2024年1月31日水曜日

今日で一月も終わりや

  令和六年一月元旦は史上まれにみるどころか日本開闢以来、初めてといってもいいだろう「元旦大地震」が能登北陸を襲った。大昔から元旦は一年の初め、ともかくみんなそろって「めでたい」といい、今年がよい年であるように祈り、祝う日であった。忌むべき言葉や行いは意識して避けた日であった。それなのに大地震、死者も多数出、倒壊・半壊家屋は数知れず、まったく、「こんな元旦って、ありか、日本を守る神様たちはどないなっとんねん。」といいたくなる。そして地震報道を見続けている次の二日には「飛行機の衝突、炎上」、テレビで見ると旅客機はほとんど爆発炎上に近いんじゃないかと思った、数百人の乗客は?(幸いなことにこちら側の旅客機は一人の死者もなかったが、海保の隊員さんは一人を除き亡くなった)もうさんざんな令和六年の幕開けであった。その幕開けの一月も今日で終わる。終わってみれば早いが、いろいろあったなぁ。

 今日、お昼のランチを、初めて行く某警察署内にある食堂ですませた。下がそのランチ(A,Bランチの二つから選ぶ、これはAランチ)、500円でご飯は盛り放題、おかずもまぁまぁで、満腹した。小鉢のサンド豆のからし味噌和えがおいしかった。


 食堂は大通りに面していて、明るく、できたての警察署なので、清潔感のある食堂である。部外者でも利用できる。この通りを挟んだ一帯は、前の文化センターや青少年センターをぶっ壊し、更地にして基礎工事をしているため、建設労働者や保安ガードマンが多い。まだ正午前だったが、その人たちがこの署内食堂でランチを食べていた。

2024年1月30日火曜日

逃亡者


 数日前の26日夕方ごろ臨時ニュースで流れた記事に驚いた。なんと半世紀にもわたって逃げ続けていた指名手配逃亡犯が名乗り出たニュースである。逃亡時は20歳だったが現在は70歳私とさほど変わらない。手配犯のポスター彼の顔は30年以上前から駅や街角で見ていた。70年代の若者を象徴するような顔かたちであった。そして他の手配犯と違い笑顔もあって、その頃はやったかぐや姫などのフォークグループのメンバーの中にいそうな雰囲気の若者であった。

 速報は、病院に重篤な末期がんで入院している患者が手配犯を自称したということで警察が駆け付け事情を聴いているとのことだった。続報が気になりその後の報道を聞くと、一週間前に路上で倒れ動けない当人を病院に運んで入院したこと、そして逃亡犯人を自称していること、そして事情を聴いた警察には、最後(末期)には本名で死にたいとのことで名乗ったこと、などが知れた。

 その後もいくつかではあるが、彼のそれまでの生活が知れる情報が切れ切れに報道された。数十年にわたってある土木関係の事業所で働いていたこと。そのすぐ近くの事業者が用意した木造の住宅に住んでいたこと。が分かった。そして報道され始めてからわずか3日目の昨日、朝、テレビを見ているとテロップが流れ、死亡とのこと。

 いろいろ思うことはあるが、なによりも哀れさをもよおしてくる。私も彼の青春時代と同じ時を生きてきた。世の中をよりよく変えてやろうと左翼運動に入った学生はこの時代多い。それはよく理解できる。私は左翼活動はしなかったがその心情は理解できるし、選挙権を初めて得た時、応援し投票したのは左翼政党だった。彼の左翼運動(今だと極左暴力集団と指弾されるが)に入った動機も世をよくしてやろうというものだったのだろう。

 「定めの針」(運命の針)は青春時代は大きく動く、西へ東へと、しかし大学の卒業が近くなると定めの針のブレは小さくなり一方向に定まってくる。大方の世間の若者は平和的な社会人となる方向へ向く、しかし彼は定めの針を暴力的革命によって世を変えてやろうとする方向に向けた。定めの針の方向による違いは、はじめは小さいが、その方向をずっとたどれば非常に大きくなる。もう元の位置には戻れぬところまで来てしまう。その結果が爆弾犯としての指名手配である。針はそこで振り切れることなく何十年もその方向に進んだ。

 そして半世紀後の彼が、今、報道されている70歳の末期がんのじいさんである。

 世間の人はどう思っているのだろうか、私はなにより哀れさを催してくるとかいた。一般の人の反応を知りたいためネットのコメント欄を読んだ。かなり厳しい意見が主流となっていた。

「ガン末期で、無保険なので、名乗って治療を受けようとした。ずるいやつ」

「名乗ったのも、最期になっての警察公安への勝利宣言だ」

 というようなものであった。しかし私はそのようには感じなかった。一週間前に倒れるまで隠れたつつましい生活をおくり、おそらく重篤な病気とは知りながら、それまで(売薬など)なんとか自分で手当てをし、倒れて人に介抱され病院に運ばれたのである。そして3日後にはなくなるのである。上記の二つのような考えは私にはまったく浮かんでこなかった。


 死の報道があった後、彼の住んでいた6畳にも満たない部屋の様子がニュースとして配信された。部屋はごみが散乱していた。そしてその住居の外観は、屋根のトタンはさびてところどころ飛ばされたのか、穴ぼこだらけ、倒れかけの廃屋のようである。そこで数十年彼は生活していたのである。最近の私の生活と、重篤な病気以外は、何が変わろうか。貧にせせられ、病を持ち、食生活さえ独り身のジジイにはきつい。やったことは確かに重罪かもしれんが、心情的に私はとても非難することはできない。

 世間一般の人がみんな厳しい見方か、と思ったが、当時の公安警察の元幹部の次のコメントにはちょっと胸を揺さぶられる思いがした。そう、まさに私もそう感じたからだ。冒頭、同情はしない、と言っているが、私も同情はない、よく似た人生航路において、彼は私であったかもしれないんだ!それは情を同じくする同情ではなく、むしろ、ほとんど彼とかわらない悲惨な老後を生きている私との同一視ではないかと思っている。

「 全く同情はしないが、死亡したのが、逃亡犯本人とすれば、50年近くになる逃亡生活で彼なりに苦労して生き延びてきたのだろうから、最後は仮の姿から本来の姿に戻りたかったかったのかも知れない、犯した罪は許されないが、ある意味、時代にもてあそばされた犠牲者の側面もあり、彼を犯罪に引き込んだ人間は責任を取るべきだ」(元警察公安幹部のコメント)

 そしてこの元幹部は、彼は、犯行グループの主要メンバーとは言えないとも言っている。そうであるなら早めに自首していればまた違った人生があったであろうに。合掌。

2024年1月26日金曜日

市役所の食堂が開いていた

 去年の六月くらいから、市役所12階の食堂は ずっと閉まっていた。あとで聞いた話では人材不足(調理員)と食材納入業者の倒産などが重なったためらしい。いつ頃開かれるか、市役所へ行ったとき、一階にある食堂案内(12階の市役所食堂はどなた様でも利用できます、と書いてあって、その週のメニューも表示してある)の掲示をみるが『当分、閉鎖しています』と書いてある。何回か別の用事で市役所へ行ったとき見たが、いつも閉鎖中の掲示である。今年いっぱいは無理か、とおもっていた。新年になって今日市役所へ行ったので、その掲示を見ると、今週のメニューが表示してある。「あ、開いているんだ」、ちょうど11時半近くだったので12階まで上がり定食を食べた。

 食券を買う前に「いつ頃から開いたのですか?」と聞くと去年の11月から再開したそうだ。しかし以前のスタッフとは違っているし、前は4~5人いたが、今は二人しかいなかった。定食の盛り付けも微妙に以前と変わっていた(量質ともに落ちた方に)。しかし定食500円は前のままだ。また自由に飲めた給湯器の日本茶はなくなっていて、お湯しか出ない。「お茶」出ないのですかときいたら、お水とお湯しかでませんのでどちらかを湯呑に汲んでくださいとのことだった。下が今日の定食である、人材の不足と食材の値上がりから、以前の定食とは様変わりしているように感じられた。まぁ500円のワンコイン定食やから、しゃぁないわな。

2024年1月24日水曜日

今朝、水の相は液体から固体へ変化

  先のブログで「水の相」について書いたが、今朝、今冬一番の寒さのため、道路の水たまりが全面凍っていた。足でつぶして氷片を取り上げると、窓ガラスほどの厚さがあった。液体から固体への「相変化」である。今日は最高気温も上がらず、一日、強風も吹いてずいぶん寒かった。

水の相 月の相

  前のブログでは月面着陸のロケットと探査機器について書いたが、このような科学記事は皆の関心が高い。その皆の中でも少年になるほど多様な科学に関する記事・情報に強い興味を示す。そればかりでなく自ら進んでもっと深く掘り下げ、それとともに次々わいてくる科学的疑問を調べ、納得できるまで自分なりに理解しようとする。このようにして「理科好き少年」が誕生する。

 私も紅顔白皙のころ(うわぁ、ワイもこんな美しい四字熟語で表される時があったんや!)は理科好き少年であった。これは高校のころまで続いた。だが大学の一般教養以上の自然科学になるとかなり高度な「数学」を駆使して理解しなければならず、数学好きで高等数学を難なくものにする人はいいが、私の場合は数学とはどうも相性が悪く特に大学の物理の分野には足を踏み入れられなかった、だから単なる「理科好き」終わってしまった。それでも(理解ツールとして)あまり数学のいらない「化学」などは大学のカリキュラムで選択したから、25歳くらいまでは人並み以上の化学知識はあった。

 理科好きの少年がジジイになったらどうなる?それはまさに私である。若い時とは違った分野の理科(自然科学)に最近俄然、興味がわいてきた。どういうカラクリでか、この地球に人間として生を受けたのか、そしてやがて死に、おそらくは無と化す。そりゃどういう意味があるのか?そう考えたとき人生の終末期に興味をもってお勉強する理科の分野は次のものに絞られてきた。

無から有が生じる宇宙誕生とその宇宙の行方

生命はどのようにして誕生したのか、そして生命の宇宙での意味

「時間」とは何か、そしてその推移とともに必ず増大するエントロピー、それは老化、劣化、必然的な、あらゆるすべてのモノの終焉、とどうかかわり、我々はどう理解したらいいのか

 とまぁ、またしてもブログの主題と無関係な話がだらだら続いた。しかし、ここで取り上げた「理科好き」の人、少なくとも高校生くらいまで理科好きだった人は今日の主題の「水の相」「月の相」はなんのことか理解してくれてると思う。小難しく書いたが水には三つの相がある、気体(蒸気)、液体(水)、そして個体(氷)である。それが「水の相」である。そして月の相は、日とともに変わる月の貌の「相」である、いわゆる三日月・・上弦の月・・満月・・下弦の月・・新月、である。このように変化する月の形が「月の相」である。


 昨夜、月探査のブログを書いた後、夜更けて空を見上げた、凍てつくような夜空にはかなり丸まった月が出ていた。「十三夜の月」である。すると今日、明日(旧暦15日)はほぼ満月が見られる。もっと月を見ていたかったが、あんまし寒いので、うちに入ってホットカーペットに横になった。そして今見た月に、我が「SLIM・スリム」はんは着陸しているんやなぁ、と思ったら、どの辺に「SLIM・スリム」はいるんやろ、と気になった。ビンボで家にはネット・WiFiもないし、スマホでさえ持っていないため、今朝になって図書館でネットにつなげ調べると、だれかが「ウサギの耳の付け根」付近ってゆうてた。「なんちゃらの海」だのと専門的な月の地名を言われてもわからないが、耳の付けと言われるとよくわかる。

 昨日の月探査に関するブログで抜けていたところがある。ロケットで月に着陸するまでの技術は核搭載ミサイルICBMの技術と直接結びつくが、そもそも「月探査」をなぜ行うかの説明がなかった。一つには国家の威信、そしてあわよくば未知の土地(つまり月の土地)を探険することにより、領有してやろう、それがだめなら排他的な土地の権利を主張してやろうという下心があると推察できる。16世紀の大航海時代の冒険家がやったように、未知の土地を見つければ、それは冒険家が属する国家のものになる、少なくとも手を付けた以上、他者に対しその権利を主張できた(スペイン、ポルトガルなどの欧州諸国)はそのように中南米、大洋の諸島、の土地を手に入れたきた。大国ばかりが月着陸に成功しているため、そのパワーでもって無主の月の土地に権利を打ち立てようとしていると考えられる。

 以上は国家の威信、領土の拡張、という昔からのパワーゲームに基づくものであったが、それ以上に、いや、その領土の領有の主張を含めた上で強く各国が望んでいるのは。月にある「資源」である。特に地球では確保が難しい「希少資源」を手に入れることである。そういうと漫画的な争奪のシーンが思い浮かばれるが、それはダイヤモンドであったり、黄金であったりするが(ダイヤなんどは少量でもロケットで持ち帰れば兆万長者じゃ)、17世紀のカリブの海賊ではあるまいし、金やダイヤより月面でもっとも必要とされて不可欠なもの、それは「水」である。え?そんなどこんでもある水みたいなもんが、疑問に思われようが月面での水ほど、のどから手が出るほど欲しくてたまらないものはない。

 人が月面で生きていくうえで、水があれば、それから人の生存に必要不可欠な「空気」(酸素)を水から作ることができる。水は飲み物として人が生きる上に必要であるばかりでなく、無生物の死の世界、月において、シールドの中で水耕栽培をすることにより、地球の微生物をはじめいろいろな植物を作ることができる(人の食料になることはもちろん、微生物などはおもわぬ効用があるかもしれない) また中学校の理科の実験でおなじみ、水を電気分解すれば簡単に気体状の「水素」「酸素」を作ることができる。酸素は先に述べたように人の呼吸の空気を作り、また水素はロケットの推進燃料になる。どうゆう理屈か、超高速で推進のためロケットから噴射するガスはできるだけ原子量の小さい物質がいいそうだ。とすると最も原子量の小さい水素は最適であるらしい。将来、月をベースとして「星間ロケット」を運用する場合、当然できるだけ高速を出すのがいいから、水素はいい推進燃料となる。

 だからもしA国が月で大規模・大容量の「水資源」を見つけ、それを自国で囲い込めば、月での、圧倒的な優位性を確保することができる。だから競ってもっとも第一に見つけたいのは「水資源」である。(月の)隠れた水資源といえば、月の地下洞窟の深く、広がる地底湖のようなものをイメージしたがるが、実際はそのような状態では存在しない。そこで水の相がどうなっているか考えると、月のように大気がなく地表が宇宙空間に直接むき出しの状態ならば、月の影の部分は宇宙の平均気温に近づく。宇宙の平均気温は絶対零度より3度高いだけで摂氏-270℃のごく低温である。それに向かってどんどん下がる。当然水の相固体、すなわち氷として存在する。地底湖のようなものは存在しない。

 だが太陽光が当たる月の昼間となるとこれまた宇宙空間にむき出しなので、上限は太陽の表面温度数千度に向かって極端に熱せられ暑くなる。だからせっかく低温で氷として地表・地中に固定されていても、よほど深くなければ昼の高温のため蒸発する。大気がないため氷から水を経ず直接水蒸気になって昇華する、水の相気体となる。また水資源の氷として取り出しても、人の居住できるシールドのようなところでなければ水の相液体である水として存在しない。月では水は固体、あるいは気体としてのみ存在する。

 地球と違って月の昼間は長く続くが(半年)、地球と同じでやはり北極南極地方は太陽光が横から射すため受け取る熱量は少なくなる理屈だ。そうすると他地域ほど昼間は高温にならず、昇華して消えさる氷も少なくなる。当然月の氷資源は極地に多いといわれて所以である。だから月の極地の探査が重要となる。この目的のためには我がスリムはまだまだ初歩段階と言える。

 今夜から明日の夜にかけては月の相は満月に近くなる。真冬で空気も澄んでいるため月の模様である「ウサギの餅つき」もくっきり見える。軍事にも資源争奪競争にも参加しない日本の探査機は、ウサギの耳の付け根にあるという。そこでこんな装置で世界中を楽しませてくれないかなぁとの提案である。肉眼あるいは倍率の低い双眼鏡のようなものでもよいが、月に着陸したスリムから赤いレーザービームをピカピカと放射状に発して、花火のように楽しませてくれないか。これほど平和的な宇宙ロケットの利用は他にあるまい。技術的には無理かなぁ。

2024年1月23日火曜日

月着陸 ご謙遜を・・ もっと誇ってもええんとちゃうか

  皆の心にあるもっとも古い記憶を思い出してほしい。自ら認識できる自分史の太古・原初の記憶である。どのような記憶だろうか?

 当然遡れば遡るほど記憶はあいまいになり、そのぼんやりした記憶の断片のどれが最も古いかは弁別も難しくなる。三島由紀夫の小説の中でもこのもっとも古い記憶の回想が出てくる。主人公はなんと生まれたばかりの産湯の記憶が残っているというのだ。これは遡れるもっともふるい記憶だろう。この小説は自伝的小説なのでその記憶の主は三島由紀夫自身であるといわれている。ちょっと信じられない気もするが、たまにそのような記憶を持つ人も幾人かは存在する。ただし記憶として本人は認識しているが、それが果たして本当に経験したことか、それともあまりにも幼く何かの思い込みが記憶として脳の片隅にインプットされたのかわからない。しかし本人は経験したと思っている記憶である。


 私の最も古い記憶はいくつかの古い記憶の中から確実にこれと言える一つをあげることができる。それは夜中たぶん家の庭で、負い子袢纏(ねんねこ)にくるまれて母の背中に負ぶわれてあやされているようで、私と言えばアンアン泣いている。だから年齢は乳児に近いころだろう。これが最も古い記憶と私は信じている。そしてアンアン泣きながら母の背中から空を見上げている。その場所も状況も地上の夜景もはっきりしないが、見上げた空にあった丸い月は鮮明に頭に焼き付いている。その夜空にあった満月の強烈な印象は70年以上たっても消えない乳児の記憶として残っている。それからしばらくして母は父と離婚して家を出て行った。だからこれ以外の母の記憶はほとんどない。

 夜空の月を見ると人はなんとなく物悲しくなるといわれているが、私の場合もそのような月の記憶があるだけに月、特に満月をみるとよけいに感傷的になった。青年期になって世界や宇宙を客観的にみられるようになっても月は「感傷的」であり、かつ「不思議なもの」であった。

 青年期(大学時代)のある満月の夜、布団に入っても寝付かれず「月」について考えていた。

 私は「生」をこの地球の上に受けている、その我が地上の「地球」よりも「月」がもっと不思議で神秘的な天体だと思う。他の惑星(木星や土星)の衛星にくらべるとその比率は異常にデカイ、何より不思議なのは、地上で見る太陽と月はほぼ同じ大きさだ(だから皆既食も金環食もおこる)そんなほぼピッタリの大きさってありか?信じられない一致だ。自然にそうなったと思うには無理がある。そして月の形は三日月~半月~満月~と変化をとげ、その周期がほぼ一か月となり、人間生活の基本的なリズムをなしている。

 もしも、もしもだが、月がなかったら、はたして知的生命としての人類は誕生しただろうか、いや、もっとさかのぼって生命は?この頃よく読んだ科学雑誌にそういえばあったっけ、月による潮汐によって生じる海岸の干潟のようなところで低分子有機物が縮合・重合されて複雑なタンパク質や糖とリン酸の長い鎖の高分子物質(RNA)が作られ、そのような化学進化からとうとう生命が誕生したと。もし潮汐がなかったら干潟もできないから生命の誕生は無理かもしれない。(生命の誕生場所について他にもいろいろな説がある)

 わたしにとってはそのような不思議で神秘的な月だったが、科学探査は月のそのようなベールを剝いでいく。私が小学校三年生の時、人類は直接月と接触したニュースを聞いた。人工衛星でもアメリカを出し抜いていたソビエトが月に人工衛星をぶち込んだ(衝突させた)のである。処女地の月にはじめて人類の人工物を送り込んだのである。そして私が中学三年生の時、ソビエトは人工衛星の月着陸(激突ではないから軟着陸という)に成功するのである。ソビエトに一歩遅れを取っていたアメリカは国家をあげて月探査に力を入れ、私が高校三年の夏、とうとう人類を月面に立たせるのである。

 何より驚き感動したのは、人類が初めて月に一歩をしるした時、月面からの「生中継」(ライブ映像)を日本でテレビで同時に(同時通訳とともに)見られたことである。まだ私の高校は夏休みにはなっていなかったが、もう数日で夏休みということで授業は短縮、すでに一学期の成績も確定し、教科書も学期分は消化していたので、クラスに一台づつ備わっていた(白黒)テレビを朝からずっと先生も含め全員で視聴していた。ライブ画面から第一歩を踏み出すのを見、米人宇宙飛行士の月面からの第一声も聞いた(英語はよくわからなかったが同時通訳で意味は分かった)

 その時は、月面着陸そして人類第一歩ということでそれだけで感動したものだが、以後半世紀以上もたってジジイになり悪知恵がついてくると、別の「すごさ」を感じている。

 第一はアメリカという国の持つパワー、ポテンシャルのすごさである。国家計画の中でアメリカが遂行した他国にはまず真似のできない巨大なものが二つある。一つは原爆開発の「マンハッタン計画」、そしてそれに劣らない人類を月に送る計画の「アポロ計画」である。マンハッタン計画というのは原爆製造という軍事そのものだが、アポロ計画もよく考えるとすべてと言っていいほど軍事技術の応用・実践である。考えると月面着陸できるほどのロケット技術開発は、大陸間弾道弾・ICBMよりずっと難易度が高い。つまりアポロ計画が成功するということは宇宙空間から高速かつ高い精度で地上のポイントを狙えるということである。核ミサイルによる恫喝が最高潮に達した「キューバ危機」の時の米大統領のケネディがアポロ計画の音頭をとったことを考えると、アポロ計画は優秀な核ミサイルの誇示、敵方への恫喝と見て取れる。

 そして第二のすごさは、なにがなんでも(歴史に残るであろう、人類月に立つ!)と、まるで(私の感想だが)狂気のような意志である。これは決して褒めた言葉ではない。「狂気のような」と形容したが、このような意志でもって目的が完遂されることは非常に少ないといっていいだろう。1969年のあの、人類月に立つ、という偉業は結果的に成功したが、その難易度の高さはいかほどのものであったのだろう、と今考える。一部ではラクダを針の穴に通すくらい難しかったとも言われるほどである。犠牲者もでた(表面に現れず、知られない犠牲もあるだろう)。20世紀の60年代に人類が月に行った、というのは、今になってみるとほとんど信じられないほどである。このアポロ計画以後、半世紀以上たつが、以後、人は月にはいっていない。

 高校三年の夏、月面を歩く人類を見たとき、さほど日月をかけず、やがて月に有人基地ができ、そこをベースに月面各地にキャンプもでき、人類はいろいろな月面活動を次々続けるだろうと思ったものである。ところがその後はどうなったか?50数年たってもご存じのような状況である。理由は二つ、そもそも人類を月に送り込むのは大変難しく、あのアポロ計画が成功したのは僥倖だったのではないかと思っている、そうすると再チャレンジが続くと、きわめて難度の高い有人の月面着陸での即死事故のライブ映像もあり得るわけで、最初の成功の栄光がものすごかっただけにそのような世界中が悲鳴を上げるような失敗は犯したくないだろう。それともう一つは、月面探査は無理に有人にしなくても発達した無人の探査機器によって充分行えていることである。歴史的偉業は人類初めて月に立つ、の第一回が成功して、歴史にしっかり刻まれれば、以後の探査などは安全な機械に任せればよいのである。結局、以後、月軟着陸および探査は、ソビエト、中国、インドが跡に続くが有人飛行は今日まで半世紀以上ない。

 さて、ここから今日のブログの「ご謙遜を・・・もっと誇ってもええんとちゃうか」の本題に入っていく。先に述べたように現在、月に軟着陸させた国はアメリカ、ロシア(旧ソビエト)、中国、インドの四か国である。この四か国に共通するのは核ミサイルを持っていることである。そしてその核ミサイルの飛距離、命中精度の如何は直接、月着陸の人工衛星の技術に結びついている。(地球から月までの距離)38万キロm以上飛び、月面のある特定の地点に着陸させる技術は、地球の重力圏から脱することもなく、たかだか高度数百~数千km、飛距離1万kmほどを飛ぶ大陸間弾道弾・ICBMの技術より格段に上である。つまり月に人工物をとどかせる技術はストレートに大陸間弾道弾・ICBMの技術イコールと思ってよい。


 そこに(月面着陸成功)今回、日本が加わったことは数日前の大ニュースだったので皆さんもご存じでしょう。日本はアメリカ、ロシア、中国、インドにつづく第五番目の国となった。世界二百数十か国の中でたった五か国であるから、日本の宇宙技術も大したもんだと思う。しかし、私が注目すべきところは、五か国の中で唯一、日本のみが核ミサイルすなわち大陸間弾道弾・ICBMと全く関係なくその業績をなしとげたことである。ニュースではこのことは強調されなかったようだがもっと声を大にしていいと思う。わが日本の月探査機は着陸に成功したが、残念なことにバッテリーの不具合から活動がかなり制限されるようだ。しかしその着陸ポイントの精度は百メートル内の誤差で五か国のうちで断トツというではないか(他は数キロm以上もある)。JAXA(日本宇宙航空研究開発機構)は謙遜して、「いやいや、成功はしましたけんどなぁ、まだまだですわ、成績でいえば60点、優良可のぎりぎり可ですわ、なんとか落第点とらずにホンマよかったですわぁ」とご謙遜だ。

 しかし私は過大かもしれないが「優」の点、80点以上つけてもいいのではないかと思っている。日本の月探査のロケット技術は軍事に特化することなく、純粋に宇宙科学探査のみに打ち込み、また各民間企業も積極的に参加し、民間の力も結集したうえでのこの快挙である。「JAXAはん、ご謙遜を。もっと誇ってもええんとちゃいますか」と言ってあげたい。

 一億年前の地球の王者は「恐竜」であった。地をかけ、空を飛び、海に潜り、我が物顔だった。肉食竜は頑丈で力強い顎とナイフのような歯をもち、食物連鎖の最上位に君臨した。「巨大さ」「他者に負けない力、爪、歯の武器」、敵う生物種はいないはずだ。しかし、恐竜には次の新世代の発展はなかった。次の時代を担ったのは、恐竜の陰に隠れた取るに足らない小動物、毛の生えたネズミ様の生き物・哺乳類だった。貧ちょ小んまい、チョロチョロするケモノがなぜ恐竜の跡を継ぐことができたのか、それは巨大にもならず、一方向に体を特化させず、小さいが効率の良い体であったためである。このことを考える時、軍事技術に特化しすぎたロケット技術をもつ四大国より、小さくて力は弱いが、精度がよく、チョロチョロと小回りの利く日本のロケット技術に次代をかけてみたくなる。

 日本のこの月探査機は「SLIM・スリム」というそうだ。ほっそりとしてスマートという意味か?なるほどデブよりほっそりしている方が難なく着地でき、踏み台からとぶ三段跳びでも狙ったところに着地できるような気がする、だからなのか?しかし新聞をよく読んでみるとこのSLIMというのは「Smart Lander for Investigating Moon」の略であるとの説明がある。だがこれは単なる略とは思えない、先に述べたイメージもあわせもつように考えられたネーミングであるような気がする。

 と、褒めつつ、半分ぼけてきている私の頭はなぜかこのSLIM・スリムを聞いて、嫌らしいことに女性用生理用品を思い浮かべた。なぜなんだ?そんな商品名があったのか?生理用品にチャームナップ・ミニはあるが、スリムという女性器タンポンなんてあったっけ。こうゆときネットは便利である。調べるとそれは商品名でなく、チャームナップのタイプ類型の一つに「少量スリム」と名付けられているのがある。それがどっかで頭に密かに入ったものか、スリムと聞いてタンポンを思い浮かべたのである。呆けたジジイはしゃぁない!

2024年1月20日土曜日

最近食べるランチ

 21世紀に入ってずっとデフレと言われてきた。企業にとってはデフレは不況の原因かも知らんが、わずかな年金で糊口をしのいでいるジジイには(今と比べると)いい時代だった。なんせ、ほとんど物価が変わらなかったので、一日の小遣いもどれびゃぁ使うか計画も立てやすく、その中から昼飯として、食堂や喫茶店でランチをよく食べたものである。私が食べるのはワンコインランチといわれるもので、500円玉一つで支払いができた。安い店では数十円のおつりがあったり、500円で食後のコーヒがついていたりもした。まことにランチに関しては古き良き時代であった。

 20年以上続いた(私にとっては古き良き時代)物価が上がらない状況は、2020年から始まったコロナ狂騒によって劇的に変化した。以来、まったく!おぶけるびゃぁの物価の値上げに、嘆息をつく暇もないほどで、最近は自虐的に笑いがでてくる、感覚としては20~30パーセントの値上げである。店で食べるランチはもっと上がっている。最低でも750円から千円近くなっている。

 そんななか未だに昔の値段で昼食を供しているのが「県庁の食堂」である。ごはん盛り放題、みそ汁と、自由に選べるおかず二皿がついて550円、コロナ前と変わりない。下が昨日(金曜日)食べた県庁食堂のランチ。毎日でも行きたいくらいだが、週に二回ほどにしている。去年の夏までは市役所食堂も500円で据え置きのまま食べられたが、食材供給業者の倒産や、調理員の人手不足のため、閉まってしまい今は利用できない

2024年1月18日木曜日

夕食と季節の花

 昨夜は某和風ステーキ屋に行き、コース料理の高級(私としては)な夕食を食べた。前菜、デェザートも含め8品目のセット、メインは高級和牛ステーキ、一人前6.600円、さすが肉はとっても柔らかくておいしかった。私の食事(ふだんはあまりにも質素なため)などはブログにネタにもならないが、ちょっとうれしくてブログにした。

 メインのステーキ


  最近のJRの駅はほとんどが無人駅である。どの駅のプラットホームにも昔から花壇があって、桜をはじめとした花木とともに季節季節の花が植えてある。花期の時期には目を楽しませてくれる。しかし駅員もいなくなり、それにかわって地域の老人会などのボランティアが代わって世話をしてくれているところもあるようだが、やはり手入れが足りないのか少しづつ荒廃しているように見える。そんな中で今の季節の花「水仙」は野生の性質が色濃く残っているためか、荒廃するどころか年々群生の場所を広げているようだ。下は府中駅プラットホーム花壇の水仙の群れ

2024年1月10日水曜日

ある演歌歌手の訃報をきいて

  新人歌手、俳優としてデビューしても長らく活躍するのは、競争が激しく浮沈のある業界ではむつかしいことであろう。まして人気を数十年にわたって維持してしてきた芸能人はうんと少なくなる。昨日訃報を聞いた八代亜紀さんなんかもその一人だろう。数少ないそのような現役演歌歌手の死は、今も少なからずいるファンにはショックだろう。私もその一人である。女性演歌歌手の中では青江三奈(昔に亡くなっている)とならんで好きな歌手だった。CDも何枚か持っている。

 彼女は私と同じ歳である。十代から歌手の道に入っているが世に広く名前を知られるのは二十代に入ってからである(1970年代)。それから演歌のジャンルで次々とヒットを飛ばし、演歌が低迷と言われている現在でも人気のある現役の演歌歌手と言えばまず最初に名をあげられる。これだけ長く活躍していると彼女自身が芸能史を体現している。同世代の私が、彼女の、その時々の歌から思い出すのは芸能史をこえて「世相史」の断片になっている。

 


「8トラック」、そういえばそんな音楽機器もあったっけ、大学を卒業したころ、まだ車を持っていない私だったが、私の当時の友人は(中古のボロだったが)車を持っていた。よく私をドライブに誘ってくれたが得意げに、運転とともに、これ見よがし、これ聞きよがし、にセットするのは8トラックのミュージックビデオだった。大き目の文庫本くらいの大きさがあり、今から考えると大きいわりに入っているのは8曲だけだった。いろいろな曲をかけて聞かせてくれたが、半世紀以上たって記憶もあいまいになる中、イメージとして残されているのは八代亜紀の曲である。(写真はイメージとは違っています


 ど派手なトラックの電飾とともにトラック野郎(長距離運転手)が口ずさむ演歌も、私の頭の世相史の断片のシーンとしては八代亜紀の演歌だった。今もトラックの電飾は時々見るが、私が二十代の中頃(1970代中期~)のそれは今よりももっと派手で、満艦飾の電飾、模様などはチラと見ただけでも度肝を抜くものであった。当時(1975~79年)にかけて作られた映画シリーズ「トラック野郎」でも(今もDVDで見られる)、その当時のトラックの電飾の流行がわかる。八代亜紀もその一作に出演している。彼女の歌はトラックの運ちゃんに好まれていたのである。


 旅行好きの私が何より寂しく感じた世相史の断片は、ローカル線廃止ラッシュと、国鉄民営化とともに鉄道や駅の古い郷愁がなくなっていくことであった。その傾向がはっきりしてきたのは私が30代を迎えるころ(1980年~)である。そんな時、駅の郷愁を取り込んだ映画が公開された。「STATION・駅」(高倉健、倍賞千恵子主演)である。そのラストシーンで流れる、私にとっては最も感動した歌が、八代亜紀の「舟歌」であった。歌詞内容は、駅、旅、もっと言うなら人生行路の郷愁とは直接関係ないようなものであるが、雪、寂しい終着駅、遠ざかる夜汽車、見るだけで切なくなるそのラストシーンにその歌・歌詞がなぜかぴったりはまって、聞きながら感極まったことを思い出す。

 舟歌はその後、私の秘蔵お気に入り(感極まった時にしか歌わない)曲となった。そして映画をみた次の年、夏と冬にそのラストシーンの駅である北海道留萌線・増毛駅を訪れた。

 ご冥福をお祈りします

2024年1月6日土曜日

春の宵のような雰囲気の神社

  元旦過ぎても暖冬傾向は続いている。夕暮れ時、佐古三番町バス停で降りて眉山の方を見ると、暗くなった山肌に雪洞の灯りの列が続いている。なんやろ、と近くまで行くと、諏訪神社の石段や坂に雪洞が吊るしてあり、光を暗くなった境内に振りまいている。

 夜が来ても暖かく、雪洞の列とあいまって夜桜見物のころのような夜の陽気である。


2024年1月2日火曜日

元旦からえらいこっちゃ

  令和六年元旦、昨年からの暖冬傾向の続きで例年の寒さもなく、また前日の黄砂も吹き払われ空気も澄んだすごしやすい穏やかな朝をむかえた。下は朝日を浴びる眉山


 初詣の様子を見ようと護国神社へまわると、道路から車の渋滞の列、境内も外まであふれる参拝者の行列であった。


 午後から椎の宮神社へまわると、参拝者は次々とやってくるが列を作るほどではない。


 さて、ところで私の初詣は、今年は辰年ということにあやかって、椎の宮神社の近く、眉山山系の中腹にある「白龍神社」ですませた。山中の小社と聞いていたので、参詣道がわからないのではないかと心配したが、眉山山頂をめざして歩いているご夫婦がいて、その方がその神社を知っておられて、ご親切にも教えていただき、また途中までご一緒させていただいた。おかげで無事参拝することができた。

 神社の様子は、ひっそりとというか、ほとんど廃社ではないかと思えるほどに廃れた、そして山奥の雰囲気を醸す神社だった(賽銭箱もなかった)。しかしそれがなにか特別のいわれのある神秘的な神社に見えてくる。

 十二支は今年の「辰」をのぞいて他の十一はすべて実在する動物である。それらは東アジアでは普通にみられる動物である。しかし辰すなわち「龍」のみは想像上の生き物である。猛威を振るう自然現象を擬人化(動物化だが)したのが龍であるといわれている。巻き上がる黒雲を「竜巻」といったり、またおちいる太い水流を龍に見立て、サンズイをつけて「瀧」と言ったりするのでもそれはわかる。辰年は特に荒れる年とは聞いていないが、本来の性質からすれば寅(虎)以上に荒ぶるものであろう。神社で手を合わせながらふとそんなことを思い。わが身、家内安全のみでなく、国家安全・天地長久を祈った。しかしそれから数時間後、その願いは・・・・・




 午後四時過ぎ、初詣をおわって、コーヒーで一服と思ったが、喫茶店はどことも休みが多いので、ハロウズのイートインコーナーで飲んでいると、スマホを見ていた横のおっさんグループがなんとなく騒がしく、北陸の親せきがどうのこうのとの話が聞こえる。そして私の携帯を見ると、大地震があったとメールが届いている。それが能登の大地震の知り初めだった。

 師走の中旬ごろ、最高気温が夏日に迫ろうかという日があったが、あのときある人が、「異常にぬくいなぁ、地震でもくるんとちゃうか」と話していたが、異常は気温だけでなく大地の異常にも現れたようだ。