でケツを突き出し、なんとかバッグからチリ紙を取り出し、ケツ拭きをようようすませた。

 チリ紙は持って帰るのが筋だろうが、糞用のビニル袋なんどないので、申し訳ないが糞もぶれのチリ紙は、そこに捨てた。糞は肥えになるが、紙はエコリサイクルにはならない。エコでゆうなら糞のあとケツを拭くのも、わら芋の葉っぱなら、自然にエコリサイクルになるが、紙はなかなか自然土に帰らない。野ぐそといい、糞もぶれの落とし紙の放置といい、ワイは指弾されるイケナイことをしました。ゴメンナサイ、ゴメンナサイ。これからはバックの隅に落とし紙や汚物入れのビニル袋を用意します。

 しかし、もしや荻ススキの野原でも間違って入る人のためには、汚れた紙類の散らばりは、ここで野ぐそしてますよ、の標になり、糞んづけるのに注意を喚起するやもしれん。昔、知らずに野ぐそを踏みつけて、靴底について、そのまま自家用車に乗って車を出発させた、ところが(冬だったかな)ヒーターで温もった車のなかで徐々に人糞のにおいが充満し、それでやっと気づき、超不快な思いをしたのを思い出した。糞は踏まないのに越したことはない。あ!でも考えたら、ワイの踏んだ野ぐそも紙など散らばってなかった。風で飛ぶこと忘れてた。やっぱ、これは言い訳や、野ぐその紙は持って帰るのがエエ。

 野ぐそなんど、下卑た行為のようだが、背に腹は代えられぬ、ズボンのなかが糞尿地獄になるよりゃましだろう。でも野ぐそにもエエとこがあるらしい。野ぐその徳についてある人が「糞」いやちごうた「文」を書いている。ワイの言い訳に張り付けておく。

「糞土師(ふんどし)」を名乗る伊沢正名氏は、1974年から現在まで野ぐそを続け、自然との共生を提唱しています。伊沢氏は、人間が生きていくうえで欠かせない「ウンコ」を、自然界に生きる他の生物に対して貢献できるほとんど唯一の行為として捉えています。

伊沢氏は、著書『くう・ねる・のぐそ 自然に愛のお返しを』『ウンコロジー入門』などを通じて、野ぐそが自然環境を守り、災害時のトイレ問題を解決する手段であることを説いています。また、生物がするうんこが他の生物に食べられ、植物・動物・菌類からなる生態系の命の循環に必要であることも解説しています。

伊沢氏は、野ぐそを続けることで、地球全体で考えたら「うんこより大事なモノはない」と語っています。

 でも、紙で拭いたらエコリサイクルにならないから、その趣旨でいうと、紙は持って帰って別に処理するか、その場で捨てるなら、紙ではなくわらや柔らかい広めの葉っぱ(芋の葉)などで拭くのがよろしおますな。じゃけんど、ワイの野ぐその場所、周りは荻ススキや細長い葉の野草で、触れば切れる鋭い刃のような葉だから、無理にあれでケツ拭いたら、肛門の周りが傷つくなぁ。

2024年11月13日水曜日

阿南で秋の花と真夏の花が同時に鑑賞できる

  阿南市では秋の花「コスモス」真夏の花「ひまわり」が同時にみられるというので今日、行ってきました。

阿南市那賀川町古津にあるコスモス畑


阿南市那賀川町岩脇にあるコスモス畑


阿南市柳島にあるひまわり畑



動画

2024年11月10日日曜日

真っ暗やったらどないなっとんたんやろ

  昨晩、八時過ぎ頃やったかなぁ、蔵本にある銭湯で温もってた。清涼飲料水でも飲もうと、脱衣場に出てきたら、番台の大将が、川内あたりで大規模に停電しとるみたいや、といってた。そのあと、湯船に入った後も銭湯内やそのあたりは停電はまったくなく、無事に出て、石鹸箱をカタカタ言わせ、半月を見つつフラフラと家に帰った。

 今朝、ローカルニュースをみると四国電力管内で大規模停電が発生したといっていた。県内だけで11万戸以上だそうだ。(四国管内でも36万戸以上)

 よぉまぁ、銭湯に入っているとき停電せなんだもんや、とおもった。もし起こったら真っ暗で、どなんなるんや、非常灯はあるんかしらん、もし、なきゃぁ、足腰の弱いジジイばっかのあの時間帯やから、蹴躓いたり、なんとか脱衣場に這い出ても、服着るんも大変やったやろとおもう。

 まぁ、銭湯の中で、大地震に遭うよりゃましか、震度7なんどで揺れたら、素っ裸で飛び出さなあかんやらわからんからな。ジジイはええけど、女湯はたいへんやな、恥ずかしいから震度7で揺れても、また天井や梁なんども落ちかねん状況でも、上品な奥様連中は大揺れに揺れながらもなんとか服を着ようとするかもしれん、そのうちに、ドドドと天井が崩れたらえらいこっちゃ。



 昔、白木屋っちゅうデパァトで大火災が発生したとき、4,5階の売り子の娘はんらは、下で消防団がクッション広げても、よ~飛び降りなんだ。当時は、百貨店の売り子は着物で、腰巻やったから、飛び降りたら、裾が広がって、パンツなんぞ履いてないから、性器がモロ見えを心配して、恥ずかしがって飛び折れずに焼け死ぬ売り子がいたそうだ。それからや、女性が「ズロゥス」(女性パンツ)を着けだしたんは。ワイの小まい時、明治生まれのばぁちゃんがいいよった。

 まぁ銭湯での停電くらいでは、女湯はキャァ~、とかアレェ~とか悲鳴は聞こえるかもしれんが、大急ぎで飛び出すこともないやろ。

 それで、この四国管内大規模停電の原因だが、ニュースには次のように書かれていた。これ、読んでなんのこつがわかりまっか?ワイは全然わかれへん。潮流が急増ってなに?潮流で発電してんの?それとも電流の間違いか?だれぞかみ砕いて説明してくれんか知らん。

『発表などによると、同日午後2時21分、本州と四国で電力を融通する「本四連系線」に事故が起こった。連系線の2回線が停止となり、復旧操作を行っていたところ、何らかの原因で阿南紀北直流幹線の本州向き潮流が急増する事象が発生し、四国の供給力が不足したことで本州と四国の需給バランスを維持するための装置が動き、停電に至ったとしている。潮流が増加した原因については調査中としている。』

2024年11月6日水曜日

ススキの原は銀の色

  三日前、園瀬川沿いの堤防の道をフラフラ歩いていた。夕陽に照らされたススキの原がすぐ横に見えた。



 昔しゃぁ一面のススキの原が広がる原野が多かったが、最近はススキの原であることはそうであるのだが、そのあいだに同じ高さの黄色いセイタカアワダチソウド厚かましくも多く混じっている。ドあつかましくも、と言ったのは本来これは土着の日本の植物ではなく外来種である。明治末年にはもう侵入していたが、めだってはびこりだしたのは第二次世界大戦以後である。そして昭和~平成~令和と次第に勢力域を広げてきた。これでは、やがてススキの原もなくなるのではないか。一面のススキの「銀の原」は美しい、晩秋のもっとも情緒を感じる風景である。これもやがてなくなっていくのかなぁ

 

(仕事人シーリーズ「望郷の歌」)

 風に揺れるススキの銀の穂をみていると、なぜか頭の中で「♪~ススキの原は銀の色~風が身に染みる~♪」の歌が響いてきた。「これ、なんつうぅ歌やったんやろ、ウェスタン調だが、思い出せない」、ウチに帰ってネットで調べると一発でわかったテレビ「仕事人シリーズ」で今から51年前の昭和48年放映されたその主題歌だった。時代劇なのにウェスタン調とは変わっているが、この一年前「木枯し紋次郎」のテレビが放映され、その主題歌がゆったりしたやはりウェスタン調だった、時代劇の主題歌にしては斬新だったのを覚えている。この「ススキの原は~」の歌も一年前から始まった時代劇の主題歌の斬新さの系譜を継ぐものであろう。

2024年11月4日月曜日

選挙の秋 


 この秋は選挙シーズンである。自民党内(議員、党員)の総裁選挙、立憲の党首選挙、そして衆議院の総選挙があった。これらはすでに終わった。残されているのは衆院での首相指名選挙だが、これはあまり意外性や不確実性はない、石破はんで決まりだろう。これは国内の選挙であるが、我が国にもっとも影響力のある国であるアメリカの大統領選挙明日(5日)に迫っている。時差や開票の遅れなども考慮すると、我々が結果を知るのは6日か7日になると思う。

 日本は憲法で自ら交戦権も認めていないし、また「戦力」も放棄している、そして輸入や輸出に大きく依存する貿易立国である。これはどうゆうことかというと、悪意ある国の侵略があった場合頼りにできるのは安全保障条約であるということ、そして太平洋の覇権を持つ国に逆らっては貿易立国は成り立ち難いということである。どちらも現在はアメリカである。このことからもアメリカ大統領が誰になるかは日本にとって衆院選挙、首相指名選挙以上とはいわぬが、それに匹敵するくらい関心のあるところである。これだけ依存する国アメリカであるから、できたらアメリカ大統領選挙も日本人が投票出来たら、などとアホぉげたことを考えぬでもない、しかしそうなれば日本もアメリカの一州となり合衆国を構成せにゃならんから日本が消滅するなぁ。そんなことは出来ん!まぁ要するに日本人が一票を行使したいくらい米国大統領選挙に関心があるということだ。

 日本の政治に対するワイの立ち位置、具体的にはどの政党や主義を支持するかっちゅうのはブログには書きとうない、若い時の経験から自分の持つ主義を明確にすれば他との議論も起こるし、白熱したら、スマートな対処もできないワイの性格だと人間関係にヒビが入ったり、結果として政治議論したことそのものが不快になったりする。だから政治的に明確な旗は上げないのをモットーとしている。ほにゃけんど一応外国であるアメリカのことならかんまんじゃろ。で、いうとワイはアメリカ「共和党」贔屓である。

 日本人のワイら一般人の共和党と民主党の違いの理解はそう細かいものではない。おおまかにそんなもんかと理解しているだけである。

 つまり共和党は『小さな政府、だから福祉などの政府支出は薄くなる、税も比較的抑えるので歳出も抑えられる、企業資本家には都合がよい、結果として自由競争を大きく認めることになる。そして現在ではこの党は保守の色合いが濃い思われている』

 対する民主党は『大きな政府、政府支出も大きい、大きい政府政策をとるので企業資本家に対する規制は比較的強くなる。福祉は比較的厚い、そして近年はマイノリティーの権利擁護、確立に力を入れている。いわゆるリベラルな政党である。』

 日本としたら、外交政策、貿易政策がこの二党でどのように違うかがもっとも関心が高いが、現時点で共和党を率いるのがトランプさん、民主党はハリスさんで、これは実際どうなるか正直どちらかが大統領になってみないとわからない。一概に一国独善主義または国際協調主義か、保護貿易主義または自由貿易主義か、のどちらかだとは言えない。

 さて私は先ほども言ったように共和党贔屓である。それはたんなる贔屓で、どちらかというと理性的なものではなく感情的なものである。それも歴史にもし「イフ・IF」があったらなぁ、という虚構の上にある感情である。

 明治以来西洋列強になんとか追いつきたい、というか半植民地にされないように営々と近代国家を作り上げてきたのが日本だったが、御存じのように昭和16年アメリカとの世界大戦を起こし、大日本帝国という明治から続いた近代国家は崩壊してしまった。日本史を勉強するワイとして、これが避けられる道はなかったのか、ずっと考えてきた。日米戦争が起こった昭和16年で考えると、この時はすでに日中戦争、仏印(東南アジア)への進駐などで、転がりつつある戦争への道は避けられなかったかもしれない。それでは日中戦争以前の昭和12年ではどうだったか。いやもっとさかのぼって昭和6年の満州事変の時点では、どうだったか。避ける道はきっとあるはずだと、当時のいろいろ資料、社会・政治情勢などを勉強してみた。

 かなり遡り(第一次世界大戦まで)考えても、日本が勢力拡大をめざし中国に進出する限りは日米の摩擦はいずれ起こっていたと思われる。ただそれは摩擦であって、国を挙げての総力戦ではない。それでも摩擦が続けば熱を持ち、いずれ火を吹く(戦争突入)。

 当時であっても、帝国主義に対抗する平和的な加工貿易立国論を唱え、「小日本主義」を唱える人もいた。具体的には、台湾・朝鮮・満州の放棄を主張し、自由貿易によって立国していこうという主張である。石橋湛山氏の主張である。しかし第一次世界大戦後、剥き出しの植民地獲得や、自国の植民地を囲い込んだ極端な保護貿易はなりをひそめたようにみえるが、果たして石橋氏の言うように当時の世界にあって、植民地を放棄し自由貿易のみで立国していけるかは、疑問である。日清、日露に勝利し、その結果として得られた植民地を一方的に放棄できるだろうか、またいろいろな権利を大陸に持ち、商圏拡大や中国に対する政治的影響力を強めてきた日本にとって、中国からの撤退は難しいだろう、軍のみでなく、庶民も否というのではないか。

 上記のような方策はとりえないとしても、とりあえず摩擦を避けるため中国への居丈高な関与はやめる。まず日中戦争などは起こさぬことである。そのうえで日米の摩擦となる懸案をなんとか取り除く努力をすれば、全面的な日米の衝突までに至らないことも可能である。しかしそれには国内的にかなりな努力が必要である。まず軍部を文民政府が完全に統制していなければならない、独走、暴走などはもってのほかである。そのうえで議会に重きを置き、大正デモクラシーで見られたように、議会多数派が内閣を組織し、上記の石橋氏のような自由主義的な考えを持つ人を重用するのが望ましい。自由主義と国際協調主義は相性がいいと考えられているので、中国を含めた対外政策は国際協調主義をとるのがよい。

 このような政策であってもやはり難しい、実現可能性はかなり低いと私も思う。しかし可能性はゼロではない。もし当時の誰であっても、未来を見通せることができ、昭和20年8月の日本の惨状をみれば、どのようなことがあっても、たとえ針の孔ほどの道であっても、それが唯一の道ならば上記のような方策をとろうとするだろう。 

 さて、ここからが、私が共和党贔屓になった理由となる。喧嘩(戦争)には相手がある。日米摩擦のいろいろな懸案は日本の努力で一つづつ取り除く、あるいは軽減するのであるが、相手、つまりアメリカの政治情勢、つまり大統領がだれか、そして議会の多数派である政党は何か、によっても、その努力の種類やその方向性が違ってくるし、また難度も違ってくる。特にこの「難度」日米の衝突を避けるため日本がアメリカに働きかける難しさの度合い)である。難度が小さいに越したことはない。しかしこれはアメリカのことであり、大統領が誰になるか、議会多数派がどうなるかは、いかんともしがたい。

 その上でいうと、昭和8年(1933年)から終戦(昭和20年・1945年)まで大統領職にあったF・ロゥズベルト(民主党)は、もう日本が絶望的になるほど難度が高いのである。もし日本が日中戦争を起こさず、国際協調を旨とし、融和政策をとったら、ロゥズベルトも少しは変わったかもしれないが、その場合でも、ロゥズベルト率いるアメリカ側からかなりな無理難題を押し付けられたかもしれず、日本がそれを受け入れられるかという問題も生じ、摩擦・衝突回避の難度が高いのは変わらない気がする。

 じゃぁ、大統領がF・ロゥズベルト(民主党)でなく、別の人、共和党の大統領だったら日本の対米摩擦や衝突回避に対する努力の難度は違ったのか?そう違ったのである。難度は極めて易しい方に傾いたのである。上記の日本の努力が中途半端でも、日米戦争は避けられたと思っている。なんでほんなこつが断定的に言えるのか?それが言えるのである。

 F・ロゥズベルトはんの前の大統領は共和党のフーバーはんである。一期しか務めず再選選挙ではF・ロゥズベルトに大敗してしまった人である。この人が回顧録(『裏切られた自由』)を書いているのである。その中で日米戦争の原因についてかなり詳しく言及している。その原因は日本に帰せられるよりむしろこちらの大統領F・ロゥズベルトの責任が大きいと書いているのである。そして「正義の連合国」対「邪悪な全体主義国」というロゥズベルトやその他の米国の人々の従来の見方を真っ向から否定する。そのロゥズベルトの責任については、第二次世界大戦にいたった真の原因は、じつはルーズベルト外交にあったのだ、とまで言い切っている。

 自分が選挙に大敗した民主党のロゥズベルトはんに対する批判だから少し割り引いて考えなければならないかもしれないが、彼は1929~1933年の期間共和党の大統領である、外交を統べ、アメリカ軍の最高司令官だった人である。だから第二次世界大戦に対する彼の考え方はぜひ知りたいと思い、彼の回顧録(『裏切られた自由』)を読んだ。前大統領のフーバーの書いた本の内容には正直、目からうろこが落ちる思いだった。彼の主張、とくになぜ日米戦争が起こらなければならなかったのか、という問いに対する叙述はまったく頷けるものであった。(日本も含めた)対外政策については、彼は古くからの共和党らしく孤立主義、不干渉主義をとった。

 そこで歴史のイフ・IFである。民主党のロゥズベルトでは日米摩擦・衝突、そして戦争へとの可能性がぐんぐん高まっていたが、もしフーバーはんが大統領で、日本側も摩擦・衝突を避けるため必死に上記のような努力をしたら、大戦争にはならなかったのではないだろうか。彼が再選され、また続く大統領も共和党から選出され1945年まで続いていたら、少なくとも日米戦争は(ヨーロッパ戦はわからない)回避しえたと私は思っている。

 絶対起こらない歴史のイフ・IFであるが、日米戦争が回避されていれば、約300万にも及ぶ日本人が死ななくてよかったのである。だから私は心情的に、その可能性があった共和党そしてその大統領を贔屓するのである。

2024年11月1日金曜日

海藻、おいしいなおいしいな たくさん食べまひょ

  「実はなぁ・・今週の月曜、ワイ、テレビにでたんでよぉ。まぁ、わるいことしてでたわけちゃぁうけん、ゆうけんど、場所は、徳島県庁の最上階の食堂じゃった。」

 ここは県庁内にあるとはいえ職員食堂ではなく誰でも利用できる。ミニ定食(ごはん、みそ汁、おかず一皿)420円、普通の定食(おかずは二皿)が550円やから、そんじょそこらのお昼のランチやってる喫茶店や大衆食堂よりずっと安い。だからワイも週一回ぐらいは食べに行っている。

 で、この月曜日もいつものよう定食の二皿を自分で選び、ごはん、みそ汁をもらって席について食べ始めた。教室の三つ分もある大きな食堂だ。まだ十一時半やから、人すくない、みるとなんやらテレビクルーだろう機材をもった数人がウロウロしている。そのうちワイのところにカメラやマイクロフォォンをもって二人やってきた。

 何ごつぞいな、と思っていると、まず、私にむかい説明があった。徳島県内の二つの大学と提携したある企業体が、本来は海の磯なんどでとれるアオサを陸上の水槽で栽培して商品化したそうである。そしてそのアオサ食材が今日とった二皿のおかずに入っているそうである、それで食べてもらってその感想を聞きたいとのことだった。なんで県庁食堂かは、それのキヤンペエインを協力つうかバックアップしているからだそうである。

 まず、撮影インタビッユゥしてもよいかと聞かれたので、もちろん、よろし、ちゅうことで。

 「あじはどないです?」

 「ワイ、アオサ大好き、特に、みそ汁に入っているのは大の大の大好物、某クルクル寿司のアオサのみそ汁なんかは・・・」

 「いえ、このお皿のおかずはどうです?」

 「じゃけん、大好き、ちゅうたやろ、これもウマイ、ウマイ」

 「これは、陸上の水槽で栽培しているんですが、本来のアオサと比べどうです?」

 「単に、あおさじゃわ、ふつうにおいしいよ、なんせ、さきもゆうたやろ、ワイ、あおさ大好きって・・・」

 「なんか、違いは?」

 「ほぉじゃぁなぁ~、ほないゆうたら、マイルドな感じがしないでもないかなぁ~」

 てな、感じの、ボケたジジイの的を外した受け答えだった。しかしどこのテレビのチャンネルか、何時に放送するかは、しっかり聞いた。その日の夜七時前に放送された。出るには出たが短くカットされてた。自分のでるテレビを見たワイの感想は?

 「なんや、公園ウロウロしているホームレスのじいやんが、ボランティヤ食堂で食べよるみたいやなぁ」

 上品なジイやんのフリにはワイはほど遠かった。

 今週いっぱいはこのアオサの食材を使ったおかずが出ている。月曜日はテレビインタビュゥっつうことで舞い上がり、この日の定食の写真を撮るのを忘れた。そこで今日、金曜日、このアオサキヤンペエインの最後の日つうことで今日も食べにいってその写真を撮ってきました。


 この海藻の陸上水槽栽培はアオサだけでなく、「あかね藻」もやっていて、これも商品化していて上のおかずにも入っていました。

 食堂の入り口にはこのようなものがありました。アカネ藻の栽培水槽、商品見本、パンフレットなど。



えぇ~っ はやから

  今日から11月、もう二か月足らずで一年が終わる。はやいもんだ!この感覚は老若男女すべてにあるとおもうが、ふりかえるとジジになってとくによけいに早まっている感じがする。そうでのうても余生みじかいのに、こんなに一年がはようてどなんするんぞい。冥途の旅は亀のように遅くあって欲しいが、ワイにとってはまるで飛脚便である。そういや「冥途の飛脚」ということばがあったな、これは若い男女の心中物の文楽の外題だから、関係ないか。

 11月っつうたら月別名は「霜月」、しかし霜を連想するほどの寒さはない。ヨンベから今朝にかけてちょろっと肌寒さは感じたが、明るくなるとみょうにあったかく、少し歩けば汗をかく、なんやら湿度も高こうて、とても11月とは思えない。風もあるがまったく寒くない。今日の天気予報をみると、台風がこっちむいて来よる。九州あたりで温帯性低気圧になるから風なんどの被害はないが、熱帯気団を運んでいるせいか、この陽気である。時間の気温の推移を見ると今頃(午前十時すぎ)が一日で一番温度が高いようだ。


 朝、朝食のサンドゥウィッチを買うためショッピングモルに行くと、昨日までは~!ハッピィハロウィィン~お祭りだ~、の曲を流していたが、今日は、~ジングルベェ~、~ホォデンナ~、サイデンナァ~のクリスマスソングを流してた、まだ二ヶ月近くあるのに、はやァ!